<メトロポリタン・オペラ2011日本公演/五幕イタリア語版上演>
2011年6月5日(日)15:00/愛知県芸術劇場
指揮/ファビオ・ルイジ
メトロポリタン・オペラ管弦楽団
メトロポリタン・オペラ合唱団
演出/ジョン・デクスター
美術/デヴィッド・レッパ
照明/ギル・ウェクスラー
衣装/レイ・ディフェン
ドン・カルロ/ヨンフン・リー
エリザベッタ/マリーナ・ポプラフスカヤ
ロドリーゴ/ディミトリ・ホロストフスキー
エボリ公女/エカテリーナ・グバノヴァ
フィリッポ二世/ルネ・パーペ
宗教裁判長/ステファン・コーツァン
小姓テバルド/レイラ・クレア
修道士/ジョーダン・ビシュ
レルマ伯爵/スティーヴン・ガートナー
布告人/アダム・ローレンス・ハースコウィッツ
天の声/オルガ・マカリナ
僕には元々、スター歌手を聴きたいと云う欲求の希薄で、今回もメトの「ドン・カルロ」を聴きたくて名古屋まで来た。郵送でチケットを受け取り、そこで初めて配役表をジックリ眺めると、タイトル・ロールはカウフマンでエリザベッタはフリットリ、ボロディナのエボリとパーペのフィリッポ二世に、ロドリーゴはホロストフスキーとあり、こりゃ凄い豪華メンバーだなぁ、と初めて気付く迂闊さである。序でに言うと、同時に五幕版上演も知ったが、こちらは主催者側の宣伝不足と思う。ともあれ、後から色々と楽しみの増える訳で、これはこれで悪くないと本人は考えている。
しかし、そこへ3.11である。例え公演の幕は上がっても、このオールスター・キャストが全員顔を揃える、その可能性は限りなく低くなった。まず最初は指揮者で、招聘元プロモーターは5月7日付ブログ記事に、
「音楽監督のジェイムズ・レヴァインは、現在治療中の背中の痛みによる体調不良により、5月15日から療養に入ることが、本日未明にメトロポリタン・オペラより発表されました。従いまして6月の日本公演は已む無く降板することになり、代わりまして首席客演指揮者のファビオ・ルイジが指揮致します」と、発表する。
続いて13日のエボリ公女とタイトル・ロールで、
「オルガ・ボロディナが喉の不調による二ヶ月間の休養との医師の診断により、日本公演への出演を降板することになりました。ボロディナに代わりまして、エカテリーナ・グバノヴァが出演致します。また、ヨナス・カウフマンは東日本大震災及び福島第一原発の事故の影響を懸念し、来日を断念致しました。カウフマンに代わりましてヨンフーン・リーが出演致します」で、ある。
そして極め付けは31日、
「最終的に来日を断念致しましたネトレプコに代わりまして、≪ラ・ボエーム≫のミミ役は全公演をバルバラ・フリットリが務めます。また、フリットリの≪ラ・ボエーム≫への出演を受けまして、≪ドン・カルロ≫のエリザベッタ役は、マリーナ・ポプラフスカヤに変更となりますことを謹んでお知らせ致します」と、なる。
さすがに配役自体には鷹揚な僕でも、現に日本まで来てくれたフリットリまで、「ドン・カルロ」から居なくなったのには呆気に取られた。ネトコのミミなら、今後も聴くチャンスのあるかも知れない。だが、五幕版のエリザベッタをフリットリで聴く機会は、恐らく僕の残り少ない後半生に訪れる事は無さそうだ。こうなれば来て頂ける演奏家は何方でも有難いと、最早お題目のように唱えるしかない。
今日も愛知県芸の会場入口でプログラムを全員に配っていたが、こんなものを二冊も貰っても重たいだけだ。サイトウ・キネンや一昔前のヘネシー・オペラのように、開演前や休憩中にワインやブランデーを振る舞う、その程度のサービスがあってもバチは当らんと思う。民放テレビ局主催のオペラ公演の場合、局員と思しき親爺どもが、ロビーで何をするでもなく屯しているが、ああ云った連中には偶に、傲岸不遜としか言いようのない輩が居る。今回は流石に、連中にも多少の自覚はあったようだが、更にもう一歩進めてレセプショニストとしての責任感を持たせ、観客に酒をサーブさせる位の配慮は欲しい処だ。
僕が初めて観た「ドン・カルロ」は、びわ湖ホール・プロデュースオペラの記念すべき第一作で、これが五幕版の日本初演。従って五幕版の見物は今日で二回目だが、「ドン・カルロ」は一幕の有ると無いでは、全然違うとシミジミ思う。冒頭のフォンテンブローの森の場面から、サン・ジェスト修道院にスペイン王宮等、それぞれ丁寧に作り込まれたセットのあって、さすがにメトの舞台はゼフィレッリでなくとも豪華と感心する。但し、30年も前の演出で、セットも今回の引越し公演の終われば壊すそうだし、その上にタイトル・ロールとエリザベッタは飛び込みで駆け付けている。さすがに前を向いて手を広げるだけではないが、みんなテキトーに動いているだけで、演技面は何も無いに等しかった。
昨日の軽やかなプッチーニから一転し、底鳴りのするような低音の響きに支えられたオケの音が、ピットから立ち昇って来る。ああ、これがヴェルディの“音”だと、胸の熱くなる思いだ。しかし、感激したのは其処まで。ボエームをアッサリ片付けたルイジは、「ドン・カルロ」でも煽る事もせず、正面から寄り切る横綱相撲のように、重厚に生真面目に音楽を進める。要するに、イタオペらしい熱い盛り上がりのないのが、ちっとも面白くない。滅多に聴けないヴェルディの大作で、指揮者の思い入れに乏しいのでは、本当にガッカリさせられる。コーラスにも纏まりはあっても、70名近い大人数にしてはパワーに乏しい。メトのコーラスって、こんなもんだったかな?
取り合えず、五人の主役歌手達の声を楽しむ方向に切り替えるが、これも相当に微妙だった。カウフマンの代役のヨン様は柔らかいリリコの声質で、スピントする高音に美しく伸びる中音域もある。テンペラメントの豊かで、歌にパセティックな盛り上がりのある点も、ヴェルディ・テノールとしてのポイントは高い。この人は代役としての職責を充分に果してくれたと思う。残念ながら日本には、これ程のヴェルディ歌いは居ませんね。
最も注目と云うか問題なのが、土壇場でフリットリの代役に決まったポプラフスカヤ。奥に引っ込んだまま前へ出て来ない、つまり鼻腔を響かせず、後頭部の一点にしか響きのポイントの無い発声法。従って音色の変化の無い、頗る単調な歌になって終う。要するに、五幕版のエリザベッタを歌える人材を急場に探せば、この程度の歌手しか見付からないと云う単純な話である。それでも五幕での「世の虚しさを知る神」のアリアは、欠点は欠点として、それなりの熱唱で盛り上げてくれた。
ボロディナの代役のグバノヴァは、キチンとしたメリスマのテクニックのある、倍音の響きの美しいメゾ。四幕の「酷い運命よ」のアリアは熱演で、声に力のある処を存分に聴かせてくれる。まあ、ボロディナと比べて終うと不満の残るが、そんな無い物強請りを言っても仕方無い。
さて、当初発表から変更の無かった、ホロストフスキーとパーペの二人。二幕での両者のダイアローグは、二人の大歌手の丁々発止の遣り取りで、これは充分に聴き応えのある。ホロ君は高音でスピントする、響きの豊かなバリトン。ヴェルディなのでテンポはコロコロ変わるが、彼の歌には清潔感のあるリズムの運びがある。ただ、声の力自体は今ひとつで、その実力を充全に発揮したとは思えない。
パーぺは押しも押されぬ大歌手だし、四幕の「妻は私を一度も愛した事は無い」のアリアも、大物らしく余裕綽々の歌い振り。高音部もバスの音色のまま剛直に声を伸ばし、端正な歌を唱う。でも、気持ち良さそうに歌ってはいるが、フィリッポ二世の王者としての悲痛な寂寥は、我々聴衆に全く伝わっては来ない。良い声で綺麗な歌を唱うだけで、これは甚だしい期待外れに終わった。
日本にお越し頂ける外来演奏家は、何方でも有り難いと云うのも、やや建前っぽくなって来た。実は僕は、メトのキャンセルになれば臨時収入のあるなぁ、と妙な期待をしていた。こんな燃えカスのブスブス燻っているような、プッチーニとヴェルディを聴かされれれば、本当にメトは良く来てくれた!とは言い難い。フクシマ・ダイイチの状況がアレでも、結局は演奏の内容次第。そこは平時も非常時も同じなのだ。
2011年6月5日(日)15:00/愛知県芸術劇場
指揮/ファビオ・ルイジ
メトロポリタン・オペラ管弦楽団
メトロポリタン・オペラ合唱団
演出/ジョン・デクスター
美術/デヴィッド・レッパ
照明/ギル・ウェクスラー
衣装/レイ・ディフェン
ドン・カルロ/ヨンフン・リー
エリザベッタ/マリーナ・ポプラフスカヤ
ロドリーゴ/ディミトリ・ホロストフスキー
エボリ公女/エカテリーナ・グバノヴァ
フィリッポ二世/ルネ・パーペ
宗教裁判長/ステファン・コーツァン
小姓テバルド/レイラ・クレア
修道士/ジョーダン・ビシュ
レルマ伯爵/スティーヴン・ガートナー
布告人/アダム・ローレンス・ハースコウィッツ
天の声/オルガ・マカリナ
僕には元々、スター歌手を聴きたいと云う欲求の希薄で、今回もメトの「ドン・カルロ」を聴きたくて名古屋まで来た。郵送でチケットを受け取り、そこで初めて配役表をジックリ眺めると、タイトル・ロールはカウフマンでエリザベッタはフリットリ、ボロディナのエボリとパーペのフィリッポ二世に、ロドリーゴはホロストフスキーとあり、こりゃ凄い豪華メンバーだなぁ、と初めて気付く迂闊さである。序でに言うと、同時に五幕版上演も知ったが、こちらは主催者側の宣伝不足と思う。ともあれ、後から色々と楽しみの増える訳で、これはこれで悪くないと本人は考えている。
しかし、そこへ3.11である。例え公演の幕は上がっても、このオールスター・キャストが全員顔を揃える、その可能性は限りなく低くなった。まず最初は指揮者で、招聘元プロモーターは5月7日付ブログ記事に、
「音楽監督のジェイムズ・レヴァインは、現在治療中の背中の痛みによる体調不良により、5月15日から療養に入ることが、本日未明にメトロポリタン・オペラより発表されました。従いまして6月の日本公演は已む無く降板することになり、代わりまして首席客演指揮者のファビオ・ルイジが指揮致します」と、発表する。
続いて13日のエボリ公女とタイトル・ロールで、
「オルガ・ボロディナが喉の不調による二ヶ月間の休養との医師の診断により、日本公演への出演を降板することになりました。ボロディナに代わりまして、エカテリーナ・グバノヴァが出演致します。また、ヨナス・カウフマンは東日本大震災及び福島第一原発の事故の影響を懸念し、来日を断念致しました。カウフマンに代わりましてヨンフーン・リーが出演致します」で、ある。
そして極め付けは31日、
「最終的に来日を断念致しましたネトレプコに代わりまして、≪ラ・ボエーム≫のミミ役は全公演をバルバラ・フリットリが務めます。また、フリットリの≪ラ・ボエーム≫への出演を受けまして、≪ドン・カルロ≫のエリザベッタ役は、マリーナ・ポプラフスカヤに変更となりますことを謹んでお知らせ致します」と、なる。
さすがに配役自体には鷹揚な僕でも、現に日本まで来てくれたフリットリまで、「ドン・カルロ」から居なくなったのには呆気に取られた。ネトコのミミなら、今後も聴くチャンスのあるかも知れない。だが、五幕版のエリザベッタをフリットリで聴く機会は、恐らく僕の残り少ない後半生に訪れる事は無さそうだ。こうなれば来て頂ける演奏家は何方でも有難いと、最早お題目のように唱えるしかない。
今日も愛知県芸の会場入口でプログラムを全員に配っていたが、こんなものを二冊も貰っても重たいだけだ。サイトウ・キネンや一昔前のヘネシー・オペラのように、開演前や休憩中にワインやブランデーを振る舞う、その程度のサービスがあってもバチは当らんと思う。民放テレビ局主催のオペラ公演の場合、局員と思しき親爺どもが、ロビーで何をするでもなく屯しているが、ああ云った連中には偶に、傲岸不遜としか言いようのない輩が居る。今回は流石に、連中にも多少の自覚はあったようだが、更にもう一歩進めてレセプショニストとしての責任感を持たせ、観客に酒をサーブさせる位の配慮は欲しい処だ。
僕が初めて観た「ドン・カルロ」は、びわ湖ホール・プロデュースオペラの記念すべき第一作で、これが五幕版の日本初演。従って五幕版の見物は今日で二回目だが、「ドン・カルロ」は一幕の有ると無いでは、全然違うとシミジミ思う。冒頭のフォンテンブローの森の場面から、サン・ジェスト修道院にスペイン王宮等、それぞれ丁寧に作り込まれたセットのあって、さすがにメトの舞台はゼフィレッリでなくとも豪華と感心する。但し、30年も前の演出で、セットも今回の引越し公演の終われば壊すそうだし、その上にタイトル・ロールとエリザベッタは飛び込みで駆け付けている。さすがに前を向いて手を広げるだけではないが、みんなテキトーに動いているだけで、演技面は何も無いに等しかった。
昨日の軽やかなプッチーニから一転し、底鳴りのするような低音の響きに支えられたオケの音が、ピットから立ち昇って来る。ああ、これがヴェルディの“音”だと、胸の熱くなる思いだ。しかし、感激したのは其処まで。ボエームをアッサリ片付けたルイジは、「ドン・カルロ」でも煽る事もせず、正面から寄り切る横綱相撲のように、重厚に生真面目に音楽を進める。要するに、イタオペらしい熱い盛り上がりのないのが、ちっとも面白くない。滅多に聴けないヴェルディの大作で、指揮者の思い入れに乏しいのでは、本当にガッカリさせられる。コーラスにも纏まりはあっても、70名近い大人数にしてはパワーに乏しい。メトのコーラスって、こんなもんだったかな?
取り合えず、五人の主役歌手達の声を楽しむ方向に切り替えるが、これも相当に微妙だった。カウフマンの代役のヨン様は柔らかいリリコの声質で、スピントする高音に美しく伸びる中音域もある。テンペラメントの豊かで、歌にパセティックな盛り上がりのある点も、ヴェルディ・テノールとしてのポイントは高い。この人は代役としての職責を充分に果してくれたと思う。残念ながら日本には、これ程のヴェルディ歌いは居ませんね。
最も注目と云うか問題なのが、土壇場でフリットリの代役に決まったポプラフスカヤ。奥に引っ込んだまま前へ出て来ない、つまり鼻腔を響かせず、後頭部の一点にしか響きのポイントの無い発声法。従って音色の変化の無い、頗る単調な歌になって終う。要するに、五幕版のエリザベッタを歌える人材を急場に探せば、この程度の歌手しか見付からないと云う単純な話である。それでも五幕での「世の虚しさを知る神」のアリアは、欠点は欠点として、それなりの熱唱で盛り上げてくれた。
ボロディナの代役のグバノヴァは、キチンとしたメリスマのテクニックのある、倍音の響きの美しいメゾ。四幕の「酷い運命よ」のアリアは熱演で、声に力のある処を存分に聴かせてくれる。まあ、ボロディナと比べて終うと不満の残るが、そんな無い物強請りを言っても仕方無い。
さて、当初発表から変更の無かった、ホロストフスキーとパーペの二人。二幕での両者のダイアローグは、二人の大歌手の丁々発止の遣り取りで、これは充分に聴き応えのある。ホロ君は高音でスピントする、響きの豊かなバリトン。ヴェルディなのでテンポはコロコロ変わるが、彼の歌には清潔感のあるリズムの運びがある。ただ、声の力自体は今ひとつで、その実力を充全に発揮したとは思えない。
パーぺは押しも押されぬ大歌手だし、四幕の「妻は私を一度も愛した事は無い」のアリアも、大物らしく余裕綽々の歌い振り。高音部もバスの音色のまま剛直に声を伸ばし、端正な歌を唱う。でも、気持ち良さそうに歌ってはいるが、フィリッポ二世の王者としての悲痛な寂寥は、我々聴衆に全く伝わっては来ない。良い声で綺麗な歌を唱うだけで、これは甚だしい期待外れに終わった。
日本にお越し頂ける外来演奏家は、何方でも有り難いと云うのも、やや建前っぽくなって来た。実は僕は、メトのキャンセルになれば臨時収入のあるなぁ、と妙な期待をしていた。こんな燃えカスのブスブス燻っているような、プッチーニとヴェルディを聴かされれれば、本当にメトは良く来てくれた!とは言い難い。フクシマ・ダイイチの状況がアレでも、結局は演奏の内容次第。そこは平時も非常時も同じなのだ。