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ヴェルディ「ドン・カルロ」

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<メトロポリタン・オペラ2011日本公演/五幕イタリア語版上演>
2011年6月5日(日)15:00/愛知県芸術劇場

指揮/ファビオ・ルイジ
メトロポリタン・オペラ管弦楽団
メトロポリタン・オペラ合唱団

演出/ジョン・デクスター
美術/デヴィッド・レッパ
照明/ギル・ウェクスラー
衣装/レイ・ディフェン

ドン・カルロ/ヨンフン・リー
エリザベッタ/マリーナ・ポプラフスカヤ
ロドリーゴ/ディミトリ・ホロストフスキー
エボリ公女/エカテリーナ・グバノヴァ
フィリッポ二世/ルネ・パーペ
宗教裁判長/ステファン・コーツァン
小姓テバルド/レイラ・クレア
修道士/ジョーダン・ビシュ
レルマ伯爵/スティーヴン・ガートナー
布告人/アダム・ローレンス・ハースコウィッツ
天の声/オルガ・マカリナ


 僕には元々、スター歌手を聴きたいと云う欲求の希薄で、今回もメトの「ドン・カルロ」を聴きたくて名古屋まで来た。郵送でチケットを受け取り、そこで初めて配役表をジックリ眺めると、タイトル・ロールはカウフマンでエリザベッタはフリットリ、ボロディナのエボリとパーペのフィリッポ二世に、ロドリーゴはホロストフスキーとあり、こりゃ凄い豪華メンバーだなぁ、と初めて気付く迂闊さである。序でに言うと、同時に五幕版上演も知ったが、こちらは主催者側の宣伝不足と思う。ともあれ、後から色々と楽しみの増える訳で、これはこれで悪くないと本人は考えている。

 しかし、そこへ3.11である。例え公演の幕は上がっても、このオールスター・キャストが全員顔を揃える、その可能性は限りなく低くなった。まず最初は指揮者で、招聘元プロモーターは5月7日付ブログ記事に、
「音楽監督のジェイムズ・レヴァインは、現在治療中の背中の痛みによる体調不良により、5月15日から療養に入ることが、本日未明にメトロポリタン・オペラより発表されました。従いまして6月の日本公演は已む無く降板することになり、代わりまして首席客演指揮者のファビオ・ルイジが指揮致します」と、発表する。

 続いて13日のエボリ公女とタイトル・ロールで、
「オルガ・ボロディナが喉の不調による二ヶ月間の休養との医師の診断により、日本公演への出演を降板することになりました。ボロディナに代わりまして、エカテリーナ・グバノヴァが出演致します。また、ヨナス・カウフマンは東日本大震災及び福島第一原発の事故の影響を懸念し、来日を断念致しました。カウフマンに代わりましてヨンフーン・リーが出演致します」で、ある。

 そして極め付けは31日、
「最終的に来日を断念致しましたネトレプコに代わりまして、≪ラ・ボエーム≫のミミ役は全公演をバルバラ・フリットリが務めます。また、フリットリの≪ラ・ボエーム≫への出演を受けまして、≪ドン・カルロ≫のエリザベッタ役は、マリーナ・ポプラフスカヤに変更となりますことを謹んでお知らせ致します」と、なる。

 さすがに配役自体には鷹揚な僕でも、現に日本まで来てくれたフリットリまで、「ドン・カルロ」から居なくなったのには呆気に取られた。ネトコのミミなら、今後も聴くチャンスのあるかも知れない。だが、五幕版のエリザベッタをフリットリで聴く機会は、恐らく僕の残り少ない後半生に訪れる事は無さそうだ。こうなれば来て頂ける演奏家は何方でも有難いと、最早お題目のように唱えるしかない。

 今日も愛知県芸の会場入口でプログラムを全員に配っていたが、こんなものを二冊も貰っても重たいだけだ。サイトウ・キネンや一昔前のヘネシー・オペラのように、開演前や休憩中にワインやブランデーを振る舞う、その程度のサービスがあってもバチは当らんと思う。民放テレビ局主催のオペラ公演の場合、局員と思しき親爺どもが、ロビーで何をするでもなく屯しているが、ああ云った連中には偶に、傲岸不遜としか言いようのない輩が居る。今回は流石に、連中にも多少の自覚はあったようだが、更にもう一歩進めてレセプショニストとしての責任感を持たせ、観客に酒をサーブさせる位の配慮は欲しい処だ。

 僕が初めて観た「ドン・カルロ」は、びわ湖ホール・プロデュースオペラの記念すべき第一作で、これが五幕版の日本初演。従って五幕版の見物は今日で二回目だが、「ドン・カルロ」は一幕の有ると無いでは、全然違うとシミジミ思う。冒頭のフォンテンブローの森の場面から、サン・ジェスト修道院にスペイン王宮等、それぞれ丁寧に作り込まれたセットのあって、さすがにメトの舞台はゼフィレッリでなくとも豪華と感心する。但し、30年も前の演出で、セットも今回の引越し公演の終われば壊すそうだし、その上にタイトル・ロールとエリザベッタは飛び込みで駆け付けている。さすがに前を向いて手を広げるだけではないが、みんなテキトーに動いているだけで、演技面は何も無いに等しかった。

 昨日の軽やかなプッチーニから一転し、底鳴りのするような低音の響きに支えられたオケの音が、ピットから立ち昇って来る。ああ、これがヴェルディの“音”だと、胸の熱くなる思いだ。しかし、感激したのは其処まで。ボエームをアッサリ片付けたルイジは、「ドン・カルロ」でも煽る事もせず、正面から寄り切る横綱相撲のように、重厚に生真面目に音楽を進める。要するに、イタオペらしい熱い盛り上がりのないのが、ちっとも面白くない。滅多に聴けないヴェルディの大作で、指揮者の思い入れに乏しいのでは、本当にガッカリさせられる。コーラスにも纏まりはあっても、70名近い大人数にしてはパワーに乏しい。メトのコーラスって、こんなもんだったかな?

 取り合えず、五人の主役歌手達の声を楽しむ方向に切り替えるが、これも相当に微妙だった。カウフマンの代役のヨン様は柔らかいリリコの声質で、スピントする高音に美しく伸びる中音域もある。テンペラメントの豊かで、歌にパセティックな盛り上がりのある点も、ヴェルディ・テノールとしてのポイントは高い。この人は代役としての職責を充分に果してくれたと思う。残念ながら日本には、これ程のヴェルディ歌いは居ませんね。

 最も注目と云うか問題なのが、土壇場でフリットリの代役に決まったポプラフスカヤ。奥に引っ込んだまま前へ出て来ない、つまり鼻腔を響かせず、後頭部の一点にしか響きのポイントの無い発声法。従って音色の変化の無い、頗る単調な歌になって終う。要するに、五幕版のエリザベッタを歌える人材を急場に探せば、この程度の歌手しか見付からないと云う単純な話である。それでも五幕での「世の虚しさを知る神」のアリアは、欠点は欠点として、それなりの熱唱で盛り上げてくれた。

 ボロディナの代役のグバノヴァは、キチンとしたメリスマのテクニックのある、倍音の響きの美しいメゾ。四幕の「酷い運命よ」のアリアは熱演で、声に力のある処を存分に聴かせてくれる。まあ、ボロディナと比べて終うと不満の残るが、そんな無い物強請りを言っても仕方無い。

 さて、当初発表から変更の無かった、ホロストフスキーとパーペの二人。二幕での両者のダイアローグは、二人の大歌手の丁々発止の遣り取りで、これは充分に聴き応えのある。ホロ君は高音でスピントする、響きの豊かなバリトン。ヴェルディなのでテンポはコロコロ変わるが、彼の歌には清潔感のあるリズムの運びがある。ただ、声の力自体は今ひとつで、その実力を充全に発揮したとは思えない。

 パーぺは押しも押されぬ大歌手だし、四幕の「妻は私を一度も愛した事は無い」のアリアも、大物らしく余裕綽々の歌い振り。高音部もバスの音色のまま剛直に声を伸ばし、端正な歌を唱う。でも、気持ち良さそうに歌ってはいるが、フィリッポ二世の王者としての悲痛な寂寥は、我々聴衆に全く伝わっては来ない。良い声で綺麗な歌を唱うだけで、これは甚だしい期待外れに終わった。

 日本にお越し頂ける外来演奏家は、何方でも有り難いと云うのも、やや建前っぽくなって来た。実は僕は、メトのキャンセルになれば臨時収入のあるなぁ、と妙な期待をしていた。こんな燃えカスのブスブス燻っているような、プッチーニとヴェルディを聴かされれれば、本当にメトは良く来てくれた!とは言い難い。フクシマ・ダイイチの状況がアレでも、結局は演奏の内容次第。そこは平時も非常時も同じなのだ。

グルック「オルフェオとエウリディーチェ」

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<足本憲治編曲〜ウィーン版イタリア語上演/プレミエ即千秋楽>
2011年6月10日(金)19:00/いずみホール

指揮&ピアノ/河原忠之
いずみシンフォニエッタ大阪
関西二期会合唱団

演出/岩田達宗
照明/原中治美

オルフェオ/福原寿美枝
エウリディーチェ/尾崎比佐子
アモーレ/石橋栄実


 グルックの超有名作品「オルフェオとエウリディーチェ」だが、これを僕は初めて観る。音楽史的に重要な作品と喧伝されても、聴かない内は何が革新的なのか分からない。今日、実際に「オルフェオ」を聴いて思うのは、まず音楽の簡明な力強さだ。それを感じ取れただけでも、今回の上演を観に来た甲斐はあったのかも知れない。

 お話しは毎度お馴染みギリシャ神話から、音楽の神オルフェウスとその妻エウリディーチェの悲恋物語。僕の大好きなモンテヴェルディ「オルフェウス」と同じ題材だが、グルックさんがその楽譜を入手し、先人の業績を研究したのかは知らない。グルックの“オペラ改革”を約めて言えば、言葉に寄り添う音楽を、そして劇的な展開を重視する姿勢だろうか。これを考えてみれば、17世紀初頭に誕生したばかりの“オペラ”と呼ばれるジャンルに参入し、芸術分野として確立させたモンテヴェルディの偉大な業績への回帰と云える。

 17世紀初頭、フィレンツェのカメラータ御一党様が創始したオペラで、現代に楽譜の伝えられた作品である、ペーリの「エウリディーチェ」とカヴァリエーリの「魂と肉体の劇」を、僕は亡くなられた若杉弘さんの指揮する、東京室内歌劇場の公演で聴いている。平たく言って終えば、幾ら若杉さんの指揮と云えども、音楽史的な意味しか無い作品と思う。音楽ジャンルとしての“オペラ”の成立は、モンテヴェルディの劇的性格描写と、楽器固有の音色と性能を追求する天才に全てを負っている、それが音楽史上の事実である。

 その後のバッロク時代のオペラ・セリアは、カストラート等のスター歌手によるテクニック誇示の場となる。ハッセとかヨメッリとかのオペラを、レパートリーに組み込むオペラ・ハウスは世界中の何処を探しても無いし、僕も聴いた事は無いが、ヘンデルのオペラはピリオド楽器の隆盛と共に復活し、欧米では頻繁に上演されているようだ。あれは歌手が名技を披露するオペラの典型例で、要するにアリアの連続の箸休めにレチタティーヴォを挟む、甚だ単純な構成である。勿論、ヘンデルだから音楽自体は美しいけれども…。

 結局、グルックのオペラ改革は、オペラとは何ぞやとの問い直しで、その答えはギリシャ古典劇に立ち帰れと云う、ペーリやカッチーニのカメラータの主張と同じ結論に至る。モンテヴェルディにより芸術として確立したオペラは、ここで漸く原点に立ち帰って新たなスタートを切り、その直後にモーツァルトの快進撃が始まる。

 と云うような話は、実はいずみホールでのオペラ見物の後に考えた事。例によって一切の予習をしない僕は、なーんも考えず上演に接する内、そもそも何故に今日の指揮者と演出家は、このグルックのオペラを取り上げたのか、疑問の膨らんだ次第。貰ったプログラムを読むと、演出家はコレペティトゥール出身の指揮者に、選曲も上演形態も丸投げしたフシがある。これを引き受けた側のコレペティ氏は、「まずオリジナルには無いピアノを使用して新しい響きを追求する」。「アレンジの主眼は歌手との絆の結び付きを深める為に、そしてドラマを音によって作り出す為とご理解頂きたい」と、予防線を張っている。しかし、何と言われようと、今日の上演の不可解な点は変わらない。

 まず、そのピアノの響きが重い。スタインウェイのピアノの響きは、只ひたすら重い。のべつ幕なしにピアノの音が聴こえ、アリアとレチタティ−ヴォの区別も曖昧になる。だからバロック的な強弱のメリハリも無く、全体にのっぺりとした演奏になる。この指揮者は恐らく、歌よりも楽器を重視する姿勢だろうが、本来ドラマの深さと音色の重さには、何の関連性も無い筈。今時、モーツァルトのレチタティーヴォで、チェンバロの代わりにピアノを使うアホは居ないし、軽い音で深いドラマを作るのが、ヴィーン古典派のオペラだろう。でも、イタオペのコレペティには、未だレチタティーヴォにピアノを使う、何とも非音楽的な工夫を凝らす輩の居る訳だ。

 出ずっぱりの主役であるオルフェオの福原は、さすがに頭の良い歌手で、音楽のスタイルは良く把握した歌い振り。でも、本来はカストラートに当てた役で音域自体が低く、音色の変化は付け難く、単調な重たい歌になって終う。また、セットの何も無い舞台で別にする事もなく、演技は身を捩って嘆くのみで持て余し気味。舞台上の見所にも乏しく、やや退屈する。

 昨年のドニゼッティ「マリア・ストゥアルダ」の素晴しかったエウリディーチェの尾崎は、相変わらず美しいリリコの声質で、軽やかなソット・ヴォーチェも上手だし、高音部で鋭くスピントする力にも欠けていない。独りでは単調だったアルトのオルフェオも、相手役にソプラノのエウリディーチェを得れば、充分に聴き応えのあるデュエットを歌ってくれる。

 アモーレの石橋の入れば、その軽やかなソプラノでホッと一息を吐ける筈と期待したが、彼女は先太りの濃い歌い回しで、全く様式感を欠いていた。一昨年のモーツァルト「イドメネオ」でも、力み返っておられたし、レジェーロな声でも歌える役柄は相当に限定されている様子。そもそも、ボーイ・ソプラノの役である事を理解しておらず、もう少し頭を柔らかくしてオペラに取り組んで頂きたく思う。

 これまで二期会のコーラスに感心した験しは無かったのだが、今日は美しく堅固なアンサンブルで、とても良かった。大人数ではボロの出ても、頭数を絞れば良い結果の出るのは、びわ湖ホールの例で実証済みと云える。コーラスは上演の良いアクセントになったが、三人の歌手と合唱のみで、この長丁場を持たせるのは至難の業。バレエ・シーンの重要となる所以だが、経費削減の為か全てバッサリと切り捨てられ、これも今日の上演の足を大いに引っ張った。

 モダン楽器によるオペラ上演には、事前に警戒心を抱くべきだったが、毎年いずみホールオペラは良い企画を立てるので、今回は油断があった。これを反省点として、今後は更に見物すべきオペラ上演を厳選したいと自戒するが、果たして上手く行きますかどうか、自分でも今ひとつ心許無いのである。

タリス・スコラーズ2011日本公演

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<ヴィクトリア没後四百年記念〜イギリスとスペインの音楽>
2011年6月11日(土)14:00/兵庫県立芸術文化センター

ザ・タリス・スコラーズ The Tallis Scholars
指揮/ピーター・フィリップス 

ソプラノ/ジャネット・コックスウェル/エイミー・ハワース
エイミー・ウッド/セシリア・オズモンド
アルト/パトリック・クライグ/ルース・マッセイ
テノール/マーク・ドーベル/クリストファー・ワトソン
バス/ドナルド・グレイグ/ロバート・マクドナルド

バード「Laudibus in sanctis 主を賛美もて祝え(五声)/
Ave verum corpus アヴェ・ヴェルム・コルプス(四声)」
シェパード「Sacris solmniis この聖なる儀式に(八声)/
Verbum caro 御言葉は肉となり(六声)」
タリス「Lamentations of Jeremiah エレミアの哀歌〜第1部」(五声)
ヴィクトリア「Officium Defunctorum 死者のための聖務曲集(1605)」
1.Lectio:Taedet animam meam レクツィオ〜我が魂は萎え(四声)
Missa pro defunctis レクイエム(六声)
2.Introitus イントロイトゥス
3.Kyrie キリエ
4.Graduale グラドゥアーレ
5.Offertorium オッフェルトリウム
6.Sanctus サンクトゥス
7.Agnus Dei アニュス・デイ
8.Communio コンムニオ
9.Motectum:Versa est in luctum 葬送モテトゥス〜悲しみに引き戻され(六声)
10.Responsorium:Libera me レスポンソリウム〜我を解き放ち給え(六声)


 前回の来日ではびわ湖ホール公演を行ったタリスコだが、今回は更にオオバコの兵庫芸文で公演を打つ。幾らご奉仕価格の兵庫芸文と云えども、二千名収容の大ホール客席を九分通り埋め尽くす、恐るべしタリスコの動員力である。古楽の分野で、これだけ安定した人気を保つヴォーカル・アンサンブルは他に無く、今やタリスコの一人勝ち状態。ライバルと目された、シックスティーンやヒリアード・アンサンブルは随分とご無沙汰で、最近の状況に疎くなっている僕としては、未知の新興勢力の招聘にも期待したい。

 何時ものように確保した最安席は、谷底を見下ろすような四階席最後列だが、そんなに舞台は遠く感じない。むしろ、このホールのクリアーな音響特性は、タリスコの純正なハーモニーを響かせるのに打って付けと感じる。コンサートの冒頭はバードのモテット。ピーターは速目のテンポで、何時ものように爽やかで豊麗な響きを紡ぎ出す。

 この二週間程、立て続けにオペラ五本を聴き、耳がヴィブラートに慣らされたのか、今日は高音部でフォルテになるとやや音色の硬くなる、ソプラノのノン・ヴィブラートが妙に新鮮に感じられる。今回のバスの二人組は高目に響く、ややバリトンぽい声質だが、本当に力まない響きだけの低音も相変らず。鉄板の定番曲「アヴェ・ヴェルム・コルプス」は、さすがに中間部のピアニシモが絶品の美しさ。遅目のテンポと、メゾピアノまでの控え目な音量で推移する演奏で、伸びやかなソプラノも美しい。

 シェパードの八声モテットはトゥッティと、バスの二人が歌う導唱を交互に置く構成。これも遅目のテンポだが、フォルテの音量を出す際のソプラノが力み過ぎで、フラット気味に聴こえて終う。これも定番のエレミア哀歌は、五声曲をソプラノとバスに二名づつを充てる、八名での演奏。この人数では、ハーモニーを伸ばすとパート間に音の揺れが聴こえて終い、一パート一名が望まれる。メランコリックな情感よりも、柔らかなハーモニーを前面に押し出す速目のテンポの演奏で、“イェルサレム”のリフレインに、爽やかな美しさを感じさせる。

 前半の最後はシェパードの六声モテットで、こちらはテノールの導唱付き。この曲で漸くソプラノのピッチは修正され、フォルテの音量でも真っ当なチューニングのポジションに入る。最後のフォルテシモでソプラノが思い切り声を出せば、ハーモニーの揺れは左程に目立たなくなる。これで取り合えず、後半のメイン・プロへの準備は整った。

 良く知られているように、ヴィクトリアにはレクイエムが二曲あり、今日演奏する六声曲は作曲家最後の作品とされ、ルネサンス期を代表する大作にして名曲。楽譜は1605年の出版で、六楽章のレクイエム・ミサに三曲のモテットの付く構成。このオマケのモテットは、万葉集の長歌に対する反歌のようなもので、レクイエムの内容を補足する役目を担うらしい。

 モテットをミサの前にやるのか、或いは後にやるのかは演奏側の胸先三寸で決められ、タリスコの場合は三曲の内、「朝課の第2レクツィオ」を冒頭に演奏し、後の二曲はミサの後に回している。朝課は夜明け前の勤行で、レクツィオは読経の意。正式の典礼では、レクツィオとレスポンソリウムは対にして歌われるので、この二曲を最初と最後に分ける遣り口に宗教的な意味は無く、純粋に音楽的効果を狙う措置と思われる。

 その冒頭のレクツィオは、レガートよりも言葉を大事にするリズム重視の演奏。ミサ七楽章でのピーターは、レガートとピアニシモに徹したので、この曲を冒頭に持って来た意図は、本体部分との対比にあると納得する。また、六声のレクイエムは第2ソプラノにグレゴリオ聖歌の定旋律を置くスタイルで、ポリフォニーの対旋律に回った第1ソプラノの力みも取れ、柔らかく美しい声を聴かせてくれる。

 レクイエムからキリエに架けての歌い口は、ひたすらに柔らかく優し気なニュアンスに満ちているが、フレーズの終わりをフッと切り、タメを作る指揮者の芸も効果的。美しく響かせる弱音のハーモニーと、ポリフォニーの各声部の出し入れとのバランスを取るスタイルも、オフェルトリウムやサンクトゥスに差し掛かかればフォルテを出すが、そこでも矢張り柔らかい音色を保っている。コンムニオでは第1ソプラノとバスの張り合うのが楽しく、テノールも良いアクセントとなり、ルネサンス・ポリフォニーの楽しみを満喫する。

 最後に歌われたレスポンソリウムは、熱情を込めた“movendi sunt et terra”のリフレインが印象的で、しかも「キリエ・エレイソン」の三位一体のお念仏で静かに締め括られる。この曲を最後に置いたのは、聴後の余韻を保たせるピーターの心憎い演出と、僕は深く納得した。

 初めて来日する外人さんが、フクシマ・ダイイチで日本を忌避する気持ちは分かる。既に何度も来日している演奏家も、放射線量云々での来日断念なら、致し方のない事と諦めるしかない。そんな鬱屈した気分の中、粛々と13回目の来日を遂行してくれたタリス・スコラーズとピーター・フィリップスへ、今は素直に感謝の意を述べたい。

橘高校合唱団第9回定期演奏会

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<旧県立福島女子高校合唱団通算第53回定期演奏会>
2011年7月13日(水)18:00/福島市音楽堂

指揮/大竹隆
ピアノ/鈴木あずさ
福島県立橘高校合唱団

キャプレ「Messe a trios voix」(全曲)
ガルッピ「Judicabit in nationibus 主は諸国を裁き」(詩篇110番)
上田真樹「僕が守る」(第78回NHK全国学校音楽コンクール課題曲)
鈴木輝昭「たいまつをかざして…(火へのオード)/レモン哀歌/裸形(智恵子抄)」
ミュージカル「ウエストサイド物語」


 早朝、大阪発仙台行きの夜行バスで福島駅前に到着するが、ここで下車したのは僕一人。先ほど立ち寄った郡山駅前でも誰も降りず、バスは他の乗客を載せたまま、仙台へ向け走り去る。福島駅に行くと、構内が何だか薄暗い。観光案内所で手洗いを借りると、節電のため便座の洗浄機は使用中止。更に冷水機も、手を乾かすドライヤーも停止中。街中に出ると、コンビニの薄暗いのも目に付く。まあ、これは今までが明る過ぎたのだろうが。

 遠く離れた土地で報道だけを見ていると、福島は一体どんな魔境になって終ったのかと思う。だが、朝の駅前にはサラリーマンや高校生が足早に行き交い、震災以前と何も変わらない日常の風景がある。市内を歩くと幼稚園から高校に至るまで、校庭に人影の見えない事に気付く。保育所の前を通り、一人の母親が幼児を送り届けている姿を見掛け、或いは停留所でバスを待っている際、隣りに妊婦らしい若い女性の立つと、本当に胸塞ぐ想いだ。

 やはり街角で見掛けた、工事中らしい公園の中に入ってみると、重機の置かれた傍らに、剥ぎ取られた芝生が積み上げられている。あの辺りにセシウムの堆積し、放射線を発しているのかと、僕はボンヤリ眺める。雨のポツポツ落ちて来ると、僕は慌てて折り畳み傘を取り出すが、地元の人達には無頓着にそのまま歩いている人も多い。既に雨を警戒する時期は過ぎたのか、それとも単なる慣れなのか。人間の目には見えず、完全に無味無臭の放射性物質は、ただ漠とした不安を掻き立てるだけだ。

 今年、橘高校が定演を予定していた福島県文化センターは、震災で大きなダメージを受けて休館となり、已む無く福島市音楽堂での平日開催となった。音楽堂へ向かう途次、文化センターにも立ち寄ったが、窓ガラスの大破して無残な外観を晒している上、電気系統か水回りのイカレているらしく、業者の入って何か工事を行っている。本格稼動まで、まだ時間の掛かりそうな様子だった。

 一方の音楽堂は以前と変わらず、緑に囲まれて静穏な佇まいを保っている。このホールには放射能汚染の喧騒を離れ、音楽へ耳を傾ける閑雅な雰囲気がある。“合唱王国”と呼び慣らわされる福島県の為、せめて音楽堂の震災から守られた事を慰めとしたい。

 橘高校の今年度の陣容は女声46名で、アルトに男子生徒が二人。宗左近作詞・三善晃作曲の校歌の後、最初の曲目はキャプレの三声ミサ。過去記事を読み返してみると昨年は男声六名で、やはり三声ミサを歌っている。僕はその際、キャプレは女声に演奏させろと要望を出したが、今回それの通った形で何だか良く分からないが、ちょっと嬉しい。

 その女声でのキャプレ。プレリュードの趣のある「キリエ」は、しっとりとした滑り出しで悪くない。全曲で20分も掛からないミサの中で、大半を占める「グローリア」と「サンクトゥス」では、ダイナミズムの設定とデュナーミクの工夫は適切だが、全体の表現は淡彩に過ぎる。もっと明暗の切込みを深く、遅いか速いかテンポの白黒をハッキリさせる、バロック的な表現の望まれる。間奏曲的な「アニュス・デイ」から、最後の「オー・サルタリス」は、注意深いピアニシモとデュナーミクの味わい方が美しい。ただ、これは色々と仕掛ける程、長い曲では無いけれども。

 次は今年度コンクール曲の披露。全日本課題曲のガルッピを、僕は何時の人かも良く知らなかったが、調べてみると18世紀イタリアの作曲家なそうな。同時代のグルックやハッセやヨメッリ等が、オペラ・セリアの量産やら改革やらに励んだのに対し、専らオペラ・ブッファの製造に勤しんだ人らしい。まあ、何れにせよガルッピさんの宗教曲なんて、この平成の御世では滅多に聴けない珍品には違いない。

 ところが今回、合唱連盟が課題曲とした「Dixit Dominus」は伝ガルッピ作で、近年になってドレスデンで自筆譜が発見され、実はヴィヴァルディ作と断定された曲らしい。この辺りの事実関係は、ガルッピさんにもヴィヴァルディさんにも興味の乏しい僕としては、どうでも良い話だけれども。

 橘高校の演奏で聴くと、これはまたエライ単純な曲。ガルッピはアントニオ・ロッティの弟子で、作品がヴィヴァルディと混同される位だし、過渡期の作曲家とは云うものの、そのスタイルはバロックそのもの。ピアノ伴奏だったが、バロック音楽とスタインウェイでは水と油で、僕は甚だしい違和感を覚える。何故あんた等の頭上に鎮座する、パイプ・オルガンを使わない?と、思わず突っ込んで終う。演奏そのものは速いテンポ設定が快感で、その正確なリズム感の中での、フレージングの処理は抜群に上手い。巧みなスフォルツァンドと合わせ、時代様式をキチンと踏まえた演奏だけに、伴奏の変テコリンなのは残念だった。

 Nコン課題曲の上田真樹は、デフォルメしなければ他と差別化し難い曲と思うが、顧問教諭は専ら声で聴かせる素直な解釈を取る。でも、そんな風に考える事自体、僕もコンクールに毒されているのかも知れず、この指揮者にはご自身の音楽性を貫いて頂く方が良いのだろう。ただ、このホールの長い残響を生かし、フォルテシモはもっと柔らかく会場に響かせて欲しかった、とは思う。最近やや飽きの来ている輝やんから、「火へのオード」が今年のNコン自由曲。でも、このような激しい曲自体、音楽堂の音響特性に適合せず、素直に演奏を楽しめない。

 休憩後は、これも毎度お馴染み女子高生ミュージカル。今年の出し物は「ウエストサイド・ストーリー」で、作曲は佐渡裕や大植英次が口癖のように呼ばわる、レニー・バーンスタイン先生である。観ていて感じたのは、これはオリジナルから自分達で構成したのではなく、何処かの短縮ヴァージョンを基にしているような気がする。ネットに動画も溢れている時代だし、彼女達もお手本を探す努力をしたのだろうか。学芸会に毎年付き合っている僕としては、テキパキと手際良く片付けて欲しいとしか考えていないし、既成の台本を使ってくれるのは大歓迎だ。

 今回は暗転にナレーションを被せる工夫のあり、無音の時間の長いのは観客をイライラさせる事を学んだ様子で、ここにも進歩の跡はある。衣装に付いて、殆んどが女子生徒なのに役柄としては男女半々なのと、ジェット団とシャーク団の区別も付き難いので、紅白にキッパリ分ける等の工夫は欲しい。更に「アメリカ」と「トゥナイト」と「サムウェア」の三つのナンバーを、コーラスでやってくれたのは大変助かる。この場に集った聴衆は、みんな橘高校のコーラスを聴きに来ているのです。生徒さんのソロばっかしだと、ホント聴かされる方は大変なんすよ。

 「トゥナイト」ではコーラスをバックにマリアのソロがあり、この子はなかなか聴かせてくれて、これは拾い物のお楽しみ。ただ、パイプ・オルガンのあるバルコニー席にトニーとマリアの二人が上がり、ハッピー・エンドを延々と歌い上げるのには、さすがに苦笑させられる。皆さんご存知と思うけれども、このミュージカルの元ネタはシェイクスピアです。ハッピー・エンドの「ロメオとジュリエット」ってねぇ…。

 今日のコンサートの締め括りは、鈴木輝昭への委嘱作品「智恵子抄」全曲初演の筈だったが、三曲目となる「亡き人に」の楽譜は予想通り一枚も届かず、既に完成している二曲のみが演奏された。今年の夏の定演シーズン、何と輝やんは橘高校の他にも葵高校、福島東高校、安積黎明高校の四校からの委嘱を引き受けているらしい。商売繁盛はご同慶の至りだが、例え定演には間に合わずとも、八月末にあるコンクール県大会には間に合わせないと、委嘱作を自由曲とした学校は失格となるらしい。こりゃ夏休みの宿題を31日に纏めてやる、小学生みたいなもんですな。

 静謐な佳曲「レモン哀歌」を、指揮者はピアニシモから徐々に盛り上げ、前奏と同じピアノ伴奏の音型で静かに締め括る、全体を見通した設計が見事。「裸形」の後奏も最初の音型のヴァリエーションで、全曲を統一するテーマ設定の意図は分かるが、何故かイマイチ効果は揚がらない。そもそも、構成の頭に入り難い晦渋な曲で、楽譜を離れたデフォルメも必要ではないかと思う。アカペラの中間部で思い切ってテンポを落とし、ピアニシモで歌うとか…。でも、この組曲は全部を通して聴かないと、良く分からない処がある。全く早いトコ宿題片付けろよな、輝やん。

 アンコールは松田聖子「瑠璃色の地球」と、さだまさし「道化師のソネット」のラヴ・ソング二曲。

  悩んだ日もある
  哀しみにくじけそうな時も
  あなたがそこにいたから生きて来られた
  ガラスの海の向こうには広がりゆく銀河
  地球という名の船の誰もが旅人

  ひとつしかない
  私たちの星を守りたい
  (松本隆詞)

  僕達は小さな舟に哀しみという荷物を積んで
  時の流れを下ってゆく舟人たちのようだね
  君のその小さな手には持ちきれない程の哀しみを
  せめて笑顔が救うのなら
  僕は道化師になれるよ

  笑ってよ君のために
  笑ってよ僕のために
  いつか本当に笑いながら話せる日がくるから
  (さだまさし詞)

 こうして歌詞を引き写すと、この二曲を前途多難な試練の年に取り上げた、生徒さん方と顧問教諭の気持ちの伝わるような気がする。橘高校の定演を聴き終えた僕は、帰路も夜行バスでトンボ帰りする。仙台から戻って来たバスに福島駅前で乗り込んだのは、往路と同様に僕一人だった。

磐城壽〜鈴木酒造店

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                 「磐城壽・地縁復興純米酒」23BY


   「磐城壽」鈴木大介

    ご心配お掛けしました。思うにならず遅れましたこと、申し訳ございません。
   地震と映画のような大津波で私たちの住む請戸地区は全て無くなりましたが
   一家・製造スタッフ全員無事でした。着の身着のまま、九死に生かされたこと
   の意味を考え、今はただ前向きに進んで行くしかありません。当日出来なかっ
   た甑倒しの祝いを本日執り行い、被災地から取り上げた一本の酒を、自ら最後
   の一本にしないよう、スタッフとも最後にならないよう、労いと希望の宴にしたい
   と思います。

   同様に被災された方、頑張りましょう!


 「磐城壽」は福島県の浪江町請戸地区にある、自称「日本一海に近い酒蔵」鈴木酒造店のブランド名。江戸末期、天保年間の創業とされ、敷地に沿って高さ三メートルほどの堤があり、その向こうに太平洋が広がっていた。請戸は漁港の町で、大漁で港に戻った船主に漁協が酒を贈る風習のあり、漁の出来を「酒になったが?」と挨拶したそうな。「磐城壽」は大漁を「壽ぐ(ことほぐ)」酒として名付けられた。通称“壽”は、漁師に届けられる祝い酒だった。

 震災直後、鈴木さんは蔵の再開など考える事も出来なかったが、一時避難した隣町の小学校で浪江の知り合いから次々に声を掛けられた。「呑めなくなるのは寂しい」「再開の足しにしろ」。鈴木さんに小銭や紙幣を押し付ける。平和な時にしか酒は呑めないと思っていたのが違った。「何時帰れるか分からないのに託してくれる。空元気でもやると言うしかなかった」。

 これまで「磐城壽」を買い支えてくれた人達が、「使ってくれ」と懐のお金を鈴木さんに渡す。彼ら自身も着の身着のまま。そこにあるお金が今は全財産なのに、そのなけなしのお金を預けてくれる。売るものは何も無い。蔵も無ければ設備も無い、土地も無ければ資金も無い。ゼロから、むしろマイナスからの出発。新たに蔵を建てるとすると、億単位の金の掛かる。だが何よりも「磐城壽」を買い支え、再建を待ち望んでいる町民がいる。今は散り散りになっていても、次に集まる“晴れ”の席に「磐城壽」を置きたい。


「磐城壽・搾りたて純米中汲み生酒」(うすにごり酒でした)

 そのお酒「磐城壽(いわきことぶき)」を、僕が初めて呑んだのは一体何年前だったか。行き付けの酒屋さん、大阪市都島区にある杉本商店で、今度新たに取引を始めた酒蔵と紹介され、試飲させて貰った時だった。おお、これ好みやで、ええで、ええで(by上田利治ブレーブス元監督)と云う訳で、早速一升瓶をお買い上げ。お家に帰って美味しく頂いた。“酒は辛口”なんて冗談ではない、甘くなければ日本酒じゃないがクレドの、僕好みの酒だった。でも、杉本さんは「磐城壽」を余り仕入れず、僕も色んな銘柄を楽しみたい方で、その後は外で時々呑む程度だった。

 その「磐城壽」を常に呑めるお店が、北区にある「堂島雪花菜(どうじまきらず)」。お店の大将が「磐城壽」を甚く気に入っていて、お任せでお酒を頼むと必ずと云って良い程に呑まされた。昨年の或る週末、何時ものように酒呑んで帰ろか、と云う訳で「堂島雪花菜」のカウンター席に座ると、大将が「おまえ丁度良い時に来た。今日は鈴木さんが来るから」と仰る。なんや?その鈴木て誰やねん、てなものだが、「磐城壽」は大阪では三軒の酒屋が扱い、その内の一軒である茨木市・かどや酒店のご主人の結婚式に出席する為、蔵元兼杜氏の鈴木大介さんが来阪するとの事だった。

 でも、僕は単なる酔っ払いの素人で、お酒の製造に従事する方々と一体、何を話せば良いのか分からない。だから酒蔵見学や蔵元を囲む会等、出席した事も無い。そもそも、蔵元さんとお天気の話をしても仕方ないし、だからと云ってド素人が「どないでっか、今年の酒の出来は?」なんて聞ける筈も無い。

 その日、僕が好い加減酔払った頃、鈴木大介さんは来店された。「堂島雪花菜」の大将は自称“磐城壽マニア”で、かどや酒店と杉本商店の品揃えでは物足りず、いわき市の酒舗石井本店と東京の味ノマチダヤからも取り寄せ、自宅に一ダース程も寝かせているそうな。だから、鈴木さんと大将の間では話が弾むし、既に酩酊している僕も「磐城壽」を呑みつつ会話に加わり、厚かましくも蔵元さんに対して酒の味の感想を述べた。思い返すと、恥ずかしい。

 酩酊状態の僕が、いわき市に行った事のあると申し上げると、うちの銘柄は磐城だが酒蔵は浪江町にあると教えて頂く。じゃあ、僕は原町なら行った事のあると申し上げると、浪江はいわきと原町の中間にあると仰る。その後、「大阪で福島県の話をしても全く通じない。今日は福島の話の出来て良かった」と鈴木さんに言われ、泥酔した僕にスィッチが入って終った。

 ついブラバンは磐城と湯本、コーラスは安積黎明と橘、なんて話を延々として終う。これに鈴木さんも福島県民らしく、安積黎明は30年連続金賞とか応じてくれて、「あなたはそんなに福島に度々来るのなら、浪江にも来てくれ」と爽やかに仰り、次の約束に向かわれた。でも、僕は浪江なんて一生行く機会無いだろうなぁ、と思った。

 3.11以降、テレビの震災特番で鈴木さんのお姿を何度も見掛けた。「堂島雪花菜」の大将と僕が地味に好きだった「磐城壽」は、フクシマ・ダイイチのメルト・ダウンで一躍全国区となった。今、僕は浪江に行きたくとも行けず、鈴木さんは浪江に戻りたくとも戻れない。


「磐城壽・純米原酒」(ぬる燗がお勧めでした)

 鈴木さんは今年、研究用として県の「ハイテクプラザ会津若松技術センター」に預けていた酵母を使い、間借りした南会津の国権酒造で酒造りを行った。タンク一本の僅か二十石の製造量は、一升瓶にすると二千本。この地縁復興純米酒を「堂島雪花菜」では、かどや酒店と杉本商店と酒舗石井本店から一本づつ取り、自宅で寝かせた熟成酒と共に、大将は僕に呑ませてくれた。今年の「磐城壽」二千本は現在、二本松市に避難している浪江町民に呑んで欲しいとの、鈴木大介さんの意向がある。僕なんぞのガブ呑みする酒では決してないが、でも矢張り「磐城壽」はシミジミ美味しい、単純に僕好みの酒だった。


 これは震災前に「堂島雪花菜」の大将から貰った、「磐城壽」の酒粕。今となっては勿体なくて、おいそれとは食えませんなぁ…。

J.シュトラウス「こうもり」

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<佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ2011/訳詞上演・プレミエ>
2011年7月16日(土)14:00/兵庫県立芸術文化センター

指揮/佐渡裕
兵庫芸術文化センター管弦楽団
ひょうごプロデュースオペラ合唱団

演出/広渡勲
美術/サイモン・ホルズワース
照明/沢田祐二
衣裳/スティーヴ・アルメリーギ
振付/川西清彦
ひょうごプロデュースオペラ・ダンスアンサンブル

<Aキャスト>
アイゼンシュタイン/黒田博
ロザリンデ/塩田美奈子
アデーレ/森麻季
ファルケ博士/久保和範
アルフレード/井ノ上了吏
オルロフスキー公爵/ヨッヘン・コヴァルスキー
刑務所長フランク/泉良平
弁護士ブリント/晴雅彦
女優イーダ/剣幸
看守フロッシュ/桂ざこば


 兵庫芸文の自主制作公演として六作目になる「こうもり」は、大成功を収めた「メリー・ウィドウ」に続く、オペレッタ第二弾となる。ここの芸術監督に悲劇は似合わず、また出し物によって当たり外れもあるが、オペレッタなら安心して観る事が出来る、それが事前の見立てだった。僕は今回の上演を楽しみにしていたが、その期待は半ば叶えられ、半ばは外れたように思う。

 客電の落ちて場内が暗くなり、指揮者がオケピットに現れると拍手の起こる。何時もながらのセレモニーだが、誠に景気の良いお馴染みの序曲を、佐渡が例のアクションで思い切り煽り立てると、やはりワクワクさせられる。今回の兵庫芸文オケはコンマスにヴェルナー・ヒンクを迎え、その他にも何名かウィーンから呼び寄せたメンバーで補強し、ウィンナ・ワルツ迎撃体制を組んでいる。誰をトップ奏者に据えようと、佐渡のやる音楽に何らかの変化のあったとは考え難いけれども。

 だが、お話しの進むに連れ次第に、他愛のないオペレッタとして同じように考えていた「メリー・ウィドウ」と「こうもり」の、演劇的な密度の落差に気付かされる。そもそも、改めて考え直すまでもなく「メリー・ウィドウ」は、思い切りベタな“コイバナ”で、相思相愛の二人が意地を張り合ってウジウジし、どうでも良いようなお話しが延々と続く。アリアや重唱の演奏順を入れ替えても差し障りの出ない、その構成にはルーズな部分がある。だから三年前の上演では、三幕のオペレッタを二幕に仕立て直す事に、それほど無理はなかった。

 勿論、どうでも良いようなお話と云う点では、「こうもり」も全く引けを取ってはいないが、こちらには「メリー・ウィドウ」と異なり、キチンとした起承転結のある演劇的な展開がある。曲順を大幅に入れ替えて盛り上げる等、ほぼ不可能なのだ。そこで序曲の間、ファルケがアイゼンシュタインに悪戯された経緯を記述した映像が流され、幕間には桂ざこば師匠による粗筋の紹介がある。冒頭でアデーレ宛のイーダからの手紙を、郵便屋さんが配達に来たり、夜会に赴く前のロザリンデへ、ファルケがハンガリー風ドレスを送ったり、親切丁寧と云うかお節介と云うか、「こうもり」の筋立てを全くご存じない観客に対し、痒い所に手の届くようなサービス振りである。

 それでも基本どうでも良いお話なので、ハジケた演技が無いと面白くも何ともなく、ここに手堅い演出の求められる所以がある。今回の広渡の演出は、概ね「メリー・ウィドウの」手法を踏襲して、まずは過不足の無い出来栄え。ただ、僕は「メリー・ウィドウ」と「こうもり」で全く同じ趣向の演出は、如何なものかと思う部分はある。

 まず、セットのコンセプトが「メリー・ウィドウ」と同工異曲で、既視感バリバリの巨大オブジェを多用している。一幕のアイゼンシュタイン邸自体はオーソドックスなセットだが、背景にはシャンパーニュの巨大ラヴェルが鎮座して、「ブリュット(辛口)」「ブラン・ド・ブラン(シャルドネ単一品種)」「グラン・クリュ(特級葡萄畑)」等と読み取れる。これを要するに、とても値段のお高いスパークリング・ワインと云う事。この意匠を借用したシャンパーニュは、ランス地方のモントードン醸造所謹製だそうで、当日の会場では休憩時間のグラス売りと、お土産用にボトル販売もしていた。勿論、僕はこのような上等のお酒を頂く身分ではないので、飲みも買いも致しません。

 二幕の夜会シーンではシャンパン・タワーと、シャンパーニュ・ボトルの巨大セットが登場。でも、シャンパン・タワーって如何にもバブリーで下品で、優雅なウィンナ・ワルツには合わないように思う。今時、クープ型グラスでスパークリングを呑む奴は居ないし、ここはフルート・グラスに泡の立ち昇るセットの方が、粋でお洒落ではないかと考える。三幕冒頭に挿入された、囚人達の踊る「ピツィカート・ポルカ」も、僕には泥臭く感じられた。

 今回の「こうもり」は「メリー・ウィドウ」の場合と同じく、三幕物オペレッタを二幕に仕立て直し、休憩は第二幕の途中に一回入れるだけ。しかし、これだと幕間に舞台転換の時間を取れず、ざこば師匠の登場して時間稼ぎをする事になる。「メリー・ウィドウ」でのニエグシュ役は狂言回しで、ざこば師匠の存在感も際立った訳だが、フロッシュが二幕冒頭から出て来る必然性は何も無い。そこで演出家は苦し紛れに、ウィーン・アン・デア劇場の支配人として登場させている。ここは取り合えず、ざこばと剣幸を出さねばならぬ、只それだけの理由で出て来るとしか思えない。

 オペレッタで台詞のみの役に、女優やコメディアンを当てるのは常套手段で、本来の演出効果から考えれば、ざこばと剣には普通にニエグシュとイーダをやらせれば良いだけと思う。これでは二匹目の泥鰌を狙い、上方お笑いとタカラジェンヌの関西テイストを何としても盛り込まなければならぬと、演出家は自縄自縛に陥っているように見える。そうでなければ長目の休憩を入れるのは、観客にシャンパーニュを飲ませる為の策略かと勘繰って終う。

 二幕を中途でぶった切る事で、一体どのような効果を狙ったのかも、今ひとつ腑に落ちない。三幕のオペレッタ上演を終えた後、コヴァルスキーや剣みゆきにポピュラー・ソング歌わせる、ガラ・コンサート風の長いアンコールのあるのも「メリー・ウィドウ」の場合と同じだが、あの際ほどにアザトく盛り上らなかったのは、やはり「こうもり」の方が音楽作品として、よりソフィストケイトされているからと思う。

 パリを舞台とした「メリー・ウィドウ」を、泥臭いとは言い過ぎだろうが、音楽の都ウィーンを象徴するような小粋なオペレッタを、コテコテの関西テイストで処理するのも少し無理がある。欧米の年越しの風物詩で、ニューイヤー・コンサートの定番曲でもある「こうもり」は、軽やかにウィンナ・ワルツを踊るような風趣で演出して欲しい。それは当館芸術監督に対する、僕の望蜀の願いなのかも知れない。

J.シュトラウス「こうもり」

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<佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ2011/訳詞上演>
2011年7月17日(日)14:00/兵庫県立芸術文化センター

指揮/佐渡裕
兵庫芸術文化センター管弦楽団
ひょうごプロデュースオペラ合唱団

演出/広渡勲
美術/サイモン・ホルズワース
照明/沢田祐二
衣裳/スティーヴ・アルメリーギ
振付/川西清彦
ひょうごプロデュースオペラ・ダンスアンサンブル

<Bキャスト>
アイゼンシュタイン/小森輝彦
ロザリンデ/佐々木典子
アデーレ/小林沙羅
ファルケ博士/大山大輔
アルフレード/小貫岩夫
オルロフスキー公爵/ヨッヘン・コヴァルスキー
刑務所長フランク/片桐直樹
弁護士ブリント/志村文彦
女優イーダ/剣幸
看守フロッシュ/桂ざこば


 今回のダブル・キャストの中で最も名前の世間に膾炙した、森麻季がアデーレを務めるプレミエ組を、僕は表キャストと思い込んでいた。でも、実際に二組のアンサンブルを立て続けに聴けば、ウィーンでのオペラ経験の長い二人、小森輝彦と佐々木典子を主役に据えた二日目のキャストに、一日の長のあると感じる。

 名旋律満載の「こうもり」の中でも、僕の最も愛好するのが一幕の“お別れの三重唱”。初日はノリの重くて、転調からのアチェルラントもイマイチ弾まず、これは黒田・塩田・森の三人組の実力からしても不出来と感じる。だが、二日目の小森・佐々木・小林組は、三人でオケと指揮者を引っ張った気配のあり、これぞ本場仕込みウィンナ・ワルツの愉悦、と云う処を聴かせてくれる。勿論、ベテラン二人の演技は達者なものだが、ここで特筆すべきは名前も初めて聞く若手、アデーレの小林沙羅の奮闘振り。

 アンサンブルでは小森やコヴァルスキーと伍し、怯まず臆さずノリの良い演技を見せてくれる。中音域にしっかりした声の力があり、その音色のまま高音部の伸びて行くので、コロラトゥーラにロマンティックな味わいの出て来る。二幕“侯爵様にお教えします”と、三幕“田舎娘を演じれば”の二つのアリアでも、全体を見通してフレージングを作る、長いブレスの力がある。

 これに対する森麻紀は、訳詞でのコロラトゥーラの如何にも歌い難そうで、今ひとつ滑らかに転がらない。確かに「こうもり」の日本語訳は、聴いていて木に竹を接いだような印象を受けるが、それでも二日目の小林は手堅く歌い切ったので、森には分が悪い。それと彼女はお嬢さん芸と云うか、或いは主役の経験しかないからか、アデーレらしいハジケた演技が無い。この方は容姿端麗で、正面を向いて歌っていれば舞台上で映えるが、脇に回って盛り上げる演技力は無いようだ。

 ロザリンデも佐々木典子が二幕のアリア“故郷の調べ”で、流石に高低の音域でムラの無い、立派な歌を聴かせてくれる。「メリー・ウィドウ」では魅力的なハンナだった塩田美奈子だが、低声域の音量に不足する為、客席まで充全に声の伝わらない憾みがある。それとチャールダッシュをアッサリ歌い過ぎで、もっとネットリ濃厚にやらないと、ハンガリー人を気取るロザリンデの面白味が出ないと思う。

 “時計の二重唱”も佐々木・小森のコンビに、演技の勘所を掴んだ余裕の感じられ、二人の舞台姿は板に付いている。塩田・黒田組の歌も悪くはないが、オペレッタらしい演技と云う点で、やや闊達さに欠けた印象を受ける。ブリントの晴雅彦さんは相変わらず、小技の利いた演技が楽しいが、出番の短か過ぎて物足りないのを残念に思う。

 このプロダクションの特別ゲストとも云うべきコヴァルスキーは、噂によると最後の来日だそうで、僕は今回が彼の歌に接する最初で最後の機会となる。実物を聴いた感想は、一般的なカウンター・テノールと同じく声量に乏しいので、変化のある歌になり難いと云った処。とてもクサイ歌い回しで、声ではなく芸で聴かせようとしているし、既に年齢的にも長いフレーズを歌い切るだけの、声の力は失われているのかも知れない。

 しかし、それよりも気になったのは、舞台から瘴気の漂って来るような、この方のナルシシズムの強烈さだ。この人は自分のオルロフスキーの形を確立して、他人の演技指導を排除している。そもそも、日本語の歌詞と台詞による上演の中、独りドイツ語で歌う事自体に違和感のあり、オペレッタ上演の流れから見事に浮き上っている。その上に自分自身に陶酔しているような舞台姿では、僕としては唐突に舞台へ出現した珍獣を見る気分だ。「こうもり」の二幕ではガラ・コンサート風に、ゲストの歌を挿入するのは常套手段だし、そこでコヴァルスキーにアンコールを歌わせた方が、まだスッキリしたのではないかと思う。貰ったプログラムにはルートヴィヒ王のパロディとあったが、この人はどう転がっても、コヴァルスキー以外の何者にも見えない。

 幕切れの“シャンパンの歌”の後、蛇足のように続くアンコールに違和感を拭えず、以上のように考察した次第である。これは単純に、演出家の計算違いと思う。

 これも恒例の挿入曲は、ポルカ「雷鳴と稲妻」と「皇帝円舞曲」が二回の幕間に演奏され、ざこば師匠の出番と同じく時間稼ぎの気配が濃く、そこでなければならぬ必然性は希薄。佐渡の指揮するヨハン・シュトラウスは、けたたましい程に賑やかで、殆んど無意味に景気が良い。僕の思うに、この人の振るウィンナ・ワルツには洗練ではなく、バーバリズムのあるように感じる。優雅にワルツを踊るのではなく、ストラヴィンスキーの音楽で野生的なバレエを踊る、そんな趣がある。

 「メリー・ウィドウ」では、赤玉ポートワインのように甘ったるかったワルツが、何ゆえ「こうもり」ではキリッと辛口・菊正宗になるのか、その理由は僕には分からない。でも、さすがにコーラスの入ると佐渡の指揮は溌剌とし、その辺りを差し引きしても、舞台を大いに盛り上げてくれる。但し、オペレッタの楽しみを満喫したのは二日目の話で、初日は不完全燃焼のままだった。その不出来の責任は、全面的に指揮者の負うべきと思う。

 兵庫芸文オペラの歌手の人選が、毎度の事ながら東京二期会一辺倒なのは、やはり引っ掛かる。取り分けオペレッタとなれば、ブッファを得意とする藤原歌劇団の面々を、全くオミットしているのは如何なる理由によるのか。関西勢から起用されたのが晴雅彦と片桐直樹の二人だけなのも、佐渡のキャリアは関西二期会の下振りに始まっているだけに、何とも不可解ではある。びわ湖ホールにも偏りはあるが、あそこは自前の声楽アンサンブルを抱えてますしねぇ…。

 二匹目の泥鰌は前回より小さな獲物となり、二番煎じの誹りも招きかねない出来となった。このまま三匹目を狙い、ざこばの起用と広渡演出で押し通すのか。広渡に舞台を整理する能力はあっても、新たなヴィジョンを描く才能はあるのかどうか。次のオペレッタ・ネタは「天国と地獄」か「ボッカチオ」か、或いはミュージカル・ナンバーを演目とするのか。括目して待ちたいと思う。

ニコライ「ウィンザーの陽気な女房たち」

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<びわ湖ホール〜オペラへの招待>
2011年7月18日(月)14:00/びわ湖中ホール

指揮/大勝秀也
京都フィルハーモニー室内合奏団
びわ湖ホール声楽アンサンブル

演出/中村敬一
美術/野崎みどり
照明/巽敬治郎
衣装/村上まさあき

ファルスタッフ/大澤建
フルート夫人/岩川亮子
フルート氏/迎肇聡
ライヒ夫人/森季子
ライヒ氏/相沢創
アンナ・ライヒ/中嶋康子
貧乏貴族フェントン/古屋彰久
道楽息子シュペアリッヒ/二塚直紀
医師カーユス/林隆史
宿屋の女/田中千佳子


 びわ湖ホールではプロデュース公演とは別に、声楽アンサンブルのメンバーを使って上演する、初心者向けオペラ公演を年二回行っている。全席三千円ぽっきりのお買い得、七月公演の演目は結構なレア物である。同じシェイクスピアの戯曲を原作とするオペラで、ヴェルディ「ファルスタッフ」は何度か観ているが、こちらオットー・ニコライはカルロス・クライバーが、ニューイヤー・コンサートで振った序曲をCDで聴く程度。でも、びわ湖ホールの企画は親切で、毎度お気楽な演目を選んでくれる。

 このオペラはドイツ語の台詞入りで、「後宮からの逃走」や「魔笛」と同じく、ジング・シュピールに分類される。同じような形態の音楽劇は、フランスではオペラ・コミックと呼ばれ、何れもイタリアの18世紀から続くオペラ・ブッファに由来する。もう少し時代の下がると、このテの喜劇的歌芝居はオペレッタに収斂され、ヴァーグナーやヴェルディの後期ロマン派オペラへの清涼剤として機能する。

 つらつら考えるにエンターテインメントとしての演劇は、宝塚歌劇でもヘルス・センターで興行する大衆剣劇でも、必ず歌謡ショーとセットになっており、一座の花形スターが一曲歌わないと客は納得しない。そもそも、台詞を全て朗読するストレート・プレイを、僕は近代的な演劇形態と思うのだ。初演の頃のシェイクスピア劇は、歌も踊りも楽器演奏も盛り込むミュージカルに近いスタイルだったようで、又そうでなければ娯楽として成立しなかったのだと思う。

 兵庫芸文の「こうもり」のプログラムに“オペレッタ”を定義して、「王侯貴族や富裕市民層が長く独占してきた教養主義のオペラが、19世紀末から20世紀初頭の欧州社会の大変動に伴って庶民に解放され、歌とセリフの入り混じった大衆演劇の路線を強く打ち出したもの」とする、日経新聞の記者の文章があった。

 これを出鱈目とまでは言わないが、少なくとも歴史的な文脈を無視した、恣意的な物言いだろう。それならば、「セヴィリアの理髪師」や「愛の妙薬」も“教養主義”のオペラなのか?とか、そもそも何時の時代にも歌入り芝居はあって当たり前とか、突っ込みどころ満載である。素人に嘘を教えるのを方便と考えるなら、それは新聞記者の品格に関わる問題と思う。現代のオペラ興行の視点に立てば、オペレッタもジング・シュピールもオペラ・ブッファも、同列のコメディーとして観客は受け入れている。びわ湖ホールや兵庫芸文のオペラ公演に通う観客層も、東京の新聞記者の憶測とは異なり、「アイーダ」「メリー・ウィドウ」を、全く別物の娯楽としてエンジョイする、その程度の下地は固まりつつあるように思う。

 オペラ三昧の三連休だが、今回のびわ湖の「ウィンザーの陽気な女房たち」は、兵庫芸文の金に飽かせた「こうもり」よりも楽しめたかも知れない。少なくともコスト・パフォーマンスの高さは、びわ湖ホールの圧勝だろう。

 何分にも低予算での上演で、舞台上のセットはアーチ型の門とベンチのみと簡素そのもの。後はウィンザー城と思しき映像を、ホリゾントに投射するのもお約束通り。三幕では緑色のボロ切れみたいなものを天井から吊り下げ、深い森の場面の雰囲気を醸して、これは安上がりで効果的。社保完の固定給を貰う声楽アンサンブルなので、稽古量だけは充分の様子のあり、演出に才気煥発な部分は全く無いが、まずは手堅く無理なく、若手歌手達の演技は必要にして充分で、舞台は小気味良く進む。

 二日公演をダブル・キャストで行い、声楽アンサンブルのメンバー全員を出演させる企画だが、今回は僕の聴いたBキャストのファルスタッフ役に、何故か東京二期会のベテランを客演に呼んでいる。何時の時代も若手のバス歌手は払底気味だし、このメンバーの中では当然ながら実力は頭抜けて、大澤は深い低音で聴かせてくれる。でも、びわ湖ホール声楽アンサンブルは三年任期で、年度末には必ず若干名の交代があり、そこで新たにメンバーとして加わった歌手を品定めするのも楽しみの内で、僕は外部招聘を左程に有り難いとも思わない。

 今日の最大の収穫は実質的な主役である、フルート夫人を務めた新人ソプラノの岩川亮子で、この人はオペラ歌手として既に完成された技術の持主と思う。声量豊かな器の大きいソプラノで、中音域の甘い音色と歌い口の巧さが魅力的。フォルテで声のキツくなるのは難だが、メリスマの技術もある実力派で、一幕の長大なアリアを立派に歌い切った。

 ライヒ夫人の森季子は、三幕のバラードで声量に乏しいため余り映えず、劇的な盛り上がりを作れない。ただ、アンサンブル要員としては、まずまず過不足のない出来栄え。アンナの中嶋康子は甘い歌声が心地良く、メリスマもソコソコこなせる伸びやかなソプラノで好感度は高い。

 男声陣でフルート氏の迎肇聡は、音色に変化の無いので聴いていて面白い歌にならない。でも、その実力からすれば健闘の部類で、メリハリのある歌は唱えていた。フェントンの古屋彰久はスピントしない素人っぽい発声のテノールで、ソット・ヴォーチェで綺麗に伸ばすべきフレーズをファルセットに逃げるし、終始一貫ノッペラボーな歌い振りも問題外の領域。関西フィル定期の「ジークフリート」で、見事なミーメを歌ってくれたシュペアリッヒの二塚直紀だが、どうやら彼の歌手としての適性の範囲は相当に狭い様子で、ここはノー・コメントとさせて頂く。

 僕は今日の上演に大満足で、その成功の立役者は指揮者の大勝秀也と考える。快活なテンポ感とキビキビしたリズムで音楽を進め、勘所ではオケを煽る力もあり、実力以上のものを京フィルから引き出した。まあ、フルートやトランペットに残念な音もあったが、これは指揮者の責任ではない。二幕の四重唱やフィナーレの合唱等、アンサンブルを捌く手腕の見事だし、幕切れの盛り上げ方も手の内に入れている。さすがにヨーロッパの小さなオペラ・ハウスでの経験の長い人らしく、大勝は手際良い職人的な技の持ち主と思う。エンディングの三重唱も見事に決まり、若手歌手のアンサンブルをキチンと纏め、合唱団の実力を存分に引き出した、指揮者のお手柄を称えたい。

 低予算でも、また一人のスター歌手のいなくとも、指揮者と演出家が手堅い仕事をすれば、こんなに素敵な上演が可能となる。兵庫芸文はオペラ経験に乏しい、芸術監督の人気に頼りっ切りで、話題性の華やかな割に中身の薄い上演の多いように思う。オペラの指揮者には、その演目を得意とする客演を呼び、芸術監督はプロデュースに専念する。これを真剣に検討する、時期は訪れているように思う。

第35回全国高校総合文化祭

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<ふくしま総文・合唱部門>
2011年8月5日(金)10:00/福島市音楽堂

 3月11日の被災により福島県内で休館したホールは数多く、夏の高校総合文化祭の開催も危ぶまれた。個人的な意見としては、辛い決断でも中止が妥当と、そう思っていた。だが、五月になって規模を縮小しての開催決定が、大会事務局より発表される。そこに政治的な意図は絡まっていないのか、懸念される。

 コンクール全国大会として行われ、最も注目を集める演劇部門は、開催予定の福島県文化センターの休館により香川県での代替開催、いわきアリオスが避難所となった吹奏楽部門は中止となる。やはり休館中の郡山市民文化センターで予定されていた、器楽・管弦楽団部門は日程を変更して福島市音楽堂での開催となり、これに押し出された合唱部門も、日程の変更を余儀なくされた。

 今回のふくしま総文の開催に付いて、前途有為の高校生を何故わざわざ、放射線量の高い福島に集めねばならぬのか、当然ながら批判的な意見は多かった。主催者側はふくしま総文への参加に際し、生徒の保護者に承諾書の提出を求めたらしい。その結果、提出拒否の相次ぎ、合唱部自体の出場を見合わせた学校もあるやに仄聞する。若年者は無用の内部被爆を避けねばならず、その判断に対し異を唱える余地は無い。

 ふくしま総文の開催強行に、政府や福島県の安全アピールの意図のあるのは明白だが、それでも福島に住み続けざるを得ない人々を思えば、全国の高校生の参加に意義はあると考える。フクシマ・ダイイチの身に迫らない、安全な土地に住む我々にしても、福島の人々が日常に抱える不安は他人事ではない。敦賀か美浜で原発のアボンすれば、明日は我が身なのだ。率直に言えば一日や二日、福島に滞在した程度で遠い将来、何らかの被爆症状の出るとも思えない。比較的安全な場所に居て、放射能に対し神経質になり過ぎる風潮に、反発を覚える部分もある。それよりも高校生が福島の現状を肌で感じ、それを地元に持ち帰り伝える事に、僕は意義を見出す。因みにコレが福島県による放射能測定値です。

 繰り返すが、これは若年者の健康被害の問題で、個人の判断は最大限に尊重されねばならない。ただ、それを承諾書と云う形にして個人の責任に押し付ける、文部科学省の遣り口には腹が立つ。そんなものを保護者から取らねばならぬ、大会を強行する位なら中止か、他府県での代替開催が常識的な判断だろう。そのような様々に矛盾した感情を抱きつつ、僕は直前まで行く積もりの無かった、ふくしま総文を見物に行く事に決めた。いたいけな若者が福島の人々を励ましに行くのに、低線量被爆なんて別に怖くもない、良い歳した俺が行かなくてどうする。

 以下、順不同で感想を綴る。

 まず、今日出場した男子校二団体の内の一つ、埼玉県立浦和高校グリークラブ(小野瀬照夫指揮・男声68名)は、木下牧子「恋のない日」と三善晃「遊星ひとつ」。あざとい程にスフォルツァンドとルバートを多用しながら、全体を通し清潔なリズム感を保っている。男声らしい倍音をタップリ含んだハーモニーを存分に聴かせてくれて、厚味のあるピアニシモにゾクゾクさせられた。もう少しトップの旋律を際立たせ、音色に変化も付けて欲しいが、それでも単なるグリー調ではない音楽的な演奏と思う。

 もう一校、広島県から呉港高校合唱部(横山尚指揮・男声26名)は、お揃いのブレザ−姿も凛々しく、思わず演奏にも期待して終う。聴き終えてからプログラムの紹介文を読むと、「合唱部は創部十年目のブラスバンド部員で構成しており、日頃から吹奏楽や合唱の枠に捉われず、“音楽は心”をモットーに精力的に活動しています」とあったが、僕はもう少し枠に捉われた方が、“音楽は心”を表現出来るように思う。

 総文祭の吉例である各県合同合唱団の中に、少人数に過ぎる団体のあるのが気になる。日程の変更で参加人数の減ったと言い訳していた、奈良県選抜女声合唱団(上西一郎指揮・13名)は横山潤子への委嘱曲で、美しい音色と繊細なデュナーミクの工夫はあるが、全体の構成に工夫が無い。同じようなスローテンポの曲を並べて眠気を誘う。

 山形県合同合唱団(村田睦尚指揮・混声105名)は如何にも寄せ集めの音色で、30名の男声も非力。でも、フォーレのレクイエムから「アニュス・デイ」で、冒頭の再現となる“レクイエム・エテルナム”に情感の溢れていた。茨城の海三校合同合唱団(寺門芳子指揮・女声75名)は、合同とは思えない程に音色の統一は取れているが、今年のNコン課題曲「僕が守る」は、テンポも表情もクルクル変える分裂症的な演奏で、これを本当にコンクール本番でやるのなら、相当なチャレンジャーと思う。チルコットのジャズ調ミサは何をやっても許される曲で、指揮者にスィング感さえあれば、こちらの方が合っているように感じる。

 トリを取った群馬県合同合唱団(清水郁代指揮・混声61名)は、信長貴富「コスモス」で眠かったのが、二曲目で指揮者の居なくなると、俄然として演奏の生き生きしたのは面白かった。アマチュアでは歌い手のブレーキとなる、指揮者の何と多い事かと思う。山梨県合同合唱団(渡辺玲子指揮・混声85名)は男声が立派。練れた音色で爽快なスピード感のあり、演奏を終えた指揮者が会心の演奏に、ニッコリと微笑んだのも印象的だった。

 長野県北信地区高校リーダーズコール(鳥谷越浩子指揮・混声94名)も、信長から二曲。「ヒスイ」は和声の教科書通りの、課題演習の解答のようで、「新しい歌」は頭の中で捏ねくり回し、理詰めで作ったような曲。何れも合同の練習を積んだようで、演奏には良いハーモニーがあった。来年度開催県の富山県合同合唱団(三上秋子指揮・混声44名)は、全員が浴衣姿の岩河三郎「越中おわら」で、なかなか気合の入った演奏。

 福島県から遠く離れて放射能汚染は無いが、県知事の玄海原発やらせメール問題で揺れる九州から、お久し振りの宮崎県立妻高校女声合唱団(片山謙二指揮・28名)は、恐らくコンクール自由曲であろう鈴木輝昭の「殺生石」を演奏。フォルテでも決して割れない、柔らかい中に芯のある声質は相変わらずだが、ややテンポの速過ぎるのと、意識的に取り入れた後押しする邦楽のリズム感が、板に付いていないのは惜しい。

 こちらもコンクール全国大会常連、熊本県立第一高校合唱団(松本強一指揮・女声40名)は、毎度お馴染み瑞慶覧尚子への委嘱曲で、持ち前の明るくスピントする美声を存分に聴かせてくれる。音量とテンポの白黒をハッキリさせるバロック的な表現の中で、音楽を進める指揮者のリズムの扱いが優れている。何もしていないようでいて、全体を見通した設計のキッチリ出来ているのだと思う。

 今回の出場校は押し並べて、部員全員での参加なのか気になるが、その点に付いて出演団体プロフィールに明記したのは、大分県立上野丘高校音楽部(混声13名)のみ。指揮者無しの高校生らしい、誠実な演奏にも好感を持った。長崎県立長崎明誠高校合唱部(塚原美穂指揮・女声24名)は、遅目のテンポの中音域から、美しい音色と優し気なニュアンスを感じるが、フォルテで音色の濁るのと、高音域で声の硬くなるのが難。

 山口県立萩高校合唱部(有冨美子指揮・混声43名)は信長編曲「明日があるさ」。突っ立ったまま歌われても困る曲で、速いテンポで動きを入れた中間部の後、ジックリと歌う部分とのメリハリの付け方が上手い。会津高校との合同演奏は、戊辰戦争の縁で作られたオリジナル曲で、指揮は萩高の先生。この方の独特なリズムの扱いとデュナーミクの工夫で、演奏から生命力の感じられた。

 島根県立松江北高校合唱部(内藤永嗣指揮・混声16名)は、プログラムの人数表記に28名とある。伸びやかな女声はソプラノとアルトのバランスも良く、少人数でもテノールの上手さは際立っている。ここは顧問教諭の交代したようで、軽やかな楽しいポピュラー・ソングの演奏だったが、これだけで新任の指揮者の音楽性を判断するのは難しい。

 鳥取県の翔英学園米子北斗高校音楽部(田中彩子指揮・女声8名)は、まずブストと石若雅弥とメキシコ民謡のプログラミングが面白い。少人数でも本格的なアンサンブルで、成熟を感じさせる声質と、ピアニシモのロング・トーンを伸ばす声の力がある。簡単なフリも入れ、これがなかなか艶っぽくて秀逸。

 愛媛県立松山北高校コーラス部(高田清司指揮・混声13名)は、「アメイジング・グレース」と「ジョイフル・ジョイフル」。ステージを広く使うミュージカル・スタイルで、少人数の弱さを感じさせず、お祭りムードを盛り上げる。音楽もお座なりにせず、綺麗なハーモニーもあったが指揮は不要なので、先生は生徒と一緒に踊るべきだったと思う。

 福井県から仁愛女子高校コーラス部(女声20名)は、指揮者無しでNHK朝ドラの「いのちの歌」と、松下耕「一詩人の最後の歌」を歌い分けるセンスがある。ヴォイス・トレーニングの行き届いた立派な声があり、柔らかいソット・ヴォーチェに情感を込めて、味わい深い演奏。豊かな表現力でリードするピアノ伴奏で、生徒の自発性を引き出す。こんなやり方もあるのかと、感心させられた。

 岐阜県立岐阜高校音楽部(中村美代子指揮・混声30名)は、まずStephen Leekと云う人の「kondalilla」と云うので、これはホーミーやら舌打ちやら口笛やらを次々に繰り出す、典型的なイロモンの曲。メンバーが客席に降り立ち、会場中に音空間を広げたフォーメーションが効果的で、彼等の駆使する口振唱法も堂に入っている。次はウィテカーの「五つの花の歌」で、一転して舞台上に密集隊形を取り、凝集したハーモニーを聴かせるが、その歌い方は乱暴に過ぎる。この曲には更に端正な演奏の必要と思うが、高校生に取ってイロモンからの切り替えは、難かし過ぎたようだ。

 キャプレの三声ミサをやった、静岡県立藤枝西高校音楽部(山本浩指揮・女声17名)は、少人数の割りに倍音の豊かなコーラス。伸びやかなフォルテシモの美しく、声の土台はあるのだが、指揮者のアクションの大きい割りに音楽の変化は乏しい。これで満足してはイケナイので、もう一工夫の研鑽を積んで欲しい。東京都立北多摩高校・立川国際中等教育学校合同合唱団(混声11名)は、この人数にしては声の出ていて、真情の伝わる振幅の広い演奏。ただ、ここも先生は踊り過ぎと思う。

 千葉県立木更津東高校音楽部(松木千枝指揮・女声21名)は、速いパッセージの続く「証城寺の狸囃子」をシットリと演奏し、ポンポコも可愛らしくて好感の持てる。ランブレヒツのグローリアもアザトくなり勝ちな曲だが、軽目のリズムと速いテンポで、ピアニシモを主体に柔らかく聴かせる。この先生は自分の個性を明確に意識し、やりたい音楽をやっていると思う。栃木県立佐野女子高校・佐野東高校コーラス部(内田等指揮・女声27名)のニーステッドも、指揮者の個性にフィットして、北欧の硬質なイメージは描けている。ただ、声の非力の為、それを実現出来たとは言い難い。

 岩手県立軽米高校音楽部(三船桂子指揮・女声22名)は手話付きで、新井満「ふるさとの山に向かいて」。如何にも岩手らしい透明なコーラスだが、もう少し声に力が欲しい。津波の被災地から参加の、宮城県塩釜高校合唱部(平山俊幸指揮・女声41名)は、信長貴富「万葉恋歌」。やや声の纏まりに欠けて音色に透明感の無く、音楽に変化を付け難いが、明るい自発性のあるのに好感を持つ。彼女達は震災後に作られた「しあわせ運べるように」に、真情を込めて歌い、僕も素直に泣かされた。演奏者も聴衆も、音楽の力を信じるひと時だった。

 原発被災地である地元から、福島県立会津高校合唱団(山ノ内幸江指揮・混声70名)と、福島県立安積黎明高校合唱団(宍戸真市指揮・女声48名)は、それぞれ午前と午後の二回づつ演奏する。どうやら福島に一泊せず帰る学校の多いのと、出場団体は前後半を通して客席に留まる事を許されず、会津と黎明の演奏を聴く機会を二回作ったようだ。

 会津高校合唱団は午前の「ダニー・ボーイ」で、まず全体を見通したアーティキュレーションを構築し、その中で細かくテンポを動かす。思い切り長いパウゼもアザトくはならず効果的、英語の語尾の処理も巧みだった。午後のドッペル・コールでのラインベルガーのミサは、うねるようなダイナミズムと繊細なアゴーギグの変化で、ロマン派の香気の漂うような演奏。深い響きのバスに支えられた重厚なハーモニーで、対位法的な部分での各パートのバランスの取り方も素晴しい。

 安積黎明高校は二回とも同じ曲で、鈴木輝昭「譚詩抄五花」からドッペル・コールの“運命”。フォルテの速いパッセージから、遅いピアニシモのフレーズへ移り、最後の爆発的なフォルテシモまで持って行く、指揮者のテンションの張り方が抜群に巧い。全曲を通して柔らかい音色の中で言葉を立てる、伝統のテクニックで聴かせてくれる。柔らかく且つ重いアルトの声質も、対位法的な部分を音色の変化で処理する技術力も健在。スピントする声の鋭さは丸まり、リズムにも子音の発音からも柔らかい印象を受けた。

 以上、駆け足気味にコメントを記した。今日は午後の一時間ほど、秋篠宮ご夫妻が次女を伴い、合唱部門の視察に訪れていた。内親王も被爆の懸念される年頃だが、この辺りにも政治的配慮の絡み、全く今時の宮様は大変だなぁと、少し同情して終った。

第65回福島県合唱コンクール

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2011年8月26日(金)9:30/会津風雅堂

 家の人に今度また福島へ行くと告げると、あんたはそんなに何度も福島へ行って大丈夫か?と聞かれる。そんな事を言えば、今現に福島に住んでいる人達はどうなると思うが、一応は僕の身を案じてくれているのだし、直ちに健康へ影響の出る数値ではない等と、枝野官房長官みたいな事を言うのもアレなので、今度行く会津地方は放射線量の低いので心配は無いと答えて置く。まあ、この辺が被災地とは縁もユカリも無い、一般的な関西人の反応だろうと思う。戻ってから何人かの知り合いに、今年の夏は福島に三回行ったと話すと、概ね似たり寄ったりの応対だった。

 今年の京都五山の送り火では、被災地から送られた薪を燃やす燃やさないでモメる、何だか脱力するような下らない騒動のあったが、あれを放射能アレルギーと取るのは少し違っていて、僕は京都人の“イケズ”の典型例だろうと思っている。所謂、京都町衆と個人的な付き合いの無い方には分かり難いだろうが、あれは要するに古式床しい伝統行事で、辺鄙なド田舎の薪なんか燃やせるかと云う、全く低レヴェルの“いじめ”みたいな事柄と、僕は受け留めている。

 放射能の懸念とかは後付けの屁理屈で、ああ云った仕打ちには“イケズ”の仕返ししか対応法は無かろうと思う。京都市内の何処かで被災地の薪を盛大に燃やす、一大イヴェントの開催など考えられるが、これを実行すると相手と同じレヴェルへ降りる事になるので、敢えてお勧めはしない。本当にやったら、キャンプ・ファイアーみたいで楽しそうだけど。

 閑話休題。先週は信州・松本、今週は会津若松を訪れ気付いたのは、どちらも盆地にある城下町で、街中を歩くと四方に山の見えるのと、白い土蔵の目に付く共通点のある事。ただ、松本は市内中心部を女鳥羽川の流れて風情のあるのに、ここ会津若松は市の中心部に川の無いのは、やや寂しい。でも、川は無くとも盆地に沸く水は清冽で、松本も会津も蕎麦と酒が名物と云う共通点もある。両者共、何となくボンヤリ過すのに打って付けの街と思うが、コンクールは朝から晩までやっているので、真昼間から酒を呑む訳にも行かない。

 震災と原発事故の起こった今年、僕は初めて合唱コンクール福島予選を聴く為、お馴染みの会津風雅堂を訪れる。若い高校生諸君の演奏を、心して聴きたいと思う。

<福島市>
県立福島高校(混声38名)
指揮/石川千穂
松本望「やわらかいいのち」(あなたへ)
信長貴富「絶え間なく流れてゆく」(廃墟から)
 柔らかい声の心地良く、そこから曲の山場まで持って行く、テンションの張り方の巧い課題曲。男声の人数の多い分、ハーモニーに厚味はある。自由曲は不協和なハーモニーの美しいが、声楽的な能力の限界も聴こえる。良く歌えているし、実力的に目一杯の演奏とは思うが、一升枡に一升以上の酒は盛れない。「原爆小景」をお手軽にパクった、キッチュでチープなこの曲には、更にアザトい表現の望まれる。

県立橘高校(女声46名)
指揮/大竹隆
ピアノ/鈴木あずさ
ガルッピ「Judicabit in nationibus 主は諸国を裁き」(詩篇110番)
鈴木輝昭「亡き人に」(智恵子抄)
 清澄なソット・ヴォーチェから一転した歯切れの良いリズムで、ガルッピの快活な音楽を表現する。スフォルツァンドの用法にもツボを心得た、指揮者の手捌きが見事。鈴木へのドッペル・コールの委嘱曲には、やはり美しいソット・ヴォーチェと、ノン・ヴィブラートでスピントする、しなかやで強靭な高音域がある。対位法的な処理の巧みさと、的確なデュナーミクの作り方とで、明快なディクションを聴かせる。広いダイナミク・レンジの使い方も素晴しく、曲の重心の在り処を明確にする演奏だった。

福島成蹊高校(女声20名)
指揮/遠藤明子
スヴェーリンク「Lascia Filli mia cara 愛するフィリスよ」
ヨーゼフ・カライ「Hodie Christus natus est/Ave Maria II」
 スヴェーリンクは最初のテンポ設定が遅く、しかも途中で速くする解釈は曲への誤解に基づいていて、とにかく弄り過ぎ。カライもソツなく美しいが、これもテンポの弄り過ぎだし、粘り気味のリズム感で大味な演奏になって終う。遅過ぎるテンポの為、最後までテンションを保てなかった。

県立福島東高校(混声41名)
指揮/星英一
ピアノ/鈴木あずさ
ハイドン「Der Augenblick 束の間」
鈴木輝昭「W.シェイクスピアによる“十二夜”歌集」
 指揮者が快活なリズム感で、ハイドンの愉悦を存分に表現する。可愛らしい声でも、実に堂々たる演奏。この作曲者は英語歌詞に作曲したがるが、もしかしてブリテンを目指しているのだろうか。英語でなければならぬ、その理由を納得させる説得力に欠けていて、この前段階に僕は引掛って終う。演奏はややテンポ設定の遅く感じ、緩徐部分からは日本語の母音を聴き取れるが、後半の速い曲想では女声の軽やかな声質を効果的に使えて、納得出来た。

県立福島北高校(混声26名)
指揮/松本美香
ヤコブ・ファート「O quam gloriosum est regnum 栄光に輝く王国」
パレストリーナ「Sicut cervus 谷川を慕いて」
 課題曲は速いテンポで、やや縦割りのリズム感はあるが、各声部の出し入れは良く出来ているし、雰囲気を掴んでなかなか美しい演奏。パレストリーナには暖かいニュアンスに満ちたハーモニーがあり、イタリアの香気の匂い立つ。ソプラノとアルトから、それぞれ表現意欲を感じるし、七名の男声の健闘も落涙物。ルネサンス音楽をキチンと理解している生徒に脱帽で、この大作曲家の名曲を美しく聴かせてくれた事に感謝したい。

県立福島明成高校(混声20名)
指揮/菊地和彦
ピアノ/安藤里緒
ヤコブ・ファート「O quam gloriosum est regnum 栄光に輝く王国」
木下牧子「はじまり」(光と風をつれて)
 課題曲はハーモニー重視の演奏で、リズムも縦割り気味。もう少し生徒の自発性を引き出したい。自由曲は縦をキチンと揃え、端正なリズム感で音楽を進める生真面目な指揮。曲の解釈がルネサンスと邦人で同じなのに、やや問題を感じる。これを一貫していると云えば、そうも云えるのかも知れない。

桜の聖母学院高校(女声15名)
指揮/佐川いずみ
スヴェーリンク「Lascia Filli mia cara 愛するフィリスよ」
コダーイ「Punkosdolo 聖霊降誕節巡り」
 良いハーモニーはあるが、僕はこのマドリガーレを同じテンポで通すべき曲と思うので、テンポを途中で変えるのは如何なものかと思う。マジャール語のリズム感はサマになっているし、完璧なノン・ヴィブラートでも、成熟した高校生の声で端正に進めるコダーイには、しっとりとした雰囲気のあって悪くない。但し、子供らしい楽しさは無く、児童合唱らしい愉悦感は決定的に欠けていた。

福島東稜高校(女声12名)
指揮/貝瀬幹雄
スヴェーリンク「Lascia Filli mia cara 愛するフィリスよ」
Waldemar Bloch:Kyrie/Gloria〜Missa Brevis
 課題曲では声の力不足で、音程を保てない部分のあるのが辛い。自由曲では個人の声質に任せて終い、発声法が統一されていない。指揮者のやりたい事は伝わるが、その辺から正して行かないと音楽は始まらないと思う。

県立福島西高校(女声11名)
指揮/西村静
土田豊貴「けれども大地は…」(夢のうちそと)
ジョルジュ・オルバン「Sanctus/Benedictus」(Missa Nona)
 少人数には辛い課題曲だが、良くこなして熱演する。自由曲でも大人数を必要とする解釈で、指揮者は大きく構え過ぎ。もっと肌理の細かいスタイルで、少人数の良さを追及したいし、生徒にそのポテンシャルはあると思う。

第65回福島県合唱コンクール

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2011年8月26日(金)9:30/会津風雅堂

<浜通り>
県立相馬東高校(女声15名)
指揮/星有起
ピアノ/条裕子
ガルッピ「Judicabit in nationibus 主は諸国を裁き」(詩篇110番)
ヨーゼフ・カライ「Ave Maria/Hodie Christus natus est」
 ガルッピのハイドンみたいに物々しい前奏から、とんでもなく可愛らしいボーイ・ソプラノみたいな声の出て来て、でもバロック様式はキチンと把握しているのに、悪いけれど笑って終う。カライはノン・ヴィブラートの真っ直ぐな発声で情感の揺れず、実はこちらの方が音楽的に、ややミス・マッチだったかも知れない。

県立磐城桜が丘高校(女声25名)
指揮/長谷川桜
スヴェーリンク「Lascia Filli mia cara 愛するフィリスよ」
Stephen Hatfield:Gloria〜Missa Brevis
 キチンとしたメリスマの技術があって、時代様式の理解度は高いが、ややテンポの遅目なのと、可愛らしい声に過ぎるスヴェーリンク。自由曲には作曲者の軽薄な意図が露骨で、著しく底の浅い曲。演奏そのものはキビキビしたリズムの処理が的確、清潔なフレージングのあって、しっかりしたテンポ感を保持する中での、アゴーギグの工夫も音楽的。ピアニシモに力のある声なので、もう少し頑張ってフォルテも出して欲しかった。

県立磐城高校(混声45名)
指揮/赤城佳奈
高嶋みどり「父の唄」(若者たちの悲歌)
千原英喜「鬼女」(コスミック・エレジー)
 曲に対して適切な情感のあり、フォルテを歌い切る声の力もある、キチンと縦を揃えた端正な課題曲。但し、聴き手に個性を印象付ける、閃きに乏しいと感じる。自由曲も似たような感想で、これ見よがしなコケ脅しで構成する曲を、充分な迫力を持って表現出来る、とても力のある合唱団と思う。その限りに於いては良い演奏だが、僕はこのテのコーラスは苦手で、熱演すればする程に曲の弱さを露呈するように思う。

県立いわき総合高校(女声12名)
指揮/渡邉貴紀
スヴェーリンク「Lascia Filli mia cara 愛するフィリスよ」
Reijo Kekkonen:Gloria
 スヴェーリンクは早目のテンポ設定で、マドリガーレらしい爽快感がある。自由曲は何だか良く分からない曲で、指揮者と生徒さん達から、その内容を伝えようとする意図は感じるが、それでも矢張り訳の分からん曲と思う。

県立いわき光洋高校(女声8名)
指揮/大塚悦子
スヴェーリンク「Lascia Filli mia cara 愛するフィリスよ」
Peter Eben:Madchen schwalbe/Warst du von hause
/Kuckuck/Schon fliegt die schwalbe
 この合唱団のスヴェーリンクの演奏は、曲に内在する意味を明示していて、今日初めて納得出来るテンポ設定だった。エベンでも曲の要求するリズムを、正確に把握して指示する顧問教諭と、それにキチンと応える八名の生徒の理解度は高い。少人数の良さを存分に発揮する、音楽的な内容の豊富な演奏だった。

県立湯本高校(女声22名)
指揮/佐藤留美
スヴェーリンク「Lascia Filli mia cara 愛するフィリスよ」
鈴木輝昭「筑波嶺のみねより落つるみなの川」(恋歌秘抄)
 スヴェーリンクはソプラノの頭声が完璧で、中庸のテンポと柔らかいハーモニーのあり、時代様式を把握したリズム感を持って歌えている。鈴木では対位法的な処理の上手に出来ているし、アーティキュレーションの作り方も適確で、不協和なハーモニーを柔らかく響かせるが、音色の変化に乏しい為に地味な印象を与えて終う。この指揮者と合唱団は、この曲以外の曲に適性のある、音楽性と声を持っているように思う。

<会津>
県立葵高校(女声51名)
指揮/瓶子美穂子
ピアノ/山内直美
土田豊貴「けれども大地は…」(夢のうちそと)
鈴木輝昭「手枕の袖」(和泉式部日記より)
 課題曲の対位法的な構造を把握して、内容に合わせた音色の変化が的確。細くスピントするソプラノのピアニシモが美しく、それを支えるアルトも充実している。鈴木への委嘱曲では清潔なリズムの運びの中に、効果的なアチェルラントの用法のあり、聴き手の意表を突く曲作りがあった。この指揮者にはポリフォニックな曲の、ハーモニーの推移に対する鋭敏なセンスがあると思う。

県立会津高校(混声71名)
指揮/山ノ内幸江
松本望「やわらかいいのち」(あなたへ)
ラインベルガー「Credo」(ミサ変ホ長調 op.109)
 指揮者に巨視的な音楽の捉え方があり、広いダイナミク・レンジを駆使して、課題曲をシンフォニックに鳴らせる。でも、そこまでする程の内容のある曲とも思えず、少し行き過ぎのようにも感じる。ドッペル・コールのクレドでは、指揮者のアゴーギグの揺らせ方が抜群に上手い。高校生離れした重厚なバスの支える豊麗な響きがあり、アチェルラントとクレシェンドを連動させる、正攻法のロマンティックな音楽作りで、これも堂々たる演奏だった。

県立喜多方高校(混声59名)
指揮/高橋祐二
高嶋みどり「父の唄」(若者たちの悲歌)
鈴木輝昭「いまはむかし」(竹取物語頌)
 遅目のテンポの中でニュアンスに富んだ演奏を繰り広げる、指揮者の内容豊富な音楽作りに満腹する。ただ、縦の線のピッタリと揃わず、やや雑然とした印象となるのは惜しい。自由曲も遅いテンポでタップリ聴かせてくれるが、ソプラノの内声的な音色がアルトとの対比の際立たず、同じようなテンションの続いて、平たく云えば退屈する。パート内部のピッチの揃わず、曲想に合わせた音色の変化の無いのも、単調に聴こえてしまう要因となる。

会津若松ザベリオ学園高校(女声16名)
指揮/古川聖
小林秀雄「私のいのちは」(五つの心象)
ミクロシュ・コチャール「Salve Regina」
 この課題曲はピッチを正確に取るのが大前提で、そこから色々と工夫する余地の出て来るが、この演奏ではまだそこまで行っていない。コチャールも少人数で致し方のない面はあるが、ずっと音量の一定で表情の変化が無く、指揮者に何かしらの芸の求められる。

県立会津農林高校(混声16名)
指揮/遠藤知美
ヤコブ・ファート「O quam gloriosum est regnum 栄光に輝く王国」
パレストリーナ「Heu mihi,Domine 憩いなき我が心」
アンドレア・ガブリエリ「Angeli archangeli 天使と大天使」
 四拍振りでは音楽の流れないので、指揮者はもっと大きく構えたい。ポリフォニーを並べた意欲は買えるし、生徒も良く頑張ったが、アルシスとテーシスとかも考えて、まずレガートの基本から勉強して欲しい。

県立会津学鳳中学・高校(混声61名)
指揮/佐藤朋子
高嶋みどり「父の唄」(若者たちの悲歌)
Eric Whitacre:Hope,feith,life,Love…/With a lily in your hand
 この指揮者は旋律を歌わせる際の、デュナーミクの付け方が抜群に上手く、またバスの低音に力のあって、課題曲をシンフォニックに鳴らせた。ウィテカーでの指揮者には、フォルテシモで歌おうとする意欲を女声から引き出す、優れたカリスマ性を備えている。音楽作りの土台となるヴォイス・トレーニングの行き届き、不協和なピアニシモのハーモニーが美しく効果的だった。

県立喜多方東高校(混声10名)
指揮/遠藤光子
ピアノ/高橋拓未
ヤコブ・ファート「O quam gloriosum est regnum 栄光に輝く王国」
鈴木憲夫「決意」(未来への決意)
 まず男声の二人しか居ないのに、四声曲を取り上げる勇気を評価したい。一応は形になっているし、それ以上のコメントは失礼に当るように思う。女声も凄く可愛らしい声で、曲を表現しようとする意欲は聴き取れるし、生徒は良くやっているのだが、先生が細かく振り過ぎで、もっと自発性を引き出す姿勢の望まれる。

第63回全日本合唱コンクール東北大会

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2011年9月24日(土)9:30/岩手県民会館

<岩手県>
県立高田高校音楽部(女声30名)
指揮/山崎歌子
スヴェーリンク「Lascia Filli mia cara 愛するフィリスよ」
ニーステッド「Seek ye the lord 汝の神を求めよ」
 マルカートとレガートを使い分ける、フレージングの巧さで聴かせるスヴェーリンク。但し、声に個性的な音色が無く、淡彩で変化に乏しいのは物足りない。でも、この淡い音色が北欧物には合う。やはりマルカートとレガートを組み合わせる、曲の組み立て方も理に適い、不協和なハーモニーを美しく鳴らせた。ただ、全体にテンションの低く、山場の盛り上げ方にはもう一工夫が欲しい。それと声の力の足りないので、フォルテを出す訓練は必要と思う。

県立北上翔南高校音楽部(女声22名)
指揮 /阿部彩子
スヴェーリンク「Lascia Filli mia cara 愛するフィリスよ」
松下耕「Salve regina/Hodie Christus natus est」
 頭声で美しいポリフォニーだが、支えの足りずにピッチまで低目に聴こえるのは、やや問題。淡彩な声に音色の変化が無く、平板になってしまう。自由曲は小じんまりとした演奏に安住しているようで、立体的な音楽作りの為、声を鍛えて欲しい。アルトには声の力のあるのだから、もっと全体のヴォリュームを上げ、音色の変化を工夫すべきと思う。

県立不来方高校音楽部(女声30名)
指揮/村松玲子
スヴェーリンク「Lascia Filli mia cara 愛するフィリスよ」
Herbert Paulmichl:Ave Maria
デュファイ「O beate Sebastiane」
 さすがにベテラン指揮者で、メリスマの軽やかさとアゴーギグの変化も効果的に使えて、マドリガーレの楽しさを充全に表現している。自由曲の一曲目も、デュナーミクの工夫で美しく聴かせる。デュファイは遅目のテンポから、更にリタルダントを仕掛ける独特な解釈だが、これだけ中世の音を美しく響かせてくれれば文句は無い。もっとジックリたっぷりと、この学校の中世音楽の演奏を聴きたい、そんな思いに駆られる。一度、ノートルダム・ミサとかオケゲムのレクイエムとか、本当に聴いてみたいと思う。

盛岡市立高校・岩手女子高校音楽部(女声13名)
指揮/田村久美子
スヴェーリンク「Lascia Filli mia cara 愛するフィリスよ」
バード「Kyrie/Gloria」(三声ミサ)
 声の出し方の真っ直ぐで、平べったい音楽になってしまうので、もっとデュナーミクを工夫しリズムを強調して欲しい。バードは情感に溢れた良いポリフォニーだが、カウンター・テナーの三人いる、アルトのキツそうなのが聴き辛い。シットリと歌う処から、明るく切り替える局面には、もっとクッキリした対比も欲しかった。

県立軽米高校音楽部(女声22名)
指揮/三船桂子
スヴェーリンク「Lascia Filli mia cara 愛するフィリスよ」
信長貴富「春の苑/天の火/山桜花」(万葉恋歌)
 声に力はあるが、テンポの遅いのとレガートに過ぎるので、曲に含まれるリズムを感じ取って表現して欲しい。この自由曲は良く聴かされるが、どうなりとご随意にやって下さいとしか思わない。ここの演奏は、やや切り込みの甘く大人しいが、こんな無機質な曲は思い切りアザトく、効果の為の効果を追求すべきだろう。

県立一関第一高校・附属中学音楽部(混声85名)
指揮/横山泉
松本望「やわらかいいのち」(あなたへ)
Sydney Guillaume:EGO SUM
 課題曲はそれほど面白い曲でもないが、大人数ならではの深いピアニシモのハーモーニが美しく、曲に対して適切な情感があり、勘所を掴んで上手に盛り上げている。自由曲にはその武器である美しいピアニシモを、大いに発揮出来る曲を選んでいる。指揮者と生徒からは、曲への思い入れの深さを窺えるし、局面での美しさは際立っている。ただ、一体何を言いたいのか不得要領な曲で、僕のような凡夫をも納得させるには至らなかった。

県立盛岡第一高校音楽部(混声43名)
指揮/杉本聖房
ヤコブ・ファート「O quam gloriosum est regnum 栄光に輝く王国」
ホルスト「My sweet theart's like Venus」
ジョン・ラター「A choral fanfare」
 課題曲のハーモニーと雰囲気は悪くないが、声の出し方の真っ直ぐで、アルシス・テーシスの出来ていないのと、もう少し低声部を意識して欲しい。ホルストではイギリス音楽らしい、柔らかな情感を醸しているのに好感を持つ。ラターも清潔なリズム感で曲の弱さを感じさせず、ピアニシモも美しいし、フォルテを出し切る声の力にも欠けていない。英語もまあ上手な方と思う。

県立一関第二高校音楽部(女声34名)
指揮/村上博恵
スヴェーリンク「Lascia Filli mia cara 愛するフィリスよ」
信長貴富「春の苑/天の火/山桜花」(万葉恋歌)
 スヴェーリンクのテンポの遅過ぎるのと、声を押すとピッチの低くなる癖は直したい。一日に何度も聴かされ、マジメに聴く気を失わせる自由曲だが、ここは透明な声質で歌うので辛抱し易い。コンクール的には捏ねくり回し方の足りず、この学校の頭声には合わない曲と思う。

県立水沢高校音楽部(混声34名)
指揮/中村桂子
ヤコブ・ファート「O quam gloriosum est regnum 栄光に輝く王国」
Eric Whitacre:Lux Aurumque/With a lily in your hand
 軽やかな声で深刻ぶらない、明るいポリフォニーが楽しい。ウィテカーはソプラノの高音のスピントせず、棒になるのは難だが、五人しかいない男声を上手く纏め、ピアニシモの美しい透明な音楽作り。二曲目では一転し、声の力の足りないのをカヴァーする、アゴーギグの揺らせ方の巧みな、明るく楽しい演奏だった。

<宮城県>
白石高校合唱部(女声14名)
指揮/目黒恵子
スヴェーリンク「Lascia Filli mia cara 愛するフィリスよ」
ラヨシュ・バルドッシュ「Tunde no ta/Ave Maris stella」
バルトーク「Jo sza gige zo」
 スヴェーリンクでは横一列に並び、パートをバラす工夫は効果的だったが、テンポの遅いのと音色の変わらず、やや単調になる。パート内部の統一されず、個々の声の聴こえるのは感心しないが、児童合唱っぽい声はバルドッシュに合っているし、表現意欲みたいなものは伝わり、結構楽しく聴ける。どうせならバルトークでは、もっと破目を外し無茶をして良かったと思うが、ピアニシモのロング・トーンには無理のあるので、もう少し早目に切り上げたかった。

聖ウルスラ学院英智中学高校合唱部(女声29名)
指揮/細川信
スヴェーリンク「Lascia Filli mia cara 愛するフィリスよ」
ミクロシュ・コチャール「Abrand 幻想/O,havas erdo nemasaga 雪の森の静寂」
 マドリガーレにしては分厚いハーモニーだが、指揮者のアゴーギグの付け方の堂に入って、後半に向けアチェルラントする解釈も、個性を打ち出して好ましい。コチャールを遅いテンポで粘りまくるのは、どうやらこの指揮者の持ち味らしく、首尾一貫はしているが、幾ら何でも逸脱し過ぎで、やや閉口させられる。

仙台二華中学・高校音楽部(女声35名)
指揮/水口裕子
小林秀雄「私のいのちは」(五つの心象)
西村朗「薫」(浮舟)
 課題曲で畳み掛けるアチェルラントから、ごくユックリしたテンポで歌わせるのは、そもそも譜面を無視して遣り過ぎだし、緩除部分でテンションを保てずに間延びしてしまう。西村では速いテンポと、ほぼ一定の音量で押し切って、メリハリの無い単調な演奏。技術的に難易度の高い曲をクリアする能力はあるが、この指揮者は何を思って音楽しているのか、僕には理解し難い。

仙台三桜高校音楽部(女声88名)
指揮/内藤淳一
ピアノ/野田久美子
土田豊貴「けれども大地は…」(夢のうちそと)
高嶋みどり「HYMN〜夜の女神ラートリーに捧げる」
 課題曲では大人数の有利を生かす、広いダイナミク・レンジを駆使し、フォルテのアレグロと、ピアニシモのアダージョとの、テンポ設定も理に適っている。高嶋でも低音の充実と、人数分の声の力で、振幅の広い理詰めの音楽作り。ピアニシモとフォルテシモの使い分けに、テンポの緩急を絡ませて、曲の節理に沿った正しい表現がある。多少、金賞至上主義の匂いはするが、有無を言わせぬ圧倒的な迫力のある演奏だった。


<審査員個別順位>
金川明裕(合唱指揮者)
1.不来方 2.安積黎明 3.会津 3.橘 5.仙台三桜 5.鶴岡北 7.一関第一 8.会津学鳳 9.磐城 10.郡山混声 10.福島東 10.仙台二華 13.喜多方 14.郡山女声 14.秋田北 14.聖霊女子

岸信介(合唱指揮者)
1.会津 2.郡山混声 3.安積黎明 3.橘 5.安積混声 5.一関第一 7.郡山東 7.福島東 7.仙台三桜 7.郡山女声 11.不来方 12.会津学鳳 13.盛岡第一 14.安積女声 14.喜多方 14.福島

佐藤正浩(リヨン国立オペラ首席コレペティトゥール)
1.仙台三桜 2.安積黎明 3.会津 3.橘 5.安積混声 6.喜多方 7.郡山混声 8.不来方 9.鶴岡北 10.一関第一 11.八戸東 11.安積女声 13.磐城 13.福島東 15.盛岡第一

本山秀毅(びわ湖ホール声楽アンサンブル専任指揮者)
1.不来方 2.仙台三桜 3.会津 4.橘 5.安積黎明 3.橘 5.安積混声 6.磐城 7.安積混声 8.郡山混声 9.福島東 9.聖霊女子 9.福島 12.郡山東 12.鶴岡南 14.郡山女声 14.喜多方

高嶋みどり(作曲家)
1.仙台三桜 2.会津 2.安積混声 2.喜多方 5.郡山混声 5.会津学鳳 8.鶴岡南 9.橘 10.安積黎明 11.水沢 12.福島 12.八戸東 14.一関第一 15郡山東 15.一関第二

<決定順位>
1.仙台三桜(代表) 2.会津(代表) 3.橘(代表) 3.安積黎明(代表) 5.安積混声(代表) 6.郡山混声 7.不来方(代表) 8.一関第一 9.喜多方 10.福島東 11.磐城 12.会津学鳳 13.鶴岡北 14.郡山女声 15.郡山東 16.福島 17.鶴岡南 17.葵 19.水沢 20.聖霊女子 21.安積女声 22.八戸東 23.聖ウルスラ 24.郡山東 25.盛岡第一 26.山形北 26.秋田北 28.一関第二 29.仙台二華 30.郡山女子大 31.大曲

サイトウ・キネン・フェスティバル松本2011

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<ふれあいコンサートII〜スウィート・シネマ・ミュージック>
2011年8月20日(土)17:15/長野県松本文化会館中ホール

アコーディオン/coba
ギター/渡辺香津美/鈴木大介
パーカッション/ヤヒロトモヒロ

ハロルド・アーレン「虹の彼方に」(オズの魔法使い)
ミシェル・ルグラン「シェルブールの雨傘」
ルイス・バカロフ「イル・ポスティーノ」
ヘンリー・マンシーニ・メドレー
武満徹「ホゼー・トレス2」
ジャンゴ・ラインハルト「ルシアンの青春」
ニーノ・ロータ「フェリーニのアマルコルド」
ルイス・ボンファ「黒いオルフェ」
エンニオ・モリコーネ「ニュー・シネマ・パラダイス」
アリ・バホーゾ「未来世紀ブラジル」


 6月30日、松本市内で震度五強の地震が起こり、今日のコンサートを予定していた、ザ・ハーモニーホールも被災で使用不能となった。僕は何度も行った事のあるが、公園の中の緑に囲まれた立地で、聴衆は寛いで音楽を聴けるし、奏者も気持ち良く弾ける、そんな雰囲気のあるホールと思う。サイトウ・キネンの室内楽コンサートの魅力は、安曇野の自然環境に負う部分が小さくはない。

 変更された松本文化会館もフェスティヴァルのメイン会場の一つだが、僕は中ホールに付いて、これまでその存在すら知らなかった。会館の玄関を入り、左手の階段を登るとお馴染みの大ホールだが、今日は一階右手の扉が開いていて、その奥に中ホールがある。チケットを渡すと新たな席位置を知らされ、お詫びの印かオリジナル・ストラップを呉れる。ロビーではお酒の無料サービスもあり、僕もバーボンのストレートとスコッチのハイボールを一杯づつ頂いた。

 会場に入ると内部はホールと云うより、スタジオのような施設。まずもって天井の低いし、客席の前方は平土間で固定席はなく、折畳み椅子が置いてある。後方は階段状の固定席で多目的仕様になっており、アコースティック面にも問題のある、ここは音楽専用とは言い難いホールと分かる。僕の松本行きの目的は、当然ながら小澤の振るオペラにあり、室内楽鑑賞は安曇野散策の一環と考えている。この会場じゃ趣に乏しいよなぁと、かなり不満に感じる。今日のコンサートにしても、日曜のオペラ公演の前日にあるからと云う、只それだけの理由で来たようなものなのだ。

 コンサートはギターの渡辺香津美(見た目ちょい悪オヤジ)のソロで始まり、次に鈴木大介(ふと気付けば「磐城壽」の蔵元さんと同姓同名ですね)が舞台に現われ、ギター・デュオで二曲目を演奏。cobaの出て来てアコーディオン・トリオとなり、ヘンリー・マンシーニで四人が勢揃いする。それぞれ登場の前に、先に出て来た奏者がMCで紹介するスタイルは、如何にもポピュラー・コンサートらしい演出と感じる。

 今日のコンサートを聴き進む内、彼等にとって映画音楽は素材に過ぎず、勝負処は曲のアレンジと演奏のアドリブに置いているようだと気付く。また、彼等はスタジオ・ミュージシャンとして、映画音楽をお仕事と捉える傾向もあるやに思う。MCで喋るのは映画の内容よりも音楽の話ばかりで、彼等は娯楽として映画を鑑賞するのではなく、常に音楽を吟味しているかのようだ。パーカッションの八尋は「黒いオルフェ」で、ラスト・シーンのタンバリンに感銘を受けたと話し、やはり専門家の観方は我々とは違うと感じる。映画自体への思い入れを殆んど語らないので、もしかすると音楽を聴くだけで、観た事のない映画もあるのかも知れない、等と妄想して終う。

 このコンサートは基本的に、人気者のcobaをフューチャーする企画のようだ。室内楽カルテットとして、アコーディオンが専ら旋律を担当し、撥弦楽器のギターは埋め草に回る場面が多い。そこへパーカッションが入るとギターと音の被って終い、お互いの音色の魅力を相殺しているように思う。或いはジャズ・カルテットのスタイルで、四人の奏者が交代でソロを取り、後の三人は伴奏に回る。何れにせよ単純なスタイルで、僕としてはもっと対位法的なアレンジの望まれる。

 また、もっと徹底的にスロー・テンポな、ピアニシモで聴かせる曲も欲しいが、会場の広過ぎてPAを使わざるを得ないと云う事情もある。編曲は鈴木大介の担当らしいが、他の三名を目立たせて自分は遠慮している気配のあり、それが上手く行っている部分もあるが、全体を通し今ひとつ効果は揚がっていない。

 四人の奏者のアドリブはパターンの繰り返しで、僕はルーティン・ワークと感じるが、彼等は何れも抜群のテクニシャンで、演奏は充分に盛り上げている。聴いていてそれ相応に楽しいのは勿論だが、僕は特に面白い演奏とは思わない。四名の芸達者のアドリブとスィングに、サイトウ・キネンの客達も大喜びで、こういうのは本当に単純にウケる。でも、僕は音楽を娯楽として捉えるのではなく、分析し理解する対象としているので、そのテに易々とは乗れない。アンコールの曲中に客席から、手拍子の湧き起こったのにも違和感を覚える。演奏に対し耳を澄ますのが、音楽を聴く行為と信じる僕は、押し付けがましい手拍子を嫌悪する。

 断って置くが、僕は今日の演奏自体を否定する訳ではない。東日本大震災の後、我々は生命力のある演奏であれば、危機に直面した人々を勇気付け、希望を与える事は可能と知った。そのような場に立てば、恐らく今日の四名の演奏は被災者の心に響く、それだけの力はあると思う。岩手県立不来方高校の歌う「故郷」や、仙台市立八軒中学の歌う「あすという日が」が、避難所の被災者を泣かせたのと同じように。

バルトーク「中国の不思議な役人&青ひげ公の城」

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<サイトウ・キネン・フェスティバル松本2011/テアトロ・フィレンツェ共同制作・プレミエ>
2011年8月21日(日)16:00/まつもと市民芸術館

指揮/沼尻竜典/小澤征爾
サイトウ・キネン・オーケストラ
SKF松本合唱団

演出・照明・振付/金森穣
Noism1&Noism2(新潟りゅーとぴあ専属ダンス・カンパニー)
美術/ダン・ドレル/リナ・ゴットメ/田根剛(DGT建築設計事務所)
照明/伊藤雅一
衣裳/中嶋佑一

バレエ「中国の不思議な役人」op.19
娼婦/井関佐和子
宦官/中川賢/櫛田祥光
学生/宮原由紀夫
老人/藤澤拓也
ゴロツキ/宮河愛一郎/藤井泉/真下恵

オペラ「青髭公の城」op.11
青髭公/マティアス・ゲルネ
ユディット/エレーナ・ツィトコーワ


 皆様ご存知の通り、小澤征爾は食道癌の手術後で体力の回復せず、昨年のサイトウ・キネンではチャイコフスキー“弦セレ”のみを振った。年明けには持病である腰痛の手術を行い、三月に予定されていた音楽塾の「フィガロの結婚」は、公演自体が中止された。今回の二年振りのオペラ出演でも、病み上がりの体力面に配慮し、バルトーク二本立て公演の内の「青髭」のみを振り、バレエ指揮は沼尻竜典の担当となった。ところが先週、右足を負傷した沼尻が東京フィルのコンサートをキャンセル。これはもしや小澤も沼尻も出て来んのかと怯えるが、当日の会場でご両人共に出演と告げられ、ホッと胸を撫で下ろす。

 時刻となって客電の落ち、オケピットに姿を現したのは何と小澤だった。えっ!やっぱり沼尻は降板で、小澤の全部振るのかと一瞬思うが、東日本大震災の犠牲者を悼み、上演に先立ってバッハの組曲三番からのアリアを演奏すると告げられる。そう云えば阪神淡路大震災の年にも、兵庫県であったヘネシー・オペラ「セヴィリアの理髪師」の上演前に、小澤は「G線上のアリア」を演奏した。あの際に小澤が曲名を告げると、大喜びで拍手した客が一人居て、演奏の終わっても拍手はしないで下さいと、小澤が断っていたのを思い出す。

 小澤とサイトウ・キネンオケの演奏は、レガートなフレージングの中でクレシェンドとディミヌェントを繰り返す、如何にもモダンで流麗なバッハ。演奏後そのまま全員で黙祷を捧げる。小澤の引っ込むと、改めて沼尻が足を引き摺ってオケピットに現れ、これは文字通り“這ってでも”出て来ると云う格好。そりゃまあ、東フィルのファミリー向けお盆興行はパスしても、サイトウ・キネンは休めんよなぁ…。

 これまで外人さんばかりだったサイトウ・キネンの演出に、今年は初めて日本人が起用された。その筋では著名人らしいダンサーの金森穣だが、その方面に疎い僕は初めて聞く名前。ローザンヌでモーリス・ベジャールに師事し、現在は新潟りゅーとぴあで舞踏部門芸術監督を務める、どうやら国際的な広い視野を持った、才気に溢れるアーティストのようだ。

 僕はバレエなどダンス系の舞台を観る習慣のないので、前半の「中国人」に付いて感想文を綴るのは難しい。このバレエ音楽のストーリーは、殺しても死なないゾンビみたいな宦官が美人局に引っ掛かり、性欲を満たすと共に死を迎えると云う不気味なもの。そこへ演出家は懇切丁寧な演出を施している。バレエには字幕の出ないので、ポケッと観ていてもストーリーを追える演出は、僕のような初見の素人には有難い。

 だが、懇切丁寧とは云っても、この演出は決して説明に堕している訳ではない。演出家は「役人は人形として登場します。人形ですから死にません。しかし生と性を求め、人間になることを望む役人は、人間になる事で同時に死を手に入れるのです。『エロス・タナトス』ですね」と、述べていて(トリスタンとイゾルデだ!)、宦官のダンサーは人形とその影の二人で踊られる。また、「役人の不思議さと娼婦であるミミのおかれた境遇とが鏡面のように惹かれ合います。ミミというごろつき一家のコミニティの中の生け贄と役人というマクロなコミニティ、社会の中の生け贄が互いに惹かれあって、愛と死をともにする」とも述べ、幕切れ近く宦官のダンサーは宙吊りにされ、昇天する事となる。

 とっても分かり易いし、作品の曖昧な部分をキレイに解き明かす、これだけのヴィジョンを描けるのは、それだけで大したものだ。そこへ肉付けする、ダンサーのフィジカルなレヴェルの高さは当然としても、この演出家が照明の使用法を心得ているのに驚かされる。振付自体に猥褻な動きは無いのに、エロティックな雰囲気の濃厚な演出で、僕のようなクラシック・バレエとコンテンポラリー・ダンスの区別も付かない、不勉強極まる観客でも充分に楽しめる、上質な仕上がりの舞台を作ってくれた。バルトークの音楽の持つ一面、厳しい美しさと裏腹にある猥褻性に気付かされたのも、大きな収穫と感じる。

 四年前、やはり振付家でH・アール・カオス主宰の大島早紀子が演出を担当し、亡くなった若杉弘さんの指揮された東京二期会公演のR.シュトラウス「ダフネ」、上野の文化会館での三日公演を観に出掛けた時を思い出す。この際の演出自体も尖鋭的で、美しく力強い舞台だったが、それよりも白河直子のソロの踊りに、一際見応えのあるのが印象付けられた。コンテンポラリー・ダンスなんて、僕はオペラの演出にでもならねば観る機会の無く、今年のサイトウ・キネンでは、そのレヴェルの高さを再認識させられた。

 僕は「中国人」を初めて聴くが、木管の独奏と合奏を主体とした静かな音楽からアチェルラントする部分では、何分にもオケに腕達者の揃っていて、彼等は放って置いても勝手に盛り上げる。沼尻は例によって棒を振り回すけれども…。畳み掛ける無調の曲想に迫力を含む、厳しくとも微かなユーモアを滲ませる音楽で、沼尻は指揮者としての本領を発揮する。彼はバルトークに適性のあると思う。

 休憩後は皆様お待ち兼ね、小澤の「青髭」。この作品に付いて金森は、「『中国』で人間になろうとする役人と、『青ひげ』で人間であるがゆえに愛憎の感情に振り回されて人形のようになってしまう人間ユディット、といったように、コインの裏表のような構造」とコンセプトを語り、そのプランを「外のユディット・外の青ひげを歌手の二人で、内のユディット・内の青ひげそして影たちを舞踊家が演じます。ですから内側と外側というのは常に自分の中にあります」と説明する。

 バレエ音楽に振付ける通常業務とは別に、初経験のオペラ演出と二作品をセット上演と云う事で、両者に共通する視点を見出そうとする、舞踏家としての意図は良く分かる。でも、宦官を操り人形とした発想は秀逸と思うが、それをそのままユディットにまで当て嵌めるのは、やや無理のあると思う。要するに彼はオペラ演出を自分のフィールドで行う為、踊れないオペラ歌手の代わりに、ダンサーを舞台に上げようとしている。こじ付けめいていると思うし、スタティックな「青髭」の音楽にダンスの合うのかどうかも、やや疑問に感じる。

 実際の舞台を観ても、突っ立ったまま歌う二人の回りをダンサーの踊るのは、歌曲のコンサートとダンス公演の同時進行する趣があり、僕としては「青髭」演出の難しさを再確認するに留まった。三年前のパリ・オペラ座来日公演での「青髭」演出は、スペインの前衛演劇集団によるもので実験的な傾きはあったが、光と闇を巧みに操る夢幻的な美しさで、とても見応えのある舞台だった。「青髭」に肉体表現は合わず、幻想的な演出の良いようで、これは振付家の起用自体が思惑違いとなった。

 でも、今日の「青髭」では実際の話、舞台上で何やってるかなんてどうでも良く、最初から最後までオケ・ピットの中に、僕の目と耳は釘付け状態だった。これまで「青髭」を凡百の指揮者で聴き、しんねりムッツリした音楽と思い込んでいた、その不明を恥じねばならない。

 小澤は曲を完璧に手の内にして、オケを自由自在に転がしている。まず、局面に応じたテンションの張り方・緩め方に、リズムの処理とパウゼの慎重な使用法等、全体を見通した設計が素晴しい。各セクションのバランスの取り方、管弦打楽器の出し入れを完璧にコントロールし、オケから青白く底光りするような美しい音色を引き出している。小澤はオケを、青髭とユディットに次ぐ三人目の歌手と位置付け、バルトークの音楽をポリフォニックに歌い上げる。

 ここを決めドコロと見極めた、五つ目と七つ目の扉を開ける音楽で、渾身のフォルテシモへ持って行く指揮者の手際の見事さと、オケの紡ぐ豊麗な響きに、僕は呆然と聴き入るのみ。これ程に色彩感の豊かな、隅々まで磨き上げられた美しい音楽をバルトークは「青髭」に付したのだと、今日は心底から納得させられた。つい先ほど聴いて感心した筈の「中国人」が、何だか色褪せたモノクロームな演奏だったように思えて来る。まだ沼尻と小澤では、格の違いのあるのかなぁ…。

 本来の主役である二人の歌手も、小澤の繰り広げるオケの音に乗り、素晴しい歌を聴かせてくれた。青髭のゲルネは非常な美声の持ち主である上に、その声をコントロールするテクニックにも秀でている。音域の高低と共に前頭部・鼻腔・下顎と、声を響かせる位置を変化させ、多彩な音色を確保している。そうして得た音色を駆使し、音楽の内実つまり青髭公の心情を表現する、彼は超一級のリート歌手と思う。これに対するユディットのツィトコーワは、豊かな声量で対抗。彼女も高低の音域にムラの無い美声で、パセティックな情感にも欠けていない。当代一流のバリトン歌手と伍し、一歩も引けを取らなかった。

 僕は二十代から聴いて来た小澤の演奏の中で、これまでに最も感銘を受けたのは、やはりサイトウ・キネンでのプーランク「カルメル海修道女の対話」だが、今日はそれに比肩する演奏と感じる。あの万年青年も古希を過ぎ、遂に“老大家”の音楽を奏でるようになったのか、或いは癌から復帰した一期一会の状況でベスト・パフォーマンスを示したのか、それは良く分からない。ともあれ今後も、これまでと同様に小澤の演奏を、大切に聴きたいとだけ思っている。

第65回福島県合唱コンクール

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2011年8月26日(金)9:30/会津風雅堂

<中通り>
県立保原高校(混声13名)
指揮/舟山綾美
ヤコブ・ファート「O quam gloriosum est regnum 栄光に輝く王国」
コダーイ「Veni,veni emmanuel 久しく待ちにし」
 少人数でもキチンとポリフォニーを理解しているが、アルトのピッチの低目なのは気になるし、テノールはもう少し軽い声で歌いたい。コダーイには綺麗なピアニシモのあり、朝一番の会場の雰囲気を把握して見事だが、バランス的に男声の強過ぎ、フォルテで上手くハモらない傾向はある。コダーイの曲は全て、基底にマジャール語のイントネーションを潜めているので、そのリズム感覚を掴み、もう少しテキパキとやって欲しい。

県立川俣高校(女声9名)
指揮/馬場和美
スヴェーリンク「Lascia Filli mia cara 愛するフィリスよ」
Javier busto:Maritxu nora zoaz
 スヴェーリンクは一桁の頭数で、このテンポの遅さは問題外の領域。途中でピッチの上がり切らなくなったのも、それが原因。技術的に未熟なので、自由曲に基礎を固める曲を取り上げたのは良い事と思う。

県立安達高校(混声25名)
指揮/神野藤真砂子
ヤコブ・ファート「O quam gloriosum est regnum 栄光に輝く王国」
木下牧子「いっしょに/鴎」
 前のめりにアチェルラントするリズム感は、この曲の解釈として正解。ポリフォニーにしては大振りの指揮でも、その意図は明快で的確な指示を出しているが、五名の男声の非力は致し方の無い処か。木下では曲に対する情感の表現が的確で、全体を見通したアーティキュレーションの構築が上手い。高校生らしい爽やかな演奏だが、大人数向きの曲作りで、更に速いアレグロのテンポ感が欲しかった。

県立安達東高校(女声9名)
指揮/濱崎晋
スヴェーリンク「Lascia Filli mia cara 愛するフィリスよ」
濱崎晋「Look for the stars/Splendor in the grass」
 やや遅目だが、このテンポならマドリガーレとして許容の範囲内で、アチェルラントも効果的に使えた。自由曲は指揮者の自作自演のようだが、表現意欲もあってキチンと形にした演奏。曲そのものも英語の平仄に合っていて、鈴木輝昭の作曲よりも堂に入っていると思う。

県立本宮高校(女声22名)
指揮/宗像涼子
小林秀雄「私のいのちは」(五つの心象)
木下牧子「うたをうたうとき」
 課題曲はピッチの甘さで、マイナーなコード進行を捕まえ切れないのが辛い。自由曲はメロディーと言葉の抑揚の一致しないヘンな曲で、もっと大袈裟なデュナーミクを付けてカヴァーしたい。

県立小野高校(混声23名)
ヤコブ・ファート「O quam gloriosum est regnum 栄光に輝く王国」
千原英喜「第2楽章」(おらしょ)
 軽い声質の男声は良くとも、ソプラノの太い声の気になり、指揮者に縦割りのリズム感のあって、ポリフォニーとしての純度は低い。自由曲で声と曲はマッチしているが、このテのノペっとした曲にこそ、メリハリの立ったリズム感の望まれる。それと、この曲を少人数でやる意味を突き詰めて考えれば、テンポは自ずと速くなる筈と思う。

県立田村高校(女声22名)
指揮/渡部裕子
小林秀雄「私のいのちは」(五つの心象)
ジェルジュ・オルバーン「Mundi renovatio 世界の更新
/Noli Flere 泣かないで/Lauda Sion 救い主を称えよ」
 大人びた声に音色の統一感があり、力のあるピアニシモを駆使する思い切りアザトい曲作りは、これが正解。自由曲の演奏に、美しいハーモニーと清潔なリズムはあるが、もっと速いか遅いか、或いはフォルテかピアノかの明確な対比を作りたい。こういった内容に乏しい外面的な華やかさを追求する曲では、思い切り派手にカマして貰わないと、聴く側は納得しない。

県立須賀川桐陽高校(女声15名)
指揮/田母神貞子
スヴェーリンク「Lascia Filli mia cara 愛するフィリスよ」
Nancy Telfer:Kyrie/Gloria/Sanctus〜Missa Brevis
 良いリズム感のあるマドリガーレで、この快速テンポが正解。テルファーにも軽やかな音楽作りと、キチンとした頭声のあって好感度は高いが、やや生真面目に過ぎる。少人数で難しいだろうが、思い切ったルバートとかスフォルツァンドとか、もう少し遊び心の欲しい。

県立清陵情報高校(混声22名)
指揮/金澤勝敏
ヤコブ・ファート「O quam gloriosum est regnum 栄光に輝く王国」
鈴木輝昭「病める皇帝の祈りのうた」(誕生祭)
 課題曲ではハーモニーに溺れ、速目のテンポも裏目に出て、ポリフォニーの線は今ひとつ出て来ない。ここが鈴木をやるとは無謀な、と思ったのが先生のデュナーミクの工夫で、シミジミとした味わいのある表現となる。中間部のフォルテを歌い切る声の力もあり、最後の不協和音は美しくハモらせ、知的な気品を感じさせた。

県立岩瀬農業高校(混声10名)
指揮/有賀美里
松本望「やわらかいいのち」(あなたへ)
Morten Lauridsen:O magnum mysterium
 課題曲は全くハモらず、ちゃんとパート練習したのか疑われる。自由曲も女声は一応自分のパートを歌えているが、男声は一体何処のパートを歌っているのか怪しまれた。

県立石川高校(女声8名)
小林秀雄「私のいのちは」(五つの心象)
Eleanor Daley:Ave Maria
 この人数でもソルフェージュのキチンと出来ていて、大所帯の所でもっと酷いトコもあったぞと感心していたら、自由曲は全くハモらなかった。この落差はやや理解に苦しむ。

県立白河実業高校(女声11名)
スヴェーリンク「Lascia Filli mia cara 愛するフィリスよ」
ラヨシュ・バルドシュ「Ave Maria」
ミクロシュ・コチャール「Salve Regina」
 スヴェーリンクを速いテンポで通したのに好感を持つが、余りにも声の小さいので、ヴォイス・トレーニングは必要と思う。ハンガリーの二曲も誠にか細い声で、音楽と云うよりもその影を聴いている気分だった。

<審査員個別順位>
佐藤正浩(リヨン国立オペラ首席コレペティトゥール)
1.会津 2.安積黎明女声 2.喜多方 4.安積混声 5.橘 6.会津学鳳 7.郡山女子大附属 8.葵 9.郡山女声 10.福島 11.湯本 12.郡山混声 13.磐城 13.安積女声 15.郡山東混声

清水敬一(合唱指揮者)
1.安積黎明女声 2.橘 3.安積混声 4.会津 4.郡山女子大附属 6.郡山女声 7.喜多方 7.福島 9.郡山混声 9.安積女声 9.会津学鳳 12.郡山東混声 12.郡山東女声 14.葵 14.磐城

鈴木輝昭(作曲家)
1.会津 1.橘 3.会津学鳳 4.郡山女声 4.安積黎明女声 4.郡山東女声 7.磐城 7.安積混声 7.安積男声 10.郡山東混声 10.喜多方 12.郡山女子大附属 12.郡山混声 14.福島東 15.葵

羽山晃生(テノール・二期会会員)
1.安積黎明女声 2.安積混声 3.会津学鳳 4.会津 5.郡山女声 5.喜多方 5.磐城 8.福島東 9.橘 10.葵 11.郡山混声 11.安積女声 13.安積女声 13.安積混声 15.郡山東混声 15.郡山女子大附属

藤井宏樹(合唱指揮者)
1.安積混声 2.橘 3.会津 3.安積黎明女声 5.喜多方 6.郡山女子大附属 6.福島 6.郡山東女声 9.磐城 9.葵 9.福島東 12.会津学鳳 12.安積女声 12.郡山東混声 15.郡山女声

第65回福島県合唱コンクール

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2011年8月26日(金)9:30/会津風雅堂

<郡山市>
県立郡山高校(混声52名)
指揮/菅野正美
ピアノ/鈴木あずさ
高嶋みどり「父の唄」(若者たちの悲歌)
鈴木輝昭「木/水」(五つのエレメント)
 全体に小じんまりと纏めた演奏だが、課題曲の対位法的な構造は良く把握出来ている。自由曲でソプラノは柔らかくスピントする上に、ソット・ヴォーチェの上手で、フォルテで絶叫にならない女声の声楽テクニックは高い。デュナーミクの作り方を曲の無機的な情感に合わせて、この指揮者の通例である情感過多の傾向の無いのも好ましく、ソフトで明晰な子音の発音で言葉も良く分かるが、もう少しダイナミク・レンジを広げ、より立体的な演奏の望まれる。

県立郡山東高校(混声21名)
指揮/小林悟
ヤコブ・ファート「O quam gloriosum est regnum 栄光に輝く王国」
ジャヌカン「La Guerre マリニャンの戦い」
 課題曲の跳ねるリズムに違和感はあるが、ポリフォニックな構築は良く出来ているし、後半のテンポ・アップも正解。ただ、本来はレガートにやるべきで、この指揮者はシャンソンのリズムで宗教曲を処理しているように思う。ジャヌカンはとても良く歌えたが、これはもっとソフィストケイトされた音楽なのに、曲の前半の表現は生っぽく過ぎる。中間部の擬音のオノマトペと明快な対比を作りたいし、全体にテンポを弄り過ぎで、ルネサンス・シャンソンの愉悦感は出て来ない。ここの顧問教諭には様式感の無いと思うが、当然に聴いているであろうドミニク・ヴィスの録音の真似をせず、独自の解釈を貫くのは、それはそれで評価すべきと思う。

県立安積黎明高校(男声8名)
指揮/宍戸真市
モーツァルト「Dir,seele des weltalls 汝は宇宙の魂に」K.429
シューベルト「Die nacht 夜」
 課題曲はパパゲーノのアリアみたいで、ダブル・カルテットが半円で指揮者を囲み、先生も歌っているように見えるのは、なかなか楽しそう。シューベルトは歯切れの良いリズムで、不協和なハーモニーも表現として良くこなした。ただ、これは言っても詮無いが、トップの籠もり気味の声は何とかして欲しかった。

郡山女子大附属高校(女声32名)
指揮/榊枝まゆ美
ピアノ/横溝聡子
土田豊貴「けれども大地は…」(夢のうちそと)
鈴木輝昭「宇宙の滴りをうけて」(譚詩頌五花)
 課題曲のピアニシモのテンションは高いが、そこでピッチの合わずに和音の揺れるのはキズになる。自由曲に高度な声のテクニックはあるし、曲想に合わせた表情の変化もあるが、終始同じようなテンションの続いて、音量を増減させるだけの曲作りはやや単調。音色の変化に乏しいのも、音楽の表現を一面的にして終った。

県立郡山東高校(女声31名)
指揮/小林悟
土田豊貴「けれども大地は…」(夢のうちそと)
信長貴富「春の苑/天の火/山茶花」(万葉恋歌)
 遅いテンポで曲の構造を明示し、ダイナミズムの変化とテンションの移動で聴かせる、指揮者の音楽性にフィットした課題曲と思う。自由曲はハーモニーの色合いと、声の音色の変化を絡ませたカラフルな演奏。テンポの遅いのは、その辺りの変化に注意深く耳を澄ませ、ジックリと聴かせる姿勢のあるからと分かる。この指揮者は、このテのネッチョリした曲をやらせると上手で、僕でも結構楽しく聴けた。

県立安積高校(混声33名)
指揮/鈴木和明
ヤコブ・ファート「O quam gloriosum est regnum 栄光に輝く王国」
Ryan Cayabyab:Aba po,Santa Mariang reyna
 課題曲はハーモニー重視の為に団子気味となるので、もっとポリフォニーの線を出したい。何語の曲かも分からない自由曲だが、指揮者の全体を見通したアーティキュレーションの作り方の上手で、定石を外したコード進行の曲から、美しい響きを引き出している。柔らかい声のテノールと、しっかりした高音を出せるソプラノは、フォルテシモで力のある処も聴かせてくれた。

県立安積黎明高校(女声46名)
指揮/宍戸真市
土田豊貴「けれども大地は…」(夢のうちそと)
鈴木輝昭「夜曲-木魂の薔薇」(妖精の距離)
 課題曲はスピントするフォルテシモで力のある処を聴かせるが、ピアニシモでフラついたり、細部の彫琢まで手の回っていない印象を受ける。一体何声にまで分かれるのか、前半の対位法的な部分の処理は声に力のあり、個人レヴェルの技量で聴かせる。指揮者の分析の手付きは精密だが、中間部のホモフォニックな曲想に、もう一歩の工夫は欲しかった。

県立安積高校(女声17名)
指揮/鈴木和明
スヴェーリンク「Lascia Filli mia cara 愛するフィリスよ」
ラヨシュ・バルドシュ「Magos a rutafa 大きなルタの木」
 ロマンティックな情感を込めたスヴェーリンクだが、曲中のテンポの切り替えの上手なのと、ポリフォニーの処理も良く出来て美しい演奏だった。バルドシュは独特な柔らかい音色のあるソプラノへ、深いアルトのブレンドされた美しいハーモニーがあり、技巧的なデュナーミクの工夫と、何よりも指揮者の個性的なセンスで聴かせた。

県立安積高校(男声15名)
指揮/鈴木和明
高田三郎「冬・風蓮湖」
千原英喜「岡崎五万石/東照公遺訓」(東海道中膝栗毛)
 課題曲に男声らしい倍音の効いたハーモニーはあるが、フォルテを出し切る声の力に欠けるのは、やや物足りない。自由曲でのハモり具合も、やはり男声アカペラは一味違うと感激する。もう少しトップにスコーンと出せる力のあると、更にバランスは良くなるが、そこまで高望みはするまいと思う。持ち味である柔らかい発声に、西洋音楽っぽいクサイ民謡編曲が打って付け。男声合唱ではサウンドの追求の前提にあって、そこから音楽の始まると再認識させられた。

県立郡山高校(女声32名)
指揮/菅野正美
ピアノ/鈴木あずさ
土田豊貴「けれども大地は…」(夢のうちそと)
鈴木輝昭「会う-手紙-川」(女に第2集)
 課題曲に柔らかな情感を生かす美しいハーモニーはあるが、ソプラノの声のポジションの決まらず、指揮者の曲の整理も今ひとつで完成度は低い。自由曲はソプラノにクッキリとした明確な響きの無く、アルトとの対比が際立たない。優し気なニュアンスは指揮者の持ち味だが、曲を通してあるべき色彩感に乏しいのは物足りない。

<決定順位>
1.安積黎明女声 2.安積混声 3.会津 4.橘 5.喜多方 6.会津学鳳 7.郡山女子大附属 8.郡山女声 9.福島 10.郡山東女声 11.磐城 12.葵 13.郡山混声 14.安積女声 15.福島東 16.郡山東混声(以上東北大会代表)17.安積男声 18.湯本 19.田村 20.桜の聖母学院 21.いわき光洋 22.いわき総合

福島の酒〜呑む、聴く、買う

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 八月の高校総合文化祭の見物に、福島市音楽堂を訪れようと思い立ったのは、出発の一週間ほど前の事。既に福島市内のお宿は満杯状態で、辛うじて予約出来たのが県立美術館の門前にある旅館。どうやら道路工事のおっちゃんとか向けの宿泊施設らしい。現状の福島では、相客は除染作業に従事する方々かも知れないけれども。ここが僕に取って有り難かったのは、食べ放題の夕食付きで、しかもお酒の持ち込みも許されている事。

 そこでお宿で呑む酒を入手すべく、福島駅東口に近い岸波酒店を訪れる。県内のお酒を中心に扱っているお店で、女性店長さんにお勧めを訊ね、喜多方にある小原酒造の「零生氷温本醸造」四合瓶を購入し、宿へ持ち帰る。生原酒を摂氏0度で半年寝かせ、夏に売り出す酒との事。宿の夕食で取り放題の野菜炒めや焼き魚を食べながら、このお酒を美味しく頂く。“蔵粋”(クラシック)を代表的銘柄とする小原酒造は、モーツァルトを聴かせながら育てた酒を売りにしている。大吟醸交響曲とか、純米協奏曲とか云うネーミングで販売しているが、それって要するにモーツァルトの録音を、酒造りの作業中に流しているだけのような気もする。

 翌日は宿から歩いて、福島市音楽堂へ向かう。この日の総文祭は器楽・管弦楽部門で、管弦楽と弦楽合奏とギター・マンドリンの三種類の合奏団体が、ほぼ交互に出て来て演奏する。その中で僕の惹かれるのは、やはりフル・オーケストラの演奏。印象に残ったのはベートヴェンの第五シンフォニー四楽章を取り上げた、北海道の十勝合同オーケストラと、ヴェーバー「魔弾の射手」序曲を単独で演奏した、群馬県の桐女フィルハーモニーの演奏。指揮の先生の弄り過ぎの解釈には納得しなかったが、女子高校生だけでフライ・シュッツを立派に弾き切り、僕は甚く感激させられた。

 この学校はプログラムに寄せたメッセージに、「この地に来るについては、少なからぬ抵抗感を持った関係者もいましたが、私たちにできることは音楽を通じて、たとえ一時でも苦しまれておられる同胞の方に寄り添うことしかできないと考え、やって参りました」と記している。今回の総文祭に参加した学校は全て、同じような事情を抱えている筈なのに、ここまでハッキリ書いたのは、この群馬県立桐生女子高校だけだった。

 この日の最後に、地元の福島・橘・安積・安積黎明の四校合同は、何とヴァーグナーのマイスタージンガー前奏曲を演奏する。これは是非とも聴きたかったが、帰路の電車の時間となり、残念ながら失礼する事とした。福島駅へ戻る途次、岸波酒店に再び立ち寄る。昨日買ったお酒も、柔らかい甘さの中に熟成の深みもあって美味しかったが、自分としてはもう少し呑み応えのある方が好みなので、その旨を店長さんに伝え酒を選んで貰う。お勧めは会津板下町の酒蔵、豊国酒造の純米酒で、一升瓶を購入し持ち帰る事とした。上掲の写真はハンドル・ネーム“夢乙女”、「小さな酒屋」店長さんです。その節はご協力ありがとうございました。



 僕はプレミエを観たサイトウ・キネンの「青髭公の城」だが、その後の火曜日と木曜日の公演は、小澤征爾が体調不良を理由にキャンセルしたらしい。高齢で病み上がりの小澤には、くれぐれも自重をお願いしたい。でも、先週の日曜日の公演ではバッハも振ったし、そんなに体調の悪いようには見えなかったけれども…。取り合えず小澤のバルトークを聴けて、幸運だったと思う。

 会津若松で行われた、金曜日の高校部門の福島予選を聴いた翌日は、中学校部門のコンクールがある。ホテルでバイキングの朝食を摂っていると、制服姿の女子中学生が団体でゾロゾロと入って来る。これがまた躾けの行き届いた連中で、キチンと列を作ってバイキングのテーブルを取り囲み、順番に料理を取ると、キャピキャピ騒いだりせず静かに御飯を食べる。実に整然としているのである。今日も会津風雅堂の客席に座り、代わる代わる出て来る中学生の演奏を聴くが、三番目に出て来たのが、先ほどホテルで見た制服の学校だった。郡山市立第五中学だそうで、電車で一時間程の会津若松で行われる大会へ出場するのに、わざわざ前泊する意気込みと云うか、その支援の手厚さに驚かされる。そんな学校ならマナーの良いのも当然と納得した。

 中学生の演奏は声変わりした生徒と、子供の声のままの生徒の混ざっているので、既に児童合唱の純粋は失われ、さりとて大人の音楽にも為り切れない、我が国の六・三・三制の教育システムに縛られた中途半端な形態と、僕は常々思っている。これを平たく云うと、聴いていて退屈な演奏のみ。それでも件の郡山五中の演奏した、ハヴィエル・ブストのミサ曲は美しかったし、郡山市立第二中学のプーランクのモテットには、指揮者に柔らかいエスプリ表現のあって、何れもなかなか聴かせてくれた。そのように突出した学校は一部にあっても、中学生レヴェルでは娯楽として聴ける演奏は殆んど無い、僕はそう言い切って良いと思っている。

 午前の演奏の終わった処で、会津風雅堂を後にする。鶴ヶ城近辺をぶらぶらした後、昼酒を呑むべく向かうのは、レトロな洋館の会津若松市役所近くにある、居酒屋「麦とろ」。昼食には遅目の時間で、客は僕一人。店名ともなっている名物、八百円の麦とろ定食を注文。生ビールを呑みながら頂く。事前に得た情報では、市内には他にも良さげな店は多かった。真昼間から呑めると云う、只それだけの理由で選択したお店だが、これが大当たりだった。

 卵焼きに大根と烏賊の煮物、鰊の山椒漬と胡瓜の浅漬けに味噌汁も付き、メイン・ディッシュの麦とろ御飯の出て来る前に、一体どれだけ食わせる積もりだと思う程、次々に料理の出て来て、これは呑むしかないと瓶ビールを追加。このお店の料理はお惣菜系ばかりで、平凡と感じる向きもあるようだが、これに相当な手間を掛けて作られている事は、食べれば直ぐに分かる。一見した処は素朴でも、料理としてのレヴェルは高いと思う。

 順調にビールから日本酒へ移行、投入されたのは市内にある高橋庄作酒造の「会津娘・純米酒」。そう云えば「磐城壽」の鈴木大介さんは、「会津娘」の蔵元杜氏さんとは東京農大の同期生か何かで、去年の大阪へも二人連れ立って来られたそうな。僕と大阪の割烹「堂島雪花菜」で同席した際、大介さんは福島県内には、うちと似たお酒を作る蔵は無いし、「会津娘」も全く毛色の違う酒と仰った。まあ、造るお酒の似ておらずとも、“仲良きことは美しき哉”である。でも、喜多方の「蔵太鼓」と云うお酒は、「磐城壽」に似てるんとちゃいます?と僕が訊ねると、あそこのお酒はリズムがある、うちのは…と大介さんは仰る。なんか専門家の用語法は難解で、やっぱり素人には良く分からんですな。

 福島で「磐城壽」に似たお酒の話で、堂島雪花菜の大将は「星自慢」の名前を挙げ、それは「蔵太鼓」の酒蔵の別銘柄と、大介さんに指摘される。どうやら、その喜多の華酒造場の酒は大介さんの醸す酒と、そんなに似ていない訳でも無いらしい。震災以後、僕も福島のお酒を色々と試したが、「飛露喜」に代表される都会的に洗練された軽快な酒と、「大七」のような生もと系の重厚な田舎酒と、傾向としてはこの二手に分かれるように思う。実は僕は、どちらもそんなに好みではなく、やっぱ「磐城壽」が好きです。鈴木大介さんには津波や原発に負けず、これからも頑張って美味しいお酒造って欲しいです。

 麦とろの話に戻すと、真昼間から酒喰らってる観光客風に対し、おっちゃんもおばちゃんも親切で、おまえ遠くから来たのか?そうか大阪からか、大阪から来てくれる客が他にも居る等と話し掛けられ、これは福島県産だと言いつつ、食後のドルチェに桃をサービスで頂いた。どうもその節はご馳走様でした。



 会津から大阪へ帰る途次、郡山駅で途中下車して、ここは毎年訪れている酒屋さん、清水台平野屋に立ち寄る。ご主人にお話を伺うと、震災の時の郡山市内の揺れは大きかったそうで、こちらのお店でもワイン・セラーの倒れ、商品に大きな被害のあったそうだ。福島県の場合、それだけで済めばまだ良かったのだけれども、ご存知の通りの放射能騒ぎである。果たして来年以降、福島の酒は売れるのかどうか、事態は深刻になっている。でも、お酒って米の表面を削って造るんだからと僕が言うと、風評被害はそう云った理屈の問題ではないと、ご主人に窘められて終った。

 こちらのお店では県外の酒を主に扱っているので、震災で被害を受けた蔵元のお酒をとリクエストし、宮城県の川敬商店「山廃純米・黄金澤」の一升瓶を購入し、家まで持ち帰った。この酒蔵は三年前の岩手・宮城内陸地震でも被災しており、ようやく元通りにした処で今回の大震災に遭遇し、再び酒蔵に大きな被害を受けたそうで、実際これも辛い話と思う。

 年に一度程しか来ない、僕のような七夕さんみたいな客の顔を、こちらの店主は何故か覚えてくれている。ご主人は故・上原浩著「純米酒を極める」に拠ると、利き酒の達人だそうで、テイスティングとは即ち記憶力だし、他人の顔を覚える能力にも秀でておられるのかも知れない。上の写真は、その清水台平野屋のご主人です。その節はご協力ありがとうございました。

ビゼー「カルメン」

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<テアトロ・コムナーレ・ディ・ボローニャ2011日本公演>
2011年9月10日(土)15:00/びわ湖ホール

指揮/ミケーレ・マリオッティ
ボローニャ歌劇場管弦楽団
ボローニャ歌劇場合唱団
NHK東京児童合唱団

演出/アンドレイ・ジャガルス
美術/モニカ・ポルマーレ
照明/ケヴィン・ウィン・ジョーンズ
衣装/クリスティーン・ジュルジャン
振付/エリータ・ブコフスカ

カルメン/ニーノ・スルグラーゼ
ドン・ホセ/マルセロ・アルバレス
ミカエラ/ヴァレンティーナ・コッラデッティ
エスカミーリョ/カイル・ケテルセン
隊長スニガ/クリスヤニス・ノルヴェニス
伍長モラレス/ベンジャミン・ワース
フラスキータ/アンナ・マリア・サッラ
メルセデス/ジュゼッピーナ・ブリデッリ
ダンカイロ/マッティア・カンペッティ
レメンダード/ガブリエーレ・マンジョーネ



 来日直後、3.11に遭遇したフィレンツェのテアトロ・コムナーレは、「トスカ」と「運命の力」の公演を一回づつ行った後、フクシマ・ダイイチのメルト・ダウンの情報を(恐らくは)得て、本国へ召還された。知らぬは日本人ばかりなりけり、そんな出来事だった。

 既にボローニャのチケットを購入済みだった僕は、尻に帆掛けて逃げ帰ったイタ公どもが、また来る訳ねえよなと諦めていた。だが、五月のメトロポリタン・オペラは、再三再四に渉るキャスト変更のスッタモンダの挙句、日本にやって来た。九月のボローニャにしても、恐らく来るのは来るだろうが、当初発表のキャストから何名の脱落者を出すかへ、興味の焦点は移る。中でもホセに予定されていたヨナス・カウフマンは、既に原発事故を理由にメトの「ドン・カルロ」を降板していて、事故収束の見通しの立たない中、来る訳の無いと考えるのが普通だろう。

 案の定、8月19日に「私自身、日本行きを非常に楽しみにしておりました。まず皆様にお伝えしたいのは、この数ヶ月間に日本の皆様が直面している状況を理由に、お伺い出来なくなったのではない事です。今回伺えなくなった理由は、胸部のリンパ節の切除の手術を受けなければならないからです」と云う白々しいメッセージを寄越した、カウフマンの脱落が発表される。でも、これは続いて25日に、代役にマルセロ・アルヴァレスを立てると云う朗報の発表され、「ありがとう、マルちゃん。もうカウフマンなんか一生来るな!」と、毒付いて置けば良くなった。

 9月5日には、ミカエラとエスカミーリョの脱落も発表されるが、このお二人は何れにせよ良く存じ上げない方で、来ないヘタレに用は無いと、こちらにも啖呵を切って置く。スルグラーゼとアルヴァレスの来てくれれば、後は取り合えず来て頂いた方を、歓迎すれば良いだけの話だ。因みにエスカミーリョの人の言い訳は、「声帯に発声障害が生じている」。ミカエラの人のは、「熱を伴う重症の咽頭炎・扁桃炎で15日間の治療と完全な休養が必要」との事で、まあ好き勝手言っとれと思うのみ。

 ホールに入ると真っ先に目に入るのは、舞台の間口全面にデザインされたキューバ国旗で、今回の演出コンセプトを開演前から自己主張している。前奏曲を終えて国旗の緞帳が上がると、現れるのはフィデル・カストロの肖像をあしらった葉巻工場のセット。二幕はバー・セヴィーリャのセットで、こちらにはチェ・ゲバラの肖像が掲げられている。三幕ではハバナの海岸風景がホリゾントに投射され、密輸業者は年代物のアメ車でブツを運ぶ。今日のエスカミーリョは闘牛士ではなくボクサーの設定で、四幕はボクシング会場を外から見上げる広場の情景。考えてみれば闘牛もボクシングも、血を見るスポーツと云う共通点はある。

 「カルメン」の舞台を現代のキューバへ移した、演出家の読替え自体が秀逸で、後は如何に説得力のある肉付け、つまりハバナの街のリアル・ライフを視覚化出来るかに、舞台の成否は掛かって来る。演出のジャガルスは北欧ラトヴィア出身だが、カラフルな原色のセットと衣装で埋め尽くす、南国らしくケバケバしい舞台を作り、これは「カルメン」の音楽のケバさに対応しているように思う。演出家は実際にキューバを訪れた事のあるそうで、今日の舞台はラム酒呑んで、サルサ踊って女の子とイチャイチャすれば、そこに人生の至福極まれりと云う、ラテンの快楽主義(村上龍ですな)的なノリで押し通している。

 コーラスはGAPのTシャツや、サッカーのボローニャのユニフォームを着た奴のいて、これは私服かとも疑われるが、黒人キャストも混じえて、キューバらしいリアリティを確保している。ただ、ボクシングと並び、キューバで最も盛んなスポーツである、野球帽を被ったヤツのいなかったが、これはラトヴィア人が作ってイタリアへ持ち込んだプロダクションなので致し方も無い。

 ホセによるカルメン殺しの場面。ホセは手にした空き瓶を割り、カルメンの喉を突く。白い衣装に血糊を付け、眼を開けたまま息絶えるカルメン。衝動的且つ、確実な殺意を持った行為との演出意図を、絵にして見せた手際が秀逸。二幕間奏曲では曲想に合わせ、酒場の客達の小競り合いがあり、三幕間奏曲でもリズムに合わせゴムボートを膨らませる等、舞台上の動きを音楽に絡ませてもいる。モブに対し細かい演技指導のある、入念な舞台作りでベタでも楽しい、とても見応えのある演出だった。

 ペ−ザロ出身のミケーレ・マリオッティは四年前、28歳の若さでボローニャの首席指揮者に就任している。ボローニャでは、ミラノ出身のリッカルド・シャイーを33歳で、ダニエレ・ガッティを35歳で音楽監督に就けていて、マリオッティも自国の若手を抜擢する伝統に沿った起用である。シャイーとガッティのその後の活躍は皆様ご存知の通りで、今日聴いた処ではマリオッティにも、前途洋々の将来は約束されているように思う。

 前奏曲ではオケをドルチェに歌わせ、効果的なリタルダントの使用法で、センシティヴなフレージングを作る。また、開幕直後の男声合唱では、クレシェンドとスフォルツァンドとの、中間位の微妙な膨らませ方で音量に変化を付け、柔らかなフレージングを作っている。けたたましい程にアザトくオケを鳴らす、痛快な「カルメン」は僕も嫌いではない。でも、今日の指揮者のヴェリズモと云うより、ロマンティックに歌い上げるような「カルメン」も、全然悪くないと思う。

 ハバネラ後半のアチェルラントや、二幕間奏曲での木管のマルカート。“花の歌”前奏部でのオーボエ・ソロのユックリしたテンポと、ホセにタップリと歌わせる最後のリタルダント。三幕前奏曲のフルート・ソロの遅いテンポと、アザトいけれども効果的なリタルダントの使用法等、様々に個性的な解釈は全て、「カルメン」をタップリと楽しませる為の、若い指揮者の周到な配慮と思う。

 マリオッティの柔らかい音楽作りに応えながらも、そこはオペラ・ハウスの座付きで、ボローニャのオケは勘所は外さずに盛り上げる。如何にもイタリアのオケらしい、歌心に満ちたブラヴーラに、僕は胸を熱くする。またマリオッティのコーラスの扱いは、マルカートとドルチェを組み合わせた丁寧な歌わせ方で、この人の合唱への思い入れも感じ取れる。恐らくは下振り任せでなく、自分でも時間を割いて稽古を付けているように思う。

 でも、これもオペラ・ハウスのコーラスで、ハバネラや闘牛場への行進曲等の景気の良い歌は、縦の揃わない雑然とした音色を物ともしない、如何にも奔放な歌い振り。一幕の幕切れでのソプラノの力に溢れた声を聴けば、このコーラスはソリスト級を多数抱えていると分かる。パワフルに発散してくれて、やっぱ「カルメン」はこうでなくっちゃ、と思う。N児は25名程のメンバーで齢回りからすると、ユースとジュニアの混成部隊だろうか。なかなか強靭な歌声で、こちらも充分に満足すべき出来映え。

 歌手では、やはりホセのアルヴァレス。一幕のカルメンとのデュオで、ビシリとフォルテシモをキメたが、ミカエラとのデュオでファルセットに逃げて終い、ここだけが玉にキズか。二幕の“花の歌”と、その後のカルメンに訣別する歌ではハイCをキメたし、三幕と四幕でカルメンを掻き口説く際の歌は、何れも力のある声が素晴らしい。この人の剛毅な声質は、ちょっとドミンゴに似ていて、でもあれほど押し出しの立派ではなく、程々に情け無いのがホセに合うキャラクターと思う。僕はお久し振りのアルヴァレスだが、良いモン食って安穏に暮らしているのか、体型的にもドミンゴに近付いて来たのは、誠にご同慶の至り。騒々しい世情にある日本公演で、ヘタレ歌手の代役を引き受けてくれた、マルちゃんに感謝。

 僕はタイトル・ロールのスルグラーゼを、昨年のサントリーホール「コジ・ファン・トゥッテ」で聴いており、この人のドラベッラは良かったけれども、果たしてカルメンはどうだろう?と、やや懸念していた。でも、この方は声量には乏しくとも、オケとコーラスのトゥッティを突き抜ける声質があり、声の聴こえずに、もどかしい思いをする事は無い。音色の変化で聴かせるタイプではなく、力のあるアルトの声質の低音で聴かせ、単独のアリアには小技も満載で、オリジナルなカルメンを造形している。取り分け、陰鬱な“カルタの歌”等で、その本領を聴かせてくれた。

 スルグラーゼさんの声をヴェリズモ向きとは言えないが、でも何と云っても容姿がカルメンに打って付けなのと、演技力に秀でていてトータルで観れば、充分に魅力的なタイトル・ロールと思う。それと主役四人の内、当初発表通りに来日してくれたのはスルグラーゼ嬢ひとりで、これも誠に有り難い事だし、美人で性格も良いとなれば応援せざるを得ない。

 ミカエラのコッラデッティは、レジェーロな声質でも濃い音色があり、またアルヴァレスと張り合える声量の持ち主で、ピアニシモのロング・トーンも力強い。三幕のアリアも実に立派な、やや立派過ぎる歌。中音域の太い声質のまま、高音部でスピントして余りにも力強く、ミカエラらしい可憐さには不足する。それと舞台姿も豊満な、余りにも豊満な体形で、これがカルメンの代役だったら怒るが、まあミカエラだし辛抱しようと思う。ただ、演出家が今回のミカエラに付いて、「衣装も保守的ではなくセクシーなものを着せています」と述べているのを、僕は後から読んで驚いて終った。その“セクシー”な衣装を、コッラデッティさんの着用したお姿を拝見し、僕は看護婦のユニフォームと思い込んでいたのもので…。

 エスカミーリョのケテルセンは声の力よりも、響きで聴かせるタイプのバリトン。でも、このテの声質の人に“闘牛士の歌”を歌わせると、余り芳しい結果は出ない。何よりもデカイ声を出すのが、あのアリアを歌う際の必須条件と思うからだ。でも、三幕のホセとの決闘シーンでは、アルヴァレスと対等に大声を出し合っていたので、やはりあれはバリトンに取って鬼門のアリアと再認識した。

 実は今日、僕は三幕の幕切れ辺りから、何だか泣けて仕方なかった。もう来ないものと諦めていた、ボローニャのテアトロ・コムナーレが実際に来日し、目の前で熱気に溢れる演奏を繰り広げている。オケのメンバーには当然ながら、色々な考えの人のいるだろう。だが、今この瞬間は全員がビゼーの音楽に没頭し、我々日本の聴衆にイタオペの魂を込めた演奏を届けようとしている。僕はその眼前の事実に、胸打たれたのだ。

 メトロポリタンに続き、大騒ぎの末の来日だったが、今は日本に来てくれたボローニャ関係者全員に、心から感謝の意を述べたい。

ベッリーニ「清教徒」

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<テアトロ・コムナーレ・ディ・ボローニャ2011日本公演>
2011年9月11日(日)15:00/びわ湖ホール

指揮/ミケーレ・マリオッティ
ボローニャ歌劇場管弦楽団
ボローニャ歌劇場合唱団

演出/ジョヴァンナ・マレスタ
美術・衣装/ピエラッリ
照明/ダニエーレ・ナルディ

アルトゥーロ/セルソ・アルベロ
エルヴィーラ/デジレ・ランカトーレ
リッカルド/ルカ・サルシ
叔父ジョルジョ/ニコラ・ウリヴィエーリ
隊長ブルーノ/ガブリエーレ・マンジョーネ
王妃エンリケッタ/ジュゼッピーナ・ブリデッリ
ヴァルトン卿/森雅史


 昨日は空席の目立ったびわ湖ホールだが、今八分通りの入り。やはり皆さん「カルメン」より「清教徒」、カウフマンよりフローレスと云う事か。チケット発売は3.11の前だったので、震災云々と関係なく世間の不景気が、飽和状態の来日オペラを直撃しているのだろう。

 「清教徒」のプリマ・ウォーモとして、来日を待望されていたフアン・ディエゴ・フローレスだが、リッカルド役のアルベルト・ガザーレと共に、9月2日付で日本公演からの降板が発表された。医師の診断は「声帯を支える軟骨付近に充血と肥大があり、三週間の休養が必要」との事。ここまで来ると、もう誰が来ようと来まいと、何だかどうでも良くなって来た。最早どなたであろうと、現状の日本に喜んで来て下さる方を、僕としては熱烈歓迎するに吝かではない。これは負け惜しみでも何でもなく、フクシマ・ダイイチのメルト・ダウンした日本に、ボローニャの皆さんの来て頂けるだけで有り難いと、僕は素直にそう考えるようになった。

 フローレスはメッセージで「海水を飲み込み、激しく咳込んだ時に、声帯の開口部分の細い血管を傷付けてしまいました。深刻な病状という訳ではありませんが、この状態では歌えません」と説明している。何と云うか、段々と言い訳も苦しくなっているなぁ、と云う感想しか出て来ない。尚、ガザーレへの診断は「重度の腎臓結石による痛みと発熱のため、15日間の安静が必要」。ガザーレ君にはお大事にと、お見舞い申し上げて置く。

 僕の初めて聴く「清教徒」はドニゼッティにも多い、宗教改革期のイギリスに題材を取った歴史物。英語でピューリタン、イタリア語だとプリターニの清教徒は、ヘンリー八世の創設した英国国教会に対する、改革派プロテスタントの信者集団である。時は17世紀イングランド、ピューリタンを弾圧するチャールズ一世と、議会で多数派を占めるピューリタンが対立し、所謂ひとつの清教徒革命が勃発。イングランドは王党派と議会派とに別れ、内戦に突入する。王党派との内戦に勝利した議会派の中でも、過激派と穏健派の内部対立の起こり、この派閥争いを制したオリバー・クロムウェルは、チャールズ一世を処刑して実権を握る。

 これがたった今調べたばかりの、ベッリーニの題材とした史実の概要。でも、この程度の知識もアヤフヤだった僕ですら、オペラ「清教徒」のストーリーは、観ていて腑に落ちないシロモノと感じる。まず、現在進行形で交戦中の敵方に、娘を嫁がせる総司令官ヴァルトン卿に対し、そこはかとない違和感を覚える。次に虜囚となっている敵方の王妃を連れ、逃亡する王党派の騎士を見逃がす、議会派の士官リッカルドに対し、モヤモヤした感情を抱く。最後、内戦は議会派の勝利との報を受けた後、王党派のアルトゥーロ伯爵に報復ではなく即座に恩赦の下りて、目出度し目出度しの大団円を迎える。こうして僕を不可解な思いに陥れたまま、オペラ「イ・プリターニ」の幕は下ろされる。

 僕のように全く予習をせず、常にブッツケ本番の観客でも、これはまた突っ込み処満載の台本である。でも、これも日頃からベルカント・オペラに親しんでいる人からすれば、今更何をと言われるような、ごく常識的な話柄なのだろう。

 これも常識の類だろうが、そのメチャメチャな台本に付された、ベッリーニの音楽自体は美しい。ただ単に綺麗な旋律の沢山出て来るのではなく、伴奏が歌の旋律と対旋律になっていたり、対位法的な処理がある。長いフレーズの歌の伴奏はブンチャッチャと単純でも、レチタティーヴォは旋律で支えて、ロッシーニやドニゼッテイ等に比し、より複雑なオーケストレーションになっている。コーラスにはソロとの掛け合いも多く、ストーリーの展開に絡み、お芝居の中で重要な役割を担わされている。やや荒っぽい程に力強い、男声合唱も魅力的だった。

 昨日、ドルチェな「カルメン」を聴かせたボローニャのオケだが、今日のベッリーニを聴くと、やはりその本領はベルカントにあると感じる。このオケは如何なる時もイタリアの、そしてベルカントのリズムを保ち、指揮者も矢鱈にテンポを動かさず、あくまで清潔な音楽作りを目指す。テンポの速い遅いに関わらず、正確なリズムを保持するオケの伴奏に、身を委ねて唱う主役の四名、所謂“プリターニ・カルテット”の歌に酔うのが、このオペラの正しい楽しみ方だろう。シンプルで清潔なアーティキュレーションの中に、イタリアの熱さを吹き込むのも指揮者の芸の見せ処で、これぞ正にベルカントの真髄、“歌”の快感の極みと感じる。

 皆様ご存知の通り、アルトゥーロの最高音は三幕四重唱でのハイFで、そこへ至るまでにもハイC♯やらハイDやらが頻発する、テノール史上最難関とも称される役処。でも、これは僕のようなボンヤリした聴衆からすれば、それほど有り難味は無い。フローレスの代役であるセルソ・アルベロは、とにかく余りにも楽々と超高音をクリアするので、何だか高い声出してるなぁ、としか僕には分からないのだ。

 唯一の例外は一幕のアリア、“愛しい乙女よ貴方に愛を”で、ここでのアルベロ君の超高音は肩の力の抜けているが、旋律の中で何の脈絡もなく、唐突に出て来る印象を受ける。何だか取って付けたようにしか聴こえず、ああこれはハイCより上の音なんだなと、その違和感から分かるのみ。これぞ正しく“猫に小判”、或いは“豚に真珠”である。

 センペロの声は羽毛のように軽く、絹糸のように細い。清潔な高低への音の動きを基本に、フレージングを厳しく律し、決してリズムやテンポを崩さず、アジリタ唱法の模範となるスタイルを示している。ただ、声量に乏しいので、オケを突き抜けて聴かせる力は無く、三幕の声比べではランカトーレに完敗する。それと感情表現は皆無に等しく、白痴美的な歌唱と表現しても、それほど言い過ぎでは無かろうと思う。ロッシーニの装飾的なスタイルなら良いかも知れないが、よりロマンティックな情感を含む、ベッリーニに打って付けとは思えない。

 これは自己弁護する訳では無いが、テノールやソプラノのアリアに超高音のあるのは、オペラティックな感情が次第に昂ぶり、やがて最高潮に達する瞬間、歌手の輝かしい声が会場中に響き渡る、その快感を歌手と聴衆が共有する為にある、と僕は考える。センペロ君には難関を難関と感じさせない技術のあり、それを高く評価するのに吝かでは無いが、彼の超高音にはドラマの高揚感が無い。美しい声と華やかな技術だけでは、少なくとも僕はオペラを聴く楽しみを満喫は出来ないのだ。

 僕は今日のランカトーレの歌声に接し、「ランメルモーアのルチア」、「ラクメ」、「愛の妙薬」と、彼女の来日した四回の機会を欠かさず聴いた事になる。これを考えるにランカトーレさんは、ベルガモやマリポールと云った田舎のオペラ・ハウスに帯同しての来日で、四回とも関西公演のあったと云う、とてもシンプルな事情がある。

 ランカトーレの声は中量級のリリコで、しっかりした中音域があり、その音色のまま高音域へ駆け上がる、ちょっとグルべローヴァにも似た特性がある。ごく若い頃から大舞台に立っているが、今も研鑽を怠る様子は無く、来日の度に技量を上げているようで頼もしい。二幕のカヴァレッタは、複雑巧緻なテクニックの限りを尽くして見事。輝かしい超高音を連発して余裕綽々な上、アゴーギグの工夫もあり、四角四面な相方テノールとの対称も付いている。

 ただ、この二人は交互に歌っている分には良いが、透明な声質で無味無臭のセンペロと、暖色系で情感に溢れるランカトーレの声は、水と油のように分離して交わらず、声の相性は今ひとつ芳しくない。それとランカトーレも中音から高音域に掛けては、完璧に声をコントロールしているが、低音部で時折ヒキガエルを踏み潰したような、ヘンな声を出すのは頂けない。

 腎臓結石に苦しむ気の毒なガザーレの代役、リッカルドのサルシは昨年の正月、ベルガモ来日公演「椿姫」でジェルモンを歌っているが、その際は左程に強い印象を受けなかった。どうやらサルシ君は、ヴェルディよりもベルカントに適性のあるらしく、今日は美声な上に声量も豊かで、しかもアジリタのある素晴しいバリトンと感じ入る。二幕のジョルジョとの低声同士のデュエットは、ウルヴィエーリと共に美声を振り撒き、とても聴き応えのあった。ただ、このデュエットは丁々発止の遣り取りではなく、二人がリズムを合わせ、腕を組んでスキップするような歌なのが、何だか可笑しかった。それとバスの人にアジリタの無かったのも、やや残念に思う。

 カーテン・コールで客席は大いに盛り上がり、ランカトーレは感極まった様子で涙ぐんでいた。また、ボローニャのコーラスが舞台上から、観客に対しアチェルラントする拍手を要求して、ノリノリの様子なのも嬉しかった。「カルメン」と「清教徒」で主役級から五名の脱落者を出しながら、五年振り五度目のボローニャ来日公演は、結果として大満足の出来栄えとなった。これは本場のオペラ・ハウスが根性で支えた成果で、僕は今回イタオペの真髄を聴いたように思う。

 改めて今回の来日公演を成功させた、歌手とオーケストラとコーラスとスタッフの皆さんに、感謝の想いを込めブラヴィーを送りたい。

東日本大震災(4)

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 台風15号が関西を逸れた9月21日水曜日、仙台行きの夜行バスで岩手県を目指し出発する。だが、これは日本列島を縦断して北上する台風を、モロに追い掛ける格好になった。翌朝、東北自動車道は郡山と福島の間で通行止めの為、郡山からは一般道を走ると乗務員が告げる。その前に磐越自動車道を降りる、郡山インターの辺りでバスは大渋滞に巻き込まれ、全く進まなくなった。既に仙台への到着時間を過ぎた頃、ようやく高速を降りて郡山に辿り着いたバスは、一般道を福島市へ向け北上する。

 目の覚めた処で、隣席に座った青年と会話を交わす。乗務員さんのバスの遅れへの対応に、なかなか味わい深いものがあり、やっぱり東北の人って素朴ですねぇと僕が言うと、青年は本当に親切ですよねと応じてくれる。この調子だと仙台に着くのは、恐らく昼頃だろうと彼は予測する。三月の震災当時、海外在住だった彼は、これから被災した地元へ帰省するとの事。津波の被害を受けた故郷を、帰国して初めて眼の当たりにする訳で、これには僕も言葉を失う。

 午後12時半頃、バスは四時間半遅れで仙台駅前に到着する。隣席の青年に「お気を付けて」と声を掛け、バスを降りる。JRへ乗り継ぎ、盛岡へ向かおうとするが、在来線は線路の冠水して仙台から一関まで不通。一難去って亦一難である。のんびりした旅をする積もりだったが、結局は陽もトップリと暮れた頃、やっとの事で盛岡へ辿り着く。ビジネス・ホテルに投宿し、部屋で酒を呑みながらテレビを見ていると、ニュースで台風による各地の被害を報じていた。

 祝日の金曜日、盛岡バスセンターから急行バスで、三陸海岸の宮古市へ向かう。盛岡の街並みを外れると、バスは渓流沿いの閉伊街道を進み、やがて九十九折れの峠道を登って行く。28年前にも往復した筈の道だが、記憶には残っておらず、こんなに険しい山道だったかと驚く。バスは高原地帯を緩やかに下る、長い峠道をウネウネと二時間掛けて走り、周囲の風景の明るく広がった処で、宮古駅前に到着する。

 駅前の案内所で道順を訊ねると、応対してくれた職員さんはバスで行けと頻りに勧める。でも、歩いても大した距離で無し、バスを待っている間に着きそうで、どうも田舎の方は徒歩での移動を過大に見積もる傾向がある。海に向けて歩き出すと、次第に被災地の風景が現れる。神戸の震災とは違い、津波の被害は海水に浸かった場所と、津波の届かなかった場所との落差が激しい。また、一階部分が大破しているのに、二階部分は無傷の建物もあり、押し寄せた津波の高さを示してもいる。やがて海岸近くまで来ると、全てを津波に攫われて更地になった場所に出る。だが意外な事に、堤防は上の写真のように無傷で残っていた。

 今回の宮古行きには、僕の卒業したグリークラブの先輩へのお見舞いと、神戸での震災の経験から、被災地の状況を自分の目で確かめて置く、この二つの目的があった。自分の朧ろ気な記憶で、先輩のお宅は高台にあると思い込んでいたが、実際に訪れると坂道の途中にある低い立地で、良く無傷で残ったと思う程だ。先輩はご自宅でご商売されていて、丁度来客に応対されていた。玄関先に佇む僕を見て、先輩の奥様が「あなたは大阪から年賀状を下さる方でしょう」と、いきなり言い当てられたのには驚いてしまった。

 僕が先輩のお宅をを訪れるのは28年振りで、しかもその際に奥様とはお会いしていない。アポ無しで突然現れた、しかも写真も見ていない初対面の人間の素性を言い当てる、恐るべき女性の第六感である。この後、先輩と奥様に宮古の被災状況を伺う。宮古湾は深い入江で津波の威力は減殺され、市街地の被害は比較的に小さかったが、外洋に面した浄土ヶ浜や魚市場近辺が津波に攫われた事。震災から半年で瓦礫の片付けは終えたが、町の再建は意見の対立もあり、まだ緒に就いたばかりな事。市内にあった顧客の家も、百軒近く津波に流された事等々…。

 僕が先輩の知己を得たのは、28年前に盛岡市の岩手県民会館で行われた、全日本合唱コンクール全国大会だった。初めて全国大会を見物に訪れた僕は、この際に聴いた東北の高校生達の演奏の、事前の予想を遥かに超えた素晴らしさに、言葉に尽くせない程の感銘を受けた。その中でも最も強く印象に刻まれたのは、福島県立安積女子高校の三善晃「のら犬ドジ」の演奏だった。表彰式を終えたロビーで、金メダルを首に掛けた安積女子高顧問の渡部康夫教諭を、先輩が握手して祝福したのには意表を突かれた。

 先輩も宮古の地元で、ママさんコーラスや児童合唱団の指導をされていて、どうやら渡部先生とも合唱講習会での顔見知りの様子だった。今も昔も東北では盛んに講習会の行われているが、この世代の東北の合唱指導者は、高度成長期の時代背景もあって矢鱈に勉強熱心で、ほぼ全員が知り合いと云っても過言ではなかったように思う。渡部先生は顧問が手取り足取り指導するのでは無く、生徒が自分達で練習を進めて演奏の完成度を高める、そんなシステムを安積女子高校に構築したのだと、先輩は僕に説明してくれた。まあ、生真面目で面白味の無い男だけどな、とも付け加えたけれども。

 この時、僕より二回りも年上の先輩とは初対面だったし、そもそも偶然の邂逅だったのが、コンクールの終わると宮古のご自宅に来るよう誘われ、僕はホテルをキャンセルし、一宿一飯の恩義を受ける事となった。あれから幾星霜を経て被災地となった宮古を訪れ、先輩と久闊を叙してお昼ご飯も頂いた僕は、半日にも満たない短い訪問ではあったが、28年前に受けた恩顧に報いられたように思っている。

 JR山田線のディーゼルカーで帰路に就く。行路半ばで陽は暮れ、盛岡へ戻り着いた時刻には、既に夜の闇は深かった。明日はコンクール東北大会・高校部門が、岩手県民会館で行われる。
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