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モーツァルト「ドン・ジョヴァンニ」K.527

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<いずみホール・オペラ2016/プレミエ即千秋楽>
2016年9月3日(土)14:00/いずみホール

指揮&チェンバロ/河原忠之
チェロ/上塚憲一
ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団
ザ・カレッジ・オペラハウス合唱団

演出/粟國淳
照明/原中治美

ドン・ジョヴァンニ/黒田博
レポレッロ/西尾岳史
ドンナ・アンナ/石橋栄実
ドンナ・エルヴィーラ/澤畑恵美
ドン・オッターヴィオ/清水徹太郎
ツェルリーナ/老田裕子
マゼット/東平聞
騎士長/ジョン・ハオ


 九月は演奏会シーズンの開幕だが、先月はオペラ一本にオケ定期を二つ聴き、額面通りの高揚感は一向に湧かない。そう云えば今年の夏は、遠出の旅行もせずに終わりそうだし、秋風の立つ頃には何処かへ泊まり掛けで、オペラなど観て回りたいと思う。

 今年のいずみホール特集企画はシューベルトだが、それとは関係無く、年に一度のホール・オペラはモーツァルトで、三年前の「イドメネオ」に始まり、一昨年の「フィガロの結婚」、そして去年の「魔笛」と上演を重ね、今年は「ドン・ジョヴァンニ」を取り上げる。いずみホール・オペラの魅力は、何と云っても東西の所属団体を問わず集めた、豪華キャストの筈だが、コレペティ上がりの指揮者さんの場合、歌手の選択に情実を絡ませ、必ずしもベストの布陣を敷かないのではと、僕は以前から疑念を抱いている。

 河原は指揮のド素人なのに、今日見た処でも指揮法を学習する気配は微塵も無い。打点はバラバラな上に、左右の手は同じ動きをする等、基本を知らない指揮だが、それよりも問題はオケとコミュニケーションを取ろうとせず、完全に自分の世界に浸り切っている点にある。つまり一聴衆として客席から窺う限りでは、指揮にオケが反応し、音楽を変化させているように見えないのだ。オケの方で河原の能力を見切っていて、度々後追いになる指揮を無視し、着々と演奏を進める、そんな風にしか見えないのだ。この人の拍節の示し方は生硬で、音楽を堰き止めているので、もし指揮に忠実に演奏すれば、レガートに流れるモーツァルトにはならない筈だ。

 二幕のフィナーレで、指揮者は唐突に四拍振りを二拍に切り替え、テンポはガクンと速くなる。それはアチェルラントとは呼ばず、「走り出した」と云うのだと、僕は思わず突っ込んで終う。彼の指揮は素人に有り勝ちな自己陶酔型で、見苦しく目障りですらある。ずっとチェンバロだけ弾いていれば、後はオケが宜しく遣ってくれるし、ボロを出す事も無いのにと思う。これからでも遅くは無い、河原君には地道に指揮法を習得するようお勧めしたいが、彼には長いコレペティの経験がある為、変なプライドを捨て切れないのだろう。

 また、オケは指揮抜きであっても、フォルテを盛り上げるのは容易だが、自分達だけで音量をピアニシモまで下げるのは難しい。それこそ指揮者の役割だが、河原にはそのような指示を出す素振りも無い。例えば一幕のデュエット「お手をどうぞ」や、アリア「打ってよマゼット」等、ピアニシモ主導の曲でもオケの音量は小さくならず、歌手の声はマトモに聴こえて来ない。ここで黒田や老田が、オケに負けじと声を張り上げれば、全ては打ち壊しになる。歌と伴奏の音量のバランスを取る事も出来ないのでは、オペラ指揮者失格と謗られても仕方無いだろう。

 ツェルリーナの老田裕子は、指揮者に足を引っ張られ気の毒だったが、二幕の「薬屋の歌」では柔らかい声で、甘いモーツァルトを聴かせてくれる。去年のロッシーニでは重目に感じられた声も、モーツァルトではレジェーロに響き、この方はベルカントでも抽象的な音楽とは相性が悪いと感じる。ドンナ・アンナの石橋栄実もレジェーロな声質だが、こちらはパセティックな役柄を、フィジカルの強さと直向きな歌で押し通す。石橋は蚊細いコロラトゥーラのイメージから程遠い、ソプラノ・レジェーロにしては破格の声量の持ち主で、常に力任せに成り勝ちな人である。この方の一本調子な歌は毎度の事で、細かい表現の襞とかは端から期待していない。

 ドンナ・エルヴィーラの澤畑恵美はメゾでもスピントでも無い、標準的なソプラノ・リリコと思っていたが、今日聴いた処ではパセティックな情動を表現出来るので、元カレを追い駈け回すストーカーみたいな役柄にハマったと思う。今回の三人の女声主役に付いて、僕は実際に聴くまで懸念と云うか、その配役に不審を感じていた。やや重目の老田にツェルリーナは相応しいのか、典型的なレジェーロの石橋の方が適役だろうし、リリコの澤畑もドンナ・アンナで良いのでは?等と考えていた。聴き終えた後の感想として、老田と澤畑はそれなりに適役だったが、やはり石橋にツェルリーナを唱わせれば、もっと肩の力を抜いた歌になっただろうと思う。こう言ってはアレだが、この方にはノー天気な役柄がフィットするのだ。

 僕は黒田博のタイトル・ロールを、以前びわ湖ホールの上演で聴いている。彼は役柄を完全に手の内に入れていて、持ち前の美声を強力な武器に、闊達な歌い振りで聴かせてくれる。レガートに歌いながらも、フレーズの終わり際をキッチリと切り上げる、端正なフレージングも聴いていて心地良い。これはモーツァルトの様式観に関わる問題で、出来ていて当然だが言うは易しで、この基本を素っ飛ばす歌手は幾らでも居るのである。

 この点はドン・オッターヴィオの清水徹太郎も良く心得ていて、清潔なフレージングを作っている上に、デュナーミクの抑揚と音色の変化を結び付け、委曲を尽くしたモーツァルトを歌ってくれる。今日は二幕のアリアに加えて、ウィーン上演版で追加された一幕のアリアも唱われ、清水君のレジェーロな美声をタップリ聴けて、まずは満足である。今日は二幕のエルヴィーラのアリアも唱われたので、地獄落ちの前に長いアリアを三曲も立て続けに聴かされ、いよいよお腹一杯だった。

 騎士長のジョン・ハオは額面通り、声に力のある処を聴かせ自分の職責を果たしたが、マゼットの東平聞は低音のサッパリ出ないバスで、平べったい嗄れ声で力むだけなのが鬱陶しい。レポレッロの西尾岳史も微妙で、演技はソコソコだし声量にも不満は無いが、声の個性と云うか魅力に乏しく、聴いていて面白くないのでは致し方も無い。

 演出に付いて平凡でも安心して観ていられると取るか、或いは独自の解釈も何も無い、退屈極まる舞台と見るかで意見の分かれる処だろうが、それよりも僕が問題にしたいのは、ルーティン・ワークに陥った演技て、細かい仕草や動きを歌手に丸投げしているように見える点にある。一体に日本のオペラ歌手には様式化された身振りがあり、演出家は敢えて手を出さずとも、歌手だけで適当に舞台に仕立て上げる事が出来るように思う。

 開幕直後のドンジョと騎士長の果し合いの場面、黒田の手からポロっと剣が落ちて終った処へ、ジョン・ハオは間髪を入れず剣を突き掛け、これに黒田も素手のまま身を躱す演技で応じ、最後はハオから剣を奪い取り刺し殺して見せた。決着の付いた処で、床に落ちていた剣を拾ったフルート奏者が、黒田の足元に置いた事で、一連の遣り取りは演出では無く、二人のアドリブである事もハッキリした。実に巧く誤魔化したものだが、それは同時に彼等の演技が、既成の約束事の上に成り立っている事を、図らずも顕わにしたように思う。

ドニゼッティ「連隊の娘」

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<びわ湖ホール・オペラへの招待/
2017年2月12日(日)14:00/びわ湖中ホール

指揮/園田隆一郎
大阪交響楽団
びわ湖ホール声楽アンサンブル

演出/中村敬一


マリー/飯嶋幸子
トニオ/小堀勇介
シュルピス軍曹/五島真澄
ベルケンフィールド侯爵夫人/鈴木望
執事オルテンシウス/林隆史
伍長/内山建人

ラッヘンマンを聴くvol.2京都公演

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<ラッヘンマン生誕八十年記念企画>
2016年6月25日(土)18:00/ゲーテ・インスティテュート・ヴィラ鴨川

ソプラノ/角田祐子
ピアノ/菅原幸子
クラリネット/上田希
ヴィオラ/多井千洋
パーカッション/葛西友子
ギター/山田岳/土橋庸人

ラッヘンマン「Trio fluido トリオ・フルイド/Salut fur Caudwell コードウェルへの礼砲/Got Lost ゴット・ロスト(日本初演)」


 僕はラッヘンマンに付いて、特殊奏法でキコキコカリカリな音を出させるヒトと、そんな巷に流れる風聞を知るだけで、これまで実際にを聴く機会は無かった。ラッヘンマンだけでプログラムを組むコンサートがあり、あの抱腹絶倒のブログ「職場はオペラハウスだったり」の角田祐子さんが、超難曲の日本初演に挑むと知り、それは是非聴かねばと京都まで出掛けた。ゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川と称する、無暗に長ったらしい名前の会場は、実際に行ってみて以前の京都ドイツ文化センターと知った。

 コンサートの冒頭はクラリネットとヴィオラと打楽器の三人組に拠る、「トリオ・フルイド」の演奏で始まる。産まれて初めて聴くラッヘンマンだが、割に古臭い現代音楽と云う印象で、今ひとつ面白味を欠くと感じる。だが、これはラッヘンマンの技法確立前の若書きで、後年の前衛的な作風へ転換する前の、まだ試行錯誤の途上を紹介する意図のようだ。それでも特殊奏法を多用するヴィオラと打楽器で、ロング・トーンを吹くクラリネットを支える構造が、最後に演奏された「ゴット・ロスト」と同じなのが興味深いとは、全て終わってから気付いた事だった。

 ここで三名は御疲れ様で、ギター・デュオのコンビに選手交代。「コードウェルへの礼砲」はカリカリコリコリと、ノイズみたいな音で推進力あるリズムを刻み、また或る時は対位法的に絡み合い、そうかと思えば長いパウゼで聴衆の緊張感を高める、変化に富んだ曲で面白く聴ける。弦をボトルネックで、それもブリッジの傍の随分と低い位置で抑えに掛かるので、ストロークと云うよりバシバシ叩くようにして音を出す奏法が、取り分け目を引く。ボディを叩く特殊奏法も交え、何だかギターを撥弦楽器では無く、打楽器のように扱う曲だ。また、この曲にはスペイン内戦で義勇軍に加わり戦死した、クリストファー・コードウェルの著作から引用された朗読があり、これを二人は途中からボソボソと呟くように、しかも一音節づつ区切って語る。声を出すのは専門外のギター奏者で、そこはかとない違和感と云うか、唐突感のある朗読だった。

 ギターの二人もお役御免となり暫時休憩の後、ラッヘンマンが自作に付いて語る、ヴィデオ上映会の開催となる。ラッヘンマン君は「ゴット・ロスト」を、通常の意味でのリートでは無いと頻りに強調していたが、そんなもん言わずもがなの話で、始めから分かり切ってるやろと思う。この場にシューベルトやR.シュトラウスみたいな曲を期待し、座っている輩が居る筈も無い。いや、もしかすると二、三人居たのかも知れないが、少なくとも前半の二曲を聴いた後に、そんな虚しい期待を抱く者は皆無だっただろう。

 最後は本日のメイン・イヴェント、ラッヘンマンの近作で日本初演の「ゴット・ロスト」である。今回は京都と東京の二公演の為だけに、ドイツ在住でラッヘンマンの嫁はんでもあるピアノの菅原幸子と、シュトゥットガルト州立歌劇場専属の角田祐子と、わざわざ二人のスペシャリストを招く力の入れようである。この曲のテキストはニーチェの箴言と、恋文ってのは常に滑稽なもんだと言ってる詩と、洗濯籠を探す話の三つと支離滅裂で無意味の極みだが、まあラッヘンマン君の意図もその辺りにあるのだろう。

 ラッヘンマン君の力説する通り、「ゴット・ロスト」での角田祐子は舌打ちしたり、頬っぺたを叩いて音を出したり、弦に声を共鳴させようと、ピアノの蓋の下に頭を入れて歌ったりする、特殊奏法テンコ盛りの曲である。その多様な特殊奏法は、ただ単に奇を衒っている訳では無く、角田祐子が声をスピントさせた際、ソプラノの高音域の美しさを際立たせる効果も図られている。彼女にはレジェーロでも濃い目の音色があり、その声質そのものを表現力として、ラッヘンマンの峻厳な音楽に寄り添っている。

 菅原幸子にも立ち上がってピアノに首を突っ込み、手で弦をハジく内部奏法だけでは無く、何やらモゴモゴと唱わせ、角田に合いの手を入れさせる。まあ、歌は兎も角として、菅原には堅実なテクニックがあり、角田の広いダイナミク・レンジを駆使する歌と渡り合い、お互いに相乗効果を揚げていた。ギター・デュオは絶対的な音量が小さく、振幅の広い音楽を作れない代わりに、ピアニシモに耳を傾けさせるテンションの高さがあった。これに対し、ソプラノ歌手とピアニストの丁々発止の遣り取りで演奏を盛り上げる、「ゴット・ロスト」はコンサートの掉尾を飾るのに相応しい、力の籠った音楽だった。

 特殊奏法ばかりが喧伝され、奇を衒った技巧に走る作曲家と、そんな風に思われ勝ちなラッヘンマンだが、今日は初めてを実際に聴く機会を得て、この方は二十一世紀の今を生きる我々に取り、掛け替えの無いアクチュアルな存在と知らされた。次回「ラッヘンマンを聴くvol3」のコンサートの開催は一体何時になるのか、今から待ち遠しい想いのする程だ。

ワーグナー「ラインの黄金」

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<コンサートオペラ/プレミエ即千秋楽>
2016年9月11日(日)16:00/愛知県芸術劇場コンサートホール

指揮/三澤洋史
愛知祝祭管弦楽団

演出/佐藤美晴
美術/松村あや
照明/杉浦清数
衣装/塚本行子

ヴォータン/青山貴
ローゲ/升島唯博
アルベリヒ/大森いちえい
ミーメ/神田豊壽
ファゾルト/長谷川顕
ファフナー/松下雅人
フリッカ/相可佐代子
フライア/金原聡子
ドンナー/滝沢博
フロー/大久保亮
エルダ/三輪陽子
ラインの乙女/大須賀園枝/船越亜弥/加藤愛


 餡かけスパと海老ふりゃードッグの街、名古屋のアマチュア・オーケストラが、四年越しでリング・チクルスに取り組む。世界的に例を見ない壮挙との説もある、愛知祝祭管弦楽団に拠る歴史的な挑戦である。このオケを僕は六年前、「トリスタンとイゾルデ」の抜粋上演で聴いているが、その際にも指揮者を務めた三澤洋史に、僕は余り良い印象を持たなかった。今日にしても、一体どのような演奏になるのか、半信半疑で訪れたと云うのが正直な処だ。ただ、ホールに入って舞台を見渡せば、そこには六台のハープと十挺のコントラバスが鎮座していて、こりゃこいつら本気だなと思う。

 実際に演奏が始まると、冒頭のホルンの揺れる音程に不安を覚えるが、その後は持ち直した演奏に、ジックリと耳を傾ける。だが、やはり三澤の指揮に、僕は納得し難いものを感じる。盛り上げるべき場面で盛り上がらず、強調すべきフレーズを素通りし、聴いていて歯痒い思いをさせられる。考えてみれば、この人にバイロイトでの長い経験はあっても、オーケストラとは無縁なので、リングでは合唱のある「神々の黄昏」にしか関わってはいない筈だ。勿論、アマオケの場合、多忙な有名人を呼ぶより、親身に付き合ってくれる指揮者を選ぶ方が、良い結果を出す可能性は高そうだけれども。

 アマオケ相手に言っても詮無い事だが、弦楽パート内部の音程がバラけて倍音も鳴らず、ヴァーグナーらしい重厚な響きは出て来ない。また、オケのメンバーはヴァーグナーを演奏する際の、コツのようなものを掴んでおらず、旋律は横に流れて行くだけで、振幅の広いウネるような音楽にならないのである。指揮者のオケドライブにも不審な点は多く、アマチュアらしい熱演にも空回りの印象しか残らない。

 歌手には専門家を揃え、隙のない無い布陣を敷いていたと思う。中でもヴォータンの青山貴は、やはり声量と声そのものの輝きの両面に傑出していて、他とのバランスを失すると感じる程に、立派な歌い振りだった。今回のキャストはそれぞれに適役を集めて、良いアンサンブルを作っていたと思う。取り分けアルベリヒにローゲとミーメの三人組は、それぞれの役柄にピッタリの声質とキャラの立ち具合で、今日の上演の良質の部分を担ったと思う。ただ、みんな声量に乏しいようで、偏差値は高くとも平均点は低かったかも知れない。終盤のワン・シーンに登場し、ひとくさり唱うだけのエルダで、三輪陽子も抜群の声の存在感を示した。それが彼女の声の力に拠るのか、或いは計算されたお膳立あっての事なのか、僕に判断は付かなかったけれども。

 逆に残念だったのはファゾルトの長谷川顕で、あれ?何だか全然声出てないじゃんと、僕は聴いている間ずっと首を捻っていた。これが一時の不調に過ぎず、経年劣化に拠る衰えでなければ幸いである。隣りで唱うファフナーもイマイチで、巨人兄弟の声は何れも迫力を欠き、ファゾルト殺しの陰惨な場面の、インパクトまで削いで終ったのは残念至極だった。その他のキャストに多少のデコボコはあるものの、アンサンブルとしては何の不満も無かった。クラシック業界に伝手を持たないアマオケの主催公演で、これを誰の功績かと考えれば、恐らく新国立劇場合唱団指揮者の手柄に帰すのだろう。さすがに声の専門家のセンスの良さと、これだけはを誉めて置きたい。

 だが、今日つくづく思い知らされたのは、幾ら歌手が上手な歌を唱っても、満足すべきヴァーグナー演奏にはならない事だ。オケは決して歌手の伴奏では無いし、最も雄弁にヴァーグナーの音楽を語るのは、恐らく歌手では無くオケだろう。今日、表現力に乏しいオケに乗っかり、唱う歌手達の声を聴いて思うのは、この演奏を歌抜きで聴けるだろうか?云う事である。僕はピアノ伴奏のヴァーグナー上演等、全く聴きたいとも思わないが、歌無しのオーケストラ・コンサートであれば、ちょっと興味を唆られるのである。

モーツァルト「魔笛」K.620

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<あいちトリエンナーレ2016プロデュースオペラ>
2016年9月19日(月)15:00/愛知県芸術劇場

指揮/ガエタノ・デスピノーサ
名古屋フィルハーモニー交響楽団
愛知県芸術劇場合唱団

演出・美術・照明・衣裳・振付/勅使川原三郎
ナレーター&ダンサー/佐東利穂子
東京バレエ団

タミーノ/鈴木准
パミーナ/森谷真理
夜の女王/髙橋維
ザラストロ/妻屋秀和
パパゲーノ/宮本益光
パパゲーナ/醍醐園佳
モノスタトス/青栁素晴
弁者&僧侶/小森輝彦
僧侶/高田正人
武士/渡邉公威/小田桐貴樹
侍女/北原瑠美/磯地美樹/丸山奈津美
童子/井口侑奏/森季子/安藤千尋


 三年に一度のトリエンナーレで、今年の愛知県芸制作のオペラは、勅使川原三郎演出の「魔笛」である。僕は前回「蝶々夫人」は見逃したが、六年前の「ホフマン物語」は観る事が出来て、その力の籠った公演に甚く感銘を受けた。今回も充実した公演になるものと、大いに期待しつつ名古屋まで出掛けたが、結論から言えばその期待は大きく外されて終った。

 今回の上演でセットらしきものは、天井からブラ下がるメタリックなリングのみで、舞台上には何も置かれていない。メタルリングは高さや向きを変えながら、照明を当てピカピカ光らせ、その下の空っぽの舞台上では、ダンサーが歌手を囲み群舞やソロで踊る。具象的なセットは無い上に、歌手も最小限の身振りだけで、殆んど演技はしない。

 演出家は「今までのオペラ演出をゼロから見直す。歌があるのに何故芝居をするのか、演技しなくとも歌で内面は表現出来る」として、「僕は“抽象的である”のが大事だと思う。ドイツ語の台詞で演技するのを止め、内容を分かり易いようにガイドとして、日本語のナレーションを入れる。抽象化した表現が一番適切だと思う」と述べ、「演劇的な空間では無く、音楽を主体にした身体表現の場所になる。そしてこれもオペラだと思っています」と言い切っている。また、「演劇的な部分で日本人がドイツ語で喋って、日本人が観るというのは、僕にとっては奇妙な感じがした」とも言っているが、これは「フィガロの結婚」を演出した、野田秀樹もほぼ同じような趣旨を述べている。

 だが、実際に観た舞台は、これをオペラ全曲上演と呼べるのかと、根本的な疑問すら生ずる出来映えだった。歌を聴きつつテンションを揚げても、平坦なナレーションの声が入ると、こちらの高揚する気分に水を差すのである。結局、音楽と語りは平行線のまま、盛り上がりと落ち込みの繰り返す内に終わった印象だ。歌手が台詞を喋り、演技してこそモーツァルトの音楽も生かされる訳で、これをナレーションでブツ切りにされると、単なる「魔笛」抜粋名曲集か、ガラ・コンサートの類としか思えないのである。斬新な演出と喧伝されていたが、予算不足のようなスカスカの舞台で、オペラ上演とも呼べないシロモノを見せられた気分だ。

 モーツァルトは音楽と台詞を一体として、歌芝居としてのジンクシュピールを作曲した。その事実を今回の「魔笛」は、逆説的に証明したように思う。歌だけを唱い、台詞を喋らないパパゲーノに何の魅力も無い事も、目から鱗の発見だった。大蛇を倒したと付いた嘘がバレて口枷を嵌められ、試練を受ける間にタミーノへチョッカイを出し、初めて出逢ったパパゲーノと漫才する等、歌手がコメディ演技で美味しい処を浚う場面を、全てキレイさっぱりカットされたのでは、パパゲーノに感情移入する事はほぼ不可能になる。宮本益光のパパゲーノに、その場限りのオペラ上演に生きる存在感は無く、ただ上手に唱える歌手として、舞台に立っているだけだった。

 演出家は色々と御託を並べているが、長い講釈は自信の無さの表れで、実際に舞台の仕上がりを見た後、これは失敗だと内心ホゾを噛んだのでは?と、僕は想像を逞しくしている。ナレーションの入る度にテンションを下げる、この舞台が音楽を盛り上げる機能を果たしていないのは、誰の目にも明らかだろう。演技せずとも歌で内面を表現出来ると云う主張は、総合芸術としてのオペラの全面否定だろう。旋律とハーモニーに言葉を載せた時点で、音楽から幾許かの抽象性は失われ、歌詞を伴った「歌」は、台詞付きの「物語」に沿って展開する。歌手の台詞をカットし、「物語」を取り除いた「魔笛」が、オペラ上演として成立しない所以である。

 タミーノとパミーナは今風の軽装で、夜の女王とダーメの三人は黒い鳥の、パパゲーノとパパゲーナは白い鳥をイメージした衣装を着けていて、この辺りは一般的なデザインだろう。これに対し、ザラストロとモノスタトスは滑るように移動する異形で、僧侶はチェスの駒でビショップ、クナーベの三人は白く丸っこい着ぐるみである。特にクナーベはチョコチョコと歩き回り、客席の笑いを誘っていたが、これはそんなものでも出さない事には、観客の興味を繋ぎ留められないからでは?と、僕は邪推する。

 主役級を東京二期会で固めたキャストは、ほぼ額面通りの出来だった。タミーノは既に鈴木准の当り役になっていて、レジェーロな声質はそのままで声の力も増し、安定感のある歌い振り。ザラストロの妻屋秀和と、パパゲーノの宮本益光の二人のベテランに付いては、最早言わずもがなだろう。宮本亜門版「魔笛」で夜の女王だった森谷真理は、今回パミーナに配置転換された。森谷は重目のリリコで、役に合う声なのか意見の分かれる処だろうが、これは肝っ玉母さん風と考えれば良いのだろう。ただ、夜の女王の髙橋維のレジェーロな声質自体は悪くないが、如何にもひ弱で難曲に力負けして、こちらは明らかなミス・キャストだろう。

 単純な話、潤沢な予算を使えるのなら、こんな空っぽの舞台は有り得ないと思う。恐らく抽象的な舞台作りは、予算不足を逆手に取ろうとした演出家の苦肉の策だろう。「ホフマン物語」と「蝶々夫人」で、華々しい成功を収めたトリエンナーレだが、どうやら愛知県の行政は、オペラ上演に対する熱意を失っているように思われる。

多治見少年少女合唱団第43回定期演奏会

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<世界の人たちに聞いてほしい日本の歌>
2016年9月23日(金)18:30/可児市文化創造センターala

指揮/柘植洋子
ピアノ/小坂圭太
筝/市原みわ
多治見少年少女合唱団とシニアコア

三善晃「朧月夜/茶摘/紅葉/雪/夕焼小焼(唱歌の四季)/阿波踊り」
池辺晋一郎「ポロ・ヘチリ」(東洋民謡集 I )
柴田南雄「さくら/北越戯譜」
間宮芳生「しゅけまっけ/ゆりは」(うたのわたりどりたち)
林光「はるよこい/さつきばれ/うしかい・おりひめ・たなばた」(はるなつあきふゆ)


 地元の公共ホールは改装中だそうで、多治見少年少女合唱団の今年の定演は、お隣りの可児市文化創造センター、通称アーラで行われる。アーラは館長を務める演劇評論家の衛紀生が、独創的な劇場経営に取り組んでいる、全国的に著名な市民ホールである。可児にせよ多治見にせよ、岐阜の片田舎から全国に劇場文化を発信する、その意気や壮と言うべきだろう。

 来年、多治見少年少女合唱団はバルセロナで行われる、世界合唱シンポジウムに招待されたそうで、その準備として今日のコンサートは、当代一流の作曲家のアレンジに拠る、日本の伝統的な歌を集め行われる。最初は十代と思しき少年達が男声部を務める、混声三部の三善晃「唱歌の四季」から五曲。指揮者は随分と大きな身振りで、広いダイナミク・レンジを使い、フォルテからピアノへバロック風にクッキリと音量を落とす。明暗をハッキリさせ、単純に白か黒かに割り切る音楽作りで、専ら曲の並べ方で変化を付ける演奏である。「雪」では縦をピタリと揃え、スタッカート気味のリズムの立て方で面白い効果を揚げる。一転して「夕焼小焼」はシットリと、でも終盤に向けヒタヒタと盛り上げ、最後は確りとハイCを出し切り、しかもディミヌェントで締め括って見せて、声に力のある処を聴かせる。

 その声の力は、次の「東洋民謡集」冒頭の鮮やかな、僕は少し驚かされた程のフォルテシモでも誇示される。年若い十名足らずの男声が二部に分かれ、難易度の高い混声曲を歌い切り、その技術力に感心させられる。この曲でも指揮者の輪郭のハッキリした、明快な演奏振りは変わらない。

 暫時休憩の後、三番まで歌詞のある「さくら」では、ウットリする程に美しいハーモニーで聴かせる。前半はカチャカチャした曲が多く、一転して雅びな古謡をシットリと美しく歌い上げ、その音楽性の幅広さにも驚かされる。間宮芳生の二曲では、お約束通り地声も交え、民謡らしく且つ美しく聴かせる。フォルテの力強さでは無く、ピアニシモのロング・トーンを保つ技術力こそ、彼等の演奏の魅力の大元なのだろう。児童合唱団を名乗りながら、多治見では大人の女声が声に力強さを与え、そこへ子供の声を混ぜた独特な魅力で聴かせる。

 林光の三曲は民謡では無くソングで、ここはデュナーミクに工夫を凝らし、子供らしい情感を醸す。三善晃「阿波踊り」では一転し、鳴り物を入れ手拍子や振付けも交え、賑やかに楽しく演奏する。自分の引き出しから次々に、曲に見合う音楽性を取り出して来る、指揮者の才能の幅広さにも感心させられる。

 最後は本日のメイン・プロ、柴田南雄のシアター・ピースで「北越戯譜」。曲は子供達がわらべ唄を唱いながら一人、また一人と舞台袖から出て来て始まる。ユニゾンで唱われるわらべ唄は次第にヴォリュームを増し、やがて全員が舞台上に揃うと、会場中に音像を広げ美しく響き渡る。子供達が手毬を突きながら唱うユニゾンのわらべ唄は、何時しか対位法的に複雑になり、再びユニゾンへ戻るのに連れて、お砂味や羽根突きに遊びを切り替える子供も出て来る。音楽とお遊戯の移行は指揮者のアドリヴで決まるようだが、「追分節考」で団扇を掲げるような派手なパフォーマンスは無いので、指揮者は飽くまで黒子に徹しているように見える。どうやら移行のタイミングは、この曲を面白く聴かせる勘所になっていて、歌声の美しさもその効果を際立たせていると感じる。

 唐突に曲を遮るように、男の子が舞台奥に置かれた和太鼓を叩き出すと、わらべ唄は盆踊りに切り替わり、何人かは舞台から客席に降り立ち、みんなで新潟県魚沼地方の「大の阪」を踊り出す。やがて盆踊り唄も最高潮に達した処で、音楽は再びわらべ唄に戻り、パフォーマンスも二人一組での紙風船の突き合いとなる。曲の始まりと同じように、子供達は紙風船を突きながら一人また一人と袖へ戻り、曲を終える。

 「北越戯譜」では合唱団のメンバーに幼児を抱えた女性も居て、僕は泣き出すのではないかと思って見ていたが、結局この子は最後まで大人しくしていた。恐らく泣き出したら泣き出したで、それもパフォーマンスに取り込もうと、指揮者は事前に胸算用していたのだろう。この辺りの図太い根性は買えるが、ピアノの小坂を舞台袖へ先に帰したり、子供と握手して回るステージ・マナーは感心しない。特に握手は田中信昭の真似で、全く板に付いていないので、お止めになるのが宜しいかと思う。

 でも、今日は多治見少年少女合唱団の美しい歌声をタップリ聴けて、まずは満足である。まあ、ジュニアコーラスなのに、オバサンが沢山居るのには首を傾げるが、それで彼等の魅力を減殺しているとも言い切れない。失礼ながら多治見のような片田舎で、現代音楽をハイレヴェルな演奏で披露する、いたいけない地元の子供達に脱帽である。

モンテヴェルディ「ポッペアの戴冠」

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<あいちトリエンナーレ2016舞台芸術公募プログラム>
2016年9月24日(土)14:00/名古屋市芸術創造センター

演出/池山奈都子
照明/曽我裕幸
衣装/下斗米大輔

東海バロックプロジェクト
ヴァイオリン/荻野美和/廣田雅史
チェロ/高橋弘治
ガンバ&リローネ/宇田川貞夫
テオルボ&バロックギター/佐藤亜紀子
リコーダー/小谷智子/片岡博明
チェンバロ/杉浦道子
チェンバロ&オルガン/鈴木美香

ポッペーア/加藤佳代子
ネローネ/小林木綿
オットーネ/彌勒忠史
オッターヴィア/志田理早
セネカ/森田学
乳母アルナルタ/丹羽幸子
侍女ドゥルシッラ/本田美香
小姓ヴァレット/長谷川菊
侍女ダミジェッラ/石原由佳子
愛の神アモーレ/原田幸子
兵士/片山博貴
兵士&警吏リットーレ/蔦谷明夫


 東海バロックプロジェクトは名古屋近辺の古楽器奏者が集まり、専ら室内楽のコンサートを自主公演している団体らしい。音楽監督的な存在は置かず、大編成の曲に取り組む際には、その都度他所からリーダー格を呼ぶようで、今回はガンバ奏者の宇田川貞夫をアドヴァイザーとして招聘している。因みに「ポッペーアの戴冠」は、今日が名古屋初演だそうである。

 器楽と声楽でほぼ半々づつ、二十名余りでの上演だが前に立つ指揮者は居らず、コンミスの合図で演奏は始まる。前奏の後、まずはプロローグで愛の神アモーレ、つまりキューピッドの登場だが、暫く待っても運命の神と美徳の神は出て来ない。はて?と首を傾げ配役表を見ると、三人で掛け合いする筈の神様は、アモーレの原田幸子しかクレジットされていない。全く開けてビックリだが、今日は昼夜二回公演で時間短縮の為の大幅カットも、当然と言えば当然だった。まあ、そんな実際的な事情は分かるにせよ、セネカがネローネに死を命ぜられる場面を、完全に素っ飛ばしたのには仰天したし、オッターヴィアのアリア「さらばローマ」の後、直ちに愛のデュエット「ずっと貴方を見つめ」に移り、そのまま幕切れとなったのには、呆れるよりも笑って終った。

 それはさて置いて話を戻すと、アモーレの原田幸子は軽やかなレジェーロで聴かせ、まずは快調な滑り出しである。しかし、続いてネローネを警護する兵士は、若い二人の歌と演技が未熟で、又もや気を削がれて終う。脇役に若手を使うのは日本オペラ界の悪しき慣習で、小さな役にベテランを配してこそ、上演全体のレヴェルも高まるのだ。

 本日出演の歌手の中で唯一、名を知られた存在であるオットーネの彌勒忠史は、さすがの声量で他を圧倒するが、モンテヴェルディらしい曲想の切り替えが出来ない。一幕のアリア「やはりここに帰って来た」で、疲労困憊でローマに帰着した安堵感から嫉妬へ、喜びから躊躇いへと、一瞬の内に転換する劇的な効果が測られていないのである。ただ、これは彌勒独りの責任では無く、オケの演奏も曲想の転換は上手く行っていない。もっとテンポをハッキリ切り替え、明暗をクッキリ際立たせないと、モンテヴェルディを特徴付ける劇的な彫りの深さは失われて終う。

 今日、歌手の中で傑出していると感じたのは、ネローネの小林木綿だった。スピントしてから柔らかく歌って、音色を多彩に変化させ、ネローネの激情を表現して見事だった。だが、その相方を務めるポッペーアのソプラノはパッとせず、上演全体の印象まで悪くしている。スルスルと横に流れるだけで、聴かせ処を把握しておらず、音色の変化も無いので明暗の対照は付かない。技術的に中音域以下で声に芯が感じられず、表現力そのものを失くして終う。

 これに対し、オッターヴィアの志田理早は声に力のあるメゾで、スピントしてから音量をメゾピアノまで落とす、バロック唱法を心得ているし、ドゥルシッラの本田美香も自分の役処を弁えた歌い振りだった。バロック唱法では基本的に力を入れてから抜くフレージングで、その際にクレシェンドするのかディミヌエンドなのか、或いはリタルダンドするのかアチェルランドなのか、臨機応変に個人で判断せねばならない。その辺りの理解を欠く歌手の場合、起伏は無く彫りの浅い、表現力を欠いた歌になって終う。今日の歌手で云うと、アルナルタはテノールの音域の役をメゾに歌わせ、サッパリ声を出せずに平板で、ヴァレットは声自体はスープレッド系で面白かったが、やはり平板な歌い振りに終始した。セネカはそもそも声量不足で、メリハリが付かなかった。

 この公演の為、掻き集められた歌手達には経験豊富な者も居れば、バッハ以前の音楽の様式感を根本的に欠く者も居て、モンテヴェルディへの理解度に激しくデコボコがある。様式感を欠いた浅い解釈で、訳も分からず上っ面の歌を唱っている連中は、然るべき専門家がビシバシ指導すべきで、今回その役割は顧問格の宇田川貞夫が担うべきだった。だが、アドヴァイザー等と云う、ユルイ肩書で参加している時点で宇田川に、そのような責任を負う意志の無いのは明白だ。今回の上演全体の責任を引き受ける、ディレクターを明示しない時点で、上演の成功が覚束ないのは分かり切った話だ。

 演出も「こんなもの本当に必要か?」と言いたくなるレヴェルだった。ホリゾントの映像も、舞台上に置いたライトだけの照明もショボく、何れも場面毎の雰囲気を伝える効果は無い。歌手は手を胸に当てたり、前へ差し伸べたりするだけで、動作に何の意味付けも無く、もう少し内容に絡めた動きを考えて欲しい。女声で脇役の四名は、何れも黒のドレスに色違いのショールを掛け、舞台に出て来た段階では誰が誰だか良く分からない。恐らく演出家は、舞台上の交通整理すらままならない程、モンテヴェルディの音楽に無理解なのだと思われる。

 無い方がマシな演出に、抜粋上演と云うべきダイジェスト版で、かなり残念な「ポッペーアの戴冠」だった。今後は舞台作りに掛ける手間と費用を、全て音楽的な練磨に充当し、演奏会形式全曲上演を目指して欲しい。取り敢えずは充全なオペラ上演の為、モンテヴェルディとルネサンス・バロック音楽に精通した、適任の指揮者を探す事からお勧めしたい。

プッチーニ「マノン・レスコー」

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<第25回みつなかオペラ/プッチーニ・シリーズ>
2016年10月2日(日)14:00/川西みつなかホール

指揮/牧村邦彦
ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団
みつなかオペラ合唱団

演出/井原広樹
美術/アントニオ・マストロマッテイ
照明/原中治美
衣裳/村上まさあき
振付/生駒里奈

マノン/並河寿美
デ・グリュー/藤田卓也
レスコー/迎肇聡
財務官ジェロンテ/片桐直樹
学友エドモンド/谷村悟史
音楽教師/森理奈
舞踏教師/橋本恵史
船長/西村明浩
点灯夫/柏原保典
宿屋の主人&警備隊長/赤澤俊明


 昨年まででベッリーニ三連発上演を終え、今年から新たにプッチーニ三連発に取り組む、川西みつなかオペラの演目選定は常に意欲的である。キャパ五百名のホールでプッチーニを遣る、その蛮勇も誠に凄まじい。このホールは一見した処、室内楽専用のようにも見えるが、小さいながらオケピットを完備して、オペラ上演に対応している。

 そのピットを開演前に覗き込むと、トランペットとトロンボーンは一本づつで、コンバスは二台にチェロは四台と、オケは総勢で三十名余りのようである。切り詰めた編成でプッチーニでもヴァーグナーでも、何でも遣るのは、ヨーロッパの田舎のオペラハウスでは普通にあるらしいが、原典絶対主義的な傾向のある日本では珍しいかも知れない。まあ、原典通りの編成か、然らずんばヴォーカル・スコアと云うのも融通の利かない話で、臨機応変なリダクション版での演奏は、もっと奨励されて然るべきだろう。

 でも、指揮の牧村は実に気持良さそうにオケを煽るが、二幕までは空回りした印象で、演奏自体は然程に盛り上がらない。また、マノンの並河寿美は最初から確り歌えていたが、デ・グリューの藤田卓也の方は、一幕のアリア「見た事もない美人」が、くぐもったような抜け切らない声で、不安定な立ち上がりを露呈し、演奏全体のクオリティを下げて終う。ただ、デ・グリューは全曲に亘り、立て続けにアリアやデュエットを歌わねばならず、負担の大きい役である事は間違い無い。序盤を抑え気味に入るのは、致し方無い部分もあるが、やはり藤田の力不足と云うか、エンジンの掛かりの遅いのは否めない処だ。

 中音域以下のヴォリュームに不足し、高音部とのバランスを失していた藤田の歌声も、曲の進むに連れて次第に修正される。高低の音域で満遍なく磨かれた美声で、フレージングもスムーズに繋げ、超高音も余裕で聴かせ、三幕のアリア「正気を失くした私を」では絶唱と云える出来栄えを示す。並河寿美の方は、二幕のアリア「柔らかいレースに包まれても」から既に本調子で、四幕の「棄てられて一人寂しく」では、高低の音域で満遍無く声を響かせ、ピアニシモでは倍音を存分に鳴らし、そこからフォルテシモまで持って行く、抜群のテクニックで存分に聴かせる。

 レスコーの迎肇聡は小さなホールで楽々と歌えて、声量不足を感じさせず、恐らくは実力以上に聴かせる。ちょっと癖のある声質も、エドモンドの谷村悟史の素直な声と対照的で、良いアンサンブルを作っていた。ジェロンテの片桐直樹は寄る年波か、声の音色が年寄り臭くシワ枯れて、でもなかなか良い味を出していた。

 しかし、そんな風に歌手の揃って来た三幕以降も、上演としては今一つ不完全燃焼の感が残る。プッチーニが「マノン・レスコー」に付けた音楽は、ブンチャッチャの単純なイタオペの伴奏と、完全に一線を画してシンフォニックだが、但し現代的にクロマティックな響きは無い。今日の指揮者のように、ベルカント・オペラのような調子で煽るだけでは、その音楽を充全に表現出来ない憾みは残る。

 これまで僕は完全にボンクラ認定していた演出だが、今回は不自然な小細工を控え、交通整理に徹したのは祝着至極である。ただ、二幕でマノンとデ・グリューがイチャつく場面は、折角ダブル・ベッドも出した事だし、もっと露骨に性行為を表現すれば、ジェロンテの嫉妬の深さも伝わる筈だが、そこまで彼に望むのは酷と云うものだろう。

チャイコフスキー「エフゲニー・オネーギン」

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<マリインスキー・オペラ2016来日公演>
2016年10月8日(土)14:00/京都会館

指揮/ヴァレリー・ゲルギエフ
マリインスキー・テアトル管弦楽団
マリインスキー・テアトル合唱団

演出/アレクセイ・ステパニュク
美術/アレクサンドル・オルロフ
照明/アレクサンドル・シヴァエフ
衣装/イリーナ・チェレドニコワ
振付/イリヤ・ウスチャンツェフ

タチヤーナ/マリア・バヤンキナ
オネーギン/アレクセイ・マルコフ
レンスキー/エフゲニー・アフメドフ
オルガ/エカテリーナ・セルゲイエワ
グレーミン公爵/エドワルド・ツァンガ
ラーリナ夫人/スヴェトラーナ・フォルコヴァ
乳母フィリピエヴナ/エレーナ・ヴィトマン
ムッシュゥ・トリケ/アンドレイ・ゾーリン
立会人ザレツキー/アレクサンドル・ゲラシモフ
隊長/ユーリー・ブラソフ


 ヴァレリー・ゲルギエフは弱冠三十五歳で、キーロフ(現マリインスキー)劇場の芸術監督に就いた後、ソヴィエト崩壊と云う最大の危機を乗り越え、三十年近くに亘りその重責を担い続けると共に、人気指揮者として世界中を駆け回る、絵に描いたようにエネルギッシュな人物である事は、皆様ご存じの通りである。マリインスキー劇場は度々来日を重ねていて、僕もこれまでにびわ湖ホールで「運命の力」を、東京遠征ではリング・チクルスを観る機会を得た。改めて考えると、肝心要のロシア物は今日が初めてで、あたら貴重な機会を逃して来たと、我が人生の来し方を振り返るのである。

 一幕のタチヤナとオルガの姉妹が無邪気に絡む場面。タチヤナのバヤンキナは、声の立ち上げからスピントの位置に入り、そのまま真っ直ぐ強力に引き伸ばすストレートな発声で、とてもでは無いが夢見る文学少女とは思えず、最初から公爵夫人の貫録を感じさせる歌い振りである。声の音色自体は余り変わらないが、中音域以下を確り出せて、高低の音域で自然な変化が付くのと、豊かな声量で広いダイナミク・レンジを駆使し、抒情的と云うより女性の芯の強さを表現している。オルガのセルゲイエワも、声量に恵まれた柔らかいメゾで、デュエットではタチヤナと存分に張り合い、この二人の歌は聴き応え充分である。女声陣はラーリナ夫人と乳母も役にハマる声で、脇もキッチリと固めている。

 これに対する男声陣でタイトル・ロールのマルコフは、鼻腔より下に響かせるような発声で、オネーギンを悪役っぽくする、クセのある声質のバリトンである。個人的にオネーギンはロシアっぽく暗い音色でも、美声である事は必須条件と思う。レンスキーのアフメドフは声量に乏しく、高音部にも伸びやさを欠き、平べったい歌い振りに終始した印象を受ける。グレーミンのツァンガも、この役に必要なバスの深みに欠けて味わいに乏しく、最低音も出し切れていない。まだ若い人のようで、これからバス歌手として経験を積んだ上で、グレーミンに挑戦すべき素材だろう。

 ゲルギエフはマリインスキーのオケから軽やかな音を引き出し、歌と絡む木管の出し入れを浮き立たせ、曲の対位法的な側面を強調する。爆演派のイメージとは異なる美しく抒情的な演奏で、合唱入りの陽気で愉快な場面から、タチヤナの情緒纏綿とした歌へ、一瞬の内に切り替える手際も、手紙のアリアでピアニシモから、いきなりフォルテシモを炸裂する、あざとい音楽作りも堂に入っている。ただ、僕は美しく軽やかな音楽作りと、オケに対する分析的な手付きに、やや違和感を覚える。もう少しオケに厚みがあれば、演奏に泣きも入るだろうし、果たしてゲルギエフは何処まで、チャイコフスキーの音楽に入り込んでいるのか疑念を覚える。

 つまりタチヤナもオネーギンも個性の強い声で、彼等の歌から抒情性は伝わらず、軽やかなオケの音と齟齬を来たすのである。歌手は若くて美男美女揃いだが、声は必ずしも役とマッチせず、そこにゲルギエフの計算違いは無かっただろうか。主役二人の声に合わせ、もっとネッチョリと濃厚に、オケを歌わせても良かったと思うのだ。三幕のポロネーズ辺りも、聴衆が思わず踊り出したくなる位、思い切り遣って欲しかった。

 読み替えの無いオーソドックスな演出は、本場ロシアのご当地物と云う意味で、一応の見応えはあったと思う。一幕では玉入れのように、そこら中に転がっている赤と黄色の林檎を、二幕はコーラスのメンバーの纏ったルバシカやサラファンを彩りとする舞台で、三幕では林立する灯籠のような照明と共に、チャイコフスキーの抒情的な音楽に対応する美しい舞台だった。このプロダクションは中国国家大劇院との共同制作で、外国人向けにステレオ・タイプな帝政ロシアを視覚化したとも云えるが、でもこれを本場のロシア人も結構喜んで観ているようで、ゲルギエフは「理想的なプロダクション」で「これだけは何時も満員」と主張するのである。

 只まあ、巡業向きに簡素なセットや、灯籠のような照明の使い方や、緞帳を引いて舞台空間を狭める手法等、どうしても昔懐かしいスタニスラフ・ガウダシンスキーの舞台を連想して終う。要するにオーソドックスなロシア物の演出では、未だガウダシンスキーの呪縛から逃れ切れないと云う事だろう。何処かで見たようなデジャヴに襲われる舞台で、そろそろチャイコフスキーやムソルグスキーやボロディンも、もう少し捻った演出で観たいと思う今日この頃である。

モンテヴェルディ「オルフェオ」

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<日伊修好百五十周年記念/沼尻竜典五幕補筆版>
2016年10月12日(水)19:00/東京芸術劇場

指揮&チェンバロ/アーロン・カルペネ
ジャパン・オルフェオ管弦楽団
ジャパン・オルフェオ合唱団

演出/ステファノ・ヴィツィオーリ
美術/白石恵子
照明/ネヴィオ・カヴィーナ
衣装/アンジェラ&ルカ・ミッソーニ

オルフェオ/ヴィットリオ・プラート
エウリディーチェ/阿部早希子
音楽の女神&希望/ジェンマ・ベルタニョッリ
使者&プロセルピナ妃/フランチェスカ・ロンバルディ・マッズーリ
カロンテ&プルトーネ王/ウーゴ・グァリアルド
妖精ニンファ/佐藤裕希恵
冥界の霊/西久保孝弘
牧人パストラーレ/相山潤平/新田壮人/北嶋信也/金子慧一


 モンテヴェルディ大好きで、オペラ上演と知れば東奔西走するが、今回の「ジャパン・オルフェオ」と称する催しは随分と大掛かりで、そこへ逆に不安を感じる程の規模である。そもそも二千席の東京芸術劇場で二回上演も凄いが、更にプルミエは鎌倉の鶴岡八幡宮に特設ステージを設けた野外上演で、一体どんだけ金掛けてんだと思う。奏者には日伊の手練れをズラリと揃え、アントネッロの三人組にチェンバロの渡辺順生やチェロの懸田貴嗣と、古楽器オーケストラにも万全の布陣を敷くが、これには大して費用は掛からない筈だ。

 古楽器オケのトッカータからリトルネッロの演奏の後、衣冠束帯に身を固めた雅楽隊が、シズシズと舞台に現れる。篳篥に笙と竜笛の管楽器三人組だが、彼等はチョロっと吹くと、直ぐに引っ込んで終う。オルフェオが三途の川の渡し守に、黄泉の国に渡らせろと交渉する場面では、日本舞踊の五人組が冥界側要員として、一差し舞って見せる。一方、迎え撃つイタリア勢は、結婚式の場面で民族ダンスを三人組で踊り、三途の川の場面でオルフェオのアリアには、ハイテクの楽器で見た目もド派手な、レーザー・ハープを伴奏に使用する。今回の上演のコンセプトは東西文化の融合だそうで、日本側は雅楽に能楽に日舞の家元を動員し、古楽器の雅びな響きに和式の音を織り込む、木に竹を接ごうとする試みである。

 邦楽は置いてモンテヴェルディの方だが、オルフェオのプラートには圧倒的な美声と、抜群のアジリタがある。伸びやかな高音と共に、中音域には艶やかな音色があり、長身のイケメンで舞台映えする容姿も相俟って、オペラティックに華やかなタイトル・ロールである。エウリディーチェの阿部早希子と、ムーサとスペランツァを歌うベルタニョッリの二人は、似通った声質で対照は付かないが、それぞれテンぺラメントに富んでいて、こちらもオペラ歌手らしい唱い振りだ。シルヴィアとプロセルピナ妃のマッズーリにしても、イタオペっぽく歌い上げるタイプで、イタ公は古楽歌手である以前に、まず飽くまでオペラの歌い手であると感じる。今日は一人二役でデフォルトだが、ハスキー系のバスでグァリアルドは、カロンテとプルトーネ王を兼ねていて、さすがに親玉と子分の二役には違和感を残す。

 エウリディーチェの返還交渉の場面では、能役者が傍らでチョロチョロと舞い、妻を再び連れ去られたオルフェオが、独りトボトボと現世に戻ると、日本舞踊五人組も再登場する。通常、日舞の伴奏は三味線だろうが、ここでは何故か能楽隊の演奏で舞い踊る。また、能役者の伴奏も、雅楽隊で付ける場面もあって、邦楽部門間の交流も図られる。笙と竜笛はコッソリと古楽オケに混って吹いていたが、この辺りの邦楽器はコルネットと大して変わらない音色で、特に違和感は無い。ミッソーニの衣装も演出のコンセプトに合わせ、和式テイストを含む無国籍風なのも面白い。

 今回の上演ではオルフェオがアポロに導かれ昇天する、終幕のストーリーをギリシャ神話の原典に則り、バッカスの送り込んだ刺客に嬲り殺しにされるエンディングに差し替えている。歌詞を変えるので、これに合わせた音楽も沼尻竜典に委嘱している。沼尻の作ったのは疑似バロックでは無く、演出に合わせた邦楽風で、不協和なハーモニーの続く女声合唱だったが、特に面白いとも面白くないとも思えず、オリジナルに対する蛇足のように感じた。

 誠に多彩と云うか闇鍋風の上演で、これを纏め上げる演出の力技に、聊かの無理は感じるけれども、まあイヴェントとしては良く出来た方だろう。舞台演出で和洋の融合を芸術的に仕上げるのは、至難の業と改めて感じさせる。昔、若杉弘さんの手掛けた和式の演出で、僕の観た「ポッペアの戴冠」や「サロメ」は、その華やかな美しさを未だに忘れ難い。そもそも東京芸術劇場は、箱物としてバロックオペラの上演には不向きで、鶴岡八幡宮での野外上演と条件も違い過ぎたのだろう。

 それに単なるオペラ好きとしては、こんなに良質の古楽オケを巨大ホールの薄暗がりに押し込み、ピリオド楽器を観客に積極的に披露しないのでは、余りにも勿体無いと云う気持ちも先に立つ。バロックオペラのピリオド上演では、テオルボやダブル・ハープやコルネット等、珍しい楽器を見せるのも演出の内だろう。もっと素直にモンテヴェルディの音楽を聴かせて欲しかったと、国際交流の超豪華イヴェントに溜息を吐くのである。

レザール・フロリサン日本公演

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<イタリアの庭で~愛のアカデミア/セミ・ステージ形式上演>
2016年10月13日(木)19:00/サントリーホール

指揮/ウィリアム・クリスティ
演出/ソフィー・デインマン
ソプラノ/ルシア・マルティン・カルトン
メゾソプラノ/レア・デザンドレ
カウンターテノール/カルロ・ヴィストリ
テノール/ニコラス・スコット
バリトン/レナート・ドルチーニ
バス/ジョン・テイラー・ウォード
レザール・フロリサン

アドリアーノ・バンキエリ「音楽のザバイオーネ」
アレッサンドロ・ストラデッラ「アマンティ・オーラ(愛のアカデミア)」
オラツィオ・ヴェッキ「シエーナの夜会、又は現代の音楽の様々な気分」
ヘンデル「「オルランド HWV.31/時と真理の勝利 HWV.46a」より
ジャック・デ・ヴェルト「もはや涙も涸れ」
ヴィヴァルディ「オルランド・フリオーソ RV.Anh.84/離宮のオットー大帝 RV.729/愛と憎しみに打ち勝つ徳、又はティグラネス王 RV.740」
チマローザ「惨めな劇場支配人」
ハイドン「歌姫 Hob.XXVIII:2/騎士オルランド Hob.XXVIII:11」
ドメニコ・サッロ「カナリー劇場支配人」
モーツァルト「バスと管弦楽の為のアリエッタ KV541」
ニコラ・ポルポラ「ソロ・カンタータ」


 ウィリアム・クリスティとレザール・フロリサンの来日は十年振り、あの伝説のラモー「レ・パラダン-遍歴騎士」の上演以来だが、彼等は今日の東京で一回切りの公演を終えると、そのままソウルへ向かい、更に上海からマカオへと巡演を重ねるらしい。ヨーロッパから古楽の波が押し寄せて幾星霜、結局日本に成熟した古楽の聞き手は育たないまま、ブームの波は半島から大陸へと去って行くのだろうか。

 演奏が始まり暫くすると、恐らく他の大部分の観客もそうだったように、僕も今回のプログラムの意図を、全く勘違いしていた事に気付く。冒頭のバンキエリのチェンバロ付き五声マドリガーレは、喜劇的なストーリーのあるマドリガル・コメディの前説で、五人の歌手が集まりパート分担を決める曲なのである。今日サントリーホールに集った聴衆の殆どは、セミ・ステージ形式に五人の歌手で、ヘンデルやヴィヴァルディやハイドンのアリアを代わり番こに唱う、ごくフツーのオペラ・コンサートと思い込んでいたと思う。でも、実際に聴いてみれば、これは高度にソフィストケイトされ、巧みに仕組まれたプログラミングだった。

 前半はアレッサンドロ・ストラデッラの、世俗カンタータを軸にコンサートは進む。バンキエリの次にストラデッラのシンフォニアを挟み、再びマドリガル・コメディで、ヴェッキの無伴奏五声マドリガーレは、宴会の余興にゲームとして音楽を競おうと提案する内容。これだけの前振りの後、主筋の愛の神アモーレのお話で、ストラデッラの世俗カンタータのデュエットやアリアの後、「騎士オルランドを狂わせたのはアンジェリカの美しさ」とレシタティーヴォが歌われ、この項続くとなる。次に前項を承け、ヘンデルのオペラ「オルランド」から、愛に狂うオルランドのアリアがカウンターテナーで歌われ、プログラミングの継続性を保つ仕掛けである。この後、やや時代を遡りデ・ヴェルトの六声マドリガーレを挟むのも、対位法的な音楽で口直しする効果があり、僕のようなルネサンス好きならずとも楽しめる工夫である。

 この後は騎士オルランドと直接の関連は無い、ヘンデルとヴィヴァルディの恋に狂うアリアを交互に並べ、最後に再びストラデッラのカンタータを持って来て、フィナーレの合唱で締め括る。勿論、歌詞の内容の緩やかな連続性と共に、音楽的な配慮で聴衆の気を引く点にも怠りは無い。ヘンデルの超有名アリア「私を泣かせて下さい」を、転用されたオペラ「リナルド」からでは無く、元歌のオラトリオ「時と悟りの勝利」の歌詞で唱うのも興味深い。小道具に持ち出したキューピッドの弓矢も、演出家は手際良く上手に使いこなしていた。ただ、今日はオペラ上演並みに客電を落としたので、演奏中にプログラムを読む事は適わず、今歌われているのは果たしてヘンデルなのかヴィヴァルディなのか、良く分からないのは困り物だった。

 ここで休憩に入るが、その間も舞台上では何かゴソゴソやっている。どうやら作曲家が遅筆で本番に間に合わず、まだ楽譜を書いていると云う設定のようで、演奏再開で出て来た歌手達に渡す演技がある。こうして後半は趣向を変え、作曲家や劇場支配人が歌手のワガママに翻弄される、今も昔も変わらぬオペラハウスお約束のゴタゴタ騒ぎを繰り広げる。時代も後期バロックから古典派ロココへ進め、ハイドンのオペラ「歌姫」抜粋を中心に、チマローザ、ポルポラ、モーツァルト等をあしらう。最後はハイドンの「騎士オルランド」からのフィナーレで、前後半の首尾を一貫させ、コンサートの締め括りとした。

 歌手はオーディションで選ばれた、何れも芸達者な若手六名で、歌も演技も非の打ち所は無かった。レジェーロなソプラノのマルティン・カルトンに、メゾのデザンドレはリリコで、声の対称性も彩り美しく、またバリトンのドルチーニに至るまでアジリタに秀でていて、この点でも全く申し分は無い。バスのテイラー・ウォードの声がエライ軽かったのも、オペラ重唱やマドリガーレをハモらせるのに好都合だからかも知れない。勿論、ボウイングでクレシェンドとディミヌエントを入れ味わいを醸す、レザール・フロリサンの美しい演奏も素晴らしかった。

 今回のようなパッチワークの如く編集された音楽劇を、パスティッチョ・オペラと呼ぶ史実はあるようだが、果たして今回の上演が、何処まで時代考証に耐え得るのか、素人の僕には判断の仕様も無い。でも、クリスティとレザール・フロリサンは、時代様式も個々のスタイルも異なった音楽を、一篇のオペラ作品のように纏まり良く聴かせ、存分に楽しませてくれた。正直な話、ヘンデルやハイドンのオペラ等、歌手が入れ代わり立ち代わり出て来て唱うだけで、劇音楽としての面白さは希薄なようにも思う。ルネサンスから古典派までの様々な曲で、彩り豊かなな花束を編むようなプログラムは、クリスティのサービス精神の精華とも云えそうだ。また、「私を泣かせて下さい」とか良く知っているアリアや、ルネサンス・マドリガーレなど織り込まれているのが、僕は単純に楽しかったのである。

 上掲の写真は開演前のロビーでお見掛けした鈴木秀美さんです。その節はご協力有り難うございました。

ドニゼッティ「ドン・パスクワーレ」

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<沼尻竜典オペラセレクション/日生劇場・藤原歌劇団共同制作>
2016年10月23日(日)14:00/びわ湖ホール

指揮/沼尻竜典
日本センチュリー交響楽団
びわ湖ホール声楽アンサンブル
藤原歌劇団合唱部

演出/フランチェスコ・ベロット
美術/マッシモ・ケケット
照明/クラウディオ・シュミット
衣装/クリスティーナ・アチェティ

ドン・パスクァーレ/牧野正人
ノリーナ/砂川涼子
エルネスト/アントニーノ・シラグーザ
医師マラテスタ/須藤慎吾
公証人/柴山秀明


 今シーズンのびわ湖ホールは弥が上にも期待の高まる、リング・チクルスの序夜「ライン・ゴルト」を来春に控え、今秋はその露払いとして藤原歌劇団との提携で、シラグーザ出演を目玉とする「ドン・パスクワーレ」を上演する。これまでびわ湖ホールと共同制作していた神奈川県民ホールは、あいちトリエンナーレと東京二期会の「魔笛」に乗り換えて終ったが、先月名古屋で観たその上演は今ひとつで、ここは是非びわ湖と藤原のドニゼッティに頑張って貰いたい処である。

 序曲を振る沼尻は、見ていて面白い程にノリノリで、オケの演奏は早くも全開となる。沼尻はベルカント・オペラに付いて、これまで先入観を持って避けて来たが、装飾的な歌唱と管弦楽の伴奏の揺れの呼吸が嵌った瞬間の快感に、最近になって目覚めたとの意を述べている。そう言われれば成程、沼尻は短いフレーズで軽くリタルダンドしたり、アチェルランドを仕掛けたり、如何にもベルカントらしい伴奏を付けるが、それが何だか付け焼刃に感じられるのだ。単純なブンチャッチャのリズム等、指揮者なら誰でも出来るかと思えば然に非ず。今日のセンチュリー響には着々と前へ出る、ラグビーの重量フォワードの趣があり、イタオペっぽい軽やかさに欠けるのである。ピョンピョン飛び跳ねるようなベルカントのリズムへ、指揮者が生気を吹き込むのには、それなりの能力と経験は必要なのだろう。

 一方、センチュリー響の強靭な伴奏に乗って唱う、歌手陣に実力的なデコボコは無く、ほぼ満足すべき出来映えだった。取り分けマラテスタの須藤慎吾は、アジリタに秀でたカンタンテのバリトンで、こんな人が日本にも居たのか!と、驚く程の声楽テクニックの持ち主である。一幕冒頭のアリア「天使のように美しい娘」では、コロコロと転がる鮮烈なメリスマを聴かせ、観客を一気にオペラ・ブッファの世界へ引き込む。藤原に達者なバス・バリトンは沢山居ても、存外アジリタの無い人ばかりで、須藤には本格的なベルカント・テクニックを身に付けた、次代を担うバッソ・ブッフォとして期待したい。

 その達者なベテランの内の一人である、タイトル・ロールの牧野正人にアジリタは無いが、その代わりに早口言葉みたいな歌で、滑舌の回る器用さはある。舌の回り良く、ブッファの大量の歌詞を唱いこなすのは、謂わば藤原のお家芸で、また牧野正人の真骨頂でもある。でも、一幕では牧野と指揮者の息は合わず、歌とオケのリズムもズレるが、これはまあその内に合うだろうと、ご愛嬌として遣り過ごす。しかし、エルネストとのデュエット「貴方が嫁を貰うのですか?」では、シラグーザが四拍子のリズムを保つのに、牧野の方はワルツのリズムに乗る面倒なアンサンブルで、やはり指揮との呼吸は合わず、デュエットは危うく崩壊寸前となり、先行きに不安を抱かせる。

 シラグーザの中音域はやや固い音色だが、アクートに達すると喉の奥も開き、明るく輝かしい高音で聴かせる。但し、二幕のトランペット付きアリア「遥かな異郷を求め」では、次第に情感を高める手順を踏まず、唐突に超高音を発したのを疑問に感じる。更に三幕のセレナーデ「四月の宵は心地良く」では、高音域まで駆け上がっても、喉を締めた固い声のままで、しかも伸ばすフレーズに装飾音として、メリスマを交える事も無い。僕はシラグーザを八年前、「ラ・チェネレントラ」のドン・ラミーロで聴いたが、その頃に比べ声も太くなったように感じられ、彼のテノール歌手としての全盛期は過ぎつつあるのかと思う。

 ノリーナの砂川涼子は、一幕のカヴァティーナ「その眼差しに騎士は」から、早くもエンジンを全開にする。まずは天与の美声に物を言わせ、元々あるのかは知らない輝かしい超高音と、これは確実に努力と研鑽の賜物である本物のアジリタを駆使し、全くケチの付けようも無い見事な歌姫振りである。長いフレーズで声をコロコロと滑らかに転がす技術力は、国内では他に何人も居ないレヴェルで、これまでパミーナアルミーダを歌っても、アジリタで聴かせた印象は無かっただけに、こんな隠し芸があったとは驚愕ものである。

 今日の演出家の舞台は以前、ベルガモ・ドニゼッティ劇場来日公演の「愛の妙薬」を観て、才気煥発とは云えないにせよ堅実に作り込み、田舎のオペラ・ハウスの引っ越し公演としては出色と感じた。今回も様々な工夫を繰り出し、良く練り込んだ舞台を作っていたと思う。一幕は壁一面に古風な絵画を飾り、アンティーク家具を揃えたパスクァーレの邸宅内で、エルネストはベレー帽を被り、スケッチブックを抱える画家の設定。パスクァーレは美術収集が趣味のようだが、マラテスタの持ち込む絵画を買い上げるのみで、エルネストの描く絵に興味は無いらしい。助演で三人の召し使いとカメラマも出て来るが、この連中は既にノリーナとマラテスタに丸め込まれていて、みんなグルでパスクァーレを陥れようとする。共にアジリタに優れた砂川と須藤は、デュエット「さあ用意出来たわ」で絶妙のアンサンブルを聴かせる。

 二幕はノリーナの大暴れで、パスクァーレが大切にしている裸婦像を押し倒し、粉砕する場面には強烈なインパクトがあり、更にノリーナが使用人の増員を命ずると、即座に就職希望者がゾロゾロ現れ、三人の召使いと共に大騒ぎを繰り広げる。二幕以降はタイトル・ロールと指揮者の息も合って来て、ノリーナやマラテスタを交えたカルテットは、沼尻が持ち前の馬力に物を言わせ、召使いと面接応募者達の小芝居と共に、痛快なカタルシスを作ってくれる。

 三幕はパスクァーレ愛用の安楽椅子一脚を残し、その他のセットや大道具は全て取り払われ、舞台上はガランとした空間となる。その広々した間隙を埋める、びわ湖ホールと藤原歌劇団合同のコーラス隊は、何時も通りのキチンとした仕上がり具合で聴かせる。演技も丁寧に施され、細かく振付けられた動きは結構激しく、皆さんキレイにハモりながら良くこなしている。ここまで牧野正人の演技は抑制気味で、ブッファらしい道化じみた誇張は無く、その代わり砂川涼子がコメディエンヌとして、今日の上演全体を盛り上げた感がある。

 趣味人としての側面を強調する今日の演出で、何処か哀愁を漂わせるパスクァーレは、上にドの付く厚釜しさで、抜け目無く立ち回ろうとするファルスタッフと、例え狂人であっても純粋且つ崇高な、騎士精神の権化であるドン・キホーテとの、中間に位置する役処かも知れない。そこで遅蒔きではあるが、今年のびわ湖ホールのラインアップに、何れもバッソ・ブッフォ主役の「ドン・パスクワーレ」と、「ドン・キショット」を並べたのは、単なる偶然では無いと気付かされた。しかも、そこへ更にドニゼッティのフランス語オペラ「連隊の娘」を突っ込む、これは沼尻では無く園田隆一郎の仕業だな…と思う。

高橋悠治「納戸の夢、或いは夢のもつれ」

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<風ぐるま2016秋/夢のもつれ~猫は聴いた二つの物語>
2016年11月18日(金)19:00/ザ・フェニックスホール

メゾソプラノ/波多野睦美
サキソフォン/栃尾克樹
ピアノ/高橋悠治

高橋悠治「鳥のカタコト島のコトカタ(全曲初演)/『納戸の夢』あるいは『夢のもつれ』」


 「風ぐるま」は四年前に活動を始めた、歌手とピアニストにサックス奏者を加えたトリオ・アンサンブルで、当然ながらユージの新作と共に、「時代を超えて音楽の輪を回す」をコンセプトに、波多野の得意とするバロック物も演奏しているようだ。今回のコンサートでは、既に二曲だけ演奏された歌曲集「鳥のカタコト島のコトカタ」全七曲の初演と、モノ・オペラ「納戸の夢、或いは夢のもつれ」の再演の、高橋悠治の二作品をプログラムとしている。

 まず演奏に先立ち、高橋悠治と作詞の時里二郎の前説で、前半プロの「鳥のカタコト島のコトカタ」に付いて、詩人は「御用済みで島流しにされ、使い古された蜜蜂の巣箱に置かれた人形と、連絡船から降ろされ島に棲む猫たち。そんな名井島という不思議な島の挿話」を、基とする連作詩と説明し、作曲家は「どうせ聴いても意味は分からない。何故なら古今集の昔に遡る、仮名文字を崩し書きした連綿体と、単語の途中で節を切る浄瑠璃や義太夫を意識し、作曲したから」と説明する。

 この歌曲集で波多野は一切声を張り上げず、ほぼ全てをソット・ヴォーチェと、朗読のような語りの間を行き来しながら歌い進める。波多野の歌う日本語を、僕は静岡での間宮芳生「ポポイ」で聴いていて、今回もその際と同じく、日本語のディクションの明快さに感心させられる。高橋は日本語を聞き取れる上演を目指す、こんにゃく座の元代表である竹田恵子とも共同作業をしていて、要するに相手役を選ぶ際には、ベルカント唱法か否かを問わず、言葉の明瞭さを重視していると分かる。とは云うものの、時里二郎の幻想的なテキストに付す音楽には、やはり西洋ベルカントの純化された美しさが合うとの判断から、波多野を選んだのだろう、と僕は憶測する。

 曲の始まって暫く、波多野の歌と語りに対する高橋のピアノは、右手と左手で単旋律を繋げて弾く態で、ペダルに足を掛ける様子も無く、そもそも歌とピアノとサックスは絡まず、三人で交互に独奏しているように見える。さすがに曲の進むに連れ、三者の旋律も絡むようになるが、ピアノは頑として和音を鳴らす事は無く、最後まで単旋律の絡みに終始して、この歌曲集からは至極アッサリした印象を受けた。

 前半の演奏を終えた処で、詩人は作曲家に促され、後半のモノ・オペラのストーリーを説明するが、これは茫漠として非常に分かり難かった。一方、作曲家の方は自作に付いて、全体としてはモンテヴェルディ「オルフェオ」のパロディで、シューマンのピアノ曲「夢のもつれ」と、ドビュッシーのメリザンドの場面を引用したと、こちらは誠に明快である。ストーリーに付いても作曲家は、「納戸の中に霊みたいなものが棲み付く。それは死んだ母親の魂でもあり、猫でもあり、青い硝子瓶でもあり、様々な形を取り息子に寄り付いて来る。息子も生きた人間なのか、形代なのか良く分からない」と、要約した文章を残している。

 暫時休憩の後、後半のモノ・オペラの演奏へ移る。「納戸の夢あるいは夢のもつれ」は六年前、波多野睦美の委嘱に拠り、高橋悠治が時里二郎の台本に曲を付し、波多野自身の歌に高橋のピアノと、リュート系の弦楽器であるブズーキ奏者を交え初演されている。今回はブスーキのパートを、栃尾克樹がバリトン・サックスで吹く、風ぐるまヴァージョンでの演奏である。

 高橋悠治の曲を、波多野睦美の歌で聴くと云う意味で、前半の歌曲は想定の範囲内だったが、モノ・オペラではその官能的な音楽と演奏に、僕は意表を突かれた。詩人の書き下ろした台本は、人の夢を住処としている猫が、幼い時に母に死なれた男の夢の中に棲み着く話。母の思い出の残る納戸の薄闇の中で、猫と男は出会い、互いに惹かれ合うようになる。やがて猫は人の身体を持ち、二人は愛し合うようになるが、猫は彼が愛しているのは自分では無く、彼の母を自分に投影しているだけでは無いかと疑う。男を愛さずにはおれない猫と、彼女との愛に溺れる男。夢の中での二人の愛に、軋みが生ずるようになる…と、何やら隠微にエロティックなのである。

 波多野は歌曲と同じく、歌ったり語ったりの繰り返しで曲を進めるが、前半とは異なり歌唱部分はスピントする声で、フォルテの音量を出すようになる。勿論、スピントしてもノン・ヴィブラートを保ち、細かいデュナーミクの起伏で、日本語を明瞭に伝えてくれる。この方のノン・ヴィブラート唱法を、僕はバロック以前の音楽に特化していると思い込んでいたが、日本語のディクションの明晰さにも繋がっているようだ。また、語りと云うか詩の朗読にも、素人に有り勝ちなクサい節回しは無く、上手なアナウンサーのように自然で、明快な言葉の扱いがある。どうやら高橋悠治は、その辺りを見込んで波多野を重用しているフシがある。

 高橋のピアノも歌曲とは異なり、両手で鳴らすハーモニーをペダルで響かせ、波多野の歌や語りとも絡み、そのピアニズムには官能性も漂って来る。栃尾のサックスと共に歌と絡むのは、やはり歌曲集とは違うモノ・オペラで、男と猫と母の三名の登場人物を描き分けねばならず、高橋の音楽も対位法的に複雑化するようだ。淡彩な歌曲とは異なり、やはりオペラを名乗るだけに、男女の愛憎を扱う台本に付す音楽は、濃厚な雰囲気を醸している。男と猫の絡みには高橋のピアノ、母の手紙の朗読には栃尾のサックスで伴奏を付ける、役割分担もあるようだ。

 このモノ・オペラの成功の要因として、まず台本の充実を挙げねばならない。恐らく高橋は時里二郎の紡ぐ言葉を、自分の音楽性に合うと見極めた上で、台本作家として起用している。詩人は自分に要求された役割を把握し、作曲家の音楽性を能う限り引き出す台本を執筆した。モノ・オペラ「納戸の夢、或いは夢のもつれ」で、詩人の書いたエロティックな妄想を、作曲家は正面から受け止め、成功を収めたのだと思う。

 ただ、敢えて言わずもがなの願望を述べれば、波多野の声は清冽に過ぎて、僕には物足りなく感じられる。もっと女性らしい情感を含むレジェーロな声で、猫と男と母の物語を聴いて見たい。具体的には森麻季か石橋栄実か小林沙羅辺りの、アデーレやツェルリーナを歌うソプラノで、このオペラを聴きたいと妄想するのである。

メシアン「トゥーランガリラ交響曲」

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<京都市交響楽団第607回定期演奏会>
2016年11月26日(土)14:30/京都コンサートホール

指揮/高関健
ピアノ/児玉桃
オンド・マルトノ/原田節
京都市交響楽団


 昔々四半世紀も昔のお話、井上道義が京響で常任を務めていた頃、同一シーズンに「トゥーランガリラ」と、ショスタコーヴィチ「バビ・ヤール」を取り上げ、僕は共に勇んで聴きに行った記憶がある。バビ・ヤールは兎も角として、トゥーランガリラは結構な人気曲のようで、各地でソコソコ演奏されているようだが、それを積極的に追い掛ける気は無かった。でも、今年はメシアン「トリスタン三部作」の内の、「ハラウィ~愛と死の歌」を聴き、更に来年はびわ湖ホールで「アッシジの聖フランチェスコ」日本初演もあるとなれば、このメシアン祭りに乗らないテは無かろうと思う。

 高関の指揮は例の如く明快で、ブラスの咆哮やパーカッションの乱打の陰に隠れ勝ちな、弦楽の旋律を浮き立たせようとする。この曲ではトロンボーンやクラリネットの主導する、それぞれのテーマを聴いていれば、少なくとも曲の展開に尾いて行く事は出来る。しかし、もう一つの重要な聴き処である、込み入ったズムの対位法の方は、そもそも主旋律と対旋律が並列に聴こえて来なければ、何が複雑なのかすら分からないのである。音響の塊りとなる事を避ける、そこに指揮者の狙いもある。

 複雑な現代曲を得意とする割に、高関のバトンテクニックは今ひとつで、軽やかに流麗なスタイルからは程遠い。しかも今日はトゥーランガリラで、互いに逆行しながら音価を増減したり、左右対称であったりするリズムの組み合わせである。テンポを弄ると崩壊するので、指揮者は何時にも増して打点を明確に示し、縦をキッチリ合わせようとして、その分いよいよ鈍臭く見える。両手を広げ、機嫌良く歌わせるような仕草は、リズムの揃うフレーズの終わり際のみ。その結果、配慮されたパート間の音量のバランスと共に、複雑なリズムの相関は明瞭に示される。

 実は僕の座った席は位置が悪く、オンド・マルトノのフヨ~ンと云う音は、殆ど聴こえなかった。その所為もあって、無調と甘ったるい旋律が交錯する、官能的とか陶酔的とか評される音色の楽しみは、充全には味わえなかったかも知れない。でも、コンサートホールの席に腰を下ろし、高関の分析的なトゥーランガリラにジックリと聴き入る事で、音の奔流のような演奏では埋れ勝ちな、メシアンの心の動きも聴き取れたような気がする。

 終演後、指揮者がオケ奏者を立たせ拍手を受ける際、総勢十名のパーカッションの面々へ、執拗にブーイングを繰り返す客が一人いた。何の勘違いかと不審に思っていたが、ホールの外へ出た処で、歩きながら携帯に向かい「打楽器がボロボロだ、このオケにこんな曲は無理だ!」と大声で喚ているヤツがいて、どうやら件のブーイングの主らしかった。「打楽器に団員が居ない、トラばかりでは駄目だ!」とも言っていて、何だか意味不明である。

 彼はオケの些細なミスを見付け(或いは見付けたと思い込んで)、鬼の首を取ったように非難するのが趣味で、恐らくはコンサート通いの楽しみとしているのだろう。世の中には色々な人が居ると、改めて感じ入る次第だが、このテの自己陶酔型のおたくは、取り分けオケ定期で度々見掛けるように思う。それに比してオペラ通いの連中は、オタッキーと云うよりミーハーの度合いが高い。まあ、ミーちゃんハーちゃんは少なくとも、キチンとした身なりでお越しになるので、ミットモナイ格好で来るおたくよりはマシだろうと、僕は常々思っている。

ロッシーニ「スターバト・マーテル」

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<大阪音楽大学第59回定期演奏会>
2016年12月7日(水)19:00/ザ・シンフォニーホール

指揮/アルベルト・ゼッダ
ソプラノ/並河寿美
メゾソプラノ/重松みか
テノール/清水徹太郎
バリトン/田中勉
大阪音楽大学管弦楽団
大阪音楽大学合唱団

メンデルスゾーン「交響曲第四番イタリア」op.90
ロッシーニ「スターバト・マーテル」


 “ロッシーニの伝道師”アルベルト・ゼッダ翁が大阪で指揮台に立つのは、一昨年「ランスへの旅」の上演以来である。この年、大阪音大は百周年記念で、大阪国際フェスティバル協会や藤原歌劇団と共に、「ランスへの旅」を共同制作し、その際のご縁でゼッダさんは、大阪音大から特別名誉教授の称号を贈呈されている。その特別名誉教授とやらに、実質的な意味など何も無い筈だが、イタ公にしては義理堅く篤実なゼッダさんは、東京で藤原歌劇団との特別コンサートを終えた後、わざわざ大阪までやって来たのである。。しかも学生さん達のリハーサルに四日間も付き合い、一夜の定演を振ってから、更に三日間マスター・クラスを指導した後、漸く帰国の途に着くとの事である。このハードな日程を八十八歳の高齢でこなす、やはりゼッダ翁もエネルギッシュなイタ公なのである。

 メンデルスゾーンのイタリアはオケの力量不足と、特別名誉教授との意思疎通を欠く所為か、あのゼッダ翁が振っているのに何故?と、怪訝に思われる程に前へ出る推進力に欠け、演奏は一向に弾まない。木管に絶対的な音量を欠く為、弦楽とのバランスを失していて、対位法的に出入りする度に齟齬を生ずる。伸びやかに唱い上げるべき一楽章は歌わず、軽妙に弾む筈の三楽章もエスプリに欠け、モヤモヤした思いを募らせる。遅蒔きながら四楽章に至り、漸くエンジンも掛かって演奏は前へ進むが、これを練習の成果とは言い難く、ゼッダさんの本番の底力と云うべきものだろう。

 休憩後のロッシーニは、どうやら稽古充分で自信を持って臨んだようで、皆さん指揮にセンシティヴに反応するのが分かる。学生オケでソロを吹かせれば、実力は誤魔化しようも無く顕わになるが、トゥッティであれば全員一丸となって練習量で克服し、聴かせる演奏も可能となる。この場合、オケとコーラスの相乗効果も重要で、お互いにアラを出さずに盛り上がれる。ゼッダさんのご指導宜しきを得た、学生達の溌剌とした演奏を楽しんだ。

 ただ、コーラスはパート内部を良く揃え、ノン・ヴィブラートの透明な音色を作っているが、個性に乏しいと云うか無味無臭で、ロッシーニの音楽を彩り豊かに染め上げる事は適わない。一方の教員ソリストはテノールを除き、ヴェルディのレクイエムを歌うような顔触れなのと、昨年の「ランスへの旅」にも出ていたのが、バリトン一人だけなのも引っ掛かる。ソプラノ二人の重い声質は先刻承知だが、やはり実際に聴かされれば、これはロッシーニには如何なものかと首を傾げる。ゼッダさんを迎えるに当り、何故こんなソリストを大学側で用意したのか、音楽を優先した選択とは考え難い。

 実はゼッダさんの解釈自体は宗教曲寄りと云うか、ブッファでは無くセリア風で、割に四角四面な正攻法なのである。第二曲のテノールのアリアでは、レジェーロの清水徹太郎に強目の声を張り上げさせ、第八曲のソプラノのアリアでは並河寿美に、高低の音域を全てメゾの音色で押し通させる。二人共アカぺラ部分のカデンツァで、ヴァリアンテは付加しなかった。他の誰かなら猜疑の目を向ける処だが、何せ相手はロッシーニ研究の第一人者にして伝道師、御年八十八歳のアルベルト・ゼッダ翁である。スコアなどロクに読みこなせない身としては、これを正統的な解釈と肯わざるを得ない。

 でも、思えば僕は八年前、ペーザロ・フェスティヴァル来日公演で、ゼッダさんの指揮するロッシーニのオペラ・セリア「マホメット二世」を聴き、この方の音楽性は装飾的で、セリアよりもブッファ向きでは、との感想を抱いていた。スタバトは音楽の内容的に、オペラと何ら異なる処は無いにも関わらず、ゼッダさんは終盤に向け力強く盛り上げようとする。ゼッダさんは宗教曲を、オペラとは別物と考えているのか、或いは学生相手に軽やかで装飾的な演奏は無理と判断したのか、その辺りは何とも判断は付き兼ねる。ロッシーニでもイタリア語では無く、ラテン語の曲であると云う点も、ゼッダさんは織り込んでいるのかも知れない。

武満徹室内楽コンサート

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<没後二十年に寄せて>
2016年12月17日(土)18:00/よしゅうホール

武満徹「カトレーンII/ブライス/雨の呪文/水の曲/ウォーターウェイズ」
細川俊夫「歌う庭」

フルート/若林かをり
クラリネット/上田希
ヴァイオリン/辺見康孝
チェロ/大西泰徳
ピアノ/若林千春
ハープ/松村多嘉代/松村衣里
パーカッション/葛西友子/平山智佳子
音響/有馬純寿


 今年は武満の二十周忌だが、二月にシネマ・ミュージックを聴いたきりで、その後は機会が無かった。それが暮れも押し迫った今日この頃、よしゅうホールと云う名前すら聞いた事の無い会場で、室内楽のコンサートをやると知り、土曜日の夕刻に大阪市内まで出掛けた。この辺は以前の職場の界隈で、こんなトコにホールなんかあったかいな、と思いつつ辿り着いたのは、ビルの二階で貸しスタジオと思しき会議室風だった。

 今回のコンサートの言い出しっぺは、フルートの若林かをりだそうで、そこへ二台のハープを必要とするため滅多に演奏されない、「ブライス」と「ウォーターウェイズ」を弾きたい松村姉妹が企画に乗り、三人の主催でコンサートを行う運びとなったそうである。そもそも僕はプロの演奏家に対し、他所から来る仕事を待っている人達と云う先入観を持つが、現代音楽や古楽の奏者はその限りでは無いようで、自主公演を打つ者も多いようだ。因みに今日の出演者で主催の若林夫妻を、僕は昨年のシェーンベルク「月に憑かれたピエロ」でも聴いていて、これも出演者側から仕掛けたコンサートのようだった。

 開演前、ゲストの細川俊夫の前説と云うか、武満の著書の一節の朗読の後、まず最初はタッシの為に作曲された「カトレーンII」。四つの楽器がほぼ対等に渡り合う、一般的な意味での室内楽で、ストルツマンやピーター・ゼルキンに弾かせる為の、ヴィルトゥオーゾ曲と云う印象を受ける。クラリネット、ヴァイオリン、チェロ、ピアノと云う編成からも分かるように、メシアン「世の終わりのための四重奏曲」へのオマージュでもある。次の「ブライス」は二台ハープとマリンバとパーカッションの上に、独奏フルートを乗っけた曲で、旋律とそれを支える伴奏とにクッキリと分かれている。無調のハープと旋律を吹くフルートとの、対比の美しい曲だった。細川俊夫の旧作は武満へのオマージュだそうで、そう言われれば成程、如何にもタケミツっぽさを意識した点描的な曲想である。そう云えば二流の作曲家で武満の語法をパクり、それなりの曲を物する無節操な輩も居るようだ。

 暫時の休憩の後、武満に戻り「雨の呪文」は、長いフレーズをフルートとクラリネットのツー・トップで分担し、ハープとピアノとヴィブラフォンはジャガジャガと伴奏に回る曲。この曲を含めた三曲で、ハープは微分音を交えチューニングされているそうで、その為に音がぶつかって唸りを生じ、何やらガシャガシャした響きになるようだが、僕のような耳の悪い人間にそんな微妙な処は分かる筈も無く、只もうタケミツの響きに、ウットリと耳を傾けるのみである。次の「水の曲」は武満三十歳の折りのテープ音楽で、実際の水の音に加工した曲を、有馬純寿がパソコンに打ち込んで持ち込み、スピーカーから流し聴かせる。何分にも全て水の音で、武満徹先生作曲と言われても「ああそうですか」てなもので、ここは作曲家の「水」への偏愛の出発点を確認すれば良いのだろう。

 最後はフルートを除く、八名の奏者に拠る「ウォーターウェイズ」。さすがに皆さん現代音楽の手練れで、取り分け弦楽器のお二人の絞り出す超高音等、僕は最初の内ヴァイオリンやチェロの発する音と思えなかった程で、ここに集った若手奏者達の技術に裏打ちされた音楽性の高さを、目の当たりにする思いだった。果たして武満を演奏するのに、エモーショナルな情感など必要とされるのかどうか。僕の思うに武満を演奏したいと念じた時点で、既に演奏者は武満の音楽に浄化されていて、複雑な曲を正確且つ緻密に演奏しさえすれば、後は曲そのものが自ずと語り出すのだ。まあ、ここで捏ねる屁理屈は、演奏そのものに付いて、ロクな感想も出て来ない事の言い訳でもある。

 今日は年末の忙しない時期に、厳しくも美しい武満トーンをタップリ聴かせてくれた八名の奏者と、有馬純寿御大に感謝あるのみである。これで僕も二十周忌に当たり改めて、亡き武満を五十名程で超満員の聴衆と共に偲ぶ事が出来て、まずは心置きなく年を越せそうである。

シュトックハウゼン「グルッペン」

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<京響創立六十周年記念特別演奏会>
2016年12月23日(金)14:00/京都市勧業館みやこめっせ

指揮/広上淳一/高関健/下野竜也/大谷麻由美/水戸博之
京都市交響楽団

シュトックハウゼン「三つのオーケストラのためのグルッペン」(二回演奏)
ジョン・ケージ「五つのオーケストラのための三十の小品」


 京響は今年、創設から六十年の節目だそうで、これは誠にご同慶の至りである。その記念のコンサートに選ばれた曲が、シュトックハウゼンのグルッペンなのも、また個人的に嬉しい限りである。三群のオーケストラの掛け合いの曲の為、会場は北山のコンサートホールでは無く、二条通を挟んだ京都会館の南向かいで、国立近代美術館の西隣りにある京都市勧業館で行われる。ここは劇場では無く、年明けには消防出初式や成人式等を行う催事場で、僕は三階まで登って会場内に入り、その天井の低さに驚かされた。

 まず司会のNHKアナウンサーとの掛け合いで、広上は選曲の経緯に付いて、最初はモーツァルトの三台のピアノ協奏曲や、ベートーヴェンの三重協奏曲等、ソリストの顔見世で華やかな曲を考えたが、どれも内容に乏しく悩んでいた処、下野氏からグルッペンはどうか?と提案があり、それは良い!と高関氏も即座に賛意を示した為、その場で多数決に拠り決定したらしい。広上自身はグルッペンと云う曲を、それまで全く知らなかったそうである。

 今日は自由席で、皆さん気合を入れ並ばれたらしく、僕が何時も通り開場後に到着すると、時は既に遅しでオケに三方を囲まれた良席は埋まっていた。でも、実際の処グルッペンと云う曲を、一体どこで聴けば良いのか、僕はイマイチ分かっていない。だだっ広い催事場のフロアに、パイプ椅子がギッシリと並べられて、そこに皆さん窮屈そうに肩を寄せ合い座っている。取り敢えず、空いている隅っこの方に席を取り、三つのオケと三人の指揮者を同時に視野に入れる事にした。でも、演奏が始まると直ぐに、このポジションでは音像の遠過ぎる事に気付く。

 三つのオケは正面とその左右に配され、オケのメンバーは客席へお尻を向けて座るので、その前に立つ三人の指揮者は通常とは逆に、客席に顔をを向ける形となる。これは指揮者同士でアイコンタクトを取らないと、三つのオケの受け渡しは難しく、ほぼ演奏不可能な為である。広上などは大声を出して休符を数えていて、これは奏者へタイミングを伝えると共に、自分も間違えないようにと云う意図もありそうだ。三つのオケの掛け合いは、演奏の半ば頃からブラスやパーカッションに現れ、これを耳で追う楽しみは味わえたので、やはりもう少しバランス良く聞こえる場所で聴かねばと思う。

 休憩中の会場内では次の演奏の為、五つのオケのセッティングが行われる。ケージの三十の小品はチャンス・オペレーションで、AMラジオのリアルタイムの放送を会場に流し、これをBGMとして十名程の五つのオーケストラが、一分程度の長さの曲を矢継ぎ早に演奏し、三十分経った処でラジオのスィッチを切り、強制終了する曲である。実際に会場に流されたラジオ放送はNHK第一で、シェイクスピア「ヴェニスの商人」のラジオドラマだったのは、何だか出来過ぎのようにも感じられる。聞き覚えのある声だが最近は見掛けない、古田敦也嫁の中井美穂のゲスト出演も下世話な興味を引く。

 高関の前説に拠るとケージでの指揮者は、自分の担当オケのスコアのみを持ち、他の四つのオケを聴きながら時間を見計らい、適当に次へ進むそうである。だから基本的に五つのオケは合わないし、受け渡しも偶然性に委ねられる。このようなコンセプト自体、例に拠って例の如くのジョン・ケージ流で、今しがたのハイテンションなグルッペンから、音楽は一転してユルクのんびりした雰囲気を漂わせる。

 そこかしこに舟を漕ぐ聴衆も続出し、会場内はお目当てのグルッペンに備えての、睡眠休憩タイムの様相を呈して来る。そもそも緻密に作り込まれ、厳密にスコア通りを要求される、グルッペンとは真逆のコンセプトに従い演奏される曲で、両者は水と油のようにも感じられる。まあ、ジョン・ケージとシュトックハウゼンの、余りにも対照的な資質は深く納得出来たが、これは五つのオケを横一列に並べ演奏させても良い訳で、やはり残響込みのフツーのホールで、五つのオケを等分に聴きたいと思う。再びセッティングの為の休憩で、観客は一旦全員が離席を促されて後方に待機し、よーいドンで一斉に席取りに駆け出す。我が大和民族の特性として、席取りの既得権益を死守する傾向があるので、ここは無理矢理にでも、全員を自席から引っぺがす必要はあったと思う。

 僕はケージの際の後方席から、三つのオケを等分に視野に捉える、前方中央の席へ進出する。二度目のグルッペンは流石に、一回目の隅っこの席よりはバランス良く聴こえたが、だからと云ってそれで曲への理解も深まるのかと云えば、決してそんな単純な話では無い。要するに今回の会場のデッドな音響では、何処に席を取っても三つのオケの音像はクッキリと分離して聴こえ、曲の構造を弁別するのに不都合は何も無いのである。ただ、純粋にシュトックハウゼンの音楽を聴く、その楽しみを享受しようとしても、デッドな音空間に足を引っ張られ、本当にピンポイントな中央に座らないと、後は全て片ちんばな聴こえ方しかしない。また、この会場では三つのオケを聴き分けられるのと引き換えに、ブラスとパーカッションばかり聴こえ、弦は何処に座っても殆ど聴こえて来ない、何とも厄介な曲である。

 京響の場合、今日のような記念演奏会の類は、概ね定期会員の招待用に行われる。我々ビジターは基本的に、お情けで聴かせて貰っている立場だが、今日は何せグルッペンで、恐らく会員さん達の半分もお越しになってはいないし、休憩後は帰路に着く招待客も続出すると予想された。ところが案に相違し、グルッペンの二回目に先立つ席取りゲームにも、会員の皆様方はビジターと共に奮ってご参加下さった。これまで僕は京響の定期会員どもを、格好を付けて会員になるだけで、実際にホールまで足を運ばない不届きな連中と思っていた。でも、こうして最後までグルッペンに付き合う、ご老体の会員さん達を見ていると、僕は京都人の新し物好きの伝統の根深さを、改めて思い知らされたのである。

モーツァルト・ガラ!ジルヴェスターコンサート

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<佐渡裕芸術監督プロデュース2016>
2016年12月31日(土)15:00/兵庫県立芸術文化センター

指揮/ディエゴ・マテウス
ソプラノ/カルメラ・レミージョ
バリトン/ニコラ・ウリヴィエーリ
ピアノ/関本昌平
兵庫芸術文化センター管弦楽団

演出/小栗哲家
照明/畠山直
台本/小味淵彦之
司会/塚本麻里衣

モーツァルト「序曲/もう飛ぶまいぞこの蝶々/楽しい思い出は何処へ/酷い奴!何故今まで焦らせた(フィガロの結婚 K.492)/ピアノ協奏曲第23番 K.488/Per questa bella mano この美しい御手と瞳に K.612/Bella mia fiamma addio-Resta oh cara さらば我が美しき恋人よ~留まれ愛しき人よ K.528/序曲/カタログの歌/私を欺いた残忍な男は/手を取り合って(ドン・ジョヴァンニ K.527)」


 大晦日は部屋の片付けや窓拭きを終えた後、フライングでお節料理を頂きつつ酒を吞み、除夜の鐘をBGMに年越し蕎麦で締める。このようなユルイ過ごし方を、日本の正しい大晦日の有り方と考える者で、カウント・ダウンに大勢で集まり騒ぐ、西洋かぶれのジルヴェスターに興味は無かった。でも、今年の西宮北口ホールの企画はマチネで、しかもレミージョとウリヴィエーリのモーツァルト歌いに、指揮者も只今売り出し中で若手有望株のマテウスと、単なるイヴェントでは無い、音楽的に隙の無い布陣に魅力を感じ、大晦日にノコノコ出掛ける仕儀と相成った。

 本日のガラコンはフィガロ序曲で始まる。マテウスの指揮は滑り出し、中庸のテンポとダイナミズムの穏健な演奏で、矢鱈に速かったり美麗な音を振り撒いたりはせず、さすがにアバドの弟子と云うべきかと思う。まあ、コアな聴衆を想定しない、大晦日モツ・オペラ大会向きの指揮ではある。何も加えず自ずと語らせるモーツァルト、そう云うと聞こえは良いが、オケの技量不足はあるにせよ、もう少し細かい工夫もあって然るべきと感じる。歌手やピアニストの伴奏だけで、マテウスの実力を云々するのは早計かも知れないけれども。

 続いてウルヴィエーリのフィガロのアリアは、まだエンジンの掛からない助走不足で、やや生気に欠ける印象を受ける。だが、この方は素晴らしいバッソ・カンタンテで、喉も温まった後の「カタログの歌」では、響きの高い美声を駆使して実に巧みな歌だった。ウルヴィエーリは以前に一度、ボローニャ来日公演の「清教徒」でジョルジョを唱うのを聴いたが、今日は脇役の歌とは違う、主役としての存在感を示してくれた。

 レミージョの方もスイス・バーゼルの「フィガロの結婚」で、既に伯爵夫人を唱うのを聴き、その実力の程は承知している。持ち前の濡れた様な情感を含む声質と、絶妙にコントロールされた柔らかいソット・ヴォーチェを武器として、ピアニシモで切々と歌われたロジーナのアリアは、本日の白眉だったと思う。

 コンチェルトを弾く関本昌平君は、二楽章のアダージョで音の隙間を埋め切れず、カンタービレに歌う技術不足を露呈する。でも、三楽章のアレグロになると指揮のマテウス君共々、水を得た魚のように生き生きしたのには、少し笑って終った。関本君は85年生まれの31歳で、ショパン・コンクール四位の俊英だが、モーツァルトを得意とするとは寡聞にして知らない。今日は二人の大物歌手に、挌違いを見せ付けられた恰好だ。

 入口で貰ったプログラムに目を通すと演出、台本、照明等のスタッフの名が記されている。何を大仰なと思っていたが、やがて司会の朝日放送アナウンサーの喋る台詞も、井戸兵庫県知事の挨拶もダラダラと長く、音の鳴っている時間は短いコンサートと思い知らされる。ガラコンなんてそんなもの、と言われて終えばそれまでだが、やはりこれは兵庫芸文独特のサービスの在り方では無かろうか。そんな事で無駄に時間を費やすよりも、モーツァルトのシンフォニーかディヴェルティメントを一曲、何でも良いから演奏する方が、真っ当な観客サービスと愚考する次第である。

 後半に二人の歌手が、それぞれコンサート・アリアをジックリと聴かせるのも、司会を挟むガラコンの賑々しい雰囲気と齟齬がある。フィガロとドンジョを交互に演奏し、オペラの筋書き通りに並べなかったのも、演出に力を入れ過ぎて音楽を等閑にしたように感じられる。今日のプロフラムに付いても、果たしてマテウス君の意向は何処まで反映されているのか、僕には主催者側との妥協の産物のように思えてならない。

オーケストラ・アンサンブル金沢 大阪公演

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<ニューイヤーコンサート2017>
2017年1月11日(水)19:00/いずみホール

指揮&ヴァイオリン/エンリコ・オノフリ
ソプラノ/森麻季
チェンバロ/桑形亜樹子
オーケストラ・アンサンブル金沢

ヴィヴァルディ「シンフォニア(祝されたセーナ)RV693/ヴァイオリン協奏曲(調和の霊感)RV310」
ヘンデル「神に選ばれた天の使者よ(時と覚醒の勝利)HWV46a/王宮の花火の音楽 HWV351」
モーツァルト「踊れ、喜べ、幸いなる魂よ K.165/交響曲第35番 K.385」


 オーケストラ・アンサンブル金沢のニューイヤーコンサートは、本拠地である石川県立音楽堂を振り出しに富山、大阪と巡演し、明日の東京公演で打ち上げる旅程を組んでいる。国内のニューイヤーコンサートと云えば、元日のウィーン・フィルの猿真似で、最後は「美しく青きドナウ」と「ラデツキー・マーチ」で締め括り、善男善女の喝采を浴びると云う偏見があり、これまで僕は一切足を運ぶ事は無かった。でも、OEKのニューイヤーは指揮にオノフリ、ソリストには森麻季を起用し、ヴィヴァルディにヘンデルにモーツァルトを取り上げる、本格的なピリオド・アプローチのようで、これは是非とも聴かねばといずみホールを訪れた。

 オノフリの言に拠ると、今回のプログラムのテーマは「祝典」だそうで、ニューイヤーコンサートで新年を祝うのに相応しい、目出度い曲を集めたそうな。まずは年代順にヴィヴァルディで、「祝されたセーナ」から序曲だが、ここでオノフリの演奏の鋭いリズムに驚かされる。BCJのように弾むのでは無い、こんな風に鋭角に刻まれるリズムを、僕はバロック音楽で初めて聴いたかも知れない。オノフリは指揮をせず、合奏にヴァイオリンで加わり、三回目の本番で演奏も練れて来た様子を窺える。

 次もヴィヴァルディで、「調和の霊感」第三番の協奏曲の弾き振りだが、オノフリはソロ部分では客席を向き、合奏になるとオケの方に向き直るので、自分の前後に譜面台を置き、両方ともページを捲っているのが何だか可笑しい。そのオノフリの独奏ヴァイオリンには、ピリオド楽器に有り勝ちな、鈍重な印象の無い鮮烈な音色があり、指揮者としてもオケに対し、自分と同じ調子で弾くようリードしている。

 ここで本日のプリマドンナである森麻季の登場、まずオノフリに拠るヴァイオリン・オブリガード付きで、ヘンデルのオラトリオからアリアを一曲。遅いテンポの曲で、森はマッタリと美声を振り撒き、持ち前のメリスマの技術を聴かせる。続いて所謂ひとつの泰西名曲である「王宮の花火の音楽」は、オノフリが明暗の対比を付ける鮮烈な音楽作りで、ヘンデルらしい愉悦に満ちた…と云う風には行かない、華やかに力押しする演奏である。オノフリのバトンテクは今ひとつだが、音楽の姿が目に見えるような指揮で、これにオケもヴィヴィッドに反応し、お互いの信頼の深さを感じさせるのも嬉しい。ここでソロを取るのはオノフリでは無く、コンミスのアビゲイル・ヤングだった。

 暫時休憩の後、時代は進みモーツァルトで、やはり超有名曲の「エクスルターテ・ユビラーテ」で森麻季は、事前に指揮者と擦り合わせ、キチンと様式に沿ったカデンツァを聴かせる。コロラトゥーラの超高音やメリスマもさり気なく、決してテクニックをひけらかさず、楷書のモーツァルトを歌ってくれる。その代わりアンコールは遣りたい放題で、耳に胼胝のヘンデルのアリア「ラシャ・キオ・ピアンガ」を、聴いた事も無いようなヴァリアンテでテンコ盛りにして、楽しく興味深く聴かせてくれた。

 プログラムの最後はハフナー・シンフォニーで、アレグロは疾走するモーツァルトで賑々しく、アンダンテではスフォルツァンドやリタルダンドをサラリと交え、フィナーレは圧倒的な愉悦感で、文字通り一気呵成のプレストを押し切る。ティンパニーはOEK所有の革張りだそうで、この楽器の潤いのある音色も絶大な威力を発揮する。かつてイル・ジャルディーノ・アルモニコを率いたオノフリの下、OEKはモダンオケとしてほぼ完璧なピリオド・アプローチで、ヘンデルやモーツァルトを質実な引き締まった音色で聴かせた。メンバー全員で古楽器の音色のイメージを共有し、把握しているからこそ可能な演奏で、OEKはピリオド奏法が板に付いていると感じる。モダン楽器を弾いているとは思えない、古雅な響きで王宮の花火の音楽と、ハフナー交響曲を美しく描き分けてくれた。

 とても聴き応えのある良い演奏だったが、今日の聴衆は八百席のホールに半分は愚か、三分の一入っているかどうかで寂しい限りだった。ハフナーに王宮の花火に調和の霊感と名曲プログラムで、ソリストには人気者の森麻季を迎えても、結局はオケと指揮者の知名度の問題だろうか。それともニューイヤーコンサートでは、プログラムにウィンナ・ワルツを入れないと、大量動員は望めないのだろうか。国内ツアーの指揮者に古楽ヴァイオリニストを起用し、ピリオド・アプローチのモーツァルトを聴かせる、OEKの意欲的な姿勢は大いに評価出来るだけに、その内容に見合った集客も望まれる。

シューベルト「冬の旅」D.911

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<シューベルトこころの奥へVol.4>
2017年1月13日(金)19:00/いずみホール

テノール/ユリアン・プレガルディエン
フォルテピアノ/鈴木優人

シューベルト「Die Winterreise 冬の旅」(全24曲)D.911
1.Gute Nacht おやすみ
2.Die Wetterfahne 風見の旗
3.Gefror'ne Tranen 凍った涙
4.Erstarrung かじかみ
5.Der Lindenbaum 菩提樹
6.Wasserfult 溢れる涙
7.Auf dem Flusse 川の上で
8.Ruckblick 回想
9.Irrlict 鬼火
10.Rast 休息
11.Fruhlingstraum 春の夢
12.Einsamkeit 孤独
13.Die Post 郵便馬車
14.Der greise Kopf 霜おく髪
15.Die Krahe 烏
16.Letzte Hoffnung 最後の希望
17.Im Dorfe 村で
18.Der sturmische Morgen 嵐の朝
19.Tauschung 幻覚
20.Der Wegweiser 道標
21.Das Wirtshaus 宿屋
22.Mut 勇気
23.Die Nebensonnen 幻の太陽
24.Der Leiermann 辻音楽師


 最初に告白するが、僕はコンサートを聴き終え、改めてプログラムに目を通すまで、今日「冬の旅」を歌ったユリアンを、父親のクリストフ・プレガルディエンと取り違えていた。そもそもアーノンクールのマタイでエヴァンゲリストを、フォルテピアノ奏者のシュタイアーと組み、リートを歌っていたクリストフに、やはりテノール歌手の息子がいて、親父に迫る知名度を得ている事も演奏後に知った。誠に慚愧に堪えないのである。

 つまり今日はクリストフの息子のユリアンと、雅明ジュニアの優人の、二代目同士のデュオ・コンサートである。今時のエヴァンゲリスト歌手であれば、ユリアン君にも古楽志向は強かろうし、優人君の方は言わずもがなで、シューベルトのリートを歌うのに、十九世紀初頭に制作されたフォルテピアノを使うのも、古楽業界の第三世代である二人にすれば、取り敢えず当然の措置なのだろう。

 本日の使用楽器はいずみホールの所有する、ナネッテ・シュトライヒャー制作のオリジナルで、音域は七十七鍵の六オクターブと、シューベルトは弾けてもショパンは無理と云うピアノである。また、モダンピアノには付いていない、ハンマーと弦の間に紙を挿入するバス―ン・ペダルとやらを踏むと、ガチャガチャ云う雑音を発して、これは謂わば十九世紀のプリペアード・ピアノである(ケージの方で真似したのかも知れないけれども)。これも今日、終曲「辻音楽師」でヘンな音が聴こえたので、帰宅後に調べ初めて知った次第である。

 フォルテピアノはチェンバロ並みに細く、緩目に張られたスチール弦を、革張りのハンマーで叩くので、音量的にはモダンピアノに遠く及ばない。基本的に弱音重視の楽器で、弦とハンマーの間にフェルトを挟み音色を柔らかくする、モデラート・ペダルとやらも頻用される。だから最初の内、フォルテピアノの小さ目の音量を不満に感じるが、次第に狭いダイナミク・レンジの中で繊細な変化を付ける、鈴木ジュニアの工夫に惹き付けられるようになる。

 ただ、プレガルディエン息子の志向は、美しい曲を美しい声で聴かせる方に傾いていて、必ずしもフォルテピアノの繊細な音色に、寄り添うスタイルでは無いように思う。高音部ではスピントするフォルテを多用し、中音域は専らソット・ヴォーチェで、ファルセットは最小限に抑えるので、ドイツ語の朗唱よりも、メロディを歌い上げる方に重点を置いていると感じられる。

 フォルテピアノはモダン楽器と比し、共鳴すべき最低音部の太い弦を欠く為、高次の倍音の乏しいシブい音を発する。本日のテノールの声の華やかさと、フォルテピアノの艶消しの音色に齟齬のあるように感じるのは、僕もモダンピアノの強烈な響きに毒されているからだろうか。「冬の旅」は音域的に、或いは曲そのものの内容からも、バス・バリトンの声で歌われる場合が多いし、テノールの明るい声で唱われると、低声歌手の演奏に滲むような、寂寥感も希薄になるように思う。

 プレガルディエン息子は曲中、チラリとメリスマを挟み込んでいた。モーツァルト辺りでは当り前になった装飾音だが、僕はシューベルトでは初めて聴く。そこには当然ながら実証的な裏付けも無ければならず、シューベルトでオリジナル楽器のフォルテピアノを使う、彼らなりの必然性を示していたのだろう。

 僕の思うにフォルテピアノと云う楽器に、中規模のいずみホールのキャパは大き過ぎる。三百席のフェニックスホールか、四百席の兵庫芸文小ホール程度の会場で、歌手はフォルテピアノの音量に合わせ、インティメイトに唱わねばならない筈だ。そもそもドイツ・リートのコンサートで八百席を埋める等、特に大阪近辺では不可能なのだから。
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