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プッチーニ「蝶々夫人」

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<平成28年度全国共同制作プロジェクト>
2017年1月26日(木)18:30/フェスティバルホール

指揮/ミヒャエル・バルケ
大阪フィルハーモニー交響楽団
フェスティバル・クヮイア

演出/笈田ヨシ
美術/トム・シェンク
照明/ルッツ・デップ
衣装/アントワーヌ・クルック

蝶々さん/中嶋彰子
ピンカートン/ロレンツォ・デカーロ
シャープレス/ピーター・サヴィッジ
スズキ/鳥木弥生
ゴロー/晴雅彦
ボンゾ/清水那由太
ヤマドリ/牧川修一
ケイト/サラ・マクドナルド
役人/猿谷友規


 一昨年の野田秀樹版「フィガロ」も記憶に新しい、金沢発で全国ドサ廻り公演の今回の出し物は「蝶々夫人」。演出にはピーター・ブルック演劇の俳優で海外での評価が高く、国内では無名の大物とも云える、笈田ヨシが起用された。

 開演前から幕は上がっていて、舞台中央の四角いお座敷セットには、襖だか屏風だかを廻らせてある。金沢でのプレミエの後、ここ大阪から高崎を経て、東京へと巡演するプロダクションで、元々大掛かりなセットは期待していないにせよ、どうも今日のセットには既視感がある。そこで思い出されるのは前回公演で、これは明らかに野田フィガロのセットを踏襲している。そう考えるとアメリカ人役の三名に白色人種を配し、それ以外を日本人で固めたのも、野田方式の継承と云える。演出家は変わっても、製作側で大筋のシステムを継続するのは、むしろ望ましい事かも知れない。

 笈田は結婚式の場面でモブにも丁寧に振付けし、合唱団の纏う無国籍っぽい和風の華やかな衣装も相俟って、賑やかに彩り豊かな舞台を作る。結婚式を終えると照明は落とされ、蝶々さんのお座敷セットの周りに燈される、沢山の灯篭が美しい効果を揚げる。でも、そこでピンカートンは上着を脱ぎ、下着姿で蝶々さんを新床に押し倒す、誠にリアルな演技を見せる。

 そもそも冒頭で、蝶々さん宅を訪れたピンカートンは土足のまま座敷へ上がり、それを咎めもならず途惑うゴローの演技で、既に演出家の細心な工夫は明らかになっている。この際にゴローは星条旗を持ち込み、旗日の日の丸のように軒先に掲げていて、傲岸不遜に振舞うピンカートンに迎合する姿勢を見せる。また、二幕のピンカートンは戻る戻らないでモメる場面で、蝶々さんの健気な振舞いに、スズキの泣くのは当然として、中嶋も「或る晴れた日に」のアリアを歌い終えると、その場に泣き伏して鳥木に慰められる、主従二人の追い込まれた状況を表す演出もある。笈田は晴のゴローと鳥木のスズキに細やかな演技を施し、二人共これに応えて演出の意図する、蝶々さんの心の揺れを浮き彫りにした。

 舞台を昭和初期へ置き換えたのも、なかなか巧妙な時代設定だと思う。誰でも思い付きそうな対米敗戦後では、親族一同に離反されるリアリティを欠くし、戦後風俗に「切腹」等と云う発想はある筈も無いからだ。また、ゴローがヤマドリとの縁談を持ち込む場面で、これを断るのにアメリカ合衆国の法律を持ち出す蝶々さんは、本気で米国人に成り切ろうとしている。キチンと勉強し来るべき日に備えている、ただポケッと旦那様の帰りを待ち侘びる、単なるお人形さんでは無いのである。

 開国直後、幕末の日本でアメリカ合衆国を先進的な文明国と認識し、主体的に国籍を選択しようとする、台本の設定からしてそうなのだから、笈田の解釈は至極真っ当なものと思える。ケイトとの対話で全ての事情を悟り、シャープレスの渡そうとする手切れ金を敢然と拒否すると、蝶々さんは星条旗を踏みにじり、幕切れで短剣を手に立ち尽くす。蝶々さんは恋に生き恋に死ぬ乙女では無く、自らの信じる道を歩む女性である事を示したように思う。

 指揮者のミヒャエル・バルケはドイツ人で、しかも若いのに似げず、プッチーニに造詣が深いそうである。聴けば成程、その演奏はアザトくタメを作ったり、間を空けたりするクサい音楽作りだが、それを自然に聴かせる手管もある。劇的なツボを心得て、かなりの場数を踏んだ様子も窺え、カチャカチャした音型は歯切れの良いリズムで進め、ドルチェに歌わせる局面はネットリしっとり、タップリ嫋々とオケを歌わせる。一幕の愛のデュエットでは、今日オケピットに入っているのは本当に大フィルか!と驚く程、弦楽から甘く柔らかい音を引き出し見事だった。

 タイトル・ロールの中嶋彰子は初役だそうだが、期待通りの出来栄えを示す。力強くスピントする輪郭のハッキリした声で、ピンカートンを打ち負かすだけの声量と声質がある。だから十五歳の少女っぽさは無く、それが逆に今回の演出のコンセプトにハマった。因みに花嫁衣装は文金高島田の和風では無く、和洋折衷風の和服だった。

 一方、デュエットの勝負で一敗地に塗れるピンカートンのデカーロは、フォルテで一点集中にスピントしないボワッとした声である。ただ、中音域以下は柔らかい音色で、ボワッとした高音部との使い分けは上手に出来た。英国出身でシャープレスのサヴィッジも、軽い声質のバリトンで声量は今ひとつ。演技的な見せ所も作れず、存在感の希薄なシャープレスだった。

 オケとタイトル・ロールには満足だが、外人助っ人のピンカートンとシャープレスに不満を残す、音楽的にはソコソコの上演だが、これは矢張り演出と併せ総合的に観るべき舞台だろう。そう考えれば見た目に美しく、独善に陥らない読み替えで分かり易い、上質な舞台作りだった。また、演出家の様々な要請にキチンと応えた、歌手達とコーラスを見ていると、日本オペラの演技水準も上がって来たかと思えて来る。まあ、中嶋と鳥木と晴の三名に匹敵する、演技力のある日本人歌手の名前を挙げろとか迫られても、答えに窮するのだけれども。

シューマン「詩人の恋」op.48

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2017年2月6日(月)20:00/カフェ・モンタージュ

カウンター・テノール/藤木大地
ピアノ/松本和将

シューマン「Dichterliebe 詩人の恋」(全16曲)op.48
1.Im wunderschönen Monat Mai 美しい五月に
2.Aus meinen Tränen sprießen 僕の溢れる涙
3.Der Rose die Lilie die Taube die Sonne バラに百合に鳩に太陽
4.Wenn ich in deine Augen seh' 君の瞳に見入る時
5.Ich will meine Seele tauchen 心を潜めよう
6.Im Rhein, im heiligen Strome ラインの聖なる流れに
7.Ich grolle nicht 恨みはしない
8.Und wüßten's die Blumen, die kleinen 小さな花が分かってくれれば
9.Das ist ein Flöten und Geigen あれはフルートとヴァイオリン
10.Hör' ich das Liedchen klingen あの歌を聴くと
11.Ein Jüngling liebt ein Mädchen 若者が娘を恋し
12.Am leuchtenden Sommermorgen 眩い夏の朝に
13.Ich hab' im Traum geweinet 僕は夢の中で泣いた
14.Allnächtlich im Traume 夜毎君の夢を
15.Aus alten Märchen winkt es 昔話の中から
16.Die alten bösen Lieder 古い忌わしい歌


 松の内も過ぎた頃、藤木大地の「詩人の恋」に拠るコンサートの開催が、カフェ・モンタージュから発表された。オーナーの高田氏の説明では、日曜日に高槻でコンサートのある藤木と、倉敷から戻って来る松本の二人が、今日ならばピンポイントで出演可能との知らせを受け、本当に急遽決まったとの事である。昨年、兵庫芸文の「夏の夜の夢」では、自分から売り込んで主役を獲得し、今年はウィーン・シュターツオーパでのデビューも果たす、破竹の勢いで進撃するカウンターテナーを間近で聴ける、こんなチャンスを逃すテは無い。

 受付け開始と共に予約は殺到し、その日の内に満員札止めとなった由で、今日は狭いカフェに六十名の観客でギュウギュウ詰めと相成った。藤木は椅子に腰掛け歌うスタイルで、狭い空間に声を張り上げる必要も無く、我々聴衆に語り掛けるようにジックリと歌い進める。地面を掘り下げた階段状の店内に、もちろん残響は一切無く、藤木の声は直接音として耳に届く。カウンターテナーは高音部をファルセット、中音域以下はソット・ヴォーチェで処理し、地声は一切出さない建前なので、言葉で語り掛けるリートとの相性は良い筈と、ここで気付かされる。

 とは云うものの、今回の使用楽譜はペータース版のバリトン移調譜で、音域は如何にも低く、さすがの藤木も低声部で時々、地声に引っ繰り返って終う。カウンターテナーの場合、原調ではソプラノの音域を歌わねばならず、バリトン移調譜を選択したらしいが、やはり少し無理のあるのは否めない。シューマンは「詩人の恋」で連作詩のお話の展開と、全曲を通した調性の並べ方を、緻密に関連付けているらしいが、ペータース版では音域的に歌い易いよう、曲毎に恣意的に移調しているので、カウンターテナー用の移調譜を新たに作る事も考えているらしい。

 藤木はハ長調の第七曲「恨みはしない」の最高音で、狭い空間では意表を突く、思い切ったフォルテシモを出して見せる。これは自分を捨てた女への、感情的な怒りの爆発だが、曲そのものとしては情感を込め、室内楽的にシットリと抒情的に聴かせる。藤木はピアニシモ主導の第十二曲「眩い夏の朝に」等も、爽やかな情感に満ちた歌として、ジックリと聴かせくれた。この曲や終曲の後奏は無暗に長く、ピアニストに聴かせ処のある曲でもある。松本のピアノも情感に溢れながら、カウンターテナーの声量への配慮も抜かり無い、行き届いた伴奏だったと思う。

 しかし、六十名でカウンター・テノールとピアニストを囲み、その演奏に耳を傾けるとは、西洋の王侯貴族の楽しみを再現したような(ちょっと狭苦しいけど)、現代最高且つ究極の贅沢では無いかと思う。三十分余りの「詩人の恋」コンサートだったが、藤木は余韻を味わって欲しい旨を述べ、アンコールは一切無しで終えた。その代わり終演後は、女性ファンに囲まれ一緒にスマホの写真に納まり、握手にも応ずるサービス振りだった。やはりカウンターテナーと云う属性とは無関係に、やっぱ男前は違うよなぁと、深く納得させられる光景であった。

 上掲の写真はオッサンの要望に嫌な顔もせず、記念撮影に快く応じて下さった、藤木大地と松本和将の御両名です。ご協力有難うございました。

ドニゼッティ「連隊の娘」

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<びわ湖ホール・オペラへの招待/フランス語上演>
2017年2月12日(日)14:00/びわ湖中ホール

指揮/園田隆一郎
大阪交響楽団
びわ湖ホール声楽アンサンブル

演出/中村敬一
美術/稲田智香子
照明/山田聡
衣装/村上まさあき

マリー/飯嶋幸子
トニオ/小堀勇介
シュルピス軍曹/五島真澄
ベルケンフィールド侯爵夫人/鈴木望
執事オルテンシウス/林隆史
伍長/内山建人


 初心者でも親しめる演目を、リーズナブルな価格で提供するをコンセプトに、固定給の声楽アンサンブル団員を使い上演する。今回、びわ湖ホールのオペラ入門シリーズは、ベルカント・オペラの中でもレア物の「連隊の娘」を取り上げる。このオペラの上演機会の少ない理由を、ハイC九連発のテノール・アリアに求め、これを唱える日本人歌手の不在を嘆く向きは多い。でも、単純に難易度で云えば、例えば「冷たい手を」のハイCをキッチリ出す方が難しそうなのに、「ラ・ボエーム」と「連隊の娘」の演奏頻度は比較にもならない。

 僕は「連隊の娘」を今日初めて聴き、お話し自体はアホ臭くても有名アリアは多いし、なかなか魅力的なオペラと感じた。何れにせよ、ドニゼッティで繰り返し上演されるのは、「愛の妙薬」と「ランメルモールのルチア」の二作に限られる訳で、その辺りの事情はロッシーニやベッリーニと何ら変わりは無い。ドニゼッティでは「マリア・ストゥアルダ」「ドン・パスクヮーレ」等も、演奏頻度は高いとは言い難いし、「連隊の娘」では歌詞がフランス語なのも、上演のハンデになっているのだろう。

 今回の上演では、まず園田隆一郎指揮の大阪響の、失礼ながら予想外の素晴らしさに驚かされた。ベルカント・オペラのワン・パターンに聴こえる、単純なブンチャッチャのリズムにも、実は幾つかの種類があり、軽やかに弾むのとシットリと弾むのと、畳み掛けるように弾むのとで、凡そ三区分されるように思う。これを指揮者がキチンと把握し、局面に応じ適宜に振り分ければ、何分にも元々の音楽が単純なだけにオケの呑み込みも早く、オペラ経験に不足する大阪響でも、ノリノリの演奏を可能とするのである。園田はアチェルラントの微妙な匙加減と、テンポの切り替えの按配の妙で聴かせた上に、終盤の馬力にも欠けず、ベルカントのスペシャリストとして申し分無い出来だった。

 オケの充実は嬉しい誤算だったが、ベルカントでは更に重要な歌手の方も、若手の健闘で大いに盛り上がった。お目当てのトニオの小堀勇介は、ハイC九連発のアリア「友よ何と楽しい日」で、期待通り美しい超高音を存分に聴かせてくれる。本当に九回全部出したのかは定かで無いにせよ、取り敢えず客席は大盛り上がりで、文字通り興奮の坩堝状態に陥る。如何な止まぬ拍手喝采とブラボーの掛け声は、小堀君が舞台中央へ進み、観客に対し改めて答礼するまで続いた。

 欧米のオペラハウスの引っ越し公演ならいざ知らず、有名歌手不在の関西ローカルのオペラ上演で、これほど熱烈な拍手喝采を、僕は初めて見た。小堀君は二幕のロマンスでも、今度はCisを長く引き伸ばしてくれたが、これはハイC九連発に比して興奮度はやや低く、観客の拍手喝采も控え目に済まされる。でも、こちらの方が難易度は高そうだし、もっと騒いでやれよと個人的に思う。やや声量には欠けるものの、小堀君は既に安定した超高音のテクニックを身に付けていて、もっと中音域を充実させれば、アクートも更に輝きを増す筈と思う。また、今後もベルカント・テノールを目指すのなら、更にアジリタも磨いて欲しい処だ。

 一方、マリーの飯嶋幸子も持ち前の柔らかいレジェーロの美声で、秀でたコロラトゥーラの技術を存分に披露する。ただ、アジリタは上達したようだが、遅いテンポの曲では単調に陥り勝ちなので、もっと多彩な音色の引き出しを作り、局面の変化を工夫して欲しい。それと主役の二人共、如何にも生真面目な歌い振りで、ブッファらしい遊び心に乏しい印象を受ける。まあ、ベルカントのスペシャリストの指揮者の桎梏を離れ、自由なフレージングを作れと言っても、若い歌手には無理な注文だろうけれども。

 シュルピスの五島真澄は高目に響かせる美声で、ベルカント向きのバリトンだし、侯爵夫人の鈴木望もなかなか強力なアルトで、必要にして充分な歌と演技があり、二人で手堅く脇を固めてくれた。指揮者がオケを煽って歌手を乗せると、乗せられて飛ばす歌手が、逆にオケを煽り返す、今日は好循環を生んでいたように思う。

 今日のセットは奥に覗き窓みたいな開口部を穿ち、そこに一幕のチロルの場面ではアルプスの山々を、二幕の侯爵邸の場面ではパリの市街地の風景を見せる。全幕を同じセットて経費節減を図る、工夫そのものを楽しめる。びわ湖ホール声楽アンサンブルの面々は、農民と兵隊と貴族を掛け持ちする忙しさの上に、腹筋や腕立て伏せで体力勝負を挑む。総じて運動量の多い、丁寧に施された演出だった。台詞役の公爵夫人での増田貴寛君の女装は、彼の重量級キャラを生かして秀逸だったし、侯爵夫人が歌のレッスンをする場面で、マリーの唱う「琵琶湖周航の歌」は、びわ湖ホールオペラ定番のご当地ネタで和ませてくれた。

 しかし、幾らオケも演出も良かった、マリーもシュルピスも侯爵夫人も良く歌えていたと言っても、全ては小堀勇介の超高音の前に霞んで終う。三年前、川西みつなかオペラ「清教徒」での、アルトゥーロの藤田卓也のハイDにもブッ飛んだが、今回の小堀勇介のハイC連発は更に衝撃的だった。藤田は既に完成されている印象だが、小堀君には成長の余地も残されていて、海外への雄飛や更なる難役への挑戦も期待出来るからだ。

 びわ湖ホールでの「連隊の娘」上演は、声楽アンサンブル卒業生の山本康寛と、外様の小堀勇介の二人の存在抜きには考え難かっただろう。ただ、どの程度歌えるのかは知らないが、トニオのアンダーに現役メンバーの、古屋彰久の名もクレジットされているのは気になった。如何なるレヴェルであろうと、やはり古屋君のトニオも聴いて見たかったと、ちょっとだけ心残りに思うのである。

ロッシーニ「セビリアの理髪師」

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<第386回定期公演フィルハーモニー・シリーズ/演奏会形式>
2017年2月19日(日)14:00/石川県立音楽堂

指揮/マルク・ミンコフスキ
フォルテピアノ/フェデリカ・ビアンキ
ギター/松尾俊介
オーケストラ・アンサンブル金沢
金沢ロッシーニ特別合唱団

演出/イヴァン・アレクサンダー

ロジーナ/セレーナ・マルフィ
アルマヴィーヴァ伯爵/デヴィッド・ポーティロ
フィガロ/アンジェイ・フィロンチク
医師バルトロ/カルロ・レポーレ
音楽教師バジリオ/後藤春馬
女中ベルタ/小泉詠子
下男アンブロージョ/駒田敏章
従者フィオレッロ/山本悠尋
隊長/濵野杜輝


 ルーヴル宮音楽隊の主宰者として、古楽業界で名を馳せた後、オペラ業界に進出した指揮者のマルク・ミンコフスキを、プリンシパル・ゲスト・コンダクターとやらに頂く(首席客演で良かろうに、と思う)オーケストラ・アンサンブル金沢が満を持し放つ、「セヴィリアの理髪師」演奏会形式上演である。しかもOEKは一回こっきりの上演の為、わざわざ四ヶ国からベルカント歌手を招聘し、理想的なロッシーニ上演を目指す力の入れようである。幾ら行政の支援の手厚いオケと謂えども、これは相当に思い切った出費だったろう。

 開演前、オケのメンバーの舞台への入場と共に、客席から拍手が起こる。どうやら本拠地では恒例のセレモニーのようで、OEKをオラが街のオケとして支持する聴衆の様子を、遠来の客として目の当たりにさせられる。まず始まった序曲でミンコさん指揮の下、OEKは金沢市民の熱い支持もムベなるかなと納得する、見事な演奏を披露する。遅目のテンポのレガートに、個性的なデュナーミクの付け方のある独自の解釈で、張り詰めたテンションを保つ手際が素晴らしい。こんなに優雅で繊細なセヴィリア序曲を、僕は初めて聴いた。また、歌手の伴奏としても、縦のフレーズをピタリと揃え、ごく自然に聴き入らせるだけの力がある。オケも四人の主役と共に、ベルカントを歌い上げる役割を担う、見事な演奏だった。

 遠来の主役級歌手のレヴェルの高さも素晴らしかった。これだけのキャストを国内のロッシーニ上演で揃えた、ミンコさんと事務局の尽力を多とせねばならない。その中でも特筆大書すべきは、アルマヴィーヴァのポーティロの見事なアジリタのテクニックと、羽毛のように軽く透明な超高音だろう。ロッシーニで主役を張るのであれば、絶対条件とも云える技術的な難関を、彼は楽々とクリアしている。歌えない奴らが多い為、慣習的にカットされるフィナーレ前の長いアリア"Cessa di più resistere"も、キチンと唱ってくれる。ただ、ポーティロ君は中音域でソット・ヴォーチェを多用する所為もあり、絶対的な声量に不足する憾みはある。約めて言えば、まだ若く熟成不足で、声そのものを更に磨き上げ、振幅の広い音楽を作れるようになる必要はあると思う。

 フィガロのフィロンチクは初役の弱冠二十二歳で、それを思えば誠に達者な歌い振りだが、この方も若さ故の未熟からか声の輝きに乏しく、今一つ面白味に欠ける。でも、これには共演の三人のレヴェルの高さが、同時に彼の弱点を露わにしたと云う、已むを得ない事情もある。前途有為ではあっても、年齢的にまだ勉強中の学生さんで、今後の精進次第ではミラノやウィーンから、金看板で迎えられる可能性のある逸材だろう。

 ロジーナのマルフィは若いに似合わず、声も技術も完成されつつあるメゾのようで、既にかなりの実績を積んだ人のようだ。例えればシュトゥッツマンやバルトリのような、重目のアルトの音色があり、やや一本調子に陥る嫌いはあっても、惚れ惚れするようなアジリタのテクニックを身に着けている。彼女の流麗に転がるメリスマは、何の引っ掛かりも無く、只ひたすらコロコロと、風に吹かれるように転がって行く。ただ、重い声質はヒロインらしい可憐さに欠けるので、もう少し音色の変化を意識出来るようになれば、鬼に金棒だろうと思う。

 バルトロのレポーレは既にベテランの域に入るようで、若手の三人もそれなりに演技は上手かったが、その中でも一日の長を感じさせる、誠に芸達者なバッソ・ベルカントである。また、頭頂部から顎の骨まで、頭蓋骨を余す処無く鳴らすような、とんでもなく響き渡る声で、その存在感は圧倒的だった。この遠来の四名のアンサンブルは国内基準を遥かに抜き、ペーザロのレヴェルに匹敵するものと評価したい。

 演奏会形式でコンサート用の礼服を着け、セットも一切無く小道具に椅子とロープを使う程度で、お洒落にお芝居を進める芸達者な歌手を存分に使いこなし、闊達な舞台に仕立てた演出家の力量にも感心した。そこは恐らくミンコさんの拘りで、わざわざ同国人をフランスから連れて来る、その思い入れの深さは推して知るべしだろう。やはり幾ら演奏会形式と云っても、みんな突っ立ったままでは、オペラ・ブッファとして索漠とした印象は免れない。日本人では無く余計な金の掛かる、フランス人を起用したミンコさんの選択も、今回の上演の成功の重要なファクターだった。この日の為に編成された、十四名の男声合唱も良い出来だった。ただ、演技面では冒頭の場面で動いただけで、その後はほぼ突っ立ったままだったのは、やや残念に感じた。

 古楽専門のミンコさん指揮で、しかもコンティヌオはピアノフォルテだったので、これは当然ピリオド・アプローチと予想していたが、弦楽器は皆さん、ごく普通にヴィブラートを掛け演奏していた。そもそもモダンオケで、管楽器のピッチを弄るのは難しく、ピアノフォルテの方をA=440まで上げ対処したらしい。オノフリ指揮のニューイヤーコンサートでは、充実したピリオド・アプローチで聴かせたOEKは今回、オペラ指揮者であるミンコさんの元、モダンでレガートで美しいロッシーニを聴かせてくれた。わざわざ金沢まで来て、外されては目も当てられない処を、この充実した上演を企画実行してくれた、オーケストラ・アンサンブル金沢とその関係者には全く感謝の言葉しか無い。

ワーグナー「ラインの黄金」

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<びわ湖ホールプロデュースオペラ/プレミエ>
2017年3月4日(土)14:00/びわ湖ホール

指揮/沼尻竜典
京都市交響楽団

演出/ミヒャエル・ハンペ
美術・衣裳/ヘニン・フォン・ギエルケ
照明/齋藤茂男

<Aキャスト>
ヴォータン/ロッド・ギルフリー
アルベリヒ/カルステン・メーヴェス
ローゲ/西村悟
ミーメ/与儀巧
ファゾルト/デニス・ビシュニャ
ファフナー/斉木健詞
フリッカ/小山由美
フライア/砂川涼子
ドンナー/ヴィタリ・ユシュマノフ
フロー/村上敏明
エルダ/竹本節子
ラインの乙女/小川里美/小野和歌子/梅津貴子


 今年のクラッシック音楽シーンの話題の中心として、日本全国の好事家の注目の的となった、四年越しのびわ湖リングが遂に開幕の日を迎える。僕も高揚感に武者震いしつつ(ウソです)、びわ湖ホールを訪れた。勿論、沼尻マエストロと京響、そして強力な布陣を敷いた歌手の皆様への期待は、弥が上にも高まるが、微かに懸念を感じるのは演出のハンペ翁である。昨年の「さまよえるオランダ人」で最後、脱力感にガックリと踵まで肩を落とした、あの夢オチのような惨事が繰り返されるのでは、との不安は拭い切れない。でも、まあ懸念は懸念として、取り敢えずオペラは楽しまねば損である。僕は早々に席に着き、ワクワクしながら開演を待った。

 客電を落とし真っ暗になったホールで、オケピット内の明りだけが灯されると、何時の間にか指揮台に立っていた沼尻がタクトを振り下ろし、モヤモヤと始まる序奏を号砲に、びわ湖リングの幕は切って落とされる。緞帳が上がると、舞台前の紗幕に投射される星雲の渦巻くような映像は、やはり天地創造の混沌だろうか。やがて星雲の映像は、次第にラインの水底へと遷移する。ここで繰り広げられる、アルベリヒとラインの乙女の鬼ごっこは、実物の歌手と映像を組み合わせている。薄暗く客席から見え難い舞台上で、唱い終えた歌手がセットの陰に潜り込むと、泳ぐラインの乙女をホリゾントに投射する仕掛けである。従って実物の歌手と映像の継ぎ目は、暗闇に紛れて誤魔化せる代わりに、余り細かい事をしても良く見えない仕儀となる。

 神々の屯す二場に移ると、照明はやや明るくなる。ここの見所は上下に二人一組で歩く、二メートル超の高さの巨人族で、どうやら今日の演出コンセプトは、ヴァーグナーのト書きの指示に徹底的に従う事と気付き、これならば夢オチとかの不測の事態を恐れる必要は無さそうと、少し安堵する。ただ、沼尻と京響の演奏の方は、エンジンの掛かりの遅い所為か、今ひとつ集中力を欠くように感じる。それでも巨人ブラザースがフライアを連れ去る場面で、オケは意外な盛り上がりを見せ、三場への間奏曲では沼尻も、ほぼ額面通りの力を籠めた演奏を聴かせる。

 ニーベルハイムでアルベリヒの化ける大蛇は、恐らく映像処理の巨大な胴体に尻尾だけ実際に作り込み、これをニョロニョロとローゲに巻き付かせるのは見ものである。ただ、大蛇と言いながら、見た目は龍そのものなのは、多分びわ湖ヴァージョンで、「三井の晩鐘」の龍神伝説を踏まえたジョークの類だと思う。これは恐らくびわ湖ホール側の要請に、ハンペさんの方で柔軟に対応されたと云う事だろう。続いてアルベリヒはピョンピョン跳ぶ蛙に変身するが、何れの場合も歌手が奈落へハケるのを隠す為、ラインの水底と同じく照明は著しく暗いまま。薄暗い舞台上に目を凝らし、そこで起こる出来事を見極めるのは、結構辛いものがある。

 ヴォータンとローゲが神々のお住まいに戻り、カツアゲした金銀財宝も運び込まれると、舞台上の照明も明るくなる。アルベリヒが指輪に呪いを掛けると、沼尻にもスィッチが入り、オケも一気に臨戦態勢に入る。沼尻は自らの考える勘所を押さえ、その度にオケを盛り上げに掛かる、毎度お馴染みの遣り口である。ただ、京響は序奏から暫くは集中力を欠いて、ややアンサンブルの密度は低く、やがて山場の訪れと共にテンションを揚げて来る。また、今回のオケはハープ三台に、コントラバスは五挺と切り詰められた編成で、メンバーの懸命に弾く姿とは裏腹に、ヴァーグナーらしい音圧の迫って来ないもどかしさは残る。これが予算不足の所為であれば、致し方も無い話ではあるけれども。

 ヴォータンと巨人兄弟の人質返還交渉の後、カインとアベルの物語を思わせるファゾルト殺しがあり、奈落からセリ上がるエルダの威風辺りを払う登場があって、沼尻はそれぞれ適切に演奏へ力を込める。エルダは冒頭と同じく舞台前の紗幕に投射された、星空の渦巻くような映像の中、指輪を手放すようヴォータンに警告する。何故かイソップ物語の「金の斧銀の斧」の神様みたく、エルダは剣を抱えて現れるが、これは直後のノートゥングの動機と共に、ヴォータンの手に渡る。おお、ヴォータンはノートゥングを、エルダから貰ったのかぁと驚くが、良く考えれば分かったような分らんような新解釈で、ここまで厳格に依怙地のように、ト書き通りだった舞台から遊離しているとも云える。これはやはり、去年の夢オチの惨事の、軽度のヤツとも思える。

 今から四半世紀の昔、小澤征爾指揮の「さまよえるオランダ人」で、演出を担当した蜷川幸雄は「譜面に書かれているト書き通りやる。オペラの魅力は特権的な肉体を持った歌手と云う、異能の人達が集まり歌の快楽を唱う事。そのベースになるのはワーグナーの台本で、どこで振り向けとか何歩動いて座れとかの、ト書きにある細かい指示に忠実にやる」と述べ、その理由を「それを日本ではやっていないのだから、一度やった方が良い。それならば僕にも出来るし、そうでなければ時間が足りない。夜しか集まれず一日三時間だけの練習、それも常に誰かが欠席しているような状態で、コンセプトの強い演出など出来っこない」と述べている。

 既に四半世紀前、リングでは無くオランダ人だが、国内でヴァーグナーの台本に忠実な舞台は実現している。しかも二十五年前とは異なり、今はご当地びわ湖ホールの他にも、新国立劇場や兵庫芸術文化センター等、国内でも充分な時間を掛け作り込むプロダクションが出来た。ト書きを忠実に視覚化した舞台を、過去の遺物呼ばわりするのは言い過ぎかも知れないが、それにしても何を今更の感は否めない。更に言えば、唱い終えた歌手は続いて唱う歌手を、ただ棒立ちのまま見詰める手抜きな演出で、個々の演技に対する周囲のリアクションの一切無い、今日は退屈極まる舞台でもあった。

 実は僕は皆が騒ぐ程には、ト書き通りの演出に不満は感じていない。実物大(?)の竜神様や、虹を渡る神々に二人羽織の巨人族等、単純に漫画チックで面白かった。だが、歌手を一か月に亘って拘束し、みっちりと稽古を重ね周到に準備された筈の舞台が、蓋を開けると棒立ちの何の芸も無い演技に終始したのでは、流石に実績ある巨匠もお歳を召したかと疑わざるを得ない。何故、鳴り物入りで喧伝されたびわ湖リングが、こんな緩んだ舞台となったのか、地元の制作側と遠来の演出家共々、猛省を促したい。ヴァルキューレ以降の三作品ではネジを巻き直し、緻密な舞台の作られる事を、僕は切に願っている。

 蜷川幸雄は小澤指揮のサマオラの幕切れで、ゼンタに海へ飛び込ませた後、猿之助の宙吊りの如きワイヤーアクションで、オランダ人と共に昇天する様子を絵にして見せた。四半世紀を経た今、あの頃は夢想だにしなかった関西でのリング・チクルスが、びわ湖ホールの単独製作で実現する。その歴史的な「ライン・ゴルト」の幕切れで、今度は天翔けるヴォータン御一行様の映像を観せられようとは、これも神ならぬ身の知る由も無かった。

ワーグナー「ラインの黄金」

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<びわ湖ホールプロデュースオペラ>
2017年3月5日(日)14:00/びわ湖ホール

指揮/沼尻竜典
京都市交響楽団

演出/ミヒャエル・ハンペ
美術・衣裳/ヘニン・フォン・ギエルケ
照明/齋藤茂男

<Bキャスト>
ヴォータン/青山貴
アルベリヒ/志村文彦
ローゲ/清水徹太郎
ミーメ/高橋淳
ファゾルト/片桐直樹
ファフナー/ジョン・ハオ
フリッカ/谷口睦美
フライア/森谷真理
ドンナー/黒田博
フロー/福井敬
エルダ/池田香織
ラインの乙女/小川里美/森季子/中島郁子


 緩くテキトーだった演技指導に、何処かで見たような舞台作りで、演出にはハテナ?だったが、でもそれでも、待望のびわ湖リングの開幕である。何れにせよ楽しまねば損で、別キャストでの上演をジックリ味わいたいと、今日もイソイソびわ湖ホールへ赴いた。二日間のダブル・キャストを聴いて思うのは、超大物のヴァーグナー歌いは居ないにせよ、脇役に至るまで隙の無い、粒揃いの人選だった事である。

 ローゲの二人は今回、最も注目を集めたキャストではあるけれども、僕は聊かの懸念も感じていた。西村悟にはアルフレードやピンカートンを歌う、イタオペ専門の印象しか無いし、清水徹太郎はレジェーロな声質で、バッハのエヴァンゲリストやモーツァルトを得意としている。清水は昨年の「さまよえるオランダ人」で舵手を唱っているが、何れにせよ二人とも、ヴァーグナー歌いとは言い難い。でも、そんな懸念を他所に、西村は美声に過ぎて悪役らしい凄味には欠けるものの、声そのものの魅力と闊達な演技力で、イタオペっぽい軽やかなローゲを造形したし、対する清水もレジェーロに弱々し気なローゲで、こちらは如何にも小物っぽく、狡猾を表現して秀逸だった。

 ローゲと並ぶキープレイヤーであるアルベリヒで、代役で出て来たカルステン・メーヴェスは、ややヴィブラートの大きいのは気になるものの、役処をキチンと把握した歌い振りで、急な交代でも当たりを引いたように思う。実はそれもその筈で、メーヴェスはバイロイトでクリングゾルを、専属のマンハイムではヴォータンやハンス・ザックスを演じた、バリバリのヴァーグナー歌いなのでした。片やベテランの志村文彦は、僕に取っては印象の薄い人だが、今回は歌も演技も大健闘で、これまたアンサンブルにスッポリ嵌まるアルベリヒだった。

 主役のヴォータンは特段の演技力を要求されない、やはり声そのものの存在感で聴かせて欲しい役処である。ロッド・ギルフリーは美声とは云い難く、スコーンと頭頂へ抜ける声でも無いが、その代わり鼻腔の辺りに良く響く声量豊かなバリトンで、神様っぽくない悪役風ヴォータンである。その点、青山貴は文句無しの美声で、堂々たる神様の親玉としての風格を示す。

 やはり「ライン・ゴルト」は、この三人が主役で、後は全て脇役と改めて感じる。序夜では印象の薄い役回りのミーメで、与儀巧は上手く機能したが、日本を代表するキャラクター・テノールと云うべき高橋淳は、子音を強調する歌い回しが古臭く、僕は今ひとつ感心しない。フリッカの小山由美は濃密で強力な、谷口睦美はノーブルな声質で、それぞれ持ち味を活かした歌だった。ミーメやフリッカは今後も出番があり、必ずしも脇役とは言い切れないが、フライアにドンナーにフローの神様一族は序夜でお役御免の、もう真っさらの脇役と云える。その脇役にびわ湖リングでは、一線級の歌手を漏れなく投入する、隙の無い布陣を敷いている。

 その中でもフライアには砂川涼子に森谷真理と、トップクラスの主役級を配する豪華さである。砂川は清純でも力強く、森谷は逞しく力強い声で、それぞれ今後の三作でどのように使われるのか、或いは全く起用されないのか、刮目して待ちたいと思う。しかし、二人共ひと声発しただけで、主役ソプラノの御出ましのような存在感がありましたな。

 ドンナーのユシュマノフは後で調べてみると、日本在住のロシア人で、そうであれば成程このレヴェルの歌手を、わざわざ海外から呼び寄せる理由は無いと納得させられる。黒田博は皆様ご存知の通り、ドンナーには勿体無いヴォータンへの挑戦も有り得る実力者で、幕切れ近く雲を集め雷を鳴らす歌は、声の威力と共に風格に満ちていた。村上敏明のフローはイタリア的に明るい声が、ノー天気でなかなか宜しく、福井敬のクサい歌い回しも結構ハマっていた。

 池田香織のドスを利かせるエルダは、演出効果も相俟ってハマったが、竹本節子は平べったい声で抑揚に乏しく、もしかすると今回のダブル・キャストの中で、唯一のハズレを引いたかも知れない。ファゾルトとファフナーのコンビは、片桐・ハオ組よりビシュニャ・斉木組に一日の長はあったが、この役はフツーに歌って貰えればそれで良いので、二人して熱唱されても挨拶に窮するように思う。

 遂に始まったびわ湖リングで、来年度以降の三作にも大いに期待したい処だが、やはり日本人歌手を中心としたキャストでは、全体の偏差値は高くとも、絶対的なエースを欠くのは否めない。また、演出に付いても、もう少し歌手に動きを付けて貰わない事には、観て面白い舞台になる筈も無い。また、場面転換が一切無く、幕開けのラインの川底と、ヴァルハラ城のある神々の世界に、地下の二―ベルハイムの三つの場面を、同じセットで押し通したのにも落胆させられた。

 十年前、沼尻芸術監督就任の年の「ばらの騎士」以来、ずっと共同制作を続けて来た神奈川県民ホールが、千載一遇の折角のチャンスに怖じ気付き、びわ湖ホールはリングチクルス単独開催の壮挙に挑まざるを得なくなった。決まった当初は「オンボロで足手纏いの神奈川県民ホールは切り捨てたし、びわ湖ホール四面舞台の威力で目にもの見せてくれる!」と、制作側の鼻息も荒かったのだが、なかなか現実は厳しいようだ。現在、びわ湖ホールでは「びわ湖指環寄付」を募っているそうで、三十万円を払い込むと舞台美術家お手製の指輪をくれるそうである。拙ブログをご覧下さる篤志家の皆様に於かれまして、奮ってご応募願えれば幸甚に存じます。

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