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Channel: オペラの夜
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ピーター・ブルックの魔笛

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<モーツァルト「魔笛」K.620より>
2012年4月7日(土)15:00/びわ湖中ホール

演出/ピーター・ブルック
翻案/マリー・エレーヌ・エティエンヌ
編曲/フランク・クラウチック
照明/フィリップ・ヴィアラット
衣装/エレーヌ・パタロ

タミーノ/ロジェ・パデュレ
パミーナ/ランカ・トゥルカノバ
夜の女王/レイラ・ベンハムザ
パパゲーノ/ヴィルジル・フラネ
パパゲーナ/マルティーヌ・ミドゥー
ザラストロ/ヤン・クセラ
モノスタトス/ジャン・クリストフ・ボルン
俳優/アブド・ウオロゲム/ステファン・スー・モンゴ
ピアノ/レミ・アタゼイ


 今日のびわ湖ホールは普段と客筋が違った。観客の平均年齢はグッと下がった印象で、パンクっぽいファッションの若者が沢山いる。通常のオペラ公演では、モノクロームな雰囲気の色濃い客席だし、観劇気分を盛り上げる為にも、お洒落な若いお客さんは大歓迎である。ストレート・プレイの巨匠ピ−ター・ブルックの手掛ける、「魔笛」来日公演が彩の国さいたま芸術劇場から巡演し、ご当地びわ湖ホールでも二日公演が行われた。

 全曲を通すと三時間掛かるオペラを自由に翻案し、九十分まで切り詰めると共に、指揮者は置かず伴奏はピアノ一台のみと、簡素に徹した上演版となっている。簡素なのは美術も同じで、セットと呼べるものは何も置かず、舞台上には十数本の竹竿の林立するのみ。歌唱はドイツ語だが、台詞はフランス語での上演で、これは初演がフランスだったからと云う単純な理由。兎に角、分かり易くを旨とした上演なそうな。

 ダーメや童子等の脇役陣はバッサリ切り捨てられ、弁者はザラストロが序でに歌ったり、二人の武者はパパゲーノとモノスタトスで歌われたりする。大人数のコーラスは居ないが、モーツァルトには男声トリオの多いので、これをタミーノにパパゲーノとモノスタトスに歌わせるのは、様式的にも的を射ている。台詞の部分にピアノ・ソナタで伴奏を付けたり、他の場面の音楽を援用したりするのは、長い原曲の継ぎ接ぎで前後の繋がりの不自然になる処を、スムーズに運べるようにとの配慮らしい。その目的はモーツァルトを大劇場から開放し、より親密な演劇空間を作る事にあるのだろう。

 歌に寄り添うピアニストに強い自己主張は無く、音楽的にはオペラ上演と云うより、歌曲リサイタルに近いように感じる。指揮者もオケもいないとなれば、当然ながら歌手達の自由度は増すが、もちろん全員これ見よがしに声を張り上げたりはせず、その歌唱法はオペラとミュージカルの中間位だろうか。大きな声を出さないので合わせ易い事もあり、アンサンブルは緊密に聴こえる。オケ伴では恐らく、この親密な雰囲気は出せない。

 タミーノもパパゲーノもパパゲーナも普通っぽい人達で、歌手は容姿重視で選ばれたのか、今ひとつ良く分からない。パミーナは長身でおっぱいの大きく、声は強目のリリコ。夜の女王の方が軽いレジェーロだが、さすがにアリアは大き目の声でないと歌えない。意外だったのはモノスタトスで、フツーの上演では大抵チンチクリンの黒塗りだが、この舞台では長身の優男を起用している。ザラストロだけイメージ通りだったが、その代わりに歌は、この人だけ危なっかしかった。

 モノスタトスが罰せられ、矢鱈にザラストロの誉め称えられる場面等、どんな演出であっても違和感を抱される、「魔笛」にはそんな側面が確かにある。そんな不整合と感じられたり、枝葉と思われる部分を取り払い、お話をシンプルに進める。これを流行りの言葉で、草食系のモーツァルトと云うべきか、至極アッサリ風味に仕立てられている。「魔笛」は元々“歌芝居”で、台本を書いたシカネーダー座長の率いる、旅巡業の一座の為に作曲された。シカネーダー一座を現代の日本に例えれば、主宰者が脚本・演出・主演を一手に引き受ける、小演劇のような形態だろうか。

 僕は若い頃、当時流行の小演劇にハマり、随分色々と観て回った。夢の遊眠社や第三舞台の有名処は云うに及ばず、自転車キンクリートとか遊機械全自動シアターとかブリキの自発団とか、マイナーな舞台にも通い詰めた。僕は今回の「魔笛」を観て、そんな昔を久し振りに思い出した。そう云えば劇団3○○の公演を見に行った際、劇中音楽に高田三郎の「水のいのち」が流れ、あれっ?と思った事がある。後に劇団主宰の渡辺えり子が山形西高校出身と知り、成程と納得したものだ。あの世代なら山形西のコーラス部顧問は阿部昌司先生ですからね。サブローをゲップの出る程、聴かされたのかも知れませんな、えり子さん。

 今日、ピーター・ブルックの観せてくれたお芝居は、竹林を風の吹き抜けるように爽やかで、演じる若者達の息吹の伝わるようだった。裸足で走り回り、囁くように歌う役者達を見ながら、これはブルックの青春回帰だと思った。枯淡の域に達した87歳の巨匠の芸は、モーツァルトの音楽を借りて、愛すべき稚気を表現する。今日は良いものを観せて貰ったと思う。

チレア「アドリアーナ・ルクヴルール」

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<関西二期会第76回オペラ公演/プレミエ>
2012年5月5日(土)14:00/吹田メイシアター

指揮/ダニエーレ・アジマン
大阪交響楽団
関西二期会合唱団

演出/井原広樹
美術/アントニオ・マストロマッテイ
照明/原中治美
衣裳/松田優
振付/大力小百合
法村友井バレエ団

アドリアーナ/泉貴子
ブイヨン公妃/福原寿美枝
マウリツィオ/小餅谷哲男
舞台監督ミショネ/萩原寛明
ブイヨン公爵/片桐直樹
シャズイユ僧院長/越野保宏
俳優キノー&ポワソン/黒田まさき/藤井零治
女優ジュヴノ&ダンジュヴィル/森井美貴/廣瀬真理子


 チレアはプッチーニと同時代のイタリア人で、世紀の変わり目に生きた作曲家。初めて観たけれども、これは甘いセンチメントの程が良い、美しいオペラと感じ入った。「アドリアーナ」は、「パリアッチ」や「カヴァレリア・ルスティカーナ」と一緒くたにされ、分類としては“ヴェリズモ”に突っ込まれているが、僕の聴いた印象ではジュール・マスネのスタイリッシュなオペラに近い、甘い旋律の連綿と続く、優雅で感傷的な音楽と思う。作品としての仕上がりは如何にも保守的に感じられるが、これもワグネリアンのマスネと同じく、ライト・モティーフの使用を徹底していて、耳に付く旋律はオペラを観終わった帰り道、鼻歌に歌いたくなる程だった。

 指揮者に外人さんを呼ぶのは、関西二期会として初の試みだそうで、演奏機会の少ないオペラだし、国内に適任者の見当たらなかったのだろう。と云う事は誰かが、何としても「アドリアーナ」をやりたいと頑張った訳で、これは昨年の「ラ・ロンディーヌ」に続き、関西二期会なかなかやるじゃんと思う。そのイタリア人でミラノ出身のアジマン君は、四幕物の悲劇を上手に盛り上げる、手練れのオペラ指揮者だった。軽妙洒脱な音楽の上手い人で、良く稽古を積んだ跡の窺えるオケを、見事にコントロールしている。

 でも、もう少しテンポの緩急は付けた方が良いし、オケには更にタップリと歌わせたい。音楽の進め方はやや忙しく、センチメンタルな場面で泣かせる芸も今イチで、その辺りのメリハリに乏しい気はする。元々の作品自体そうなのだろうが、悲痛な場面も何処か他人事のようで装飾的に聴こえ、三幕までは木に竹を接いだような印象を受ける。悲劇に喜劇的場面をチョロっと混ぜるのは、「カルメン」辺りでの常套手段だが、「アドリアーナ」の場合は逆で、喜劇の合間に悲劇を挟み込んでいる印象を与えて、それは違うだろうと思う。この人はペーザロ・フェスティヴァルの指揮者だそうだが、成程このスタイルはロッシ−ニになら合うのかも知れない。

 舞台の真ん中には、障子のように開閉するセットが置かれ、その奥は階段セットになっている。この扉を開閉し、そこからコーラスや歌手を出し入れして変化を付ける。ガラスの扉は光源を当てると素通しになり、向こう側に居る人物をボンヤリと見せる。また、照明を落とすと鏡面になり、前に立つ人物の姿を映し、何れも歌手を幻影的に見せる効果がある。だが、僕の座る二階席からだと、オケピットの中まで鏡面に映っているのが見えてしまう。指揮者を正面から見れるのは便利だが、オケピットの裏側のキチャナイ部分まで見えるのは興醒めで、この鏡面の扱いはお粗末の極み。装置のセンスは良いのに、それを使いこなせない演出家の非力は、最初から分かっている話ではあるが。

 今日のタイトル・ロールの泉貴子は初めて聴くが、リリコ・スピントの太い声で、果たしてアドリアーナ役に相応しいのか、聊か疑問に感じる。声の太いのはパセティックな歌になら良いが、音色の変化も無いので、全体を通し単調な歌い振りとなる。メゾのブイヨン公妃とのデュエットでも、声の対比は付き難く、もう少し軽い声のソプラノが望まれる。

 マウリツィオのテノールは、毎度お馴染みの小餅谷哲男。リリックな声で高音も良く出るが、ソット・ヴォーチェを使えず、重い声ばかりで軽い音が無い。声を響かせる位置が終始変わらず、常に突張っていて、この人は力の抜き処と云うものを知らない。今日の主役のソプラノとテノールは、とにかく良い声を聴かせようとしか考えておらず、二人とも大きな声と小さな声を、交互に出すだけの単調な歌い振りだった。

 ブイヨン公爵の片桐直樹も、関西のあちこちに顔を出す人だが、左程に器用なタイプでもないようだし、コミカルな役柄に合う声質でもなさそうだ。公爵とコンビを組む僧院長を、僕はキチンとやれば美味しい役と思うが、この日のテノールは素人っぽい発声の上、演技でも見所を作れなかった。

 今日、満足すべき出来栄えを示した歌手として、まず公爵夫人の福原寿美枝の名を挙げたい。細い身体なのに声量も充分だし、デュナーミクに工夫のあるので、この役の激しい情熱を表現出来るのだと思う。一体、この方に何か不得手な曲目ってあるのだろうか?と思われる程で、ヴァーグナーもベートーヴェンもドニゼッティも、全てキチンと様式を踏まえて唱い分ける、とても頭の良い歌手と思う。

 でも、何と云っても本日の殊勲甲は、ミショネの萩原寛明に止めを刺す。まずもって持ち声の良いし、真っ直ぐ伸ばす声に生真面目な情感を込めて、この儲け役を見事にモノにしている。老いる事への哀感とコミカルな歌とを唱い分け、脇役として味わいのある処を聴かせてくれた。良い声のバリトンとは思うが、印象に残る役柄は思い出せない、これまでの萩原にはそんなイメージしか無かった。今日は意外と言っては失礼だが、恐らくその音楽性と声質に、ミショネはピタリ嵌ったと云う事なのだろう。

 まあ、色々と文句は付けたが、少し辛抱すれば主役の二人も良い声だし、演出だって初めて観るオペラなんだから、交通整理で充分とも云える。今日は自分の財産目録に、良いオペラの演目を一つ増やせたと云う事で、まずは大満足で家路に着けた。

日本センチュリー交響楽団第171回定期演奏会

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2012年5月24日(木)19:00/ザ・シンフォニーホール

指揮/沼尻竜典
メゾ・ソプラノ/ラヘル・フレンケル
日本センチュリー交響楽団

ドヴォルザーク「スラヴ・ラプソディ第2番 op.45-2/交響曲第4番 op.13」
マーラー「リュッケルトの詩による五つの歌曲」
1.Ich atmet' einen linden Duft 仄かな香りを
2.Blicke mir nicht in die Lieder! 僕の歌を覗き込まないで
3.Liebst du um Schonheit 美しさ故に愛するなら
4.Um Mitternacht 真夜中に
5.Ich bin der Welt abhanden gekommen 私は世に忘れられ


 大阪改め日本センチュリー響の定期には、音楽監督の小泉和裕が日常的なプログラムを淡々とこなし、客演首席の沼尻はメンデルスゾーン「讃歌」や、オネゲル「ジャンヌ・ダルク」等の声楽入り大曲に取り組む、役割分担のあるように思う。それが今回、四月の小泉が「カルミナ・ブラーナ」と派手目だったのを承け、沼尻は地味な演目に回った。冒頭にラプソディー、メインにシンフォニーのドヴォルザーク二曲で、マーラーの歌曲を挟むプログラム構成。

 スラヴ・ダンスなら知っていても、ラプソディなんて知らないぞと云う訳で、これは初めて聴く曲。さすがにラプソディを謳うだけあって、何だか構成の頭に入り難い曲だなぁとか、思ってる内に終っちゃう印象。それでも沼尻は堅実な手付きで、クライマックスに向け盛り上げる。それと、さすがにセンチュリーの弦は上手で、速いパッセージもピタリと揃え、稽古量も充分の様子だった。

 マーラーのソリストは当年取って32歳、イスラエル出身の若いお嬢さん。とても綺麗な声で美しいマーラーを歌ってくれたが、声量は左程に無いので、オケのフォルテシモの音量には埋もれてしまう。ダイナミク・レンジの狭くて劇的な要素に欠けるのと、低音で響きの痩せるのもやや物足りなく感じる。でも、プログラム記載の経歴は、バレンボイムやティーレマンの指揮で、「影のない女」や「ナクソス島のアリアドネ」のメゾ主役を歌う立派なもので、今回はセーヴ気味なだけだったのかも知れない。最後の曲のピアノ・ピアニシモの極小音量を弾き切る、弦の合奏力は見事だったが、ここはもう少しデュナーミクの起伏も欲しい処。指揮者の毒の吐き方も物足りず、マーラーにしてはポジティヴに過ぎる演奏で、オケにも歌手と共に唱う姿勢が望まれる。

 休憩後はドヴォルザークに戻ってシンフォニー。勿論、ドヴォルザークに九つの交響曲のあるのは知っているが、普通に取り上げられるのは、七番以降の三曲だけだろうと思うし、僕もそれしか聴いた事はない。四番とはレア物も良い処で、そこに沼尻の思い入れを感じるべきなのだろうか。

 アレグロの第一楽章は、この曲ホントに楽しそうと思わせる、如何にもシンフォニーらしい序章。続くユーモラスなアンダンテでも、楽しそうな旋律の賑やかに展開して、とてもドヴォルザークらしく感じる。お祭り騒ぎのスケルツォを経て、シンフォニーは終楽章へと至り、愉快且つ豪快なフィナーレへと雪崩れ込む。沼尻は曲に没入しても騒々しくはせず、メンデルスゾーンを好きな人らしく、明るい音楽作りが手柄となった。

 こんな曲を気難しく考える必要は無く、気軽に楽しく聴ければそれで良いのだろう。でも、定期会員として一年を通し、センチュリーのコンサートに通うのであれば、このプログラミングの妙を楽しむ余裕もあるだろうが、僕のような偶にしか来ないフリの聴衆には、これはレアに過ぎる選曲だった。毎月のオケ定期を楽しみに通う、そんな境地から随分と離れてしまったのだなぁと、シミジミ感じる今日この頃である。

ワーグナー「ワルキューレ」第三幕

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<関西フィルハーモニー管弦楽団第239回定期演奏会>
2012年6月14日(木)19:00/ザ・シンフォニーホール

指揮/飯守泰次郎
ブリュンヒルデ/畑田弘美
ジークリンデ/雑賀美可
ヴォータン/片桐直樹
ヘルムヴィーゲ/佐竹しのぶ
オルトリンデ/木澤佐江子
ゲルヒルデ/白石優子
ヴァルトラウテ/小西潤子
ジークルーネ/森川華世
ロスヴァイセ/西村薫
グリムゲルデ/山田愛子
シュヴェルトライテ/橋爪万里子
関西フィルハーモニー管弦楽団

ヴァーグナー「一幕&三幕前奏曲/エルザの大聖堂への入場(ローエングリン)/
ヴァルキューレ第三幕(演奏会形式)」


 年に一度のお楽しみ、飯守さんと関西フィルのヴァーグナー演奏会形式シリーズ、第四弾はヴァルキューレの三幕と相成った。因みに一幕は三年前、第一弾として取り上げている。けど二幕はせーへんやろな、あれは特に後半は陰々滅々としてるしな…。

 まずは小手調べ、或いは肩慣らしとは云うものの、やっぱり重たい「ローエングリン」から三曲。一幕へのプレリュードは弦楽に繊細な響きの要求される、なかなか手強い曲で、これは関西フィルにとってやや荷が重い。弦楽陣の弱さは如何ともし難いが、それでもキチンと稽古を積んでいて、なかなかキレイな音じゃんと思わせる。弦と木管の音程のズレ掛けたりしたが、フォルテシモではサマになったし、まずまず聴かせてくれた。二幕フィナーレは一幕プレリュードと同じく、真ん中辺で盛り上がる似たような曲だが、これは飯守さんがデュナーミクを際立たせて対比を付けた。

 三幕プレリュードも景気良く、飯守さんのお陰で額面通り盛り上がる。五名のホルン部隊は落涙物の奮闘振りだが、やはり五人組の金管にはもう少し頑張って欲しかった。この曲は昔、場所も同じザ・シンフォニーホールで、シュターツカペレ・ドレスデンがアンコールに演奏していた。その際のメイン・プロはマーラーの四番で指揮は若杉弘さん、ソプラノはエディト・マティスだった。ドレスデン伝統の柔らかい音色を生かし切る選曲とソリストは、今から思えば本当に夢の中の出来事のようだ。若杉さんのマーラーに感激し、マティスもアンコールにモーツァルトを歌ってくれた後、舞台袖からチューバやトロンボーンのゾロゾロ出て来て、いきなりローエングリン三幕前奏曲の始まった瞬間の感動を、僕は今も忘れない。そんな昔の話を引き合いに出して、ドレスデンと関西フィルを比べたりしてはイケナイけれども。

 休憩後は“ヴァルキューレの騎行”で始まる。オーディションで選ばれた関西の中堅・若手、八名のヴァルキューレ軍団が舞台上手にズラリ一列に並ぶと、この貧乏オケが良く金出したなぁと感心してしまう。この辺りのアンサンブルは込み入っていて、一幕上演の際は暗譜だった飯守さんだが、さすがに今日は譜面を置いて指揮する。

 一幕でジークリンデを歌った畑田弘美が、三幕ではブリュンヒルデを務める。この方の声は柔らかい中に強さを秘めて、聴かせ処でフォルテを出し切る力のあり、他に目ぼしい人材の見当たらない中、僕は当代随一のブリュンヒルデ歌いと思っている。関西フィルの切れっ端上演ばかりで、僕は未だに畑田さんのイゾルデやブリュンヒルデの、全曲上演に接する機会を持たない。これ程の実力者が、本当に勿体無い話と思う。

 三幕でのジークリンデは出て来たかと思えば引っ込んでしまう、出番は甚だ短い。雑賀美可は関西二期会の本公演で、ブリュンヒルデを歌った経験があり、さすがに強い声ではあるが短い出番に変化を付けられず、一本調子なまま終わってしまった。因みに今日のヴァルキューレ軍団には、その際のダブル・キャストのジークリンデが、二人ともメンバーに加わっている。

 ヴォータンの片桐直樹も、去年の「ジークフリート一幕」に続く出演。この人の響きの高いバスの声は軽々しく、今ひとつ怒りの表現に適せず、娘のヴァルキューレ達を叱り付けても、余り怖く感じない。ブリュンヒルデにも怒りをぶつけるのではなく、罰を与えるのを楽しんでいるような気配の漂ってしまう。ヴォータンの声が軽いと“告別の歌”も悲痛な情感に欠け、幕切れの盛り上がりへの足枷となってしまう。

 でも、最初に“炎の動機”の聴こえる辺りからオケの間奏へ掛け、さすがに指揮者のフォルテシモまで持って行く手付きは素晴らしく、僕は胸を熱くさせられた。飯守さんはスコアの隅々まで頭に入れ、さり気ない動機の強調や効果的な使用法等、現場の経験から熟知し、奇を衒った解釈など取る理由もなく、常に正攻法の音楽作りを志している。ただ、残念ながら関西フィルの力量不足は如何ともし難く、弱音の緩徐部分ではボロを出してしまい、指揮者の思うように行かない憾みはある。一升枡に一升以上は盛れず、大詰めでの指揮者の要求はオケの力量を上回り、今ひとつテンションは揚がらなかった。でも、そんなに高望みさえしなければ、正規メンバーの倍近いトラの投入されたオケは、全員一丸で良く頑張ってくれたと思う。

 ヴァルキューレ一幕でフンディングを、トリスタン二幕ではマルケ王を歌った木川田澄さんを、今日は客席にお見掛けした。僕はこの方を度々、オペラ会場でお見掛けしている。もしかするとオペラに出るより、観る方がお好きなのでは?と思わせる程、熱心な一聴衆でもあるようだ。でも、今日は是非ともヴォータンとして、舞台に立って頂きたかったと、僕は客席の木川田さんを恨めしい思いで見てしまった。

林光「森は生きている」

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<びわ湖ホール・オペラへの招待/吉川和夫オーケストレイション版上演>
2012年6月30日(土)14:00/びわ湖中ホール

指揮/寺嶋陸也
ピアノ/斎木ユリ
いずみシンフォニエッタ大阪

演出/中村敬一
美術/増田寿子
照明/山本英明
衣装/半田悦子

一月&総理大臣/相沢創
二月&廷臣/田中千佳子
三月&オオカミ/本田華奈子
四月&警護隊長&カラス/山本康寛
五月&ウサギ&もう一人の兵士&大使夫人&廷臣/栗原未和
六月&もう一人の娘&リス&廷臣/松下美奈子
七月&むすめ&廷臣/中嶋康子
八月&女官長&オオカミ/小林あすき
九月&おっ母さん&廷臣/森季子
十月&女王/岩川亮子
十一月&兵士/青柳貴夫
十二月&博士&古老/林隆史


 今年の一月、作曲家の林光は八十年の生涯を終えた。不慮の事故の後、意識を回復しないままの死と仄聞する。高齢でも衰えない創作意欲に溢れ、来年上演予定の新作オペラの計画も進めていたやにも伺う。天寿を全うせずに逝かれたのが悔やまれる、氏は煌びやかな才能の持ち主だった。衷心からご冥福をお祈り申し上げる。

 林光のオペラは彼が座付き作者を務めた、こんにゃく座が主に初演を手掛けている。人間の“声”に興味を抱く僕は地声で演唱する、こんにゃく座に馴染めず、これまで積極的に聴く事はなかった。だが、今回の上演はびわ湖ホール声楽アンサンブルに拠る、しかもオーケストラ伴奏での上演で、追悼の意味でも是非聴きたいと思い立ち、今日の会場に出向いた。とは云うものの、びわ湖ホールでの「森は生きている」は、今回が六度目の再演だそうで、これまでに僕も観て置くべきだったと、今は反省している。あれはお子様向けのオペラ公演で、おっさん一人が観るべきものではない、そんな偏見のあったのは確かである。

 今日の客席にも、子供連れご家族ご一行様の姿が目に付く。開演前には舞台上手から客を上げ、舞台美術を一巡させて下手に降ろす、ミニ見学ツアーの行われて、びわ湖ホールはファミリー向けサービスに勤しむ様子だった。また、僕の周囲のお子様達は誠にお行儀の良ろしく、上演中に不快と感じるような事も無かった。さすがにオペラ見物のご家族はハイソで、ガキどもの躾けも行き届いてますな。

 見学ツアーを終えると本日の指揮者、林光の一番弟子とも云うべき寺嶋陸也が、マイクを持ち舞台に現れる。黙祷するのかと思えば然にあらず、このオペラのテーマ・ソングである「十二月の歌」の練習をさせられた。林光の機会音楽らしく簡素な譜面で、僕のような物覚えの悪い人間も初見で歌える。最後、フェルマータのF音で大声を出すと、三つほど離れた席の男の子が、こちらの方を窺っていた。

 とても長いオペラで、今日は相当なカットのあったようだが、それでも上演に三時間以上掛かり、終演は五時過ぎとなった。原作はロシアの童話で、如何にも平易な音楽の続く(音取りは難しいらしいが)のと、作曲者自ら手掛けた台本の良く出来ていて、長丁場でも子供の興味を逸らさない、なるほど何度も再演されるのも頷ける内容がある。前回、びわ湖ホールでの上演は林氏自身がタクトを取り、今回もその予定だったのが残念な事となり、ピアノを弾く予定だった寺嶋が指揮に回った。

 作曲家兼ピアニストの寺嶋の指揮は、やはり素人だなと云う見た目だが、なかなか力は込めていた。いずみシンフォニエッタ大阪は腕利きの奏者を集めた高性能オケで、これは放っといても、この程度は弾けるんちゃうかと思うし、寺嶋はやや棒を振り回し過ぎかも知れない。ともあれ少人数の引き締まった音で、オケは物語を快活に進めてくれる。

 このオペラでは女声の二人、七月の娘と十月の女王が主役格となる。女王の岩川亮子は昨年の「ウィンザーの陽気な女房たち」のフルート夫人でも、レヴェルの高い演唱で楽しませてくれたが、やはり今回もこのメンバーの中では、歌手として完成度の高さを感じさせる。まず持って伸びやかな声が素晴らしく、アゴーギグの工夫も伝わり、わがまま少女の演技もキチンと板に付いている。

 これに対する孤児娘の中嶋康子はレジェーロで綺麗な声だが、今ひとつ表情に乏しい印象。九月の継母と六月の姉娘のコンビ、森季子と松下美奈子は一人づつだとイマイチ映えないが、二人で歌えば精彩がある。マツユキ草の在り処へ案内するアリアとデュエット等、なかなか面白く聴ける。その他、狼のデュエットや難破船のトリオ等、びわ湖ホール声楽アンサンブルが、その技術力を大いに発揮する場面だった。

 男声陣では一月の総理大臣、相沢創が聴かせ処を作ってくれた。一月の歌も持ち声自体の良さと、デュナーミクの変化で聴かせたし、総理大臣も良い役作りで客席にウケたが、このキャラはご本人の地のような気もする。因みに相沢は「トリスタンとイゾルデ」ではクルヴェナールの、「アイーダ」ではアモナズロのそれぞれカヴァーを務め、このメンバーの中では実力的にやや抜けているようだ。

 岩川と相沢の二人は歌と演技の両面で、プロ歌手としての水準を保っているが、その他の方々は言っては悪いが学芸会レヴェルで、役者としては全くの素人でしかなかった。そもそも、このオペラで唱われる歌は、ベルカントで唱えば必ず効果の挙がる訳ではない。地声で歌うこんにゃく座の為に作曲されたオペラで、専門家の中途半端な歌唱より、歌は素人の役者の方が面白く唱える筈。要するに演技の重視されるオペラで、“歌は語れ、台詞は歌え”なんて惹句もあるが、どうもその反対をやっているような人が、今日の出演者には多かったように思う。

 歌手の演技力にデコボコはあったが、童話を原作とするオペラで、演出はそれらしく過不足の無い出来栄え。メルヘンチックな森と宮殿のセットと、背景として使われたホリゾントは綺麗だったし、舞台前の紗幕にプロジェクターで投射し、降らせる雪も幻想的。何れも基本的な工夫で、適切な効果を挙げていた。

 林光さんは根っからの舞台育ちで、再演の見込みに乏しい機会音楽に関わる方だった。勿論、使い捨てにされる覚悟はあったろうが、その中から自ずと後世に残る作品も出て来る筈、そう考えておられたと思う。「森は生きている」にも、二度ほどブルースのリズムは聴こえたが、それよりも親しみ易くシンプルな曲作りで通されている。オペラなんて数打ちゃ当たるのジャンルで、生涯に三十三作を量産された林光さんとしても、これ一作が後世に伝えられるだけで、恐らく本望ではないかと思う。

プッチーニ「トスカ」

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<佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ2012/プレミエ>
2012年7月19日(木)14:00/兵庫県立芸術文化センター

指揮/佐渡裕
兵庫芸術文化センター管弦楽団
ひょうごプロデュースオペラ合唱団
オープニング記念第九合唱団
宝塚少年少女合唱団
ダンスオブハーツ

演出/ダニエレ・アバド
美術・衣裳/ルイジ・ペレゴ
照明/ヴァレリオ・アルフィエリ

<Aキャスト>
トスカ/スヴェトラ・ヴァシレヴァ
カヴァラドッシ/ティアゴ・アランカム
スカルピア男爵/グリア・グリムスレイ
政治犯アンジェロッティ/キュウ・ウォンハン
密偵スポレッタ/成田勝美
憲兵シャルローネ/ジョン・ハオ
堂守/志村文彦
看守/大山大輔
牧童/佐野晶哉


 年に一度の兵庫芸文自主制作オペラ、今年の演目は四年振りのプッチーニで、「蝶々夫人」に続く第二弾「トスカ」。びわ湖ホールでもプッチーニは「トゥーランドット」と、「ラ・ボエーム」を取り上げていて、綺麗に棲み分け出来ている。今後どうなるのかは知らないけれども。

 今日がプレミエの演出家はイタリアからの招聘、指揮者クラウディオの甥でダニエレ・アバド。演技は舞台中央に置かれた、回転する楕円の盤上で行われる。このスタイルは大昔の写真でのみ見る、バイロイトのヴィーラント・ヴァーグナー演出を嚆矢(多分)とする、これまでに散々使い古された手法であり、何度も見たような既視感に溢れるセットだ。でも、その円盤と八本の柱のみのセットには抽象的な美しさがある。一幕の円盤上には壁画を描く為の足場を、二幕ではスカルピアのディナー用テーブルを、三幕は天使の銅像を置いて場面転換する、美術の出来映えは悪くない。

 「トスカ」の物語は時代設定の明確で、読替えの余地に乏しいが、何故か今日は衣装だけ前世紀三十年代風。憲兵隊は黒尽くめ、坊さんは紅白に色分けされ、真っ白なセットに彩りを与える、華やかに祝祭的な舞台作りがある。問題は美術には無く、演出そのものにある。演出家の力量は、モブの動きの処理へ端的に現れる、と僕は考える。大人のコーラスは文字通り突っ立ったままで、堂守に纏まり付く児童合唱への振付けにも何の工夫も無い。それと幕切れの場面、僕の座る四階席からはトスカの飛び降りる際の、受身用の黒いマットレスが丸見えなのにも興醒めする。一事が万事で演出家の力量不足は明らかで、わざわざイタリアから連れて来る側のセンスも疑われる。

 ここでのオペラ上演は、良くも悪くも芸術監督次第で、全て佐渡裕一人の責任に帰するのであれば、僕も文句の付け甲斐のあると云う物だ。演出に関し、ソコソコの成功を収めて来た兵庫芸文オペラに、要求される水準は上がっている。今回の演出に何の創見もないと言うのは、それを踏まえての意見なのである。

 抽象的なセットへ対応するように、指揮者は「トスカ」の音楽に対し、ザッハリヒで外面的なアプローチを取る。全体を大掴みにしてコセコセせず、甘さや思い入れを排し、オペラの物語を機能的に進める気配がある。二幕の最後、スカルピアの葬送音楽には軽くパウゼを挟み、細部の拘りにも冴えを見せる。このオペラはイタオペの一つの典型で、劇的展開がどうとかよりも、主役の三人の圧倒的な“声”だけで成立する。そうであれば、今日のオケは即物的に大きな音を出して、「トスカ」の音楽に必要とされる容量は満たしていたと思う。

 今日のタイトル・ロール、ヴァシレヴァは声に甘い音色があり、ドルチェな表現力に加えて、オケを突き抜いて聴かせる力強さがある。音響としての密度の高い所為か、スピントする声に鋭さもあり、見た目は小柄で細身でも、ソプラノ歌手として恵まれた能力をお持ちと思う。カヴァラドッシのアランカムは立ち上り、喉に詰めた抜け切らない発声で“妙なる調和”のアリアを歌い、先の思いやられる。だが、直ぐに頭の天辺へ抜ける声となり、二幕のキメ台詞“ヴィットーリア”は見事だったし、皆様お待ちかねの“星は光りぬ”も、まずまず楽しませてくれた。

 スカルピアのグリムスレイには圧倒的な声量があり、朗々たるバリトンで聴かせてくれる。悪役としての存在感を、声で示せる実力者と思う。主役の三人の内、カヴァラドッシに今後の精進の余地は残るが、トスカとスカルピアは期待された“声”の芸を遺憾無く発揮し、まずは満足すべき出来だった。ベテランで固めた脇役陣も、本来はヘルデン・テノールの成田勝美がスポレッタで良い味を出したし、堂守の志村文彦にはコミカルな演技力があり、何れも手堅く聴かせてくれた。

 今日のキャストはブルガリア人のトスカに、ブラジル人のカヴァラドッシとアメリカ人のスカルピア、それに東洋勢も日中韓を揃えて国際色豊かな布陣。ただ、韓国人のキュウ・ウォンハンは別に悪い歌手とも思わないが、このプロダクションで主役を張る実力は無いのに、兵庫芸文への出演頻度は多過ぎるように思う。佐渡芸術監督の旧友だそうで、余り露骨な身贔屓は如何なものかと思う。

安積黎明高校合唱団第42回定期演奏会

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2012年7月21日(土)14:00/郡山市民文化センター

指揮/宍戸真市
ピアノ/鈴木あずさ
福島県立安積黎明高校合唱団
福島県立安積黎明高校クラシック部

土田豊貴「夢のうちそと」(全4曲)
シューベルト「Kyrie/Gloria/Agnus Dei」(ミサ曲ト長調 D.167)
鈴木輝昭「譚詩頌五花(全5曲)/妖精の距離(委嘱全曲初演)」
創作ステージ「REIMEI SIDE STORY〜愛と勇気と合唱」


 昨年、3月11日の被災で郡山市民文化センターは休館し、安積黎明高校の定演は已む無く、会場を隣町の須賀川へ移し行われた。震災後の過酷な状況の中、例年通り定演を挙行した生徒諸君と、それに尽力した関係者のご苦労を多としたい。だが、僕は残念ながら、平日に行われた為に訪問は適わず、郡山へ戻り行われる今年の定演を、今日は二年振りに訪れる。新入生19名を迎え、今年度のコーラス部の陣容は47名となっている。

 最初は合唱連盟の課題曲公募に入選した、土田豊貴と云う若い人の曲集。最初の二曲はホモフォニック、後の二曲は対位法的な組曲として変化のある構成で、指揮者もその辺りをキチンと捌いている。日本語の抑揚とデュナーミクを一致させる、生徒に受け継がれたお家芸と、柔らかく倍音を響かせる圭角の取れたハーモニーは健在。赴任三年目を迎えた顧問教諭の音楽性も、順調に生徒へ浸透している印象を受けた。ただ、宍戸先生は抒情的表現に優れているが、構成面にやや弱さを感じさせる部分はある。

 次は男子部員15名と選抜女声メンバーによる混声合唱で、シューベルトのト長調ミサから三曲をオケ伴で演奏する。男声合唱の無いのはチト寂しいが、それが現顧問の方針ならば致し方も無い。その選曲も指揮者の志向を端的に表していて、宍戸教諭はシューベルト演奏に必須の、ドルチェな表現力を自分のものとしている。特にその歌謡性を弦楽合奏から引き出し、歌わせたのは見事と思う。但し、14名のヴァイオリンに対し、ヴィオラ以下の低弦が十人も居てバランスが取れず、くすんだ音色で華やかさに欠けたのは惜しまれる。

 それで肝心の混声合唱だが、ラテン語にやや日本語的な語感はあっても、さすがに女声は豊かな表現力で聴かせる。でも、男声は如何にも声量不足で、何事かを表現する以前に留まっている。ソプラノ・ソロは緊張で力の入り過ぎなので、まず喉の力を抜きたい。二人目のソロの子のテンポの走ったのは、まあご愛嬌か。バス・ソロだけ二人のソリだったが、低音の出る子の居ないのは、如何ともし難い処だろう。指揮者のステージ・マナーに付いて、コンミスとの握手や指揮台上からの答礼等、至極真っ当なものだった。

 この学校の委嘱曲である「譚詩頌五花」は、激しい曲ばかり並んでいて、最後まで緊張感を保つのが難しい。ピアニシモでフラついたり、終結部のフォルテシモではパート内部の声のバラけたりする。全体的にスピントする声の太くなり、以前とは倍音構造の変化して、高次の倍音の聴こえ難いのにも不満を感じる。音色の変化でもテンションの高低でも、とにかく何でも良いのだが、もう少し演奏にメリハリの望まれる。

 曲そのものも技術的な難易度の高さが、内容の晦渋に直結して、曲集としての構成を散漫にしているように思う。折角の委嘱曲ではあるし、再演を重ねるのは結構な事だが、もう元は取れているだろうし、もっと他にやるべき曲はある筈だ。言っては悪いが自己模倣に陥った、この作曲者としては駄作の部類に入る曲と思う。入部して丸三ヶ月の一年生に、この難曲を暗譜させる技術力には恐れ入るしかないが、それを聴かされる側も大変なのである。これを平たく言ってしまえば、僕はやや退屈させられた。

 高校生のコンサートには付き物のお遊戯大会は最初、生徒さん方の喋ってばかりいてヤレヤレと思うが、後半は沢山歌ってくれて、ホッと胸を撫で下ろす。これはどうでも良いような事だが、上に着るTシャツだけお揃いにするのではなく、ボトムスも揃えた方が見映えの良い気はする。ただ、ジーンズで揃えると、男女の見分けは付き難くなるだろう。何せ元々の近視と乱視に老眼の入って来た僕は、女子の制服を着て出て来た男子生徒を、彼が喋る声を聞くまで女子生徒と思い込んでいた程ですから。

 最後は珍しく鈴木輝昭大先生が納期を守り、めでたく全曲初演の運びとなった、瀧口修造の詩による「妖精の距離」。僕には譜面のアナリーゼなど出来ないが、聴いた印象として技法的な冒険や新たな試みは無くとも、詩に合わせた曲の構成はあるように思う。メゾピアノ、メゾフォルテの音量には緩めたテンションがあり、フォルテシモと張り詰めたピアニシモではハイテンションとなる、楽節がユニットで交互に表れて面白く聴ける。絶叫のフォルテシモを山場とし、頭に血を昇らせたまま歌い通す、マンネリ化した曲とは違う新鮮味がある。

 瀧口修造の「妖精の距離」と云えば、自ずと思い出されるのは、武満徹の名前。そう思って聴けば、今回の新曲には如何にもタケミツっぽい響きがある。マンネリ傾向の打開の為、武満の語法の取り込みを企てたのだろうか。これを師匠の三善晃の模倣から、武満徹への乗り換えと揶揄する事も出来るが、今回は一応の成功を収めたと評価したい。どうやら鈴木は、三善や武満の古典的なフォルムを拝借しないと、創作出来ないタイプのようだけれども。

 絶叫ではなく精緻な音の組立てによる曲は、現任の指揮者の体質に合っていると思われる。それはメンバーの減少と共に、スピントする際に太くなりがちな、安積黎明の発声を修正するのにも適当だろう。ただ、黎明の声の太くなりがちな点に付いて、どうやら声楽専攻のバリトンらしい、顧問教諭の単なる趣味の可能性もある。絹糸のように細い声を保てなくては、伝統の“黎明トーン”もヘチマもありはしない。声の太いのだけは、何としても修正するよう要望して置く。

 さて、今日はアンコールは聴かずに、コンサートをお暇する。生徒さん達による「花かつみ歌」での観客お見送りは、コンサートのお楽しみの内だが、その前に「瑠璃色の地球」でミラーボールの回る演出と、そこで一斉に拍手の起こるのに、僕はウンザリしている。「妖精の距離」の演奏が終り、指揮者のタクトを下ろしたのは4時30分。さて、梯子先のコンサートの開演時間に、果たして間に合いますかどうか。

福島東高校合唱団第10回定期演奏会

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2012年7月21日(土)18:00/福島市音楽堂

指揮&ピアノ/星英一
ピアノ/鈴木あずさ
ベース/小澤夕陽
ドラムス/古木弓夏
福島県立福島東高校合唱団

パレストリーナ「Ego sum panis vivus 我は命の糧なり」
シュッツ「Ocuri omnium 主よ、全ての者の目は swv.88/Pater noster 主の祈り swv.89/
Gratias agimus tibi 主に感謝し奉る swv.93」(カンツィオーネ・サクレ)
Bob Chilcott:A Littl Jazz Mass
企画ステージ「歌ざかりの君たちへ〜スティーブパラダイス」
信長貴富「夜明けから日暮れまで…震災に」
千原英喜「明日へ続く道」
森山至貴「受付」(さよなら、ロレンス)
三善晃「地球へのピクニック」(地球へのバラード)
鈴木輝昭「O mistress mine/come away,come away,death」
(W.シェイクスピア「十二夜」から)


 安積黎明の定演を最後まで聴かず、急ぎ足でJR郡山駅へ向かうが、最後は駆け出しても在来線の福島行きには間に合わなかった。今日の早朝、上野駅を出立し青春18切符でやって来たので、普通電車であれば運賃は掛からない。しかし、こうなれば騎虎の勢いと云うか、悠長に次の鈍行を待つ気にならない。大枚を叩いて新幹線に乗り込み、一路福島駅へ。でも、在来線だと小一時間掛かる処、夢の超特急は15分で着き、途端に時間の余ってしまう。正に“時は金なり”である。

 福島東高校校歌の作曲者は、何と湯浅譲二。ミュージック・コンクレートのイメージから懸け離れた、甘く優美な旋律に驚く。プログラムの最初は宗教曲で、時代順にパレストリーナからシュッツと続く。モテットは速目のテンポと、イタリア的な明るさのある世俗的な演奏。カンツィオーネ・サクレは決然としたフレーズの立ち上げから、マルカートとレガートによるリズムの対比、軽くアチェルラントするテンポの緩急等、シュッツの晦渋な音楽を噛み砕き咀嚼して、なかなか格調高い演奏。やっぱ新幹線に乗って良かったと思う。

 その後は時代の跳んで、キングズ・シンガーズの元メンバーでもある、ボブ・チルコット作曲のリトル・ジャズ・ミサ。この曲で星教諭は指揮せずにピアノへ専念したが、でも生徒達はちゃんとスィングしていて、全く罪の無い他愛の無い曲を楽しく歌えた。但し、指揮者無しの四十名で、しかも突っ立ったまま歌い続けるだけでは、演奏に何の変化も無く、やや聴き飽きる。星教諭のピアノ・タッチには、元々ジャズっぽい印象のあるし、ここはソロのインプロヴィゼーションを聴かせて欲しい処だ。ピアノ・トリオの三人が、それぞれソロを取っても良かったと思う。

 次は高校生定番の学芸会ステージだが、生徒達は全く歌わずに延々と喋るのみで、これには心底ウンザリさせられる。結局、コーラスは最後の方に二曲歌っただけだったし、そもそも音楽専用ホールで素人が台詞を喋っても、ワンワン反響するだけで言葉は殆んど聞き取れない。もし、僕が鈍行に乗って遅れて到着し、これを初っ端に観せられたなら、恐らく激怒したと思う。

 最後も星教諭の指揮で、委嘱の二曲を含めた邦人の六曲を演奏。最初の信長を、この三月に初めて聴いた際は、実にツマラン曲と思うだけだったが、今日の演奏では指揮者のリズム感により、曲に生気が吹き込まれていた。次のNコン課題曲の千原も、弾むリズム感とデュナーミクの作り方を合わせて、躍動感のある演奏。しかし、この先生のテンペラメントの豊かさは、前任校である安積黎明の演奏からは全く窺えなかった。今は何だか混声を振れて、嬉しくて仕方ないと云った感じで、でも幾ら伝統校と云っても、そんなに禁欲的にやらにゃイカンもんだったのか?と、逆に不審に思われる程だった。

 合唱連盟の方の課題曲「受付」では、ある程度アンサンブルは犠牲とし、ダイナミックな音楽作りを志向している。言っては悪いが四十人しかいない、左程に能力の高いとも思えない高校コーラス部を、破綻無く思い切り歌わせる指揮者の手腕が素晴らしい。三善晃は曲の構成に確固としたフォルムのあるので、アンサンブルをキチンと作らないと演奏として成立しない。今日の「地球へのピクニック」の演奏は、知性と情感のバランスの取れた、美しく力強い名演だったと思う。

 最後は鈴木への委嘱曲。先刻の安積黎明に続き、今年は輝やんが真面目に落とさず楽譜を届けたようで、まずは祝着至極である。ただ、譜面を持っての演奏で、曲の仕上がりはギリギリだった様子。さすがに音取りを終えた段階らしく、演奏は平板なベタ押しで緩急も無いが、それでも星教諭は強引な程に歌わせる。生徒達のポテンシャルを最大限に引き出す、指揮者も良くやっているが、若さの力も無限大と思い知らされる。でも、この音楽作りは身体に叩き込む感じで、まだ若い(幼い)高校生にも分かり易いのだろうとも思う。

 アンコールの「こころようたえ」は福島東高校も招待された、去年の京都合唱祭で初演された曲。その際にはクサイ曲としか思わなかったが、今日は情感をキチンと踏まえた上に、人数分に倍する声の出ていて、震災以来の思いの丈をぶつけるような演奏だった。若い情熱って素晴らしいなぁと、僕は甚だオジサン臭い感想を抱いてしまった。

川越高校音楽部第62回定期演奏会

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2012年7月22日(日)13:30/川越市民会館

指揮/吉田寛/吉田みどり
生徒指揮/石井凌雅
ピアノ/野島万里子
埼玉県立川越高校グリークラブ
埼玉県立松山女子高校音楽部

松下耕「はらへたまってゆくかなしみ」(秋の瞳)
Ester Magi:Kerko-kell
木下牧子「彼/いつからか野に立つて(いつからか野に立つて)/
いっしょに(光と風をつれて)/わたしはカメレオン(わたしはカメレオン)/
老いたきつね(光る刻)」
高嶋みどり「太鼓を叩け、笛を吹け」(マレー民衆の唄“パントン”)
源田俊一郎編曲「瑠璃色の地球」(ウェディングセレクション)
武満徹「島へ」(うた)
信長貴富編曲「みかんの花咲く丘」(ノスタルジア)
上田真樹「僕が守る」
猪間道明編曲「マジンガーZ」
今村康編曲「浪漫飛行/世界に一つだけの花/栄光の架け橋」
Tsing-moo編曲「愛唄」
福永陽一郎編曲「君といつまでも」
Dvid Wright-arr:Lazy day
J.H.シュトゥンツ「自由の歌」
Tom Gentry:Sound Celebration


 昨日は早朝からバタバタと走り回り、寄る年波を痛切に感じる僕としては、今日も早起きして福島から川越まで駆け付ける自信は無かった。しかし、今日は福島市の近場でコンサートが無い。昨日の土曜日は安積黎明と福島東の他にも、喜多方高校と仙台三桜高校の定演が被った。今日やってくれれば、どちらかに行ったのだが、これは言っても詮無い事である。昨年、伝統校の川越が九年振りにコンクール全国大会へ復帰したのは、男声合唱愛好家として嬉しいニュースだった。どうやら規模・実力共に復活を果たしたらしい、川越高校の定演を是非とも聴きたい、そう考えた僕は疲れた身体に鞭打ち、鈍行を乗り継いで川越へ向かった。

 JR川越駅で下車し、駅前の交番で市民会館への道順を尋ねると、歩いては無理だからバスで行けと勧められる。でも、バス停で時刻表を見ると、開演時間に間に合いそうなバスが無い。万止むを得ず、タクシーで会場へ向かう。折角、新幹線代ケチっても、こんなトコで金使っちゃうんだよなぁ…。

 又もや“時は金なり”で悠々と会場入りし、客席に着く。コンサート冒頭は校歌・応援歌・部歌の三連発。校歌はお約束通り音程の悪かったが、しかし三曲共に横を揃えようとか云うムダな努力は放棄し、ひたすらに元気良く歌いまくる。兎に角、生徒さんの指揮が煽る、煽る。これぞ正しく古式床しいグリー調で、こんな男声合唱が武蔵野の林間に生き伸びていたかと、僕は感激してしまう。もうあれだ、これだけでタクシー代の元は取れたぞ。

 プログラムの最初はコンクール曲で、エストニアの何とか云う作曲家の自由曲は、訳の分からんヘンな曲。トップ・テノールは喉声で、ベース系は塩辛い声だし、現状の技術レヴェルを高いとは云い難い。でも、県大会はシードだそうなので、まあこれからだろうと思う。さすがに洗練されたとまでは云えないが、木下の二曲は結構キレイにハモらせ、曲によってキチンと発声を使い分ける、彼等は男声合唱のツボを心得ている。いいですねぇ、ホントにいいですねぇ。

 次は女子高コーラス部の招待演奏で、これも如何にも青春してて良いですよねぇ。やっぱ高校生だと、合コンはハイキングとかに行くのかなとか、合同練習で女子高に入れるなら、ちょと嬉しいだろうなとか、でもそこでカップルの出来ちゃうと、部内に嫉妬の渦巻いたりして…と、おじさんは妄想を繰り広げるのであった。

 その松山女子高の部員数は、何と114名。今時、良く集めたと感心するが、その内の一年生は66名に三年生は18名だそうで、これはかなりバランスが悪い。高嶋で大人数のリズムを揃える技術は高く、声も良く整えているが如何せん発声の浅く、人数分の深い響きの出て来ないのは物足りない。

 二年生以上の女声48名と男声35名による混声合唱は、まず武満徹から。指揮の女性教諭は随分と踊る人だが、タケミツのジャズ感覚は良く捉えている。女声の弱いのは如何ともし難くとも、それを川越の生徒達はキチンと支え、混声の男声部として立派に機能し、良い混声合唱にしていた。やはり彼等は頭の良い子達で、何事にも呑み込みの早いのだろう。去年のNコン課題曲では、指揮の川越の顧問教諭が、やや非力な女声の能力を上手に引き出し、デュナーミクの作り方で情感を醸す、なかなか良い音楽作りがあった。

 “ポップス・ステージ”での「マジンガーZ」の振付けには工夫の凝らされ、これが生徒さんのアイデアなら秀逸と感じる。次の「浪漫飛行」では客電を落とし、ペンライトで人文字を作る、とてもお洒落な演出のあり、これは稽古も大変そうだが、時々間違えるヤツの居るのもご愛嬌となっている。練られた企画で考え抜かれているし、真っ暗な中に“禁煙”の赤い行灯が、舞台の両脇に付いたままなのも泣かせる。

 加山雄三はアカペラで、台詞は生徒の指揮者がキチンとキメたし、GReeeeNでは良く声も出て、美しいハーモニーがあった。Tシャツ・プレゼントの太っ腹企画もあって、客席を上手に盛り上げる工夫もある。生徒さんの薀蓄の披露や、寸劇はあっても長くは引っ張らず、ダレる寸前にアッサリと終える、彼等は程の良さ(これ大切ね)を心得ている。男子校定番の女装生徒も可愛らしかった。

 最後の“ア・ラ・カルトステージ”は、ポップスで騒いで発声練習の出来たのか、男声らしい分厚いハーモニーで聴かせてくれる。トップは相変わらず喉声のままだが、中音域での密集和音に問題は無く、顧問教諭のコセコセしない、おおらかな指揮も良かった。「フライエ・クンスト」は一番を日本語、二番はドイツ語でやったが、これぞ正統派のグリー調と感じ入る。最後の黒人霊歌は近年、関学のグリークラブが愛唱曲としているが、何でこんなフニャフニャした曲やるんだ?としか、僕は思っていなかった。だが、今日の川越の演奏は如何にもグリーらしく、汚い声を出す事に躊躇が無く、由緒正しい男声合唱の在り方を示していた。

 アンコールの松下耕編曲の「八木節」は、如何にも安っぽいアレンジで、僕は聴く度に辟易させられる。同じ「八木節」なら、清水脩編曲版の方が余程マトモだが、あれはお囃子の伴奏を必要とする。これはアカペラなので流行るのだろうが、良い加減あの編曲の下らなさに、皆さん気付いて欲しい。

 しかし、今日は遥々と川越まで来て、本当に良かったと思う。そもそもグリーなんて、そんなに上手な必要など無いのだ。僕なんか単純だし、綺麗な倍音のハーモニーと、汚いトド声を交互に聴かせてくれれば、それだけで感激してしまう。でも、そんな男声合唱は、今では滅多に聴く事の叶わない。関西では絶滅状態の真っ当なグリークラブが武蔵野に生き残っている。長く重い伝統を引き受ける、川高グリーの生徒諸君にエールを送りたい。

磐城壽〜鈴木酒造店長井蔵

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 川高グリーのコンサートの終われば、そのまま川越に宿を取れば良さそうなものだが、僕は再び長躯して福島へ戻る。予約した会津若松のホテルにチェック・インしたのは、そろそろ日付けの変わる時刻だった。

 翌朝は遅くに起床するが、今日は何も予定は無い。会津若松の街中をブラブラ歩き、まずはお酒の調達で、七日町通りに面した植木屋酒店へ赴く。以前、このブログでも紹介した、津波に全てを流された浜通り浪江町の“磐城壽”は、紆余屈折を経て山形県長井市に拠点を移し、昨秋より鈴木酒造店長井蔵として酒造りを再開した。蔵元兼杜氏の鈴木大介さんに取って、福島県内での酒造りを諦めるのは断腸の思いと伝え聞く。山形で廃業した酒蔵の設備を、居抜き物件として引継いでの再開ではあるが、それでも設備投資には結構な費用の掛かる。しかも住民票を山形に移した為、福島への義捐金は受け取れない。前途は険しいが、常に前向きの鈴木大介さんは、新天地での酒造りに打ち込んでおられる様子だ。

 僕も年の瀬に出荷された、仕込み第一号の“磐城壽・季造りしぼりたて生酒”を三本購入し、お正月に美味しく頂いた。新天地での再出発を契機とし、長井蔵では六百kgの少量仕込みへの転換を図り、冬期のみ酒を醸すのではない、通年生産を行っている。少量生産の為、矢継ぎ早に色々な銘柄の発売され、僕は今それを追い掛けるのに忙しい。上掲の写真の内、右が全国に流通する“磐城壽・純米酒”で、左が福島県内限定発売の“磐城壽・浜の福興酒”である。後者は普通酒で避難生活の県民の為、懐に優しい値段設定となっている。

 ここ会津の植木屋酒店さんは震災前、実は磐城壽の売り込みに、それほど積極的だった訳ではないそうだ。でも、震災と津波の後、兎に角ひたすらに前向きな鈴木大介さんを、皆さん挙って支援しようとしている。まあ、何分にも磐城壽は個性的で、決して万人受けする酒ではないし、酒屋さんとしては売り難い商品かも知れない。それでも浪江の硬水から、長井の軟水に変わった所為か、今のところ随分と大人しい酒の出来のように思う。このブログをお読みの皆様には、是非とも磐城壽をご愛飲下るようお願いしたい。



 上の写真は浪江町で量販店やホームセンター等を経営する、マツダヤのプライベート・ブランドで“親父の小言”。勿論、中身の酒は磐城壽だが、銘柄の“親父の小言”は浪江町にある古いお寺の先々代の住職が、家族に残した金言集だそうである。フクシマ・ダイイチの警戒区域に指定され、今は散り散りに避難している浪江町民のアイデンティティーの確認の為、“親父の小言”の外装に“磐城壽”を詰め、商品化する運びとなった。要するに、この酒を呑んで浪江を思えと云う事で、僕なんぞが呑んでも罰の当たる事も無さそうだ。



 次の写真は濁り酒で、右の白いのが“磐城壽「標葉にごり」純米吟醸活性にごり”、左はその桃色ヴァージョンで“ももうま”。そう云えば、大阪駅前近くにある磐城壽マニアのお店「堂島雪花菜」で、僕は“モモレンジャー”と云う酒を呑まされた事がある。これは福島県の若手酒造家の集いで、「秘密戦隊ゴレンジャー」の五色の酒をそれぞれ作ろうと盛り上がり、その場でモモレンジャーの担当と決まった、鈴木大介さんの作った酒なそうな。結果、そんな酒を作ったのは鈴木酒造店だけで、後に鈴木さんが他の人に、何故みんな作らなかったのかと尋ねると、あれは酒の席の話との答えだったそうだ。正直の上に何かヘンなものの付きそうな挿話だが、それにしても桃色が好きですな、大介さん。



 さて、家呑みの酒は調達したので、次は昼酒を呑みに去年も訪れた「麦とろ」を再訪する。やはり福島市や郡山市はビジネスの街で、昼酒を呑むのに今ひとつ適せず、それと比べて会津若松は、古い城下町で何処かユルイ雰囲気の漂っている。麦とろ定食を頂きつつ、真昼間から酒喰らってる僕の事を、大将は以前にも来たヤツと覚えて下さっていた。生ビールに瓶ビール、酒は会津中将と末廣を、それぞれグラスと二合瓶で頂き、僕はすっかり出来上がる。ドルチェに桜桃をサービスで頂戴した後、奥さんにお勘定を告げる。大将には「おまえ、夜は何処へ行く積もりだ?」と聞かれたが、もう僕としてはこれで大満足だな。



 翌朝も遅目に起床し、JRで福島駅へ向かう。なんとなく福島の街中をブラブラしてから、市内循環バスで音楽堂へ向かう。適当な停留所で降りて歩いていると、小学校と向かい合わせにある保育所に、放射線量計を見掛ける。毎時0.23マイクロシーベルトって事は、ほぼ年間1ミリシーベルトか。保育所の校庭ではあるし、除染は徹底している筈で、それでこの数値は高いよな…。少なくとも幼い子供を、のびのびと遊ばせる環境ではない。何故、福島でこんな不条理な状況の続くのか、遣り切れない思いは募る。



 最近、僕は声高な原発即時全廃の主張を耳にすると、言いようの無い違和感を覚える。勿論、福島の現状を考えれば、活断層の真上に鎮座する原発を動かす等、言語道断と思う。だが、ヒステリックな原発全廃の主張は、岩手や宮城の瓦礫処理の受け入れ反対運動や、福島県産品の全面拒否と表裏一体になっているように思う。原発廃止への世論の高まりは、福島への風評被害と連動するのではないか、そんな不安に駆られる。政府と東電による全面的な情報公開と、それを叩き台とした冷静な議論の深まり、今はそれが切に望まれる。そのような過程を踏んだ上での結論が、原発の段階的な全廃であれば、僕は諸手を挙げて賛成したい。

橘高校合唱団第10回定期演奏会

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<旧県立福島女子高校通算第54回定期演奏会>
2012年7月24日(火)18:00/福島市音楽堂

指揮/大竹隆
ピアノ/鈴木あずさ
福島県立橘高校合唱団

ビュセール「Trois antienns a la Sainte Vierge Marie」
(聖母マリアのための三つのアンティフォナ)
ヴェルディ「Laudi alla Vergine Maria 聖母マリアへの賛歌」(聖歌四編)
コチャール「Assumpta est Maria マリア被昇天」
源田俊一郎編曲「ふるさとの四季」(OB・OG合同)
ミュージカル「天使にラブソングを…」
千原英喜「明日へ続く道」(平成24年度NHK全国学校音楽コンクール課題曲)
鈴木輝昭「血-腕(女に第1集)/終の日のわたしを焼く…(火へのオード)」
新実徳英「天使」(やさしい魚)


 安積黎明の地元の郡山文化センターは、今年の三月に再開へ漕ぎ着けたが、橘が毎年定演を行っている県文化センターは復旧の遅れ、九月まで補修工事に掛かるらしい。福島市音楽堂は音響の良い所為もあって人気の高く、休日のコンサート開催はクジ運次第。福島東は抽選で土曜日を引き当て、安積黎明と開催日が被ってしまい、橘の定演は昨年に続いて平日開催となった。

 毎年、楽しみにしている三善晃作曲の校歌の後、最初のプログラムは“マリア頌歌”。ビュセールと云われても、僕はドビュッシーの連弾曲をオケ版に編曲した人としか知らないが、このモテットは良い曲と思う。アカペラの残響が豊かに鳴り渡る、音楽堂のホール・トーンを生かした選曲で、教会のミサに列席しているような気分に浸れる。生徒さん達もその辺りの機微を心得て、取り分け弱音の響かせ方が上手い。祝祭的なレジーナ・チェリを挟み、前後の二曲との対比も上手に出来た。

 「聖歌四篇」はヴェルディ最晩年の宗教曲集で、最後のオペラとなったファルスタッフと同時期に作曲された、老大家による“白鳥の歌”と呼べるだろうか。その内のスタバート・マーテルとテ・デウムは、レクイエムと同じく演奏会用で管弦楽入りの大曲。アヴェ・マリアと、今日演奏されたイタリア語テキストのラウダがアカペラで、こちらは静かな隠遁生活を送るヴェルディによる、内面的な信仰告白だろうか。心洗われるようなヴェルディと云うのも、何か似合わないけれども。

 演奏は指揮者が曲を大掴みにした中で、テンポとダイナミズムを自在に転がし、柔らかいロマンティシズムを充全に表現する。その直後にコチャ−ルを聴かされると、何だか品の無い音楽だなぁと感じるのは、まあ致し方の無い処か。

 唱歌メドレーの「ふるさとの四季」は、22名と多数の新入生を迎え、今年度45名の布陣となった現役に、20名程のOGを加えての演奏。あくまでレガ−トを基本とし、上昇音型はクレシェンド、下降音型はディミヌェントするシンプルな音楽作りで、リズムは立てても極端には走らず、邦楽的な後押しする弾み方がある。指揮者の爽やかなテンペラメントと、合唱団の自発性とが渾然一体となり、唱歌・童謡の素朴な歌心を表現する。この演奏は難しく考える事など何も無い。若い女性が浴衣姿で勢揃いする華やかさと、ひたすらに美しい響きを堪能すれば良いだけだ。顧問教諭の中年体形も浴衣姿にフィットしていた。

 毎年お馴染みの学芸会ミュージカルは、例年と比してコーラスの仕事量の多く、喋る量の少ないのを評価したい。お遊戯の振付けも上手に出来たし、何より自発的なノリの良さがあって、歌声に生彩の感じられるのが良かった。土曜日から数えると、僕の観る学芸会も四つ目だが、今日はソコソコ楽しめた。マリア頌歌の宗教曲集に合わせ、「サルヴェ・レジーナ」なのも気が利いている。

 最後はコンクール曲の演奏。Nコン課題曲の千原は、アチェルラントで畳み掛ける際の迫力や、フォルテシモでの声の輝き等で聴かせる。「女に」は熱演だが、フォルテもピアニシモも同じテンションの続くのが、聴いていて辛い処だ。合唱連盟の方の課題曲は新実徳英で、デュナーミクの工夫は本当にさり気なく、センシティブな感受性で聴かせる。「火へのオード」はスピントするフォルテシモに、鋭さでは無く柔らかさを感じる。ただ迫力で押すのではない、このお風呂場みたいなホールに声をクリアーに響かせ、対位法的な部分もクッキリと分離して聴かせる。会場に流れる空気へ載せるような、ピアニシモのソット・ヴォーチェも美しく、ハイテンションを続けた後、最後に緩めたのも効果的だった。

 とまあ、例によって小賢しく書き連ねたが、橘の演奏には余り小難しく考えず、その流れに身を任せていれば楽しめる、構えない自然体の美しさがある。安積黎明は今年の定演で、鈴木輝昭の曲集を二つ立て続けに演奏した。何と輝やん八曲連発である。橘は今回、昨年までの委嘱曲「智恵子抄」全曲の舞台初演を見送っていて、これは要するにお腹一杯と云う事らしい。橘の音楽はサラサラと流れ、安積黎明は声の太くなってしまった。

 未だに前任校でのド迫力のイメージの抜け切らない(あの「殺生石」は俺、夢でうなされたぞ)、橘の大竹教諭が実は草食系で、優男然とした見掛けによらず、安積黎明の宍戸教諭は肉食系であると、そろそろ結論を出しても良い時期かと思われる。

プッチーニ「トスカ」

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<佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ2012>
2012年7月28日(土)14:00/兵庫県立芸術文化センター

指揮/佐渡裕
兵庫芸術文化センター管弦楽団
ひょうごプロデュースオペラ合唱団
オープニング記念第九合唱団
宝塚少年少女合唱団
ダンスオブハーツ

演出/ダニエレ・アバド
美術・衣裳/ルイジ・ペレゴ
照明/ヴァレリオ・アルフィエリ

<Bキャスト>
トスカ/並河寿美
カヴァラドッシ/福井敬
スカルピア男爵/斉木健詞
政治犯アンジェロッティ/大沼徹
密偵スポレッタ/西村悟
憲兵シャルローネ/町英和
堂守/森雅史
看守/大山大輔
牧童/佐野晶哉


 プレミエを終えれば梅雨は明け、僕は福島へ出掛けて、戻って来れば「トスカ」も千秋楽である。今日の日本人キャストはご贔屓の並河さんがタイトル・ロールで、どちらかと云えば僕は外人さん組より、こちらを楽しみにしていた。

 オペラの始まると直ぐに、このオケは十日前とは別物じゃんか、と驚いた次第。芸文オケは三年で年季の明け、順次退職して入れ替わり、また一から作り上げる学生オケのようなものだ。従って初日と楽日で、仕上がりに大きな差の出る事のあるのは、重々承知していた。それにしても、これは呆気に取られる程の落差で、実にオケには豊麗な響きのあると云っても、過言ではなかろうと思う。

 プッチーニのフレージング、息遣いを体得するのにも、指揮者の要求に応えるのにも、この若いオケは時間を必要とする。しかし、仮初めにもオケピットに入るプロであれば、それは最初から達成すべき目標だろう。リハーサルの時間は充分なのか、それとも本番の経験無しでは進歩しないのか。どちらにせよ、何かと言い訳の必要となるオケではある。

 でも、やはり「トスカ」は歌手の出来次第。カヴァラドッシは先太りの発声法と、切り刻むようなフレージングの、毎度お馴染み福井節で歌い上げる。このスタイルはタンホイザーとかには違和感のあっても、プッチーニには合っている。何時もながらのデカイ声で、今日も相方のトスカと大声合戦を繰り広げ、対する並河さんも互角の勝負を挑んでいた。

 だが、今日のトスカのアルトっぽい音色は、プッチーニのメタリックな音楽に、今ひとつ合わない気もする。やはり並河さんの本領は、ヴェルディの切々とした情感に溢れる音楽にあると思う。今や兵庫芸文のプリ・マドンナと云うべき、並河さんの“歌に生き恋に生き”は、当然のように素晴らしかったけれども。

 斉木の悪役声はスカルピアにハマるが、音色の変化の無いので、役作りに奥行きの感じられない。もう一工夫の無いと、このままでは単純な悪党にしか見えない。バスとしては若手の斉木は今回、抜擢と云って良いと思うが、今日は二幕の最後の方で声が完全にヘタり、全く歌えなくなった。何とか最後まで持たせようとするが、出ないものは致し方も無い。ソプラノやテノールの高音歌手なら、僕も何度か見た事のあるが低音のバス歌手で、ここまで完璧に出なくなるのは珍しい。

 ほぼ若手で固めた今日の脇役陣は、大沼徹も森雅史も前途有望な才能ある歌手で、何れも立派な演唱と思う。だが、例えば堂守は味わいあるベテランの歌うべきで、若手に任せる役ではない。むしろ森には主役を与えるべきで、彼にスカルピアを任せる事に何か不都合のあるのか知らないが、僕は充分な器の持ち主と考える。牧童の歌をボーイ・ソプラノに委ねた点は、佐渡を評価したい。彼は京都市少年合唱団出身なので、その辺りの意味は心得ているのだろう。

 カーテン・コールで斉木は野次り倒されるかと思ったが、少なくとも僕の耳には届かなかった。その代わりに“ブラーヴォ!”とプリントされた、A3大の用紙を掲げている人達を、そこかしこに見掛けた。新国立劇場に多い、野太いダミ声でブラボーを連呼する輩は顰蹙だし、これは「細雪」の舞台となった阪神間に相応しい上品な試みと思う。ただ、今日のような明らかに非難の対象とすべき出演者も居る訳で、これに対応する“ブー”の用紙の準備もお願いしたい処だ。

京都市交響楽団第560回定期演奏会

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2012年8月12日(日)14:30/京都コンサートホール

指揮/井上道義
ピアノ・デュオ/瀬尾久仁&加藤真一郎
ソプラノ/谷村由美子
京都市交響楽団
京響コーラス

ガーシュウィン「パリのアメリカ人」
プーランク「二台のピアノと管弦楽のための協奏曲/スターバト・マーテル」


 お盆前の日曜日、京都まで京響定期を聴きに出掛けた。定期での声楽入り大曲(第九を除けば)は、昨夏に大野和士の振ったマーラーの三番以来で、指揮は元常任の井上ミッキー。真夏の八月に、オケ定期の行われるのは珍しい気のするが、今日はプーランクとガーシュインのフランス・プロで、如何にも涼し気な選曲である。

 最初のガーシュウィンは井上好みなのか、クラクションへのキューの出し方等、何時も通りのミッキー・アクションで、このテの曲をやらせると、さすがに盛り上げてくれて楽しい演奏だった。だが、それに引き換えオケのメンバーの、皆しかめっ面なのが気になる。それなりにスィングはしているし、弦楽はタップリ弾かせて貰ってノリは悪くないのだが、どうも管楽器がマジメで大人しい。この曲はジャズなのだから、ソロを取る奏者は勢い良く立ち上がり、吹いて欲しい位のものだ。

 それでも後半テンポ・アップすると、ようやくメンバーの身体も揺れ出したが、これではエンジンの掛かりが遅過ぎる。プロオケの奏者は往々にして、いきなりは曲に入り込まず、お互いの様子を窺う傾向がある。だが、ここはパフォーマンスの積もりで、最初から思い切り飛ばして欲しかった。

 二台ピアノのセッティングの為、暫時休憩に入る。幕間を利用して出たがり、喋りたがりのミッキーが舞台に登場、曲目の解説など行う。次の休憩には出て来ないと言い、「スタバート・マーテル」の話等もした。

 僕にピアノ・デュオの上手い下手は良く分からないが、このコンビはリズム感に秀でていて、それが必要条件なのだろうと云う見当は付く。一楽章は切れ味鋭く乾いた音で進め、最後はミニマム音楽みたいな響きがあり、二楽章ではソナチネ風のピアノと映画音楽風のオケとの対比がある。でも結局、三楽章に至っても僕のイメージするプーランクらしい音楽にはならず、ストラヴィンスキーでも聴いているような気分の内に終わる。まだ若い二人のソリストには、エスプリ表現まで手の回らない様子があった。

 二台ピアノお片付けの休憩後、メイン・プロの「スタバート・マーテル」。棒を持たず指揮する井上には、プーランクの奥底にある非情な冷たさを感じさせない、暖かいニュアンスに満ちた柔らかい音楽作りがある。昼下がりの軽妙洒脱に走るのではない、ヒューマニスティックな演奏と感じる。これを意外と言っては失礼だが、おちゃらけ好きな井上ミッキーにも、真摯に音楽と向き合う姿勢のあるのは当然だろう。

 アマチュアの京響コーラスは、55名のメンバーに12名のプロトラを加え、取り分けバス・パートは七名の内の五名がエキストラでの演奏。トラを含めた全員が暗譜で、なかなか気合の入っている様子は窺える。だが、37名の内に二名しかトラの居ない女声は、音程の怪しい上にオバサン声。パート内部の揃わず、結構個々の声の聴こえて来て、プーランクに必要とされる透明感が無い。でも、平均年齢の高そうな割に、指揮者の要請に応えるフレキシビリティは保っていて、そんなに悪い出来でもない。只まあ男女共に、ガツンとフォルテを張るだけの声の力は無く、オケに支えて貰っている感じで、かなり頼り無さそうではある。

 ソリストの谷村には声量があり、オペラっぽく表現力を前に押し出す歌い振り。冷涼な音色ではなく、暖かい色合いのある声質で、恐らくは指揮者の音楽作りに合わせた人選だろう。彼女が上賀茂生まれで、京都市少年合唱団出身(佐渡裕の後輩だね)だからと云うのが、理由ではなかろうと思う。谷村の歌う「Vidit suum dulcem Natum」を聴き、僕はオペラ「カルメル会修道女の対話」のブランシェを思い起こす。今日、生演奏で初めて聴く「スタバート・マーテル」には、あの峻厳な音楽に対応するものがあると実感させられた。

 井上ミッキーのデビュー当時、彼は何分にもハーフで彫りの深い顔立ちだし、頭髪の薄いのには相当な違和感のあったが、今現在は年齢相応で禿げ頭が馴染んで見える。そして風貌と共に、その音楽性も相応の深みを加えていると、今日の演奏を聴いて知らされた。その踊る指揮姿は何も変わらないだけに、僕としては些かの感慨を覚えるのだ。

高松第一高校合唱部第36回定期演奏会

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<創部六十周年記念定演>
2012年8月17日(金)18:30/サンポートホール高松

指揮/大山晃
生徒指揮/白井沙耶
ソプラノ/谷さおり
クラリネット/石川幸司
ヴァイオリン/大矢祐歌
ピアノ/松野眞理子/岡田知子/岡橋直樹
高松第一高校合唱部


伝パーセル「狩人アレン」
林光「鳥のように栗鼠のように/グランド電柱/岩手軽便鉄道の一月/
海だべがど/ポラーノ広場の歌」
松下耕「はらへたまってゆくかなしみ」(秋の瞳)
木下牧子「もぐら/鹿」(光る刻)
瑞慶覧尚子「無門」(約束)
三善晃「動物詩集(全3曲)/砂時計/どんぐりのコマ(五つの童画)」
千原英喜「明日へ続く道」(平成24年度NHK全国学校音楽コンクール課題曲)
大山晃編曲「波乗りジョニー/花の名/演歌メドレー冬景色/桜の木になろう」
久石譲編曲「宇宙戦艦ヤマト・新たなる旅立ち」(OB合同)


 勤め先をお昼過ぎに抜け出し、青春18切符で西へ向かう。高松市内で午後も遅い時間となれば、大抵のうどん屋は店仕舞いしている。香川県民はうどんを朝か昼にしか食わず、夜は普通のご飯を頂くものらしい。「さぬきうどん全店制覇攻略本」(そんな分厚い冊子が、主に県内向けに出版されている)で検討した結果、琴電花園駅近くにある午後六時まで営業、釜揚げうどん専門店の「うどんバカ一代」に赴く。

 香川で釜揚げうどんと云えば、満濃町の長田や屋島のわら家等の有名店がある。まだ、讃岐うどんブームなど影も形も無い昔から、地元民に愛されている老舗うどん食堂だ。製麺所で玉買いし、家に持ち帰り食うのが讃岐うどん本来の習俗(業界用語で云う処の“中食”)なら、持ち帰って食う訳に行かない釜揚げうどんが、うどん専門食堂の売り物となるのは、ごく自然な流れだろう。昔はハレの日の食事だった讃岐うどんも日常食となり、外食の当たり前となった今、高松の街中で朝六時から夕方六時まで一日中、常に釜揚げうどんを供する店の現れるのも、時代の変遷と云うものだろう。

 さて、うどんを食べ終えれば、後は開演時間を待つのみ。それでは高松一高のコンサートの話に移ります。

 まず、今年亡くなった林光氏の追悼プログラムとして、宮澤賢治の詩に附された曲を集め演奏する。コンクール課題曲に選ばれた一曲目を除き、後は全て独唱用に作曲された“ソング”の編曲版。林光が自作歌曲を“ソング”と呼ぶのは、演奏に際する歌い崩しや地声唱法、更に移調や伴奏楽器の変更等も容認する、リートでは無いがボップスとも違う、独自ジャンルとしての自負らしい。

 演奏は女声のソット・ヴォーチェが抜群に美しく、スタッカートやテヌートを気持ち良い程にピタリと揃える。「鳥のように栗鼠のように」では、中間部での下降音形をお洒落に光らせる、都会的にスマートな音楽作りがある。「グランド電柱」のピアノ、ヴァイオリン、クラリネットの伴奏はオリジナル編成だが、これを本来はアコーディオンとリコーダー二本の伴奏の付く、「岩手軽便鉄道の一月」にも使い回す。何れの曲にも親しみ易い旋律のあり、大した内容のある訳では無いが、ピリリとワサビの効いた曲を、トリオの伴奏もお洒落に支える。「ポラーノの広場のうた」のピアノ後奏に、“星めぐりの歌”の旋律がチラリと出て来て、これは作曲者本人に拠ると、「宮沢賢治のサインをここにもらった」のだそうだ。

 次は今年度コンクール曲。まず九名の男声合唱は、ベースの二人に低音の出せるので、一応の形にはなっているし、表現意欲らしきものも伝わるが、残念ながら曲の内容を示すまでには至らない。女声合唱で自由曲に取り上げた三善晃は、現在のコンクール規定で三曲全てを演奏する試みは初めてとの事。でも、それならば「子猫のピッチ」辺り、ウサイン・ボルトが世界記録を狙う如く、速度の限界へ挑戦すべきと思う。今日のテンポでは遅過ぎる。

 林光にはフィットする一高の淡彩な音色だが、三善晃では更に濃厚なハーモニーも望まれる。それを補う為にも、「ひとこぶらくだのブルース」では、もっと盛大にルバートすべきだし、「ゴリラのジジ」には更にアザトいデュナーミクの必要。何れにせよダイナミク・レンジの狭いのが、表現の幅をも狭めている。これは何時も思うのだが、マエストロの指揮姿だけを見ていると、何故もっと濃厚な演奏にならないのか不思議だ。

 混声合唱での男女比のバランスは悪くとも、男声に余り無理をさせず、聴こえるか聴こえない程度に声を出させ、美しいハーモニーを作っている。「五つの童画」は構築的と云うよりインチメイトな演奏だが、これは声の音色が高低の音域で全く変化しないので、どうしてもそうなってしまう。音量的にフォルテシモでも、そうは聴こえず、所要の効果を得られていない。

 休憩後は“創部60周年特別企画”と題し、元顧問二人の指揮でOB単独演奏の筈が、急な体調不良で竹内肇先生が降板。下振りらしき女性がメンデルスゾーンを指揮した。「わが里程標」は予定通り、木村明昭先生の指揮だったが、これは指揮にコーラスの合わせているのか、コーラスに指揮の合わせているのか、僕は見ていて良く分からなかった。高齢の指揮者には有り勝ちな話だが、多分聞こえていないのだと思う。

 現役の演奏に戻り、顧問編曲による“四季のヒット曲集”。歌謡曲アレンジを高校生の唱うのを聴いていると、ひたすらに声を合わせるのが楽しかった、自分の若い頃を思い出す。女声は縦横を揃え、気持ち良く歌えているが、演歌メドレーもアッケラカンとして情感と云うものが無く、それに比べて男声には、演歌っぽい表現意欲のあるのは面白い。余り作為の感じられない顧問教諭の指揮も、当たり前の話ではあるが、キチンと工夫されていると気付く。でも、何れにせよ声にフィジカルな力の無いので、聴いていて快感とまでは行かない。しかし、こうして淡々と歌謡曲の演奏の続くと、喋ってばかりで歌わない学芸会も困るが、全く何もしないのも物足りなく感じるものだ。

 最後はOBを加え、総勢百人近い大合同で「宇宙戦艦ヤマト」だが、このお盆企画も立ったまま歌うのみでは、やや寂しい。ただ、この帰省OBによる演奏では、やはり表現意欲を前に出す男声と、ひたすら綺麗に揃える女声とで、現役と傾向の同じなのは興味深かった。

 以前と比べ人数の減った一高だが、大人数の頃と同じ音楽作りでは、演奏のスケール自体小さくなってしまうように感じる。やはり人数の多少により、音楽を作り込む術も変わるものと、僕は考える。人数の多ければ誤魔化せるアラも、少人数では顕わとなる局面もある。今後の一高には、より緻密なハーモニーの求められるように思う。

 さて、今夜は高松泊りだが、明日は早起き出来れば郊外の製麺所、遅くに目覚めれば市街地の食堂で、うどんを食おうと思う。僕のような県外の人間にも異常に感じられた讃岐うどんブームも、最近は漸く落ち着き始めたようで、明日はのんびり楽しめそうだ。

オネゲル「火刑台上のジャンヌ・ダルク」

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<サイトウ・キネン・フェスティバル松本2012>
2012年8月29日(水)19:00/まつもと市民芸術館

指揮/山田和樹
サイトウ・キネン・オーケストラ
栗友会合唱団
SKF松本合唱団
SKF松本児童合唱団

演出/コム・ドゥ・ベルシーズ
美術/シゴレーヌ・ドゥ・シャシィ
照明/齋藤茂男
衣装/コロンブ・ロリオ・プレヴォ

ジャンヌ・ダルク/イザベル・カラヤン
修道士ドミニク/エリック・ジェノヴェーズ
聖処女/藤谷佳奈枝
マルグリット/シモーネ・オズボーン
カトリーヌ/ジュリー・ブリアンヌ
豚の裁判長/トーマス・ブロンデル
布告人/ニコラ・テステ
語り手/クリスチャン・ゴノン


 昨年のサイトウ・キネン、小澤征爾はバルトーク二本立ての内「青髭公の城」を振る予定が、体調不良で初日と千秋楽のみの出演となった。今年に入ってからは肺炎で入院、小澤征爾音楽塾「蝶々夫人」でもドタキャン騒ぎを起こしたのは、皆様ご承知の通りである。しかし、小澤のようにアグレッシブな人物が、自分の遣りたい事を何も出来ず、永らえても不本意だろう。今更の如く、他に手立ては無かったのかと言っても、それは取り返しの付かない問い掛けでしかないけれども。

 小澤不在のまま季節は巡り、サイトウ・キネンは今年も粛々と開催される。松本は酒を美味しく呑める良い街で、そこでオペラの行われるのなら、僕はそれを楽しみに出掛ける。「ジャンヌ・ダルク」はサイトウ・キネン二年目の演目で、19年振りの上演。僕はヴィデオで観るのみだが、感動的な上演だったと思う。今回の指揮者は、童顔年齢不詳の山田和樹で、僕は初めてその演奏に接する。

 開演前の塩尻ワインの振る舞いも、ピアノ・ソロによるロビー・コンサートも例年通り。客席でオペラの開幕を待つ、観客の昂揚感にも何も変わりは無い。今回の「ジャンヌ・ダルク」三公演の内、二公演が日曜開催で、今日は唯一の平日公演。僕の座る天井桟敷から見下ろすと、平土間は八分通りの入りだが、二階席から上は空席が目立つ。けれども松本のような地方都市で、オネゲルの三回公演を行ってこの客入りは、熱心な常連の定着を証しているように思う。

 今日の舞台はオケピットの周囲に場を設える、宝塚歌劇で云う処の銀橋方式で、俳優と歌手はここで演唱する。本来の舞台上には三階建の食器棚みたいなセットがあり、コーラスはここに横並びに立ち、ただ歌うだけで演技と呼べるような仕草は何も無い。この演出コンセプトは、オペラではなくオラトリオのスタイルのように感じる。

 “ドラマティック・オラトリオ”と銘打たれた曲だし、それで構わないかと云えば、然に非ず。ポール・クローデルの台本は、火刑台上のジャンヌが一瞬の内に生涯を回想する劇詩で、場面は次々クルクルと転換する。お話しの展開は分かり難く、明確に視覚化して貰わないと、頭の中の整理出来ていない、僕等は尾いて行き難い。フランス人なら、ジャンヌの様々なエピソードも常識の範疇だろうが、日本人の観客には生涯のダイジェスト版として、キチンとした説明の欲しい処だ。作曲者のオネゲルも言明している通り、良く出来た台本なので、お話の筋をキチンと観せるのは演出家の責務と思う。

 それに単純な話、豚の異端審問や王様のトランプ・ゲーム等、演出家として美味しい場面の筈だ。そこを素通りとまでは言わないが、大した工夫も無しに遣り過ごすのでは、怠慢の誹りすら招きかねない。この二つの場面はコメディ・リリーフとして、もっと大いにハジけるべき。そうで無いと元来が暗いお話しだし、ジャンヌの物語は陰々滅々と進行して、メリハリと云うものが付かない。酒樽小母さんと石臼親爺の邂逅の場面を、語り手のナレーションで済ませ、視覚化しなかったのも気になる。このフランス統一を象徴する場面の無いと、シャルル七世が戴冠式の為、ランスへ向かう場面との繋がりも分かり難くなる。

 一見、大掛かりな舞台のようだが、小澤不在の影響か予算削減の気配も漂う、これは演奏会形式に毛の生えた程度の演出と思う。オペラとして舞台上演するのなら、ジャンヌの生涯をキチンと説明する。それが出来ないならばオラトリオとして、演奏会形式でやった方が良いように思う。

 予算の潤沢かどうかは知らないが、サイトウ・キネンでは一声しか発しない端役に至るまで、海外から歌手を招聘している。この曲ようなフランス語テキストの場合、まともなアリアのあるのは女声三人だけであっても、歌手にフランス人、若しくはフランス系を起用するのに充分な意味はある。その中で、最も長いアリアを歌う聖処女マリアに、小澤征爾音楽塾出身の若手・藤谷佳奈枝の起用されたのは大抜擢で、サプライズ人事と云えそうだ。その藤谷はリリックな声で、自分の持ち場を立派に歌い切った。ただ、この人で良いのなら、他もテキトーな配役で良いような気はするけれども…。

 国内でオペラを振るのは初めての山田は、端正な指揮でキチンと各場面を振り分けたが、やや優等生的な演奏で今ひとつ、音楽に入り込んでいない印象を受ける。だが、今回のプロダクションの最大の問題点は、演出にも指揮にも無く、主役のジャンヌ・ダルクに尽きると思う。

 主役だが歌わない役回りで、これまで僕はその重要性をキチンと認識出来ていなかったと、今日は気付かされた。17歳で殉教する乙女の役に、野太い嗄がれ声で科白を喋られたのでは、全くサマにならないのだ。曲の大詰めでトリマゾを口ずさみ、いよいよ火刑台へ進む場面で塩辛い声を聴かされれば、実際の話それだけでゲンナリする。その女優さんは、小澤が口癖のように言う“カラヤン先生”の娘である。恩師の親族の起用に拘って演奏効果は二の次に回す、例によって例の如き、小澤の一人合点に拠るゴリ押しである。

 この役は本来、透明清澄な声でなければ務まらない。カラヤンの生前、娘とオネゲルで共演する話はあったようだが、実現はしていない。誰よりも自分の大好きなカラヤン先生は、娘との共演より演奏の成否を気にしたのだろうか。勿論、そんな憶測に何の根拠も無いが、少なくとも代役に立った山田の、望んで起用したキャストで無い事だけは確かだろう。 

武満徹メモリアルコンサートXVII

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<サイトウ・キネン・フェスティバル松本2012>
2012年8月30日(木)19:00/長野県松本文化会館

武満徹「アントゥル=タン/そして、それが風であることを知った/
秋庭歌一具(全6曲)〜参音聲/吹渡/塩梅/秋庭歌/吹渡の二段/退出音聲」

オーボエ/フィリップ・トーンドゥル
フルート/ジャック・ズーン
ハープ/吉野直子
ヴァイオリン/井上静香/双紙正哉
ヴィオラ/柳瀬省太/川本嘉子
チェロ/イズー・シュア
雅楽/伶楽舎(芝祐靖音楽監督)


 サイトウ・キネンは今年20周年を迎えたが、武満メモリアルの方は17回目だそうで、僕は毎年やっていると思い込んでいたが、そうでもないらしいとは始めて知った。武満の室内楽なら常に、日程さえ合えば聴きたいと思っている。これまで会場に使われていた松本市ザ・ハーモニーホールは、公園内の緑に囲まれ、音楽の演奏と鑑賞に相応しい立地にある。今年、県文化会館で行われるのは少し残念だが、その代わり今回はオール・タケミツ・プロで、今日はジックリその音楽に浸ろうと思う。

 前半のプログラムは一般的な編成で、86年作曲のオーボエ・カルテット「アントゥル=タン」と、ドビュッシーのソナタ編成に倣った92年作曲、フルートとヴィオラ、ハープのトリオによる「そして、それが風であることを知った」の二曲。オーボエ・カルテットでは、管と弦の掛け合いの続いた後、長調の三和音で締め括られる。トリオ曲はハープが割りに普通にアルペッジョを弾く上を、特殊奏法テンコ盛りのヴィオラとフルートが、ポリフォニックに旋律を絡ませて、如何にも武満らしい響きがある。

 この二曲を続けて聴けば、削ぎ落とされて肉厚な響きの無い、“タケミツ・トーン”を堪能出来る。毎度お馴染みで、何時まで経っても同じような曲想の続くが、その中で曲による違いを聴き分ける、武満にはそんな楽しみもある。現代音楽のコンサートに、オール・タケミツ・プロの多いのは、そんな処にも理由のある気がする。

 フルートのズーンはサイトウ・キネンの常連奏者で、小澤にロイヤル・コンセルトヘボウ管から引き抜かれ、ボストン響で首席を務めた人らしい。以前に聴いた際も木製楽器を吹いていたし、しかもフランス・ブリュッヘンと同郷のオランダ人だが、別に古楽志向のある訳でもないらしい。それにしてもハープの吉野さんは、デビュー当時から容姿の変わらない方だが、川本さんの益々貫禄を増されたのには、何だか感慨を覚える程だ。

 休憩中、後半に登場する雅楽団体の為、舞台上ではセッティングの行われるが、これが何だか随分と物々しい。僕は雅楽なんて実際に聴くのは初めてだし、良く分からないけれども、これも一種のショー・タイムのように感じる程、準備に手間の掛かる様子だ。

 セッティングを終えた処で伶楽舎ご一行、総勢三十名様が静々と登場する。この方々、そもそも出で立ち装束からして物々しく、使う楽器も何やらコテコテの装飾満載で、既に音を出す前からパフォーマンスの始まっているように思う。客演奏者の中に鞨鼓の担当として、山口恭範の名のあるのが目を引く。武満は打楽器の為の曲を沢山作っており、その内の「雨の樹」や「雨の呪文」、「クロス・ハッチ」等の初演を手掛けた、山口は謂わばスペシャリストで、雅楽や邦楽との共演も多いようだ。

 楽人の配置は舞台中央に「秋庭歌」として、龍笛の芝祐靖音楽監督以下九名が陣取り、舞台後方と両袖には、それぞれ「木魂」として三つのグループが配置される。山口恭範はエライ派手な装飾の施された鞨鼓を前にして、笙の人気奏者である宮田まゆみと共に、「秋庭歌」に座っている。

 演奏に付いて、僕に何か語る能力等ある訳も無いが、まあ「秋庭歌」の主導して「木魂」が応唱し、四グループのユニゾンがポリフォニックに展開する、曲の狙い程度は分かる。本物を聴いた事の無いし、比較の仕様も無いが、この曲が雅楽の語法に則って作曲されているのなら、こりゃ武満の語法そのままじゃんかと感じる。

 パーカッションに後押しのリズム感のあって、邦楽風に作られているし、ポツンポツンと叩くリズムを少しズラすのも、如何にもタケミツっぽい。琵琶と筝は和音担当でアクセントを付け、笙は高音部を、篳篥の小さいのは低音部を担当し、音色に変化を付ける。トゥッティでのフォルテシモの音量はデカく、フルオケっぽい感じもする。衣装も楽器も舞台装置も凝っていて、ライブを観る楽しみはあるが、全曲演奏に小一時間も掛かる大曲で、タケミツでお腹一杯となり、少し長過ぎるんじゃないかとも思う。

 笙の奏者が唾抜き用に、黒塗りの専用お鉢を傍らに置いているのは、実に奥床しくて良いと思う。クラシックの金管奏者どもが、唾を抜いてそこらにぶちまけ、周辺の床の濡れるのを見るのは、誰にしたって気色の良いもんじゃありませんわな。

 今回、ロビーでの振舞い酒は、サイトウ・キネン・オリジナル菰樽入りの“大雪渓”。大雪渓って松本市内のスーパーマーケットを回ると、普通酒生酒を良く見掛ける、生酒に力を入れている蔵のようだ。僕はスーパーでは買わず、管理の行き届いた専門店で買って呑んだけれども、なかなか美味しい酒だった。勿論、樽には火入れ酒を詰めているだろうが、これもまずまず美味しく頂けました。

クセナキス「オレステイア」

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<サマーフェステヴァル25周年記念/プレミエ即千秋楽>
2012年8月31日(金)19:00/サントリーホール

指揮/山田和樹
カッサンドラ&アテナ女神/松平敬
パーカッション/池上英樹
東京シンフォニエッタ
東京混声合唱団
東京少年少女合唱隊

ラ・フラ・デルス・バウス
演出/カルルス・パドリッサ
美術/ローラン・オルベター
照明/カルロス・リグアス
衣装/チュー・ウロス
映像/ヴェラヨ・メンデス/ロマン・トーレ


 松本から普通電車にゴトゴト揺られ、東京へ向かう。別にクセナキスに思い入れのある訳ではないが、今回の一度切りのオペラ公演の演出に、スペイン・カタルーニャのパフォーマンス集団、ラ・フラ・デルス・バウスの起用されると知り、これを観なければ後悔しそうと思った。

 僕がラ・フラ・デルス・バウスの舞台を観たのは四年前、パリ・オペラ座日本公演でのヤナーチェクとバルトーク二本立て公演だった。お話の絵解きはせず、ハッタリや衒いも多いが、前衛的でアイデアの豊富な、観客の興味を逸らさない演出と感じた。ラ・フラ・デルス・バウスは大道芸から出発し、バルセロナ・オリンピック開会式の演出で、国際的に名を揚げたアート・カンパニーで、オペラ上演も多く手掛けるが、その活動分野は多岐に亘っている。

 近年の代表的な活動として、廃棄寸前のノルウェーの砕氷船を買い取り、“NAUMON”と称する動くカルチャーセンターに仕立て、船上でモンテヴェルディ「オルフェオ」の上演を行っている。愛知万博ではカフカ「変身」を演劇として上演し、ソウルではサーカス風の空中曲芸と花火等を組み合わせた、大掛かりな街頭パフォーマンス「レインボー・ドロップス」を手掛けている。ラ・フラ・デルス・バウスは演劇やオペラにサーカスやダンス、企業イヴェントにデジタル・シアターや映画撮影、大道芸に講演会等、誠に多彩なイベントを行う、才気煥発を絵に描いたようなアーティスト集団のようだ。

 開演前、サントリーホールの舞台上には、二本の長いアームを伸ばした、クレーンみたいに巨大なセットが置いてある。見た目はメカニックで、あちこち尖って突き出ているし、ガンダムみたいな外見だが、プログラムの演出ノートに拠ると、鳥の止まって歌うメタファーとしての樹木だそうである。このオペラは一幕三場の構成で、今日は途中休憩を入れず、最後まで一気に上演する

 18名の男声合唱によるコロスと、バリトン・ソロとの掛け合いで、オペラのプロローグが始まる。僕の座る舞台横のバルコニー席へ松平敬が現れ、目の前で長老のソロを歌い出す。その旋律は民謡風で、僕には普通の歌に聴こえるし、世間並みのオペラの始まったように感じるが、これは素朴そうに聴こえるだけで、実は四分音程(半音の半分)を含む、演奏困難なシロモノらしい。

 第一場の「アガムメノン」に入ると、二階席後方にアガムメノンとカッサンドラが現れ、コチョコチョと芝居しながらバルコニー席を回り込み、オルガン席まで到達する。ここで松平の一人二役、ファルセットで預言者カッサンドラを、地声でコロスの長老とを交互に歌う、カッサンドラのアリアが始まる。この場面、パーカッションとのデュオで演奏されるが、ここで盛大にPAの使用されたのに首を傾げる。松平の声にPAを使うのは、演奏困難な曲だけに致し方無いと思うが、打楽器の音まで拡声する理由は不明である。演奏自体もリズムに鋭さの感じられず大味で、PAはそれを増幅するようにも感じた。

 第二場「供養するものたち」で、オレステス役の男声とエレクトラ役の女声、それぞれ三名づつがセットの木に攀じ登り、三十名の混声コロスとの掛け合いとなる。姉弟による母クリュタイメストラと、その愛人アイギストスの惨殺劇は、平土間の客席通路で行われる。この場面は器楽伴奏付きのパントマイムで、その陰惨を際立たせる。二人の遺骸は舞台上のセリに横たえられ、奈落へ降ろされる。

 第三場「恵み深い女神たち」では、復讐の女神エリニュスの女声が専ら歌い、男声は手に持った鳴り物で演奏に参加する。取り分け、なんじゃアレ?と思って僕の見ていたのがサイレン・ホイッスルで、何だか突拍子も無い音を出す。その他にも正体不明の金属片やら木片やら、取り敢えずの間に合わせみたいな鳴り物の発する、楽音とは異なる音響が渾然一体となり、ホール全体の空気を振動させる。最早、サントリーホールは“ええじゃないか”状態で、僕は呆然としてその音響に身を委ねる。

 アテナ女神のアリアでも、松平はファルセットと地声を往復する超絶技巧を駆使するが、これはカッサンドラのような一人二役ではなく、アテナ女神一人による歌である。パーカッションとのデュオだった、カッサンドラのアリアとは異なり、こちらは東京シンフォニエッタ14名を従えての演奏。このアリアで松平が、セットの樹木の天辺まで登り詰め、しかも立ち上がって歌い出したのには驚かされた。セットの上から下界を睥睨する松平は、頭上にスカイツリーの模型を戴いて、これぞラ・フラ・デルス・バウス演出の、稚気と衒気の真骨頂と思う。

 しかし、これはホント怖そうだし、高所恐怖症には絶対無理だ。手を離して立ち上がるのもそうだが、セットから降りるのは更に怖そうだし…。“阿呆と煙は高い所へ登る”は、子供の囃し言葉だが、そう云えば「消えた男の日記」では、主役が穴ボコに潜り込んでたな。

 物語も大詰めを迎え、最後に児童合唱20名も登場。彼女達(白塗りメイクなので、性別は判然としないが)は舞台の場数を踏んでいるようで、演技面にはセミプロ的な意識の高さがあるようだ。上掲の写真は東京少年少女合唱隊のメンバーによる、開演前ロビーに於けるパフォーマンスで、少女達の本番へ向けた気合も伝わって来る。舞台後方のオルガン席には、白い放射線防護服に身を固めた36名のコロスが陣取っていて、僕は彼等を合唱隊と思い込んでいたのが違った。彼等エキストラは、黒と赤のペンキを順番に手渡しして、白い放射能防護服を汚すパフォーマンスを行った。

 合わせて70名近い出演者が舞台に揃い、鳴り物を手にした奏者も大勢いる上、平土間前方の席に座る客も、事前に渡されたアルミシートを振って演奏に参加、会場内は騒然として祝祭的な雰囲気に包まれる。クセナキスと云えば、ル・コルビュジエの弟子の建築家で、数学理論やコンピュータを使った確率論等、理詰めで作曲した前衛中の前衛、僕にはそんなイメージしかなかった。だが、このオペラ「オレステイア」では、音の坩堝のような、殆どプリミティヴと呼びたくなるような、エネルギーに満ちた音空間が実現し、僕はその渦に巻き込まれ茫然自失の状態となる。

 音楽と演奏は素晴らしく、卓抜した演出にも感銘を受けた。プロジェクターで舞台後方に投射された映像は、日本語も交えた文字の乱舞で、これはパリ・オペラ座の「青髭公の城」でも使われた手法。この映像はアルゴリズムと呼ばれる計算方法により、コンピュータの情報処理で作られていて、どのように仕上がるかは運任せの作品らしい。今回、照明の巧みな使用法も相俟って、クセナキスの音楽に対応する、見事な効果を挙げたと思う。

 一昨日のジャンヌ・ダルクに続き、又もや指揮者は山田和樹だが、この複雑怪奇な曲を良く取り纏め、聴かせてくれたと思う。赤いペンライトを振る副指揮者と共に、青いペンライトでリズムを取る以外、現場ではする事の無い曲ではあったけれども。唯一のソリストだった松平もそうだが、この七面倒な曲を良く歌いこなした、東京混声合唱団の女声メンバーの健闘を称えたいと思う。今回、事前の予想を超え、この難曲を素晴らしい演奏と演出で観る機会を得たのは、僕にとって望外の喜びとなった。

 当然ながらカーテン・コールでは、客席も舞台上も大いに盛り上がる。演出のパドリッサが手持ちのデジカメで、出演者を撮影しながら舞台に上がったのには、山田も大笑いしていた。サイトウ・キネンで日曜日のチケットを取り損ね、クセナキスは序でに見に来た積もりだったが、今日は東京まで出て来て本当に良かったと思う。

ドニゼッティ「ランメルモールのルチア」

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<愛知県文化振興事業団プロデュースオペラ/プレミエ即千秋楽>
2012年9月17日(月)14:00/愛知県芸術劇場

指揮/マッシモ・ザネッティ
名古屋フィルハーモニー交響楽団
AC合唱団

演出/岩田達宗
美術/島次郎
照明/沢田祐二
衣装/前田文子

ルチア/佐藤美枝子
エドガルド/村上敏明
エンリーコ/堀内康雄
牧師ライモンド/伊藤貴之
領主アルトゥーロ/永井秀司
侍女アリーサ/福原寿美枝
隊長ノルマンノ/清水徹太郎


 三連休の最終日、名古屋までオペラ見物に出掛けた。芸術監督を置かない愛知芸劇では、演目やアーティスト起用の責任を誰の負うのか、部外者には良く分からない。去年は「ナブッコ」、来年は「蝶々夫人」だそうで、近年はイタオペばかりだが、これが何方の趣味なのかサッパリ分からないのは、何となく味気無い。

 客電の落ちて辺りの暗くなる寸前、既に指揮者のピットに立っているのが見えた。やがてティンパニーの音が微かに聴こえ、序奏が始まる。公演毎に変わる指揮者には外人さんの起用が多く、これまた何方の人選か不明だが、これまでは大きくハズした事も無いように思う。

 指揮者はリズムを軽やかに弾ませ、でもレガートはあくまで美しく、演奏を切れ味良く進める。前のめりにアチェルラントする、イタオペの基本を的確に捉え、様式に則ってオケをドライブする。どうやら今回も指揮者は当たりを引いたようで、ベルカントの専門家を連れて来たと推察出来る。二幕フィナーレの六重唱の盛り上げ方等、堂に入って見事なもので、さすがにスペシャリストは曲を手の内にしている。オケと指揮者が自らの職責を全うしてくれれば、後は主役歌手の健闘を待つのみである。

 タイトル・ロールの佐藤美枝子は、この役を金看板とするコロラトゥーラ・ソプラノだけに、一体どんな歌を唱ってくれるのか、僕は楽しみにしていた。実際の処、アジリタの技術は評判通り素晴らしいが、一幕では超高音のやや不安定なのと、如何にも声量の無いのが気になる。二幕ではピアニシモの高音をキレイに決め、声量不足と音色の変化に乏しい欠点を補うテクニックで聴かせて、尻上がりに調子を揚げる。皆様お待ち兼ね“狂乱の場”でも、やはりテンションの高い張り詰めたピアニシモと、アジリタの技術は見事だった。ただ、フォルテシモで声を張れず、全体のダイナミク・レンジの狭い為、変化の乏しい歌になるのは物足りない。

 エドガルドは若手テノールの村上敏明。鼻に掛かった、やや詰まり気味の甘い声の持ち主だが、フレーズを立ち上げる際、捏ね繰り回すクセのあるのは感心しない。二幕の劇的展開での早いパッセージなら、変な癖も出ず気持ち良く歌えるが、三幕の長いフレーズでのダイアローグとなると、ポルタメントっぽい音の動きで、清潔感に欠けて終う。そうは云うものの、やはり声に力のあるテノールで情熱的に歌えて、三幕のアリア“祖先の墓よ”には、胸に迫るもののあったと思う。

 “狂乱の場”の後、このテノールのアリアでオペラは幕を降ろすが、これが付け足しっぽくなって終うとは、良く言われる処だ。でも、今日は村上君の熱唱で、この締め括りの必然性を納得させられた。彼にはイタリア的な明るい声質のあるので、今後も色々と聴かせて欲しいと思う。ただ、ドニゼッティやベッリーニを歌うのなら、もう少しベルカントの歌唱様式を研究してから取り組んで頂きたく思う。

 エンリーコはベテランの堀内康雄で、とにかく気持ち良さ気に歌い飛ばす。但し、堀内さんはバスっぽい声なので、もう少し美声のバリトンの方が、ベルカントの役には合うように思う。でも、ノリの良さは充分にベルカントしていて、恐らく堀内さんは、このエンリーコと云う役が好きなのだと思う。

 脇役の四名に付いて、折角アリーサとノルマンノには関西から、実力派の中堅歌手を呼んだのに、後の二人の脇役を地元で調達したのは感心しない。ライモンドは野太い声だし、アルトゥーロも貧相な伸びない声で、しかもA音で声を引っ繰り返らせる始末だった。

 演出は可も無く、不可も無し。まあ、「ルチア」に斬新な演出等、何方も期待しておられないと思うし、そもそもこの“行列の出来る演出家”さんに、鋭い閃きなど端から期待していない。今日はちゃんと作り込まれたセットに、豪華な衣装を着た歌手には、一応それらしい演技もあり、まずは手堅くやって頂けた。暗目の照明の中、コーラスの手に持つロウソクの灯りは、とても美しく効果的だったと思う。ただ、狂乱の場でコーラスの全員がルチアから目を背けて俯く、クサイ演技を施されていたのは、見ていて気恥ずかしいので已めて欲しかった。

 ところで今日はお隣の愛知芸劇コンサートホールで、慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団の名古屋公演があった。指揮者は佐藤正浩だし、これは是非とも聴きたかったが、完全に時間の被っているのでは致し方も無い。しかも考えてみれば、今日のエンリーコは慶応ワグネルのOBなのだ。堀内さんにしても、後輩の演奏は聴きたかったろうと思う。

ドニゼッティ「ランメルモールのルチア」

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<第21回みつなかオペラ〜ドニゼッティ・オペラセリアシリーズ/プレミエ>
2012年9月22日(土)14:00/川西みつなかホール

指揮/牧村邦彦
ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団
みつなかオペラ合唱団

演出/井原広樹
美術/アントニオ・マストロマッテイ
照明/原中治美
衣装/村上まさあき

ルチア/古瀬まきを
エドガルド/清原邦仁
エンリーコ/松澤政也
牧師ライモンド/鈴木健司
領主アルトゥーロ/越野保宏
侍女アリーサ/白石優子
隊長ノルマンノ/小林峻


 川西市民オペラのドニゼッティ・シリーズ、締め括りは「ランメルモールのルチア」で、僕は二週連続の「ルチア」見物となる。川西のオペラは一昨年の「マリア・ストゥアルダ」で初めて観て、大都市近郊ベッド・タウンの自主制作にしては、なかなか力の入った舞台と感心した。昨年の「ラ・ファヴォリータ」は見逃し、僕は今回の二年振りの訪問を楽しみにしていた。

 川西で「ルチア」をやると聞いた時、まず真っ先に一体誰がタイトル・ロールを歌うんだ?と、そこに懸念を抱いた。結局、ダブル・キャストには共に、若手ソプラノの起用されたが、今日歌ってくれた古瀬さんは立派な出来で、事前の不安を杞憂としてくれた。

 彼女は伸びやかなリリコで、暖か味のある声質の持ち主。アジリタも関西レヴェルは軽く凌駕する技術力があるし、今日の出演者の中で彼女だけ、曲想の明暗の転換に対応するデュナーミクを意識していた。この役には必須の超高音も充実して、余裕綽々の歌い振りだった。ただ、高低の音域で音色の変化せず、全体を太い声で通すので、やや聴き疲れする難はある。それと、これだけ歌ってくれると、更にコロコロ声を転がして欲しいなぁと、欲も出て終う。

 指揮とオケも良かった。ブンチャッチャの伴奏のリズムに生気を吹き込む、指揮者にはベルカント・オペラに対する、手練れの経験と技術がある。二幕フィナーレの六重唱等、見事な盛り上げ方だったと思う。まあ、名古屋でのイタリア人指揮者のような、一瞬の閃きとかは無いが、そこまで望むのは酷かも知れない。指揮の牧村は「おまえ、ドニゼッティなんかやっても、指揮しててオモロないやろ」等と、他人に聞かれる事のあるそうだ。それに対し彼は、ワン・パターンなベルカントこそ「歌だ、息だ、そして言葉だ」と言い返すそうである。その意気や善しと言いたい。

 それと、ここ川西の五百席のホールでは、オケが思い切り大きな音を出しても、歌手の声は突き抜けて聴こえて来る。小箱でのオペラ上演は、そこに利点がある。ただ、今日はオケに覆い隠されたけれども、合唱団は特にテノール・パート辺り、良く聴けば貧相だった。

 だが、プリ・マドンナとオーケストラが上出来なら、それで満足出来るかと云うと、そうも行かないのがオペラの難しさだ。まず、エンリーコのバリトンが塩辛い、お世辞にも美声とは云い難い声の上、声量にも不足している。声の音色の一定で、響きのポイントは一つしかない印象で、線の細い存在感の希薄な歌い振りに終始する。でも、エンリーコは敵役だし辛抱するにしても、エドガルドのテノールは、聴いていて厭世的な気分になるヒドさだった。

 頭声よりも下目に声を響かせる発声で、音色に透明感を欠くヴェリズモ向きの声だが、フレージングはマトモなので、ベルカントを歌いこなせない声でも無さそうに思う。但し、終始一貫ノッペラボーな歌い振りで、情感表現に意を払う様子は全く無い。声云々の話以前に、この人には何か悩みとかあるのか?等、人間性の問題にまで思いの及ぶ、低次元な歌い振りだった。この人の取り柄はハイCを出せる事だけで、本人もそれで充分と考えているフシがある。歌手としてと云うより、音楽家として問題外と思う。

 アルトゥーロの人もノッペラボーなテノールだが、これは役自体がノー天気なので、特に問題は無い。ただ、名古屋でのアルトゥーロも最高音で引っ繰り返ったが、あれはA音で僕でも楽々出せる音域だ。このレヴェルのオペラ上演に起用されるテノールが、何故出し損なうのか理解に苦しむ。ライモンドのバスも劇的な力に欠けて単調だったし、今日の男声陣はほぼ全滅状態だった。

 「ルチア」を一週間の内に三回も観るのはキツイので、川西のダブル・キャストはどちらにするか迷ったが、もう片方はお馴染みのメンバーばかりで、公演の出来の予想は付くし、ここは青田買いして若手組のチケットを買った訳だ。リスクを取ったので、外れたら諦めるしかないが、やはりドニゼッティは歌手次第と痛感させられる。関西に人材は乏しい、これも肝に銘じる結果となった。

 イタリア人のマストロマッテイの舞台美術を、僕はこれまでに何度も観ていて、センスの良さに何時も感心している。ただ、もしかすると予算削減のあったかも知れず、今回の装置はセットのようでセットではなかった。つまり、装置は天井から下げるカーテンと、手持ちで運べる置き物のみ。それを隠す為か、照明は一貫して暗目だった。

 演出でバレリーナの幽霊を出したのは、見ていてクサイだけだったし、ライモンドが諍いに割って入る場面で、皆が刀を鞘へ一斉に収める際、パチンと音を揃えたのにも苦笑させられる。何れも思い付きの詰まらない工夫だし、あの音を揃えるのに歌手全員で練習する光景は、笑い話のネタにしかならないと思う。

 今日は場面の終わる毎に、必ず真っ先切って拍手するヤツが居た。鬱陶しいので、この無神経な野郎の顔が見たいと、拍手のする方向を窺うと、これが演出家本人の仕業と分かった。自分のセンスの無い舞台を、自分の拍手で盛り上げようとする、この人の所業には呆れるしかなかった。

第64回全日本合唱コンクール東北大会

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2012年9月28日(金)9:40/郡山市民文化センター

 昨年3月11日、郡山市民文化センターは震災被害で休館。予定されていたコンクールは行えず、大会は盛岡で代替開催された。この三月、漸く再開に漕ぎ着けた郡山市民文化センターで、今日は一年遅れの東北大会が行われる。例によって貧乏暇無しの僕は当日の朝、夜行バスで郡山入りした。ここに来て初めて知ったのだが、今日は安積国造神社の秋祭りの日らしい。早朝の駅前大通りを歩くと、歩道に沢山の夜店が出ていて、準備万端を整えている様子だった。僕は人混みが嫌いで、どちらかと云えばお祭りを好まない。でも、今日はコンクールからの帰途、暗い夜道をトボトボ歩いていると、前方に明るく提燈を灯した山車が見え、お囃子の音も聴こえて来た。このまま一泊もせず、僕は夜行バスでトンボ帰りするが、こんなに風情のあるお祭りなら、ゆっくり雰囲気を味わっても良かったかなと、少し後悔した。


<岩手県>
県立一関第一高校・附属中学音楽部(混声83名)
指揮/横山泉
ハウエルズ「Sing Lullaby 子守唄を歌い」
Paul Mealor:Upon a bank with roses set about/A spotless rose
 ハウエルズでは対位法的な部分をクッキリ聴かせて、曲の山場を的確に捉えている。曲想の転換部での切り替えも、レガートなフレージングも良く出来ていた。自由曲は全体を大掴みにした上で細部に拘る、リズムの扱いが素晴らしく音楽的。深く底鳴りするようなシンフォニックなハーモニーで、分厚いピアニシモを美しく響かせるので、フォルテの祈りの歌も生かされる。これは一期一会の名演だったと思う。

県立一関第二高校音楽部(女声35名)
指揮/獅子内綾菜
ウィールクス「In black mourn I 喪服で弔い」
松下耕「Ave Maria/Ave regina coelorum」
 リズムを際立たせない、柔らかいマドリガルの演奏。自由曲でピアニシモのハーモニーは美しいが、芯の無い声はやや頼りなく、音楽作りも平坦になって終う。リズムの扱いは柔らかく、明るい音色の使い方も上手だが、緩徐部分にもう一工夫の欲しい処だ。

県立盛岡第一高校(混声42名)
指揮/杉本聖房
ハウエルズ「Sing Lullaby 子守唄を歌い」
ヒンデミット「Gloria」(Masse)
 ハウエルズには抑えたピアニシモに、艶消しの美しいハーモニーがあり、遅目のテンポを上手に聴かせた。どの学校も英語に聞こえない中、ここは上手にやった方と思う。ヒンデミットは高校生らしい、普通の良さのある演奏。ただ、曲の内容に乏しい為、演奏の真意も伝わらない気味はあった。

県立高田高校音楽部(女声23名)
指揮/山崎歌子
ウィールクス「In black mourn I 喪服で弔い」
Henrik Colding-Jorgensen:Osanna!
ニーステッド「I am my brother's keeper」
 ウィールクスはマドリガルらしく、軽やかに歌えた。自由曲でメンバーが半円一列に並んだのは、音像に広がりを出す効果がある。少人数による爽やかな演奏で、音色の変化と自在なテンポで聴かせてくれた。

盛岡白百合学園高校(女声14名)
指揮/大金光地昌江
瑞慶覧尚子「無門」(約束)
Josef Wolfgang Ziegler:Kyrie/Gloria〜Missa pro juventute
 課題曲は柔らかいアルトに支えられ、暖かい音色のあるピアニシモで押し通す。自由曲は最後まで美しい音色を崩さず、精一杯のフォルテも使い、自分達の出来る範囲で工夫された音楽作りがある。ただ、もう少し取り組み甲斐のある曲をやって欲しい、とは思う。

県立盛岡第四高校音楽部(女声31名)
指揮/佐藤ふみ子
ウィールクス「In black mourn I 喪服で弔い」
鈴木輝昭「The hole あな/A dream of four brothars ゆめのよる/Two guys ふたり」(Five songs of nonsense)
 今日のウィールクスで中間部を遅くする、同じような解釈の度々出て来るが、これは同じテンポで通すべき曲と思う。自由曲では最初から最後まで力んでいて、テンションを緩める事をしない。曲想の明暗の切り替わる部分を、無理にでも探して変化を付けたい。しかし実際の話、わざわざ谷川俊太郎の英訳詩へ曲を付すとは、輝やんもケッタイな事をする人と思う。

県立不来方高校音楽部(混声32名)
指揮/村松玲子
パレストリーナ「Ego sum panis vivus 私は生けるパンである」
リゲティ「Magany 孤独/Haj,if jusag! おお、若さよ」
 パレストリーナは速目のテンポで、各パートの頭は聴こえても、その後はハーモニーに溺れ気味。リゲティにこんなマドリガルっぽいフツーの曲のあるのを、僕は初めて知った。ピアニシモのロング・トーンで張り詰めたテンションを保つ、声楽的な能力は高く、マジャール語の抑揚に合わせたデュナーミクの作り方も巧い。遅い・速いの二曲の対比も良く出来たが、声自体の輝きに乏しいのを、やや物足りなく感じる。

県立盛岡第二高校音楽部(女声20名)
指揮/小濱和子
瑞慶覧尚子「無門」(約束)
Siegfried Strohbach:Ave Regina coelorum
 課題曲は先生のおおらかな指揮で、ユッタリした音楽が心地良い。自由曲も頭声の美しい響きのあるハーモニーで、あくまでレガートに一切の無理押しをせず、フレーズを柔らかく歌い納める優しい音楽作りがある。音色とテンポの変化も、それなりに効果的だった。

県立水沢高校音楽部(女声30名)
指揮/中村桂子
ウィールクス「In black mourn I 喪服で弔い」
Ola Gjeilo:Ubi caritas/Prelude
 三十名の声は纏まらず大味な演奏だが、今日のウィールクスの中で、ここの解釈は最も真っ当と思う。自由曲では急に声の纏まって、頭声の良さを生かしたが、最後の曲だけ混声だったのに、僕はやや途惑った。


<決定順位>
1.橘 2.不来方 3.会津 4.安積 5.安積黎明 6.郡山(以上代表) 7.仙台三桜 8.郡女附属 9.聖ウルスラ 9.盛岡四 11.福島東 12.会津学鳳 13.葵 13.盛岡二 15.福島 16.水沢 17.一関一 18.喜多方 19.盛岡一 20.磐城 21.郡山東 22.鶴岡北 23.鶴岡南 24.八戸東 25.山形西 26.湯本 27.青森 27.仙台南 29.一関二
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