<ウィーン音楽祭 in OSAKA 2012 Vol.5>
2012年11月10日(土)16:00/いずみホール
指揮/金聖響
メゾソプラノ/藤村実穂子
テノール/福井敬
いずみシンフォニエッタ大阪
マーラー「ピアノ四重奏曲/大地の歌(シェーンベルク&リーン編曲)」
大阪開催で「ウィーン音楽祭」は気恥ずかしいネーミングだったが、ご多分に漏れず不況下の予算削減により、このフェストも今年で最後となるらしい。いずみホールの独自企画で、これまで良く頑張ったと思うし、僕の聴いた中では若杉弘さん指揮「ナクソス島のアリアドネ」が印象に残っている。取り敢えず、こじ付けでもウィーンと関係すれば、何でもアリの音楽祭だった。今日のコンサートはシェーンベルク編曲に拠る、マーラーのシンフォニーがメインだが、この程度のご縁で“ウィーン”を名乗る、企画の縛りは結構ユルかった。
シェーンベルクが現代音楽啓蒙を目的とし、前世紀初頭のウィーンで自ら立ち上げた「私的音楽演奏協会」は経済的な理由により、交響曲の類を全て室内楽版に編曲して演奏していたそうな。僕は聴いた事は無いがブルックナーの七番とか、マーラーの四番とかの室内楽版もあるらしい。シェーンベルクは「大地の歌」のアレンジにも着手するが、折からオーストリアで起こった超インフレの為、協会は活動停止に追い込まれる。未完のまま残された草稿を基に、作曲家のライナー・リーンと云う人の完成させたのが、今日演奏される室内楽版「大地の歌」である。
コンサートの前座として、マーラーの若書きにして唯一の室内楽、ピアノ四重奏曲が演奏される。カルテットのメンバーはヴァイオリンに小栗まち絵、ヴィオラは柳瀬省太、チェロは林裕にピアノは碇山典子の顔触れ。曲はソナタ一楽章の演奏時間は十五分程で、一つのテーマがフーガで延々と展開する、対位法を主体としている。僕なんかブラームス作曲と云われれば、そのまま真に受けそうな、とても優美な室内楽だった。ただ、この音楽の甘さはブラームスではなく、マーラーのセンチメントのような気もする。演奏は小栗さんの熱演で盛り上がったが、やや独り相撲気味で、もう少しヴィオラとチェロの対旋律も聴かせて欲しかった。
休憩後は藤村と福井の声楽陣に、伴奏はこのホールのレジデンス・オーケストラ、いずみシンフォニエッタで、これは日本最強とも云える布陣での「大地の歌」である。指揮の金聖響は…初めて聴く人だし、良く知らない。
「大地の歌」を歌うテノールは、例えばジェームズ・キングとかルネ・コロとかのヘルデン系と、フリッツ・ヴンダーリヒやエルンスト・ヘフリガーのリリック系とに分かれるようだ。今日のテノールはヘルデン系だが、これも本人の曲へのアプローチ次第で、どう転ぶかは実際に聴かないと判らない。福井の歌声は一曲目の「酒宴の歌」で、まずその大音声に驚く。身振りの大きな演技的な歌で、ゴリ押しの外面的なアプローチがある。さすがに何時ものように切り刻んだりはせず、一応フレーズは長目だが、その歌い振りは如何にもクサイ。テノール担当の三曲は何れも酒呑み歌で、陽気に歌う事自体は構わないのだが、でも無常感を含む歌詞「生も暗く、死もまた暗い」まで、ノー天気にに唱い飛ばすのは如何なものかと思う。
藤村の解釈は福井と対照的で、だから二曲目の「秋に寂しい者」が始まると、その内面的なアプローチにホッとさせられる。メゾの歌声に派手さは無いが、多彩な声を駆使し、曲の摂理に沿った音色の変化で聴かせる。音楽の構成を考えて無闇に声を張り上げず、フォルテを効果的に使う知的な解釈もある。五楽章の「告別」では完全に曲に没入し、顔の表情までそれらしい風情になるのが素敵だった。
指揮の聖響の解釈は、藤村と福井の中間辺りに位置するだろうか。五楽章までは専らコンマスの高木和弘がオケを引張っり、これなら指揮なんか要らないじゃんと思っていた訳だが、終楽章の長い間奏部分まで辿り着き、そこで漸く指揮者も居ないよりは居た方が良いに変わった。細かく振り過ぎるのは少し気になるが、ちゃんと藤村さんを盛り立ててくれたのは良かった。聖響はバーンスタインや若杉弘さんのように、マーラーの音楽にのめり込むのではなく、外側から客観的に捉えるショルティやメータのようなタイプのようだ。
しかし、この編曲はどうもピアノの音の聴こえ過ぎで、今ひとつオーケストラっぽい雰囲気に乏しいと感じる。プログラムの解説には、「歌手は声を張り上げることなく詩の世界を噛みしめることができる」とあるが、それなら別にピアノ伴奏でも良かろうにと思う。これを要するに二人の大物ソリストを迎え、予算を抑える為の編成とも邪推される。藤村さんの「大地の歌」なら、次はフルオケの演奏で聴きたい、それが今日のアレンジへの素直な感想だ。
2012年11月10日(土)16:00/いずみホール
指揮/金聖響
メゾソプラノ/藤村実穂子
テノール/福井敬
いずみシンフォニエッタ大阪
マーラー「ピアノ四重奏曲/大地の歌(シェーンベルク&リーン編曲)」
大阪開催で「ウィーン音楽祭」は気恥ずかしいネーミングだったが、ご多分に漏れず不況下の予算削減により、このフェストも今年で最後となるらしい。いずみホールの独自企画で、これまで良く頑張ったと思うし、僕の聴いた中では若杉弘さん指揮「ナクソス島のアリアドネ」が印象に残っている。取り敢えず、こじ付けでもウィーンと関係すれば、何でもアリの音楽祭だった。今日のコンサートはシェーンベルク編曲に拠る、マーラーのシンフォニーがメインだが、この程度のご縁で“ウィーン”を名乗る、企画の縛りは結構ユルかった。
シェーンベルクが現代音楽啓蒙を目的とし、前世紀初頭のウィーンで自ら立ち上げた「私的音楽演奏協会」は経済的な理由により、交響曲の類を全て室内楽版に編曲して演奏していたそうな。僕は聴いた事は無いがブルックナーの七番とか、マーラーの四番とかの室内楽版もあるらしい。シェーンベルクは「大地の歌」のアレンジにも着手するが、折からオーストリアで起こった超インフレの為、協会は活動停止に追い込まれる。未完のまま残された草稿を基に、作曲家のライナー・リーンと云う人の完成させたのが、今日演奏される室内楽版「大地の歌」である。
コンサートの前座として、マーラーの若書きにして唯一の室内楽、ピアノ四重奏曲が演奏される。カルテットのメンバーはヴァイオリンに小栗まち絵、ヴィオラは柳瀬省太、チェロは林裕にピアノは碇山典子の顔触れ。曲はソナタ一楽章の演奏時間は十五分程で、一つのテーマがフーガで延々と展開する、対位法を主体としている。僕なんかブラームス作曲と云われれば、そのまま真に受けそうな、とても優美な室内楽だった。ただ、この音楽の甘さはブラームスではなく、マーラーのセンチメントのような気もする。演奏は小栗さんの熱演で盛り上がったが、やや独り相撲気味で、もう少しヴィオラとチェロの対旋律も聴かせて欲しかった。
休憩後は藤村と福井の声楽陣に、伴奏はこのホールのレジデンス・オーケストラ、いずみシンフォニエッタで、これは日本最強とも云える布陣での「大地の歌」である。指揮の金聖響は…初めて聴く人だし、良く知らない。
「大地の歌」を歌うテノールは、例えばジェームズ・キングとかルネ・コロとかのヘルデン系と、フリッツ・ヴンダーリヒやエルンスト・ヘフリガーのリリック系とに分かれるようだ。今日のテノールはヘルデン系だが、これも本人の曲へのアプローチ次第で、どう転ぶかは実際に聴かないと判らない。福井の歌声は一曲目の「酒宴の歌」で、まずその大音声に驚く。身振りの大きな演技的な歌で、ゴリ押しの外面的なアプローチがある。さすがに何時ものように切り刻んだりはせず、一応フレーズは長目だが、その歌い振りは如何にもクサイ。テノール担当の三曲は何れも酒呑み歌で、陽気に歌う事自体は構わないのだが、でも無常感を含む歌詞「生も暗く、死もまた暗い」まで、ノー天気にに唱い飛ばすのは如何なものかと思う。
藤村の解釈は福井と対照的で、だから二曲目の「秋に寂しい者」が始まると、その内面的なアプローチにホッとさせられる。メゾの歌声に派手さは無いが、多彩な声を駆使し、曲の摂理に沿った音色の変化で聴かせる。音楽の構成を考えて無闇に声を張り上げず、フォルテを効果的に使う知的な解釈もある。五楽章の「告別」では完全に曲に没入し、顔の表情までそれらしい風情になるのが素敵だった。
指揮の聖響の解釈は、藤村と福井の中間辺りに位置するだろうか。五楽章までは専らコンマスの高木和弘がオケを引張っり、これなら指揮なんか要らないじゃんと思っていた訳だが、終楽章の長い間奏部分まで辿り着き、そこで漸く指揮者も居ないよりは居た方が良いに変わった。細かく振り過ぎるのは少し気になるが、ちゃんと藤村さんを盛り立ててくれたのは良かった。聖響はバーンスタインや若杉弘さんのように、マーラーの音楽にのめり込むのではなく、外側から客観的に捉えるショルティやメータのようなタイプのようだ。
しかし、この編曲はどうもピアノの音の聴こえ過ぎで、今ひとつオーケストラっぽい雰囲気に乏しいと感じる。プログラムの解説には、「歌手は声を張り上げることなく詩の世界を噛みしめることができる」とあるが、それなら別にピアノ伴奏でも良かろうにと思う。これを要するに二人の大物ソリストを迎え、予算を抑える為の編成とも邪推される。藤村さんの「大地の歌」なら、次はフルオケの演奏で聴きたい、それが今日のアレンジへの素直な感想だ。