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Channel: オペラの夜
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マーラー「交響曲第三番」

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<大阪フィルハーモニー交響楽団第491回定期演奏会>
2015年9月17日(木)19:00/フェスティバルホール

指揮/大植英次
アルト/ナタリー・シュトゥッツマン
大阪フィルハーモニー交響楽団
大阪フィルハーモニー合唱団
大阪すみよし少年少女合唱団


 大フィル定期は六月にドヴォルザーク「スターバト・マーテル」を聴き、オケの準備不足の演奏にウンザリさせられた。まあ、大フィルの演奏に当り外れのあるのは毎度の話で、一聴衆としては腹を括って臨むしか無いのである。今日のアルト・ソロは、何故か大植と気の合うらしいナタリー・シュトゥッツマンで、この二人の組み合わせは七年前、やはりマーラーで「亡き子を偲ぶ歌」を聴いたが、この際の大フィルも芳しいとは言い難い状況だった。ただ、今日やる三番は大植の指揮だけでも、この十年で三度目となるし、百分を超える大曲である点に聊かの懸念は残るにせよ、さすがに今回は大丈夫だろうとは思う。

 今日は始まって直ぐに大フィルは充分な稽古を積み、定期公演に臨んでいると分かり、事前の懸念は払拭された。弦楽セクションは美しく歌い上げた、と表現しても然程に言い過ぎでは無く、ホルンとトロンボーンの奮闘振りは殆ど落涙物で、みんな遣れば出来る子達なのは分かったし、これからは今日の演奏レヴェルをデフォルトとして欲しい。とは云うものの、おまえ等ちゃんと練習しないと、また補助金を減らすぞ!とか脅さねば、彼等は常に身を入れて稽古するようにはならない気もする。

 しかし、久し振りにマーラーの三番を聴き、やはり冗長な部分の多いムダに長い曲で、刈り込む余地は大いにありそうとの感想を抱く。事前の懸念と云えば、悪名高い大植英次のマーラー解釈と云うヤツもあったが、これに関しては長丁場を乗り切る為、ねちこい解釈を採ってくれた方が助かると、個人的には考えていた。そもそも最初に聴いた刷り込みで、僕はバーンスタインや若杉弘さんのような、耽溺系のマーラー演奏を好む者である。

 大植の解釈は意外にも至極マトモだったが、そうなると逆に物足りなさを感じるのである。そもそものテンポ設定が速目なので、もっとネチこい表現も無いと、緩徐部でのフォルテシモも生かされない。大植に山場を盛り上げる馬力はあるが、横に流れるだけでデュナーミクの工夫に乏しく、情感を醸す起伏に欠けるのである。マーラーに耽溺しようとする意図は伝わるが、それが表現として顕れ難い憾みは残る。しかし、最初から最後まで恰好を付け、舞台上で自然に振る舞えない大植を見ていると、この人には何か抜き難いコンプレックスでもあるのかと、改めて訝かしく思われた。

 コーラス隊は児童も女声も、全員最初からスタンバイしていたのに対し、出番の四楽章になって姿を見せたシュトゥッツマンは、第一声からお馴染みの柔らかいアルトで聴かせる。勿論、二千七百席の大ホールで百名超のオケを相手に唱う、シュトゥッツマンからリートのように繊細な歌は聴けない。でも、マーラーの多彩なオーケストレーションの中に埋もれない、持ち前の深い美声は管弦楽の中で精彩を放ち、流石の存在感を示していた。児童合唱はソコソコ綺麗だったが、大人の女声合唱にはもう少し透明な音色が望まれる。これは多分、高望みに過ぎるのだろうけれども。

 今日は六楽章の最後、全曲の締め括りで暫しの静寂が保たれ、大植がタクトを下ろすその瞬間まで拍手は起こらなかった。関西のクラヲタの中でも、取り分けタチの悪い大フィル定期会員を、僕はこれまで全く信用していなかった。でも、今回は常連も一見も示し合わせたように、長大な曲の余韻を味わっていたように思う。大フィルを唯一無二の存在のように言う輩も含め、今日は定期会員のヲタ共を、ちょっと見直した事だった。

ベッリーニ「ノルマ」

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<第24回みつなかオペラ/V.ベッリーニ“ベルカント・オペラ”シリーズ>
2015年9月20日(日)14:00/川西みつなかホール

指揮/牧村邦彦
ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団
みつなかオペラ合唱団

演出/井原広樹
美術/アントニオ・マストロマッテイ
照明/原中治美
衣裳/村上まさあき

ノルマ/尾崎比佐子
ポリオーネ/藤田卓也
アダルジーザ/木澤佐江子
族長オロヴェーゾ/片桐直樹
乳母クロティルデ/味岡真紀子
副官フラーヴィオ/小林峻


 川西市民オペラの重量企画で、ドニゼッティとベッリーニを三作づつ連続で、計六連発するベルカント・シリーズも、目出度く最終年度を迎えた。結局、僕はその内の半分しか聴けなかったが、多少のデコボコはあるにせよ、概ね良質で内容豊富な上演だった。まずはベッド・タウン・オペラの敢行した、国内では稀有な好企画の完遂を寿ぎたい。

 キャパ四百席余りの小ホールで、ピットにオリジナル編成のオケの入り切らない難点はあったが、その代わりに歌手は声を張り上げる必要も無く、ベルカント・オペラの上演に相応しい環境が整っていた。切り詰められたオケ編成にしても、ハープは舞台脇の狭い空間に、バスドラムはピットの出入り口の奥に配置する等、涙ぐましい様な工夫を凝らし、原曲と聴き紛う豊かな響きを実現していた。これまでのベルカント・シリーズでオケに関し、僕は一切の不満を感じる事は無かった。

 歌手に付いて、今回の公演で事前の期待が最も高かったのは、何と云っても昨年の「清教徒」でアルトゥーロを務め、ハイFを出した藤田卓也と思われる。彼が今回のポリオーネでも、行くとして可成ら去るは無しの超高音を、存分に聴かせてくれるか否かに、興味の焦点は絞られていたと云える。従ってオペラ冒頭で歌われる、「共にヴィーナスの祭壇へ」で、多分ハイCだと思うが出し損なった時点で、もう今日はこれで終ったと、僕は諦め気分に陥った。

 気の毒なポリオーネには、これ一曲しか単独のアリアは無く、名誉挽回のチャンスも無いのである。ベルカント・オペラでのプリモ・テノールの存在価値は、ハイC以上を出せるか否かで測られると、僕は断言して憚らない。そもそも今回の藤田はやや力み過ぎで、これがヴェルディやプッチーニを歌う為、故意に重い声を作り、高音の出なくなったので無ければ幸いである。オロヴェーゾの片桐直樹は声に揺れが目立ち、こちらは加齢に拠る衰えの兆しかも知れない。

 ノルマの尾崎比佐子はヴィブラートの少ない、透明な声質が役にハマっている。コロラトゥーラの技術は堅実だし、多少メリスマの滑る傾きはあるが、アジリタはソコソコ頑張って、アリア「清き女神」ではベテランらしく安定した実力を発揮する。アダルジーザの木澤佐江子も柔らかく暖かい、少女っぽい清純さを自ずと表現出来る声質の上に、デュナーミクの強弱で音楽に変化を与える工夫もある。最初は重かった藤田の声も、木澤とのデュエット「去れ残酷な人よ」では軽くなって来る。主役の三人は総じてヴィブラートのキツくない、ベルカント向きの声で安心して聴けるレヴェルにあった。

 ただ、演出は毎度の事ながら、安心して観ている訳には行かない。歌手やコーラスへの振り付けが皆目意図不明で、ただ単に何か動いていさえすれば、それで良しと考えているとしか思えず、観ていて煩わしいとしか感じないのである。一方、主役三人のみが舞台に残る一幕二場になると、動きはパタリと止まって終う。何もしないとなると、今度は全く動かなくなり、見ていて退屈の極みとなる。ノルマとアダルジーザの間で、意味も無くウロウロするだけのポリオーネを見ていると、次第に怒りすら込み上げて来る。

 しかもこの長丁場の間、薄暮のような照明に何の変化も無い。三人の内の誰かにスポットを当てるとか、何かしら工夫の仕様もあるだろうに等と思いつつ、休憩時間を過ごした後、二幕冒頭から再びノルマとアダルジーザのデュエットが終わるまで、引き続き牢固として照明に何の変化も無かったのには、呆れるのを通り越して力が抜けて終った。

 まあ、演出には目を瞑るとしても、問題は二幕以降のノルマだ。兎に角、大きな良い声で歌おうと意識し過ぎで、音色の変化にも乏しく、言葉の意味も置き去りとなり、音楽の内容を無視して力み出す。力み勝ちだった藤田君の方は、ノルマやアダルジーザとのデュエットやトリオでは肩の力も抜け、上手く女声二人を支えたが、その代わりにタイトル・ロールの張り切り方も目立つのだ。

 こんな小さなホールで、しかもベルカント・オペラであれば、声を出すのに力む必要など全く無い。ところが今日はノルマが大声を張り上げると、観客も興奮し始め、逆に歌う側も煽られる悪循環を起こす。幕切れに向け尾崎が力み返ると、客席は益々ヒート・アップして行く。もっと力を抜いて歌えば、声も伸びやかに響き、より美しいノルマを聴かせられる筈と思うが、一世一代の大舞台に力む歌手を責める気にもならない。どうも今日の客席の盛り上がりは内輪受けクサく、果たして何処まで本気なのかも疑われるのである。

 関西ローカルのオペラ上演で、客席に関係者の詰め掛けるのは毎度の事で、それをとやかく言うのも詮無い話だ。カーテン・コールに移っても、客席の興奮は一向に収まらず、その延々と続く空騒ぎに、僕は鼻白む思いで一足先に失礼した。今日の出来は過去の公演と比べても、可も無く不可も無しと云った処だろう。不発に終わったポリオーネと、伸びやかさを欠いたノルマと、主役二人の出来を考え合わせれば、あのカーテン・コールの盛り上がりには、やはり聊かの違和感を覚えるのだ。

春夏秋冬、磐城壽を呑む。

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 皆様に謹んで新年のお祝いを申し上げます。太平洋を間近に望む浪江町請戸の酒蔵で、東日本大震災の津波に一切を流された上、フクシマ・ダイイチの事故で故郷を追われ、今は雪深い山形県長井市で酒名「磐城壽」を醸す、鈴木酒造店長井蔵を支援(只ひたすら磐城壽を呑み酔っ払う)する記事です。



 自称“磐城壽マニア”の割烹居酒屋「堂島雪花菜」謹製のお節料理と、我が家のお雑煮をアテに、磐城壽・季造りしぼりたて生酒で新年を寿ぎました(実は去年の正月写真の虫干しですけど)。勿論、実店舗にも赴き、磐城壽で呑んだくれました。磐城壽三昧の一年を振り返ります。


      磐城壽・季造りしぼりたて中汲み純米酒


          磐城壽・純米吟醸夢の香


        磐城壽・赤ラベル山廃純米原酒


         これは酒のアテの八寸。


       磐城壽・山廃熟成純米酒アカガネ


        春のお料理で鰆の茶碗蒸し。



 磐城寿・純米吟醸「甦る」は、福島県内から長井市に避難した被災者が、循環型農業を目指し運営する福幸ファームで、回収した一般家庭ゴミで作る堆肥で栽培した「さわのはな」米を使い醸したお酒。原発事故による避難の一番の被害者である子供達の為、「甦る」の売上の一部は避難児童・生徒の支援に使われている。


         初夏のお造り盛り合わせ。



 磐城壽・限定純米酒「空水土」は原発事故以前、広く県内の酒造家に酒造好適米を供給していたが、事故の影響で栽培委託が激減し、存続も危ぶまれる事態に陥った農家の支援の為、福島市松川町水原地区で栽培された山田錦で仕込んだお酒。「本当の空・水・土を取戻し、私達の故郷を震災前より誇れるものにしよう!」と云う願いを込めている。


         秋のお造り盛り合わせ。



 廃業の後を承け鈴木酒造店が引き継いだ、元の東洋酒造の銘柄で、長井市産亀の尾を使い仕込まれたお酒、純米吟醸「鄙の影法師」。右側は磐城壽・純米酒。


これは私の口には入りません。他の客の注文した鮑を盗撮しました。



 やはり旧東洋酒造の銘柄で大吟醸・一生幸福と、磐城壽・山廃純米大吟醸山田錦。磐城壽の方は兵庫県産山田錦を四十五%まで精米し、協会九号酵母で仕込んだ鑑評会出品酒。但し、全く香らないし、そもそも何故に大吟醸で山廃なのか、謎に包まれたお酒。



 昨年十月に行われた日本酒イベントの為、鈴木酒造店長井蔵から来阪された鈴木荘司常務と、堂島雪花菜の大将をツーショットで記念撮影。その節はご協力有難うございました。序でに翌日は堂島雪花菜の十周年のお祝いの会だが、僕は残念ながらオペラ見物で欠席なので、鈴木常務さんの為に明日開栓する筈だった、大将秘蔵の震災前の磐城壽を試飲させて頂く。


           磐城壽・山廃純米生原酒「土耕ん醸」(製造年月22.3)



           磐城壽・中汲み純米酒(製造年月2010/1月)

 酒の味は記憶に基づくし、震災前後に福島と山形で作られた磐城壽の、どちらが旨いとかは軽々に言える問題では無いとの感想を抱く。要するに震災前に請戸の蔵で作られた酒に、郷愁は感じても幻想を抱くのは難しくなった。今現在の磐城壽を有りのままに応援(只ひたすら磐城壽を呑み酔っ払う)する事を、年頭に当たり改めて誓う次第である。

ロベルタ・マメリ ソング・コレクション

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2015年9月29日(火)19:00/ザ・フェニックスホール

ソプラノ/ロベルタ・マメリ
ギター/つのだたかし

マウロ・ジュリアーニ「1.Abeschied 別れ/3.Abeschied 別れ(六つのリート)op.89/アレグレット」
フェルナンド・ソル「1.Cesa de atormentarme 私を苦しめないで/2.De amor en las prisiones 恋の牢獄に/6.Muchacha y la verguenza 娘と羞恥心/11.Las mujeres y cuerdas 女とギターの弦は(12のセギディーリャ)/Lagrime mie d'affanno 悲しみの涙」
カタルーニャ民謡「鳥の歌」
グラナドス「La maja dolorosa 悲しみのマハ」(昔風のスペイン歌曲集)
武満徹「雪/翼/○と△の歌」
ヴィラ・ロボス「アリア(ブラジル風バッハ第5番)/Melodia Sentimental メロディアス・センチメンタル/Veleiros 帆船(アマゾンの森)」
プーランク「サラバンド」
モンポウ「Damunt de tu nomes les flors 君の上には花だけが」(夢の戦い)
ピアソラ「Ave Maria アヴェ・マリア/Oblivion 忘却 Oblivion /Se potessi ancora もしもう一度」


 ロベルタ・マメリは八年前、ラ・ヴェネクシアーナの一員として初来日し、圧巻の演奏を聴かせた後にソリストとして一本立ちし、オペラリサイタルに出演を重ねているソプラノである。これまでマメリの歌曲レパートリーは、ディンディアやカッチーニ等、初期イタリア・バロックに限られていたが、そこにはコンサートをプロデュースする、つのだたかしがリュート奏者だからと云う、とてもシンプルな理由があったらしい。でも、マメリの来日リサイタルも回を重ねて、そろそろリュート・ソングもネタ切れとなった処で、つのだ長老が自分はギターも弾けると申し出て、今日のラテン音楽プロの採用に至ったらしい。

 コンサートは専ら十九世紀のヴィーンで活動したイタリア人で、「調子の良い鍛冶屋」や「セビリアの理髪師」のギター編曲で知られる、マウロ・ジュリアーニのドイツ・リートで始まる。別にそのような先入観を持って聴いたからでも無く、ごく普通にロマン派っぽい、安物のシューベルトみたいな曲と感じる。それとマメリの歌い口では、ピアニシモの音量が大き過ぎる上に、フォルテの出し方も唐突に聴こえて、何処かで計算違いしているように感じられる。やはりドイツ・リートであれば、もう少し語るように歌って欲しい。

 フェルナンド・ソルもロマン派のスペイン人で、ギター曲「魔笛の主題による変奏曲」で有名な人。ドイツ語に続いてスペイン語だが、ここでピアニシモの音量も小さく、フォルテの使い方も適切となり、漸くエンジンも掛かって来たように感じる。次のグラナドスはピアノ独奏の「スペイン舞曲集」を、アリシア・デ・ラローチャが好んで弾いた作曲家で、何だかギター通俗名曲集みたいな顔触れが続く。ここに至ってマメリもフル・スロットルで、低音を強く出せる音域の広さを生かし、ラテンの血を感じさせる情熱を発散する。

 それと比べるまでも無く、マメリの伴奏を務める合間に「鳥の歌」など弾く、つのだ長老の演奏は相変わらずテンションが低い。まあ、リュート・ソングをジャカジャカ弾くのもヘンな話で、この方の常に淡々とした演奏振りも、これまで楽器の性質上の問題と捉えていたが、ギター曲を弾かせても一向にテンションを揚げる気配は無い。こうなるとこの低体温な演奏が、この人本来の持ち味と理解すべきなのだろう。

 グラナドスに続くのはタケミツで、ギター歌曲の作り手の偏りを実感する。ここで驚かされたのはマメリの日本語の巧さで、鼻濁音もキチンと出来ていて、やはり子音に母音のくっ付くイタリア語には親近性があるのだろうか。ここでもマメリのアルトっぽい低音の使い方は巧みで、「翼」でフォルテを出さずに歌い収めたのも効果的だった。

 こうしてヴィラ・ロボスに辿り着く訳だが、ここまでマメリの声に一切のヴィブラートの掛からないのを、やや物足りなく感じる。やはりロマン派や民族音楽では、ヴィブラートを掛ければ効果的な場合もあり、その辺りに古楽歌手の限界は感じざるを得ない。サラバンドはプーランク唯一のギター・ソロ曲だそうで、ポロポロと爪弾く音でも、如何にもなプーランク節なのが面白い。

 プログラムの最後はピアソラのタンゴ。アヴェ・マリアは歌詞抜きのヴォーカリーズで、母音のみで存分に聴かせる、マメリの声の魅力を堪能する。後の二曲はスペイン語では無くイタリア語訳で歌われたが、叫ぶようなフォルテと囁くようなピアニシモで、これこそ本日の白眉と言える絶唱。持ち前のテンペラメントを、思い切り表出して見事だった。

 今月はロベルタ・マメリの他にも、高橋美千子太田真紀と三人のソプラノをコンサートで聴く機会を得た。スター歌手とは呼び難いし、世間的に名の通った存在とは云えない三人だが、それそれに掛け替えの無い個性を持つソプラノだった。そこには評価の定まった大歌手を聴くのとは違う、純粋に音楽を聴く楽しみがあったように思う。

プッチーニ「トスカ」

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<第三十回伊丹市民オペラ定期公演>
2016年3月27日(日)14:00/いたみホール

指揮/加藤完二
伊丹フィルハーモニー管弦楽団
伊丹市民オペラ合唱団
三田少年少女合唱団

演出/井原広樹
美術/影山宏
照明/搬木実
衣装/村上まさあき

トスカ/山口安紀子
カヴァラドッシ/藤田卓也
スカルピア男爵/松澤政也
政治犯アンジェロッティ/片桐直樹
密偵スポレッタ/小林俊
憲兵シャルローネ/田中崇由希
堂守&看守/楠木稔
牧童/中原加奈


 今日はイースターだが、それとは何の関係も無い「トスカ」を、伊丹まで聴きに行く。伊丹市民オペラは今年で三十回目を迎えるそうで、オペラ初心者として最初期の頃に訪れた身としては、良くぞ続いたと感心するのみである。

 オペラを「フィガロ」や「魔笛」から聴き始めた若い頃、僕は何度か伊丹を訪れたけれども、モーツァッルトのレシタティーヴォにピコピコ鳴る、電子オルガン伴奏の付くのにウンザリし、ごく自然に足は遠退いた。オペラの経験値が上がると、このレヴェルの上演で「椿姫」や「カルメン」を、今更観たいとは思わなくなる。でも、今回の山口と藤田の主役二人は、関西の市民オペラ・クラスでは稀な、実力派の布陣と云って良いかと思う。これが僕の四半世紀振りとなる、伊丹市民オペラ訪問への動機付けとなった。

 幕の上がった舞台奥には、宝塚歌劇みたいな大階段のセットを組み、これだけが大掛かりに作り込んだ装置だ。照明は総じて暗目で、歌手にはスポット・ライトを当て、後は補助的な照明として床には燭台を置き、天井からはシャンデリアを吊るしている。要するに舞台の広過ぎでスカスカなのを、全体を暗くして誤魔化している訳だ。でも、金は掛けずに豪華そうに見せる、照明を効果的に使った美しい舞台で、そんなに悪くないと思う。

 毎度、この演出家の思い付きの、無意味な工夫には辟易させられるが、今回は余計な小細工を持ち込まず、歌手とコーラスの交通整理に徹して、スッキリした仕上がりである。ただ、三幕でカヴァラドッシが大階段の中程に立ち、コードに吊るされた星玉の瞬く下、「星は光りぬ」を歌ったのは、見た目がヘルスセンターの歌謡ショーそのもので、センス皆無の馬脚を顕わして終った。このCG全盛の時代に、昔懐かしい星玉をブラ下げる等、パロディとしてチープな場面を作っているのかと疑われる程だ。

 藤田卓也は先々週「蝶々夫人」のピンカートンを聴き、その際はアクートの直ぐ下辺りで、声の抜けない印象だったが、今日は高低の音域で声をスピントさせて、柔らかくムラの無いカヴァラドッシを歌ってくれる。タイトル・ロールの山口安紀子もリリックな美しい声で、中音域以下の声の力にも欠けず、最初の内は高音の伸びやかさに欠けると感じたが、これも二幕以降には修正され、やはり充実した歌い振りだった。何れにせよ主役二人は一幕を抑え気味にして、後半の山場に備えた気配はある。山口は「歌に生き、恋に生き」から、藤田も「星は光りぬ」からフル・スロットルで、それぞれのベスト・フォームを示した。まあ「トスカ」って、そうせざるを得ない曲ではあるけれども。

 ただ、ソプラノのタイトル・ロールは極め付けの美声で、そこに文句の付けようは無いが、主役二人とも歌唱フォルムと云うかスタイルを気にし過ぎで、プッチーニらしい情感は今ひとつ伝わらない。また、指揮者はアチェルランドとリタルダンドを巧みに使い分け、的確にパウゼを交えて上手にアマオケをドライヴするが、全曲を見通す構築性に欠けるのと、山場を盛り上げる馬力に欠けている。やはり「トスカ」は、頭に血を昇らせ歌うべきオペラで、フォルムを気にする主役二人を煽れない指揮者では、イタオペとして隔靴掻痒の感は残る。

 アマオケの技量も足りないが、指揮者の器そのものも小さいので、プッチーニの音楽の容量は満たせず、もっとオケが頑張らねば上演自体も盛り上がらない。結局、指揮者もトスカもカヴァラッドシも、プッチーニの音楽の内実を表現するより、スタイリッシュに振る舞おうとするだけなのだ。ただ巧いだけでは面白くも何とも無い、それがイタオペと謂うものだろう。

 今日は会場に倒着し、スカルピアの交代を知った時点で、こりゃダメだと観念する。案の定、代役は全く声量の無いバリトンで、常に最大限の音量で歌う他に術も無く、真っ平な起伏の無い歌い振りに終始する。オケがフォルテの音量になると、完全に埋もれて終うのは未だしも、二幕のデュエットでトスカの声しか聴こえて来ないのには、さすがに呆れた。また、スカルピアと堂守の声質も被っていて、時々どちらが歌っているのか分からなくなる。この二人は恐らく入替え可能で、主役と脇役に特段の実力差は無かった事になる。序でにスカルピアは重要な役処と云うだけで無く、単純に歌う分量も多いと云う事実にも、改めて気付かされる。つまりスカルピアの歌っている間は退屈に耐え、ひたすら主役二人の出番を待つのみなのである。スカルピアの弱い「トスカ」は決して面白くならないと、これも肝に銘じる結果となった。

 僕が四半世紀前、伊丹市民オペラを初めて初めて訪れた際には、浜渦章盛と云う名物歌手が居たと記憶する。とんでもない悪声のバリトンで、モーツァルトを歌うタマでは無かったが、その舞台姿を一瞥するだけで、オペラへの溢れ出るような愛情を感じ取れる方だった。僕は部外者で詳しい事情は知らないが、伊丹市民オペラを立ち上げ、軌道に載せるまでの浜渦章盛氏の尽力は、無視し得る程に小さなものでは無かった筈だ。伊丹市民オペラ三十周年の節目に当たり、今は亡き浜渦氏への顕彰の無い事を、単なる一観客として訝しく思うのである。

メシアン「ハラウィ~愛と死の歌」

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2016年4月16日(土)20:00/カフェ・モンタージュ

メゾソプラノ/林千恵子
ピアノ/稲垣聡

メシアン「Harawi-Chant d'Aamor et de Mort ハラウィ~愛と死の歌」全曲
1.Laville qui dormait, toi 眠っていた街、お前
2.Bonjour toi, colombe verte おはよう、緑の鳩よ
3.Montagnes 山々
4.Doundou tchil ドゥンドゥーチル
5.L'amour de Piroutcha ピルーチャの恋
6.Repetition planetaire 惑星の周期運動
7.Adiue 別れ
8.Syllabes シラブル
9.L'escalier redit, gestes du soleil 階段は太陽の姿を語る
10.Amour oiseau d'etoile 星の鳥の愛
11.Katchikatchi les etoiles 星になったカチカチ
12.Dans le noir 悲しみの中に


 京都御所の南にあるカフェ・モンタージュで、三十余名の聴衆と共にメシアンの歌曲集「ハラウィ」を聴いた。「ハラウィ」は合唱曲「五つのルシャン」、「トゥーランガリラ交響曲」と共に、ヴァーグナーからの引用もある“トリスタン三部作”として、愛と死を歌い上げる曲である。ペルーに伝わるインカ帝国の恋物語を基に、メシアン自作の仏語の歌詞に付され、一部には原語であるケチュア語のオノマトペも交えている。

 例に拠って開演前、シコシコとスタインウェイを調律した高田伸也オーナーが、改めて我々聴衆の前に立ち、コンサートの前説を述べる。該博な知識をお持ちの方だが、そんな博学の彼にしても「ハラウィ」は手強いようで、歌詞は独特のメシアン語で難解な曲と説明する。作曲当時、脳に損傷を受け会話もままならなかった最初の妻、クレール・デルボスへの想いを込めた曲と云う説に付いては、そのような解釈もあるとのみ紹介する。

 順次進行の山型の旋律は殆ど無く、歌もピアノも時々突拍子も無いフォルテを出して吃驚させられる。脈絡の無い音量の強弱に、ピアノは柔軟に対応するが、身体が楽器の人間には生理的に難しそうである。歌手は唱わず、呟くように語り出してもピアノは大車輪で弾き捲り、両者の関係性の見えない曲もあれば、ラヴェルっぽいシャンソン風にポロポロと伴奏の付く曲もある、如何にもメシアンな変な曲である。

 メシアンのダイナミクス指定は、声と右手と左手の三パートがバラバラで、歌がピアニシモになっても、伴奏もそうなるとは限らず、だからピアノの大音量に掻き消され、歌は時々聴こえなくなるが、それも恐らくメシアンの意図の内なのだろう。歌にピアニシモや語りの部分が長いのには、一時間唱いっ放しの歌手の負担を減らす、そんな意味もあるような気はするけれども。また、ピアノは歌とは無関係にバリバリ弾く間奏や後奏が長く、稲垣が独奏曲として弾いても、充分に聴かせるだけの内容を備えていた。

 演奏に一時間を要する「ハラウィ」は矢鱈に音域が広く、ピアニシモのロングトーンは頻出する上に、高音はフォルテで切り裂くように出さねばならず、歌手にとって負担の大きい難曲でもある。ただ、林千恵子はピアニシモのフレーズを切り上げる際、声を保つ事が出来ずに途切れて終い、もう少し巧く誤魔化せば良いのにと思わせる。アンコールでは喉の力も抜けて伸びやかに歌えたので、彼女はメシアンの難曲を意識し過ぎていたのかも知れない。

 林の今日の歌い振りを、技術的に万全とは云い兼ねるが、曲の構成を把握した歌い振りで、メシアンの意図を伝えようとする誠意を感じさせた。声と伴奏の音量はアンバランスであっても、林と稲垣の間の緊密な連係に説得力があって、聴き応えのある演奏だったと思う。上掲の写真は終演後のカフェでご歓談中の処、快くご協力下さった稲垣聡さんです。その節はどうも有難うございました。

オペラ・アリア&「白鳥の湖」

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<ロームミュージックフェスティバル2016/華麗なるオペラとバレエ音楽>
2016年4月23日(土)19:00/京都会館

指揮/阪哲朗
ソプラノ/安藤赴美子
メゾソプラノ/林美智子
テノール/中島康晴
バリトン/青山貴
京都市交響楽団
京響コーラス

モーツァルト「序曲/もう飛ぶまいぞ、この蝶々(フィガロの結婚)/手を取り合って(ドン・ジョヴァンニ)」
J.シュトラウス「チャールダッシュ~故郷の調べよ」(こうもり)
ヴェルディ「女心の歌(リゴレット)/パリを離れて/乾杯の歌(椿姫)」
サン・サーンス「貴方の声に心は開く」(サムソンとデリラ)
チャイコフスキー「白鳥の湖」(ハイライト版)


 新装成ったロームシアター京都で、二日間に亘り音楽祭が行われる。その中で阪哲朗の指揮する京響に拠る、ソワレのコンサートを聴きに出掛けた。阪哲朗は京都教育大附属高校の出身で野球部員だったが、ピアノを弾けるのを見込まれ、コーラス部の指揮者も務めたそうである。京都出身の指揮者と云えば、阪哲朗の他に小泉和裕や佐渡裕の名前も挙がるが、これまで三人とも京響を振る機会は少なかった。僕は初めて実演に接する阪の指揮を、京響で聴けると云うのも嬉しい企画である。

 フィガロ序曲でコンサートが始まると、直ぐに今日の観客は、これまでオペラなど観た事の無い人達と気付く。マチネの室内楽リレーや、屋外のアマチュア演奏等を聴いた流れで来たようで、僕のようなオペラアリア目当てに、ソワレだけを聴く連中は少数派のようだ。この音楽祭を主催する電子部品メーカーのロームは、京都会館の半世紀分のネーミングライツを五十二億円で買い取っているが、これまでにも奨学金を出した紐付きの演奏家は大勢居て、今日はその連中を動員した一大イヴェントなのである。

 音楽祭は土曜の正午に、龍谷大学学友会学術文化局吹奏楽部(若かりし日の佐渡裕が指揮し、全国大会に出場した)のファンファーレで始まり、室内楽リレーと称するマチネを二つ行う合間に、学生さんのブラバンやコーラス部の野外演奏を挟みつつ、日曜ソワレの京響コンサートで締め括られる二日間である。この音楽祭ではホールに出たり入ったりしながら、岡崎公園で半日を過ごすのが正しい楽しみ方と、僕は今日ここに来て初めて気付いた。そう考えれば、これはモロにラ・フォルジュルネ・オ・ジャポンと、同じじゃないかと気付く。こちらはご本家より料金は安いが、来年以降も続けるなら、大人も子供も喜ぶ屋台店も欲しい処ですな。

 周囲の観客のお祭り気分に乗っかり、今日は少々マナーが悪くても仕方無いと、僕も頭を切り替える。周囲と一緒に盛り上がれば、思いの外に気分良く聴けたし、ラ・フォルジュルネのように、バカみたいに混んでいないのも良かった。考えてみれば建て替え前から、京都会館は謂わば小型の国際フォーラムで、このテのお祭り行事に打って付けの構造だった。ただ、残念なのは別館ホールを使えなくなった事で、あれさえそのままなら動線は完璧だろう。

 それで肝心な歌の話で、バリトンの青山貴に圧倒的な声量はあるが、全くモーツァルト向きとは言い難い。フィガロはイマイチでもドンジョなら良いかと思えば、林美智子のツァルリーナとのデュエットは、互いに張り合う力任せの大声の出し合いで、ネットリした甘さも情感も伝わっては来ない。中島康晴はミラノ在住の著名なテノールだが、国内では滅多に聴く機会も無く、今日はこの人目当てに訪れたようなものだ。技術的には完璧に近いが、嗄れ声は言い過ぎにしても重い声で、声の魅力を決定的に欠いている。アジリタはあるようなので、一度ベルカント物で聴き、その真価を確かめたい人ではある。

 さすがに安藤赴美子は力のある声で、振幅の広い構築的なチャルダッシュを聴かせる。ただ、オペレッタと考えれば大仰な音楽作りで、牛刀を以て鶏を割く感はある。ヴィオレッタの方は安心して聴けたので、やはり向き不向きはあると納得する。「乾杯の歌」には合唱団八十名を動員し盛り上げようとしたが、残念ながら素人にオペラは難しいと、実感させられる出来栄えだった。また、四人の歌手がデュエットを順繰りに唱う、NHKニューイヤー方式も単なるお祭り騒ぎに堕し、これでは野外広場の催しと何も変わらない。屋内ではもう少しマジメに歌って欲しい。

 結局、曲と持ち声とテクニックが合致したのは、安藤のヴィオレッタと林のデリラだけで、後は適当に名曲を並べただけのような印象を受けた。それならば切れっ端を並べるのでは無く、「椿姫」ハイライトで良いし、オペラを専門とする阪哲朗の指揮で、何故こうなるのかも疑問に感じる。ラ・フォルジュルネのような、キチンとしたプロデュースの望まれる処だ。

 前半はオペラアリア、後半はバレエ曲のプログラムはガラコンサートっぽいが、やはりバレリーナ抜きの「白鳥の湖」は、オーケストラ曲以外の何物でも無かった。初めて見る阪哲朗は、広上程では無いにせよ随分と踊る指揮で、実に気持ち良さ気に京響を煽り立てる。でも、これはオペラアリアでは無く、「白鳥の湖」を聴きに来た観客に単純にウケるのである。「白鳥の湖」は弦のメロディーは切なく甘く、管楽器のソロも盛り沢山で、現状の京響の実力を誇示するのに打って付けなのだ。ここは小難しい事は考えず、踊る指揮者と熱演のオケを眺めながら、ウットリ聴き惚れるのが正しい鑑賞法だろう。カラヤンとベルリンフィルみたい、なんて言うと褒め過ぎだろうけれども。

 今日、コンサートを聴きに京都まで来て、この新たに始まった音楽祭の可能性に、初めて気付かされた。お向かいは勧業館だし、お隣りは岡崎公園だしで、このイヴェントがお祭りとして発展する立地条件は整っている。まあ、こればかりは主催者である、ロームの考え方次第だけれども。

池田ジュニア合唱団八回目の演奏会

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2016年5月1日(日)14:00/池田アゼリアホール

指揮/しぶやかよこ
ピアノ/宮崎未来
パーカッション/天倉正裕
池田ジュニア合唱団

松下耕「歌声よ響け/マザールヘ行こう/ほらね」
江口泰央「背くらべ」
源田俊一郎「ふるさとの四季」(唱歌メドレー)抜粋
信長貴富「故郷/積水ハウスの歌」
民族音楽「Oremi/Si mi yadeh/Na parzalkata」
バルトーク「Csujogato 誘惑の歌」(27のハンガリー民謡)
丸尾喜久子「うちしってんねん/どこからやってきた/ぼくらの森」
米米CLUB「君がいるだけで」
久石譲「さんぽ」


 昨年は夏休み中の八月開催だった定演が、今年はゴールデン・ウィークの真っ只中、五月一日のメーデーに行われた。理由は知らない。GW気分に足を引っ張られたのか、日曜マチネで今日の客入りは千席のホールに半分にも満たず、大入りの盛況からは程遠い。池田ジュニア合唱団はその実力に見合う、世間的な評価を未だ得てはいないようだ。まずは団員の一人が指揮する、オリジナル団歌の演奏でコンサートは始まる。子供っぽさを強調する曲想と、その内容に沿った歌い振りは、如何にも児童合唱らしい演奏と云える。つまりステレオ・タイプな元気一杯の子供を演じる訳だが、池田ジュニアの場合はメンバーの自発性が伝わるので、小学校の部活に有り勝ちな、作為的な演奏とは一線を画しているように感じる。

 最初のプログラムは文部省唱歌の編曲物で、最初と最後にアカペラ曲を置き、その間にピアノ伴奏付きのメドレー曲を挟む構成で、指揮は下振りと思しき大学生が務める。この合唱団にしては珍しく、最初の「背くらべ」から後押しのリズムを感じたが、ピアノ伴奏の入る唱歌メドレーでは修正され、最後の「故郷」で無伴奏に戻ると、リズムも再び後押しになった。つまり幼い子供を放置すれば、日本人の民族性としてリズムは澱むと考えられ、そこに適切なリトミック教育は必須と、気付かされる次第である。

 ここで満を持し、常任指揮者の登場で「世界のお国めぐり」と題し、ポンチョのような原色の衣装を纏った子供達が、お得意の民族音楽をパーカッション入りで披露する。池田ジュニア名物と呼ぶべき、動きの多いシアターピース的な演奏だが、どうやら入手した楽譜だけを頼りに曲に解釈を施し、振付けを工夫しているようで、その多くは何語の曲かも良く分からず、テキスト不在の感は否めない。しかし、それにも拘らず、彼女達の演奏の持つ説得力に、我々聴衆は否応も無く納得させられるのである。指揮者は馴染み難く、掴み処の無い曲を切れ味鋭いリズムで進め、内容を噛み砕き分かり易く伝えてくれる。頭声よりも低目に響かせる、ザラリとした感触のある中音域の地声と、素直に柔らかく伸びる高音部の使い分けも、見知らぬ異国の民族音楽に打って付けと感じる。

 この合唱団のモットーの一つで、「心を歌声に載せて届けよう」とあるのは、如何にも有り勝ちで面白くないが、もう一つには「体いっぱいに歌う楽しさを表現しよう」とあって、こちらはその言葉通り、指揮者が率先して激しく踊るのは興味深い。踊る指揮者と云えば井上道義や、広上淳一を連想する向きもあろうが、彼等の踊るスペースは、ほぼ狭い指揮台の上に限られている。これに対し池田ジュニアの指揮者は、そのような制約を取り払い、指揮しながら舞台狭しと縦横に飛び回る。そこには全身を使い、自らの表現意欲を子供達に伝えようとする熱意と共に、歌う側に訴え掛ける効果も図られている。そこらから拾って来たみたいな木箱に腰掛け、その箱を両手で叩きながら演奏をリードする、指揮者の個性的なスタイルも楽しい。

 また、井上や広上が踊っても、プロ奏者は自らの経験と実績から、冷静且つ批判的に捉えるが、子供は真っ新の状態で、指揮者のアクションを感覚的に受け止める。そこにプロの演奏に有り勝ちな、目に見えない障壁のような物は無く、表現意欲がダイレクトに伝わる清々しさを感じる。工夫された振付けで、視覚的に観せる要素を備えながら、音楽的な内容にも抜かりの無い演奏は、指揮者の言う通り歌う楽しさを、声と身体で表現している。何十人かの男女が舞台に整列し、観客は誰も知らない邦人曲を直立不動で歌う、そんな世間的な合唱に対するイメージを払拭する、鮮烈な効果のある演奏である。

 中学生以上有志に拠るアンサンブルの後、僕は初めて名前を知る丸尾喜久子と云う人の曲を、これも振付け入りで演奏する。意外と言っては失礼だが、この丸尾の三曲を、僕は興味深く聴かせて貰った。簡素でも多様な技法を駆使し、効果的に曲を構成していて、旋律にハーモニーを付けただけみたいな、ベタな邦人曲とは一線を画す面白さがある。歌詞の無いヴォーカリーズを多用する手法は、児童合唱に有り勝ちな誇張された子供らしさを排し、自然な情感の表出を意図しているように思う。今時の合唱界で持て囃される、若い合唱作曲家の妙に古臭い曲よりも、遣り方次第で演奏効果の揚がる曲だろう。これは良い物を聴けたと、まずは満足である。

 ここで池田ジュニア単独の演奏を終え、子供に刺激された称する保護者の何名かが舞台に上がり、既に練達の域にあるお嬢さん達と共に歌うと云う、単なる野次馬としてはやや不安を感じる企画演奏に移る。でも、曲は米米クラブにCMソングだし、まあ軽く聴き流そうと思っていると、これが随分と盛り上がり、聴き応えのある演奏となったのに驚かされる。何せ保護者でもママさん達の方には、多少の音楽経験のある者も居るようだが、父ちゃん達の方は素人に毛の三本足りない人材のみなのである。六名の男声にはパート・ソロもあり、中にはソロを歌った者も居て、その実力を客観的に把握出来る。

 白紙の状態の子供に芸を仕込むより、未経験のオッサンおばはんに声を出させる方が、遥かに難しいのは自明の事だろう。池田ジュニアの指揮者はその難事を、易々と成し遂げているように、傍目には見受けられる。彼女の活動範囲は現状、市内一円の狭い範囲に限られていて、池田ジュニア以外の合唱団を指導する機会も無いようだ。一昨年、韓国で行われた合唱シンポジウムに出演した際の縁で、彼女はイスラエルから招待され、指導を請われているそうで、これは海外で評価されて初めて、国内での声望も高まる典型例のように思う。

 この近辺から二歳児以上を搔き集め、舞台に上げ歌わせるフィナーレでも、ド素人の保護者を巻き込んだアンコールでも、指揮者の能力の高さは如何無く発揮された。子供達だけの演奏が終われば、後は余興のようなものと思っていたが、指揮者のカリスマで何れも盛り上がり、充分に楽しませて貰えた。去年はプログラム自体に不満だったが、今年は民族音楽もタップリ聴けて、個人的には大満足だった。

 池田市の行政からの池田ジュニアへの支援は、その価値に比し些か控え目のようにも見える。コンクール的な技術基準で評価は出来ないにせよ、池田ジュニアの日常的な活動には、一般的なアマチュアの概念を超えたレヴェルの高さがあり、その辺りは行政の最も好む処で、両者の利害は一致している筈だ。でも、足元を地道に固める活動も重要だが、外部から刺激を与える事も必要だろう。国内外の有力な児童合唱団とのジョイント・コンサートの開催や、高名な指揮者を客演に招聘する等の方策も考えられるが、ここの指導者より能力の高い合唱指揮者は近場に見当たらず、必然的に視野を全国的且つ国際的に広げざるを得ない。視野を池田市内に限定している行政には、最初から尾いて行ける話では無いのだ。

アンサンブル・レ・フィギュール大阪公演

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<フランソワ・クープラン「クラヴサン奏法」出版三百年に寄せて>
2016年5月18日(水)19:00/フェニックスホール

アンサンブル・レ・フィギュール
ソプラノ/高橋美千子
トラヴェルソ/石橋輝樹
ヴァイオリン/榎田摩耶
ヴィオラ・ダ・ガンバ/原澄子
チェンバロ/會田賢寿

F.クープラン「プレリュード1番/3番/5番/8番(クラヴサン奏法)
/Tabescere me fecit 私は苦しみに憔悴し
/ignitium eloquium tuum あなたの熱い言葉は崇められ
/adolescentulus sum ego 私は幼く蔑まれ
/Venitas de terra orta est 真実は大地から芽吹き(プチモテット)
/フランス人/シャコンヌ(諸国の人々)/Doux lience de mon coeur 我が心の甘い絆
/Qu'on ne me dise どうか私に言わずに(エール・ド・クール)
/プレリュード(ヴィオール組曲第2番)/波/アンジェリック(クラヴサン曲集第1巻)
/パルナソス山に導かれ/アポロンへの賛辞/リュリとコレルリ
/楽園シャンゼリゼで精霊と共に(リュリ讃)/無題/アルマンド/悪魔のアリア
/魅力/活気(趣味の融合)/神秘的な障壁(クラヴサン曲集第2巻)」
リュリ「シャコンヌ」(王の眠りの為の音楽)
ランベール「Vos mespris chaque jour あなたの蔑みは
/Ombre de mon amant 愛する人の影」(エール・ド・クール)


 昨年九月、伊丹でのコンサートの際は名無しだった五人組が、晴れて「アンサンブル・レ・フィギュール」を名乗り、前回と同じくフレンチ・バロックをプロフラムとした公演を行う。今回のテーマは「宗教曲と様式の融合」だそうで、リュリが確立した優美で洗練されたフランス様式に、明るく闊達なコレルリのイタリア様式を融合させた、大クープランの作曲家人生を辿る試みだそうである。

 客電を落として真っ暗なホールに、チェンバロとフルートの二人が静々と入場すると、まずクープランの教則本「クラヴサン奏法」所載、前奏曲の演奏でコンサートは始まる。「クラヴサン奏法」には八曲の譜例があり、これ等は初心者用の練習曲らしい。つまりフレンチ様式のチェンバロ奏法を、先生に取っては教え易く、生徒も習得し易いよう、それまでテキトーに書かれていた楽譜(ノンムジュレと云うらしい)に、小節線を入れリズムをキチンと記譜した上で、ルバート等を加えるよう工夫されているらしい。今日は練習曲としてのチェンバロ曲を適宜に挟む事で、フレンチ・バロック様式のレクチャー・コンサートの意味合いを持たせているようだ。

 チェンバロ独奏に続きモテットで、二階客席後方に現れたソプラノの高橋美千子が、フルートとチェンバロの伴奏で歌う。照明を落とした暗がりで演奏したり、二階から歌いながら現れたり、これだけ冒頭でカマして置けば、聴衆をスムーズに演奏へ引き込める。これが彼等の思い付きの演出なのか、或いは文献や伝承に則った由緒正しい舞台作法なのか、そこまでは知らないけれども。

 その後は五人揃って、器楽合奏と歌入りと鍵盤独奏と、三種類を交互に演奏してコンサートは進む。今日のプログラミングで、彼等は漫然と曲を並べたのでは無く、調性毎に三曲か四曲を一纏めにする趣向を凝らしている。バロック期のフランスでは調性に意味付けがあり、例えばホ短調は「真意」で、イ長調は「幸福感」を表わすのだそうである。解説を担当するフルート奏者は、現代とバロック時代では社会環境も大きく異なり、感覚的な受け止め方も自ずと違って来る。だから今日、イ長調の曲を聴いても幸福感は無いかも知れないと、そんな風に言っていた。

 トリオ・ソナタの「リュリ讃」で、各楽章に付されている標題的な説明を、演奏に先立ちソプラノの高橋美千子がフランス語で読み上げるのだが、これが実に美しく響いて、何だかそれだけで陶然として終う程だ。トリオ・ソナタでは、通奏低音をチェンバロとガンバで、旋律はヴァイオリンとフルートの掛け合いで弾く編成を取る。五人しか居ないアンサンブルで、ヴァイオリンを二挺よりも、管楽器を入れた方が音色の変化も付くし、多様な編成の曲に対応出来ると考えているのだろう。

 四名の奏者には達者なテクニックがあり、優美で典雅で対位法的な音楽を、安心して楽しむ事が出来る。解説するフルート奏者は頻りに、フランスとイタリアの趣味の融合を強調する。曲目にリュリとランベールをチョロっと入れたのも、クープランの前世代に確立されたフレンチ・バロック風味を、我々に味あわせる意図だそうである。彼の言に拠るとフランス趣味は、均整の取れたシンメトリーが基本で、ヴェルサイユ宮殿の左右対称の建物をイメージすれば良いそうである。優美で典雅なフレンチ・バロックも、裏を返せば杓子定規で融通の利かない、一つのスタイルに凝り固まった音楽と云う事になる。そう云えばリュリの舞曲を、鎧甲冑を着けたままバロック・ダンスを踊っているような、と評した人が居て、僕は成程と膝を打ち同意したものだ。

 今日はオペラを作曲していないクープランから、ラテン語宗教曲と仏語世俗曲を取り混ぜ、ソプラノ独唱で八曲が歌われた。高橋美千子は一昨年、北とぴあと練馬で相次いで上演されたラモー「プラテ」で、その双方に出演し名を挙げた人である。彼女はラモーのオペラや、クレランボーのカンタータでは、劇的な局面でキツ目の声を出していたように思うが、今日は謂わばドビュッシーやラヴェルに連なる、フランス歌曲の演奏である。高橋は曲に合わせ中音域では濃い目の、高音部では柔らかい音色を作り、フランス語のディクションを伝えるべく、歌い口を工夫しているように思う。クープランの場合、モテットとエール・ド・クールで、特に様式的な違いは感じられず、何れも装飾的に洗練された、クラヴサン曲の延長線上にあるように思う。

 冒頭に弾かれたチェンバロ曲はハ長調で、その花言葉は「本質・原点」だそうである。この曲を最後にもう一度演奏し、コンサートは円環を閉じるように締め括られる。前回は全くの不見転で聴きに出掛け、皆さんお若いなぁとしか思わなかったが、今回はチェンバロとヴィオールの二人は年少で、後の三名は年嵩のようだと気付く。ヴィオールの女性奏者はアガリ症のようで、ヴァイオリン奏者が頻りにアイコンタクトを取り、彼女の緊張を和らげようと配慮している様子だ。そのヴァイオリン奏者の方はアンコールの際、二階席に居る知り合いを見付け、投げキッスしたのには笑って終った。どうやら彼女の方は姉御肌のようで、これは如何にも仲の良さそうな五人組だなと、何かホノボノとした気分にさせられた。

ザ・キングズ・シンガーズ伊丹公演

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<至高のア・カペラ>
2016年6月4日(土)14:00/伊丹アイフォニックホール

ザ・キングズ・シンガーズ The King's Singers
カウンターテナー/デビッド・ハーリー/ティモシー・ウェイン・ライト
テノール/ジュリアン・グレゴリー
バリトン/クリストファー・ブリュートン/クリストファー・ガビタス
バス/ジョナサン・ハワード

ピーター・ルイス・ヴァン・ダイク「地平線」
ボブ・チルコット「フェラー・フロム・フォーチュン/グリーンスリーヴス/アンド・アイ・ラブ・ハー/イエスタディ」
ミゲル・エステバン「コンティゴ・アプレンティ/情熱のパシージョ/チコ・チコ・ノ・フバー」
エレーナ・カッツ・チェルニン「川の嘆き」(全四楽章)
「バイレロ」(オーベルニュの歌)
ロバート・ライス「ヴォラーレ」
ビル・アイヴス「ドンパン節/佐渡おけさ/竹田の子守唄」
キャリントン「スカボロー・フェア」
ポール・ハート「ホエン・アイム・シックスティー・フォー/ハニー・パイ」
アレクサンダー・レストレンジ「ビギン・ザ・ビギン/アイヴ・ゴッド・ザ・ワールド・オン・ア・ストリング/ナイト・アンド・ディ/アット・ラスト/レッツ・ミスビヘイブ」


 今日は伊丹まで赴き、何十年振りかでザ・キングズ・シンガーズ(以下、TKSと略す)のコンサートを聴いた。二年後に結成五十周年を迎えるTKSは、プロ・カンティオーネ・アンティクァと並ぶ、イギリス声楽アンサンブル界の老舗である。前回、僕の聴いた際から、メンバーは総入れ替えとなったようだが、その端整な歌い口と完璧なハーモニーは、何も変わっていなかった。だが、それにも関わらず、僕はその演奏に落胆させられた。

 コンサートのプログラムは事前に一部しか発表されず、会場へ来て初めて全曲を確認すると、個人的に期待していたイングリッシュ・マドリガルは一曲も入っておらず、この時点でコンサートへの期待度は半減である。前半のプログラムでは、この半世紀の間にメンバーの編曲したフォークロアや、外部委嘱の現代曲等のオリジナル曲を演奏する。受付で配布された、二つ折りの冊子にカタカナ表記された、作曲家の名前に知っている人は綺麗サッパリいない。

 冒頭に演奏されたのは委嘱曲のようで、TKSの声楽技術を当て込んで作曲された、内容に乏しいけれども難易度の高いショー・ピースで、それはそれとして良く出来た曲である。これを聴けばメンバーの交代でも揺るがない、TKSの技巧的な卓越は明らかで、満員札止めの聴衆は息を詰め、その精密な演奏に聴き入る次第となる。だが、そのような技術を誇示する曲ばかり並べられると、僕は次第に集中力の薄れるのを感じる。これを平たく言えば、聴いていて退屈なのである。僕はコンサートやオペラを聴いて寝る事など殆ど無いが、内容に乏しい曲の完璧な演奏には、一種の催眠効果があるようだ。

 美しいけれど空疎な演奏では、歌い手の巧拙にしか気は回らず、曲そのものに思いを馳せる事は無い。TKSは技巧の誇示に特化した曲を欲していて、委嘱を受けた作曲家もお得意様の意図を忖度し、そのような曲を唯々諾々と作っている。ただ、豪州の作曲家で四楽章の曲からは、音楽的な意図のようなものを感じ取れたが、この組曲を一気に通さず、バラして演奏した点にも疑問は残る。何故、連作歌曲の合間に、「ドンパン節」を挟まねばならぬのか、僕には理解し難いのである。休憩後もビートルズとコール・ポーターでは、前半の各国民謡、グリーンスリーヴスやスカボロー・フェアとの対比は付き難い。コンサートのプログラミングとして、もう少しジックリと聴ける曲も入れないと、今日は声楽アンサンブルの演奏会では無く、アカペラ・グループのライヴに来たのかと錯覚しそうだ。

 TKSでは伝統的に個性に乏しい、均質な声の歌い手を選んでいるように思う。現任のメンバーもその例に漏れず、テノールとバリトンに声質の差は殆んど無く、バスの低音も飽くまで軽やかである。中でも気になるのはカウンター・テノールの腰の弱さで、これも昔からそうだったと言えばそれまでだが、ハーモニーに乗っかり主旋律を歌い上げるだけの声量に欠ける。TKSは兎に角ハモり重視で、カウンターは概ねオブリガード扱いされる。テノールかバリトンのリードする旋律を、ハーモニーで包み込むようにするアレンジばかりで、音楽にクッキリとした輪郭線は浮き立って来ない。

 モーリーやウィルビーやギボンズの、イングリッシュ・マドリガルズを歌うのは英国紳士の嗜みで、エスタブリッシュのTKSが、よもやエンターテインメント一辺倒の、アカペラ・グループに堕したとも思えない。今日のチケットは事前に完売し、当日券も出ない人気振りだった。今回のプログラミングは、昨今の日本のアカペラ・ブームへの、あからさまな迎合のようにも思われる。半世紀近い伝統を受け継ぐTKSには、一時の流行に惑わされない、イギリス声楽アンサンブルの王道を歩んで欲しいと、ただ切望するのみである。

ハイドン「天地創造」Hob.XXI-2

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<関西フィルハーモニー管弦楽団第275回定期演奏会>
2016年6月11日(土)14:00/ザ・シンフォニーホール

指揮/高関健
ソプラノ/市原愛
アルト/米谷優
テノール/畑儀文
バリトン/枡貴志
関西フィルハーモニー管弦楽団
関西フィルハーモニー合唱団


 「天地創造」はハイドンの代表作にして超有名曲だが、演奏に一時間以上を要する大曲でもあり、実際に耳にする機会は少ない。それに昨今、ハイドンはピリオド業界に取り込まれ、モダン楽器での演奏はトレンドから外れつつある。でも、指揮の高関健は使用するスコアに拘る、学究肌の理知的なタイプで、旧来型の演奏を踏襲しないとの予測は付く。案の定、会場に入ると真っ先に、指揮台の前に鎮座するチェンバロが目に入る。

 高関は左手で指示を出しながら、右手は鍵盤の上に置き、チェロ首席と共にコンティヌオを付ける。弦楽器にヴィブラートを掛けない、ピリオド・アプローチを徹底させ、オケから明快な響きを引き出す。二月に聴いた大阪響定期もピリオド・アプローチで、既に日本のオケもハイドンであれば、古楽奏法はデフォルトとなっているのだろうか。ただ、コンティヌオではヴィブラートを掛けないチェロ首席が、トゥッティになると次席と共に盛大に掛ける。一見した処、弦楽奏者の大勢はノン・ヴィブラートのようなので、何故そのような使い分けをするのか、摩訶不思議としか言いようも無い。

 指揮者は軽く弾むリズムで、歯切れの良いアーティキュレーションを作り、ハイドンの快活を表現する。ただ、高関は明解に、やや明解に過ぎる程に打点を示し、リズムは弾んでもドルチェな表現力に乏しく、「天地創造」の音楽を充全に表現出来ていないとも云える。でも、そんなケチを付けなければ、オケのパフォーマンスは木管陣の奮闘もあり、ほぼ満足すべき出来だった。

 通常、貧乏オケの関西フィルでは、声楽ソリストを関西勢で固めるが、今日はソプラノにジャパン・アーツ所属の市原愛を招聘した。恐らくは指揮者の拘りの人選だろうが、市原はアリア「野に爽やかな緑が萌え」で、見事なコロラトゥーラのテクニックを披露し、指揮者の期待に応えていた。彼女は国内では数少ない、完璧なアジリタを身に付けた歌手で、その超絶技巧を聴けばハイドンのオラトリオは、実はオペラと全く同じ書法で作られていると気付く。

 僕もハイドンのオペラ作品は、北とぴあ国際音楽祭の「月の世界」を聴いただけで、余り口幅ったい事は言えないが、どうやらそこには未開拓の沃野が広がっているようだ。今日は市原の卓越した歌唱技術に接し、ハイドン・オペラの上質な音楽性の一端を垣間見たように思う。市原は以前に一度、「後宮からの逃走」のブロンテで聴いていて、その際は余り良い印象を持たなかったが、今回は素晴らしい歌声を堪能させてくれた。コロラトゥーラにしてはソコソコ声量もあり、中音域も充実していて、敢えて難点を挙げれば、高音部で時々キツイ声になる事位だが、これも恐らく修正可能だろうと思う。

 テノールの畑儀文はベテランのエヴァンゲリスト歌いで、実は僕もこの方の後ろでコーラスを歌った事がある。さすがにドイツ語のディクションと、それに合わせて作るデュナーミクは的確で、持ち前の美声も相俟って、聴き応えのある歌い振りだった。これに対してバリトンの枡貴志は、宗教曲の実績に乏しい歌手で、ただ譜面通りに歌う平板な唱い振りに終始する。ここは市原愛を見習い、オペラティックに歌い飛ばせば良いのに、と思う。

 ハイドンのオラトリオに宗教曲専門では無く、オペラ歌手の市原愛や枡貴志等を起用する傾向は、何時から始まったのかは知らないが、音楽的な様式を考えれば当然の処置だろう。国内の古楽演奏団体でも声楽関係は、精々バロックやモーツァルトまでで、なかなかハイドンまで手は回らないようだ。でも、僕としてはモダンの演奏であっても、歌手さえマトモなら充分に満足出来る。いよいよハイドン・ルネサンスの到来かも知れないと、根拠に乏しい夢を見る次第である。

ラッヘンマンを聴くvol.2京都公演

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<ラッヘンマン生誕八十年記念企画>
2016年6月25日(土)18:00/ゲーテ・インスティテュート・ヴィラ鴨川

ソプラノ/角田祐子
ピアノ/菅原幸子
クラリネット/上田希
ヴィオラ/多井千洋
パーカッション/葛西友子
ギター/山田岳/土橋庸人

ラッヘンマン「Trio fluido トリオ・フルイド/Salut fur Caudwell コードウェルへの礼砲/Got Lost ゴット・ロスト(日本初演)」


 僕はラッヘンマンに付いて、特殊奏法でキコキコカリカリな音を出させるヒトと、そんな巷に流れる風聞を知るだけで、これまで実際にを聴く機会は無かった。ラッヘンマンだけでプログラムを組むコンサートがあり、あの抱腹絶倒のブログ「職場はオペラハウスだったり」の角田祐子さんが、超難曲の日本初演に挑むと知り、それは是非聴かねばと京都まで出掛けた。ゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川と称する、無暗に長ったらしい名前の会場は、実際に行ってみて以前の京都ドイツ文化センターと知った。

 コンサートの冒頭はクラリネットとヴィオラと打楽器の三人組に拠る、「トリオ・フルイド」の演奏で始まる。産まれて初めて聴くラッヘンマンだが、割に古臭い現代音楽と云う印象で、今ひとつ面白味を欠くと感じる。だが、これはラッヘンマンの技法確立前の若書きで、後年の前衛的な作風へ転換する前の、まだ試行錯誤の途上を紹介する意図のようだ。それでも特殊奏法を多用するヴィオラと打楽器で、ロング・トーンを吹くクラリネットを支える構造が、最後に演奏された「ゴット・ロスト」と同じなのが興味深いとは、全て終わってから気付いた事だった。

 ここで三名は御疲れ様で、ギター・デュオのコンビに選手交代。「コードウェルへの礼砲」はカリカリコリコリと、ノイズみたいな音で推進力あるリズムを刻み、また或る時は対位法的に絡み合い、そうかと思えば長いパウゼで聴衆の緊張感を高める、変化に富んだ曲で面白く聴ける。弦をボトルネックで、それもブリッジの傍の随分と低い位置で抑えに掛かるので、ストロークと云うよりバシバシ叩くようにして音を出す奏法が、取り分け目を引く。ボディを叩く特殊奏法も交え、何だかギターを撥弦楽器では無く、打楽器のように扱う曲だ。また、この曲にはスペイン内戦で義勇軍に加わり戦死した、クリストファー・コードウェルの著作から引用された朗読があり、これを二人は途中からボソボソと呟くように、しかも一音節づつ区切って語る。声を出すのは専門外のギター奏者で、そこはかとない違和感と云うか、唐突感のある朗読だった。

 ギターの二人もお役御免となり暫時休憩の後、ラッヘンマンが自作に付いて語る、ヴィデオ上映会の開催となる。ラッヘンマン君は「ゴット・ロスト」を、通常の意味でのリートでは無いと頻りに強調していたが、そんなもん言わずもがなの話で、始めから分かり切ってるやろと思う。この場にシューベルトやR.シュトラウスみたいな曲を期待し、座っている輩が居る筈も無い。いや、もしかすると二、三人居たのかも知れないが、少なくとも前半の二曲を聴いた後に、そんな虚しい期待を抱く者は皆無だっただろう。

 最後は本日のメイン・イヴェント、ラッヘンマンの近作で日本初演の「ゴット・ロスト」である。今回は京都と東京の二公演の為だけに、ドイツ在住でラッヘンマンの嫁はんでもあるピアノの菅原幸子と、シュトゥットガルト州立歌劇場専属の角田祐子と、わざわざ二人のスペシャリストを招く力の入れようである。この曲のテキストはニーチェの箴言と、恋文ってのは常に滑稽なもんだと言ってる詩と、洗濯籠を探す話の三つと支離滅裂で無意味の極みだが、まあラッヘンマン君の意図もその辺りにあるのだろう。

 ラッヘンマン君の力説する通り、「ゴット・ロスト」での角田祐子は舌打ちしたり、頬っぺたを叩いて音を出したり、弦に声を共鳴させようと、ピアノの蓋の下に頭を入れて歌ったりする、特殊奏法テンコ盛りの曲である。その多様な特殊奏法は、ただ単に奇を衒っている訳では無く、角田祐子が声をスピントさせた際、ソプラノの高音域の美しさを際立たせる効果も図られている。彼女にはレジェーロでも濃い目の音色があり、その声質そのものを表現力として、ラッヘンマンの峻厳な音楽に寄り添っている。

 菅原幸子にも立ち上がってピアノに首を突っ込み、手で弦をハジく内部奏法だけでは無く、何やらモゴモゴと唱わせ、角田に合いの手を入れさせる。まあ、歌は兎も角として、菅原には堅実なテクニックがあり、角田の広いダイナミク・レンジを駆使する歌と渡り合い、お互いに相乗効果を揚げていた。ギター・デュオは絶対的な音量が小さく、振幅の広い音楽を作れない代わりに、ピアニシモに耳を傾けさせるテンションの高さがあった。これに対し、ソプラノ歌手とピアニストの丁々発止の遣り取りで演奏を盛り上げる、「ゴット・ロスト」はコンサートの掉尾を飾るのに相応しい、力の籠った音楽だった。

 特殊奏法ばかりが喧伝され、奇を衒った技巧に走る作曲家と、そんな風に思われ勝ちなラッヘンマンだが、今日は初めてを実際に聴く機会を得て、この方は二十一世紀の今を生きる我々に取り、掛け替えの無いアクチュアルな存在と知らされた。次回「ラッヘンマンを聴くvol3」のコンサートの開催は一体何時になるのか、今から待ち遠しい想いのする程だ。

東西四大学第65回合唱演奏会

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2016年6月26日(日)15:00/兵庫県立芸術文化センター

指揮/佐藤正浩/伊東恵司/藤井宏樹/広瀬康夫
ピアノ/前田勝則/萩原吉樹/鈴木あずさ
慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団
同志社グリークラブ
早稲田大学グリークラブ
関西学院グリークラブ

ドヴォルザーク/福永陽一郎編曲「ジプシーの歌」op.55
三善晃「三つの時刻(全3曲)/路標のうた」
鈴木輝昭「ハレー彗星独白」(全4曲)
Lowell Mason:Nearer my God to thee
エリック・ウィテカー「Lux Aurumque 黄金の光」
ミヨー「詩篇121番」
Franz Biebl:Ave Maria
「ビートルズ・メドレー」(編曲者記載無し)


 前回、東西四大学合唱演奏会(通称四連)を聴いたのは、既に八年も前になる。近年の四連は演目のセンスが無い上、指揮者もショボいので、一般の音楽好きを惹き付ける魅力に乏しく、わざわざ足を運ぶ気になれなかった。でも、今回のプログラムは聴き応えもありそうで、久し振りに聴いてみようかと休日の午後、フラリと西宮北口に足を向けた。

 本当に久しぶりの合唱コンサートで、演奏の始まる前にアナウンスで、いちいち曲目と演奏者を読み上げる習慣に、改めて奇異の念を抱いた。入口では金の掛かった、総アート紙で多色刷りのパンフレットを無料で貰えるので、観客は演奏前に目を通せば良いだけの話なのだ。同志社の演奏前に木島始の詩「路標のうた」を、“ろひょうのうた”と読み上げるのを聞き、この惰性の慣習に何の意味があるのか、根本的な疑念を抱いた次第である。

 これも恒例のエール交換、つまり四校の校歌の演奏でコンサートは始まる。年がら年中、学生達が寄ると触ると唱う校歌で、客演指揮者の下駄を履かせない実力も顕わになる。大抵の場合、入学し立ての一年坊主は楽譜も見ず、隣りで唱う上回生からの聞き覚えで校歌を唱わされる。これを繰り返す内、校歌の演奏は次第に崩れグダグダになる訳で、年に一度の譜読みは欠かせない筈だ。これを怠る団体は問題有りと判断される訳で、その意味でも今回は、関学が頭一つ抜けている印象を受けた。

 まず慶応ワグネルの演奏は、ドヴォルザークのリートでツィゴイネル・メロディの編曲物。佐藤正浩は学生達から有りっ丈の声を引き出しながら、ハーモニーのバランスを崩さず、プロのオペラ指揮者ならではの豊かなテンペラメントで畳み掛ける。正に圧巻の演奏だったが、テンポを弄る小手先の解釈に説得力は乏しく、もっと緻密にデュナーミクを作り込み、音楽に起伏を付けて欲しかった。まあ、アマチュア大学生相手で限界はあろうが、テノールの高音域の音色と、ピアニシモの分散和音を更に美しく磨いて欲しいと、望蜀の言を連ねて置く。

 次の同グリの三善晃は、ごく普通に楽譜通りの演奏だが、聴いていて面白くも何ともない。リズムの複雑な曲を一応はキチンとこなしていても、表現として何も伝わらないのである。それは一体何故かと云えば、演奏全体を通しリズムが弛緩していて、拍節感を失っているからだと気付く。この指揮者は歌い手に対し、曲の要求するビート感を示せず、ふやけたような演奏に終始している。だが、リズム音痴な指揮者とは無関係に、同志社の学生諸君は長い伝統に則り、声を前へ飛ばそうとする姿勢を示す。それは僕の古い記憶にある、同グリの幻影を見せられたようで、虚しい思いのみを募らせる。

 休憩後のワセグリはコンクールに出ない合唱団だが、曲目はコンクール御用達の鈴木輝昭で、何故こんな曲を演奏するのかと思えば、九年も前の委嘱曲だそうである。曲は案の定、面白くも何とも無い上に、パート内部の音程の揃わない雑然とした音色で、焦点の定まらないボヤけた演奏だった。その責めに帰すのは一に掛かって、曲の力点を示す素振りも無く、歌い手と正対せずに自己陶酔して踊るのみで、一体何をしたいのかサッパリ伝わらない指揮者にあると云える。プロフィールを拝見するに、東京芸大卒で声楽を畑中良輔に、指揮法は黒岩英臣に師事とあるが、その無手勝流の指揮は打点もバラバラで、到底そのような立派な履歴に見合うものでは無かった。

 四校目の関学グリーは、英語とラテン語と仏語の宗教曲を四曲。英語とラテン語は一向にそれらしく聴こえないが、ミヨーの詩編だけフランス語らしい発音だったのは、恐らく学生達が危機感を抱き、自主的に習得した成果だろう。彼等にすれば指揮者に語学の素養等、一切無い事は先刻承知で、頼りにならないと見切っているのだろう。また、国籍も世代も違う作曲家の様式は、それぞれに異なる筈だが、全て同じように響き、四曲を描き分ける気配は微塵も感じられない。要するに縦横を揃え気持ち良くハモるだけで、そこに付け加える要素は何も無い演奏だった。

 最後は四校の合同演奏で、バーバーショップに編曲されたビートルズ・ナンバーを十曲。Tシャツにでも着替えるのかと思っていたら、かなり動きの激しい振付けがあったにも関わらず、ブレザーを脱ぎもしなかったので、いちいちの動作が固苦しく窮屈そうに見える。別に演奏に期待するようなものでも無いので、学芸会は学芸会らしくやって欲しかった。

 今日のコンサートで最も疑問に感じたのは、何故この曲を選び演奏せねばならないのか、その必然性の伝わらない処だ。三善晃やミヨーを演奏するのに全体を見通す構築は無く、細部に亘り掘り下げた解釈も見当たらず、様式的な理解も心許ない無い無い尽くしで、慶応以外は何れも音楽以前の段階に留まっていた。東西四連は何時の間に、こんな風に成り果てたのか、そんな現実を突き付けられるコンサートだった。

ワーグナー「トリスタンとイゾルデ」第三幕

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<関西フィルハーモニー管弦楽団第276回定期演奏会>
2016年7月15日(金)19:00/ザ・シンフォニーホール

指揮/飯守泰次郎
コーラングレ/北村貴子
関西フィルハーモニー管弦楽団

トリスタン/二塚直紀
イゾルデ/畑田弘美
マルケ王/片桐直樹
侍女ブランゲーネ/福原寿美枝
従者クルヴェナール/萩原寛明
廷臣メロート/松原友
牧童/谷浩一郎
水夫/黒田まさき


 関西フィルのヴァーグナー切り取り上演シリーズも六回目で、既に演奏済みの「トリスタンとイゾルデ」二幕に続き、今日は三幕を取り上げる。正規団員は五十名程で中規模の関西フィルが、三十名近いトラを投入し、コーラングレには読売日響からオーボエ奏者を招く等、飯守さんリスペクトで貧乏オケの大盤振る舞い企画である。以前は客入りも今ひとつだったように思うが、今日のシンフォニーホールは九分通りの満席で、このシリーズも定期会員に認知されて来た様子を窺えるのは、誠にご同慶の至りである。

 個人的に本公演の最大の眼目は、トリスタン役に起用された二塚直紀にある。五年前、「ジークフリート」第一幕のミーメ役に抜擢され、その隠された実力を関西限定で知らしめた二塚が、今回は満を持しトリスタン役に挑む。これは飯守さん肝煎りの起用で、まあ多少の不安は感じないでも無いが、ここはバイロイト仕込みのマエストロを信頼し、素晴らしいトリスタンを聴けるものと期待し、シンフォニーホールまで赴いた。

 毎度お馴染み、飯守さんの滑ると云うか、打点を引き摺るような合わせ難いタクトの元、今日も関西フィルは善戦奮闘する。オケにフォルテシモを要求する勘所は外さず、でも基本は歌手を引き立て、オケと一体で聴かせようと、飯守さんはバランスを取る事に腐心する。オケと歌手の間のモティーフの受け渡しを、聴衆に分かり易く伝えようとする懇切丁寧な指揮で、僕のようなボンヤリした人間でも、音楽の流れは自然に頭へ入って来る。三幕の前半は殆んどクルヴェナールと、トリスタンのダイアローグで進む為、指揮者は声量に欠ける二人に配慮しつつ演奏を進める。萩原は良い声のバリトンだし、二塚もミーメ歌いとして傑出した存在だが、二人とも残念ながら声量に不足する。

 飯守さんの指揮振りは何時ものように、示導動機への配慮の行き届いたものだが、フォルテシモを要求すべき局面で歌手に気兼ねし、やや躊躇っているようにも見える。そんな連中を使う方が悪いと、そう言って終えばそれまでだが、では萩原に代わる声量あるバリトンが、関西に居るのか?と云う事になる。テノールにシリーズ常連の竹田昌弘は居るが、彼は大手ゼネコン勤務の一級建築士で、現在は転勤で単身赴任中のようである。

 やや非力な主役格二人の後に出て来る、イゾルデの畑田弘美は美味しい処を攫って行く。ブランゲーネの福原とマルケの片桐と共に、ヴァーグナーに於ける声量の力と云うものを、三人で改めて思い知らせてくれる。中でも福原のパセティックな歌い振りは際立っていて、やはり彼女は国内のヴァーグナー歌いとして、傑出した存在と改めて得心する。

 初の大役に張り切る二塚が全力で歌っても、客席まで声の届かないもどかしさは否めなかった。ただ、ミーメと云う役柄に没頭した二塚は、トリスタンに対しても同様のアプローチで、役に成り切る演技を見せてくれた。必ずしも満足すべき出来では無いにせよ、彼として精一杯の力演を受け止めたい。びわ湖ホール声楽アンサンブルのソロ登録メンバーでもある、二塚の本領はキャラクター・テノールの役にある。来春から始まるリング・チクルスを、彼の実力を満天下に知らしめる機会とする為、ローゲやミーメへの起用を願って已まない。

大阪フィルハーモニー交響楽団第500回定期演奏会

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2016年7月21日(木)19:00/フェスティバルホール

指揮/井上道義
メゾソプラノ/サンドラ・フェランデス
バリトン/ガスパル・コロン
バンドネオン/三浦一馬
大阪フィルハーモニー交響楽団
大阪フィルハーモニー合唱団

ルイス・バカロフ「ミサ・タンゴ」
ベートーヴェン「交響曲第三番」op.55


 今日、大フィルの定期公演は目出度く五百回目を迎えるそうで、付かず離れずの一聴衆としても、誠にご同慶の至りである。この節目のプログラムに首席指揮者の井上ミッキーは、ラテンのノリは大阪人に合うとの趣旨から、アルゼンチン出身の作曲家に拠る「ミサ・タンゴ」と、クラシック音楽の王道中の王道で、エロイカ交響曲を組み合わせ取り上げる次第と相成った。
 
 「ミサ・タンゴ」はミサ通常文のスペイン語訳の歌詞で、コーラスが歌い始めると、キリエ・エレイソンは「セニョール・テン・ピエタード」で、僕は思わず仰け反って終う。しかも耶蘇教色を薄める為、「クリステ・エレイソン」は省略される変則スタイルである。アニュス・デイのスペイン語訳は「コルデロ・デ・ディオス」だが、グローリアはグローリアのままでクレドはクレオ、サンクトゥスはサンクトと殆んど同じなのは、却って混乱を呼ぶ。また、作曲家は信仰を異にする人々の参加を願い、長大なイエス・キリストへの信条告白である、クレドの歌詞を大幅に省略したミサ・ブレヴィスとしている。

 バンド・ネオン独奏付きの長い前奏や間奏で、タンゴらしい雰囲気を盛り上げた後、司祭役のバリトンの導唱に続き、ソプラノとコーラスが応唱するスタイルで曲は進む。キリエは大人し目だったが、グローリアやクレドでミッキーは期待に違わず、コーラスの速いパッセージでの「ピエタ・ピエタ・ピエタ」のオノマトペ等、ラテンぽくリズミカルに盛り上げてくれる。「ミサ・タンゴ」はアルゼンチンの民族音楽としての、タンゴをモティーフとするミサ曲だが、決して際物では無く、作曲家の信仰心がストレートに伝わる、真摯な内容のある音楽と感じた。ダンス・ミュージックの外形を纏っていても、それは決して信仰への阻害要因とはならないのである。

 ガスパル・コロンは響きの高いバリトンで、司祭役として軽やかにミサ全曲の牽引役を務める。サンドラ・フェランデスは低音域に力のあるアルトで、リードする司祭に同伴しながら、神への帰依を濃厚に歌い上げる。やはりラテンの情熱を歌い上げるのに、透明清澄な天使の声は不向きで、このミサ曲にはファドやフラメンコを歌う声が相応しいようだ。さすがにソリストの二人はネイティヴ・スピーカーで、美しいスペイン語の発音も耳に心地良い。コーラスも不慣れなスペイン語ながら、ソリストに引っ張られる態で、ミサ曲を盛り上げる重要な役処を務め上げた。

 この曲には真摯な意図のあるのと同時に、井上ミッキー辺りに一寸やってみようかと思わせる、如何にも気の利いた通俗的なセンスの良さもある。指揮者も遣り過ぎず抑え過ぎずで、ラテンの情熱と祈りの心のバランスを取り、曲の真価を引き出していたように思う。

 ミッキーがエロイカ・シンフォニーを、大フィルの記念コンサートに最も相応しいとしたのは、創立名誉指揮者の得意曲だったからが理由のようだ。僕は新卒で就職し、コンサート通いを始めた頃、大フィル定期を度々聴きに出掛けていた。初心者なのでベーシックな処を攻めた訳だが、やがて音楽監督の振るベートーヴェンの退屈さに辟易し、直ぐに爺ちゃんはブルックナーしか聴かないと決めて終った。大フィルで爺ちゃんの振るベートーヴェンは、ルーティン・ワークの極みだったといえよう。

 ミッキーは曲の冒頭から、やや速目のテンポでサクサクと演奏を進める。とは云うものの、二楽章の葬送行進曲辺りの遅い曲想では、テンポに変化を付けてタメを作る工夫もあり、正攻法の音楽作りと云えそうだ。十六型の弦に三管編成なのも、大フィルの伝統を意識しているようで、モダン演奏のベートーヴェンを聴く機会の少ない僕としては、如何にもなオケ定期のエロイカは興味深かった。さすがに今日は指揮者にもオケにも気合が入っていて、白熱の演奏を聴かせて貰った。

 首席指揮者は五百回と云う数字に、イチローの三千本安打のような意味は無い!と、プログラムに寄せたメッセージで言い切っていて、五百回目であっても五百一回目であっても、音楽的に何ら隔たる処は無いと言いたかったようだ。如何にもミッキーらしい言い草だが、エロイカの演奏を終えて述べたスピーチでは、やはり五百回は大したものだ!と持ち上げていた。何よりお客さんが沢山来てくれて有り難いとは、これは至極もっともな言い分だった。

ブリテン「夏の夜の夢」op.64

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<佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ2016/英語&日本語二ヶ国語上演>
2016年7月30日(土)14:00/兵庫県立芸術文化センター

指揮/佐渡裕
兵庫芸術文化センター管弦楽団
ひょうごプロデュースオペラ児童合唱団

演出・美術・衣装/アントニー・マクドナルド
照明/ヴォルフガング・ゲッベル
振付/ルーシー・バージ

オベロン王/彌勒忠史
タイタニア女王/森谷真理
ハーミア/クレア・プレスランド
ヘレナ/イーファ・ミスケリー
ライサンダー/ピーター・カーク
ディミトリアス/チャールズ・ライス
機織ボトム/アラン・ユーイング
大工クインス/ジョシュア・ブルーム
修理屋フルート/アンドリュー・ディッキンソン
指物師スナッグ/マシュー・スティフ
鋳掛屋スナウト/フィリップ・シェフィールド
仕立屋スターヴリング/アレクサンダー・ロビン・ベイカー
シーシアス大公/森雅史
ヒポリタ姫/清水華澄
蜘蛛の巣/込山直樹
豆の花/山崎日菜子
芥子の種/末谷有々乃
蛾の羽根/若山桜子
妖精パック/塩谷南


 佐渡裕はイタリアで「ピーター・グライムズ」を、日本やフランスで「戦争レクイエム」を演奏し、自らのブリテンへの傾倒を示して来た。彼は西宮北口でも「ピーター・グライムズ」の上演を画策したが、大ヒットした「メリー・ウィドゥ」の翌年、「カルメン」を上演した際に、佐渡ファンの芦屋マダムに「あたくし、最後に人の死ぬオペラは苦手でございますのよ」とか言われたらしい。その場は一応「いや、オペラでは大抵人が死ぬのです」と誤魔化したが、これは世界の大勢また我に利非ずと悟り、「ピーター・グライムズ」の上演を断念したようだ。しかし、それにも関わらず性懲りも無く、今回「真夏の夜の夢」を持って来た一事からも、佐渡のブリテンへの思い入れの深さは推し量れるように思う。

 オケの序奏で上演が始まると、まずは弦楽の情緒纏綿としたポルタメントで、我々聴衆はイングランドの深い森の中、妖精達の住む幽明の世界に誘われる。佐渡の手付きは慎重で、オケも木管陣が大健闘。ピアニシモでチェレスタとシロフォンの澄んだ音を際立たせ、勘所では弦楽もタップリ聴かせる、指揮者の手際は見事だった。

 今回のプロダクションは九年前の「魔笛」で、美術を制作した人の演出である。演出の専門家では無い所為か、鮮烈な閃きとかは感じられないが、手堅くセンスの良い舞台を作る人だ。セットは倒木の転がった森の中の草原に、職人達の集まる小屋と素人芝居を演ずる舞台、それに女王様の寝室の四つで、何れも凝った作りとはお世辞にも云えないが、如何にもなお伽噺風で好感を持てる。この四つのセットに、三つの書き割り背景を組み合わせ、廻り舞台で転換する仕掛けである。

 鬱蒼たる森林と光る三日月の書き割りの前で、児童合唱二十名の披露するお遊戯も可愛らしく、演出家は飽くまでメルヘンチックな舞台作りに徹する。今回の上演の成功に最も貢献した立役者として、僕は児童合唱を筆頭に挙げたい。驢馬頭のボトムに音楽を所望され、おもてなしする場面では鼓笛隊として演奏する等、歌を唱うだけでは無い多芸な処も見せてくれる。成人女声には望めない、フェアリーな雰囲気を横溢させ、達者な歌と演技で客席を魅了した子供達と、彼等を起用した音楽監督に、満腔の感謝の意を込めブラーヴィを送りたい。

 また、それぞれに短くともソロのある、タイタニア付きの小間使いである四名の妖精役を、児童合唱から選抜した子供達に任せたのも大当たりだった。今回の児童合唱団は既存の七団体から、オーディションで選ばれ編成され、オペラを歌い且つ演技出来る人材を揃えている。佐渡芸術監督は幼少の頃、京都市少年合唱団に所属したコーラス経験者で、ブリテンのオペラに於ける児童合唱の重要性を認識している。しかも佐渡は、四人の妖精の中で最も歌う分量の多い、蜘蛛の巣役にボーイ・ソプラノを起用している。

 本来であれば、ブリテンのオペラでは英国古来の伝統に則り、男子のみの少年合唱の起用が望ましいけれども、昨今の児童合唱団の男女比を鑑みるに、これは関西圏では適わぬ夢である。ボーイ・ソプラノとガール・ソプラノ(?)の声質の違いは、誰の耳にも一聴すれば明らかで、今日は一人だけでも少年の声を聴けた事に、僕は大いに満足している。

 歌手ではオベロンのダブル・キャストの片割れ、彌勒忠史に付いて言及して置く。あの大音声の森谷真理に対抗出来る、彌勒はカウンター・テノールとして破格の声量の持ち主で、その金属的な声質もブリテンのメタリックな音楽であれば、然程に違和感も無かった。但し、低音域で度々モロに地声になるのは、如何ように説明されても納得は出来ない。これは明らかな技術不足で、ファルセット歌手としての要件を満たしておらず、カウンター・テノール失格と謗られても仕方の無い、致命的な欠陥だったと思う。

 例えブリテンの現代オペラであっても、十年余の実績を積んだ佐渡芸術監督と兵庫芸文は、これまでと同じお話の絵解きに徹した見た目に美しい舞台作りで、佐渡ファンの芦屋マダム達の興味を逸らさず、全六公演を例年通り満員札止めの盛況の内に終えた。継続は力なりを地で行く好例だが、これには実は小澤征爾とサイトウ・キネンと云う先例がある。一人のカリスマを失った後、果たして顧客を繋ぎ止める事は可能なのか、その時こそ兵庫芸文の鼎の軽重も問われるのだろう。

ブリテン「夏の夜の夢」op.64

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<佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ2016/英語&日本語二ヶ国語上演>
2016年7月31日(日)14:00/兵庫県立芸術文化センター

指揮/佐渡裕
兵庫芸術文化センター管弦楽団
ひょうごプロデュースオペラ児童合唱団

演出・美術・衣装/アントニー・マクドナルド
照明/ヴォルフガング・ゲッベル
振付/ルーシー・バージ

オベロン王/藤木大地
タイタニア女王/森谷真理
ハーミア/クレア・プレスランド
ヘレナ/イーファ・ミスケリー
ライサンダー/ピーター・カーク
ディミトリアス/チャールズ・ライス
機織ボトム/アラン・ユーイング
大工クインス/ジョシュア・ブルーム
修理屋フルート/アンドリュー・ディッキンソン
指物師スナッグ/マシュー・スティフ
鋳掛屋スナウト/フィリップ・シェフィールド
仕立屋スターヴリング/アレクサンダー・ロビン・ベイカー
シーシアス大公/森雅史
ヒポリタ姫/清水華澄
蜘蛛の巣/込山直樹
豆の花/山崎日菜子
芥子の種/末谷有々乃
蛾の羽根/若山桜子
妖精パック/塩谷南


 まず、今回の「真夏の夜の夢」上演に付いて、兵庫芸文オペラとしては久々の、恐らく「メリー・ウィドウ」以来の大きな成果を収めたと評価したい。何と云ってもダブル・キャストのオベロンで、彌勒と藤木のカウンター・テノール起用が大成功。日本のカウンター・テノールのレヴェルの高さを示し得たのは喜ばしく、これが今後の更なる活躍への布石となれば幸いである。

 取り分け本日のオベロンを務めた藤木大地の、高低の音域でムラ無く蕩けるように柔らかい、夢見心地のように美しいファルセットは文句無しに素晴らしかった。藤木の美声のオベロンを聴いていると、もう彌勒のような金属音を発するカウンター・テノールは、聴くのが嫌になる程だ。ただ、やはり藤木の弱点は声量で、さすがに森谷真理とのデュエットには完敗するが、二幕のアリアはピアニシモの絶妙のコントロールで、日本のカウンター・テノール演奏史上に残る、甘美な絶唱だったと思う。何も知らずに聴けば、ソプラノと勘違いするのは必定で、女装みたいな衣装に白塗りメイクも相俟って、男声歌手と気付かない芦屋マダムも多数いたやに思う。

 でも、歌手の中でダントツの出来を示したのは、やはりタイタニアの森谷真理だった。豊かな声量の上にアジリタもあり、ピアニシモで声をコントロールする技術力は抜群。濃い目の音色で深い情感を含む声も、ブリテンのメタリックな音楽に潤いを与え、アラ探しをしても何も見つからない見事な歌い振りだった。二幕の驢馬頭ボトムとのベッド・シーンで見せた、エロティックな程に艶めかしい身のこなしも、誠に眼福である。また、この場面に佐渡の付けるオケの演奏も、ネッチョリと官能的で申し分無かった。

 また、今回のキャストには本当に穴が無かった。遥々イギリスまで赴きオーディションを行った、十人の英国人歌手は実力派揃いで、二組の恋人達も職人六人組も、何れも見事なアンサンブルを聴かせてくれた。恋人達の方はアンサンブル重視のようで、ソロを歌って際立つ人材は居なかったけれども、リリコのハーミアとレジェーロなヘレナで、キチンと声の対称も付いている。三幕で夜明けを迎え、深い森に朝陽の射す情景で歌われる、フーガで半音階転調を繰り返しながら次第に上昇するカルテットを、僕は「夏の夜の夢」最高の聴かせ処と断言したい。四人のアンサンブルの美しさは当然で、そこへ指揮者が曲の終わり際に向けクレシェンドする解釈で、喜びに満ちた素晴らしい場面を作ってくれた。

 職人六人組の中では単独のアリアを歌う二人で、ボトムのユーイングは硬軟を使い分けるバリトン、フルートのディッキンソンはレジェーロなテノールで、それぞれ自分の聴かせ処を心得た歌い振りだった。大公夫妻の森雅史と清水華澄も英語歌唱で、自国語キャストと対等に渡り合い、良いアンサンブルを作っていた。妖精は日本語、人間は英語の使い分けに付いて、また佐渡がヘンな事してると不審の念を抱いたのだが、これには場面転換をクッキリ示し、お話の筋道を分かり易くする効果はあった。

 一つケチを付けるとすればダンサーのパックで、ピラピラ身軽に跳び回れるのは評価するが、野太いダミ声で台詞を喋られるのにゲンナリする。あれを妖精の声と言われても、少なくとも僕は納得しない。そもそもパックは妖精達の頭目な訳で、児童合唱の清澄な声とのマッチングを考えれば、この役には女性ダンサーを使うべきだろう。

 今回のような大掛かりなプロダクションで、カウンター・テノールがオペラの主役を張るのは、恐らく日本初となる記念碑的な快挙だろう。しかし、ネットに漏れ伝わる感想を見ると、専門家も素人も挙って声量不足とか、王様らしい貫禄に欠けるとか言い立てていて、世間様のカウンター・テノールへの無理解に、僕は慄然とさせられた。カウンター・テノールの普及定着への道程は、未だ半ばと痛感させられる今日この頃である。

マスネ「ドン・キホーテ」

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<びわ湖ホール・オペラへの招待>
2016年8月7日(日)14:00/びわ湖中ホール

指揮/園田隆一郎
ギター/山田唯雄
日本センチュリー交響楽団
びわ湖ホール声楽アンサンブル

演出/菅尾友
美術/柴田隆弘
照明/吉本有輝子
衣装/太田雅公
振付/砂連尾理

ドン・キホーテ/松森治
サンチョ・パンサ/五島真澄
ドゥルシネ姫/鈴木望
ペドロ/藤村江李奈
ガルシアス/本田華奈子
ロドリゲス/島影聖人
ジュアン/古屋彰久


 びわ湖ホール声楽アンサンブル出演に拠る、格安提供のオペラ公演で、今夏はマスネの「ドン・キホーテ」と云うか「ドン・キショット」と、これはまた随分とレア物を取り上げる。聞き齧りの知識に拠ると、初演のタイトル・ロールだったシャリアピンへの、作曲家に拠る宛て書きオペラで、強力なバス歌手の存在を前提とした演目である。

 バス歌手を主役とするオペラは当り前だが数少なく、それもムソルグスキーの「ボリス・ゴドゥノフ」や、ボロディンの「イーゴリ公」等、ロシア物に偏っている。イタオペではボイトの「メフィストフェレ」、フランス語ならば「ドン・キショット」が、それぞれ唯一の有名オペラかと思われる。一たびバス歌手として身を立てれば、一生の内に一度は唱いたい役で、ここはお鉢の回って来た若手バスの張り切り振りを、ジックリ拝聴したい処である。

 指揮者がオケピットに現われ前奏を始めると、そのテンポの速い賑やかな音楽に、やや意表を突かれる。僕はマスネのオペラは六年前「マノン」を聴き、そのスタイリッシュな美しい音楽を楽しんだ記憶がある。そこで「ドン・キショット」に付いても、僕は聴く前から流麗な旋律美のある、フランス音楽らしい曲だろうと思い込んでいた訳だ。それが思いの外にリズムを弾ませ進む、如何にもブッファらしい曲想で、これは題材に拠って作風を使い分ける、マスネと云う作曲家の職人気質なのだろうか。

 滅多に上演されないフランス物と云う事で、びわ湖ホールでは仏人女性指揮者を招聘するも、公演まで一ヶ月を切った時点でキャンセルとなり、若手有望株の園田隆一郎が火中の栗を拾う代役を引き受けた。初めて振るオペラを譜読みから始め、何とか本番に間に合わせたようだが、やはりその演奏に準備不足は否めない。三幕や五幕への間奏曲は美しいけれども、フランス音楽らしいエスプリの表現は乏しい印象を受ける。ただ、その辺りの事情はオケも良く心得ていて、四幕のサンチョ・パンサのアリアから幕切れに掛けての盛り上がりは、指揮者の意図を斟酌した協働作業の雰囲気も漂う。

 サンチョ・パンサの五島真澄は美声のバリトンで、ヴェルディやプッチーニなら良いかも知れないが、ブッフォを歌うにはリズムが甘く、コメディ演技も彼なりに頑張っていても、板に付いていないのは観ていて辛い処である。多分、これは稽古で解決するとも思えない、持って産まれた資質の問題も絡む、日本オペラ界の問題点かも知れない。

 タイトル・ロールを務めた松森治は、びわ湖ホール声楽アンサンブルの卒業生で、やはりドン・キショットを歌えるバスを、現役の二人で揃えるのは端から無理な相談のようだ。それと松森は声量は充分でも、仏語が片仮名なのには興醒めさせられる。今日聴いた処では松森君も上達したなぁと、若い歌手の精進に賛辞を贈るのに吝かでは無いけれども、これを手放しで誉める訳にも行かない。ドゥルシネア姫のメゾは単調な音色で、力むと音程が低目に聴こえる難もある。ソット・ヴォーチェは綺麗なので、デュナーミクの工夫に声の色合いの変化を絡ませれば、多彩な音楽を作れる筈と思う。

 演出を担当した菅尾友は三十代の若手だが、既に国内外で実績を積みつつある、将来有望な成長株のようだ。予算不足の煽りを受けたのか、今日の舞台にセットらしいセットは無く、制約の厳しさを感じさせる。足場と階段を組み合わせた作業用設備を、セットの代わりとするのはびわ湖ホールの常套手段で、これまでに僕も何度も見ている。演出家は故意に舞台機構を顕わにして見せ、メタ演劇的な効果を狙ったと説明していたが、そのような芸術的意図を読み取る事は、少なくとも僕には出来なかった。

 若い演出家は先にコンセプト有りきでは無く、予算制限に対し柔軟に対応し、単純に観客を楽しませようとするエンターテインメント志向が顕著で、制約を逆手に取って自己主張するようなタイプでは無さそうだ。ドン・キホーテが突進する風車も、簡素なセットの中で工夫を凝らし、歌手のコメディ演技も上手に引き出して手堅く、音楽の邪魔をせず安心して観ていられる演出である。その手堅い舞台の中で演出家が最も重視したのは、コンテンポラリーダンスで先鋭的な活動を展開する、砂連尾理と云う興味深い人材に、振付けを任せた事だろう。

 砂連尾はオペラ歌手にダンスを仕込む作業を、「歌手はダンサーと方法は違っても、身体で表現するという共通性があり呑み込みが早い。音が全て体に入っているので、細かいタイミングの指示にも的確に反応して貰える」と説明していて、なるほど若い歌手達の動きは一見すると激しそうだが、見た目程には身体を動かしておらず、一息を付く間合いも充分に設けてある。さすがにプロの振付家には、ダンスの素人に無理な要求を出さずとも、自分の思い描く群舞を作り上げる確かな手腕がある。

 でも、コンテンポラリーダンスを取り入れると云うので、一体どんな鋭った事を試みるのかと、観る前は結構期待していたので、やや肩透かしの感はあった。菅尾友は若いのに似合わず、舞台作りの基本を弁えて、国内でベテランと称される演出家の及ばない技術力がある。只まあ、ここまで手堅い舞台を観せられると、何かしらの発見や閃きも欲しくなる。サンチョ・パンサが切々と訴える場面や、息を引き取るドン・キホーテを悼む幕切れ等、音楽的な感動に加えて演出上の、もう一工夫は欲しい処だ。

 今日は端からタイトル・ロールに過大な期待はしていないし、初めてのオペラを楽しめる演出で観る事も出来た。急場の代役にしては指揮者も頑張ってくれて、取り敢えず満足すべき上演だった。今後のびわ湖ホール声楽アンサンブルのオペラ公演は、全て園田と菅尾のコンビに任せて貰っても、何も不都合は無いように思う。若い二人の更なる精進と活躍に期待したい。

 上掲の写真はロビーでお見掛けした、びわ湖ホール芸術監督の沼尻竜典さんです。ご協力有難うございました。

京都市交響楽団第604回定期演奏会

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2016年8月19日(金)19:00/京都コンサートホール

指揮/沼尻竜典
ピアノ/石井楓子
京都市交響楽団

三善晃「ピアノ協奏曲」
ショスタコーヴィチ「交響曲第四番」op.43


 八月の京響定期は三善晃のピアノ・コンチェルトに、ショスタコーヴィチの四番のシンフォニーと、この酷暑に輪を掛けるような、やや暑苦しい重量級プログラムである。でも、特に三善晃の管弦楽曲を実演で聴く機会は貴重で、やはり聴いて置きたいと考え京都まで赴いた。

 まずはプレ・トークで指揮の沼尻と共に、本日のソリストを務める石井楓子嬢も舞台に現われる。芳紀やや過ぎて正に二十五歳の楓子嬢は、本人は口では緊張している等と宣っていたが、誠に活発なお嬢さんである。楓子嬢はTシャツにジーンズの軽装なのに、沼尻先生は既に燕尾服に着替えている事で、先生にクレームを付ける遣り取りからも、この方の物怖じしない性格を窺える。

 三善晃のコンチェルトは、古典的な急緩急の三部形式を踏襲する、十五分にも満たない短かい曲。一気呵成に進んで爽快感のある曲で、もちろん標題など付かない真っ新の器楽曲だが、そこに僕はレクイエム三部作に通ずる、三善晃の死者への鎮魂の想いを感る。恐らく七十余年前の戦死者への想いは、三善晃の全ての曲に通底しているのだと思う。

 ソリストの楓子嬢はタッチの鋭いピアニストでは無いが、三善晃に打って付けの硬質な音色と、難曲を弾きこなすテクニックの持ち主である。ラヴェル辺りを弾けば合いそうだが、柔らかい表現力もありそうで、何と云っても若い方だしレパートリーを広げる途上にあるのだろう。この秋からバーゼルに留学するそうで、これから大いに研鑽を積んで欲しい。

 後半のショスタコ四番はマーラーの三番と並び、長ったらしいシンフォニーの代表選手として知られる曲で、事実ショスタコはマーラーのスコアを傍らに置き作曲を進めたそうな。編成も矢鱈にデカく、沼尻の言に拠ると本日のオンステは百八名だそうである。若い作曲家が喋れども喋れども語り尽せず、思わず知らず長くなって終った感じの曲だが、こちらは三善とは異なり、標題音楽の気配はアリアリで、「ムツェンスク郡のマクベス夫人」と対になる交響曲と云う印象を受ける。ショスタコは作風に相通ずる処のあるシュトラウスを、目標ともライバルともしていたようで、「ツァラトゥストラはかく語りき」も、参考にした可能性はある(因みにマーラー三番の歌詞にも、ニーチェからの引用がある)。

 一聴した処では前後の長大さに比し、挟まれた二楽章は妙に短く、曲を通し只もう脈絡の無い音型の繰り出されるばかりで、何れの楽章も尻すぼみにピアニシモで終わる、オケにすれば労多くして益少なしの超大曲と云う印象である。弦楽のユニゾンでのフーガでの強奏は凄まじく、盛り上がっては鎮まりを繰り返し、やがて三楽章の金管のファンファーレが鳴ると、おお!この大曲にも遂に終わりが来たか、と感慨も込み上げる。オケも指揮も大熱演だったが、この長大な曲を隅々まで攫うなど不可能に近く、あちこちに練習不足は散見される。そもそも幾ら熱演されても、この曲で感動はしねぇよなぁ…。その辺りはシュトラウスの交響詩と同じと思うし、終演後にブラボーを叫んでいた連中には、おまえら本気か?と小一時間問い詰めたい気分だった。

 チェレスタの点描と共に、ピアニシモで曲を終えてから沼尻が棒を下すまで、十秒間は優にあったように思う。その静寂の間、もしかして沼尻は拍手の起こるの待っているのだろうか?と疑問に感じ、拍手して上げた方が良いのかも等と、僕は考えていた。でも、拍手しなくて良かった。タクトを下ろす前に拍手したら、ネットでボロクソに叩かれる処だった…。まあ、これも劇的に盛り上がる場面はあっても、僕は一向に感動を覚えなかった証左でもあります。

 それとソリストだらけのシンフォニーで、指揮者は一体誰を真っ先に立たせるのだろう?とも思っていると、まずファゴットで続いてトランペット、そしてトロンボーンの順番だった。この選択も分かるような分からないような…。とにかく不可解な曲でありました。

フォーレ「レクイエム」op.48

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<Meet the Classic Vol.33/敬虔な祈りに満ちた夏の一夜>
2016年8月26日(金)19:00/いずみホール

指揮/藤岡幸夫
ソプラノ/半田美和子
バリトン/池内響
オルガン/片桐聖子
関西フィルハーモニー管弦楽団
関西フィルハーモニー合唱団

ルロイ・アンダーソン「舞踏会の美女」
モーツァルト「アレルヤ」(エクスルターテ・ユビラーテ)K.165
ドニゼッティ「天使のように美しい娘」(ドン・パスクアーレ)
オルフ「天秤棒に心をかけて」(カルミナ・ブラーナ)
ハイドン「農夫は今、喜び勇み」(四季)Hob.XXI-3
グリーグ「ソルヴェイグの歌」(ペール・ギュント)op.23-19
メンデルスゾーン「主よ、もう充分です」(エリア)
ラヴェル「マ・メール・ロワ」組曲
フォーレ「レクイエム」(ジョン・ラター改訂第二稿復元版)op.48


 僕は只もう単純に、フォーレのレクイエムを聴きに来ただけで何も知らなかったが、「ミート・ザ・クラシック」は既に十七年も続いている、関西フィルの名曲コンサート・シリーズだそうである。十七年前、まだ三十代の若手だった藤岡幸夫が、「クラシックをもっと身近なものにしたい」と、始めた企画らしい。でも、今日の客席を見渡すと六分程度しか埋っておらず、良く今まで続いたと云うか、先行きに不安を抱かせる客入りである。

 冒頭のルロイ・アンダーソンは恒例だそうで、名曲コンサートは誠に景気良く始まる。これに僕のようなフリの観客は違和感を覚えるが、その後もゴタゴタと曲を並べた感じで、指揮者のプログラミングの意図は今ひとつ分かり難い。コンサートの前半は、ポピュラー・ソングの部類に入るルロイ・アンダーソンと、マ・メール・ロワ組曲の間に、半田美和子と池内響の歌を三曲づつ挟む構成だが、その選曲に脈絡が見えて来ない。テーマは「敬虔な祈り」だが、音楽的には何だか闇鍋っぽく、要するに指揮者の藤岡の要望と、二人の歌手の唱いたいものとを擦り合わせ、並べただけのようにも思える。

 モーツァルトのモテットとドニゼッティのアリア、或いはオルフの舞台音楽とハイドンのオラトリオと云う取り合わせを、一体どう関連付けるのか、指揮者にジックリ尋ねて見たい処だ。これは詰まる処、フォーレのレクイエムのソロだけでは、わざわざ東京から歌手を呼んでも元は取れないと云う、コストパフォーマンスの問題だろう。だからと云って、聴き易そうな歌を適当に詰め込んで置けみたいな発想で、名曲コンサートをプログラミングするのでは安易に過ぎる。

 僕は半田美和子を細川俊夫「班女」の、日本初演の際に初めて聴いた。レジェーロな声質で、細川のオペラには打って付けだったが、今日歌われたモーツァルトのモテットは、リズムに生気を欠く平板な歌い振りで、折角のアジリタのテクニックも生かせなかった。その半田が「ソルヴェイグの歌」を歌うと、別人のように精彩を放つのだから、歌手と曲の相性は分からないものだ。ノルウェイ語の抑揚に合わせたデュナーミクに、多彩な音色の変化を絡ませて、ロマンティックに細かやな情感を表出して見事だった。

 バリトンの池内響は初めて聴く人だが、紛れも無い美声の持ち主で、前途有為な人材である。ただ、イタリア語とドイツ語の三曲を、如何にも気持ち良さそうに歌い飛ばし、ハイドンにドニゼッティにメンデルスゾーンの、それぞれの時代様式を描き分ける事に思いを致す様子は無く、取り敢えず今後の精進に期待したい。

 休憩後、いよいよメインとなるレクイエム。その最大の眼目は、一般的なプロオケで使われる第三稿では無く、ジョン・ラター校訂の第二稿復元版の使用にある。ラター版の売り物は、フォーレ自筆原典版の復元を目指し、弦楽はヴィオラ以下の十八名とソロ・ヴァイオリンのみで、管楽器もホルンこそ四本と多目だが、後はファゴットとトランペットの二本のみで、オケの総勢三十名足らずと云う小編成にある。それにも関わらずアマチュアの合唱団の方は、恐らく在籍団員を全て舞台に上げたのだろう、八十余名で山台から零れ落ちる多人数である。この大編成はラター版採用の趣旨に反し、指揮者はオケに付いては、いずみホールのキャパに合わせた選択と説明したが、合唱団の人数に付いての言及は無かった。

 藤岡のフォーレ解釈も旧態依然としたもので、サンクトゥスやリベラ・メではパワー全開の小編成オケを、大編成コーラスと張り合わせて景気良く盛り上げ、一体何の為のラター版なのかと、いよいよ分からなくなる。本気でレクイエム原典版に取り組むのなら、ソリストにはボーイ・ソプラノを起用すべきだし、古楽器オーケストラも必須だろう。フォーレの真意を忖度すれば、必然的にそうなるのである。

 まあ、中小オケの名曲コンサートに、そんな高望みをする方が間違っているとは、自分でも良く分かっている。ただ、原典版使用を謳い、作曲者の意図を尊重するみたいな言い方をしながら、従来通りの大編成志向の演奏をするのは、羊頭狗肉と云うものだ。それは指揮者にフォーレへの、リスペクトの無い故であると、そう判断ぜざるを得ないのである。
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