<いずみホール・オペラ2016/プレミエ即千秋楽>
2016年9月3日(土)14:00/いずみホール
指揮&チェンバロ/河原忠之
チェロ/上塚憲一
ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団
ザ・カレッジ・オペラハウス合唱団
演出/粟國淳
照明/原中治美
ドン・ジョヴァンニ/黒田博
レポレッロ/西尾岳史
ドンナ・アンナ/石橋栄実
ドンナ・エルヴィーラ/澤畑恵美
ドン・オッターヴィオ/清水徹太郎
ツェルリーナ/老田裕子
マゼット/東平聞
騎士長/ジョン・ハオ
九月は演奏会シーズンの開幕だが、先月はオペラ一本にオケ定期を二つ聴き、額面通りの高揚感は一向に湧かない。そう云えば今年の夏は、遠出の旅行もせずに終わりそうだし、秋風の立つ頃には何処かへ泊まり掛けで、オペラなど観て回りたいと思う。
今年のいずみホール特集企画はシューベルトだが、それとは関係無く、年に一度のホール・オペラはモーツァルトで、三年前の「イドメネオ」に始まり、一昨年の「フィガロの結婚」、そして去年の「魔笛」と上演を重ね、今年は「ドン・ジョヴァンニ」を取り上げる。いずみホール・オペラの魅力は、何と云っても東西の所属団体を問わず集めた、豪華キャストの筈だが、コレペティ上がりの指揮者さんの場合、歌手の選択に情実を絡ませ、必ずしもベストの布陣を敷かないのではと、僕は以前から疑念を抱いている。
河原は指揮のド素人なのに、今日見た処でも指揮法を学習する気配は微塵も無い。打点はバラバラな上に、左右の手は同じ動きをする等、基本を知らない指揮だが、それよりも問題はオケとコミュニケーションを取ろうとせず、完全に自分の世界に浸り切っている点にある。つまり一聴衆として客席から窺う限りでは、指揮にオケが反応し、音楽を変化させているように見えないのだ。オケの方で河原の能力を見切っていて、度々後追いになる指揮を無視し、着々と演奏を進める、そんな風にしか見えないのだ。この人の拍節の示し方は生硬で、音楽を堰き止めているので、もし指揮に忠実に演奏すれば、レガートに流れるモーツァルトにはならない筈だ。
二幕のフィナーレで、指揮者は唐突に四拍振りを二拍に切り替え、テンポはガクンと速くなる。それはアチェルラントとは呼ばず、「走り出した」と云うのだと、僕は思わず突っ込んで終う。彼の指揮は素人に有り勝ちな自己陶酔型で、見苦しく目障りですらある。ずっとチェンバロだけ弾いていれば、後はオケが宜しく遣ってくれるし、ボロを出す事も無いのにと思う。これからでも遅くは無い、河原君には地道に指揮法を習得するようお勧めしたいが、彼には長いコレペティの経験がある為、変なプライドを捨て切れないのだろう。
また、オケは指揮抜きであっても、フォルテを盛り上げるのは容易だが、自分達だけで音量をピアニシモまで下げるのは難しい。それこそ指揮者の役割だが、河原にはそのような指示を出す素振りも無い。例えば一幕のデュエット「お手をどうぞ」や、アリア「打ってよマゼット」等、ピアニシモ主導の曲でもオケの音量は小さくならず、歌手の声はマトモに聴こえて来ない。ここで黒田や老田が、オケに負けじと声を張り上げれば、全ては打ち壊しになる。歌と伴奏の音量のバランスを取る事も出来ないのでは、オペラ指揮者失格と謗られても仕方無いだろう。
ツェルリーナの老田裕子は、指揮者に足を引っ張られ気の毒だったが、二幕の「薬屋の歌」では柔らかい声で、甘いモーツァルトを聴かせてくれる。去年のロッシーニでは重目に感じられた声も、モーツァルトではレジェーロに響き、この方はベルカントでも抽象的な音楽とは相性が悪いと感じる。ドンナ・アンナの石橋栄実もレジェーロな声質だが、こちらはパセティックな役柄を、フィジカルの強さと直向きな歌で押し通す。石橋は蚊細いコロラトゥーラのイメージから程遠い、ソプラノ・レジェーロにしては破格の声量の持ち主で、常に力任せに成り勝ちな人である。この方の一本調子な歌は毎度の事で、細かい表現の襞とかは端から期待していない。
ドンナ・エルヴィーラの澤畑恵美はメゾでもスピントでも無い、標準的なソプラノ・リリコと思っていたが、今日聴いた処ではパセティックな情動を表現出来るので、元カレを追い駈け回すストーカーみたいな役柄にハマったと思う。今回の三人の女声主役に付いて、僕は実際に聴くまで懸念と云うか、その配役に不審を感じていた。やや重目の老田にツェルリーナは相応しいのか、典型的なレジェーロの石橋の方が適役だろうし、リリコの澤畑もドンナ・アンナで良いのでは?等と考えていた。聴き終えた後の感想として、老田と澤畑はそれなりに適役だったが、やはり石橋にツェルリーナを唱わせれば、もっと肩の力を抜いた歌になっただろうと思う。こう言ってはアレだが、この方にはノー天気な役柄がフィットするのだ。
僕は黒田博のタイトル・ロールを、以前びわ湖ホールの上演で聴いている。彼は役柄を完全に手の内に入れていて、持ち前の美声を強力な武器に、闊達な歌い振りで聴かせてくれる。レガートに歌いながらも、フレーズの終わり際をキッチリと切り上げる、端正なフレージングも聴いていて心地良い。これはモーツァルトの様式観に関わる問題で、出来ていて当然だが言うは易しで、この基本を素っ飛ばす歌手は幾らでも居るのである。
この点はドン・オッターヴィオの清水徹太郎も良く心得ていて、清潔なフレージングを作っている上に、デュナーミクの抑揚と音色の変化を結び付け、委曲を尽くしたモーツァルトを歌ってくれる。今日は二幕のアリアに加えて、ウィーン上演版で追加された一幕のアリアも唱われ、清水君のレジェーロな美声をタップリ聴けて、まずは満足である。今日は二幕のエルヴィーラのアリアも唱われたので、地獄落ちの前に長いアリアを三曲も立て続けに聴かされ、いよいよお腹一杯だった。
騎士長のジョン・ハオは額面通り、声に力のある処を聴かせ自分の職責を果たしたが、マゼットの東平聞は低音のサッパリ出ないバスで、平べったい嗄れ声で力むだけなのが鬱陶しい。レポレッロの西尾岳史も微妙で、演技はソコソコだし声量にも不満は無いが、声の個性と云うか魅力に乏しく、聴いていて面白くないのでは致し方も無い。
演出に付いて平凡でも安心して観ていられると取るか、或いは独自の解釈も何も無い、退屈極まる舞台と見るかで意見の分かれる処だろうが、それよりも僕が問題にしたいのは、ルーティン・ワークに陥った演技て、細かい仕草や動きを歌手に丸投げしているように見える点にある。一体に日本のオペラ歌手には様式化された身振りがあり、演出家は敢えて手を出さずとも、歌手だけで適当に舞台に仕立て上げる事が出来るように思う。
開幕直後のドンジョと騎士長の果し合いの場面、黒田の手からポロっと剣が落ちて終った処へ、ジョン・ハオは間髪を入れず剣を突き掛け、これに黒田も素手のまま身を躱す演技で応じ、最後はハオから剣を奪い取り刺し殺して見せた。決着の付いた処で、床に落ちていた剣を拾ったフルート奏者が、黒田の足元に置いた事で、一連の遣り取りは演出では無く、二人のアドリブである事もハッキリした。実に巧く誤魔化したものだが、それは同時に彼等の演技が、既成の約束事の上に成り立っている事を、図らずも顕わにしたように思う。
2016年9月3日(土)14:00/いずみホール
指揮&チェンバロ/河原忠之
チェロ/上塚憲一
ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団
ザ・カレッジ・オペラハウス合唱団
演出/粟國淳
照明/原中治美
ドン・ジョヴァンニ/黒田博
レポレッロ/西尾岳史
ドンナ・アンナ/石橋栄実
ドンナ・エルヴィーラ/澤畑恵美
ドン・オッターヴィオ/清水徹太郎
ツェルリーナ/老田裕子
マゼット/東平聞
騎士長/ジョン・ハオ
九月は演奏会シーズンの開幕だが、先月はオペラ一本にオケ定期を二つ聴き、額面通りの高揚感は一向に湧かない。そう云えば今年の夏は、遠出の旅行もせずに終わりそうだし、秋風の立つ頃には何処かへ泊まり掛けで、オペラなど観て回りたいと思う。
今年のいずみホール特集企画はシューベルトだが、それとは関係無く、年に一度のホール・オペラはモーツァルトで、三年前の「イドメネオ」に始まり、一昨年の「フィガロの結婚」、そして去年の「魔笛」と上演を重ね、今年は「ドン・ジョヴァンニ」を取り上げる。いずみホール・オペラの魅力は、何と云っても東西の所属団体を問わず集めた、豪華キャストの筈だが、コレペティ上がりの指揮者さんの場合、歌手の選択に情実を絡ませ、必ずしもベストの布陣を敷かないのではと、僕は以前から疑念を抱いている。
河原は指揮のド素人なのに、今日見た処でも指揮法を学習する気配は微塵も無い。打点はバラバラな上に、左右の手は同じ動きをする等、基本を知らない指揮だが、それよりも問題はオケとコミュニケーションを取ろうとせず、完全に自分の世界に浸り切っている点にある。つまり一聴衆として客席から窺う限りでは、指揮にオケが反応し、音楽を変化させているように見えないのだ。オケの方で河原の能力を見切っていて、度々後追いになる指揮を無視し、着々と演奏を進める、そんな風にしか見えないのだ。この人の拍節の示し方は生硬で、音楽を堰き止めているので、もし指揮に忠実に演奏すれば、レガートに流れるモーツァルトにはならない筈だ。
二幕のフィナーレで、指揮者は唐突に四拍振りを二拍に切り替え、テンポはガクンと速くなる。それはアチェルラントとは呼ばず、「走り出した」と云うのだと、僕は思わず突っ込んで終う。彼の指揮は素人に有り勝ちな自己陶酔型で、見苦しく目障りですらある。ずっとチェンバロだけ弾いていれば、後はオケが宜しく遣ってくれるし、ボロを出す事も無いのにと思う。これからでも遅くは無い、河原君には地道に指揮法を習得するようお勧めしたいが、彼には長いコレペティの経験がある為、変なプライドを捨て切れないのだろう。
また、オケは指揮抜きであっても、フォルテを盛り上げるのは容易だが、自分達だけで音量をピアニシモまで下げるのは難しい。それこそ指揮者の役割だが、河原にはそのような指示を出す素振りも無い。例えば一幕のデュエット「お手をどうぞ」や、アリア「打ってよマゼット」等、ピアニシモ主導の曲でもオケの音量は小さくならず、歌手の声はマトモに聴こえて来ない。ここで黒田や老田が、オケに負けじと声を張り上げれば、全ては打ち壊しになる。歌と伴奏の音量のバランスを取る事も出来ないのでは、オペラ指揮者失格と謗られても仕方無いだろう。
ツェルリーナの老田裕子は、指揮者に足を引っ張られ気の毒だったが、二幕の「薬屋の歌」では柔らかい声で、甘いモーツァルトを聴かせてくれる。去年のロッシーニでは重目に感じられた声も、モーツァルトではレジェーロに響き、この方はベルカントでも抽象的な音楽とは相性が悪いと感じる。ドンナ・アンナの石橋栄実もレジェーロな声質だが、こちらはパセティックな役柄を、フィジカルの強さと直向きな歌で押し通す。石橋は蚊細いコロラトゥーラのイメージから程遠い、ソプラノ・レジェーロにしては破格の声量の持ち主で、常に力任せに成り勝ちな人である。この方の一本調子な歌は毎度の事で、細かい表現の襞とかは端から期待していない。
ドンナ・エルヴィーラの澤畑恵美はメゾでもスピントでも無い、標準的なソプラノ・リリコと思っていたが、今日聴いた処ではパセティックな情動を表現出来るので、元カレを追い駈け回すストーカーみたいな役柄にハマったと思う。今回の三人の女声主役に付いて、僕は実際に聴くまで懸念と云うか、その配役に不審を感じていた。やや重目の老田にツェルリーナは相応しいのか、典型的なレジェーロの石橋の方が適役だろうし、リリコの澤畑もドンナ・アンナで良いのでは?等と考えていた。聴き終えた後の感想として、老田と澤畑はそれなりに適役だったが、やはり石橋にツェルリーナを唱わせれば、もっと肩の力を抜いた歌になっただろうと思う。こう言ってはアレだが、この方にはノー天気な役柄がフィットするのだ。
僕は黒田博のタイトル・ロールを、以前びわ湖ホールの上演で聴いている。彼は役柄を完全に手の内に入れていて、持ち前の美声を強力な武器に、闊達な歌い振りで聴かせてくれる。レガートに歌いながらも、フレーズの終わり際をキッチリと切り上げる、端正なフレージングも聴いていて心地良い。これはモーツァルトの様式観に関わる問題で、出来ていて当然だが言うは易しで、この基本を素っ飛ばす歌手は幾らでも居るのである。
この点はドン・オッターヴィオの清水徹太郎も良く心得ていて、清潔なフレージングを作っている上に、デュナーミクの抑揚と音色の変化を結び付け、委曲を尽くしたモーツァルトを歌ってくれる。今日は二幕のアリアに加えて、ウィーン上演版で追加された一幕のアリアも唱われ、清水君のレジェーロな美声をタップリ聴けて、まずは満足である。今日は二幕のエルヴィーラのアリアも唱われたので、地獄落ちの前に長いアリアを三曲も立て続けに聴かされ、いよいよお腹一杯だった。
騎士長のジョン・ハオは額面通り、声に力のある処を聴かせ自分の職責を果たしたが、マゼットの東平聞は低音のサッパリ出ないバスで、平べったい嗄れ声で力むだけなのが鬱陶しい。レポレッロの西尾岳史も微妙で、演技はソコソコだし声量にも不満は無いが、声の個性と云うか魅力に乏しく、聴いていて面白くないのでは致し方も無い。
演出に付いて平凡でも安心して観ていられると取るか、或いは独自の解釈も何も無い、退屈極まる舞台と見るかで意見の分かれる処だろうが、それよりも僕が問題にしたいのは、ルーティン・ワークに陥った演技て、細かい仕草や動きを歌手に丸投げしているように見える点にある。一体に日本のオペラ歌手には様式化された身振りがあり、演出家は敢えて手を出さずとも、歌手だけで適当に舞台に仕立て上げる事が出来るように思う。
開幕直後のドンジョと騎士長の果し合いの場面、黒田の手からポロっと剣が落ちて終った処へ、ジョン・ハオは間髪を入れず剣を突き掛け、これに黒田も素手のまま身を躱す演技で応じ、最後はハオから剣を奪い取り刺し殺して見せた。決着の付いた処で、床に落ちていた剣を拾ったフルート奏者が、黒田の足元に置いた事で、一連の遣り取りは演出では無く、二人のアドリブである事もハッキリした。実に巧く誤魔化したものだが、それは同時に彼等の演技が、既成の約束事の上に成り立っている事を、図らずも顕わにしたように思う。