<平成28年度全国共同制作プロジェクト>
2017年1月26日(木)18:30/フェスティバルホール
指揮/ミヒャエル・バルケ
大阪フィルハーモニー交響楽団
フェスティバル・クヮイア
演出/笈田ヨシ
美術/トム・シェンク
照明/ルッツ・デップ
衣装/アントワーヌ・クルック
蝶々さん/中嶋彰子
ピンカートン/ロレンツォ・デカーロ
シャープレス/ピーター・サヴィッジ
スズキ/鳥木弥生
ゴロー/晴雅彦
ボンゾ/清水那由太
ヤマドリ/牧川修一
ケイト/サラ・マクドナルド
役人/猿谷友規
一昨年の野田秀樹版「フィガロ」も記憶に新しい、金沢発で全国ドサ廻り公演の今回の出し物は「蝶々夫人」。演出にはピーター・ブルック演劇の俳優で海外での評価が高く、国内では無名の大物とも云える、笈田ヨシが起用された。
開演前から幕は上がっていて、舞台中央の四角いお座敷セットには、襖だか屏風だかを廻らせてある。金沢でのプレミエの後、ここ大阪から高崎を経て、東京へと巡演するプロダクションで、元々大掛かりなセットは期待していないにせよ、どうも今日のセットには既視感がある。そこで思い出されるのは前回公演で、これは明らかに野田フィガロのセットを踏襲している。そう考えるとアメリカ人役の三名に白色人種を配し、それ以外を日本人で固めたのも、野田方式の継承と云える。演出家は変わっても、製作側で大筋のシステムを継続するのは、むしろ望ましい事かも知れない。
笈田は結婚式の場面でモブにも丁寧に振付けし、合唱団の纏う無国籍っぽい和風の華やかな衣装も相俟って、賑やかに彩り豊かな舞台を作る。結婚式を終えると照明は落とされ、蝶々さんのお座敷セットの周りに燈される、沢山の灯篭が美しい効果を揚げる。でも、そこでピンカートンは上着を脱ぎ、下着姿で蝶々さんを新床に押し倒す、誠にリアルな演技を見せる。
そもそも冒頭で、蝶々さん宅を訪れたピンカートンは土足のまま座敷へ上がり、それを咎めもならず途惑うゴローの演技で、既に演出家の細心な工夫は明らかになっている。この際にゴローは星条旗を持ち込み、旗日の日の丸のように軒先に掲げていて、傲岸不遜に振舞うピンカートンに迎合する姿勢を見せる。また、二幕のピンカートンは戻る戻らないでモメる場面で、蝶々さんの健気な振舞いに、スズキの泣くのは当然として、中嶋も「或る晴れた日に」のアリアを歌い終えると、その場に泣き伏して鳥木に慰められる、主従二人の追い込まれた状況を表す演出もある。笈田は晴のゴローと鳥木のスズキに細やかな演技を施し、二人共これに応えて演出の意図する、蝶々さんの心の揺れを浮き彫りにした。
舞台を昭和初期へ置き換えたのも、なかなか巧妙な時代設定だと思う。誰でも思い付きそうな対米敗戦後では、親族一同に離反されるリアリティを欠くし、戦後風俗に「切腹」等と云う発想はある筈も無いからだ。また、ゴローがヤマドリとの縁談を持ち込む場面で、これを断るのにアメリカ合衆国の法律を持ち出す蝶々さんは、本気で米国人に成り切ろうとしている。キチンと勉強し来るべき日に備えている、ただポケッと旦那様の帰りを待ち侘びる、単なるお人形さんでは無いのである。
開国直後、幕末の日本でアメリカ合衆国を先進的な文明国と認識し、主体的に国籍を選択しようとする、台本の設定からしてそうなのだから、笈田の解釈は至極真っ当なものと思える。ケイトとの対話で全ての事情を悟り、シャープレスの渡そうとする手切れ金を敢然と拒否すると、蝶々さんは星条旗を踏みにじり、幕切れで短剣を手に立ち尽くす。蝶々さんは恋に生き恋に死ぬ乙女では無く、自らの信じる道を歩む女性である事を示したように思う。
指揮者のミヒャエル・バルケはドイツ人で、しかも若いのに似げず、プッチーニに造詣が深いそうである。聴けば成程、その演奏はアザトくタメを作ったり、間を空けたりするクサい音楽作りだが、それを自然に聴かせる手管もある。劇的なツボを心得て、かなりの場数を踏んだ様子も窺え、カチャカチャした音型は歯切れの良いリズムで進め、ドルチェに歌わせる局面はネットリしっとり、タップリ嫋々とオケを歌わせる。一幕の愛のデュエットでは、今日オケピットに入っているのは本当に大フィルか!と驚く程、弦楽から甘く柔らかい音を引き出し見事だった。
タイトル・ロールの中嶋彰子は初役だそうだが、期待通りの出来栄えを示す。力強くスピントする輪郭のハッキリした声で、ピンカートンを打ち負かすだけの声量と声質がある。だから十五歳の少女っぽさは無く、それが逆に今回の演出のコンセプトにハマった。因みに花嫁衣装は文金高島田の和風では無く、和洋折衷風の和服だった。
一方、デュエットの勝負で一敗地に塗れるピンカートンのデカーロは、フォルテで一点集中にスピントしないボワッとした声である。ただ、中音域以下は柔らかい音色で、ボワッとした高音部との使い分けは上手に出来た。英国出身でシャープレスのサヴィッジも、軽い声質のバリトンで声量は今ひとつ。演技的な見せ所も作れず、存在感の希薄なシャープレスだった。
オケとタイトル・ロールには満足だが、外人助っ人のピンカートンとシャープレスに不満を残す、音楽的にはソコソコの上演だが、これは矢張り演出と併せ総合的に観るべき舞台だろう。そう考えれば見た目に美しく、独善に陥らない読み替えで分かり易い、上質な舞台作りだった。また、演出家の様々な要請にキチンと応えた、歌手達とコーラスを見ていると、日本オペラの演技水準も上がって来たかと思えて来る。まあ、中嶋と鳥木と晴の三名に匹敵する、演技力のある日本人歌手の名前を挙げろとか迫られても、答えに窮するのだけれども。
2017年1月26日(木)18:30/フェスティバルホール
指揮/ミヒャエル・バルケ
大阪フィルハーモニー交響楽団
フェスティバル・クヮイア
演出/笈田ヨシ
美術/トム・シェンク
照明/ルッツ・デップ
衣装/アントワーヌ・クルック
蝶々さん/中嶋彰子
ピンカートン/ロレンツォ・デカーロ
シャープレス/ピーター・サヴィッジ
スズキ/鳥木弥生
ゴロー/晴雅彦
ボンゾ/清水那由太
ヤマドリ/牧川修一
ケイト/サラ・マクドナルド
役人/猿谷友規
一昨年の野田秀樹版「フィガロ」も記憶に新しい、金沢発で全国ドサ廻り公演の今回の出し物は「蝶々夫人」。演出にはピーター・ブルック演劇の俳優で海外での評価が高く、国内では無名の大物とも云える、笈田ヨシが起用された。
開演前から幕は上がっていて、舞台中央の四角いお座敷セットには、襖だか屏風だかを廻らせてある。金沢でのプレミエの後、ここ大阪から高崎を経て、東京へと巡演するプロダクションで、元々大掛かりなセットは期待していないにせよ、どうも今日のセットには既視感がある。そこで思い出されるのは前回公演で、これは明らかに野田フィガロのセットを踏襲している。そう考えるとアメリカ人役の三名に白色人種を配し、それ以外を日本人で固めたのも、野田方式の継承と云える。演出家は変わっても、製作側で大筋のシステムを継続するのは、むしろ望ましい事かも知れない。
笈田は結婚式の場面でモブにも丁寧に振付けし、合唱団の纏う無国籍っぽい和風の華やかな衣装も相俟って、賑やかに彩り豊かな舞台を作る。結婚式を終えると照明は落とされ、蝶々さんのお座敷セットの周りに燈される、沢山の灯篭が美しい効果を揚げる。でも、そこでピンカートンは上着を脱ぎ、下着姿で蝶々さんを新床に押し倒す、誠にリアルな演技を見せる。
そもそも冒頭で、蝶々さん宅を訪れたピンカートンは土足のまま座敷へ上がり、それを咎めもならず途惑うゴローの演技で、既に演出家の細心な工夫は明らかになっている。この際にゴローは星条旗を持ち込み、旗日の日の丸のように軒先に掲げていて、傲岸不遜に振舞うピンカートンに迎合する姿勢を見せる。また、二幕のピンカートンは戻る戻らないでモメる場面で、蝶々さんの健気な振舞いに、スズキの泣くのは当然として、中嶋も「或る晴れた日に」のアリアを歌い終えると、その場に泣き伏して鳥木に慰められる、主従二人の追い込まれた状況を表す演出もある。笈田は晴のゴローと鳥木のスズキに細やかな演技を施し、二人共これに応えて演出の意図する、蝶々さんの心の揺れを浮き彫りにした。
舞台を昭和初期へ置き換えたのも、なかなか巧妙な時代設定だと思う。誰でも思い付きそうな対米敗戦後では、親族一同に離反されるリアリティを欠くし、戦後風俗に「切腹」等と云う発想はある筈も無いからだ。また、ゴローがヤマドリとの縁談を持ち込む場面で、これを断るのにアメリカ合衆国の法律を持ち出す蝶々さんは、本気で米国人に成り切ろうとしている。キチンと勉強し来るべき日に備えている、ただポケッと旦那様の帰りを待ち侘びる、単なるお人形さんでは無いのである。
開国直後、幕末の日本でアメリカ合衆国を先進的な文明国と認識し、主体的に国籍を選択しようとする、台本の設定からしてそうなのだから、笈田の解釈は至極真っ当なものと思える。ケイトとの対話で全ての事情を悟り、シャープレスの渡そうとする手切れ金を敢然と拒否すると、蝶々さんは星条旗を踏みにじり、幕切れで短剣を手に立ち尽くす。蝶々さんは恋に生き恋に死ぬ乙女では無く、自らの信じる道を歩む女性である事を示したように思う。
指揮者のミヒャエル・バルケはドイツ人で、しかも若いのに似げず、プッチーニに造詣が深いそうである。聴けば成程、その演奏はアザトくタメを作ったり、間を空けたりするクサい音楽作りだが、それを自然に聴かせる手管もある。劇的なツボを心得て、かなりの場数を踏んだ様子も窺え、カチャカチャした音型は歯切れの良いリズムで進め、ドルチェに歌わせる局面はネットリしっとり、タップリ嫋々とオケを歌わせる。一幕の愛のデュエットでは、今日オケピットに入っているのは本当に大フィルか!と驚く程、弦楽から甘く柔らかい音を引き出し見事だった。
タイトル・ロールの中嶋彰子は初役だそうだが、期待通りの出来栄えを示す。力強くスピントする輪郭のハッキリした声で、ピンカートンを打ち負かすだけの声量と声質がある。だから十五歳の少女っぽさは無く、それが逆に今回の演出のコンセプトにハマった。因みに花嫁衣装は文金高島田の和風では無く、和洋折衷風の和服だった。
一方、デュエットの勝負で一敗地に塗れるピンカートンのデカーロは、フォルテで一点集中にスピントしないボワッとした声である。ただ、中音域以下は柔らかい音色で、ボワッとした高音部との使い分けは上手に出来た。英国出身でシャープレスのサヴィッジも、軽い声質のバリトンで声量は今ひとつ。演技的な見せ所も作れず、存在感の希薄なシャープレスだった。
オケとタイトル・ロールには満足だが、外人助っ人のピンカートンとシャープレスに不満を残す、音楽的にはソコソコの上演だが、これは矢張り演出と併せ総合的に観るべき舞台だろう。そう考えれば見た目に美しく、独善に陥らない読み替えで分かり易い、上質な舞台作りだった。また、演出家の様々な要請にキチンと応えた、歌手達とコーラスを見ていると、日本オペラの演技水準も上がって来たかと思えて来る。まあ、中嶋と鳥木と晴の三名に匹敵する、演技力のある日本人歌手の名前を挙げろとか迫られても、答えに窮するのだけれども。