<神奈川県民ホール・東京二期会・日本センチュリー響・神奈川フィル共同制作>
2013年9月21日(土)14:00/びわ湖ホール
指揮/沼尻竜典
日本センチュリー交響楽団
神奈川フィルハーモニー管弦楽団
演出・美術/ジョエル・ローウェルス
照明/喜多村貴
衣装/小栗菜代子
<Bキャスト>
ジークムント/福井敬
ジークリンデ/大村博美
ブリュンヒルデ/横山恵子
ヴォータン/青山貴
フリッカ/小山由美
フンディング/斉木健詞
ゲルヒルデ/田崎尚美
オルトリンデ/江口順子
ヴァルトラウテ/井坂惠
シュヴェルトライテ/金子美香
ヘルムヴィーゲ/平井香織
ジークルーネ/増田弥生
グリムゲルデ/杣友惠子
ロスヴァイセ/平舘直子
今年はヴァーグナーの生誕二百年だが、同じくアニヴァーサーリーのヴェルディに公演回数で圧倒されている。関西でヴァーグナーの上演は今日が初めての筈で、これは単純な話、両者の一般的な人気の差だろうか。
演出のローウェルスは以前、二期会公演で「カプリッチョ」(ソコソコ楽しんだ)と、「ヴァルキューレ」(退屈した)を製作していて、沼尻と組むのも二度目となる。その印象を約めて云えば“説明過剰”で、痒く無い処まで掻きに来るような演出と感じた。今回は同じ「ヴァルキューレ」を、しかし前回とは異なるコンセプトで演出するらしく、取り合えずお手並み拝見と云った処だ。
冒頭、いきなりヴォータンがノコノコ出て来るが、出番前の歌手を舞台に出す演出家の手口は先刻承知で、ああ又やってるなと思う。一幕の登場人物は三人の筈だが、フリッカやヴァルキューレ軍団を舞台へ上げる他にも、エキストラが大量動員される。これも昔、バイロイトでパトリス・シェローの始めた際には斬新だったが、今となっては陳腐にも感じられる手法である。そこで今回、新機軸として導入されたのが無声映画方式で、頻繁に揚げ降ろしされる幕に、場面毎にタイトルが表示される。
二幕になると仕出しの人数は減り、舞台上で演技するのは歌手のみの場面が多くなる。これも目先の変わって悪くないが、その代わりに小手先の工夫も目立つ。例えばブリュンヒルデとジークムントの対話の場面で、疲れ切って寝ている筈のジークリンデが、二人の周りをウロウロするのを目障りに感じる。無声映画のようなタイトルは、「舞台上に何も無い時間に、音楽そのものに語らせる」意図だそうだが、ジックリ聴き入るには短か過ぎる間奏部分より、むしろ歌手の唱っている間こそ余計な事をせず、音楽に集中させて欲しいと思う。
ただ、指導動機の変わる毎に、場面を区切る遣り口は一応の筋が通っているし、聴衆にライト・モティーフを意識させる効果はあると思う。幕の揚げ降ろしに拠る舞台転換は、細かくカットを割る映画の手法で、ヴァーグナーの音楽に合わせリズムを作っているとも云える。
二幕で減り気味だった小細工が三幕では再び増殖し、エキストラで子役のブリュンヒルデを抱いたままヴォータンが歌ったり(しかし、あんな耳元で大声出されてウルサイやろな、あの子)するが、その極め付けは幕切れで、死んだ筈のジークムントと、ブリュンヒルデと別れた筈のヴォータンとの間に、何やらゴチャゴチャと遣り取りがある。誰もがジックリと聴き入り、静かな余韻に浸りたい幕切れを、目障りな演出で妨害するローウェル君の音楽センスに深い疑念を抱く。この場面でヴォータンとブリュンヒルデの、父娘の情愛に焦点を絞らない演出は、僕には的外れとしか思えない。
目紛るしい程の舞台転換だが、幕の降りている短時間に出来る事は限られ、セットはトネリコの木や廃屋等、人力でも直ぐに動かせそうな簡便なものだけとなっている。クルクルと舞台転換する理由は、「観る人がそれぞれ自分なりの解釈が出来るよう、なるべく沢山の素材を提供したい」為らしい。大掛かりなセットは使えず、存外金は掛からなそうな演出なのに、ゴタゴタした舞台に見える理由は、その辺りにあるようだ。
沼尻の「ヴァルキューレ」の音楽の扱いには、ザッハリヒな手付きがある。陰鬱で悲哀に満ちた解釈では無く、明るく愛の悦楽を語るのかと思うと、何時の間にか盛り上がっていて、爆発的な音楽に持って行かれて終う。合同オケで単純な話、人数分の大きな音を出せるので、余裕のある音楽で振幅の広い表現が可能になる。全曲の終盤をピアニシモで進め、テンションの高い幕切れを作る、沼尻の手際は素晴らしく、最後の山場を立派に盛り上げてくれた。波打つように揺れながら弾く、弦楽奏者達の様子も印象的だった。演奏は割合に淡々と進むのに、何時の間にか盛り上がっていて、一体何処でスィッチの入るのかは良く分からないけれども。
ジークムントの福井敬の毎度お馴染み、単語毎にフレーズを区切るような歌い方は、イタリア語では違和感のあるが、子音を立てるドイツ語には合うように思う。ユッタリとしたフレーズで、グリッサンドするみたいなアーティキュレーションの作り方は気になるが、これも速い語りのパッセージにはハマる。また、“ヴェルゼ”とか“ノートゥング”とか、キメ台詞での圧倒的な声量には絶大の効果があった。こちらの耳の慣れたのか、或いは福井の唱い方がフィットしたのか、二幕になるとその歌声も素直に受け取れるようになる。この方のフクイ節とも云うべき個性的な唱法は、曲を択ぶとしか言いようが無い。
ジークリンデの大村博美には福井に対抗する声量があり、素直に直向きにフレーズを伸ばすのも、捏ね回す歌い方と対照的で好ましい。スピントの強さのあるリリコの声には、フォルテシモのロング・トーンをコントロールする力があるし、低声部も充実しているので、音域の広い役柄に打って付けの歌い手と云える。
ヴォータンはブリュンヒルデのような直球一本槍で三振を取れる役では無く、仕事と家庭と愛人の問題にウジウジと悩む、カーブやフォーク・ボール等の変化球を必要とする役だ。抜擢された若手の青山貴には、音色の変化とドイツ語の抑揚に沿った強弱でデュナーミクを工夫する、知的な解釈がある。実際に聴く前は、何で青山のヴォータンなんだ?と疑問に感じたが、一聴すれば起用の理由は明白で、声量のあると云う一点に尽きる。
フリッカの小山由美も大声で持って亘り合うが、もう少しデュナーミクの工夫も無いと面白い歌にならない。まあ、真面目一方の役柄をキッチリ歌うので、フリッカって本当に堅苦しい人なんだと思わせる効果はあった。フンディングの斉木健詞も声量豊かなバスで、広いダイナミク・レンジを使い、変化に富んだ歌を唱える。ブリュンヒルデの横山恵子は鋭く通る声だが倍音に乏しい為、やや響きの広がりに欠ける。何分にも大声を出す人ばかり揃えた主役級の中で、横山さんは相対的に声量に乏しいと感じられる程だった。
相変わらず説明過剰な演出で、子役を出したり出番前の歌手が舞台をウロウロしたり、舞台作りの手管自体は前回と全く同じで、ただ物語の解釈を少し変えただけのように思われる。まあ、鬱陶しい部分もあったが、それなりに楽しめる演出だったし、何より素晴らしい演奏で今日はヴァーグナーの音楽を充分に堪能出来た。明日の別キャスト上演も、大いに楽しみたいと思う。
2013年9月21日(土)14:00/びわ湖ホール
指揮/沼尻竜典
日本センチュリー交響楽団
神奈川フィルハーモニー管弦楽団
演出・美術/ジョエル・ローウェルス
照明/喜多村貴
衣装/小栗菜代子
<Bキャスト>
ジークムント/福井敬
ジークリンデ/大村博美
ブリュンヒルデ/横山恵子
ヴォータン/青山貴
フリッカ/小山由美
フンディング/斉木健詞
ゲルヒルデ/田崎尚美
オルトリンデ/江口順子
ヴァルトラウテ/井坂惠
シュヴェルトライテ/金子美香
ヘルムヴィーゲ/平井香織
ジークルーネ/増田弥生
グリムゲルデ/杣友惠子
ロスヴァイセ/平舘直子
今年はヴァーグナーの生誕二百年だが、同じくアニヴァーサーリーのヴェルディに公演回数で圧倒されている。関西でヴァーグナーの上演は今日が初めての筈で、これは単純な話、両者の一般的な人気の差だろうか。
演出のローウェルスは以前、二期会公演で「カプリッチョ」(ソコソコ楽しんだ)と、「ヴァルキューレ」(退屈した)を製作していて、沼尻と組むのも二度目となる。その印象を約めて云えば“説明過剰”で、痒く無い処まで掻きに来るような演出と感じた。今回は同じ「ヴァルキューレ」を、しかし前回とは異なるコンセプトで演出するらしく、取り合えずお手並み拝見と云った処だ。
冒頭、いきなりヴォータンがノコノコ出て来るが、出番前の歌手を舞台に出す演出家の手口は先刻承知で、ああ又やってるなと思う。一幕の登場人物は三人の筈だが、フリッカやヴァルキューレ軍団を舞台へ上げる他にも、エキストラが大量動員される。これも昔、バイロイトでパトリス・シェローの始めた際には斬新だったが、今となっては陳腐にも感じられる手法である。そこで今回、新機軸として導入されたのが無声映画方式で、頻繁に揚げ降ろしされる幕に、場面毎にタイトルが表示される。
二幕になると仕出しの人数は減り、舞台上で演技するのは歌手のみの場面が多くなる。これも目先の変わって悪くないが、その代わりに小手先の工夫も目立つ。例えばブリュンヒルデとジークムントの対話の場面で、疲れ切って寝ている筈のジークリンデが、二人の周りをウロウロするのを目障りに感じる。無声映画のようなタイトルは、「舞台上に何も無い時間に、音楽そのものに語らせる」意図だそうだが、ジックリ聴き入るには短か過ぎる間奏部分より、むしろ歌手の唱っている間こそ余計な事をせず、音楽に集中させて欲しいと思う。
ただ、指導動機の変わる毎に、場面を区切る遣り口は一応の筋が通っているし、聴衆にライト・モティーフを意識させる効果はあると思う。幕の揚げ降ろしに拠る舞台転換は、細かくカットを割る映画の手法で、ヴァーグナーの音楽に合わせリズムを作っているとも云える。
二幕で減り気味だった小細工が三幕では再び増殖し、エキストラで子役のブリュンヒルデを抱いたままヴォータンが歌ったり(しかし、あんな耳元で大声出されてウルサイやろな、あの子)するが、その極め付けは幕切れで、死んだ筈のジークムントと、ブリュンヒルデと別れた筈のヴォータンとの間に、何やらゴチャゴチャと遣り取りがある。誰もがジックリと聴き入り、静かな余韻に浸りたい幕切れを、目障りな演出で妨害するローウェル君の音楽センスに深い疑念を抱く。この場面でヴォータンとブリュンヒルデの、父娘の情愛に焦点を絞らない演出は、僕には的外れとしか思えない。
目紛るしい程の舞台転換だが、幕の降りている短時間に出来る事は限られ、セットはトネリコの木や廃屋等、人力でも直ぐに動かせそうな簡便なものだけとなっている。クルクルと舞台転換する理由は、「観る人がそれぞれ自分なりの解釈が出来るよう、なるべく沢山の素材を提供したい」為らしい。大掛かりなセットは使えず、存外金は掛からなそうな演出なのに、ゴタゴタした舞台に見える理由は、その辺りにあるようだ。
沼尻の「ヴァルキューレ」の音楽の扱いには、ザッハリヒな手付きがある。陰鬱で悲哀に満ちた解釈では無く、明るく愛の悦楽を語るのかと思うと、何時の間にか盛り上がっていて、爆発的な音楽に持って行かれて終う。合同オケで単純な話、人数分の大きな音を出せるので、余裕のある音楽で振幅の広い表現が可能になる。全曲の終盤をピアニシモで進め、テンションの高い幕切れを作る、沼尻の手際は素晴らしく、最後の山場を立派に盛り上げてくれた。波打つように揺れながら弾く、弦楽奏者達の様子も印象的だった。演奏は割合に淡々と進むのに、何時の間にか盛り上がっていて、一体何処でスィッチの入るのかは良く分からないけれども。
ジークムントの福井敬の毎度お馴染み、単語毎にフレーズを区切るような歌い方は、イタリア語では違和感のあるが、子音を立てるドイツ語には合うように思う。ユッタリとしたフレーズで、グリッサンドするみたいなアーティキュレーションの作り方は気になるが、これも速い語りのパッセージにはハマる。また、“ヴェルゼ”とか“ノートゥング”とか、キメ台詞での圧倒的な声量には絶大の効果があった。こちらの耳の慣れたのか、或いは福井の唱い方がフィットしたのか、二幕になるとその歌声も素直に受け取れるようになる。この方のフクイ節とも云うべき個性的な唱法は、曲を択ぶとしか言いようが無い。
ジークリンデの大村博美には福井に対抗する声量があり、素直に直向きにフレーズを伸ばすのも、捏ね回す歌い方と対照的で好ましい。スピントの強さのあるリリコの声には、フォルテシモのロング・トーンをコントロールする力があるし、低声部も充実しているので、音域の広い役柄に打って付けの歌い手と云える。
ヴォータンはブリュンヒルデのような直球一本槍で三振を取れる役では無く、仕事と家庭と愛人の問題にウジウジと悩む、カーブやフォーク・ボール等の変化球を必要とする役だ。抜擢された若手の青山貴には、音色の変化とドイツ語の抑揚に沿った強弱でデュナーミクを工夫する、知的な解釈がある。実際に聴く前は、何で青山のヴォータンなんだ?と疑問に感じたが、一聴すれば起用の理由は明白で、声量のあると云う一点に尽きる。
フリッカの小山由美も大声で持って亘り合うが、もう少しデュナーミクの工夫も無いと面白い歌にならない。まあ、真面目一方の役柄をキッチリ歌うので、フリッカって本当に堅苦しい人なんだと思わせる効果はあった。フンディングの斉木健詞も声量豊かなバスで、広いダイナミク・レンジを使い、変化に富んだ歌を唱える。ブリュンヒルデの横山恵子は鋭く通る声だが倍音に乏しい為、やや響きの広がりに欠ける。何分にも大声を出す人ばかり揃えた主役級の中で、横山さんは相対的に声量に乏しいと感じられる程だった。
相変わらず説明過剰な演出で、子役を出したり出番前の歌手が舞台をウロウロしたり、舞台作りの手管自体は前回と全く同じで、ただ物語の解釈を少し変えただけのように思われる。まあ、鬱陶しい部分もあったが、それなりに楽しめる演出だったし、何より素晴らしい演奏で今日はヴァーグナーの音楽を充分に堪能出来た。明日の別キャスト上演も、大いに楽しみたいと思う。