<大阪フィルハーモニー交響楽団第491回定期演奏会>
2015年9月17日(木)19:00/フェスティバルホール
指揮/大植英次
アルト/ナタリー・シュトゥッツマン
大阪フィルハーモニー交響楽団
大阪フィルハーモニー合唱団
大阪すみよし少年少女合唱団
大フィル定期は六月にドヴォルザーク「スターバト・マーテル」を聴き、オケの準備不足の演奏にウンザリさせられた。まあ、大フィルの演奏に当り外れのあるのは毎度の話で、一聴衆としては腹を括って臨むしか無いのである。今日のアルト・ソロは、何故か大植と気の合うらしいナタリー・シュトゥッツマンで、この二人の組み合わせは七年前、やはりマーラーで「亡き子を偲ぶ歌」を聴いたが、この際の大フィルも芳しいとは言い難い状況だった。ただ、今日やる三番は大植の指揮だけでも、この十年で三度目となるし、百分を超える大曲である点に聊かの懸念は残るにせよ、さすがに今回は大丈夫だろうとは思う。
今日は始まって直ぐに大フィルは充分な稽古を積み、定期公演に臨んでいると分かり、事前の懸念は払拭された。弦楽セクションは美しく歌い上げた、と表現しても然程に言い過ぎでは無く、ホルンとトロンボーンの奮闘振りは殆ど落涙物で、みんな遣れば出来る子達なのは分かったし、これからは今日の演奏レヴェルをデフォルトとして欲しい。とは云うものの、おまえ等ちゃんと練習しないと、また補助金を減らすぞ!とか脅さねば、彼等は常に身を入れて稽古するようにはならない気もする。
しかし、久し振りにマーラーの三番を聴き、やはり冗長な部分の多いムダに長い曲で、刈り込む余地は大いにありそうとの感想を抱く。事前の懸念と云えば、悪名高い大植英次のマーラー解釈と云うヤツもあったが、これに関しては長丁場を乗り切る為、ねちこい解釈を採ってくれた方が助かると、個人的には考えていた。そもそも最初に聴いた刷り込みで、僕はバーンスタインや若杉弘さんのような、耽溺系のマーラー演奏を好む者である。
大植の解釈は意外にも至極マトモだったが、そうなると逆に物足りなさを感じるのである。そもそものテンポ設定が速目なので、もっとネチこい表現も無いと、緩徐部でのフォルテシモも生かされない。大植に山場を盛り上げる馬力はあるが、横に流れるだけでデュナーミクの工夫に乏しく、情感を醸す起伏に欠けるのである。マーラーに耽溺しようとする意図は伝わるが、それが表現として顕れ難い憾みは残る。しかし、最初から最後まで恰好を付け、舞台上で自然に振る舞えない大植を見ていると、この人には何か抜き難いコンプレックスでもあるのかと、改めて訝かしく思われた。
コーラス隊は児童も女声も、全員最初からスタンバイしていたのに対し、出番の四楽章になって姿を見せたシュトゥッツマンは、第一声からお馴染みの柔らかいアルトで聴かせる。勿論、二千七百席の大ホールで百名超のオケを相手に唱う、シュトゥッツマンからリートのように繊細な歌は聴けない。でも、マーラーの多彩なオーケストレーションの中に埋もれない、持ち前の深い美声は管弦楽の中で精彩を放ち、流石の存在感を示していた。児童合唱はソコソコ綺麗だったが、大人の女声合唱にはもう少し透明な音色が望まれる。これは多分、高望みに過ぎるのだろうけれども。
今日は六楽章の最後、全曲の締め括りで暫しの静寂が保たれ、大植がタクトを下ろすその瞬間まで拍手は起こらなかった。関西のクラヲタの中でも、取り分けタチの悪い大フィル定期会員を、僕はこれまで全く信用していなかった。でも、今回は常連も一見も示し合わせたように、長大な曲の余韻を味わっていたように思う。大フィルを唯一無二の存在のように言う輩も含め、今日は定期会員のヲタ共を、ちょっと見直した事だった。
2015年9月17日(木)19:00/フェスティバルホール
指揮/大植英次
アルト/ナタリー・シュトゥッツマン
大阪フィルハーモニー交響楽団
大阪フィルハーモニー合唱団
大阪すみよし少年少女合唱団
大フィル定期は六月にドヴォルザーク「スターバト・マーテル」を聴き、オケの準備不足の演奏にウンザリさせられた。まあ、大フィルの演奏に当り外れのあるのは毎度の話で、一聴衆としては腹を括って臨むしか無いのである。今日のアルト・ソロは、何故か大植と気の合うらしいナタリー・シュトゥッツマンで、この二人の組み合わせは七年前、やはりマーラーで「亡き子を偲ぶ歌」を聴いたが、この際の大フィルも芳しいとは言い難い状況だった。ただ、今日やる三番は大植の指揮だけでも、この十年で三度目となるし、百分を超える大曲である点に聊かの懸念は残るにせよ、さすがに今回は大丈夫だろうとは思う。
今日は始まって直ぐに大フィルは充分な稽古を積み、定期公演に臨んでいると分かり、事前の懸念は払拭された。弦楽セクションは美しく歌い上げた、と表現しても然程に言い過ぎでは無く、ホルンとトロンボーンの奮闘振りは殆ど落涙物で、みんな遣れば出来る子達なのは分かったし、これからは今日の演奏レヴェルをデフォルトとして欲しい。とは云うものの、おまえ等ちゃんと練習しないと、また補助金を減らすぞ!とか脅さねば、彼等は常に身を入れて稽古するようにはならない気もする。
しかし、久し振りにマーラーの三番を聴き、やはり冗長な部分の多いムダに長い曲で、刈り込む余地は大いにありそうとの感想を抱く。事前の懸念と云えば、悪名高い大植英次のマーラー解釈と云うヤツもあったが、これに関しては長丁場を乗り切る為、ねちこい解釈を採ってくれた方が助かると、個人的には考えていた。そもそも最初に聴いた刷り込みで、僕はバーンスタインや若杉弘さんのような、耽溺系のマーラー演奏を好む者である。
大植の解釈は意外にも至極マトモだったが、そうなると逆に物足りなさを感じるのである。そもそものテンポ設定が速目なので、もっとネチこい表現も無いと、緩徐部でのフォルテシモも生かされない。大植に山場を盛り上げる馬力はあるが、横に流れるだけでデュナーミクの工夫に乏しく、情感を醸す起伏に欠けるのである。マーラーに耽溺しようとする意図は伝わるが、それが表現として顕れ難い憾みは残る。しかし、最初から最後まで恰好を付け、舞台上で自然に振る舞えない大植を見ていると、この人には何か抜き難いコンプレックスでもあるのかと、改めて訝かしく思われた。
コーラス隊は児童も女声も、全員最初からスタンバイしていたのに対し、出番の四楽章になって姿を見せたシュトゥッツマンは、第一声からお馴染みの柔らかいアルトで聴かせる。勿論、二千七百席の大ホールで百名超のオケを相手に唱う、シュトゥッツマンからリートのように繊細な歌は聴けない。でも、マーラーの多彩なオーケストレーションの中に埋もれない、持ち前の深い美声は管弦楽の中で精彩を放ち、流石の存在感を示していた。児童合唱はソコソコ綺麗だったが、大人の女声合唱にはもう少し透明な音色が望まれる。これは多分、高望みに過ぎるのだろうけれども。
今日は六楽章の最後、全曲の締め括りで暫しの静寂が保たれ、大植がタクトを下ろすその瞬間まで拍手は起こらなかった。関西のクラヲタの中でも、取り分けタチの悪い大フィル定期会員を、僕はこれまで全く信用していなかった。でも、今回は常連も一見も示し合わせたように、長大な曲の余韻を味わっていたように思う。大フィルを唯一無二の存在のように言う輩も含め、今日は定期会員のヲタ共を、ちょっと見直した事だった。