<モーツァルト「魔笛」K.620より>
2012年4月7日(土)15:00/びわ湖中ホール
演出/ピーター・ブルック
翻案/マリー・エレーヌ・エティエンヌ
編曲/フランク・クラウチック
照明/フィリップ・ヴィアラット
衣装/エレーヌ・パタロ
タミーノ/ロジェ・パデュレ
パミーナ/ランカ・トゥルカノバ
夜の女王/レイラ・ベンハムザ
パパゲーノ/ヴィルジル・フラネ
パパゲーナ/マルティーヌ・ミドゥー
ザラストロ/ヤン・クセラ
モノスタトス/ジャン・クリストフ・ボルン
俳優/アブド・ウオロゲム/ステファン・スー・モンゴ
ピアノ/レミ・アタゼイ
今日のびわ湖ホールは普段と客筋が違った。観客の平均年齢はグッと下がった印象で、パンクっぽいファッションの若者が沢山いる。通常のオペラ公演では、モノクロームな雰囲気の色濃い客席だし、観劇気分を盛り上げる為にも、お洒落な若いお客さんは大歓迎である。ストレート・プレイの巨匠ピ−ター・ブルックの手掛ける、「魔笛」来日公演が彩の国さいたま芸術劇場から巡演し、ご当地びわ湖ホールでも二日公演が行われた。
全曲を通すと三時間掛かるオペラを自由に翻案し、九十分まで切り詰めると共に、指揮者は置かず伴奏はピアノ一台のみと、簡素に徹した上演版となっている。簡素なのは美術も同じで、セットと呼べるものは何も置かず、舞台上には十数本の竹竿の林立するのみ。歌唱はドイツ語だが、台詞はフランス語での上演で、これは初演がフランスだったからと云う単純な理由。兎に角、分かり易くを旨とした上演なそうな。
ダーメや童子等の脇役陣はバッサリ切り捨てられ、弁者はザラストロが序でに歌ったり、二人の武者はパパゲーノとモノスタトスで歌われたりする。大人数のコーラスは居ないが、モーツァルトには男声トリオの多いので、これをタミーノにパパゲーノとモノスタトスに歌わせるのは、様式的にも的を射ている。台詞の部分にピアノ・ソナタで伴奏を付けたり、他の場面の音楽を援用したりするのは、長い原曲の継ぎ接ぎで前後の繋がりの不自然になる処を、スムーズに運べるようにとの配慮らしい。その目的はモーツァルトを大劇場から開放し、より親密な演劇空間を作る事にあるのだろう。
歌に寄り添うピアニストに強い自己主張は無く、音楽的にはオペラ上演と云うより、歌曲リサイタルに近いように感じる。指揮者もオケもいないとなれば、当然ながら歌手達の自由度は増すが、もちろん全員これ見よがしに声を張り上げたりはせず、その歌唱法はオペラとミュージカルの中間位だろうか。大きな声を出さないので合わせ易い事もあり、アンサンブルは緊密に聴こえる。オケ伴では恐らく、この親密な雰囲気は出せない。
タミーノもパパゲーノもパパゲーナも普通っぽい人達で、歌手は容姿重視で選ばれたのか、今ひとつ良く分からない。パミーナは長身でおっぱいの大きく、声は強目のリリコ。夜の女王の方が軽いレジェーロだが、さすがにアリアは大き目の声でないと歌えない。意外だったのはモノスタトスで、フツーの上演では大抵チンチクリンの黒塗りだが、この舞台では長身の優男を起用している。ザラストロだけイメージ通りだったが、その代わりに歌は、この人だけ危なっかしかった。
モノスタトスが罰せられ、矢鱈にザラストロの誉め称えられる場面等、どんな演出であっても違和感を抱される、「魔笛」にはそんな側面が確かにある。そんな不整合と感じられたり、枝葉と思われる部分を取り払い、お話をシンプルに進める。これを流行りの言葉で、草食系のモーツァルトと云うべきか、至極アッサリ風味に仕立てられている。「魔笛」は元々“歌芝居”で、台本を書いたシカネーダー座長の率いる、旅巡業の一座の為に作曲された。シカネーダー一座を現代の日本に例えれば、主宰者が脚本・演出・主演を一手に引き受ける、小演劇のような形態だろうか。
僕は若い頃、当時流行の小演劇にハマり、随分色々と観て回った。夢の遊眠社や第三舞台の有名処は云うに及ばず、自転車キンクリートとか遊機械全自動シアターとかブリキの自発団とか、マイナーな舞台にも通い詰めた。僕は今回の「魔笛」を観て、そんな昔を久し振りに思い出した。そう云えば劇団3○○の公演を見に行った際、劇中音楽に高田三郎の「水のいのち」が流れ、あれっ?と思った事がある。後に劇団主宰の渡辺えり子が山形西高校出身と知り、成程と納得したものだ。あの世代なら山形西のコーラス部顧問は阿部昌司先生ですからね。サブローをゲップの出る程、聴かされたのかも知れませんな、えり子さん。
今日、ピーター・ブルックの観せてくれたお芝居は、竹林を風の吹き抜けるように爽やかで、演じる若者達の息吹の伝わるようだった。裸足で走り回り、囁くように歌う役者達を見ながら、これはブルックの青春回帰だと思った。枯淡の域に達した87歳の巨匠の芸は、モーツァルトの音楽を借りて、愛すべき稚気を表現する。今日は良いものを観せて貰ったと思う。
2012年4月7日(土)15:00/びわ湖中ホール
演出/ピーター・ブルック
翻案/マリー・エレーヌ・エティエンヌ
編曲/フランク・クラウチック
照明/フィリップ・ヴィアラット
衣装/エレーヌ・パタロ
タミーノ/ロジェ・パデュレ
パミーナ/ランカ・トゥルカノバ
夜の女王/レイラ・ベンハムザ
パパゲーノ/ヴィルジル・フラネ
パパゲーナ/マルティーヌ・ミドゥー
ザラストロ/ヤン・クセラ
モノスタトス/ジャン・クリストフ・ボルン
俳優/アブド・ウオロゲム/ステファン・スー・モンゴ
ピアノ/レミ・アタゼイ
今日のびわ湖ホールは普段と客筋が違った。観客の平均年齢はグッと下がった印象で、パンクっぽいファッションの若者が沢山いる。通常のオペラ公演では、モノクロームな雰囲気の色濃い客席だし、観劇気分を盛り上げる為にも、お洒落な若いお客さんは大歓迎である。ストレート・プレイの巨匠ピ−ター・ブルックの手掛ける、「魔笛」来日公演が彩の国さいたま芸術劇場から巡演し、ご当地びわ湖ホールでも二日公演が行われた。
全曲を通すと三時間掛かるオペラを自由に翻案し、九十分まで切り詰めると共に、指揮者は置かず伴奏はピアノ一台のみと、簡素に徹した上演版となっている。簡素なのは美術も同じで、セットと呼べるものは何も置かず、舞台上には十数本の竹竿の林立するのみ。歌唱はドイツ語だが、台詞はフランス語での上演で、これは初演がフランスだったからと云う単純な理由。兎に角、分かり易くを旨とした上演なそうな。
ダーメや童子等の脇役陣はバッサリ切り捨てられ、弁者はザラストロが序でに歌ったり、二人の武者はパパゲーノとモノスタトスで歌われたりする。大人数のコーラスは居ないが、モーツァルトには男声トリオの多いので、これをタミーノにパパゲーノとモノスタトスに歌わせるのは、様式的にも的を射ている。台詞の部分にピアノ・ソナタで伴奏を付けたり、他の場面の音楽を援用したりするのは、長い原曲の継ぎ接ぎで前後の繋がりの不自然になる処を、スムーズに運べるようにとの配慮らしい。その目的はモーツァルトを大劇場から開放し、より親密な演劇空間を作る事にあるのだろう。
歌に寄り添うピアニストに強い自己主張は無く、音楽的にはオペラ上演と云うより、歌曲リサイタルに近いように感じる。指揮者もオケもいないとなれば、当然ながら歌手達の自由度は増すが、もちろん全員これ見よがしに声を張り上げたりはせず、その歌唱法はオペラとミュージカルの中間位だろうか。大きな声を出さないので合わせ易い事もあり、アンサンブルは緊密に聴こえる。オケ伴では恐らく、この親密な雰囲気は出せない。
タミーノもパパゲーノもパパゲーナも普通っぽい人達で、歌手は容姿重視で選ばれたのか、今ひとつ良く分からない。パミーナは長身でおっぱいの大きく、声は強目のリリコ。夜の女王の方が軽いレジェーロだが、さすがにアリアは大き目の声でないと歌えない。意外だったのはモノスタトスで、フツーの上演では大抵チンチクリンの黒塗りだが、この舞台では長身の優男を起用している。ザラストロだけイメージ通りだったが、その代わりに歌は、この人だけ危なっかしかった。
モノスタトスが罰せられ、矢鱈にザラストロの誉め称えられる場面等、どんな演出であっても違和感を抱される、「魔笛」にはそんな側面が確かにある。そんな不整合と感じられたり、枝葉と思われる部分を取り払い、お話をシンプルに進める。これを流行りの言葉で、草食系のモーツァルトと云うべきか、至極アッサリ風味に仕立てられている。「魔笛」は元々“歌芝居”で、台本を書いたシカネーダー座長の率いる、旅巡業の一座の為に作曲された。シカネーダー一座を現代の日本に例えれば、主宰者が脚本・演出・主演を一手に引き受ける、小演劇のような形態だろうか。
僕は若い頃、当時流行の小演劇にハマり、随分色々と観て回った。夢の遊眠社や第三舞台の有名処は云うに及ばず、自転車キンクリートとか遊機械全自動シアターとかブリキの自発団とか、マイナーな舞台にも通い詰めた。僕は今回の「魔笛」を観て、そんな昔を久し振りに思い出した。そう云えば劇団3○○の公演を見に行った際、劇中音楽に高田三郎の「水のいのち」が流れ、あれっ?と思った事がある。後に劇団主宰の渡辺えり子が山形西高校出身と知り、成程と納得したものだ。あの世代なら山形西のコーラス部顧問は阿部昌司先生ですからね。サブローをゲップの出る程、聴かされたのかも知れませんな、えり子さん。
今日、ピーター・ブルックの観せてくれたお芝居は、竹林を風の吹き抜けるように爽やかで、演じる若者達の息吹の伝わるようだった。裸足で走り回り、囁くように歌う役者達を見ながら、これはブルックの青春回帰だと思った。枯淡の域に達した87歳の巨匠の芸は、モーツァルトの音楽を借りて、愛すべき稚気を表現する。今日は良いものを観せて貰ったと思う。