2011年10月9日(日)15:00/新国立劇場
指揮/ラルフ・ヴァイケルト
東京フィルハーモニー交響楽団
演出/アウグスト・エファーディング
再演演出/三浦安浩
美術・衣裳/ヨルク・ツィンマーマン
照明/ヨハン・ダルヒンガー
振付/石井清子
サロメ/エリカ・ズンネガルド
ヨハナーン/ジョン・ヴェーグナー
へロデ/スコット・マックアリスター
ヘロディアス/ハンナ・シュヴァルツ
ナラボート/望月哲也
小姓/山下牧子
奴隷/友利あつ子
カッパドキア人/岡昭宏
兵士/志村文彦/斉木健詞
ナザレ人/大沼 徹/秋谷直之
ユダヤ人/大野光彦/羽山晃生/加茂下稔/高橋淳/大澤建
新国立劇場シーズン開幕の演目は、プレミエ上演の「イル・トロヴァトーレ」と、芸術監督の尾高忠明が初めてオケ・ピットに入る筈だった「サロメ」。このプロダクションは11年前にミュンヘンから持ち込まれた、日本でのプレミエ上演の前年に亡くなったエファーディングの演出で、今回は四度目の再演となる。プレミエの指揮者は今は亡き若杉弘さん、タイトル・ロールはアメリカ人のシンシア・マークリスと、日本代表で緑川まりのダブル・キャスト上演だった。
この頃の新国立劇場は初代・畑中良輔の後を承けた、五十嵐喜芳芸術監督の時代で、外人組と日本人組のダブル・キャスト上演を、藤原歌劇団と二期会で交互に担当する、日本オペラ界の既得権益を保護する公演形態だった。勿論、三代目芸術監督のトーマス・ノヴォラツスキが改革した、現行のシングル・キャスト上演の良いに決まっているが、でもダブル・キャスト上演も一粒で二回お得みたいで、あれはあれで結構楽しかった。それに若杉さんの振るリヒャルト・シュトラウスなら、僕としては何度でも観たい。
そう云った訳で、僕はプレミエのダブル・キャスト上演を両方とも観た後、翌日はサントリーホールでダニエル・オーレン指揮の「仮面舞踏会」を、翌々日はオーチャードホールで井上道義指揮の「トゥーランドット」を見物する、オペラ三昧の四日間を東京で過ごした。思えばあの頃は、バブリーで良い時代だった。若杉さんの亡くなられて以降、僕が東京まで観に行こうと気力を奮い立たせる、そんなオペラ上演は目っきりと減ってしまった。
オペラ公演を回顧するのも供養の内と思うが、あの際の「サロメ」の演奏に付いての、僕の記憶は心許ない。オーソドックスなサロメ演出で、「七つのヴェールの踊り」でマークリスはトップレスになったが、緑川さんはブラジャーを着けたままだった、その程度しか思い出せず、誠に慙愧に耐えない次第である。責めてもの罪滅ぼしには、若杉さんへの追悼の想いを込め、今日は「サロメ」の音楽を味わいたいと思う。
僕は若杉さんの「サロメ」を、歌舞劇(フィクション・オペラ)“撒羅米”と銘打たれた、94年の鎌倉芸術館のプロダクションでも観ている。「七つのヴェールの踊り」は日本舞踊の振付けで、タイトル・ロールの岩井理花が、豪奢な衣装を引き抜きながら踊る、純然たる歌舞伎スタイルの舞台だった。何分にも日本舞踊でバストを見せたりしないし、そもそも若杉さんはヌード演出をお嫌いだったらしい。その演出は若杉さん自らが行い、スーパー歌舞伎の市川右近が演出補として監修した。
何故、「サロメ」ではなく“撒羅米”かと云うと、これは詩人・日夏耿之介の「院曲撒羅米」と題した翻訳を、上演時の字幕に使用した事に拠っている。無闇に難しい漢字を散りばめた翻訳で、僕のように平素から漢字に慣れている者でも、目で追うのに難儀する字幕だった。戯曲の翻訳なので、声に出して朗読する分に問題無いが、明滅する字幕に出されると読み難い。恐らく若杉さんは絢爛豪華な歌舞伎舞台と、衒学的で晦渋な文体の字幕とを並べ、両者の相乗効果を狙ったのだろう。
若杉さんの振った二つの「サロメ」の内、美しい歌舞伎風“撒羅米”は公演終了後、即座にセットを解体したが、本場仕込のオーソドックスな演劇的サロメは、新国立劇場で五回目の再演を迎える。頚椎の故障で長らくオペラを振れなかった尾高忠明が、芸術監督就任二年目で満を持しての初登場の筈が、九月末に健康上の理由での降板が発表される。でも、代役はオーストリア出身のヴァイケルトで、これはグレイド・アップと解釈すべきだろう。懸念材料は解消し、「サロメ」は期待の公演となる。最後まで休憩無しの上演で、開演直前にお手洗いも済ませ、天井桟敷で幕の上がるのを待つ。
序奏無しに本題へ入る「サロメ」の音楽。甘く暖かい抒情的な導入部から、ヨカナーンが井戸から出て来て音楽の激しくなっても、芯にある柔らかさは失われない。ヘロデ王の出て来て音楽の諧謔的になれば、そのユーモア表現も秀逸で、「七つのヴェールの踊り」も緩急自在の演奏。無調っぽい音楽の続く「サロメ」の中で、ここにだけ甘い旋律のある場面は、強面なゲンダイ音楽っぽい表現だと、往々にして全体から浮き上がってしまう。だが、ヴァイケルトの指揮は全曲を通し、優し気なニュアンスに満ちた解釈で、甘い旋律も一つのピースとして違和感なく納まる。
ただ単に大音量を鳴らせば良いのではない。タイトル・ロールに存分に歌わせながら、幕切れへ向けて盛り上げる手腕からは、歌手と共に唱うブレスと、オケのフレージングを作るブレスの両方を感じ取る事が出来る。シュトラウスの音楽の多様な側面を描き分ける、ベテラン指揮者の見事な芸に感服である。
サロメのズンネガルドは声量豊富なタイプではなく、響かせる倍音でオケを付き抜ける声質。甘いレジェーロな音色での語りと、力を入れずにスッと伸ばす、北欧らしいリリックなフォルテを使い分ける声を、僕はクリスタル・ヴォイスと呼んで大袈裟とは思わない。「七つのヴェールの踊り」の締め括りで、露わにしたオッパイも小さ目な、少女っぽい仕草のサロメだった。
ヘロディアスのシュヴァルツにも衰えない声量があり、ヴィブラートのキツイのも役柄に嵌っている。ナラボートの望月哲也は一本調子だか、これも直向きなスタイルが役柄にフィットする。ヨハナーンのヴェーグナーはお世辞にも美声とは云えない、声質よりも響きで聴かせる大声量のバリトン。やや大味で、声の個性による性格表現に乏しい印象を受ける。へロデのマックアリスターは主役四名の中で独り声量に乏しく、この人ならカヴァーの高橋淳でも全く遜色は無さそうに思う。
しかし、今回の「サロメ」は何と云っても、指揮者に尽きる。フランクフルトやチューリヒのオペラハウスで音楽監督を務めたヴァイケルトは、典型的な歌劇場叩き上げでも、交通整理に追われる指揮者ではない。歌手とオケを手の内に引き込み、自分の解釈で上演をリードする練達の手腕がある。音楽性は全く異なるが、オペラの現場を知り尽くしていると云う点で、若杉さんと同じく職人的な技の持ち主と思う。
ヴァイケルトがシュトラウスを得意とする指揮者とはツユ知らず、これ程に美しく抒情的な「サロメ」を聴けたのは望外の喜びだった。芸術監督自らが振った場合の結果は、神のみぞ知る領域。どうやらヴァイケルトを招いたのは尾高自身のようで、その采配も的確と思う。スペシャリストとして公演を成功に導いたマエストロと、その職責を果たした芸術監督に、今は感謝の意を述べたい。
指揮/ラルフ・ヴァイケルト
東京フィルハーモニー交響楽団
演出/アウグスト・エファーディング
再演演出/三浦安浩
美術・衣裳/ヨルク・ツィンマーマン
照明/ヨハン・ダルヒンガー
振付/石井清子
サロメ/エリカ・ズンネガルド
ヨハナーン/ジョン・ヴェーグナー
へロデ/スコット・マックアリスター
ヘロディアス/ハンナ・シュヴァルツ
ナラボート/望月哲也
小姓/山下牧子
奴隷/友利あつ子
カッパドキア人/岡昭宏
兵士/志村文彦/斉木健詞
ナザレ人/大沼 徹/秋谷直之
ユダヤ人/大野光彦/羽山晃生/加茂下稔/高橋淳/大澤建
新国立劇場シーズン開幕の演目は、プレミエ上演の「イル・トロヴァトーレ」と、芸術監督の尾高忠明が初めてオケ・ピットに入る筈だった「サロメ」。このプロダクションは11年前にミュンヘンから持ち込まれた、日本でのプレミエ上演の前年に亡くなったエファーディングの演出で、今回は四度目の再演となる。プレミエの指揮者は今は亡き若杉弘さん、タイトル・ロールはアメリカ人のシンシア・マークリスと、日本代表で緑川まりのダブル・キャスト上演だった。
この頃の新国立劇場は初代・畑中良輔の後を承けた、五十嵐喜芳芸術監督の時代で、外人組と日本人組のダブル・キャスト上演を、藤原歌劇団と二期会で交互に担当する、日本オペラ界の既得権益を保護する公演形態だった。勿論、三代目芸術監督のトーマス・ノヴォラツスキが改革した、現行のシングル・キャスト上演の良いに決まっているが、でもダブル・キャスト上演も一粒で二回お得みたいで、あれはあれで結構楽しかった。それに若杉さんの振るリヒャルト・シュトラウスなら、僕としては何度でも観たい。
そう云った訳で、僕はプレミエのダブル・キャスト上演を両方とも観た後、翌日はサントリーホールでダニエル・オーレン指揮の「仮面舞踏会」を、翌々日はオーチャードホールで井上道義指揮の「トゥーランドット」を見物する、オペラ三昧の四日間を東京で過ごした。思えばあの頃は、バブリーで良い時代だった。若杉さんの亡くなられて以降、僕が東京まで観に行こうと気力を奮い立たせる、そんなオペラ上演は目っきりと減ってしまった。
オペラ公演を回顧するのも供養の内と思うが、あの際の「サロメ」の演奏に付いての、僕の記憶は心許ない。オーソドックスなサロメ演出で、「七つのヴェールの踊り」でマークリスはトップレスになったが、緑川さんはブラジャーを着けたままだった、その程度しか思い出せず、誠に慙愧に耐えない次第である。責めてもの罪滅ぼしには、若杉さんへの追悼の想いを込め、今日は「サロメ」の音楽を味わいたいと思う。
僕は若杉さんの「サロメ」を、歌舞劇(フィクション・オペラ)“撒羅米”と銘打たれた、94年の鎌倉芸術館のプロダクションでも観ている。「七つのヴェールの踊り」は日本舞踊の振付けで、タイトル・ロールの岩井理花が、豪奢な衣装を引き抜きながら踊る、純然たる歌舞伎スタイルの舞台だった。何分にも日本舞踊でバストを見せたりしないし、そもそも若杉さんはヌード演出をお嫌いだったらしい。その演出は若杉さん自らが行い、スーパー歌舞伎の市川右近が演出補として監修した。
何故、「サロメ」ではなく“撒羅米”かと云うと、これは詩人・日夏耿之介の「院曲撒羅米」と題した翻訳を、上演時の字幕に使用した事に拠っている。無闇に難しい漢字を散りばめた翻訳で、僕のように平素から漢字に慣れている者でも、目で追うのに難儀する字幕だった。戯曲の翻訳なので、声に出して朗読する分に問題無いが、明滅する字幕に出されると読み難い。恐らく若杉さんは絢爛豪華な歌舞伎舞台と、衒学的で晦渋な文体の字幕とを並べ、両者の相乗効果を狙ったのだろう。
若杉さんの振った二つの「サロメ」の内、美しい歌舞伎風“撒羅米”は公演終了後、即座にセットを解体したが、本場仕込のオーソドックスな演劇的サロメは、新国立劇場で五回目の再演を迎える。頚椎の故障で長らくオペラを振れなかった尾高忠明が、芸術監督就任二年目で満を持しての初登場の筈が、九月末に健康上の理由での降板が発表される。でも、代役はオーストリア出身のヴァイケルトで、これはグレイド・アップと解釈すべきだろう。懸念材料は解消し、「サロメ」は期待の公演となる。最後まで休憩無しの上演で、開演直前にお手洗いも済ませ、天井桟敷で幕の上がるのを待つ。
序奏無しに本題へ入る「サロメ」の音楽。甘く暖かい抒情的な導入部から、ヨカナーンが井戸から出て来て音楽の激しくなっても、芯にある柔らかさは失われない。ヘロデ王の出て来て音楽の諧謔的になれば、そのユーモア表現も秀逸で、「七つのヴェールの踊り」も緩急自在の演奏。無調っぽい音楽の続く「サロメ」の中で、ここにだけ甘い旋律のある場面は、強面なゲンダイ音楽っぽい表現だと、往々にして全体から浮き上がってしまう。だが、ヴァイケルトの指揮は全曲を通し、優し気なニュアンスに満ちた解釈で、甘い旋律も一つのピースとして違和感なく納まる。
ただ単に大音量を鳴らせば良いのではない。タイトル・ロールに存分に歌わせながら、幕切れへ向けて盛り上げる手腕からは、歌手と共に唱うブレスと、オケのフレージングを作るブレスの両方を感じ取る事が出来る。シュトラウスの音楽の多様な側面を描き分ける、ベテラン指揮者の見事な芸に感服である。
サロメのズンネガルドは声量豊富なタイプではなく、響かせる倍音でオケを付き抜ける声質。甘いレジェーロな音色での語りと、力を入れずにスッと伸ばす、北欧らしいリリックなフォルテを使い分ける声を、僕はクリスタル・ヴォイスと呼んで大袈裟とは思わない。「七つのヴェールの踊り」の締め括りで、露わにしたオッパイも小さ目な、少女っぽい仕草のサロメだった。
ヘロディアスのシュヴァルツにも衰えない声量があり、ヴィブラートのキツイのも役柄に嵌っている。ナラボートの望月哲也は一本調子だか、これも直向きなスタイルが役柄にフィットする。ヨハナーンのヴェーグナーはお世辞にも美声とは云えない、声質よりも響きで聴かせる大声量のバリトン。やや大味で、声の個性による性格表現に乏しい印象を受ける。へロデのマックアリスターは主役四名の中で独り声量に乏しく、この人ならカヴァーの高橋淳でも全く遜色は無さそうに思う。
しかし、今回の「サロメ」は何と云っても、指揮者に尽きる。フランクフルトやチューリヒのオペラハウスで音楽監督を務めたヴァイケルトは、典型的な歌劇場叩き上げでも、交通整理に追われる指揮者ではない。歌手とオケを手の内に引き込み、自分の解釈で上演をリードする練達の手腕がある。音楽性は全く異なるが、オペラの現場を知り尽くしていると云う点で、若杉さんと同じく職人的な技の持ち主と思う。
ヴァイケルトがシュトラウスを得意とする指揮者とはツユ知らず、これ程に美しく抒情的な「サロメ」を聴けたのは望外の喜びだった。芸術監督自らが振った場合の結果は、神のみぞ知る領域。どうやらヴァイケルトを招いたのは尾高自身のようで、その采配も的確と思う。スペシャリストとして公演を成功に導いたマエストロと、その職責を果たした芸術監督に、今は感謝の意を述べたい。