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第63回全日本合唱コンクール東北大会

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2011年9月24日(土)9:30/岩手県民会館

 この大会は東北六県による持ち回り開催で、今年は福島県の当番だった。だが、開催を予定していた、郡山市民文化センターは東日本大震災で被災し、年内の再開目途は立っていない。東北大会は予選と本選の間に挟まれ、日程を動かす余地が無い。福島県内外で代替開催の可能性を探った結果、東北圏の中規模以上のホールでは、ここ岩手県民会館だけポッカリとスケジュールの空いていると判明し、岩手県連盟も開催を引き受ける。僕は直近の五年間で三度目、初めて訪れた28年前まで遡ると、今回は四度目の盛岡訪問となる。


<青森県>
県立青森西高校合唱部(女声23名)
指揮/野村正憲
スヴェーリンク「Lascia Filli mia cara 愛するフィリスよ」
松下耕「いのち/蟻の夏」(あいたくて)
 課題曲は言葉をマルカートに粒立てるデュナーミクの工夫が、非常に真っ当なマドリガーレらしい解釈。自由曲はピアニシモに美しい音色があり、対位法的な処理も巧みで、適切な情感にも欠けていない。速いフレーズでの言葉の立て方も上手で、作曲者の意図を充全に表現している。但し、フォルテの音量ではボロを出して、声の力不足は歴然。でも、選曲の妙で聴かせる、立派な演奏と思う。

県立青森戸山高校音楽部(女声16名)
指揮/松野由美子
スヴェーリンク「Lascia Filli mia cara 愛するフィリスよ」
Kaj-Eric-Gustafsson:Ave Maria/O salutaris/Agnus Dei
 まずもって先太りの声の出し方が、マドリガーレのスタイルから外れているし、フレーズの終わりで必ずリタルダントするのも問題。自由曲では一応ソツなく美しく三曲を歌い分けるが、音色の変化に乏しく、テンポも全体に粘り過ぎ。局面に場当たり的に対処している印象のあり、クッキリとした対比の無い平板な演奏なので、もっとテキパキやるべきと思う。

県立青森高校音楽部(混声15名)
指揮/小笠原聡也
ヤコブ・ファート「O quam gloriosum est regnum 栄光に輝く王国」
プーランク「O magnum mysterium/Hodie Christus natus est」
(クリスマスのための4つのモテット)
 課題曲の演奏はソツなく美しいが、テンポの遅過ぎてリズムが縦割りになってしまう。とても美しいプーランクに感激するが、最初の曲はやや生真面目に過ぎる。もう一曲も大人し過ぎて、二曲の対比が付かないので、もっとダイナミク・レンジを広げて奔放にやりたい。思い切ったアゴーギグの工夫が無いと、プーランクのエスプリは出せず、曲の真価は表現出来ない。

県立八戸東高校音楽部(女声34名)
指揮/上村祐子
スヴェーリンク「Lascia Filli mia cara 愛するフィリスよ」
ラッソ「Hodie apparuit in Israel/Alleluja laus et gloria」
Randall Thompson:Pueri Hebraeorum
 清楚な声と軽やかなメリスマで、マドリガーレの速いテンポ感を的確に表現した。自由曲はラッソも上手だったが、それよりもランダル・トンプソン。34名とドッペル・コールの演奏には、やや少な目の頭数をカヴァーする、舞台全面に広がるフォーメーションで、この人数とは思えない音像の広がりを作った。可愛らしい声で祈りの心を歌い上げる、実力的に背伸びをせず身の丈に合った、しかも華やかな音楽作りで、とても素敵な演奏だった。

<秋田県>
県立大曲高校合唱部(女声22名)
指揮/鈴木智美
小林秀雄「私のいのちは」(五つの心象)
三善晃「ふいふうみいよいつ/キルケニーのねこ二ひき
/もしうみがみんなひとつのうみだったら」(マザーグースの三つのうた)
 課題曲はソプラノに内声的な音色のあって、表現力は感じ取れるが、細部に拘り過ぎて全体を俯瞰出来ていない。マザーグースはテンポを粘り過ぎて、後押しのリズム感があり、丸っ切りカタカナ英語なのも問題。曲の楽しさは伝わらず、これは選曲ミスと感じる。

県立秋田北高校音楽部(女声9名)
指揮/小林明人
スヴェーリンク「Lascia Filli mia cara 愛するフィリスよ」
Giordano Fermi:Fu-Fu/Scherzo/Himnus
 スヴェーリンクではソプラノの突出し、少人数の割にバランスの悪いポリフォニーになってしまう。指揮者の細かい工夫だけではテンションを保てず、テンポにも音色にも変化の無い単調な演奏だった。自由曲はマドリガルっぽい曲想を生徒が的確に把握して、軽やかなリズムも心地良い。少人数の良さのあるアンサンブルで、曲の内容を存分に表現する。この指揮者には小難しい曲よりも、ウィットに富んだ小粋な音楽が合うようで、この手法で課題曲もやらなかったのを残念に思う。

聖霊女子短大附属中学・高校合唱部(女声51名)
指揮/金由加
スヴェーリンク「Lascia Filli mia cara 愛するフィリスよ」
ブラームス「三つの宗教合唱曲」op.37
 速目のテンポ設定と身振りの大きいデュナーミクで、マドリガーレを草書的に表現する、説得力のある演奏。しかし、そのコッテリしたデュナーミクが、ブラームスにはクサ過ぎる。二曲目の最後でテンポを緩めると、ソプラノが声を保持出来ず、アラの聴こえてしまう。もっと清楚な声の必要で、横の流れを大事にしながら、三曲目で思い切り発散する、僕はそんな曲と思う。

<山形県>
羽黒高校合唱部(混声25名)
指揮/春山連
ヤコブ・ファート「O quam gloriosum est regnum 栄光に輝く王国」
Eric Whitacre:Go lovely rose/With a lily in your hand
 課題曲で表現意欲のようなものは感じるが、それが形になって現れていない。演奏自体は高校生らしい素直な歌で、良いポリフォニーは作っていると思う。ウィテカーでは曲に含まれる抒情的な雰囲気を引き出して、まずまずのセンスを感じさせる。遅いのと速いのと二曲の対比も上手に出来たし、縦をビシリと揃えるフレージングの作り方にも、結構やるじゃんと思える。でも、全体にナチュラルな音楽作りはあるが、もう少し工夫のあって然るべきとも思う。

県立山形北高校音楽部(女声48名)
指県立揮/小松正広
ピアノ/押野明子
小林秀雄「私のいのちは」(五つの心象)
松本望「はてしもなくて」(光の方へ)
 課題曲はテンポの遅過ぎ、弄り過ぎ。何故ここまで譜面から逸脱するのか、理解に苦しむ。自由曲には適切な情感があり、課題曲での籠もったような声も、明るくクリアーになる。但し、テンポの粘るのは変わらず、僕は辟易させられる。演奏とは基本的にもっとテキパキやるべきもので、この指揮者には根本的な処で勘違いのあるように思う。

県立鶴岡南高校音楽部(混声66名)
指揮/阿部隆幸
ピアノ/武田美緩
ハイドン「Der Augenblick 束の間」
プーランク「Salve Regina/Exultate Deo」
 歯切れの良いリズムで、ハイドンの明るさを充全に表現する。速目のテンポで音楽の軽いのも良いし、ピアニシモとフォルテの対比を作る、バロック的な解釈も立派なもの。プーランクでも擬古典的なスタイルを把握して、柔らかい音色で軽やかな音楽作り。フォルテシモでも柔らかい響きを失わず、取り分け二曲目でのアゴーギグの転がし方が巧みで、フランスのエスプリの香り立つような演奏だった。

県立鶴岡北高校音楽部(女声59名)
指揮/百瀬敦子
ピアノ/小野寺智子
ガルッピ「Judicabit in nationibus 主は諸国を裁き」(詩篇110番)
三善晃「北の海/ふるさとの夜に寄す」(三つの抒情)
 スフォルツァンドの使用法の堂に入って、この単純なガルッピの曲を着実に盛り上げる、指揮者の設計が見事。ややデュナーミクの付け方はクサイが、三善晃も真っ向勝負で正攻法の音楽作り。但し、独自の個性を感じさせる音色は無く、音楽の色彩感の表現は今ひとつ。その淡彩な美しい演奏は、それそれで魅力的ではあるけれども。


 全体講評で審査員の佐藤正浩も触れたが、今回の課題曲となったスヴェーリンクのマドリガーレに付いて、遅いテンポの演奏の多過ぎるのには、僕も首を傾げていた。歌詞の内容は関係無い、イタリア語に付されていれば、ミサでもモテットでもないマドリガーレなのだ。

 スヴェーリンクは一般的にオルガニスト兼作曲家として認知されていて、実は僕も声楽曲は殆ど知らない。しかし、この人の鍵盤曲の技法はブルゴーニュ楽派の枠内に留まっていて、未だバロックの影は差していない。同時代の作曲家であるイタリアのジョヴァンニ・ガブリエリ辺りは、完全にバロックに足を突っ込んでいるが、スヴェーリンクの場合はブルゴーニュ楽派最後の巨匠と呼ぶのに相応しい。

 アカデミックで古典的なラテン語に付された曲は、全て礼拝を目的とする音楽で、演奏に際しテンポは自ずと遅くなる傾向はある。だが、マドリガーレの場合は歌詞の内容に即し、テンポ設定を判断せねばならない。失恋の歌なら遅いし、愛の喜びを歌う場合は速くなる、この辺りは甚だ単純と思う。

 僕が盛岡を始めて訪れた28年前には、福島高校のタリス「エレミアの哀歌」の格調高い演奏や、郡山女子高の透明で美しいパレストリーナ等のあり、高校生の歌うルネサンス・ポリフォニーのレヴェルの高さに感嘆したものだ。その中でも取り分け、福島西女子高のタリス「Sancte Deus」の演奏には、その息を呑む美しさに圧倒された記憶がある。指揮者の伊藤勲教諭は先年、福島高校在任を最後に定年退職されたが、その退任の年の東北大会で取り上げた、モンテヴェルディのマドリガーレの演奏にも感激させられた。昔は宗教曲と世俗曲のスタイルを、キチンと振り分ける指揮者が居たのだ。それが今は東北でも、古い時代の音楽を自由曲に取り上げる学校自体、殆ど無くなってしまった。

 僕は鈴木輝昭のヴァーゲン・セールのようになった、現下のコンクールの状況を一概に否定する者ではない。ただ、合唱音楽の原点とも云うべき、ルネサンス・ポリフォニーの価値を問い直し、その研究を深めれば、邦人曲でも更に高次元の演奏が可能になる筈と思うだけに、古い時代の音楽の等閑にされる、東北の現状を憂うのだ。

第63回全日本合唱コンクール東北大会

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2011年9月24日(土)9:30/岩手県民会館

<福島県>
郡山女子大附属高校音楽部(女声32名)
指揮/榊枝まゆ美
ピアノ/横溝聡子
土田豊貴「けれども大地は…」(夢のうちそと)
鈴木輝昭「宇宙の滴りをうけて」(譚詩頌五花)
 ピアニシモのロング・トーンと、クレシェンドとディミヌエントを丹念に施す、レガートな歌い方の美しい課題曲。ソプラノの高音がスピンとせずフォルテで棒歌いになり、やや小手先の技巧に走り気味だが、この位やって正解の曲。自由曲には充分に美しいハーモニーがあり、曲自体の強さが指揮者の情感にフィットして素直に聴ける。但し、思い入れの強過ぎて、全体としては平板になるし、ソプラノに一人の声の耳に付くのも気になる。曲の構造を把握し、アチェルラントの効果的な使用法や、全体を見通したテンションの張り方を考慮すべきと思う。

県立安積高校合唱団(女声18名)
指揮/鈴木和明
スヴェーリンク「Lascia Filli mia cara 愛するフィリスよ」
ラヨシュ・バルドシュ「Magos a rutafa 大きなルタの木」
 美しいポリフォニーで各声部も分離して聴き取れるが、ややデュナーミクの付け方がクサいので、もう少し素直にやって欲しい。でも、声で聴かせる実力は充分にあるので、これをバロック寄りの解釈とも考えられる。バルドッシュも抜群に美しく情感もタップリで、軽くルバートしたりアチェルラントしてみたり、細かい工夫の耳に付く。ただ、全体を通し同じテンションで推移するのは惜しい。アンダンテからアレグロへ切り替える、前後半でのテンポの対比を、もっとクッキリさせれば効果的と思う。

県立郡山高校女声合唱団(32名)
指揮/菅野正美
ピアノ/鈴木あずさ
土田豊貴「けれども大地は…」(夢のうちそと)
鈴木輝昭「会う-手紙-川」(女に第2集)
 課題曲はピアニシモのロング・トーンに無理なく、余裕のある声の力で聴かせるが、ソプラノは高音部で音色の硬くなるので、もっと柔らかく響かせたい。この指揮者のお得意とする自由曲で、単なるヴォーカリーズもデュナーミクで聴かせ、そこから早いパッセージのリズムの良さで、情感を表出する切り替えの巧さは、さすがに自家薬籠中のものとしている。但し、更にダイナミク・レンジを広げ、全体のテンションを高める、まだその前段階に留まっているようにも思う。そうでなければ今日の演奏では物足りず、僕としては隔靴掻痒の感を否めない。

県立郡山東高校混声合唱団(21名)
指揮/小林悟
ヤコブ・ファート「O quam gloriosum est regnum 栄光に輝く王国」
ジャヌカン「La Guerre マリニャンの戦い」
 やや団子気味のポリフォニーで各声部の分離しないのと、テンポも遅過ぎる上に一定なので、少なくともメリスマ部分は速くすべきと思う。ジャヌカンはリズムの重目だが、詞の内容を伝えようとする大袈裟なデュナーミクの付け方は、シャンソンらしくて悪くない。悪ノリ気味の男声と比べ、女声が大人しいので、彼等に合わせて羽目を外すべき。中間部のオノマトペはテンポの弄り過ぎで、ここは一気呵成にやる方が効果的な筈。それとフランス語の発音にも、大いに改善の余地はあると思う。

県立磐城高校合唱部(混声46名)
指揮/赤城佳奈
高嶋みどり「父の唄」(若者たちの悲歌)
千原英喜「鬼女」(コスミック・エレジー)
 課題曲には広いダイナミク・レンジの構築性があり、しっかりした骨格を持つ音楽作り。フォルテシモを出し切り、ハーモニーを存分に鳴らす、声に力がある。自由曲は効果の為の効果を狙った、表面的なインパクトのみを追求する曲。これ位の声の力の無いと聴き映えしないし、リズムの扱いもポルタメントの用法も的確で、曲の意図は充分に汲む演奏だった。

県立郡山高校合唱団(混声52名)
指揮/菅野正美
ピアノ/鈴木あずさ
高嶋みどり「父の唄」(若者たちの悲歌)
鈴木輝昭「木/水」(五つのエレメント)
 フォルテでも決して乱暴にならない、柔らかい発声と質の高いハーモニーで聴かせる。高嶋は素直な曲作りだが、もう少しこの指揮者らしい芸も聴かせて欲しい。鈴木は晦渋な曲で構成を見通し難いが、局面のハーモニーの充実やデュナーミクの工夫等、細部の彫琢を全体の構成へ結び付ける、指揮者の手腕が見事。ただ、山場の何処にあるのか分からず、聴き映えのしない曲なので、ここは無理にでもクライマックスを作りたかった。

県立会津学鳳中学・高校(混声62名)
指揮/佐藤朋子
高嶋みどり「父の唄」(若者たちの悲歌)
Eric Whitacre:Hope,feith,life,Love…/With a lily in your hand
 身振りの大きいデュナーミクは、やや凝り過ぎでテンポも遅過ぎる。高嶋の曲はダイナミク・レンジを広く取り、声そのもので聴かせるべきだが、そこまでの声の輝きは無かった。ウィテカーの一曲目はテンポの遅く、色々と工夫はしているが声を保持出来ず、ピアニシモでハーモニーの揺れが耳に付く。曲に対する音楽作りのクドくて内容に乏しく、この学校の混声での出場は二年目で、まだ発展途上の印象を受ける。

県立葵高校合唱部(女声50名)
指揮/瓶子美穂子
ピアノ/山内直美
土田豊貴「けれども大地は…」(夢のうちそと)
鈴木輝昭「手枕の袖」(和泉式部日記より)
 課題曲は対位法処理の上手く出来て、立体感のある音楽作り。ただ、この曲は更に速く演奏するべきで、このテンポでは遅過ぎる。鈴木への委嘱曲は晦渋だが、曲の構造を良く把握して、目に見えるように分かり易く伝える、なかなか手錬の指揮。ただ、声の音色の平凡で色彩感に乏しく、声を磨けば音楽も華やかになるので、そこを目指し頑張って欲しい。

県立橘高校合唱団(女声44名)
指揮/大竹隆
ピアノ/鈴木あずさ
ガルッピ「Judicabit in nationibus 主は諸国を裁き」(詩篇110番)
鈴木輝昭「亡き人に」(智恵子抄)
 ガルッピの単純な曲に対し、重厚な正攻法の音楽作り。でも、ベートーヴェンみたいにやるのが、果たしてこの曲の実質に見合っているのかどうか、僕には良く分からない。鈴木への委嘱曲では音量の大小、音域の高低でムラの無い、声そのものの輝かしさが圧倒的。一旦、緩めてから再び盛り上げる、曲を見通したテンションの張り方も巧い。但し、ずっと同じテンポで変化のない曲なので、何かしらの対比を作る、もう一工夫は欲しかった。

県立福島東高校合唱部(混声41名)
指揮/星英一
ピアノ/鈴木あずさ
ハイドン「Der Augenblick 束の間」
鈴木輝昭「W.シェイクスピアによる“十二夜”歌集」
 曲に対してやや声の力の足りず、ハイドンではなくモーツァルトみたいだが、でも委細構わず正攻法で音楽を作る、その姿勢が潔い。途中でリタルダントしてピアニシモに持って行く辺り、実に泣かせる。鈴木への委嘱曲は歌詞が英語だし、これまた構成の分かり難い曲で、指揮者は分かっているにしても、生徒さんの理解は行き届いているのか、やや心許無い。最後の“ファ・ラ・ラ”のリフレインは唐突に感じるし、譜面を離れて思い切りデフォルメして貰わないと、僕のような物分りの悪い人間は楽しめない。

県立安積高校合唱団(混声34名)
指揮/鈴木和明
ヤコブ・ファート「O quam gloriosum est regnum 栄光に輝く王国」
Ryan Cayabyab:Aba po,Santa Mariang reyna
 やや暗目の音色で重厚なハーモニーを作る、マルカートな歌い口のポリフォニーは、個性的で結構面白い。自由曲は良く分からない曲だが、フォルテに力のあってダイナミク・レンジを広く使えるし、柔らかいピアニシモにセンシティヴな情感のあり、何となく丸め込まれた感じ。でも、最後のピアニシモのハーモニーも綺麗にキメて、終わり良ければ全て良しの気分だった。

県立郡山東高校合唱団(女声33名)
指揮/小林悟
土田豊貴「けれども大地は…」(夢のうちそと)
信長貴富「春の苑/天の火/山桜花」(万葉恋歌)
 課題曲でのソプラノの硬い声は難だが、ピアニシモから始めて段々とフォルテまで持って行く、キチンと曲の設計が出来ていて納得の解釈。声の輝き自体は今ひとつだが、この自由曲ならテンポを粘っても、変なトコにアクセントを付けても全く問題は無く、デフォルメすればするほど面白く聴ける。この演奏でも物足りない位で、もっとやれやれと唆したい気分だ。

県立喜多方高校音楽部(混声58名)
指揮/高橋祐二
高嶋みどり「父の唄」(若者たちの悲歌)
鈴木輝昭「いまはむかし」(竹取物語頌)
 課題曲は遅目のテンポと、大袈裟なデュナーミクの付け方でジックリ聴かせる、解釈としては悪くない。ただ、自由曲まで同じ調子で粘っこくやると、鈴木輝昭の晦渋に溺れて行き先不明となる。声の出し方の力任せで荒っぽいし、余り局面に拘らずに全体を見渡した、風通しの良い音楽の望まれる。

県立会津高校合唱団(混声71名)
指揮/山ノ内幸江
松本望「やわらかいいのち」(あなたへ)
ラインベルガー「Credo」(ミサ変ホ長調 op.109)
 深く美しいピアニシモと、分厚いフォルテシモのハーモニーを基本に、テンポの緩急も自由自在な、振幅の広い曲作り。逆に演奏の立派過ぎて、この課題曲の弱さを露呈してしまう程。ラインベルガーも美しいピアニシモから、フォルテシモまで効果的に持って行く。指揮者のアゴーギグの揺らせ方が実に音楽的で、混声コーラスをシンフォニックに鳴らせて、ドッペル・コールの効果も満点。これぞドイツ・ロマン派の正統を、今に伝える演奏と感じ入った。

県立安積黎明高校合唱団(女声46名)
指揮/宍戸真市
土田豊貴「けれども大地は…」(夢のうちそと)
鈴木輝昭「夜曲-木魂の薔薇」(妖精の距離)
 課題曲で言葉へセンシティヴに反応する、柔らかいデュナーミクを作る伝統は健在。指揮者の対位法処理も、山場の作り方も上手い。クラスターぽい冒頭部分から、甘い旋律を排して厳しい音を連ねる委嘱曲を、柔らかい中にも芯のある声質と、高い技術力で歌い切る。指揮者の曲を見通した、テンションの張り方・緩め方も的確で、この伝統校に新境地を付け加える、見事な演奏と思う。

県立福島高校合唱部(混声38名)
指揮/石川千穂
松本望「やわらかいいのち」(あなたへ)
信長貴富「絶え間なく流れてゆく」(廃墟から)
 課題曲はテンポの粘り過ぎて平板なので、もっとダイナミク・レンジを広げ、アチェルラントを効果的に使いたい。自由曲も更に厳しくテンションを高め、緻密なピアニシモのハーモニーを作らないと、聴かせ処が唐突に感じられ、フォルテシモの中間部も盛り上がり辛い。上っ面だけの表面的な曲だけに、圧倒的な声で聴かせないと効果は揚がらない。

第78回NHK全国学校音楽コンクール

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2011年10月8日(土)14:00/NHKホール

 僕が始めてNHKホールを訪れたのは今から23年前、ウィーン・シュターツオーパーの引越し公演で、演目はベルクの「ヴォツェック」だった。指揮はクラウディオ・アバド、演出はアドルフ・ドレーゼンの、今となっては伝説の上演である。その後も一体、何度オペラ見物でNHKホールを訪れたか、俄かには思い出せない。でも、この巨大ホールの音響の悪さに愛想が尽き、何時しか足は遠のいていた。

 以前は録音による審査で済ませていた、NHK全国学校音楽コンクール(通称“Nコン”)の全国大会は、18年前に渋谷のNHKホールへの参集方式で、公開録画されるようになった。最初の年の収録日は、全日本コンクール東北大会の翌日だったので、僕は郡山市からの帰り道に、渋谷で途中下車したと記憶する。大会の一週間ほど前に入場の可否を問い合わせると、わざわざバイク便で東京から入場整理券を送ってくれた。NHKとしても公開録画は手探りの状態で、随分と懇ろな扱いだった。

 最初の内は良く分かっていなかったし、折角遠くまで来たのだからと、一両日に行われる中学や小学校も聴いてみた。中学部門は以前にも書いたように、男女共に声変わりした大人の声と、子供の声のままの生徒が混ざり、雑然とした演奏ばかり。小学校部門に至っては全国大会とは信じ難い、低レヴェルの演奏ばかりで、僕は一度聴いただけでコリゴリだった。小学校には音楽専攻の教師そのものが居らず、音楽の授業も担任が行うので、指揮者は全てド素人と云う事情らしい。トップ・クラスの児童合唱団の純粋蕪雑な演奏等、望むべくも無いようだ。あれらは音楽の演奏ではなく、子供らしさを誇張して表現する、演技的パフォーマンスの一種と、今は理解している。

 ただ、その中で暁星小学校聖歌隊だけは、言い方は悪いが掃き溜めに鶴状態で、NHKホールでのブリテン「キャロルの祭典」の演奏に、こりゃケンブリッジ・キングス・カレッジかウェストミンスター大聖堂辺りの、本場の聖歌隊そのものじゃんかと、僕は甚く感激させられた。但し、この年の暁星には銀賞が授与され、何だか恐ろしく趣味の悪い審査員を揃えたんだなぁ、と二度驚かされた。巨大なNHKホールでは、客席まで声の届かない演奏に対し、もどかしい気持ちを抑え切れないが、だからと云って大音量なら良い訳でもない。暁星小学校の場合、その豊かな倍音の響きにより、デッドな箱の中で“音楽”を客席へ届ける、音量ではなく倍音の重要性を、如実に示す演奏だったと思う。

 暁星小学校のNコン撤退後、聴く価値のあるのは高校部門だけとなった。そうなれば、折角わざわざ出掛けるのだし、コンクールだけではなく、序でに何かオペラも観たい。でも、観たいオペラとコンクールの日程はなかなか合わず(そもそも、オペラ会場としてのNHKホールは塞がっている訳で)、ここ数年は全国大会にご無沙汰だった。今年は三連休の公演日程が綺麗に並び、明日は初台の新国立劇場、明後日は上野の文化会館でオペラを観る心積もりで、今日はNHKホールにやって来た。


<高等学校部門課題曲>
「僕が守る」
銀色夏生作詞
上田真樹作曲

<司会>
山田賢治(アナウンサー)
森下千里(タレント)

<会場リポート>
パックンマックン(お笑いコンビ)

<審査員>
上田真樹(作曲家)
新実徳英(作曲家)
清水敬一(合唱指揮者)
加藤洋朗(NHK東京児童合唱団常任指揮者)
鈴木成夫(合唱指揮者)
多田羅迪夫(バリトン・東京二期会幹事)
皆川達夫(音楽評論家)
望月秀夫(日本教育音楽協会理事)
山下哲(全日本音楽教育研究会)


<北海道ブロック代表>
北海道帯広三条高校(女声40名・十勝地区)
指揮/豊田端吾
ピアノ/波塚三恵子
鈴木輝昭「こぶし/なめる」(女に第1集)
 課題曲に柔らかく美しいハーモニーはあるが、テンポを粘り過ぎる、指揮者の趣味が宜しくない。鈴木の「女に」ではデュナーミクに工夫を凝らし、音色に変化も付けているが、しっかりした芯のある声の無くてピアニシモのロング・トーンを保てず、曲の劇的な起伏を捉え切れない。ソプラノは高音部で平べったくなるので、レガートだけではなく、マルカートな表現も望まれる。

<東北ブロック代表>
宮城県仙台三桜高校(女声40名)
指揮/内藤淳一
ピアノ/野田久美子
西村朗「明日香皇女への挽歌」(炎の挽歌)
 課題曲では指揮者の即興的なデュナーミクの指示が、素晴らしく音楽的。軽やかな頭声と速目のテンポで、爽やかに聴かせてくれる。西村は縦を揃え、イン・テンポで進める演奏。やはり軽やかで爽やかだが、曲に含まれる情念の深さは伝わらない。清潔感はあるが、もう少しルバートもしないと、この曲の表現として物足りない。

福島県立橘高校(女声40名)
指揮/大竹隆
ピアノ/鈴木あずさ
鈴木輝昭「たいまつをかざして」(火へのオード)
 課題曲では芯を感じさせる、伸びやかで且つ透明感のある声で、フォルテシモを歌い切る。段違いのテクニックで、この声のあればこそ、譜面に即した表現の生きて来る。このホールは巨大で響かないので、自由曲の対位法的な構造を良く聴き取れる。フォルテで力まず、決して割れない力のある声は、NHKホールでその実力を如何なく発揮する。持ち前の曲全体を見通した把握力と、細部を彫琢する能力に感銘を受けた。

<関東甲信越ブロック代表>
豊島岡女子学園高校(女声40名・東京都)
指揮/柴田由美
ピアノ/遠山沙織
三善晃「やがて秋…」(光のとおりみち)
 しなやかな力のある声を生かす、伸びやかな課題曲の演奏。三善でも芯のあるソット・ヴォーチェで、短いフレーズに力を込める技術があり、ピアニシモを効果的に浮き立たせる。曲の内容に対し、振幅の広い表現があった。

大妻中野高校(女声40名・東京都)
指揮/宮沢雅子
ピアノ/五反美千代
鈴木輝昭「南天の蝎よ、もしなれ…(星翠譜)/なめる(女に第1集)」
 課題曲に子音を強調する等の工夫はあるが、音色の変化しないので、演奏は単調になり勝ち。声に力はあるが、磨かれた美しさの足りず、無機的な自由曲の早いパッセージを表現し切れない。テンポの遅い二曲目でも、音色の変わらない弱点を補う表現が、ディミヌエントの多用だけでは単調さを免れない。二曲の遅い・速いのテンポの対称だけではダメで、何かしら表現上の工夫の望まれる。

千葉県立幕張総合高校(混声40名)
指揮/山宮篤子
ピアノ/松原賢司
鈴木輝昭「月はしずみぬ/すばるもまた」(詩華抄)
 課題曲での厚味のあるハーモニーは、本日の混声コーラスの中で一番の出来。フォルテでテノールから生な声の聴こえるのは難だが、取り合えず声楽的な能力と、ハーモニーの力で押し切ってしまう。自由曲はスフォルツァンドを多用する、コケ脅しみたいな曲で、もっと突き抜けた表現が無いと面白い演奏にはならない。一応ソツなく美しいが、ただそれだけだった。

<東海北陸ブロック代表>
愛知県立岡崎高校(混声40名)
指揮/近藤惠子
ピアノ/和崎結(三年)
E・ウィテカー「I hide myself 私は身を隠す
/With a lily in your hand おまえの手のユリに」(スリー・フラワー・ソングス)
 課題曲はピアニシモを主体とし、フォルテでは声の力も聴かせ、速目のテンポでサクサクと進める解釈が面白い。ウィテカーはピアニシモの深いハーモニーが美しく、このデッドなホールに弱音を響かせる、声の力は立派なもの。横の流れはアゴーギグの変化で聴かせる、指揮者のアドリブの使い方が巧く、最後に発散する曲の設計も的確と思う。

<近畿ブロック代表>
武庫川女子大学附属高校(女声40名・兵庫県)
指揮/岡本尚子
ピアノ/市川麻里子
信長貴富「君待つと/天の火」(万葉恋歌)
 課題曲では個性的な声の魅力の感じられず、音色も一定で面白く聴かせようとする工夫に欠ける。自由曲は高音のピアニシモの美しく、ポリフォニックな部分を巧く組み立て、無機的な曲想を上手に処理した。無内容な曲に即し、声だけで聴かせるそれなりに美しい演奏で、この指揮者の音楽的指向に合う曲と思う。

<中国ブロック代表>
山口県立萩高校(混声40名)
指揮/有冨美子
ピアノ/藤村早希子(二年)
三善晃「ピアノのための無窮連祷による−生きる」
 軽くパウゼを入れたり、思い切ってディミヌエントしたり、さらりとアチェルラントしたり、やや煩わしいけれども、この課題曲ならこの解釈はアリと思う。三善は速目のテンポと、ピアニシモを基調とした淡彩な演奏で、クッキリとした表現は無いが、指揮者の爽やかな情感が心地良い。声の力自体は不足気味で、小じんまりした演奏にしてしまった。

<四国ブロック代表>
香川県立坂出高校(女声40名)
指揮/前田朋紀
ピアノ/澁谷早苗
高嶋みどり「霧明け」(愛のとき)
 課題曲にはドルチェな表現力と、柔らかく響かせるハーモニーがあり、デュナーミクの工夫で音色の単調さを補う演奏。自由曲はユッタリとしたテンポで、マルカートな中間部もサラリと流し、やはりピアニシモでジックリと聴かせる。両曲を通すとやや単調だが、筋を通す指揮者の音楽性を認めたい。

<九州ブロック代表>
宮崎学園高校(混声40名)
指揮/有川サチ子
ピアノ/馬場沙央里
高嶋みどり「父の唄」(若者たちの悲歌)
 課題曲は男女の声の融合したバランスの良い混声合唱で、毎度お馴染みの濃厚なデュナーミクで聴かせるが、デッドな響きのホールに対し、今ひとつハーモニーを鳴らせていない。自由曲でもテノールとバスに充実した声のあり、男声の土台の充実して、力強いアルトも健在だが、肝心なソプラノの声の伸びが今一歩。持ち味である声の魅力を、存分に発揮出来なかった。

R.シュトラウス「サロメ」op.54

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2011年10月9日(日)15:00/新国立劇場

指揮/ラルフ・ヴァイケルト
東京フィルハーモニー交響楽団

演出/アウグスト・エファーディング
再演演出/三浦安浩
美術・衣裳/ヨルク・ツィンマーマン
照明/ヨハン・ダルヒンガー
振付/石井清子

サロメ/エリカ・ズンネガルド
ヨハナーン/ジョン・ヴェーグナー
へロデ/スコット・マックアリスター
ヘロディアス/ハンナ・シュヴァルツ
ナラボート/望月哲也
小姓/山下牧子
奴隷/友利あつ子
カッパドキア人/岡昭宏
兵士/志村文彦/斉木健詞
ナザレ人/大沼 徹/秋谷直之
ユダヤ人/大野光彦/羽山晃生/加茂下稔/高橋淳/大澤建


 新国立劇場シーズン開幕の演目は、プレミエ上演の「イル・トロヴァトーレ」と、芸術監督の尾高忠明が初めてオケ・ピットに入る筈だった「サロメ」。このプロダクションは11年前にミュンヘンから持ち込まれた、日本でのプレミエ上演の前年に亡くなったエファーディングの演出で、今回は四度目の再演となる。プレミエの指揮者は今は亡き若杉弘さん、タイトル・ロールはアメリカ人のシンシア・マークリスと、日本代表で緑川まりのダブル・キャスト上演だった。

 この頃の新国立劇場は初代・畑中良輔の後を承けた、五十嵐喜芳芸術監督の時代で、外人組と日本人組のダブル・キャスト上演を、藤原歌劇団と二期会で交互に担当する、日本オペラ界の既得権益を保護する公演形態だった。勿論、三代目芸術監督のトーマス・ノヴォラツスキが改革した、現行のシングル・キャスト上演の良いに決まっているが、でもダブル・キャスト上演も一粒で二回お得みたいで、あれはあれで結構楽しかった。それに若杉さんの振るリヒャルト・シュトラウスなら、僕としては何度でも観たい。

 そう云った訳で、僕はプレミエのダブル・キャスト上演を両方とも観た後、翌日はサントリーホールでダニエル・オーレン指揮の「仮面舞踏会」を、翌々日はオーチャードホールで井上道義指揮の「トゥーランドット」を見物する、オペラ三昧の四日間を東京で過ごした。思えばあの頃は、バブリーで良い時代だった。若杉さんの亡くなられて以降、僕が東京まで観に行こうと気力を奮い立たせる、そんなオペラ上演は目っきりと減ってしまった。

 オペラ公演を回顧するのも供養の内と思うが、あの際の「サロメ」の演奏に付いての、僕の記憶は心許ない。オーソドックスなサロメ演出で、「七つのヴェールの踊り」でマークリスはトップレスになったが、緑川さんはブラジャーを着けたままだった、その程度しか思い出せず、誠に慙愧に耐えない次第である。責めてもの罪滅ぼしには、若杉さんへの追悼の想いを込め、今日は「サロメ」の音楽を味わいたいと思う。

 僕は若杉さんの「サロメ」を、歌舞劇(フィクション・オペラ)“撒羅米”と銘打たれた、94年の鎌倉芸術館のプロダクションでも観ている。「七つのヴェールの踊り」は日本舞踊の振付けで、タイトル・ロールの岩井理花が、豪奢な衣装を引き抜きながら踊る、純然たる歌舞伎スタイルの舞台だった。何分にも日本舞踊でバストを見せたりしないし、そもそも若杉さんはヌード演出をお嫌いだったらしい。その演出は若杉さん自らが行い、スーパー歌舞伎の市川右近が演出補として監修した。

 何故、「サロメ」ではなく“撒羅米”かと云うと、これは詩人・日夏耿之介の「院曲撒羅米」と題した翻訳を、上演時の字幕に使用した事に拠っている。無闇に難しい漢字を散りばめた翻訳で、僕のように平素から漢字に慣れている者でも、目で追うのに難儀する字幕だった。戯曲の翻訳なので、声に出して朗読する分に問題無いが、明滅する字幕に出されると読み難い。恐らく若杉さんは絢爛豪華な歌舞伎舞台と、衒学的で晦渋な文体の字幕とを並べ、両者の相乗効果を狙ったのだろう。

 若杉さんの振った二つの「サロメ」の内、美しい歌舞伎風“撒羅米”は公演終了後、即座にセットを解体したが、本場仕込のオーソドックスな演劇的サロメは、新国立劇場で五回目の再演を迎える。頚椎の故障で長らくオペラを振れなかった尾高忠明が、芸術監督就任二年目で満を持しての初登場の筈が、九月末に健康上の理由での降板が発表される。でも、代役はオーストリア出身のヴァイケルトで、これはグレイド・アップと解釈すべきだろう。懸念材料は解消し、「サロメ」は期待の公演となる。最後まで休憩無しの上演で、開演直前にお手洗いも済ませ、天井桟敷で幕の上がるのを待つ。

 序奏無しに本題へ入る「サロメ」の音楽。甘く暖かい抒情的な導入部から、ヨカナーンが井戸から出て来て音楽の激しくなっても、芯にある柔らかさは失われない。ヘロデ王の出て来て音楽の諧謔的になれば、そのユーモア表現も秀逸で、「七つのヴェールの踊り」も緩急自在の演奏。無調っぽい音楽の続く「サロメ」の中で、ここにだけ甘い旋律のある場面は、強面なゲンダイ音楽っぽい表現だと、往々にして全体から浮き上がってしまう。だが、ヴァイケルトの指揮は全曲を通し、優し気なニュアンスに満ちた解釈で、甘い旋律も一つのピースとして違和感なく納まる。

 ただ単に大音量を鳴らせば良いのではない。タイトル・ロールに存分に歌わせながら、幕切れへ向けて盛り上げる手腕からは、歌手と共に唱うブレスと、オケのフレージングを作るブレスの両方を感じ取る事が出来る。シュトラウスの音楽の多様な側面を描き分ける、ベテラン指揮者の見事な芸に感服である。

 サロメのズンネガルドは声量豊富なタイプではなく、響かせる倍音でオケを付き抜ける声質。甘いレジェーロな音色での語りと、力を入れずにスッと伸ばす、北欧らしいリリックなフォルテを使い分ける声を、僕はクリスタル・ヴォイスと呼んで大袈裟とは思わない。「七つのヴェールの踊り」の締め括りで、露わにしたオッパイも小さ目な、少女っぽい仕草のサロメだった。

 ヘロディアスのシュヴァルツにも衰えない声量があり、ヴィブラートのキツイのも役柄に嵌っている。ナラボートの望月哲也は一本調子だか、これも直向きなスタイルが役柄にフィットする。ヨハナーンのヴェーグナーはお世辞にも美声とは云えない、声質よりも響きで聴かせる大声量のバリトン。やや大味で、声の個性による性格表現に乏しい印象を受ける。へロデのマックアリスターは主役四名の中で独り声量に乏しく、この人ならカヴァーの高橋淳でも全く遜色は無さそうに思う。

 しかし、今回の「サロメ」は何と云っても、指揮者に尽きる。フランクフルトやチューリヒのオペラハウスで音楽監督を務めたヴァイケルトは、典型的な歌劇場叩き上げでも、交通整理に追われる指揮者ではない。歌手とオケを手の内に引き込み、自分の解釈で上演をリードする練達の手腕がある。音楽性は全く異なるが、オペラの現場を知り尽くしていると云う点で、若杉さんと同じく職人的な技の持ち主と思う。

 ヴァイケルトがシュトラウスを得意とする指揮者とはツユ知らず、これ程に美しく抒情的な「サロメ」を聴けたのは望外の喜びだった。芸術監督自らが振った場合の結果は、神のみぞ知る領域。どうやらヴァイケルトを招いたのは尾高自身のようで、その采配も的確と思う。スペシャリストとして公演を成功に導いたマエストロと、その職責を果たした芸術監督に、今は感謝の意を述べたい。

R.シュトラウス「ナクソス島のアリアドネ」op.60

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<バイエルン国立歌劇場2011日本公演>
2011年10月10日(月)15:00/東京文化会館

指揮/ケント・ナガノ
バイエルン・シュターツオーケストラ

演出/ロバート・カーセン
美術/ペーター・パプスト
照明/マンフレート・フォス
衣裳/ファルク・バウアー
振付/マルコ・サンティ

アリアドネ/アドリエンヌ・ピエチョンカ
ツェルビネッタ/ダニエラ・ファリー
作曲家/アリス・クート
バッカス/ロバート・ディーン・スミス
音楽教師/マーティン・ガントナー
舞踊教師/トーマス・ブロンデル
かつら師/ペーター・マザラン
士官/ケネス・ロバーソン
下僕/タレク・ナズミ
執事長/ヨハネス・クラマ
ハルレキン/ニコライ・ボルチェフ
スカラムッチョ/ウルリヒ・レス
トルファディン/スティーヴン・ヒュームズ
ブリゲッラ/ジェフリー・ベーレンス
水の精/中村恵理
木の精/オッカ・フォン・ダメラウ
山びこ/アンナ・ヴィロフランスキー


 僕が「アリアドネ」を初めて観たのは、96年の水戸室内管弦楽団定期演奏会だった。その直前にフェスティバルホールで行われた大阪公演で、オーボエの宮本文昭のリードする指揮者無しでの、メンデルスゾーンの第四シンフォニー“イタリア”に感激し、そうだ!若杉さんの指揮するシュトラウスも聴こうと思い立ち、本拠地の水戸まで出掛けた。水戸芸術館での「アリアドネ」はセミ・ステージ形式で、楽しい演出もあった。また、僕は初めて歌声に接した天羽明惠さんが、ツェルビネッタで圧巻のテクニックを披露し、一辺でファンになってしまった。勿論、若杉さんの指揮も素晴らしく、シュトラウスのオペラは「サロメ」と「薔薇の騎士」だけではないと、これで認識を改めたように思う。

 東日本大震災後の来日オペラ、メトロポリタンとボローニャは主役級にポロポロと脱落者を出しながらも、公演自体は粛々と敢行された。この二団体は震災前にチケットを売り出していたが、今回のバイエルンは3.11直後の発売で、その売れ行きは推して知るべしだし、僕も直ぐに買い求めはしなかった。でも、名古屋まで観に行ったメトロポリタンは微妙だったが、びわ湖でのボローニャには大満足で、そこへ売れ行き不振の招聘元が、イープラスでチケットの叩き売りを始めた。

 スター歌手をズラリ揃えたメトロポリタンとは違い、バイエルンの「アリアドネ」はアンサンブル重視の布陣で、最初から有名人を起用していない。ボローニャの「カルメン」「清教徒」を大いに楽しみ、調子付いた僕は勢いのみで、「アリアドネ」の安売りチケットを買ってしまう。そうなれば前日の「サロメ」も買わねばならず、僕は三連休を東京で過ごす次第と相成った。二日続けてシュトラウスのオペラを聴ける、こんな機会も滅多にあるものではない。

 今回の「アリアドネ」は開演前に緞帳を上げ、客席は明るいままの舞台上で、何やらゴソゴソと始める演出。具体的にはバレエ・ダンサーの何人か出て来て、舞台上でピアニストの弾く音楽に合わせ、ストレッチなどでウォーム・アップを始める。一方オケピットでは、コッソリと指揮台まで辿り着いたケント・ナガノが、客席に礼をせず唐突に棒を振り下ろすと、舞台上のダンサー達は音楽に合わせて踊り出す。この辺り、また演出家が小賢しい工夫を凝らしてるなぁ、と云った気分で観ている。

 総体的にセットらしきものの殆ど無い、専ら照明で観せる演出との印象を受ける。プロローグでは沢山の鏡が舞台上に置かれるが、これは何かのメタファーなのか良く分からない。分からないと云えばアリアドネとバッカスに、二人と同じ黒い衣装を着けたダンサーが、それぞれ八名づつ出て来て踊るが、これも如何にも意味有り気で、でも何だか良く分からない。黒尽くめ衣装のオペラ・セリア組に対し、ツェルビネッタ姐御を首領に戴くオペラ・ブッファ組の衣装も黒で、両者の交じり合う場面では見分けの付かなくなる。まあ、この後に道化師四人組はパンツ一丁の裸になるので、あくまでフォーマルなセリア組との対照は付いているけれども。

 そのハルレキン達の男性ストリップは、ツェルビネッタのアリアに先立って行われる。このオペラ最大の聴かせ処であり、観客全員が楽しみにしているアリアで、ツェルビネッタの歌に集中したいのに、そこで裸のオッサンどもにウロウロされては、演出家に水を差されたような気分になるのは否めない。道化師四人が不細工なマスクを被るのを見ると、そう云えば今日の演出家は兵庫芸文の「キャンディード」でも、風刺の積もりだろうが何とも泥臭い、ブッシュ大統領やブレア首相の被り物を着けた、やはり海パン一丁のオッサンどもを出していたのを思い出す。

 カーセンの二つの演出から、この人は才気煥発でサービス精神の旺盛な為、常に遣り過ぎる傾向のあると感じる。それは「キャンディード」のようなミュージカルにはハマるが、シュトラウスにはやや疑問がある。悪ふざけの空回りして、「アリアドネ」に必要とされる気品に欠けた演出と、僕には感じられるのだ。執事長御一行が客席の通路から出入りしたり、作曲家が最後まで舞台に留まってオペラの上演を見守ったり、劇中劇で入れ子構造の「アリアドネ」に対して外枠を設ける、的確な解釈のあると思うし、今日の演出を腐す積もりは無い。アンドレアス・ホモキ辺りにもその傾向はあるが、要するに遣り過ぎる演出は趣味に合わないと云う、これは個人的な受け止め方の問題だろう。

 この演出は歌手に対し、演技的な要求レヴェルが高い。取り分け、ツェルビネッタは飛んだり跳ねたりしながら、例の超絶技巧アリアを歌わねばならず、これは誰にでも務まる芸当ではない。ナタリー・デセイやディアナ・ダムラウ等、当代一流のツェルビネッタ歌いの起用は、端から無理な演出なのだ。ダニエラ・ファリーはウィーン・フォルクスオーパーで、「こうもり」のアデーレを当り役とする、アジリタのあるコロラトゥーラ・ソプラノである。でも、物凄い超絶技巧のある人ではなく、軽やかなコケットリーを振り撒く、オペレッタの歌姫と呼ぶのが相応しい。声自体にもコケットリーを滲ませるスープレッドだが、容貌・スタイル込みの演技力で観せる、二代目メラニー・ホリデイの趣きがある。

 タイトル・ロールのピエチョンカは、声質はリリコでもレジェーロな音色のある、個性を主張するのではない清楚な声。優し気な風情のあり、淡彩で抒情的な歌を唱うソプラノ。作曲家のクートも柔らかい声質のメゾだが、何やらノンビリと歌っているのと、演技が余りお上手で無いので、怒りの感情が伝わって来ない。それとぽっちゃりした女っぽい体型も、この役には不似合いのように思う。バッカスのスミスはパセティックな高音に魅力のあるヘルデン・テノールだが、今日は役に合わせて切り替えたのか、リリックな歌い振りに終始する。本来もっと声に力のある人と思うが、今ひとつ声に精彩を欠く印象で、古代ギリシャの神様らしい風格に乏しいのは残念。主役級は四名共に小粒な歌で、皆さん演技重視で選ばれたのかと思う。

 メインの歌手はやや物足りないのだが、男声の道化師四人組と女声の妖精三人組の二チームは、出色の出来映えと云って良いかと思う。二組のアンサンブルには小じんまりと纏めるのではなく、大きな声を出した上で纏める高い技術力がある。取り分け、女声は主役の三人と交代しても、何ら遜色の無い実力者を揃えている。中村さんのツェルビネッタなんか、是非とも聴きたかったすね。結局、当初発表キャストから脱落したのは、アンサンブルとは無関係な三名のみで、ミュンヘン・オペラ「アリアドネ」組のチームとしての結束力に感心させられた。

 ただ、歌手のアンサンブルは練り上げられていても、36名の小編成オーケストラの演奏の方は、今ひとつパッとしない。プロローグ辺りの室内楽的な部分は、ずっとメゾピアノの音量が続く感じで、繊細な音色に欠ける。一幕後半のフォルテシモには馬力があり、トゥッティで盛り上げる力の入り方は、さすがにケント・ナガノだが、でも何だかヴァーグナーをやるみたいな勢いで、ピアニシモまで音量を落とせず、ダイナミク・レンジは広くは無い。大音量では纏まっても弱音は誤魔化せず、オケには稽古不足の気配が漂う。放射能アレルギーのドイツ人団員に来日拒否の相次ぎ、エキストラを大量動員した所為かと邪推される。

 このプロダクションは演出のロバート・カーセンと、音楽監督ケント・ナガノの協働作業によるコラボレーションで、歌手の起用もその明確なコンセプトに沿っている。つまり、演奏と演出を切り離しては考えられず、そのコンセプトを受け入れない観客は、置いてけぼりにされてしまう。カーセンの演出は下品だ等と云う感想を抱く、僕の楽しめる上演ではなかった訳だ。

 来日公演の千秋楽で、カーテン・コールではオケのメンバーも舞台に上がり、我々観客に挨拶してくれた。原発事故の収束しない中、来日を敢行したミュンヘン・オペラのスタッフ・キャストへは、幾ら感謝しても足りない気分だし、その気持ちのあればこそ僕もわざわざ東京まで出て来た訳だが、やはり演奏の不完全燃焼への不満は残る。ともあれ、次の来日の何時になるのかは分からないが、ミュンヘン側の用意したと思しき横断幕にあった通り、「長年の深き友情がこれからも続きますよう」僕も願って已まない。

 写真は楽屋口からお帰りになる、木の精役のオッカ・フォン・ダメラウさんです。ご協力ありがとうございました。

ブリテン「ねじの回転」op.54

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<第48回オペラ公演・プレミエ/20世紀オペラ・シリーズ>
2011年10月14日(金)18:30/大阪音大ザ・カレッジ・オペラハウス

指揮/十束尚宏
ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団

演出/岩田達宗
美術/増田寿子
照明/原中治美
衣裳/半田悦子

家庭教師/井岡潤子
マイルズ/植田加奈子
フローラ/高山景子
グロース夫人/小西潤子
下男クイント/中川正崇
ジェスル嬢/藤原未佳子
プロローグ/柏原保則


 僕は怪談話とされる小説を読んでも、あまり怖いと感じた経験が無い。大好きな小説家のロアルド・ダールが、手間隙を掛けて秀作を選び出した「幽霊物語」と云うアンソロジーも、一体何が怖いのかサッパリ分からない読み物ばかりだった。実は僕はスティーヴン・キングの「シャイニング」(ホラー小説の金字塔ですよね?)を読んだ際も、これは何時になったら怖くなるのだろうと思いながら読み進み、結局そのまま読み終えてしまった。スタンリー・キューブリックの映画は結構怖かったので、もしかすると僕はホラー小説に対し、不感症なのかも知れない。

 ブリテンのオペラの原作者ヘンリー・ジェイムズは、エドガー・アラン・ポーやラフカディオ・ハーン等、英国系怪談話の系譜に連なる小説家で、「ねじの回転」は心理的な恐怖を狙った、幽霊も存在するのかどうか朦朧とした、どうとでも解釈可能なお話。文章で想像力を喚起する小説に於いて、或る登場人物が幽霊であるか否かは曖昧に暈した方が、読者の恐怖心を募らせるように思う。だが、舞台で歌を唱いながら演技する人物は、眼前に生きた人間として存在する訳で、これを幽霊と言いくるめるには、些かの工夫は必要になる。

 「ねじの回転」の演出は生身の歌手の演じる舞台で、幽霊にリアリティを持たせる事は可能か否かの問題に、解答を出さねばならないと僕は考える。極端な話、白装束に三角の布を額に当てた歌手を、柳の木の下に立たせれば、幽霊の視覚化の問題は解決するが、それでは悲劇がコメディーと化す。

 今回の演出は黒っぽい色合いのセットに、照明のメリハリも乏しく、明暗の変化の無いと感じる。心理的な恐怖をジワジワと盛り上げるのに、暗鬱なムード一辺倒では無理がある。子供らしい無邪気な明るい場面のあってこそ、マイルズの息絶える幕切れも生きる筈だ。天井から赤い紐を垂らす工夫も、やはり岩田演出の「イドメネオ」「火刑台上のジャンヌ・ダルク」の使い回しで、僕は「ああ、またか」と思ってしまうし、これでは遊園地のお化け屋敷にしか見えず、要するに全然怖くない。

 それと七百席の小さなハコで、細かい表情まで丸見えなのにも関わらず、歌手の演技が大雑把に過ぎる。演技面では主役の家庭教師が、取り分けて力不足。ソコソコ声に力のあるソプラノだが、舞台上で正面を向き、手を前に差し伸べて歌うだけの、この方は全くの大根役者そのもの。演出家には、もっと細やかな演技指導の望まれる。

 小説のオペラ化の問題で、例え話に「シャイニング」を持ち出すと、キングの原作では舞台となる雪に閉ざされたクラシック・ホテルの建物自体が、人格化された悪意を持って主人公を狂気へと導き、これに超能力で対抗する副主人公を置いている。だが、キューブリックの映画版では、原作にある登場人物の心理的葛藤や、超能力を使ったストーリー展開などスッパリと省き、原作者さんを激怒させた。でも、結果としてキューブリック版はホラー映画の傑作として誉れの高く、原作を超えると評価されるに至っている。

 要するに何が言いたいのかと云うと、怪談話の映像化では幾ら原作者を激怒させようとも、脚本段階で大幅な改変は必須と云う事。この点でブリテンのオペラ台本自体に、問題は大きいと感じる。超常現象に対する恐怖を、オペラの舞台で実現するのは難しく、人間関係のドロドロに視点を当てるしか、その解決方法は無いように思うからだ。これは僕の思い付きだが、幽霊とされる二人とグロース夫人は実はグルで、「ねじの回転」は幼い兄妹に対する、性的関心の引き起こす悲劇とする解釈も成り立ちそうに思う。ブリテンには「ピーター・グライムズ」や「ヴェニスに死す」等、そのテの題材を取り扱った作品が多い。マイルズはボーイ・ソプラノの歌う役で、しかもクイント役を“パートナー”であるピーター・ピアーズに宛て書きしているのも、意味深長と思う。

 女家庭教師の巻き込まれた悲劇は、幽霊や精神の病が引き起こすのではなく、正常な人間の暗い情念が引き起こす、それが一番怖いだろうと云う話。まあ、大阪音大のような教育機関によるオペラ上演で、少年愛をテーマとする演出を期待するのは、僕も無いもの強請りとは思う。でも、そこまで踏み込まなければ、ブリテンのオペラ上演に如何ほどの意義のあるのか、僕には疑問が残る。まあ今時のオペラ演出なら、プロジェクターで映像の幽霊を舞台に飛ばす、なんて方法もアリかも知れないけれども。

 マイルズの植田加奈子は柔らかい声質のメゾで、ボーイ・ソプラノ役にも違和感は無かった。マイルズはレジェーロ、フローラはリリコでグロース夫人はスピントと、そんな風にクッキリ分かれている訳ではないが、この三人のソプラノには声の対照性のあり、音色の彩りのバランスが取れていた。ただ、クイントのテノールが塩辛い声で、これは全くのミス・キャスト。この役にはレジェーロな声の望まれる。

 七名のみの歌手によるアンサンブルの稽古が良く出来ていて、ブリテンの重唱の楽しさをタップリ味わえたのは、本日の最大の収穫。一幕最後の六重唱など、とても聴き応えのあった。台詞風のレチタティーヴォと、ブリテン節のアリア風の歌と、そのスタイルの唱い分けも良く出来ていたと思う。

 指揮の十束尚宏はブリテンのスタイル、つまり基本的にアチェルラントの音楽を理解し、演奏を前のめりに進める点は評価出来る。ただ、13名の小編成オケを相手に、人数分のピアニシモまで音量を落とせないのが難。ホラー映画に於ける効果音の要諦は、突然大きな音を出す事にあると思うのだ。それと怪奇なムードを盛り上げる為、もっと思い切ってテンポを落として欲しかった。音楽を明るくテキパキと進めては、幽霊の隠れる場所も無くなってしまう。でも、二幕では地均しも整い、十束の畳み掛ける指揮が生かされたと思う。

 下振りの練習の徹底したのか、十束の手腕に拠るかは知らないが、歌手のアンサンブルを充分に楽しめて、今日は音楽的な満足度の高い上演となった。指揮者がスタイルを理解さえしていれば、ブリテンのオペラは必ず楽しめる、それを知っただけでも、今回の上演に出掛けた収穫はあったと思う。

ヴェルディ「イル・トロヴァトーレ」

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<関西歌劇団第93回定期公演/プレミエ>
2011年11月12日(土)16:00/尼崎アルカイックホール

指揮/牧村邦彦
ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団
関西歌劇団合唱部
大阪メンズコーラス

演出/井原広樹
美術/アントニオ・マストロマッティ
照明/原中治美
衣装/村上まさあき
振付/生駒里奈

マンリーコ/ボスコ・キム
レオノーラ/栢本淑子
アズチェーナ/藤川賀世子
ルーナ伯爵/三原剛
隊長フェルランド/片桐直樹
侍女イネズ/源雅代
従僕ルイス/島影聖人
老ジプシー/和田一人
使者/蜂須賀一晃


 プッチーニの好きな関西二期会に対し、こちら関西歌劇団は専らヴェルディで、昨年は「リゴレット」、その前には「ファルスタッフ」を上演している。「トロヴァトーレ」は14年振り、四回目の上演だそうで、四名の強力な歌手を必要とする演目を、関西ローカルの民間団体がダブル・キャスト上演する、その蛮勇を称えるべきか、或いは無茶をするなと諭すべきか。さすがに自前で八人のヴェルディ歌いは揃わず、本日のプレミエは男声三名を客演で補強しての上演となる。

 皆様ご存知の通り「トロヴァトーレ」は、名旋律満載でヴェルディの傑作にして人気作だが、また無茶苦茶な台本に作曲された事でも、夙に名高いオペラである。アズチェーナが間違って自分の子供を殺した後、殺し損ねた仇の子供を可愛がって育てるとか、レオノーラが間違えてルーナ伯爵に抱かれる程の暗闇の中、暗視能力の高いのかマンリーコが、それを目敏く見付けて怒るとか、多様な突っ込み処を満載した、荒唐無稽を絵に描いたような筋書きである。

 そんな「トロヴァトーレ」をアホらしく思いながら観つつ、でもヴェルディの音楽にはヤラレてしまう。随所に美しい“歌”の散りばめられた、しかも力強い音楽で全編を貫き通す素晴らしいオペラと、今日も改めてシミジミ思う。物語の進行に連れて次第に、怪奇な筋立ての荒っぽさが、強靭な音楽に対応するよう感じられて来る。但し、「イル・トロヴァトーレ」の“歌”に酔い痴れる為には、もちろん強靭な音楽に対応する“声”が必要となる。

 歌手の中で本日の殊勲甲は、何と云ってもマンリーコのボスコ・キム。そもそも、この役を歌えるテノールは関西歌劇団に居ないだけではなく、日本全土に視野を広げても殆ど見当たらない。でも、国内では払底しているヴェルディ・テノールが、何故かは知らないが韓国からはゾロゾロと出て来る。このキムさんも端正な美しい声のテノールで、パセティックな盛り上がりは無くとも、豊かな声量で自然な変化の付くのが好ましい。喉に全く力を入れずに伸びる綺麗な声で、とにかく綺麗な歌を唱ってくれる。皆様お待ち兼ねのアリア「見よ、恐ろしい炎を」では、随所に超高音を織り込みながら、最後のハイCも軽やかに楽々と伸ばして見事だった。演技面は常に超然として存在感の薄かったが、これも長身で舞台姿は良いので、一応二枚目としては機能していた。

 ルーナ伯爵を歌った三原剛も素晴らしかった。この方は圧倒的に豊かな声量と、生得の美声を武器とするバス・バリトンで、余裕綽々で歌われるアリア「君は微笑み」には、ただ聴き惚れるのみ。その上に長身でイケメンの彼は、舞台に立つだけでサマになる上、ちゃんと板に付いた演技力にも秀でている。剣をスラリと抜き、円月殺法みたいに下段に構えると綺麗にキマる、誠にオペラ歌手としての資質を一身に体現しているような方である。

 実は僕が若い頃、片足を突っ込んでいたバッハの演奏団体に、三原さんもソリストとして所属していた。僕のような練習を良くサボる、不良団員にも気軽に話し掛けてくれる、とても真面目で気さくな方だった。三原さんは声楽を始めた際はテノールだったそうで、それが師匠の湯浅富士男氏の勧めもあり、バス・バリトンに転向した経緯がある。湯浅氏も関西では貴重なバス歌手で、自分の演奏活動の負担を減らす為にも、弟子の三原さんに演奏機会を譲ろうとしていた。

 やはり当時の関西で、受難曲のエヴァンゲリストと云えば畑儀文氏だったが、あの人はレツィタティーヴォもアリアも、何でも一緒くたにフニャフニャーと歌い飛ばしてしまう。でも、その隣りでイエスを歌う三原さんは、これはレツィタティーヴォですけんと云った顔で、四角四面にドイツ語を歌う、あれも今から思えば面白いコンビだった。これは他人に聞いた話だが、当時ヴォイス・トレーナーを務めていた大学合唱団の練習に三原さんが赴くと、指導を受ける女子大生達は全員、三原さんの顔を見詰めてポーッとなっていたそうである。何だかその光景の目に浮かぶような話ですなぁ。

 僕は既に合唱から遠去かっていた或る日、その後は歌声を聴く機会も無かった三原さんの、日本音楽コンクール声楽部門第一位獲得の報に接し、ビックリする事となる。そりゃ魂消ますよ。だって、あのコンクールって最上位は、東京芸大と桐朋音大出身者が順番に貰うような、情実とコネで回ってるようなモンでしょ。三原さんは大阪芸大なんすよ、大阪芸大。依怙贔屓なんて一切期待出来ない中、審査員に有無を言わせぬ圧倒的な実力の無いと、一位なんて取れっこないコンクールですよ、あれは。かつては隣りで歌っていた三原さんを、そんな凄い歌手と気付かなかった僕は、その不明を大いに恥じねばならなかった。今頃になって、せっせと誉めても手遅れですけれども…。

 若い頃の思い出話に耽ってしまったが、その序でに言って置くと、アズチェーナを歌った藤川賀世子さんも、かつては宗教曲のアルト歌手として貴重な人材だった。関西ではバッハのソリストを頻繁に務め、以前は僕の聴く機会も多かったのが、最近はトンとご無沙汰していた。アズチェーナを最も好きな役と仰る藤川さんだが、何と演ずるのは33年振りなそうな。関西在住でオペラ出演の限られるのは致し方の無いとは云え、これほどの実力派アルトとしては寂しい限りである。久し振りに聴く藤川さんだが、その深いアルトは健在で、低音のピアニシモは相変わらず美しかった。だが、やはり年齢的な限界か強いヴィブラートの掛かる上に、フォルテの音量では声を伸ばせず、やはり33年前に聴きたかったとの思いを抱いてしまう。それと手を振り回し過ぎる、演技のクサイのもやや興醒めで、これも舞台経験の乏しさに所以するのかと思う。

 レオノーラの栢本も高齢の歌手に良くある、音程の上下するような声の揺れが目立つ上に、フォルテは一瞬出すだけでロング・トーンを伸ばせない。また、年齢を取ると声の太くなるのか、メゾのような声質でダイナミク・レンジも狭く、歌に変化も付けられない。それに藤川さんのアズチェーナは長身で、少なくとも舞台映えはしたが、レオノーラは小太りの小母さん体型で、僕は認知症で恋人とルーナ伯爵を間違えたのかと思った。

 フェルランドの片桐はダブル・キャストで明日の出番の筈が、今日のバス歌手の体調不良の為、急遽のスクランブル登板となった。開幕のソロの歌はヴィブラートの耳に付く、本人としても不本意な出来かと思われる。もっと歌える筈の人だが、連投を懸念して抑え気味だったのかも知れない。

 演出は問題外の領域だった。碁盤目の壁に照明を当てて舞台の色合いを変化させ、これを左右に開くと十字架の立つ修道院の場面となる、セット自体は美術的なレヴェルの高いが、それを演出家は全く使いこなせていない。歌手は左右に分かれたコーラスの前で、手を前に差し伸べて唱うのみ。橋掛かりの競り上がるセットも奥にあるが、その存在自体に意味の感じられず、これに無駄金を使っているとしか見えない。今日の演出家の芸の無いのには呆れるのを通り越し、一観客としては諦念の境地に至った。

 オケの演奏も今ひとつパッとせず、日本のオーケストラはヴェルディの下手だと、つくづく思い知らされる。指揮者が笛吹けどもオケは踊らずで、幾ら煽っても乗って来ないのでは処置無しである。弱音は結構綺麗だが、そもそも弦の弱いのでブラスの入らないと盛り上がらず、畳み掛けるアチェルラントの無いのも物足りない。果たして指揮者の悪いのか、はたまたオケの悪いのか、僕は恐らく両方だろうと思う。この指揮者は川西でのドニゼッティ「マリア・ストゥアルダ」の良かったので見直したが、どうやら軽いベルカントは良くても、重いヴェルディを振るのには、些か器の小さい人のようだ。

 “アンヴィル・コーラス”を目玉とする、34名の男声合唱はソコソコ纏まっているが、声の力自体に不足するのと、トップ・テノールに輝きの乏しいのが不満。でもまあ、過大な期待さえ抱かなければ、一応の役割は果たしていたと思う。

 女声主役の二人は関西では大御所で、ローカルなオペラ団体としては、その集客力に期待せざるを得ないという事情はある。そもそも僕は三原さん目当てで、それがマンリーコにも当たりを引いた、今日の上演には充分に満足している。三原さんはオペラも大好きだそうだが、それよりも宗教曲への志向が強いらしく、オペラ出演の頻度は決して多くはない。新国立劇場でヴェルディの主役を張れる、充分な実力の持ち主だけに惜しいとは思うが、今は次の機会を楽しみに待ちたいと思う。

モーツァルト「ドン・ジョヴァンニ」K.527

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<沼尻竜典オペラセレクション/東京二期会&ライン・ドイツ・オペラ共同制作>
2011年12月4日(日)14:00/びわ湖ホール

指揮/沼尻竜典
トウキョウ・モーツァルトプレーヤーズ
びわ湖ホール声楽アンサンブル
二期会合唱団

演出/カロリーネ・グルーバー
美術/ロイ・スパーン
照明/山本英明
衣裳/メヒトヒルト・ザイペル

ドン・ジョヴァンニ/黒田博
レポレッロ/久保和範
ドンナ・アンナ/増田のり子
ドンナ・エルヴィーラ/佐々木典子
ドン・オッターヴィオ/望月哲也
ツェルリーナ/嘉目真木子
マゼット/北川辰彦
騎士長/長谷川顯


 東京で行われた二期会のオペラ公演を、そっくりそのまま持ち込む、びわ湖ホールにしては安易にも感じられる企画である。でも、今回の演出には三年前、この場に集ったイノセントで無防備な善男善女を激怒させ、ブーイングとブラーヴォの交錯するカーテン・コールで会場を騒然とさせた、あの伝説の「サロメ」で沼尻とコンビを組んだ、カロリーネ・グルーバー女史が再登場する。やはり二期会の企画に沼尻が乗ったのではなく、沼尻が二期会を丸め込んだと考えるべきか。

 序曲の始まる前に幕の上がり、舞台上では何やら小芝居の始まる。雷鳴の効果音の轟く中、雨宿りを求めるカジュアルな服装のアベックを、鬘を被ったロココ調の召使が招じ入れる。今時の演出で出番前の歌手が、舞台上をウロウロするのは見慣れた光景で、この時点で召使はレポレッロ、アベックはツェルリーナにマゼットと、何となく見当は付く仕掛け。現代風カジュアルと物々しいロココの衣装を並べる見た目と、召使がアベック男を邪険に扱う演出がユーモラスで、今日の舞台は楽しそうと期待は高まる。

 今回の演出ではアベックと召使だけではなく、他の歌手の衣装も時代様式はバラバラ。ドンナ・アンナは19世紀前半のドイツ・ビーダーマイヤー様式、オッターヴィオはその後の帝政ドイツ時代、エルヴィーラは時代を遡ったバロック風と思われる。思われると云うのは、僕にこれらの時代考証を担保する、ファッション・センスは皆無だからである。でも、言い訳する訳ではないが、ヨーロッパの演出家が「蝶々夫人」の時代考証を追及されて、そんな事を云えば日本人演出家の「フィガロの結婚」には、ロココも古典もバロックも混同した無茶苦茶なのがあるじゃないかと、開き直っていたのを思い出す次第である。

 今日のドンナ・アンナはジョヴァンニに犯されるのではなく、自分から誘惑する設定となっている。冒頭の決闘シーンでも、何としても父親を勝たせたい様子はなく、何やら娘にチョッカイを出された騎士長は、その隙をジョヴァンニに突かれ刺されてしまう。増田のり子は暗く重目のリリコで、ピアニシモからクレシェンドしながら、スピントの位置まで持って行く声の力がある。あまり音色の変化は無いが、そこそこアジリタもあり、直球で押しまくる感じの歌い振りで、一幕のオッターヴィオとのデュエットをパセティックに盛り上げてくれた。

 デュエットではドンナ・アンナもエルヴィーラも、タイトル・ロールとネットリ抱き合って歌い、二人ともジョヴァンニにベタ惚れの様子。佐々木典子は軽く柔らかいリリコで、ドンナ・アンナと声質の対照性もあり、デュナーミクに工夫のある抒情的なモーツァルトを歌ってくれる。「タンホイザー」のエリザベートも歌える佐々木さんには、パセティックなアリアを歌い切るだけの声の力もあった。

 二幕の薬屋のアリアに至っても、ジョヴァンニとマゼットとの間でフラフラしていたツェルリーナも、結局はキチンとヤラれちゃうし、その後は何とマゼットまでホモられちゃうのである。嘉目真木子は美人でスタイルも良く、もちろんレジェーロな声も素晴らしいが、ジョヴァンニとの「お手をどうぞ」のデュエットや、「打ってよマゼット」のアリア等、今ひとつノリ切れていない。指揮者のテンポが何だか忙しなく感じられ、ここは更にユックリじっくりと歌わせたい処だ。

 沼尻は序曲冒頭からを激しく聴かせ期待を抱かせたし、地獄落ちの場面を盛り上げるテンペラメントには、さすがと唸らされる。だが、短調の音楽は板に付いても、甘く歌い上げるモーツァルトは不得手なように感じる。一幕フィナーレのアンサンブルや、二幕のレポレッロを取り囲んだ六重唱等、とても充実していたのは指揮者の手柄か、二期会の実力かは知らない。

 今日の舞台は奥の方に扉の並んだセットがあり、そこから各時代のそれらしき服装の男女がゾロゾロと出て来る、ドラえもんのドアみたいな趣向。更にその奥では性的妄想の世界なのか、ジョヴァンニとドンナ・アンナがモロにヤッてるトコの実況中継を始める。僕は天井桟敷の住人なので、そんな奥の方で何か遣られても、良く見えはしないけれども。この辺り何だかアダルト・ヴィデオの真似事みたいで、聊か品位には欠けるが、一幕で歌手は色の付いた衣装、コーラスは白い衣装で華やかに美しい、アイデア豊富でカラフルな舞台と感じる。

 でも、二幕になると歌手達も服を脱いで白い下着姿になり、クネクネと悶える暗黒舞踏みたいな舞台となり、性的欲望は剥き出しとなる。どうやらジョヴァンニを主催者とする、乱交パーティーに推移した模様だが、そもそも色んな時代の衣装の出て来る事からして、今日はリアリスティックな舞台では有り得ず、これは性的妄想のオンパレードそのもの。そんな、これ見よがしな露悪趣味に耽る舞台に、僕は辟易させられる。

 「サロメ」を幼児期に受けた性的トラウマにより、歪んだ欲望を抱くに到った少女の物語とする、グルーバー女史の解釈には、それなりの説得力があったと思う。何故なら、オスカー・ワイルドの戯曲「サロメ」自体に、そのような世紀末的退廃の雰囲気は、濃厚に含まれているからだ。だから、大方の観客の拒絶反応にも関わらず、僕はびわ湖ホールでのグルーバー演出を支持した。だが、中世の“ドン・ファン”伝説の物語に、そのような退廃は含まれてはいない。それは女性の憧れ、男性の羨望を集めるドン・ファンが、道化プルチネッラを従え活躍する喜劇で、「ドン・ジョヴァンニ」も“ドランマ・ジョコーゾ”と題される、つまりは大衆向けで毒の無い、お気軽な“楽しいドラマ”なのである。

 大衆演劇には付き物の道化師として、このドラマの副主人公に位置付けられるレポレッロだが、久保和範はまだ若い人のようで、「カタログの歌」に音色の変化の無い上に、アゴーギグを即興的に揺らせず、歌に滲み出る筈のユーモアが感じられない。立派な声とは思うが、良い声で歌おうとするだけで、こんなレポレッロにしたい、或いは自分はこう考えると云った解釈が伝わらない。だが、僕は今日のレポレッロに、ここまで存在感の希薄なのには、演出の問題が大きいと考える。

 もう一人、さなきだに影の薄い哀れなオッターヴィオにも、演出家は何も新たな解釈を捻り出さない。二幕後半、ドンナ・アンナがジョヴァンニへ行ってしまうと、後はオロオロするのみで、望月哲也は美味しい処の何も無い、気の毒な役回りを振られている。その望月の歌自体は、アジリタのあるリリックな声質で、ほぼ過不足の無い出来栄え。彼の直向きな歌唱スタイルは、単純で一本気な役柄に合うのだと思う。この方も僕の知らない内に、二期会を代表するモーツァルト・テノールへ成長したようで、まずはご同慶の至りである。

 ジョヴァンニの黒田博には持ち前の美声があり、セレナーデはデュナーミクの工夫で甘くジックリと聴かせ、シャンパンの歌は早いテンポで、指揮者とオケを煽るだけの力量も備えている。ただ、今日の演出でのタイトル・ロールの造形には、やや疑問がある。受動的な演技に終始し、自分からは一切アクションを起こさないデクノボーなのが物足りず、つまりは中心部が真空なので、周囲の女達が引き寄せられる設定らしい。でも、オペラの要の位置が空っぽの演出って一体どうよ?と、僕は疑問に感じる。主役の黒田博には圧倒的な存在感のあり、その歌唱と立ち姿自体に説得力のあるが、それじゃ他の人が主役だったらどうよ?、と云う疑問も残る。

 前回のびわ湖ホールでのグルーバー演出は、少女時代のサロメを黙役の演じ、成人したサロメは歌手が務める、二人一役のシステムだった。今回これを踏襲した形で、助演のドンナ・アンナとジョヴァンニを睦み合わせたのは、恐らくドンナ・アンナの妄想の世界の出来事で、つまり深層心理を助演に投影する前回と同工異曲の、些か芸の無い演出と僕は感じる。これを要するに、何でもかんでも性的妄想の世界に押し込む、フロイトの出来損ないみたいな解釈が、僕には鬱陶しい。

 欲求不満で妄想のみを膨らませる、有閑マダムの低く狭い視点に立てば、そのような「ドン・ジョヴァンニ」解釈も成り立つのだろう。しかし、それではジョヴァンニの反骨精神や、エルヴィーラの愛と誠意等、スッポリ抜け落ちてしまう。「サロメ」の物語に救いの無いのは、それが世紀末の退廃した精神の産物だからだが、「ドン・ジョヴァンニ」のモーツァルトは、もっと健康な精神の持ち主で、ジョヴァンニやエルヴィーラの誠実を信じている。

 終始一貫して女性目線の性的演出では、ジョヴァンニにマゼットを犯させる妄想は産んでも、レポレッロとオッターヴィオに対し、思考停止に陥ってしまうようだ。破滅へと突き進むジョヴァンニの、デモニッシュな衝動を無視する演出家は、地獄落ちの場面も軽く扱ってしまう。ディナーへの招待を受けた騎士長が、実際に舞台に出て来る演出は初めて観たが、これはつまりジョヴァンニを地獄に落とすのではなく、ただ単にシッシと追い払っただけのようだ。

 ドン・ファンの物語を下世話に貶め、性的妄想に凝り固まる、この女性演出家はつくづく不幸な人と思う。もう、この方の手の内は読み切ったように思うので、もしもまた沼尻君が演出を依頼する積もりなら、次は断固としてモーツァルトは止めて頂き、「ヴォツェック」か「青髭公の城」辺りでお願いしたいと、強く要望する者である。

 三年前「サロメ」の終演後、ブーイングの嵐に顔を引き攣らせていたグルーバー女史だが、今回のカーテン・コールでは穏やかな表情で拍手に応えていた。僕は今回の演出にこそブーイングを浴びせるべきと思うが、マジョリティーの反応は真逆だった。取り合えずは見栄えのするセットと、それらしい衣装さえあれば大多数の観客は満足のようだ。だが、それならばオペラ上演に於ける、演出の意味とは一体何なのだろうか。今回の「ドン・ジョヴァンニ」の観客には、演出意図の当否を見定める義務があったと僕は考える。それは西洋風「蝶々夫人」に対して抱く違和感を、モーツァルトの時代様式混同演出には感じない、日本人全体の問題でもあると、これは自戒を込め申し上げて置く。

アニエス・メロン&アンサンブル・バルカローレ

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<愛のメロディ〜イギリス・イタリアのバロックの歌>
2011年12月9日(金)19:00/ザ・フェニックスホール

Agnes Mellon&Ensemble Barcarole
ソプラノ&ディレクター/アニエス・メロン
チェロ/ジュリアン・ハインスワース
テオルボ/ブルーノ・ヘルストロフェール
ハープシコード/ブリス・セリー

パーセル「魅力的なシリア(恋敵の姉妹)Z.609/薔薇よりも甘く(パウサニアス)Z.585/
運命の時は足早に Z.421/狂気のベス Z.370/グラウンド Z.T681/
暫しの音楽(オイディプス王)Z.583」
ダウランド「私の過ちは許されるのか(歌曲集第1巻)/
私はあの人が泣くのを見た(歌曲集第2巻)」
ビアソン「落葉」(フィッツウィリアム・ヴァージナル・ブック)
タリス「御身は誠に幸いなる第1番」
モンテヴェルディ「愛の手紙」(マドリガーレ第7巻)  
フレスコバルディ「カンツォーナ・ダ・ソナーレ第1番/アリア・ディ・ロマネスカ(アリア第1巻)」
ストロッツィ「恋するヘラクレス(カンタータ)」op.2
カプスベルガー「トッカータ ト長調」
フェラーリ「丸腰にされ、情熱に流され」(様々な音楽第3巻)
マリーニ「恋した老女(カンツォネッタ集)」op.5


 恐らく同じような方は多いと思うが、僕は古楽歌手としてのアニエス・メロンを、これまでカウンター・テノールのドミニク・ヴィスの嫁さんとして、お名前を存じ上げているのみだった。今回、メロンは三人の通奏低音奏者を従え、バロック歌曲による来日コンサートを行う。これまでに彼女が日本で、単独のリサイタルを行った事のあるのか知らないが、ともあれ今日はそのお声を初めて拝聴する次第で、僕は結構楽しみにしていた。

 本日のプログラムは前半にイギリス、休憩後の後半にイタリアの作曲家の作品を並べる、一夜の構成。英国代表はパーセルの独唱曲をメインに、ダウランドのリュート・ソングを二曲あしらい、ビアソンとタリスの鍵盤曲を箸休めに挟む、初期ルネサンスからバロックまで、様式的に異なる時代の曲を幅広くチョイスしている。ルネサンス期のイギリス世俗音楽は、明るく騒々しいマドリガルと、ユッタリしたテンポの叙情歌曲と、この両者に大別されるように思う。モーリーやギボンズ等のマドリガリストに対し、メランコリックな独唱曲を主要なレパートリーとしたのがダウランドであると、僕はそんな風に理解している。

 ダウランドより百歳ほど年下のパーセルは、速いか遅いかの二者択一だった歌曲を統合し、明るい音楽と暗い曲想の交互に配置された、クルクルと感情の入れ替わる劇音楽を作曲している。これは融合の手際の悪いのか、或いはパーセルに躁鬱症の気のあったのかは、良く分からない。ただ、パーセルの場合はヴァース・アンセムのような宗教曲でも、同じような傾向を聴き取れるので、もしかすると本当に神経症的な傾向はあったのかも知れない。

 そのようなプログラミングの意図は分かっても、今日は肝心のメロンが如何にも不調だった。何分にも初めて聴く歌い手で、普段の実力から何割程、差し引いて考えれば良いのか分からないが、今日聴く限りでは圧倒的な声も、魅力的な技巧もありはしない。ただ、語りの歌い口で独特な表現力はあると云うか、それで体調不良を誤魔化しているとも考えられる。

 それでも前半も終わり近くにやや持ち直し、中音域のピアニシモで声のカスれたりしていたのが、何とかロングートーンを保てるようになる。メロンの声には明るい音色があり、古楽系の細く透き通るような声質ではなく、それよりも演技的な身振りの大きい歌い振りを、本来の持ち味とする人のように感じる。

 しかし、後半のイタリア音楽プロに入っても、彼女に立ち直る気配は無い。しかも典雅なイギリス音楽とは異なり、モンテヴェルディとその後輩達の音楽には、ラテンの情熱が溢れている。歌詞をメリスマの旋律で引き伸ばす母音唱法の部分等、語り口では誤魔化せず、充実した“声”は必要不可欠となる。だが、相変わらず低音は頑張れても高音は伸びず、フォルテは出せてもピアニシモは厳しい。太い声で押し通せる曲は、それなりに歌えても、やはりピアニシモでは声になっていない部分がある。声の無い分、演技的な身振りのみが顕わとなり、音楽の骨格だけを聴かされる気分だ。

 風邪を引いた故の不調なら、何ら非難に値する事柄ではない。幾ら聴き辛くとも、体調不良を押しての出演なら、僕も拍手を送るのに吝かではない。だが、これから名古屋から東京へと巡演の予定もあり、少しでも喉を労わる為、さすがにアンコールは控えるだろうと思っていたら、拍手に応えて余分な曲まで歌ったのには驚かされた。もしかして今日のパフォーマンスが、この歌手の実力だったかと疑念は膨らむ。

 名古屋公演には「徒然クラシック」さんの、東京公演には「ひねくれものと呼んでくれ」さんの感想がありました。御二方の意見を斟酌すると、やはりあれが実力と結論付けるしか無さそうな…。

J.S.バッハ「ミサ曲ロ短調」BWV.232

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2011年12月10日(土)15:00/兵庫県立芸術文化センター

指揮/ヨス・ファン・フェルトホーヴェン
ソプラノ/ドロテー・ミールズ/ヨハネッティ・ゾマー
アルト/マルゴット・オイツィンガー
テノール/チャールズ・ダニエルズ
バス/ピーター・ハーヴェイ
オランダ・バッハ協会合唱団&管弦楽団


 僕は名前も知らなかったネーデルランド・バッハ・ソサイェティーだが、初来日の際の「ヨハネ受難曲」も好評を博した、日本でも人気の古楽アンサンブルらしい。創設は前世紀の21年、フェルトホーヴェン音楽監督の就任も30年前で、片田舎の教会を本拠地に地道な活動を続ける、結構な老舗である。それが何故、今世紀になって突然ブレイクしたのかと云えば、それは矢張りCDのリリースが理由だ。国内でのみ知られていた団体が、録音発売により国外でも名前を知られ、世界ツアーを行うに至る。何だか今時は、そんな話ばかりのような気もする。

 予備知識を仕入れず出向いたので、開演前の舞台に置かれた椅子を数え、これは小じんまりしたアンサンブルと初めて知った次第。声楽陣はソリストが五名にコーラスは十名、オケは弦と管の11名づつにティンパニー、鍵盤はチェンバロとポジティーフ・オルガンの編成。二千人収容の大ホールに総勢40名では、広い舞台が余計に広く感じられ、如何にも小編成の趣となる。小編成のロ短調ミサと云えば、自ずと思い出されるのはリフキン大先生のOVPP(One Voice Per Part 各声部一人)理論だが、オランダ・バッハ協会の指揮者も独特な見解をお持ちのようで、今日は自分の聴き慣れたモノとは、随分と異なるスタイルの演奏だった。

 ソリストも加わって実質15名による合唱。冒頭のキリエ・エレイソンから、指揮者は流麗なレガートによる、圭角の取れたスタイルを志向していると感じる。それは曲のポリフォニックな構造を明らかにする、あくまで透明な音色による演奏で、とにかくコーラスの各声部を良く聴き取れる。中間部のクリステ・エレイソンのソプラノ・デュエット。透明な声質のミールズと深い声のゾマーのコンビは、二人共に徹底したメッサ・ディ・ボーチェで、やはり曲のテクスチャーを明らかにしようとする。

 続くグローリア冒頭のコーラスは、15名のトゥッティと五名のソロが交互に歌い出し、僕はあれれ?と驚かされるが、これは音楽に変化を付け、徐々に盛り上げる為の手段と感じる。今日の指揮者の言によると、声楽と楽器は共にソロ奏者を基本とし、これを随時にリピエニスト(総奏要員)が補強するスタイルには、ドイツの長い伝統の裏付けのあるそうな。バッハと同時代の演奏習慣では、ソロとトゥッティの交代は自明の事柄で、それはカペルマイスター辺りの指示により、適宜に行われるものなそうな。ははぁ…これってOVPPの進化形理論なんすかね?

 まず、ソリストによるアリアの演奏形態に付いて、第6曲のラウダムス・テでコンマスは椅子から立ち上がり、ミールズと二人並んで演奏する事で、この曲は謂わばソプラノとヴァイオリンのデュエットと、見た目からも認識させられる。ミールズのメリスマの技術も、超絶的なレヴェルにあった。この調子で第10曲のクイ・セーデス・アド・デクセラムでは、ソプラノのゾマーとオーボエが、第11曲のオーニアム・トゥ・ソールスでは、バスのハーヴェイとホルンが、それぞれデュエットとして聴かせてくれる。ゾマーは深いけれども軽い声質で、均質な音色のあるメゾ・ソプラノ。ハーヴェイは几帳面にメリスマを歌う、生真面目なバスだが、Sの無声音の強調は遣り過ぎとも感じられる。

 でも、第19曲のアリア、エト・イン・スピリトゥムは、謂わば二本のオーボエとのトリオで、ハーヴェイは美声を聴かせてくれる。第8曲のソプラノとテノールのデュエットも、二本のフルートとのカルテットで、歌手の声との掛け合いに、木製楽器の柔らかい音色が生かされる。ただ、第24曲のベネディクトゥスで、フルートとデュエットを組む、テノールのダニエルズが一本調子で、高音部をファルセットに逃げるのも聴き辛い。

 次は合唱曲の扱いに付いて、第7曲のグラツィアス・アジムスはトッティによる演奏で、全く力まない透明なフォルテが美しい。第9曲のクイ・トーリス・ペッカータ・ムンディは、ミールズを除いた四人のアンサンブル。グローリアの掉尾を飾る、第12曲のクム・サンクト・スピリトゥスは、速目のテンポで軽やかに盛り上げ締め括る、とても祝祭的な演奏。この曲の冒頭のテノール・パートは、余りにもお馴染みの旋律だが、これをソロで歌い出したのには、やはり驚かされる。クレド冒頭の第13曲もダニエルズのテノール・ソロで始まるが、そのノン・ヴィブラートで突っ張り、フォルテで硬くなる声が気になる。やはりソリスト五人によるアンサンブルだが、次の第14曲のパートレム・オムニポテンテムをトゥッティで畳み掛け、二曲に対照を付けていた。

 第16曲のエト・イン・カルナートゥスが最初からトゥッティなのは、瞑想的な曲想のピアニシモを、分厚く聴かせる作戦と見た。続く第17曲、クルチフィークスのポリフォニックな構造を、ソリスト達が低音域のピアニシモで聴かせると、そこから第18曲のエト・レズレーシットへと、トゥッティで華やかに雪崩れ込む。この三曲の対比の効果を、指揮者はキチンと計算して外さない。

 第20曲のコンフィテールもトゥッティで始め、その後にソリストの五人に移り、また15人のトゥッティに戻る等、アンサンブルとコーラスはクルクルと目まぐるしく交替する。こうしてクレド全曲を、軽く明るくリズミカルに締め括ると、第22曲のサンクトゥスでも、カウンター・テノールを含む六人のアンサンブルを挟み、とにかく明るく盛り上げる。第23曲のオザンナ・イン・エクセルシスに至っても、やはりソリとコーラスが交代しながら、ひたすらに軽く明るい演奏は続く。ここまで聴いて来て、どうやらメリスマでフレーズを伸ばす部分はソリ、短い音節で言い切る部分はコーラス、と云う傾向はあるように感じる。

 山あり谷ありの末、いよいよロ短調ミサも大詰め、第26曲のアニュス・デイを迎える。だが、一応それなりに盛り上がってはいても、ここまで漸く辿り着いたのだなぁ、と云う感慨は今ひとつ湧いて来ない。そもそもアニュス・デイは暗い曲の筈だが、妙にネアカで表面的な演奏に聴こえる。つまりはデュナーミクの彫りの浅いのと、リズムに軽重の使い分けの無いので、音楽は常に明るく感じられる。全体的に速目のテンポで、歌手は絶叫など一切せず、表情の一定で音色も変わらない。軽いリズムで明朗快活一辺倒、終始一貫して透明でレガートな演奏では、やはり飽きの来てしまう。暗い音色や重いリズムも無いと、ロ短調の峻険は表現出来ないと思う。

 何事にも薄味の流行る世相を背景に、こんなヒーリング・ミュージックみたいなバッハ演奏も持て囃されるのだろう。だが、リヒターは古臭いとか、古楽のトレンドはとか云う以前に、指揮者には楽譜の意図を読み取り、表現する責務があると考える。それはスタイルの新旧の問題ではなく、ひとつ一つの音に含まれる軽重と明暗を、指揮者が測れているか否かだ。その意味で今日の演奏を、僕は一度聴けば充分と感じる。少なくとも、この指揮者の演奏を聴く機会を、今後も積極的に作りたいとは思っていない。

シュッツ「クリスマス物語」SWV.435

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<H.シュッツとバッハ以前の17世紀ドイツ巨匠の音楽>
2011年12月16日(金)19:00/京都文化博物館別館ホール 

アンサンブル・プリンチピ・ヴェネツィアーニ
ソプラノ/緋田芳江/鈴木芳
アルト/下村美穂
テノール/岡村雄一
コルネット&リュート&バリトン/笠原雅仁
バス/松下伸也

バロック・ヴァイオリン/大内山薫/中川敦史
ヴィオラ・ダ・ガンバ/頼田麗
コルネット/上野訓子
サクバット/松田洋介/日生貴之/織田貴浩
オルガン/野澤知子

J.エッカルド「Von himmel hoch 天上より現れ」
シャイン「Paduan 四声のパドゥアン」
ミヒャエル・プレトリウス「Puer natus ベツレヘムに産まれし幼子」
シュッツ「Sumite paslmum 賛美の歌/Fili mi Absalon わが子アブサロム SWV.269/
Exultavit cor meum in Domino 私の心は主によって喜び SWV.258
(シンフォニア・サクレ第1集)/O Jesu nomen dulce おおイエス、甘美な御名 SWV.308/
Veni sancte Spiritus 来たれ聖霊よ SWV.328(クライネ・ガイストリヒ・コンチェルト)/
Historia der freudenreichen Geburt Jesu Christi
イエス・キリストの喜ばしき降誕の物語 SWV.435」


 京都を本拠とする古楽団体、アンサンブル・プリンチピ・ヴェネツィアーニが昨年の“ヴェスプロ”に続き、今年はシュッツを取り上げる。何れも演奏頻度の少ない初期バロックの大曲だが、取り分けシュッツの季節物は滅多に聴けない珍品で、誠に有難い話である。個人的にクリスマスのBGM定番曲は、ブリテンの「キャロルの祭典」と、オネゲルの「クリスマス・カンタータ」、そして今日演奏される「クリスマス・ヒストーリエ」で、僕はライヴでは初めて聴く。

 関西ローカルでもヴェネツィアを名乗るアンサンブルなので、普段はイタリア物を中心に演奏しており、ドイツ物を取り上げるのは珍しいらしい。それがバッハでも、テレマンでもないシュッツと、これはまた渋い処を突いて来る。尺的に30分程度の曲なので、コンサートの前半はシュッツの宗教曲を中心に、四人の作曲家の小品を八曲演奏し、後半のメインに「クリスマス・ヒストーリエ」を置く一夜の構成。

 三条姉小路にある京都文化博物館別館の建物は、重要文化財に指定されている旧日銀京都支店で、東京駅丸の内口や大阪市中央公会堂でお馴染み、辰野金吾設計によるレンガ造り二階建て。元の銀行の営業部屋は天井吹き抜けの広いホールで、そこを演奏会場としてリサイクルした、なかなかお洒落な空間。平土間の入口は銀行受付になっており、そこを回り込んだ奥の方に客用の椅子を並べ、反対側に演奏者が陣取る。二階部分には廻廊が四周に張り出して、あそこで聴けば音が良いだろうなぁ、と思わせる。

 開演時間になると器楽のメンバーが定位置に着き、声楽陣の入場を待つ。歌手達が部屋の外でアカペラで唱い出し、そこへオルガン伴奏の入ると、そのまま唱いながらゾロゾロとホールに入場する、「キャロルの祭典」みたいな趣向でコンサートは始まる。最初のシュッツのモテットは、トゥッティでサクバットも華やかに、次はベース・ソロを器楽隊で支える曲。管と弦の息の合わず、危なっかしい場面もあったが、そこは生演奏に付き物の、ご愛嬌と云う事で。

 三曲目ではコルネットを吹いていた人が、オルガン伴奏でバリトン・ソロを歌う。この方は歌を唱い、コルネットを吹く他に、リュートまで爪弾くなど矢鱈に多芸で、声質は高音部の綺麗なハイ・バリトン。まず持ち声自体が良く、メリスマの技術もあって、今日の男声歌手三人の中では一番巧いのが、何だか可笑しくも感じられる人。四曲目はオルガン伴奏を入れた五声で歌う、ノン・ヴィブラートのソプラノ二人の魅力を引き出す曲と感じる。一人は透明な声、もう一人は少し色のある声で、二人の声の対比が美しい。ただ、二人とも声量に乏しく、もっと声を張り上げ、鮮烈なフーガを作って欲しかった。大声を出さなければボロも出ないが、それでは盛り上がりにも欠けてしまう。

 五曲目はソプラノ・ソロを、二本のコルネットとオルガンで支える。尺八みたいなコルネットを操る、二人には抜群のテクニックがあり、このメンバーの中では図抜けているように思う。ソプラノもソロで聴かされると、この方はアンサンブル歌手ではあっても、ソリストでは無いと分かってしまう。前半の最後にはミヒャエル・プトリウスのモテット「Puer natus」が演奏された。

 シュッツやシャインに先立ち、イタリアに留学したプレトリウスは、三巻から成る浩瀚な音楽辞典「シンタグマ・ムジクム」の著者で、プロテスタント・カントライの伝統の世界に生き、初めてヴェネツィア楽派の書法を伝えた、ドイツ音楽史の上で重要な作曲家。その嬰児イエス・キリストの誕生を祝福するモテットは、14名全員のトゥッティで演奏される。教会ぽい雰囲気のある天井の高いホールに、柔らかい音の立ち昇り、シミジミとしたクリスマス・ムードを盛り上げる。

 休憩後はお目当ての「クリスマス・ヒストーリエ」で、コルネットの人の指揮と合図の、中間位の身振りに従っての演奏だった。でも、このアンサンブルの14名の頭数は、指揮無しで演奏するには多過ぎるし、指揮者を置くのなら少な過ぎる。中途半端な指揮では、レツィタティーヴォとトゥッティの対比は際立たず、更に強烈な明暗の対比の欲しい処だ。ただ、このホールは演奏者と聴衆との間の距離が近いので、音量の小さいのはインチメイトな雰囲気も醸して、雰囲気自体は悪くない。

 この曲は詰まる処、エヴァンゲリストのテノールと、天使のソプラノの二人の歌手の力量次第で、全体の出来も左右される。テノールの人は高音のスピントせず、頭声の伸びないのが難で、劇的なアリアは歌えそうもないが、エヴァンゲリストとしてレツィタティーヴォだけを歌っていれば、そのリリックな声は生かされる。ソプラノの人も三曲あるアリアを良く歌えて、まずは満足すべき出来栄え。単に透明なだけではなく、ほんのりとシュッツの深い色合いも付いて、クリスマス・ムードを盛り上げてくれた。

 でも、アルトとバスの二人に、声量の無いのは困り物。取り分けバスの人には単独のアリアがあり、これが声の小さい上に低音も響かず、殆んど聴き取れない程。東方博士のトリオの歌は、男声がコルネットの人とバスの人しか居らず、サックバットを吹いていた内の一人が楽器を置いて歌い出す、実に手作り感に溢れる展開。大学グリークラブには吹奏楽からの転向組も多いが、管楽器の経験者は息の使い方を知っているので、歌の上達も早い傾向はある。サックバットの人もソコソコ歌えていたが、これも相対的な問題なので、今日の非力な専門歌手陣となら互角だったとも云えそうだ。

 とにかく全体的に音量の小さく、フォルテとピアニシモの明確な対比の無いのは辛い。でも、コルネットの人は吹いている時以外は指揮して、曲の最後では少し盛り上げて見せてくれたし、奏者全員がシュッツの音楽を把握している様子のあり、クリスマス・ムードは盛り上がった事で、僕としては了解したい。ただ、声楽陣は余りにも非力で、関西にも他に人材は居る筈だし、今後のテコ入れを要望して置く。

 昔、まだ僕の若い頃、所属していた合唱団の副指揮者が、シュッツをやりたいと頻りに騒ぐので、一体シュッツて何者やねん?と尋ねてみると、一度クリスマス・オラトリオを聴いてみろと勧められた。おまえにエヴァンゲリスト歌わせてやるから、と彼は僕を唆すのだ。その話を演奏会の打ち上げ二次会で同席した、関西在住の某有名エヴァンゲリスト歌手にすると、だから素人は困るんや、と言われてしまった。今日は酔いの回りが早いぞ、とかも言われた。僕の若気の至りのお粗末でした。

ボロディン「イーゴリ公」

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<オデッサ・ナショナル・アカデミーシアター初来日公演>
2012年1月28日(土)15:00/兵庫県立芸術文化センター

指揮/ユーリィ・ヤコヴェンコ
ウクライナ国立オデッサ歌劇場管弦楽団&合唱団

演出/スタニスラフ・ガウダシンスキー
美術/V.A.ボリスキー
振付/K.ゴレイゾフスキー
ウクライナ国立オデッサ歌劇場バレエ

イーゴリ公/アレクサンドル・ブラゴダールヌイ
ヤロスラーヴナ公妃/アーラ・ミシャコワ
ガリツキー公/セルゲイ・ザムィツキー
コンチャク汗/ウラジーミル・グラシェンコ
ウラディーミル公子/アレクセイ・スレブニツキー
コンチャコーヴナ姫/リリア・クチシェヴァ
スクーラ/コスチャンチン・ウルィビン
エローシュカ/イーゴリ・コルナトフスキー
韃靼人オヴルール/イェヴゲニー・ガヴリシ


 「プリンス・イーゴリ」は12世紀に成立した、中世写本「イーゴリ軍記」を元ネタに、作曲家自身の執筆した台本に基づくオペラだが、これをボロディンは作品として完成させる事なく、この世を去っている。作曲家の死後、全体のオーケストレーションをリムスキー・コルサコフが、断片として残された序曲と第三幕の仕立て直しをグラズノフが、それぞれ専ら担当した補筆改訂版が、このオペラの完成楽譜とされている。

 但し、二人とも補筆に当たり、自分の創作も相当部分に混ぜ込んだようで、この辺りの事情はモーツァルトのレクイエム等と同じく、それを分別するのは難しいようだ。従って、第三幕を偽作と認定して素っ飛ばすとか、あちこちをカットしての上演に口実は付く訳で、全曲上演の機会など絶無に近そうだし、まあ補筆版を全部聴いても仕方なかろう、と云う気のするオペラではある。僕が四年前に観た、マールイ・オペラの演出もガウダシンスキーだったし、今回も三幕はカットの二幕五場版による上演と云う事で、舞台自体は前回と同じのようだ。

 まず持って、遥々ウクライナからお越しのオペラ・ハウスに、イタオペをやらせるのも無粋な話だ。そもそも、イーゴリさんはウクライナの首都キエフの殿様だし、そのタイトル・ロールが軍勢を率いて戦いを挑む、韃靼人と訳されるトルコ系遊牧民ボロヴェッツ人の根城は、黒海北岸に位置するウクライナ第二の都市・オデッサなのだ。「イーゴリ公」はオデッサ・オペラに取って、正真正銘のご当地物なのである。それならば、初来日で力の入った処を聴かせて貰おうじゃないの、と考える次第である。

 前回と同じ演出と云っても、健忘症の僕の記憶には全く残っておらず、まあ初めてみたいなモンである。でも、予想通りセットは書き割りの立て看板だし、歌手とコーラスの演技も有って無きが如し。衣装のみ豪華なのだけには、薄っすらと前回の記憶の残っている。だが、今更そんな事に文句を付けても始まらない、これが毎度お馴染み旧ソ連圏オペラの、通例に沿った演出なのだ。

 そんな良く言えばメルヘンチックな舞台に、上手な歌さえ花を添えてくれれば、一観客として満足すべきなのだろう。その歌手の品定め。タイトル・ロールのバリトンが、スピントしない野太い声のままフォルテを伸ばす、平板なアーティキュレーションの歌い振りで、聴いていてちっとも面白くない。その嫁さんのソプラノも最初、唐突に高音を発する奇妙なフレージングで、先の思いやられたが、一幕後半のアリアは伸びやかに歌えて、まずはホッと胸を撫で下ろす。

 ガリツキー公のバスは声自体の魅力に乏しく、ノー天気な美味しい役処を生かせない。コンチャク汗はクセのあるキャラクター・バスだが、声に輝きのあって良く響くし、イーゴリとの対称性も付いて楽しく聴ける。アリアは一曲しか無いが、ウラディーミルは端正にフレージングを作る、折り目正しいテノール。声自体は重目でも、良い歌を唱ってくれた。コンチャコーヴナのソプラノはキツイ声に過ぎるし、もう少し音色の変化も欲しい処だ。

 総じて歌手陣の出来にはデコボコのあり、安心して聴けたとまでは云えない。でも、オーケストラの音には西洋的な洗練のあり、指揮者も端正に縦を揃えてアンサンブルは上手なので、ボロディンの音楽自体は充分に楽しめた。ただ、弦の人数が少なく、相対的に弱いので、管楽器がブカブカ吹き出すと聴こえず、バランスの悪いのが難ではある。でも、これを逆に云えば、フルートやホルンに実力者を揃えて、安心して聴けるとも云える。ロシアっぽい荒々しさに欠けて面白くない、とか言うのは無い物ネダリだろう。“韃靼人の踊り”や幕切れの盛り上がりでの、指揮者のカタルシスの作り方は見事だった。

 ただ、50名近くの頭数のいたコーラスは、バスの弱くてロシアっぽい重厚な響きは皆無。女声も非力で、合唱としてのクオリティは低い。でも、“韃靼人の踊り”での女声合唱はソコソコ綺麗で、バレエ・ダンサーには身体能力の高さがあり、キレのある踊りで楽しめる内容があった。このバレエのレヴェルの高さからも、初来日での力の入れようの分かる気がする。

 僕も二回、補筆改訂版の「プリンス・イーゴリ」を観て、これはボロディンのメロディー・メーカーとしての魅力の詰まった、美しい曲だとは思う。だが、良く言われるように、補筆改訂版は劇的な起伏に乏しい構成で、お芝居としての楽しみに欠けている。もう少し何とか、ボロディンの意図に近い上演は出来ないものか。そうでないと、何度観ても隔靴掻痒の想いの募る、そんなオペラだと感じるのだ。

ワーグナー「タンホイザー」

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<びわ湖ホールプロデュースオペラ/サンディエゴ・オペラ制作>
2012年3月10日(土)14:00/びわ湖ホール

指揮/沼尻竜典
京都市交響楽団
二期会合唱団
びわ湖ホール声楽アンサンブル

演出/ミヒャエル・ハンペ
美術/ギュンター・シュナイダー・ジームセン
照明/マリー・バレット
衣装/ウォルター・マホーニー
振付/ケトゥーラ・スティッキャン

タンホイザー/福井敬
エリーザベト/安藤赴美子
ヴェーヌス/小山由美
ヴォルフラム/黒田博
領主ヘルマン/妻屋秀和
ヴァルター/松浦健
ハインリヒ/二塚直紀
ビテロルフ/萩原潤
ラインマル/山下浩司
牧童/森季子
小姓/岩川亮子/栗原未和/田中千佳子/本田華奈子

 
 今日は一昨年の「トリスタンとイゾルデ」に続く、沼尻芸術監督のヴァーグナー・シリーズ第二弾(順番は逆のような気もするが…)、「タンホイザー」のプレミエ上演。オケピットから序曲冒頭のホルンの旋律が立ち昇ると、パウゼには僕の座る天井桟敷席まで、奏者の生々しいブレスの息遣いが届く。ああ、「タンホイザー」だなぁと、それだけで感激してしまう。「トリスタン」の際もそうだったが、沼尻は特に序曲へ気合を込める。テンポ自体は遅過ぎず中庸だが、何事も最初が肝心とばかりに、猛然とフォワード・ラッシュを仕掛ける。

 その後も指揮者は弛みの無い演奏を続ける。二幕の入場行進曲では最初の内、まあこんなものかと思っていると、リピートがエライ勢いで盛り上り驚かされる。タイトル・ロールが、自分はヴェーヌスベルクに居たと口を滑らせる場面で、沼尻は衝撃的な程に張り詰めた音を聴かせる。ヴァーグナーに“爽やか”と云う表現は、余り相応しくないかも知れないが、でも今日の演奏は本当に軽やかで爽やかだ。京響のオケピットに入ったヴァーグナーを聴くのは久し振りだが、やはり関西では最もヴァーグナーの演奏機会の多いオケで、彼等はキチンとツボを心得ている。今回の「タンホイザー」でも、その実力を如何なく発揮してくれた。

 スコアを当った事の無い僕には分からないが、今回はヴァーグナーのト書きに、徹底して忠実な演出だったのだろうか。「トリスタン」も読替えのない穏当な演出だったが、今回は更にその上を行く、今時珍しい程のオーソドックスと云うか、随分と古臭いスタイルと感じる。

 序曲に続く、ヴェーヌスベルクの場面。具象的な岩山のセットを、赤っぽい色合いの照明で染めた舞台上では、露出度の高い男女のバレエ・ダンサーが、モロにヤッてるトコを描写した振付けで踊る、と云うか睦み合っている。そこへ紗幕を掛けた上、更にモクモクとスモークを焚いて狙う効果は、やや安易と云うか陳腐に過ぎると思う。舞台美術からは絵に描いたような“ありきたり”、振付けからはアダルト・ヴィデオの真似事みたいで“お下品”、と云う印象を受ける。ヴェーヌスベルクから、チューリンゲンの緑深い山中への舞台転換は、照明を赤から青に切り替え一瞬の内に行ったが、これも少し手際の良過ぎて、これ見よがしな芝居臭い工夫と感じる。

 二幕のヴァルトブルク城のセットはお伽噺風の造りで、中世風の衣装も古式床しく、舞台美術には平凡の良さのあり、歌手には音楽と筋立てに寄り添う、手堅い演技がある。故郷に戻ったタンホイザーと、再会した騎士達との和解や、皆の吊るし上げを食うタンホイザーをエリーザベトの庇う場面等、次のストーリー展開を知る観客の期待通りに処理する手際は、良い意味で保守的な演出と感じる。但し、歌手には細かい演技を施しても、その他大勢のコーラスには行き届かず、手を広げ前へ差し伸べるだけの場面の多いのには、やや興醒めさせられる。

 一幕の岩山のセットの再び出て来る三幕は、相変わらずヴェーヌスの出し方など泥臭く、無粋な演出に逆戻りする。その極め付けは、実際に葉っぱの芽吹いた法皇の杖を絵にして見せた事。今時の信者さんでは、聖書の奇跡を歴史的事実と考えるヤツも居ないだろうし、あれは腐敗したローマ・カトリックへの、ヴァーグナーの揶揄と考えるのが普通だろう。芽吹いた杖は如何にも作り物めいて、僕には手品師が懐から取り出す、安物の造花にしか見えなかった。

 昔、ヘネシー・オペラの小澤征爾指揮「オランダ人」で、演出に蜷川幸雄の起用された際、オランダ人船長とゼンダの絵姿が宙を飛ぶ幕切れを見せられ、呆気に取られた記憶がある。今日はアレと並び称されるドン臭い幕切れとして、日本オペラ上演史上の語り草にしたく思う。

 手品の世界にしか有り得ない、歩行補助器具に緑の芽生える挿話は、既成宗教の堕落の比喩的な表現で、それを視覚化する発想は音楽のリアリティも損なう。物理的な奇跡を信じない現代人にも、我が身を投げ出す利他的な行為を信じたい、そんな気持ちはある筈だ。そうであればこそ、エリーザベトの自己犠牲によりタンホイザーの救われる幕切れに、我々聴衆は感動する。杖に葉っぱの生えたから救われるのでは、決して無いのだ。耶蘇教の奇跡を信じない、葬式仏教徒の僕であっても、他人を思い遣る心は信じたい。それこそ「タンホイザー」のテーマであり、ヴァーグナーの音楽の本質と思う。
 
 幕切れでの京響と沼尻の馬力も見事で、「タンホイザー」全幕を立派に締め括り、僕はまた少し涙ぐんでしまった。爽やかで尚且つ、威風堂々とした要素にも欠けない演奏だっただけに、演出に興を削がれたのを残念に思う。ダンサーへの猥褻な振付けは、女性演出補の仕事のようだが、昨年末の「ドン・ジョヴァンニ」の女性演出家からも、僕は同じような匂いを感じた。

 つまり、この二人には性行為を穢れたものと見做す、抑圧されたコンプレックスに共通点がある。それが耶蘇の原罪意識とやらと関係するのかは分からないが、何れにせよ性的な偏向は覆い難く露骨に表れている。性描写は隠微にやればエロだが、見ていてちっとも楽しくないのでは、如何ともし難い。オペラを観に来た積もりで、アダルト・ヴィデオを見せられても、嬉しくも何とも無い。もう少し陽気に明るく、性愛を肯定的に扱えないものかと、僕は実際ウンザリしているのだ。

 沼尻の爽やかなヴァーグナーを聴きながら、これは“ヴァヲタ”さんを怒らせるんじゃないかなぁと、僕はやや不安だった。でも、カーテン・コールでは幸いにもブラーヴォの声だけで、ブーイングは全く聞こえなかった。これが新国立劇場なら、大挙押し掛けたヴァヲタさんのブーイングに、鬱陶しい思いをさせられた事だろう。こんな時、自分のフランチャイズがびわ湖ホールにある事を、本当に嬉しく思えるのだ。

ワーグナー「タンホイザー」

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<びわ湖ホール・プロデュースオペラ/サンディエゴ・オペラ制作>
2012年3月11日(日)14:00/びわ湖ホール

指揮/沼尻竜典
京都市交響楽団
二期会合唱団
びわ湖ホール声楽アンサンブル

演出/ミヒャエル・ハンペ
美術/ギュンター・シュナイダー・ジームセン
照明/マリー・バレット
衣装/ウォルター・マホーニー
振付/ケトゥーラ・スティッキャン

タンホイザー/水口聡
エリーザベト/佐々木典子
ヴェーヌス/並河寿美
ヴォルフラム/大島幾雄
領主ヘルマン/大澤建
ヴァルター/岡田尚之
ハインリヒ/大野光彦
ビテロルフ/加賀清孝
ラインマル/鹿野由之
牧童/福永修子
小姓/岩川亮子/栗原未和/田中千佳子/本田華奈子


 3月11日、あの日から今日で一年が経つ。沼尻芸術監督がマイクを持ち、幕開け前の舞台に現われる。14時46分は一幕二場の牧童の歌辺りになるが、タンホイザーの祈りの心は、必ず被災地に届く筈と挨拶した。チューリンゲンに春の訪れる場面が、その時刻なのも廻り合わせで、僕も被災地の復興を願って祈りたいと思う。

 まず、タイトル・ロールの歌から。プレミエの福井敬は、さすがの豊かな声量が見事で、長いフレーズも楽々と歌い切る声の力が凄い。でも、一幕のヴェーヌスベルクのアリアでは、何時ものように短く切り分けたフレーズへ、スフォルツァンドと云うかクレシェンドと云うべきか、先太りのアーティキュレーションを挟むのを煩わしく感じる。立派な声の持ち主なのだから、もう少し素直に聴かせて欲しい。でも、これも二幕になると、こちらの耳の慣れたのか、或いは音楽自体と噛み合ったのか、結構楽しく聴けるようになる。特にローマ語りはノッペラボーに歌う輩の多く、しばしば退屈させられるが、ここでは福井の小細工が上手くハマり、僕は面白く聴かせて貰った。

 水口聡はイタリアっぽい明るい声と、福井とは違う素直なフレージングは良いが、スピントする高音部が綺麗にスッと伸びず、胴間声みたいになるのが気になる。この人にも声量はあるので、ローマ語りにダイナミズムの変化は付くが、音色の変わらないので面白くない。それと僕の座る天井桟敷席まで、プロンプターの声がウルサイ程に聞こえて、一体何事の起こったかと思う程だった。水口は初役だそうだが、それならもっとプロンプター・ボックスに近寄って歌えよ、とも思う。

 小手先の工夫の多い福井に対し、ヴェーヌスの小山由美には持ち声の良さで聴かせようとする、潔い姿勢がある。ヴァーグナーのツボを心得た歌に、さすがの深い美声と伸びやかな高音で、とても立派なヴェーヌスだった。並河寿美のヴェーヌスにも高音の伸びやかな美声があり、パセティックな情感を込めた歌心がある。本当はヴェルディの、それもメゾではなくソプラノ役で、聴きたい人ではあるけれども。

 エリーザベトは若手とベテランの取り合わせ。安藤赴美子は立派な声だが、フォルテで音色のキツくなる傾向がある。二幕の大詰めでタンホイザーを庇う場面等、そのキツイ声は効果を発揮するが、三幕の“祈りの歌”は音色の変化に乏しく、今ひとつ面白く聴けない。エリーザベトと云うよりトゥーランドット姫みたいで、優しく許すのではなく、先頭に立って厳しく追求されそうな感じもする。佐々木典子は明快なドイツ語のディクションで、自然なデュナーミクを付け、“歌の殿堂”のアリアは軽やかに爽やかに、“嘆願の場”では劇的な重い歌を唱い切り、力のある処も聴かせる。“祈りの歌”は荘重且つ清純な歌で、三曲を的確に分析して唱い分ける、誠に真っ当なヴァーグナー・ソプラノと評価したい。

 ヴォルフラムは黒田博の硬質なバリトンが役に嵌まる。剛毅な声は実直なお人柄を表しているようで、“夕星の歌”にやや甘さは欠けるが、これはこれで良かったと思う。大島幾雄は声に特色の無く、存在感が希薄。寄る年波かヴィブラートもキツ目で、声自体に華の無いのが辛い。

 ヘルマンの妻屋秀和は、何と云ってもガタイが良い。チビッ子騎士五人組から頭ひとつ抜け出し、一人だけ大人の混ざったようで、その立ち姿に風格がある。勿論、何時も通りの貫禄の声で、舞台を引き締めてもいる。大澤建は一応キチンと歌っているが、最低音のカスれて、領主らしい威厳に欠ける。去年、やはりびわ湖ホールで聴いたファルスタッフ役はソコソコ良かったので、恐らくブッファ向きの声なのだろうと思う。

 14時46分に歌われた“牧童の歌”は、訪れる五月を歓迎し、春と豊穣の女神ホルダ(別名ヴェーヌス)を讃える歌とされる。五月の到来を祝うメーデーは、11月のハロウィンと共に、寒暖の交替を告げる西欧の祝祭で、耶蘇のイースターにやや遅れて開催される、古代ゲルマンを起源とする異教の祭りである。メーデーの前夜祭“最初のヴァルプルギスの夜”は、メンデルスゾーンの同名カンタータと、ムソルグスキー「禿山の一夜」でお馴染みだが、これは魔女の酒宴で単なる乱痴気騒ぎ。対する「タンホイザー」の“牧童の歌”は、大地に恵みを与える春への頌歌である。

 春の訪れと共に、大地に祝福を与える女神ヴェーヌスは、枯れた教皇の杖を甦らせる生命力の象徴でもある。冬枯れした野山が春に甦える事自体、自然の力の起こす奇跡だろう。東日本大震災から一年となる日に、「タンホイザー」を上演する巡り合わせであれば、荒れ果てた大地に緑を芽吹かせ、被災地の復興を暗喩する、そんな演出の工夫があっても良かったと思う。今回の演出は何でもかでも絵解きして見せて、リアリズムの上に何かヘンなものの付くと、僕には感じられた。

 昨日の森季子も清澄な声で“牧童の歌”を聴かせてくれたが、今日の福永修子もレジェーロな声で、鎮魂の思いを込めたような柔らかい歌だった。牧童は本来ボーイ・ソプラノの役処だが、今回の女声二人にも良い歌心のあって、被災地の復興を素直に願える場面となったように思う。

第5回声楽アンサンブルコンテスト全国大会

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<響く、つながる、みんなの想い。>
2012年3月23日(金)10:00/福島市音楽堂

 NHKと合唱連盟のコンクール全国大会が終わると、中学・高校の部活では三年生が引退し、一・二年生による新体制での活動を始める。その謂わばコンクールのシーズン・オフに、年末から年明けに掛けて少人数によるアンサンブル大会を行い、三年生の抜けた後の下級生の実力向上を図る。僕はアンサンブル大会の開催趣旨を、そんな風に理解している。

 おっさんオバハンの素人合唱団にシーズン・オフもヘッタクレも無いし、良い歳して技量を磨くと云っても手遅れだが、伸び盛りの若者を重視する福島であれば、全国に先駆けアンサンブル大会を開催したのも故無しとしない。そんな訳で今から三十年近く前、最初にアンサンブル・コンテストを始めたのが福島県合唱連盟で、その後このテの大会は全国に広まる。開催の趣旨が趣旨なので、各府県大会しか行われていなかった処、唐突に全国大会の開催を合唱連盟東京本部ではなく、福島県庁の主催で始めたのが五年前の話。従って開催会場は毎年、福島市音楽堂と決まっている。福島の土地柄で音楽活動に対し、行政は矢鱈に熱心で支援も手厚い。大阪とはエライ違いやなぁ…と、大阪府民としては忸怩たる思いである。

 昨年も今年と同様、第四回大会の開催が予定されていた。だが、まだ震災から一週間余りの福島市内では、生活インフラのストップしたままの状況で開催の術も無く、大会は中止の已む無きに至る。来年の大会を準備するにも時間は無く、直ちに走り出さねば間に合わない。そもそも、放射線量の下がる見込みの無い、福島に人の集まるのか?と不安視する声もあり、再び中止の意見も挙がる中、震災からの復興にも音楽は必要との観点から大会開催は決定される。声楽アンサンブル全国大会は二年振りに、福島市音楽堂で行われる。

 大会は木曜日の中学校を皮切りに、翌日の金曜日に高校、三日目の土曜日に一般の三部門を行った後、最終日には各部門の上位五団体による決戦大会が行われる。中学と一般に興味の無い僕は(ああ云うのを聴き通すのは、一種の我慢大会と理解している)、高校部門を聴くため夜行バスで、金曜日の早朝に福島市へ到着した。


石川県立金沢錦丘高校合唱部(女声7名)
ミクロシュ・コチャール「Salve Regina 天の女王」
Ola Gjeilo:Ubi caritas
 コチャールでは不協和なハーモニーを鳴らせて、なかなか美しい演奏。但し、ピアニシモでソプラノはカ細い声となり、アルトの音程も浮き勝ちで、ヒヤッとさせられる。でも、二曲共に音域の低く、朝一番の緊張感の中でも、みんな一応は落ち着いて歌えた。ハーモニーの厚味に祈りの心を感じさせ、最後のアーメンも綺麗に決まった。

福井県立高志高校合唱部(女声15名)
信長貴富「通りゃんせ/ずいずいずっころばし(七つの子ども歌)/
かんかんかくれんぼ(和歌山のわらべうたによるコンポジション)
 この人数でダイナミク・レンジを広く取り、縦を良く揃えて立派な演奏だが、やや生真面目に過ぎて遊び心が足りない。最後の曲に簡単な振りを付ける工夫はあったが、指揮者無しのアンサンブルに、テンポ・ルバートを望んでも無理だろうし、音色の変化しないのも辛い処ではある。高音部の如何にもキツそうで、歌う姿からして楽しそうに見えず、まずは喉の力を抜いた頭声を身に付けて欲しい。

奈良県立畝傍高校音楽部(女声16名)
指揮/藤井本加恵
ミクロシュ・コチャール「Sanctus/Benedictus」(ミサ曲イ長調)
コンスタンツォ・フェスタ「Madonna io prendo ardire 愛しい人に語る勇気を」
木下牧子「歌」(わたしは風)
 コチャールは徐々に盛り上げ、最後の山場まで持って行く、至極シンプルな音楽作りで、これに果たして指揮は必要かと疑問に感じる。また、頭声に入り切らず、フォルテシモでは能力的な限界も聴こえる。フェスタでの指揮者にマーチ風のリズム感のあり、えっちらおっちらとマドリガーレを進める印象を受ける。三曲の取り合わせは全く意図不明だが、木下には適切な情感のあったので、一応それで諒としたい。

清教学園高校合唱部(大阪府・女声6名)
指揮/安藤浩明
Javier Busto:Ela!ela!/Alimu!alimu!/Zapata txuriak
プーランク「Ave verum corpus」
メキシコ民謡「Las Amarilas」
 ブストでは技術的な未熟の明瞭で、声のテクニックでは変化を付け難い。六名の生徒の実力目一杯の演奏は評価するが、プーランクでも指揮が音楽に何かを付け加えたようにも思えず、それならば指揮者は不要と思う。最後の民謡は指揮者無しで、フラメンコ風の手拍子と振りを付け、とても楽しそうに歌えて、これにも何だか釈然としなかった。

大阪信愛女学院高校合唱部(女声16名)
指揮/佐藤謙蔵
スヴェーリンク「Lascia Filli mia cara 愛するフィリスよ」
三善晃「かいだん1」(詩の歌)
ペッカ・コスティアイネン「Satakieli 小夜鳴き鳥」
 スヴェーリンクは太い声と、グリッサンド気味にズリ上げる音程に違和感はあるが、適切なテンポと変化の付け方のある全うな解釈。三善でもパート内部の音程の不揃いな太い声で、曲に必要な透明感の無く、リズムを粘るのも問題。そもそも、指揮者が大振りし過ぎる濃厚な音楽作りで、それは最後のカンカイネンになら合わない事も無いが、同じ調子で全部やられたのでは、聴かされる方は堪ったものではない。

岡山県立総社高校合唱部(男声8名)
松下耕「津軽じょんがら節(日本の民謡第3集)/八木節(日本の民謡第1集)」
 奇妙なオノマトペを多用する編曲は理解不能だし、弱音の緩徐部分での声の非力は明らか。それでも、八名の男声の自発性で聴かせてくれるし、曲間の余韻の取り方も上手い。だが、この“ダバダ”のリフレインをテーマとした編曲を、僕は生理的に受け付けない。どうせ日本民謡を取り上げるのなら、こんな如何にも下品なシロモノではなく、三木稔や小山清茂や間宮芳生等、偉大な先達の業績を振り返って頂きたく思う。

香川県立坂出高校合唱部(女声16名)
指揮/前田朋紀
Siegfried Strohbach:Ave Regina coelorum
Eris Esenvalds:O salutaris hostia
 ハーモニー自体は美しいが、力で押す傾向のあるので、もっと頭声を意識してソット・ヴォーチェを効果的に使いたい。重目の音色は変化せず面白くならないので、せめてテンポとダイナミク・レンジで変化を付けたい。二曲目にソリストの二人出て来て歌い出し、こいつ等が音色の変わらない元凶と判明する。ソリストに高校生離れした力量はあると思うが、まだ若い二人に熟成の足りないのは、致し方の無い処ではある。

愛媛県立西条高校合唱部(女声11名)
指揮/永井紀夫
Otmar Macha:Ho-ja-ja,ho-ja-ja/Hoj,hura hoj!
Michael Bojesen:Gloria
 声の出し方の真っ直ぐな上、段階的に音量を変えるだけの、単調な音楽作りに終始する。テンポの揺れも、デュナーミクの工夫も無く、何の味わいも無かった。

九州学院高校音楽部(熊本県・女声12名)
指揮/田島美穂
Nancy Telfer:Kyrie/Gloria/Sanctus〜Missa Brevis
 フォルテでは纏まるが弱音の非力で、九州らしい声の力強さは無い。元来が大して内容のある訳でもない、この曲が何故しばしばコンクールで取り上げられるのか、僕には良く分からない。このミサ曲を面白く聴かせるのは、かなり難しいと思う。

県立宮崎大宮高校音楽部(混声11名)
木下牧子「なにをさがしに」(絵の中の季節)
松下耕「松山のお稲荷さん/いろはにつねこさん」(アカペラ・エチュード2)
 木下では直線的な発声の為、やや個々の声の聴こえて来て、表現も一面的に感じる。わらべ歌も甚だ生真面目で、お遊戯を入れても楽しそうには見えず、もっとスィングを心掛けたい。指揮者無しで横一列の並び方にも、一考を要すると思う。

市立鹿児島女子高校音楽部(女声10名)
福島雄次郎「憩い/陽気な娘たち」(南島歌遊び)
ジョルジュ・オルバーン「Andi Voces 我等の声を聞き給え/
Deamon irreppit Callidus 忍び寄る悪魔」
 アンサンブルの精度も高く、十名で指揮者無しの自発性のあれば、この曲もソコソコ楽しく聴けるし、九州の濃厚な声に合う曲と改めて感じさせる。オルバーンも福島と同じ歌い方で処理して、演奏は自ずから似て来るが、それよりも特殊なイントネーションを生かす両者の、根っ子の部分に通ずるもののある事が分かる。この組み合わせに理のある事を納得させられた。

沖縄県立浦添工業高校合唱部(混声16名)
指揮/西田都
木下牧子「ロマンチストの豚」
信長貴富「しあわせよカタツムリにのって」(旅のかなた)
松下耕「子ども」(子猫物語)
 木下は女声五名、信長は混声九名での演奏。声の出し方の真っ直ぐで味わいも何も無いが、常に旋律を歌うソプラノに、結構センスのあって聴かせる。この辺り、ドヴォルザークかチャイコフスキーのカルテットみたいで楽しい。だが、最後の松下だけ女声十名に指揮を付けると、フツーの合唱曲の演奏になり、全く面白くなくなった。

第5回声楽アンサンブルコンテスト全国大会

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<響く、つながる、みんなの想い。>
2012年3月23日(木)10:00/福島市音楽堂

 上の写真は音楽堂のお隣りにある酒屋で稲荷屋さん。福島で大阪弁を喋る僕を、あなた関西から来たのでしょうと見破った奥様は、京都のご出身だそうだ。このお店を一見した処、単なる町場の酒屋さんだが、実はシングル・モルトの品揃えでは全国有数なそうな。しかし、こんなお店が音楽堂の傍にあるとは、今まで全く気付かなかった。ご主人に何でシングル・モルトなんですか?とお尋ねすると、私が好きだからと云うシンプルなお答えだった。でも、幾ら好きでも売れないと続かないでしょうと言うと、ご主人は良く売れます!と力強く仰った。その節は本当に失礼を申し上げました。


青森県立八戸東高校音楽部(女声16名)
指揮/上村祐子
ヴィクトリア「Natus est nobis 我等に産まれし」
Ulo Vinter:Kellad
Gustav Emesaks:Sireli,kas mul onne
 息漏れの聴こえる発声は気になるが、祝祭的で華やかなヴィクトリアの演奏。他の曲も軽快なリズムで、柔らかいハーモニーも心地良く、音楽作りに自発性がある。三曲共に音域的に無理のない選曲で、的確にデュナーミクの起伏を捉え、曲に含まれる情感を引き出した。

岩手県立盛岡第一高校音楽部(混声16名)
ピアノ/阿部ゆり子
ジョン・ラター「When daisies pied 春」
Frank Ticheli:Earth song
黒人霊歌「Wade in de water 浅瀬を渡れ」
 アップ・テンポでポップス調の曲には伴奏も入り、聴いていて縦横の揃っているのか良く分からなかった。テンポの遅い二曲目はバスの低音を効かせ、厚味のあるハーモニーでキチンとハモらせるが、もう少し何か工夫しないと面白くない。最後のニグロはノリも良く、音色も整って綺麗で、僕はこれだけ気に入った。

秋田県立湯沢高校音楽部(女声6名)
パレストリーナ「Jesu rex admirabilis 賛美すべき王者キリスト」
ヤーコブ・ガルス「Haec est dies この日こそ」
 二曲ともホモフォニックな曲なのを、やや肩透かしに感じる。美しいハーモニーはあるが、声を出すと真っ直ぐそのままなのと、拍節を揃えるクセもあるので、もっとレガートを意識して欲しい。

山形県立鶴岡南高校音楽部 Undecided(混声16名)
指揮/阿部隆幸
ジョン・ベネット「Weep,O mine eyes 涙せよ我が瞳」
モーリー「Fyer,fyer! 燃える我が心」
 ベネットは情感タップリだがハーモニーに溺れ、ポリフォニックな線は今ひとつ出て来ない。モーリーはマドリガルの様式を的確に把握し、ポリフォニックな構造を明瞭に聴かせる。ただ、この曲は更に速いテンポが望ましく、テノールの生な声も気になるので、カウンター・テナーの起用も検討したい。もう一曲やる時間の余裕はあったので、この先生の指揮するマドリガルを、もっと聴かせて欲しかった。

宮城県古川黎明高校コーラス部(女声13名)
指揮/佐藤亮
Levente Gyongyosi:Cantate Domino
大田桜子「虹の輪の花」
 ノリを大事にしてリズミカルな宗教曲を取り上げたが、その代わり少人数の音色の良さは犠牲になるので、両者のバランスを追及したい。大人数指向の邦人曲を13名でこなす、その技術力は評価するが、一音一音を押し過ぎで表現の生になるので、もっとレガートなフレージングを作りたかった。

八千代松陰高校合唱部 Zephyr(混声16名)
指揮/藤平華子
Eric Whitacre:I will wade out/Hope,faith,life,love/With a lily in your hand
 メンバーの舞台上に広がる配置は、音像に広がりの出て効果的。無内容な曲でも、ハーモニーの色合いの変化は良く捉えている。ただ、高音部のフォルテに力の入り過ぎで、もっと声をホールに共鳴させるよう意識して欲しかった。

千葉県立船橋高校合唱部(混声16名)
指揮/吉田智恵子
ガストルディ「Amor vittorioso 愛の勝利」
Matti Hyokki:On suuri sun rantas autius
Guido Lopez-Gavilan:El guayaboso
 男声六名で演奏するガストルディから、溌剌とした自発性を感じた。他の二曲にも頭声の柔らかいハーモニーがあり、対比の際立たせ方も上手い。最後の曲でカンカンキンキン云うのも面白かったし、曲に即応したリズム感のある、内容を良く咀嚼した演奏で、僕は楽しく聴かせて貰った。

山梨県立市川高校音楽部(女声16名)
指揮/薬袋直哉
ジョルジュ・オルバーン「Ludvercz 鬼火/Hajnalban 夜明けに」
Jenny Wihelms:Hjaoningarima
 遅いテンポで粘り過ぎる上、先太りの声の出し方に違和感のあり、もう少しテキパキやって欲しく思う。アンサンブルの目的も、指揮者の意図も今ひとつ不分明で、平板な演奏になってしまった。

長野県伊那弥生ヶ丘高校 Yayoi ensemble ladys(女声11名)
指揮/高橋健美
ラヨシュ・バルドッシュ「Magos a rutafa 大きなルタの樹」
 アルトに支えられた力強いハーモニーのあり、人数分以上の迫力はあるが、もう少し抑えたピアニシモも欲しい。音色の変化に乏しいのも、単調さの要因となっている。

浜松市立高校合唱団 Awesome(女声11名)
ヴェルヨ・トルミス「Tuisk 冷気/Kulm ブリザード」
木下牧子「春は来ぬ」(春二題)
 トルミスは四曲全部やってナンボの曲と思われ、この二曲だけやっても意図不明となる。その後に木下をやるのも腑に落ちず、一体何をしたいのか、僕には理解不能。高音の伸びない技術的な不足もあって、音楽に工夫と云うものが無かった。

愛知高校女声合唱団(女声16名)
指揮/吉田稔
ヨーゼフ・カライ「Ejszaka 夜」
 ド迫力で来る、コッテリ厚塗り厚化粧の音楽作りで、コケ脅しを志向する指揮者に全く共感出来ない。元来が効果のための効果を狙った曲で、もう少しフツーに出来んものかと思う。少人数アンサンブルでは、頭声の美しいハーモニーを基本にすべきと、痛感させられる。

岐阜県立岐阜北高校コーラス部(女声11名)
信長貴富「なみだうた(なみだうた)/村の鍛冶屋(ノスタルジア)」
 わらべ歌みたいな曲が、高校生が気持ちを込めて歌うのに打って付けで、情感に溢れて楽しく聴けた。トカトントンのオブリガード付きの鍛冶屋の歌も、キリキリ揃えるのではなく、柔らかく合わせて楽しかった。

<審査員個別順位>
ボブ・チルコット(作曲家)
1.鹿児島 2.郡山女声 3.福島A 4.浜松 5.市川 6.信愛 7.橘B

伊東恵司(合唱指揮者)
1.愛知 2.黎明A 3.坂出 4.郡山女声 5.福島B 5.市川 7.福島東 8.信愛 8.福島A 8.浜松 11.橘A

今井邦男(合唱指揮者)
1.郡山混声 2.郡山女声 3.黎明A 4.黎明B 5.愛知 6.橘B 7.福島A

岸信介(合唱指揮者)
1.安積A 2.愛知 3.黎明B 4.郡山女声 5.福島B 6.福島東 6.八戸東

高嶋みどり(作曲家)
1.愛知 2.郡山女声 2.鹿児島 4.福島B 5.八戸東 6.橘B 7.福島A

高橋啓三(バス・二期会会員)
1.郡山女声 2.黎明B 3.黎明B 4.優良賞 5.愛知 5.坂出 5.郡山混声 8.信愛 9.福島B 9.八千代

藤井宏樹(合唱指揮者)
1.郡山女声 2.八千代 3.愛知 4.市川 5.信愛 6.浜松 6.浜松 8.黎明B 9.鹿児島 10.福島B 10.橘A

<決定順位>
1.郡山女声 2.愛知 3.黎明A 4.福島B 5.市川(以上、本選進出) 6.黎明B 7.福島東 8.坂出 10.鹿児島 11.信愛 12.福島A 13.浜松 14.橘B 15.郡山混声 16.橘A 17.八千代 18.八戸東

第5回声楽アンサンブルコンテスト全国大会

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<響く、つながる、みんなの想い。>
2012年3月23日(木)10:00/福島市音楽堂

県立福島高校A(男声11名)
指揮/石川千穂
木下牧子「虹/いつからか野に立って」(いつからか野に立って)
Marius Loken:Flyteljod
 弱音で柔らかく響かせようとするハーモニーは良いが、トップ・テノールの高音は喉声でやや聴き苦しい。声を出した後、軟口蓋を広げ過ぎ、伸ばした音をコントロール出来ていない。男声合唱では抑えたピアニシモの美しさの問われるべきで、まずは倍音を味わって欲しい。出来れば最後の曲のようなヘンなのを、もっと聴かせて欲しかった。

県立福島高校B(女声14名)
指揮/石川千穂
ミクロシュ・コチャール「Fog/Nocturne/Valley song」
(サンドバーグの詩による六つの女声合唱曲)
Damijan Moenik:Kralj
 大人数でやるべき音楽を、少人数分に縮小した印象しか受けず、音色も平凡で輝かしい声や、ハッとさせられる美しいハーモニーは無い。指揮者の曲作りの工夫は分かるが、それではアンサンブルの良さは味わえない。解釈も音色も、何れも中途半端に感じられた。

県立橘高校合唱団A(女声12名)
指揮/大竹隆
ビュセール「Ave Regina/Regina caeli/Salve Regina」(三つのアンティフォナ)
 アンサンブルのハーモニーで聴かせるのではなく声で聴かせ、さらりと美しい中に情感を滲ませる演奏。指揮者のデュナーミクの指示と、山場への持って行き方は、さすがに堂に入っている。三曲の歌い分けも的確で、最後の曲の盛り上がりも、前の二曲での地均しのあってこそと思う。

県立橘高校合唱団B(女声12名)
指揮/大竹隆
Javier Busto:Alleluia
ヴェルディ「Laudi alla Vergine Maria」(四つの聖歌)
 柔らかいピアニシモはあるが、フォルテの響かせ方がこのホールには強過ぎる。巧みなデュナーミクを作る、この学校の何時も通りの音楽作りは巧い。良くも悪くも顧問教諭の普段着の演奏で、それがコンテストに相応しいのかは、意見の分かれる処だろう。

県立福島東高校合唱団(混声10名)
指揮/星英一
チェロ/村越千里
シュッツ「Erster teil swv.88/Zweiter teil swv.89/
Dritter und letzer teil swv.93/Cantate Domino」(カンツィオーネ・サクレ)
 とにかくシュッツをやった事自体、最大限に評価したい。何が難しいと云ってコーア・ムジークとか、カンツィオーネ・サクレとか、日本人にとって最も難解な分野と思う。それを前提に言うのだが、十人の高校生の演奏で声の非力は明らかだし、案の定みんなシュッツの晦渋に溺れ、音楽への理解度は心許無い。それでも比較的に分かり易い曲で、歌の楽しさは伝えてくれた。チェロの通奏低音は効いていたので、もっと大きな音を出しても良かったと思う。

郡山女子大附属高校A(女声12名)
指揮/榊枝まゆ美
オルガン/横溝聡子
Rihards Dubra:Ave Maria 2
フォーレ「Kyrie/Benedictus」(小ミサ)
 アヴェ・マリアはサラリとアカペラで歌う。フォーレではソプラノのソリストに情感のあり、曲の雰囲気を良く掴んでいる。アルト・ソロはオペラっぽく、やや清澄さには欠けても良い声はしている。これを要約すると、コーラスはソリストの伴奏に徹する演奏だった。

郡山女子大附属高校B(女声13名)
指揮/榊枝まゆ美
Franz Biebl:Ave Maria
ヨーゼフ・カライ「Hodie Christus natus est 今日キリストは産まれた」
 アヴェ・マリアの導唱の不安定な声に、おやっと思う。三つの部分の最後を盛り上げる構成だが、もう少しデュナーミクを工夫し、細部を彫琢したい。ソプラノに奔放に歌う子の一人居て、この子を中心としたアンサンブルに、好悪は分かれるかも知れないが、僕は悪くないと思う。

県立安積黎明高校合唱団A(女声15名)
指揮/宍戸真市
ピアノ/五十嵐彩夏
鈴木輝昭「宇宙の滴りをうけて」(譚詩頌五花)
高田三郎「機織る星」(遥かな歩み)
 広いダイナミク・レンジと多彩な音色の変化があり、最弱音には厚味を感じさせる程で、ピアニシモの小ささを効果的に使う、精緻なアンサンブルがある。サブローも技術的なレヴェルの高く、しっとりと聴かせる。ただ、三年前の課題曲としての演奏に感動した身としては、こんなもんかと云った処。

県立安積黎明高校合唱団B(女声13名)
県立安積黎明高校クラシック部(13名)
指揮/宍戸真市
ラインベルガー「Kyrie/Gloria/Agnus dei」(ミサ曲イ長調 op.126)
 長いフレーズのアーティキュレーションで、デュナーミクに工夫を凝らし、清楚な表現を追及する。そんな清潔感のあるのは良いが、更にダイナミク・レンジを広げ、音楽の輝かしさや濃厚でロマンティックな表現等も欲しい処だ。単純な構造の曲で、明確な個性を打ち出すのは難しい。オケは十名の弦楽合奏に、フルートとポジティーフ・オルガンを加えた編成。でも、これは合わせて26名の声楽入り管弦楽演奏で、大編成アンサンブルと呼ぶのが相応しい。

県立郡山高校女声合唱団(女声15名)
Steinar Eleisen:Vandrestjerner
Wolfran Buchenberg:Spuruch,um des echos sdhatten zu beschworen
 アルトの支えのしっかりして、ソプラノも伸びやかに歌えている。輝かしいフォルテシモのハーモニーも素晴らしいが、ピアニシモの音量の充分に小さいのも凄いし、最大から最小まで音量を落として、広いダイナミク・レンジを駆使する、声楽技術的なレヴェルは高い。早いテンポの中、指揮者無しで縦を合わせる技術もあり、フレーズを伸ばすと情感の揺れる、音楽的センスにも優れている。全体を見通した設計のあるので、二曲の歌い分けもキチンと出来て、全く非の打ち処の無い見事な演奏だった。

県立郡山高校合唱団(混声15名)
Javier Busto:Ametsetan
Vytautas Miskinis:Cantate Domino
 男声に弱音で柔らかく響かせようとする意図のあり、遅い速いの二曲の対比もあって、美しい混声のハーモニーを作った。指揮者無しで緩徐部分のややダレるのは致し方無いが、その辺りにもう一工夫の欲しい処ではある。むしろ速い曲を並べた方が良かったのかも知れない。

県立郡山東高校混声合唱団(混声10名)
セルミジ「Tant que vivray 花さく日々に」
パスロー「il est bel et bon うちの亭主はお人好し」
ジャヌカン「La Chant des oyseaux 鳥の歌」
 結構フランス語らしく聴こえるし、シャンソンのスタイルはキチンと把握出来ている。でも、時々日本語のイントネーションを感じるので、もっとデュナーミクに工夫を凝らしたい。若干リズムを引き摺るクセのあるので、もっと軽やかに歌いたいし、パートの線も更に際立たせたい。この学校は指揮者の入ると捏ねくり回すが、生徒さんだけのアンサンブルは素直に歌え、好感を持てる。メンバーが気合を入れてテンションの高い、とても美しい「鳥の歌」だった。バスの発声は聴いていて面白いけれど、ジャヌカン・アンサンブルの真似はせず、普通にやる方が良いと思う。


 
 この大会は福島県が主催者なので、全国的に組織された予選は行われない。そこで合唱連盟の各県支部から推薦を募っているが、県大会一位でも出場を辞退する学校があるらしい。今年は福島市内の放射線量の問題もあり、県でも二番手か三番手の学校の、繰上げ出場が多いようだ。また推薦とは別に録音による、公募審査を行い頭数を揃えるが、今回は見事に県内の学校ばかりとなり、全国大会だか福島県大会だか良く分からないような顔触れとなっている。

 初めてアンサンブル・コンテストを一日聴き通し、各校の全国大会へのアプローチは、結構バラバラとの印象を受けた。参加資格の上限である16名を動員し、必勝の信念を漂わせる学校もあれば、アンサンブル大会は遊ばにゃ損と、妙に楽しそうな学校もある。NHKや合唱連盟の全国大会でお馴染みの校名は少なく、僕は初めて演奏を聴く学校が多い。全国大会常連校と呼べそうなのは、安積黎明と橘だけと云って良いかと思われる。

 その地元二校は、それぞれ二チームを出しているが、これは在籍する一・二年生部員を二等分しただけのようだ。曲目も七月の定演用プログラムらしく、その準備として早目に譜読みを済ませる意図を感じる。両校のコンテスト出場には、遠来の聴衆への歓迎演奏の意味合いが濃く、金賞至上主義的な雰囲気は感じられない。そもそも、全国と名の付く大会は初めてと思しき学校が多く、彼等にも修学旅行気分は色濃い。

 演奏レヴェルにもデコボコがあり、しかも多様なアプローチの演奏のある中、審査員は何を基準に順位を決めるのか、聴き終えた直後の僕には見当も付かなかった。でも、結果を見れば一目瞭然にして単純明快。合唱プロパーの審査員達は、アンサンブルの楽しみなどには一顧も払わず、何時も通りの“合唱審査”で上位五団体を選んだのだ。合唱を生業とする彼等にすれば、自分の職務を粛々と遂行しただけで、この面白くも痒くも無い審査結果も、当然と云えば当然だった。

 どうせこの調子で他部門からも代表を選ぶのだろうし、僕は最終日の決戦大会まで滞在するのが嫌になって来た。だが、ホテルには連泊でチェックインしているし、帰路のチケットは購入済みで、後悔は先に立たずである。主催者側には同じような顔触れの、合唱指揮者ばかり審査員に選ばず、もう少し目新しい人選を要望したい。そうでないとアンサンブル大会開催の趣旨自体、曖昧になるように思う。

福島に桃源郷あり〜花見山を歩く

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 今回の福島行きは最初から予定していた訳ではない。土曜日はびわ湖ホールで、小澤征爾音楽塾の「蝶々夫人」を聴きに行く積もりで、既にチケットも買っていた。昨年のサイトウ・キネンでも小澤のドタキャン騒ぎがあり、宝くじを買うような気分ではあったけれども。

 それが先月、小澤が肺炎で入院したのを受け、予後の体調を考慮し「蝶々夫人」は演奏会形式で、それも三幕までは副指揮者の振り、小澤は四幕のみ振る事に決まったと伝える、主催者からのお手紙が僕の元に届いた。希望者の払戻しには応じるとの事で、そんなケッタイな公演は御免蒙りたいと、僕は手許のチケットを送り返す手続きを済ませた。それから殆ど間も置かず、一転して小澤は一年間の休養に入り、公演自体を中止すると発表される。

 四幕だけ自分が振るなんて、僕のような凡人には理解し難く、これは希代のカリスマ小澤征爾の面目躍如ではあっても、その発想は相当にズレていると思う。小澤は根っからの音楽バカで、本人に問えば這ってでも出ると言うに決まっている。勿論、これは自分の体調を客観的に把握出来ない小澤本人の責任だが、それに振り回されるだけの取り巻きに、ロクな奴の居ないのも良く分かり、只もう呆れる返るしかないドタバタ騒ぎだった。

 そこで宝くじに外れた僕は、福島までアンサンブル・コンテストを聴きに来た訳だ。金曜日のコンテストを終えて音楽堂を出ると、外は土砂降りの雨だった。昨夏も訪れた岸波酒店に立ち寄り、豊国・純米袋取り生原酒の一升瓶をお買い上げ、これを抱えて雨の中をトボトボ歩きホテルに帰り着く。翌朝の土曜日、目を覚ましてカーテンを開けると、何と外は一面の銀世界。夜半に雨は雪に代っていたのだ。しかし、もうお彼岸も過ぎたと云うのに、ここは裏日本か!と驚く。今日も音楽堂では一般部門のコンテストを行うが、それを暇潰しに聴くのも気の利かない話だし、今日は市内の散策に出掛けようと思う。

 「福島に桃源郷あり」は、花と女性のポートレイトを得意としたカメラマン、故・秋山庄太郎の言葉。花見山公園は福島市の南東郊外にあり、春を迎えると梅に桃に桜等、様々な花々が次々と咲き乱れ、正しく“桃源郷”の趣を呈する(らしい)。毎年のシーズンには二十万人を超える、行楽客の訪れる花見の名所だった。

 だが、昨年3月15日の二号機と四号機の爆発により、フクシマ・ダイイチから大量に漏れ出した放射性物質は、折から吹き出した西北西の風に運ばれ、山脈沿いに平地と谷を進み、六十キロ離れた福島市に漂着、滞留する事となる。花見山のある渡利地区は“ホット・スポット”となり、昨年の花見客は九万人まで激減した。花見山公園は公共施設ではなく植木畑で、園芸農家の善意により商品としての花々が無料公開されている。勿論、この気候で花の咲いている筈も無いが、福島の現状を肌で知りたいと思い立った僕は、ホテルから徒歩で花見山へ向かった。



 阿武隈川を右岸へ渡ると、閑静な住宅街である渡利地区に入る。でも、幾らホット・スポット呼ばわりされても、放射線は目に見えず、渡利の古い町並みは穏やかな佇まいを保っている。道路沿いに見掛けたスーパー・マーケットに入ってみると、青果類には必ず産地表示があり、県内産は全く見当たらない。勿論、空間線量を下げる努力も必要だが、それよりも内部被爆の方が恐ろしく、口に入れる物には神経質になっている様子の窺える。でも、米だけは辛うじて会津産の置いてあるのと、酒売場にある日本酒の銘柄は「末廣」やら「大七」やらで、見事に県内の酒蔵のものばかりだった。地元の酒呑みは銘柄に関し、本当に頑固と感心する。



 小一時間テクテク歩き、花見山の麓に辿り着く。広い駐車場の向こう、坂道の下辺りにお揃いの黄色いジャンパー姿の人達が集まり、ミーティングをしている様子。近付いて見ると、この皆さんは観光ボランティア・ガイドだったので、花見山への道を尋ねると、お一人の男性が途中まで案内して下さった。今日はボランティア初日だそうで、まだ花の咲いていない現状を把握し、来るべき観光シーズンに備えるご様子だった。今年は放射線量問題を奇禍とし、長年に渡って観光客に踏み固められて来た農地を、養生したいとの持ち主の意向で、花見山公園本体は非公開とされている。

 ボランティアの男性の話によると、三月も末近いのに梅すら咲かないのは本当に異例だそうで、農家の方によれば梅も桃も桜も一時に咲くだろうとの予想らしい。雪に驚いたと僕が言うと、いや私達も驚きましたと仰っていた。花が一斉に満開となれば、それこそ“桃源郷”そのままだろうし、そりゃまあ僕もその頃に来たかったとは思うが、今日みたいな観光客は僕だけの状況も悪くは無いと思う。しかし、咲いてる花は山茶花と福寿草だけって、まだ福島は真冬なんかいな…。



 坂道の途中でボランティアの男性にお礼を申し上げて別れ、福島市街を見下ろす高台まで登り、暫くボンヤリと風景を眺めた後、僕は麓への道を下った。どうせ花は咲いていないし、花見山に入れても入れなくても、まあどうでも良い。でも、天辺まで行かなかったので時間が余る。まだ日は高く、ホテルに戻っても仕方ないし、次の目的地として弁天山公園を目指す事にした。山を下りて住宅地に出ると、若いお母さん達が幼い子供を連れ、集まっている保育園に行き当たった。そんな光景を見ると、やはり気分は重くなる。

 弁天山は福島市街地の南方二キロ程にある、桜と紅葉の名所らしい。地元でも余り知られていない、超穴場観光スポットだそうだが、まあ僕の登ってみた処では、単なるご近所さんの犬の散歩コースのように思う。ただ、頂上の展望台からは、福島市街を一望の下に見渡せて、この景色は花見山よりも良いように思う。



 でも、展望台を降りると、空間放射線量計を見付けてしまった。毎時1.153マイクロシーベルトだと、年間被爆量は5ミリシーベルトかぁ…。高い事は高いけど、何と云ってもホット・スポットなんだし、こんなもんかとも思う。しかし、ここには観光客の来ないと思って、こんな物をコッソリ置いてるんですなぁ。まあ、せっかく桃源郷に遊んでるのに、わざわざ花見山にこんな物を置いて現実に引き戻すのも、どうかとは思うけれども…。

第5回声楽アンサンブルコンテスト全国大会

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<本選>
2012年3月25日(日)10:00/福島市音楽堂

 コンクールに対する至極真っ当な、それでいて最も下世話な興味。つまり「それで結局、ホンマに一番上手いのは一体どこやねん?」と云う、誠にシンプルな問い掛けに対し、果たして回答は有り得るのか。中学・高校・一般の三部門から選ばれた、15団体がガチンコで激突する、今日は本選が行われる。

1.福島県立安積黎明高校合唱団A(女声15名)
指揮/宍戸真一
ピアノ/五十嵐彩夏
鈴木輝昭「宇宙の滴りをうけて/きみ待つと」(譚詩頌五花)
高田三郎「機織る星」
 鈴木には美しいソット・ヴォーチェと、精緻な響きのハーモニーと共に、言葉の扱いの丁寧で適切なデュナーミクがある。但し、全体を通した表現意図は、今ひとつ不分明。二曲目は大人数向きだが、やはり精妙な音と言葉で組み立てる曲作りがある。ただ、力づくで山場まで持って行けず、二曲を通すと平板に感じる。サブローも歌詞とハーモニーへの、センシティヴな感受性のある爽やかな演奏で、晦渋な鈴木の二曲に対する解毒剤となる。プログラム的な関係性は不明だが、これはアンコールと思えば良いのだろう。

2.福島県立福島高校合唱団B(女声14名)
指揮/石川千穂
ミクロシュ・コチャール「Fog/Nocturne/Valley song」
(サンドバーグの詩による六つの女声合唱曲)
Damijan Miklos:Kralj/O,havas erdo nemasaga
 コチャールの定石を外したコード進行の曲を、とても良くこなしてはいるが、声自体に磨かれた美しさの乏しく、今ひとつ効果は揚がらない。異様な美しさの無いと内容不足を露呈してしまう、そんな曲と思う。その傾向は特に、何とか云う作曲家の四曲目に顕著で、これは一瞬でも生の声の聴こえると、全体を打ち壊してしまう。最後の曲は良く耳にするが、これも声の輝きの無いと演奏映えしない。技術的なレヴェルは高いが、この学校の艶消しの声のソプラノには合わないプログラムと思う。頭の良い生徒さん達で意図する処は分かるが、僕には評価出来ない。

3.with(福井県・女声6名)
大田桜子「虹の輪の花/蛍 蛍 蛍」
木下牧子「めばえ」
 この女子高生六人組は、どうやら十番目に出て来た麻生津小学校のOGらしい。高校生なら高校部門に出場すれば良さそうに思うが、部活ではなく任意団体なので、一般部門への参加となっている。伸ばす声が真っ直ぐそのままで、声の幼さは歴然としているが、自分達の背丈に合った選曲で、その限りに於いては表現意欲を聴き取れる。完全なノン・ヴィブラートと云うか、自然にそうなるようで、ヴィブラートを掛ける技術自体を欠いているようだ。誤魔化しもハッタリも無い、音程正確なハーモニーだが、倍音の膨らみに欠けるので響きは痩せ細っている。不協和な二曲目には幼い声質のハマり、子供らしい美しさがあった。パート・ソロになると声の非力を露呈するが、むしろその幼さと六人の健闘振りを誉めるべきなのだろう。

4.F.M.C.混声合唱団(福島県・混声15名)
Rihaeds Dubra:Miserere Mei
Trond Kverno:Ave Maris stella
Julio Dominguez:Deus,qui illuminas
 さすがに社会人は土台を支える男声のしっかりして、厚味のあるハーモニーで鳴らせるが、その代わりにパート内部で個々の声のバラつきはある。良くハモる曲を並べて、音楽は一向に変化せず、同じ場所を行ったり来たりしているだけの印象を受ける。知らない曲ばかりで、次の展開に期待するが、三曲目の最後に漸くフォルテらしき音量を出しただけで、変化らしきものは本当にそれだけ。これだけのハーモニーを作るのには、相当な練習量の必要だろうが、聴いていて面白くも何とも無い。ピアニシモでハモる自己満足に終始した演奏で、全く何やってんだかと思う。これは良い歳した大人のすべき事ではないと言っても、僕は言い過ぎとは思わない。

5.清泉女学院中学音楽部(神奈川県・女声16名)
指揮/佐藤美紀子
ジョルジュ・オルバーン「Pange lingua 舌よ歌え」
Levente Gyongyosi:Confitemini domino
木下牧子「おんがく」
松下耕「えっさっさ」
 言葉の捌きは良く出来ているし、声の力もあるが児童合唱風の発声法で、これは故意に作っているのだろうか。指揮者は良く勉強しているが、ラテン語は曲自体の面白くないのと、細部に拘り過ぎで全体を俯瞰した設計は見えて来ない。邦人曲は局面での情感はタップリあっても、音色と表情の変化しないので、全体としては平板になってしまう。わらべ歌では法被を着て会場を和ませたが、生徒さん達の自発性は伝わらず、やらされてる感が強い。先生も指揮を止めて踊れば、好感度はアップしたように思う。


<審査員個別順位>
ボブ・チルコット(作曲家)
1.郡山女声 2.愛知 3.郡山五中 4.市川 5.郡山二中 6.福島B 7.福島一中 8.麻生津 9.with 10.清泉 11.桜台 12.しゃちほコ 13.黎明A 14.会津 15.FMC

伊東恵司(合唱指揮者)
1.麻生津 2.郡山五中 2.郡山女声 2.with 5.福島B 6.愛知 6.郡山二中 6.福島一中 9.会津 9.しゃちほコ 11.市川 13.黎明A 14.桜台 14.FMC

今井邦男(合唱指揮者)
1.郡山五中 2.FMC 3.麻生津 4.郡山女声 5.with 6.市川 7.黎明A 8.福島B 9.愛知 10.福島一中 11.郡山二中 13.しゃちほコ 14.桜台 14.清泉

岸信介(合唱指揮者)
1.郡山女声 2.郡山五中 3.麻生津 4.郡山二中 5.福島B 6.会津 7.市川 8.愛知 9.しゃちほコ 10.with 11.FMC 12.清泉 13.黎明A 14.桜台 15.福島一中

高嶋みどり(作曲家)
1.郡山女声 2.郡山五中 3.愛知 3.会津 3.FMC 6.麻生津 7.清泉 8.市川 9.黎明A 10.福島B 11.郡山二中 12.福島一中 13.with 14.桜台 15.しゃちほコ

高橋啓三(バス・二期会会員)
1.郡山五中 2.郡山女声 3.愛知 4.郡山二中 5.会津 5.FMC 7.with 8.福島一中 9.福島B 10.黎明A 11.麻生津 12.清泉 13.しゃちほコ 14.桜台 14.市川

藤井宏樹(合唱指揮者)
1.郡山五中 2.愛知 2.麻生津 4.郡山女声 5.with 5.市川 7.郡山二中 8.清泉 9.福島一中 10.福島B 10.会津 12.しゃちほコ 13.桜台 14.FMC 14.黎明A

<決定順位>
1.郡山五中 2.郡山女声 3.愛知 4.麻生津 5.郡山二中 6.with 7.市川 8.福島B 9.会津 10.福島一中 11.FMC 12.清泉 13.しゃちほコ 14.黎明A 15.桜台

<審査員特別賞>福井市麻生津小学校
<ボブ・チルコット賞>岸和田市立桜台中学合唱部

第5回声楽アンサンブルコンテスト本選

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<響く、つながる、みんなの想い。>
2012年3月25日(日)10:00/福島市音楽堂

6.郡山市立第五中学合唱部&管弦楽部(福島県・女声16名+オケ15名)
指揮/小針智意子
ラインベルガー「Kyrie/Gloria/Credo/Agnus dei」(ミサ曲イ長調 op.126)
 静かに柔らかいキリエから、華やかなグローリアとクレドへ、声は弦の倍音と一致して伸びやかに、ホール全体を共鳴させて美しく響く。曲の対位法的な部分もクッキリと分離して聴こえ、中学生の幼さを感じさせない声に、ロマン派らしい深い音色がある。弦とのバランスは指揮者が調整し、弱音も確実に聴き取れる。伸びやかな高音も美しく、しっとりとアニュス・デイを歌い納める。ミサ曲の美しさを堪能する素晴らしい演奏とは思うが、これがオケ抜きのアカペラであれば、ここまで美しく響く筈も無い。結果的に一位となったが、これは31名の大人数アンサンブルと考えるべきで、コンテストとしての公平性は決定的に欠けている。コーラスとの音程は合っていても、オケに表情の乏しいのも興醒めだった。

7.山梨県立市川高校音楽部(女声16名)
指揮/薬袋直哉
ジョルジュ・オルバーン「Ludvercz/Hajnalban」
Jenny Wihelms:Hjaoningarima
 フレーズ毎にスフォルツァンドして、遣り過ぎの印象を与える演奏。ハーモニーは美しいが、先太りのクレシェンドを多用して細部に拘り過ぎ。効果の為の効果を狙った音楽作りで、曲を美しく聴かせようとする姿勢自体、指揮者に欠けるのを残念に思う。

8.しゃちほコラリアーズ(愛知県・混声16名)
パレストリーナ「Sicut cervus 谷川慕いて」
Stephen Chatman:A magical machine
John Rutter:Monday's child
Guio Lopez-Gavilan:El guayboso
 パレストリーナは指揮無しの為、表情の一定で面白味に欠け、もう少し音楽に工夫の望まれる。二曲目は同じような曲想の延々と続き、早口言葉で聴かせる訳でもないので、全く面白くも何とも無い。三曲目も局面でのデュナーミクの工夫はあるが、やはり延々とハモっているだけで、メンバーから面白く聴かせようとする意図は伝わらない。最後の曲はテンポも速目で、漸くフォルテの音量で表現意欲らしきものを示すが、これは曲自体が面白くない。それと中腰の猫背で歌うのはミットモナイので、皆さん一度は自分の歌う姿を、鏡に映し確認して欲しい。 

9.岸和田市立桜台中学合唱部(大阪府・女声16名)
指揮/村田有咲
三宅悠太「まるはやさしさのようだ」
大田桜子「蛍 蛍 蛍」
 何だか良く分からない曲で、山場の作り方が如何にも唐突だし、その演奏意図は理解不能。二曲目も譜面通り音にしましたと云った感じで、音楽を深めようとする意思は全く伝わらない。ソプラノのキンキンした声も耳障りで、アンサンブルの精度は高いにしても、ここまで音楽の変化しない能面のように固まった表情は、怪訝に思われる領域にあった。

10.福井市麻生津小学校(女声7名)
川村昇一郎「じんじょさま/じょうりぎ」(北国の歌)
水野七星「ほったろこい」(尾張・三河のわらべうた)
 お遊戯の振付けも良く出来て楽しそうだし、子供らしい情感表現がある。ヘンなトコにアクセントを付けるのは、なるほど子供って言葉の意味を考えず、リズムのみを感じて歌うからと分かる。小学生七人組のポテンシャルは高く、美しいハーモニーと声のテクニックがある。自分達に出来る事をキチンと理解している、小学生達をエライとは思うが、この演奏に僕は感銘を受けない。ただ、こんなのもアリかと思うのみ。

11.福島県立郡山高校女声合唱団(女声15名)
Steinar Eleisen:Vandrestjerner
Wolfran Buchenberg:Spuruch,um des echos sdhatten zu beschworen
鈴木輝昭「宇宙の滴りをうけて」(譚詩頌五花)
 曲に応じたフォーメーションの工夫も素晴らしく、美しい声を煌びやかに振り撒く。舞台の両端まで一列に並んで音像の広がりを作り、或いはパート毎に固まって歌わずバラして、会場に美しいハーモニーを響き渡らせる。彼女達がホール・トーンを充全に把握している事に感心させられる。指揮者無しで早いパッセージを揃える技術に瞠目するし、伸びやかなソプラノも、強力なアルトの支えあってこそ。ひたすらに美しい演奏を繰り広げる、16名の女子高生に脱帽である。

12.福島市立第一中学合唱部(混声16名)
指揮/佐藤裕子
ピアノ/安次嶺景子
三善晃「あやつり人形劇場/格闘の場面/選ばれた場所/黄色い鳥のいる風景」
(クレーの絵本第1集)
 曲に対して適切な情感があり、軽くルバートしてニュアンスを出す、指揮者のセンスが良い。ソプラノの内声的な音色も効果的で、早いパッセージを音楽的に処理しているし、混声三部で四名の男声も足を引っ張らず、良いアクセントになっている。三曲目のブルースのリズムに、デュナーミクの工夫を巧みに絡め、メランコリックな雰囲気を作る手際も素晴らしい。最後の明るい曲想への切り替えも堂に入っているが、左程に声量のある訳ではないので、ピアノとのバランスを考えて欲しかった。

13.郡山市立第二中学合唱部&管弦楽部(福島県・混声16名+オケ10名)
指揮/佐藤美奈子
モーツァルト「Kyrie/Gloria/Credo/Sanctus/Agnus dei」(雀のミサ K.220)
 中学生の幼い声はポリフォニックな要素の無い、単純な構造のミサに合うように思うし、小細工しない指揮者のモーツァルト解釈にも好感を持てる。クレドで短調の緩徐部分から転調し、速いパッセージに移る辺り、実に泣かせる。サンクトゥスのリズムの立て方は、様式を適確に把握して見事で、曲想の転換部も立派に歌い切った。ソプラノとアルトのソリストは声の固く、バスは中学生と考えれば良く歌っているが、何れもモーツァルトのスタイルからはやや外れている。テノールはリリックな声で、この子だけ様式的な問題を感じなかった。ソリストは何れも稚拙だし、この人数では弦楽の非力も明らか。弾ける子と弾けない子の技量に落差が大きく、オケをお上手とは言い兼ねるし、トランペット抜きではアクセントも付かない。コーラスは可愛らしいモーツァルトをジックリ楽しませてくれたが、16名の人数制限の問題に付いては、この場合もソロ四名にトゥッティ12名とオケ十名で、合計26名のアンサンブルと考えるべきだろう。

14.会津混声合唱団(福島県・混声13名)
指揮/高橋祐二
モンテヴェルディ「Ecco mormorar l'nde 波はささやき」
武満徹「翼/島へ/小さな空」(うた)
 モンテヴェルディはアルトの重苦しい声と、テノールの生な声が大きな瑕となり、ここはカウンター・テナーの軽やかな声の欲しい処だ。それと指揮者のリズム感が重く、テンポも遅過ぎて、これではマドリガーレにならない。武満でもリズム感と音色は何も変わらず、マドリガーレも日本語も同じスタイルでの演奏。ソプラノの音程の上がり切らず、演奏の崩れ掛けたのも、間を取り過ぎる指揮者のテンポ感の問題。何時まで経っても一向に音楽の表情は変化せず、延々と粘っている印象。四曲もやるのだから、一曲位は速いのも入れて貰わないと、聴かされる方は辛抱し難く、プログラミングに付いて再考の望まれる。一応は美しい演奏と思うが、指揮者の個性でベタ一面を塗り潰し、退屈させられた。

15.愛知高校女声合唱団(女声16名)
指揮/吉田稔
ユッカ・カンカイネン「Haukkani/Ekstasi」(ミッカ・ワルタリの詩による組曲)
ヨーゼフ・カライ「Ejszaka」
 北欧の曲だと云うのに、えらく濃い表情付けを丹念に施す暑苦しい演奏。アルトに重心を置いているのと、胸に落とし気味の発声な上に、テンポも遅いコッテリした演奏が続く。カライでもアルトは矢鱈にドスを利かせて、強面の音楽作り。そもそも、過度な表情付けは抑え、クールにやるべき曲。大袈裟なデュナーミクの付け方は、曲に含まれる摂理を無視している上に、これだけ凄まれては聴かされる側は鬱陶しいだけ。ひたすらに頭声の美しいハーモニーを響かせて貰わないと、とてもではないが辛抱出来る曲ではない。



 本選の15団体を全て聴き終え、これはガチンコ勝負のコンクールではなく、あくまでお祭りと捉えるべきとの感想を抱いた。元々お祭り気分で参加している団体の多いとなれば、本選出場も単なるオマケで、余り本気度は伝わって来ない。その中で郡山の二つの中学校と、高校では愛知県の学校辺りが金賞狙いで、それが結果にも表れたと云う単純な話。予選からの勝ち上がりに付いて、中高から出て来た団体は全て二桁の頭数なのに、一般部門だけ七人の小学生と六人の高校生が出て来て、こりゃやっぱしオッサンおばはんのレヴェルは相当に低そうだなぁと思う。

 それと何度も同じ事を言うが人数制限に付いて、伴奏を数に入れないのは問題外と思う。そもそも七人のアカペラ小学生と、三十人の声楽入り管弦楽を同列に扱う事自体に、根本的な勘違いがある。合唱と伴奏は分けて聴けとか云うのは、演奏と云う営為に対する冒涜だし、そんなシロモノはコンテストの名にも値しない。モーツァルトのミサ曲でコーラスはソコソコ聴かせても、オケとソロの下手なら、普通そんな演奏を誰も評価しない。狭苦しい合唱ムラの中だけで評価し合うのなら、それはご随意にと言うしかない。アンサンブル大会なら指揮者も入れて16名、伴奏もコーラスと合計で制限人数まで、その程度の縛りも無いのでは、この大会の存在意義すら怪しくなると思う。

 上の写真は大会委嘱曲の作詞を担当した“ツィッター詩人”和合亮一さんです。ご協力ありがとうございました。
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