Quantcast
Channel: オペラの夜
Viewing all 226 articles
Browse latest View live

モーツァルト「ハ短調大ミサ」K.427

$
0
0
<モーツァルト~未来へ飛翔する精神/妻と捧げる祈り>
2015年1月17日(土)15:00/いずみホール

指揮/鈴木秀美
オーボエ/エドゥアルド・ウェスリィ/ゲオルク・ズィーベルト
クラリネット/山根孝司/西川智也
バセットホルン/横田瑤子/西田佳代
ファゴット/堂阪清高/永谷陽子
ホルン/エルメス・ベッキニーニ/ディメル・マッカフェーリ/藤田麻里絵/飯島さゆり
コントラバス/西澤誠治

ソプラノ/中江早希/望月万里亜
テノール/谷口洋介
バス/浦野智行
オーケストラ・リベラ・クラシカ
コーロ・リベロ・クラシコ

モーツァルト「セレナード第10番“グラン・パルティータ”K.361/
ミサ曲ハ短調“グロッセ・ミサ”モーンダー補筆版 K.427」


 リベラ・クラシカは今から十三年前、モーツァルトやハイドンなど古典派音楽の演奏を目的として、チェリストの鈴木秀美が結成したピリオド・オケである。秀美の兄貴の雅明はバッハを主とした、バロック音楽を演奏するBCJの主宰・指揮者なので、兄弟は国内古楽演奏界で棲み分けを行なうと共に、商圏の更なる拡大を図っている訳だ。リベラ・クラシカが声楽曲を取り上げるのは初めてで、新結成合唱団の旗揚げ公演となる、今日のコンサートを僕は楽しみにしていた。

 鈴木秀美が古楽オケを作り指揮をすると知った時、僕はやや違和感を覚えた。失礼ながら彼には、兄貴の組織するアンサンブルで通奏低音を弾く、チェリストのイメージしか無かったからだ。四半世紀前、有田正広は東京バッハ・モーツァルト・オーケストラを立ち上げたが、あの人こそ卓抜したフルーティストではあっても、指揮者に向くタイプとは思えなかった。恐らく他に適任者も見当たらない中、周囲に祭り上げられ、神輿に乗っただけだろうと臆測する。

 だが、鈴木秀美の場合は違ったようで、リベラ・クラシカ結成から十年余りを経た今、彼は山響や名フィル等のモダン・オケにポストを得て、指揮者として活動の場を広げている。指揮者とは他人に推されてなるものでは無く、自分で人を集めてオケや合唱団を立ち上げる、その位の気概を持たないと成功は覚束無い商売だろう。要するにお山の大将になりたがり、政治的な駆け引きも厭わない性格を必要とする職業で、楽器を上手に弾けるのは、指揮者の必要条件では無いのだ。

 コンサートの前半は「グラン・パルティータ」で、十二管楽器とコントラバスで十三名の奏者と、七楽章で演奏に小一時間を要する大曲である。鈴木秀美は譜面台を前にして指揮したが、この曲に果たして指揮は必要なのか、やや疑問に感じる。十三名の手練れの奏者は放って置いても、自分達でアンサンブルを構築した上で、勝手に盛り上がって行く筈だ。事実トゥッティになれば、指揮にも多少の意味はあるように感じるが、ワルツ風の三拍子やポリフォ二ックに展開する部分になると、みんな概ね勝手に弾いているようにしか見えない。この曲を大好きな鈴木秀美は、自分の弾くべきパートの無い事を遺憾に思い、その鬱憤晴らしに指揮をしているのではないか?と忖度する次第である。

 クラリネットとオーボエの吹く主旋律等、もう少し華やかな音色があっても良いような気もしたが、やはりピリオド楽器だし僕としても、この渋い音色を楽しむのに吝かでは無い。こんな事を誉めると失礼に当たるかも知れないが、ファゴットやホルンなど低音系楽器のリズム感の良いのに感心する。これも勿論、テクニックを前提としたリズムの良さで、あんな扱いの難しそうな楽器を自在に操る、その技術力に瞠目させられる。この低音楽器のリズムの支えがあってこそ、旋律系の楽器も気持ち良く吹けるのだろう。

 休憩後はハ短調ミサ。クレドからサンクトゥスへの、華やかな音楽での愉悦感は充実しているが、冒頭のキリエからグローリアへ掛けての短調の曲で、パセティックな情感の表出が乏しく感じられ、全曲を通した明暗の対比はやや甘くなっている。結論から言って終えば、個人的にハ短調ミサの劇的な展開を、今ひとつ楽しむ事は出来なかった。

 ソプラノの中江早希は大学院在学中の若手だが、既に抜群のアジリタの技術を持っていて、今回の抜擢を納得させるだけの力量の持ち主である。ただ、倍音に乏しい直線的な発声法で、響きの豊かさに不足するのと音色の変化にも乏しく、この曲のソリストとして必須の華やかさに欠けている。残念ながら今少し研鑽を積まないと、モーツァルトやバッハで大向こうを唸らせるのは難しいと思う。

 二番手のソプラノもスピントする高音部はソコソコ歌えたが、中音域を喉だけで支える発声で、技術的な未熟は明らかだった。テノールとバスは共に経験豊富で、この曲では歌う分量も少なく、二人とも安心して聴ける。取り分け浦野のメリスマでの卓抜な技術に感心した。新結成コーラスのトゥッティは若手を中心に、カウンターテノールには上杉清仁、バスには東京二期会と新国立の「魔笛」でパパゲーノを務める萩原潤等を配し、ソリスト級を揃えて万全の布陣を敷いている。

 合唱の出来自体はごく普通と思うが、やはりバッハ・コレギウム・ジャパンと比べて終うと、倍音の豊かさに欠けるのは否めない。取り分けトレブルの声に潤いの感じられないのは、ソロを歌ったコロラトゥーラ・ソプラノの声が、トゥッティでも聴こえる所為と思う。まあ、即席合唱団に有り勝ちな問題点ではある。BCJには経験豊富な指揮者に拠る二十年の蓄積があるので、両者を性急に比較するのは酷だし、声楽は素人の鈴木秀美に高望みすべきでは無いとも思うけれども。

 だが、トレブルに倍音の膨らみが欠けると、終盤のオザンナでもパート毎の、クッキリとした音色の変化が付かない為、フーガも立体的に浮き立って来ず、ハ短調ミサの華麗な展開を描き切れない憾みは残る。オケとコーラスの倍音が一致しないと、その相乗効果でホール一杯に広がる、音像を享受する快感も得られない。オケの技量に問題のある訳では無いので、コーラスの土台作りを下振りに委ねるのも、一つの解決策かも知れない。

 そもそもBCJにしてからが、二十数年前の立ち上げ当時は合唱練習に二日、更にオケ合わせに四日を費やし、当然ながら本番当日もシコシコと稽古し、声と楽器を合わせた演奏全体の完成度を高めていたらしい。結成十四年目を迎えるリベラ・クラシカだが、初めての声楽入り管弦楽演奏で、そう易々とBCJに追い付ける筈も無いと思う。

 でも、これだけの重量級のプログラムの後にも関わらず、アンコールを演奏してくれたのは嬉しい限り。定番の「アヴェ・ヴェルム・コルプス」だったが、この曲は終始ピアニシモで通されるので、合唱団の音色の変らない弱点は覆い隠される。シミジミと胸に沁みる演奏だった。

ボーイズエコー宝塚第30回定期演奏会

$
0
0
2015年3月28日(土)13:30/宝塚市立西公民館

ピアノ/辻潤子
ボーイズエコー宝塚

<楽しい学校>
西口ようこ「学校坂道1&2」
寺島尚彦「日本語のおけいこ」
目黒玲子「たのしい算数」
平井康三郎「スキー」
ヘイス「冬の星座」
カンフォーラ&ルー「フルーツサラダの歌」
モーツァルト「アルファベット」
R・ロジャース「ドレミの歌」
<いきもの大好き>
福島県わらべ歌「つぶやつぶや」
中田喜直「もんく」
佐々木すぐる「月の砂漠」
松島つね「こうまとおうま」
マンシーニ「子象の行進」
富田勲「ジャングル大帝」
豪州民謡「調子を揃えて」
<OBといっしょに>
村井邦彦「翼をください」
臼井真「しあわせ運べるように」
F・デューレ「すみれの花咲く頃」
J・シュトラウス「太陽のマーチ」
中安保美「五色浜の守唄」
森正人「ボーイズ・エコー宝塚の歌」
小山章三「今日のひととき」


 ボーイズエコー宝塚は今から三十年前、兵庫県小学校の音楽教員だった中安保美を指揮者に、小学生男子のみを団員として発足した。設立目的及び理念として、「少年の発声特有のボーイ・ソプラノを目指し、練習の成果を市や地域の催し、福祉施設で聴いて頂き、歌を通して大勢の人と出会い様々な体験をする」を掲げている。現在、国内でボーイ・ソプラノを擁し、演奏活動を行っている少年合唱団は十団体前後で、ほぼ絶滅危惧種と化している中、ボーイズエコー宝塚は市内限定で、地域に根差した活動を続けて来た。

 関西では唯一、少年のみで構成される合唱団であるボーイズエコー宝塚だが、創立以来三十年に亘り実質的な主宰者として、無償の情熱を注いで来た中安先生が、この二月に逝去された。僕はボーイズエコー宝塚の演奏を、これまでに一度聴いた切りではあるが、その際に感じた中安先生の暖かいお人柄に思う処もあり、卒爾乍ら哀悼の意を表したく、定期演奏会を聴きに宝塚まで赴いた。

 もう何年前の事か忘れたが、宝塚にボーイ・ソプラノを擁する少年合唱団があり、毎年定期演奏会を行っていると知り、以前にもこの公民館まで聴きに来た事がある。その際、ボーイズエコー宝塚の演奏を聴き、「なにコレ?」と唖然とした記憶がある。ボーイズエコー宝塚の全体演奏では、二声や三声に分かれて歌う事は絶えて無く、全てユニゾンでの演奏で、しかも声変わりした後の少年にも、野太い地声で思い切り歌わせていた。これはハーモニーがどうのと言う以前で、斉唱にすらなっておらず、殆ど音楽として聴こえないと云うのが率直な感想だった。

 これは一度でコリゴリと思ったが、終演後の会場で中安先生に甘える団員達と、そんな彼等に優しく接する先生の姿勢に、ボーイズエコー宝塚の日常を垣間見たような気がした。また、コンサ-トでは団員の独唱の場も設けられ、その際にはボーイ・ソプラノの清澄な声を披露する子も居て、やはりボーイズエコー宝塚も音楽団体の内で、歌を愛する少年を育成していると気付かされた。

 ホームページ「ボーイ・ソプラノの館」で中安先生の訃報に接し、ボーイズエコー宝塚の定演を再訪した処、団員数は四名まで激減している上に、その内の一人は既に変声期を過ぎていて、ボーイ・ソプラノは三名のみの編成となっていた。前回、演奏を聴いた際は、二十名前後の団員の居たと記憶するが、その人数に比例して変声期後の少年も数多く居り、彼等の遠慮無く発する蛮声に掻き消され、清澄なボーイ・ソプラノを聴き取る事は全く叶わなかった。だが、今日の演奏では四名の声を、それぞれ聴き分ける事が出来るので、蚊細くも儚い三名のボーイ・ソプラノの声を、それなりに楽しむ事が出来た。

 例え声変わりして地声しか出せずとも、まず少年達に思い切り声を出させるのが、中安先生の第一義的な方針だったと、僕は今日の演奏を聴き得心した。当日の会場で御挨拶申し上げた、「ボーイ・ソプラノの館」運営の館長氏の仰る処では、何れの少年合唱団に於いても、変声期後の団員の処遇は悩ましい問題なのだそうである。ボーイ・ソプラノに合わせファルセットで歌わせるのか、或いは男声パートを設け三部合唱にするのか。この二つの選択肢を退けた中安先生の方針は、ボーイズエコー宝塚の理念と実態に即した判断だったと思う。

 ただ、声変わりした少年達の野放図な声には、やはり辛抱し難いものがある。オクターブでユニゾンを揃える程度の事もせず、ただ声を張り上げるのみでは、一般的な音楽好きの支持は望むべくも無かった。これまでボーイズエコー宝塚と中安先生に、ボーイ・ソプラノを擁する少年合唱団としての希少価値を、一般に伝える努力の足りなかったのも、また事実だろう。コンサートの後半には現役四名の応援に、ほぼ十代の少年ばかりのOBも演奏に加わったが、これは往年のボーイズエコー宝塚の再現となり、つまり平たく言えば単なる高吟放歌となった。果たして彼等の内の幾人が、卒団後も音楽活動を続けているのか?気になる処である。

 在籍者四名のみの団体のコンサートに、今日は運営側を含め百人程の聴衆が詰め掛け、来賓として宝塚市長も挨拶に立った。市長も中安先生の嘗ての教え子だそうで、頭の上がらない関係だったようだ。その市長も含め挨拶した来賓は異口同音に、ボーイズエコー宝塚の存続を訴えていたが、この定演を区切りとしての休団は既定方針のようだ。

 地域コミュニティーに根差し活動するボーイズエコー宝塚が、休団の已む無きに至った要因は、後継者の育成と云う難題をクリア出来なかった事に尽きる。だが、中安先生の存在抜きのボーイズエコー宝塚を、想像し難いのも事実である。単なる部外者としては中安先生の旅立ちと共に、ボーイズエコー宝塚も看板を降ろすのが、自然な成り行きではないかと愚考する次第である。活動を支える地域のボランティアと、行政からの支援も期待出来る団体だけに、その休止は惜しまれる処ではあるけれども。

 最後に付け加えれば、四名の内の最年少で小学一年坊主の子が、歌声を客席まで届かせる声量で良く唱っていた。多分、入団当初の彼は声なんか殆ど出なかったと想像するし、彼の来年再来年の更なる成長を見届ける事の出来ないのを、ちょっとだけ残念に思うのである。

福島東高校合唱団第12回定期演奏会

$
0
0
2014年7月25日(金) 18:00/福島市音楽堂

指揮/星英一
ピアノ/鈴木あずさ
福島県立福島東高校合唱団

J.S.バッハ「イエス我が喜び~モテット第三番」BWV.227
1.Jesu meine freude
2.Es ist nun nichts
4.Denn das gesetz
5.Trotz dem alten Drachen
6.Ihr aber seid nicht fleischlich
10.So nun der geist des
11.Weicht,ihr trauergeister
横山潤子「共演者」
千原英喜「夜もすがら」(方丈記)
森田花央里「鐘」(青い小径)
企画ステージ「東高紅白歌合戦!」
鈴木輝昭「Deduke men a selenna(詞華抄)/私たちの星(いのち)」
Andra moi ennepe,Musa(オード・オデュッセイア)」
三善晃「生きる」(木とともに人とともに)


 二年振りに福島東高の定演を訪れた。今年度のコーラス部の陣容は、女声33名に男声14名の計47名で、星教諭の赴任後はこの位の人数で推移しているようだ。湯浅譲二作曲の優美な校歌の後、コンサートの冒頭は宗教曲で、前回はシュッツのカンツィオーネ・サクレだったが、今日は震災の年に京都合唱祭でも演奏した、バッハのドイツ・モテットを再演してくれた。毎度、この学校のコンサートでは、聴き応えのある選曲が嬉しい。

 例えば第二曲でのフーガの捌き方や、nichtsの繰り返しでのピアニシモの後、フェルマータをフォルテで締め括り辺り、実に泣かせる。第五曲冒頭でソプラノのTrotzへのアクセントの付け方や、男声のメリスマの処理等もキチンと出来ているが、第六曲の切れ目の無いメリスマは、さすがにキツそうではある。第十曲の悲愴味に満ちて感動的なハーモニーの後、終曲のコラールをピアニシモで締め括る。指揮者のバッハらしいリズムの把握と、ノリの良さとでモテットの楽しさを堪能しただけに、やはり抜粋では無く全十一曲を聴きたいと感じる。

 一つ苦言を呈して置くと、このモテットはシンメトリー構造のコラール変奏曲なので、曲間のタイミングを含めて演奏効果を図る必要がある。冒頭から聴く身にすれば、曲間の途中入場の客で場内がザワつくと、モテットの緊密な構造を味わうのは難しくなる。あくまで一気呵成に聴き通すべき曲で、途中から聴くとか抜粋で演奏する等、能う限り避けたいものである。

 次はコンクール課題曲の演奏でNコンの横山では、ユッタリしたテンポとデュナーミクの工夫で情感を醸し、曲想の抒情性を良く捉えている。合唱連盟の方の千原でも、語り節の曲を味わい深く、情感を込め歌い上げる。この二曲にはリズムの良さが通底していて、演奏効果を挙げている。もう一曲の公募入選作品は、構成の散漫と云うか色々と詰め込み過ぎで、さすがに顧問教諭の手腕を以ってしても、分かり易く整理して聴かせるのは難しい。

 休憩後は定番の学芸会と思いきや、全員制服のまま星教諭のピアノ伴奏で、ポピュラー・ソングを歌った。紅白歌合戦と云う事で、女声合唱と男声合唱を交互に演奏する。指揮無しで歌われて気付いたのだが、女声合唱は自然に息の合うのに、男声合唱の方は縦の頭が揃わない。アカペラでは合っているのに、何故か男声はピアノ伴奏のリズム感と合わせ難そうにしていて、その理由は見当も付かない。最後の曲だけ混声で、伴奏も顧問から生徒に交代したが、これも理由は知らない。

 コンサートの締め括りで、まず鈴木輝昭のサッポーの詞に拠る詞華抄は、ハーモニーの音響的なエチュードと云った趣の曲で、その限りに於いては迫力ある演奏となっている。三善の「生きる」は、常にインテンポを守って殆どルバートせず、やや面白みに欠ける。ピアノの刻むリズムに乗り歌われる曲で、指揮者の豊かなテンペラメントを生かす為にもアゴーギグより、むしろテンポの変化で聴かせるべきと思う。何れにせよ今日のプログラムの中で、三善晃はバッハのモテットと共に、本当の意味で生きて躍動する音楽だと思う。

 鈴木大先生の年中行事で委嘱新作の楽譜は、前々日に一枚に昨日は七枚、今日になって三枚届き、累計十一枚で本番を迎えたそうである。一応、届いた分は音にしていたが、それだけでは折角お越しの皆様に申し訳無いと、大先生の旧作も演奏された。これは何と云うか全くフツーの合唱曲だが、それなりに力の籠もった曲を、力の籠もった演奏で聴かせてくれた。

 アンコールの「こころようたえ」は、この学校の定番となりつつある曲だが、今日は心持ち元気の無いように感じる。星教諭はお風邪を召しているそうで、これはスタミナ不足で集中力の切れたのだろうか。コンクール当日までに体調を整え、心置きなく本番に臨めるよう、お見舞い申し上げて置く。

会津高校合唱団第44回定期演奏会

$
0
0
2014年7月27日(日)13:00/會津風雅堂

指揮/大竹隆
生徒指揮/佐藤友美
ピアノ/岩橋亮太
福島県立会津高校合唱団

三善晃「麦藁帽子(光のとおりみち)/生きる(木とともに人とともに)」
J・マグラナハン「いざ起て戦人よ」
萩原英彦「ふるさと」(光る砂漠)
奥田悌三編曲「I will Follow Him」(天使にラブ・ソングを)
武満徹「死んだ男の残したものは」(うた)
山室紘一編曲「ひこうき雲/糸」
信長貴富編曲「Top of the world」
北清水雄太「青いベンチ」
オペラ「Falstaff」より
森田花央里「鐘」(青い小径)
クヌート・ニーステッド「O crux」


 昨日の土曜日は会津若松で前泊し、でも何処のコンサートにも行かず、毎年お邪魔している「麦とろ」で真昼間から、名物の麦とろ定食をアテに呑んだくれていた。その際の相客で、見ず知らずの会津高校OBさん(合唱部では無い)と、何かの切っ掛けで言葉を交わし、大阪から会高合唱部の演奏会を聴きに来たと申し上げると、一杯奢られて終った。まあ、僕もご当地に草鞋を脱いだ客分ではあるし、ここはご厚意に甘え、遠慮無くお相伴に預かった。袖擦り合うも多生の縁で、その節はご馳走様でした。

 会津高校は今年も多数の新入生を迎え、八十二名の大所帯で定演を挙行されるのは、誠にご同慶の至りであるが、冒頭の校歌を聴くとやや不安の念も生じる。プログラムは顧問指揮の女声合唱で、三善晃「麦藁帽子」から始まる。ドルチェな表現力はあっても誠に淡彩な演奏で、ソプラノにピアニシモのロング・トーンを保つ力の無い事に、再び不安を覚える。続いて男声合唱で「いざ起て」も、実に端正な演奏。こんなものは思い切り羽目を外し、トド声を撒き散らせと言いたくなるが、これが顧問教諭の持ち味であれば、まあ致し方の無い処か。ここでも力み過ぎる、トップ・テナーの抜けない喉声は気になる。

 全員の勢揃いする混声で「光る砂漠」は、柔らかい表現力で聴かせるし、山場の作り方も的確に出来ているが、人数で誤魔化している部分もある。再び三善晃で「生きる」ではイン・テンポを守り、僅かなデュナーミクの変化のみでヒタヒタと盛り上げ、指揮者のテンペラメントで聴かせる。淡々と続く音域の狭い曲は、現状の非力な声に合っていると感じる。

 ここからは生徒さんの指揮だが、「天使にラブ・ソングを」はカタカナに過ぎるので、もっと発音の抑揚に沿ったデュナーミクを工夫しないと、英語には聞こえないと思う。武満徹では最初の遅過ぎるテンポ設定を、そのまま最後まで押し通して退屈させられる。一語一語の母音を押すのと、丁寧に歌うのとは全く別個の事柄なのだ。良い曲を歌いたいと云う意欲は買うが、これは高校生の手に余る難曲だろう。

 ユーミンの「ひこうき雲」のようなモデラートのテンポの曲なら、生徒さんの指揮で素直に歌えればそれで良いと思う。しかし、そう考えるとカーペンターズのようにアップ・テンポの曲は、指揮は有っても無くても同じと云う事になる。「青いベンチ」は生徒さんのギター伴奏で、指揮無しでも愉し気だし、居ない方が良いような気もして来る。中島みゆきは更に伸びやかに歌えて、指揮無しで良いとの確信を深める。序でに言って置くと、女装男子は中途半端で気恥ずかしく感じたので、もっと女性らしく作り込んで欲しかった。

 学芸会ステージは「ファルスタッフ」だそうで、えっ!ヴェルディの?と驚くが、無限の可能性を秘めた若い皆さんのする事だし、意欲的な選曲は大いに推奨されるべきと思い直す。しかし、「カルメン」や「フィガロ」なら、アリアとレチタティーヴォはクッキリと別れていて、ダイジェスト版も作り易いが、「ファルスタッフ」は“ブッフォ・フーガ”なのである。あのダイアローグと重唱ばかりで、独立したアリアやコーラスの聴かせ処の少ないオペラから、一体どのようにして抜粋版を作るのか、僕には見当も付かなかった。

 ファルスタッフやフォードのモノローグに、ソプラノのデュエットを挟む抜粋自体は、粗筋を追う為の最低限の構成と云う感じで、まあこんな処だろうと思う。ただ、ナンネッタとフェントンのデュエットは本筋と関係無いので、省いた方がお話しはスッキリするように思う。しかし、何でこんなに難しいアンサンブル・オペラを、わざわざ取り上げるのかと云う疑念は残る。同じシェイクスピアの戯曲を題材とする、ニコライの「ウィンザーの陽気な女房たち」の方が、単純に出来ていて高校生向きだろうにと思う。

 生徒諸君の歌の出来に付いては、みんなスピントしない喉声だったと、一言で片付けて終っては愛想の無さ過ぎか。一人だけ挙げるとタイトル・ロールの歌は、最後に出て来た子が一番巧かったので、この子に全部歌わせるべきと感じた。結局、皆さん全曲のフィナーレ、「この世は全て冗談」の大フーガを歌いたいが為、「ファルスタッフ」を取り上げたのだろうが、それならば何故に一幕と二幕の最後に歌われる、二つの九重唱を省いたのかが分からなくなる。おじさんは本気で聴きたかったのだよ、九重唱。

 プログラムの最後はコンクール曲のお披露目。課題曲の「鐘」で、ソプラノの伸びやかさに欠ける声は気になるが、さすがに曲の対位法的な部分は良く捌いて、柔らかい声質が生かされていた。ニーステッドはバスの支えが確りしているので、不協和なハーモニーを美しく鳴らし切る事が出来る。ただ、指揮者の音楽作りと、中音域の柔らかい声質はとても良いのだが、ソプラノとテノールの喉声は決して小さくはない瑕になっている。最後、ピアニシモのロングトーンを伸ばし切れなかったのも、ちと困り物だった。

 まあ、夏休みも始まったばかりで先は長いし、これから演奏の完成度も追々高まって行くだろう。でも、今年の生徒の声楽的能力は、例年と比べ低いレヴェルからのスタートとなっているようで、こりゃ顧問教諭も頭の痛かろうし、前途多難だなぁと思う。アンコールは信長貴富の「しあわせよカタツムリにのって」と、坂本九「さよなら さよなら」で、まずはシットリとコンサートを締め括ってくれた。

モーツァルト「フィガロの結婚」K.492

$
0
0
<庭師は見た!全国共同制作プロジェクト/イタリア語&日本語上演>
2015年6月7日(日)14:00/兵庫県立芸術文化センター

指揮/井上道義
電子チェンバロ/服部容子
兵庫芸術文化センター管弦楽団
新国立劇場合唱団

演出/野田秀樹
美術/堀尾幸男
照明/小笠原純
衣裳/ひびのこづえ
振付/下司尚実

フィガ郎/大山大輔
スザ女/小林沙羅
伯爵夫人ロジーナ/テオドラ・ゲオルギュー
アルマヴィーヴァ伯爵/ナターレ・デ・カロリス
ケルビーノ/マルテン・エンゲルチェズ
バルバ里奈/コロンえりか
女中頭マルチェ里奈/森山京子
医師バルト郎/森雅史
音楽教師走り男/牧川修一
公証人狂っちゃ男/三浦大喜
庭師アントニ男/廣川三憲
花娘/宮田早苗/増田弓


 ホールに足を踏み入れると幕は上っていて、本日の簡素なセットをお披露目している。緞帳や袖幕は無く、照明設備や舞台機構を剥き出しにして観客の目に晒すのは、演劇的な虚構性を強調する手法と感じる。ケラリーノ・サンドロヴィッチ主宰の劇団「ナイロン100℃」出身の俳優、廣川三憲は既に舞台上に居て、二本の竹棒を手に何かゴソゴソやっている。演出の野田秀樹は今回のフィガロ上演に、「庭師は見た!」のサブタイトルを付し、アントニオにバス歌手では無く俳優を起用し、狂言回し役としている。

 本日の読み替え演出の設定は、開国から間も無い明治初期の長崎。フィガロの物語を黒船来航の時代に擬し、万里の波濤を超えやって来た伯爵とロジーナとケルビーノの三人を、長崎に邸宅を構えるイタリア人御一党とし、フィガロにスザンナとその他大勢は、全て異人館に勤務する使用人としている。つまりダ・ポンテとモーツァルトの意図した、貴族と平民の階級対立の物語を、西洋と日本の異文化対立に置き換えた演出である。

 野田は最初、全員日本人キャストに拠る訳詞上演を目指したが、これに対し井上ミッキーが欧米人歌手も起用せねばと主張し、紆余屈折の末に伊日語混合上演と云う、突飛な演奏形態を採用するに至ったらしい。その結果として「舞台は長崎、時代は黒船来航の世」と云う設定も導き出された。どうやら二ヶ国語上演は、最初に歌手ありきで決まった苦肉の策でもあるようだ。

 冒頭、アントニオの廣川三憲が、オペラ開幕の口上を述べた後、ミッキーがタクトを振り降ろし、フィガロ序曲の演奏が始まる。その中庸のテンポ設定から、僕は指揮者の穏当且つ真っ当なモーツァルト解釈を感じる。しかし、序曲を終えた処で間髪を入れず、始まる筈の音楽は始まらない。再びアントニオの口上を挟み、フィガロの歌う「Cinque,dieci」と始まる筈が、大山大輔のフィガロが鯨尺を手に「五尺、一間」と日本語で歌い出し、スザンナが「Guarda adesso il mio cappello」と応ずる処を、小林沙羅は「ねえ見てよ、あたしの角隠し」と歌う。

 バルトロのアリアに、マルチェリーナとスザンナのデュエットまでは日本語歌唱だが、ケルビーノの登場でスザンナとの掛け合いは、二人ともイタリア語歌唱となる。伯爵家の日本人召使は全員イタリア語を話せる設定で、海外組の三人の歌手との遣り取りは、全て原語で歌われる事となる。但し、ここには例外も設けられていて、アントニオの廣川君だけは、丹精込めた花壇を踏みにじられたと伯爵に訴える際も、日本語歌唱で通すのである。しかもアントニオの加わる二幕フィナーレの五重唱では、後の四人はイタリア語なのに廣川君だけ日本語で、それはさすがにご都合主義に過ぎるだろうと、思わず突っ込んで終う。

 三幕の裁判の場面では伯爵に訴える際と、使用人同士の遣り取りとで、イタリア語と日本語が錯綜する。四幕でスザンナとロジーナが入れ替わると、一体フィガロは誰に話し掛けている積もりで、イタリア語と日本語を使い分けているのか、こちらの頭が混乱して来る。この辺りは演出家と指揮者の間の調整不足で、今後に課題を残すと思うが、こんな事柄にスッキリした解決策等ある筈も無く、何処かで割り切るしか無いのだろう。また、度々舞台に現れる廣川のアントニオの、口上と云うか粗筋の説明が長ったらしくクドイのにも、もう分かったから先に進んでくれと言いたくなる。総じて初心者向けサービスに熱心で、好事家を等閑にする演出だが、それにしてもナレーターは出しゃばり過ぎでは?と思う。

 しかし、次々と繰り出される機知に富んだ、野田秀樹のアイデアの数々には舌を巻くしかない。凡庸な演出家の手に係ると、退屈極まりない場面となる一連のかくれんぼで、ケルビーノは虎の敷物を被って床へ俯せになり、スザンナは大きな箱に身を潜め、外側からナイフを刺す奇術で伯爵に脅かされる。陳腐なかくれんぼに新たなアイデアを盛り込み、ルーティンに堕した場面へ生気を吹き込む、これぞ野田演出の醍醐味と云うべきだろう。

 また、八名の演劇アンサンブルも、長い竹竿を使い愉しい演技を観せてくれる。鳥居に見立てて組まれた竹竿に、伯爵とスザンナが柏手を打ったり、或いは歌手同士の遣り取りに連れ、竹竿に並んで干された奴凧を装う役者が、倒れたり起き上がったりする。また、竹竿の先にくっ付けた皿回しのギャグ等、野田演出の過剰とも思われる観客サービスと、見世物としての芝居を提供する姿勢を端的に示している。ただ、僕は舞台に林立する竹竿に既視感があり、恐らくは「ピーター・ブルックの魔笛」からの引用と思う。

 四幕での楽しい工夫は、ケルビーノとバルバリーナの逢引きが、炬燵を囲んでの鍋パーティーだった事。この炬燵を廻って、フィガロとスザンナとロジーナとケルビーノとが入り乱れ、ドタバタ劇を展開する。また、これに先立つ冒頭で、バルバリーナがカヴァティーナを歌う前に、伯爵が彼女を強姦するシーンを絵にして見せたのは、満座の席でセクハラ行為をバラされ、赤恥を掻かされた伯爵が自分の領主としての権威を、バルバリーナに思い知らせ鬱憤を晴らす為の暴行、と演出家は説明する。

 野田演出の玩具箱を引っ繰り返したように賑やかな舞台は、初心者も好事家も文句無しに楽しめる、上質なエンターテインメントに仕上がっていて、演技面には何の問題も無かった。だが、音楽面では日伊語混合上演の他にも、大いに物議を醸しそうな問題点がある。恐らくはクラヲタが怒り心頭に発する、レチタティーヴォの大幅カットだ。この点に付いても野田は確信犯で、オペラの魅力は圧倒的に歌に尽きるのであって、実は歌手が唱ってさえいれば、演出家は殆ど何もする必要は無い。でも、今回はそこに手を突っ込んだとの意を述べている。

 例えば三幕でフィガロに対し、マルチェリーナとバルトロが親子の名乗りを上げる場面。例の「tua madre,tuo padre」の掛け合いを、演出家はレチタティーヴォでは無く、単なる地の台詞の遣り取りに置き換えて終う。歌手にすれば楽譜通り唱うだけで、笑いを取れる美味しい場面だが、それでは演出の腕の振るい甲斐が無いと考えたのだろう。しかし、これでは何だか肩透かしを食ったような気分で、やはりここはキチンと楽譜通りに、モーツァルトの闊達な音楽を聴かせて欲しい処だ。

 やはり三幕で「手紙のデュエット」の演出にも疑念を抱いた。このロジーナとスザンナのデュエットを、僕は個人的に偏愛していて、出来得れば舞台上の二人に集中したいと思う。だが、今回の演出では白いボディ・スーツを着込んだ、バレエ・ダンサーと思しき女性を数名、奈落から上げて何やらゴソゴソやらせる。更にロジーナにも手持無沙汰にさせる事は無く、ライフル銃と思しき小道具を玩ばせる。これは実は全曲の幕切れで、ロジーナはどうしても伯爵を許せず、強い殺意さえ潜めていると云う設定で、空に向けてライフル銃を撃つ、その伏線を張っていたのである。

 そこで配布されたタイム・テーブの注意書きで「演出上、大きな効果音を使用する場面があります」と記されていた意味も、腑に落ちた訳である。そもそもエンディングで、舞台の真ん中にライフル銃を付き立ててあるのを、「ありゃ一体何だ?」と怪訝に思っていると、ロジーナが突然ぶっ放したと云う次第である。野田は「我々は許すと言っても、何年も根に持って生きていたりする」と語っていて、この解釈は全幕のオチの付け方として悪くないと思う。だが、それを敷衍して「手紙のデュエット」まで遡り、肝心要の聴かせ処で歌の邪魔をするのは、少し違うだろうと思う。

 歌手では主役の二人、フィガロとスザンナの大山大輔と小林沙羅が、演技面で出色の出来だった。今回、野田は本人も経験無い程、夥しい回数のワークショップを実施したらしい。参加したオペラ歌手が他では得難い経験を積み、演技面で長足の進歩を遂げたであろう事は、想像に難くない。当初はは女優志望で演技に長けた小林沙羅は、軽やかな身のこなしで舞台を飛び回り、大山大輔も本職の役者を凌ぐ達者な芝居を見せ、二人ともワークショップでの研鑽の成果を披露してくれた。歌の方は小林は声に力のあるリリコで、上演全体の牽引役となる立派な唱い振りだが、もっと軽い音色も作って欲しい。大山は声量不足で振幅の広い音楽を作れず、やや単調に陥る嫌いはあった。
 
 ワークショップに参加していない欧米組の歌手陣に、演技面の見所は乏しかったが、その制約の中でも色々と工夫は凝らされていた。野田の発案だろうが、アントニオ廣川の浄瑠璃風の台詞に合わせ、俳優が黒子としてスザンナやフィガロを文楽人形のように操る小ネタに、ロジーナのゲオルギューも果敢に挑み、歌舞伎風の大見得を切って見せた。ただ、新国立劇場合唱団の面々は放置プレイ状態で、「ご当地合唱団」のプラカードを掲げ突っ立ったまま歌ったのは、余りにも芸が無いと思った。

 ゲオルギューの歌の方は声質そのものが固く、高音の出し方も如何にも唐突で、旋律をレガートに繋ぐ意識に乏しいのと、ヴィブラートのキツイのも気になり、今ひとつモーツァルト向きでは無いように感じる。今回のプロダクションの目玉商品の一つとされる、エンゲルチェズのカウンター・テノールとしてのテクニックは堅実だが、声にツヤが感じられず音色の変化も無いので、ケルビーノに必要とされる色気を決定的に欠いている。ケルビーノをカウンターに歌わせるのなら、ドミニク・ヴィスのような芸達者を持って来ないと、結局は美人メゾの方が良いと云う話になる。伯爵のデ・カロリスは剛毅な声質のバリトンで、貴族の品格と強欲を同時に表現出来るが、これを美声とは言い難かった。

 演技面ではマルチェリーナの森山京子が、さすがにブッファを得意とする藤原所属らしく、闊達な演技を観せてくれる。一幕のスザンナとのデュエット「奥様どうぞお先に」は、「ババア」を連呼する小林沙羅との掛け合いで、俳優陣を巻き込み番傘を小道具に使う演出が楽しい。森山さんには慣習的にカットされる、「牡山羊と牝山羊」のアリアも歌って欲しかった。

 三幕のフィナーレで、二組の結婚式でのファンダンゴのキビキビした音楽に聴き入っている時、不意に理由も無く涙が出て来た。この場面は呑めや歌えのお座敷宴会で、音楽に合わせた工夫も素晴らしく、演奏と舞台が相乗効果を挙げていたのだろう。二幕のロジーナのアリアへの指揮者の伴奏の付け方は、叮嚀なデュナーミクの工夫でリズムを弾ませ、レガートな流れを作る手際が絶妙だし、二幕フィナーレの七重唱でも若いオケが指揮に良く食らい付き、痛快なカタルシスを作ってくれた。そんな積み重ねの上で全曲フィナーレの九重唱に、僕は再び涙して終ったのだろう。

 兵庫芸文オケはモーツァルト用に切り詰めた編成だったが、これは期せずして選抜メンバーでの演奏となったのかも知れない。指揮者の要請へ敏感に応じ、普段のモタモタした演奏とは違う、切れ味鋭いモーツァルトを聴かせてくれた。五千円の追加料金を払ってでも、フェスティバルホ-ルでOEKの演奏を聴くべきかと迷ったのは、若い奏者達に失礼だと反省した。まあ、これも丁半博打みたいなモンで、その意外性を楽しめば良いのでしょう。

 今後、野田版フィガロへの毀誉褒貶は相半ばするだろうが、これがオペラ初心者向けとして、理想形に近い上演である事に間違いは無い。錦織健ちゃん一座の公演も文化庁の助成金を受け、やはり全国巡演で初心者をリピーターにするを目標に掲げている。だが、野田版フィガロを観れば、健ちゃん一座に足りない部分も見えて来る。無条件で愉しめる上演には、美しい演奏と楽しい演出の相乗効果が必須で、その実現には費用も時間も掛かるのである。トリスタンやパルジファルの演奏会形式とか、そんな我慢大会のような上演を喜ぶ(僕もそうだけど)、クラヲタ相手の催し物とは訳が違うのだ。

 恐らく野田版フィガロの問題点は、誰の目にも明らかだろう。だが、そんな事は野田も井上も先刻承知で、後半戦も同じキャストで巡演する以上、今後は回を重ねる毎に完成度は増して行く筈だ。僕の思うに、このプロダクションは海外でも必ずウケる。野田版フィガロが日本から飛び出し、欧米のオペラハウスで再演を重ねる可能性は大いにあるし、それは今後のプロデュース次第だろうと思う。

 長くなったが、最後に一言。アントニオを野田秀樹が演じ、自ら歌わなかった事こそが、野田版フィガロの最大の問題点と考える。何故なら本人の出演こそ、最高の観客サービスとなるからだ。舞台俳優としての野田に、それだけの華はあると思う。

ドヴォルザーク「スターバト・マーテル」op.58

$
0
0
<大阪フィルハーモニー交響楽団第489回定期演奏会>
2015年6月9日(火)19:00/フェスティバルホール

指揮/ラドミル・エリシュカ
ソプラノ/半田美和子
アルト/手嶋眞佐子
テノール/望月哲也
バス/青山貴
大阪フィルハーモニー交響楽団
大阪フィルハーモニー合唱団


 チェコの巨匠で御年八十四歳のラドミル・エリシュカ翁が、大フィルとの七年目にして四度目の共演に満を持し、大曲「スターバト・マーテル」を取り上げる。これまでのプログラムは「グラゴール・ミサ」と、「新世界より」に「我が祖国」全曲と、東欧物ばかりで随分と偏っていた。でも、隔年でお越し頂いているエリシュカ翁に、大フィル会員の期待する処を勘案すれば、まず妥当な選曲と云えるのだろう。また「スターバト・マーテル」は、大フィル側の当初からの提案だそうで、長い助走期間を経て実現した、滅多に聴けない大曲のコンサートとなれば、やはり否が上にも期待は高まる。

 しかし、その期待はオケの序奏の段階で早くも躓く。何だか平べったい音しか出て来ないのだ。それでもコーラスの男声が加わるピアニシモで、その柔らかい音色に意表を突かれる。へぇ、大フィル合唱団って、こんなに上手になったんだぁと、驚きと共に感心もする。更に男声に加わる女声も、柔らかい音色に統一されていて、全体のハーモニーも申し分無いレヴェルにあると感じる。

 ただ、第一曲でソロを唱うテノールの望月哲也の、宗教曲にしては大袈裟過ぎるデュナーミクの付け方と、ノン・レガートのゴツゴツした歌に、やや違和感を覚える。コーラスの柔らかい歌い口と噛み合わないように感じるが、それも第六曲の「Fac me vere」まで来ると、無駄な力みも取れてレガートに歌えて、宗教曲のテノールらしくなる。最初からそう歌ってくれれば、尚良いけれども、ここは望月君の修正能力を評価したい。これに対しソプラノの半田美和子は、メゾピアノの音量でのレジェーロな声と、強目でリリックな声質のフォルテを使い分け、レガートな歌い振りに徹する。第八曲「Fac ut portem Christi」のデュエットは、二人とも安定した柔らかいレガートで、満足すべき出来となった。

 だが、曲の進むに連れ、大フィルの演奏の不備が耳に付いて来る。低音域では目立たないチューニングの甘さも、低弦の上に高弦セクションが被さり、その上へ更に木管が乗っかると、あからさまに聴こえるようになる。トゥッティでフォルテの音量になっても、そもそもパート内の横の音程が揃わず、高次の倍音が響かないので、ロマン派らしい豊かな響きは一向に出て来ない。弦も管もバラバラの状態で、明らかな練習不足を見て取れる。このような準備不足の状態で、高齢でしかも遠来の指揮者を迎える、大フィルの体制自体に疑問を感じる。

 皆様お馴染みの旋律美に溢れる、第三曲「Eja Mater」はレガートに柔らかい合唱で、ロマンティックな演奏となる。ただ、指揮者は殆どルバートせず素直に歌わせていて、ややアッサリし過ぎとも感じる。第四曲「Fac,ut ardeat」のバス・ソロの青山貴には、大向こうを唸らせるに足る声量がある。剛直で立派な、今日の指揮者の解釈からして、立派過ぎる程の歌を唱う。第九曲「Inflammatus et accensus」での手嶋眞佐子は、この曲には重過ぎるアルトの声質で、音色も変化もせずやや単調に感じる。

 大フィル合唱団はアンダンテ・コン・モートの第五曲「Tui nat」と、ラルゴの第七曲「Virgo virginum」で、持ち前の柔らかいハーモニーを存分に聴かせる。取り分け第七曲はアカペラで弱音の美しさが際立つ、本日の白眉の演奏だった。ただ、何れもピアニシモからメゾピアノの範囲に収まる、狭いダイナミク・レンジの曲で、大フィル合唱団のスピントしない弱点は問題とならない。柔らかく美しい音色を作り上げた事に、僕も敬意を表するに吝かでは無いが、やはりそこにはアマチュアの限界と云うものもある。

 終曲「Quando corpus morietur」のアーメン・フーガで、大フィル合唱団はエリシュカさんの要請に応えて善戦健闘し、壮麗と云うべきフィナーレを作り上げた。ただ、そこまで辿り着く過程での、エリシュカさんのフォルテを要求しない解釈に、少なくとも僕は納得出来なかった。声の限界と云う弱点はあるにせよ、指揮にセンシティヴに反応する合唱団に罪は無い。糾弾されるべきは、大フィルのミットモナイ演奏だろう。

 あんなにバラバラで音の鳴らない、平べったいトゥッティを聴かされれば、恐らくはロクにパート練習も行わず、エリシュカさんとのリハーサルに臨んだのだろうとは、容易に想像が付く。補助金を打ち切られて危機的な状況の続く中、オケ団員は未だにこんな事をしていて平気なのだと、今日の大フィルには心底から落胆させられた。

タリス・スコラーズ2015日本公演

$
0
0
<来日十五回記念特別プログラム>
2015年6月14日(日)14:00/兵庫県立芸術文化センター

ザ・タリス・スコラーズ The Tallis Scholars
指揮/ピーター・フィリップス
ソプラノ/エイミー・ハワース/エマ・ウォルシェ
/エミリー・アトキンソン/アマンダ・ワトソン
アルト/キャロライン・トレヴァー/パトリック・クライグ
テノール/マーク・ドーベル/クリストファー・ワトソン
バス/ティム・スコット・ホワイトリー/ロバート・マクドナルド

ジョスカン・デ・プレ「Gaude virgo 喜べ乙女よ」(四声)
パレストリーナ「Missa Papae Marcelli 教皇マルチェルスのミサ(六声)/Nunc dimittis(八声)」
アレグリ「Miserere ミゼレーレ」(九声)
アルヴォ・ペルト「Which was the sun 息子は何処へ/Nunc dimittis 今ぞ御身の僕を」
トレンテス「Nunc dimittis」(六声)


 今年、十五回目となるタリスコ来日ツアーで、西宮公演を聴きに赴いた。当日のプログラムの内、パパ・マルチェルスとミゼレーレは、六年前のびわ湖ホール公演でもやったし、アレグリの方は前回の兵庫芸文公演でも取り上げている。近年のタリスコのプログラミングにはマンネリ化の傾向と共に、取り敢えず良くハモって一般受けする、そんな曲を選択する傾向はあるようだ。

 まず、小手調べにジョスカンの四声モテットで、アレグロのテンポも爽やかに、ポリフォニーへの耳慣らしとなる演奏である。次は前半のメイン・プロで、パレストリーナ超定番の六声曲を八名で演奏する。毎度お馴染み、響きだけのような声のバス・コンビの支える、タリスコの豊饒なハーモニーを楽しむ。この通模倣様式ミサ曲は、建前上は定旋律ミサでは無いとされるが、それでも耳に付くメロディーはある。そこをピーターは確り聴かせてくれるので、僕はテノール定旋律ミサのように楽しんだ。

 ミサの演奏でグローリアとクレドで、それぞれ曲の終わった後に、会場から拍手が起こった。まあ、東夷で異教徒の聴衆ではあるし、これには致し方の無い側面もある。一説に拠ると、耶蘇の宗教儀礼に不案内な善男善女は、曲がアーメン・フーガで終わると、反射的に拍手するのだそうである。成程、そう言われればキリエやサンクトゥスの後、拍手は起こらなかった。但し、この拍手に対し、ピーターはいちいち客席に向き直り、満面の笑みを浮かべ答礼していた。

 初来日から二十六年目のタリスコの公演数は、今日で百二十二回を数えるそうである。日本が好き好きで堪らないピーター君であれば、異教徒の無知に由来する非礼を咎めず、タリスコの演奏を喜んでくれていると、好意的に解釈するのだろう。それは兎も角としてパパ・マルチェルスに付いて、パレストリーナの最高傑作とは言い難い、と云う意見が近年は富みに優勢となる中、ピーターがこの曲に固執する理由に付いて考えさせられる。

 アーメンで終わるグローリアとクレドは、ホモフォニックに良くハモり、単純に盛り上がる曲でもある。つまり客が間違えて拍手するのは、ポリフォニックな要素に乏しい曲を、むしろ歓迎しているからでは?と推測される。タリスコの演奏では緻密なチューニングの賜物である、純正で美しいハーモニーが、一般的に賞賛されているように思う。勿論、それも掛け替えの無い美点と思うが、和声に溺れてポリフォニーの線の浮き立たない、負の側面もある。パパ・マルチェルスにはパレストリーナのミサを特徴付ける、流麗な旋律に拠る模倣対位法と、和声進行とのバランスを失している弱点があり、そこにタリスコが十八番とする理由もあると考える。

 休憩後はミゼレーレで、舞台上に指揮者と五名の歌手を残し、平土間中央通路の上手側にはテノール導唱を置き、三階席正面下手寄りに四人組を配している。三階席でソプラノ・ソロを歌うのは、無色透明無味無臭のスペシャリスト、エイミー・ハワースである。少年モーツアルトが聴き覚えで採譜したと云う、有名なエピソードで知られる曲だが、モーツアルトならその位は朝飯前では?と思わせる、至極単純な応唱スタイルの、でもその単純な書法が効果的な曲である。やはりピーター君の偏愛の対象で、ルネサンス音楽専門のタリスコのポリシーから外れる、初期バロックの曲である。この曲を来日の度に取り上げるのは、観客サービスとしてのイヴェントの一種と、僕は理解している。

 後半のプログラムの眼目は、ラテン語歌詞「ヌンク・ディミティス」を、三人の作曲家のモテットで聴き比べる趣向。まず、近年ピーター君が入れ揚げているペルトだが、兎に角タリスコは良くハモるので、三和音を延々と繰り返す作風に合うとは思う。ただ、ミニマリズムとしても中途半端に感じられて面白くないので、僕は出来ればペルトは止めて欲しいと思っている。ピーターのポリフォニックな絡み合いよりも、子音をマルカート気味に合わせ、縦を揃えるハーモニー重視の演奏スタイルでは、聴いていて直ぐに飽きるのである。

 トレンテスと云う名前は初めて聞くが、年代的にはモラレスの後輩で、ゲレーロの先輩に当るスペインの作曲家らしい。聴いた印象では、スペイン・ルネサンス音楽の系譜に連なる、穏やかな作風と感じる。最後のパレストリーナは未出版で演奏機会の少ない、八声のダブル・クヮイアの曲を、十名で会場中に広がる音像を作り、コンサートの掉尾を華やかに飾った。

 ルネサンス音楽の分野で超絶的な演奏を聴かせ、日本での人気をタリスコと二分していた、ヒリアード・アンサンブルも寄る年波には勝てず、昨年末限りで惜しまれつつ解散した。純正なハーモニーに拘泥し、対位法的な展開を犠牲にする傾向のあるタリスコより、僕はヒリアードの明快なポリフォニー演奏を好む者だ。しかし、その演奏も今は録音でのみ聴く、想い出の世界の出来事となって終った。タリスコはピーターを指揮者とする合唱団で、本人にヤル気と体力さえあれば、メンバーを順次入れ替え(今までもそうして来た)、棺桶に入る直前まで演奏活動は可能だ。

 タリスコにタリスコの魅力はあるけれども、僕はヒリアードの後継者足り得る、新たな一パート一人のアンサンブルの出現を切望している。そう云えばドミニク・ヴィスも良い歳だし、ジャヌカン・アンサンブルも何時まで現役で活動出来るのだろうか。自分に残された年月を数える、僕もそんな歳になったのだと、シミジミ感じる今日この頃である。

間宮芳生「ポポイ」

$
0
0
<ブラヴォー・アンコール!間宮芳生の声I/プレミエ即千秋楽>
2015年6月28日(日)15:00/静岡音楽館AOI

指揮/寺嶋陸也
東京シンフォニエッタ

演出/宮城聰
美術/徳舛浩美
照明/樋口正幸
衣装/岩崎晶子

舞/吉川真澄
ポポイ/上杉清仁
佐伯/大槻孝志
聡子/波多野睦美
剛&記者/河野克典
入江晃/清水寛二(観世流シテ方)


 六年前、静岡市の委嘱に拠り初演された後、何故これまで再演されなかったのか怪しまれる、傑作オペラ「ポポイ」を葵音楽館が、再び一回こっきりの新演出で取り上げる。僕は「ポポイ」を、「合唱のためのコンポジション」と並ぶ、間宮芳生の代表作と高言して憚らない。初演の際、僕は新国立「修禅寺物語」の帰り道に静岡へ立ち寄ったので、駅前郵便局の八階にあるホ-ルで「ポポイ」を観た後、そのまま帰路に着いて終った。今回はわざわざ静岡くんだりまで行くのだし、少しは街の雰囲気も味わいたいと思う。

 とは云うものの、観光と名の付くものに殆ど興味の無い、僕のした事と云えば松永酒店で日本酒一升瓶を買い求めた後、アオイブリューイングの醸造所併設レストラン「ビアガレージ」へ赴き、ヴァイツェンとアニヴァーサリー・エールを頂いたのみ。要するに酒呑む事しか考えてない。アオイブリューイングは昨日の土曜日が醸造所の開設一周年で、記念パーティーは呑み放題のドンチャン騒ぎだったらしい。そこへ僕が行き当らなかったのは、果たして運の良かったのか悪かったのか…。



 しかし、まだ一周年とは出来立てホヤホヤの醸造所なのに、お店は常連さんで賑わっていて、既に地元に根付いている印象を受ける。若い店長さんも好感の持てる接客で、美味しいビールを頂き、気持ちの良い一時を過ごせました。ホロ酔い気分でホテルに戻り、菊川の酒蔵で森本酒造の「小夜衣・純米辛口」を開栓する。静岡の酒にはプレミアの付くような有名処もあるが、特約店では普通に店頭へ出しているようだ。でも、大阪でも気軽に買える、そんな酒を買うのも気の利かない話で、松永酒店ではご主人に好みを伝え、お勧めの銘柄を購入した。「小夜衣」は常温で呑むと味わいの出る、地味でも良いお酒と感じた。




 今回の「ポポイ」新演出には、静岡県舞台芸術センター(略称SPAC)の宮城聰芸術監督が起用されている。前回は舞台上を左右に二等分し、一幕と二幕で歌手とオケの配置を入れ替える、ハッタリっぽい演出だったが、今日はオケを舞台前に横一列に置き、歌手はその奥に組まれた足場の上で演唱する。セットは上手にポポイの首を置いたテーブルと、下手に入江晃の寝るベッドの二つのみで、やはりコンサ-ト・ホ-ル用で簡素に作ってある。ポポイの首はワゴンで運ばれた料理のように金属の蓋を被せ、入江晃の方は天蓋のカーテンを下ろして隠し、二人はそれぞれの出番を終えると、足場の下へ降りてハケる仕掛け。

 前回の演出はダンサーの田中泯で、良い舞台を作っていたと思う。初演の際のピアニストで、指揮に回った寺嶋陸也も田中の演出に付いて、音の響き過ぎで言葉を聴き取り難くなる、コンサート・ホールでのオペラ上演に際し、セットに和紙を多用して響きを吸収した解決策を評価している。僕は成程、あの和紙には実用性もあったのか!と、今頃になって気付く迂闊さである。恐らく指揮者の音響に関する要請に対し、演出家は高い位置に演台を置く事で解決しようとしたと思うが、歌はオケに掻き消され聴こえない場合も多く、この点にやや問題は残されている。

 オペラはバッハ風の序奏で始まった後、音楽は次第に無調へ収斂されて行く。歌を専ら支えるのは弦と管で、パーカッションとシンセサイザーは、偶に相の手を入れる役回りを担う。ピアノはバスに回ったり、打楽器的に使われたり、舞がポポイへ聴かせる歌に伴奏を付けたりする。僕がオペラ「ポポイ」にエスプリを感じるのは、無調を基本とする音楽に時折、耳に優しい旋律を挟み込み、聴き手に息抜きを与える事でメリハリを付けた点にあると気付く。

 僕は前回の上演でタイトル・ロールの歌う分量を少ないと感じたが、実は二幕に結構長目のアリアと云うか朗唱と云うかがあって、自分の記憶の好い加減さも思い知らされる。ただ、このオペラを根本的に支えているのが、舞を歌うソプラノである事は疑いようも無い。舞は文字通り歌いっ放しの役処で、今日の上演も吉川真澄の美しいリリコの魅力で持っていると、改めて確認する。

 ただ、言葉の問題で、吉川の低音域は聞き取れるのだが、高音を張り上げると分からなくなる。これで前回演出の厚紙効果は、キチンと機能していたと分かる。また、ポポイと入江晃には見せ場も用意されているが、後の三名はホンの彩り程度の扱いである。その中で波多野睦美はデュナーミクの工夫、大槻孝志は子音の強調で、それぞれ客席まで言葉を伝えようとする努力の跡を窺えた。

 実は今回の演奏から受けた「ポポイ」の音楽の印象と、僕の曖昧なな記憶の中のイメージの間には、かなりの乖離があった。寺嶋の指揮は如何にも作曲家らしい、音のドラマは音そのものに語らせると云う態のもので、何か余計な工夫を加えようとする気配は無い。恐らく僕の受けた印象の齟齬は、演出の違いに求めるしか無いのだろう。

 まず持って、正面のパイプ・オルガンの前にブラ下がる、花に蝶のデザインの吊り物が、丸っ切り女陰そのもので、そこに演出のコンセプトは明示されている。宮城聰は「ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』に対して、ドビュッシーが『ペレアスとメリザンド』を書いたように、『サロメ』に対して間宮が『ポポイ』を書いた」と述べて、どうやらオペラ「ポポイ」を、モロに抑圧された性愛の物語と解釈しているようだ。

 舞と聡子は如何にもサロメっぽく、首のポポイに纏わり付く。舞は一幕大詰めの長い後奏の音楽で、束ねた長い髪を解き、靴を脱ぎ裸足となって、首のポポイにブチュッとキスする。そもそも歌手は全員、リアルから程遠い奇抜なデザインの衣装で、何かと云うと助演の俳優のサーブする酒を呑み、怪し気な秘密パーティーの様相を呈している。極め付けは急激に老化の進んだ首のポポイに、ハロウィンの南瓜のような赤い隈取のメイクを施した事で、これには時節柄からして、神戸児童連続殺傷事件の被害者の首に加えられた、残虐な損傷を連想せざるを得ない。

 これはネッチョリしたキワモノ演出で、田中泯の軽やかに抽象的な演出の対極にあると云える。ネッチョリした演出の舞台を観ているると、何だか間宮の音楽までネッチョリと聴こえて来て、自分の音楽受容能力のテキトーさを痛感させられる。六年前は爽やかに感じられた、舞が幕切れにアカペラで唱うポポイへの告別の歌も、今回は性的な執着に捉われた隠微な歌に聴こえて終う。無調音楽に陰鬱な演出を施すと、その暗さを二乗するのだろうか。

 前回、楽しく聴いたオペラ「ポポイ」を、また楽しく聴けると期待して静岡まで来たのに、何だか当てが外れて終った。演出の宮城聰は、「ポポイ」に付けた間宮芳生の音楽を、「詞の求める高低アクセントと、そこに付けられたメロディの関係が絶妙」で、「これ以上アクセントとメロディが逆行すると不自然になるという線を超えないギリギリの処で、かっこよく逸脱が行なわれます」としていて、この指摘は恐らく正鵠を射ている。多分、僕が前回の上演に感じたエスプリも、その辺りに理由があるのだろう。

 だから物は考えようで、舞台からの視覚的な情報に、耳から入る音楽の印象も左右されると分かれば、今後の新作初演の聴き方の参考に出来る。今回の上演譜は初演のままで、改訂等は一切施していないらしい。ここは潔く自分の未熟を認め、物事をポジティヴに捉えて、オペラ上演に於ける演出と音楽の関係に付いて、理解を深める契機としたいものだ。人間棺桶に入る寸前まで、日々精進なのである。

松村禎三「沈黙」

$
0
0
2015年6月29日(月)14:00/新国立劇場

指揮/下野竜也
東京フィルハーモニー交響楽団
新国立劇場合唱団
世田谷ジュニア合唱団

演出/宮田慶子
美術/池田ともゆき
照明/川口雅弘
衣裳/半田悦子

ロドリゴ司祭/小餅谷哲男
フェレイラ教父/黒田博
キチジロー/星野淳
モキチ/吉田浩之
オハル/高橋薫子
通辞/吉川健一
井上筑後守/島村武男
ヴァリニャーノ院長/成田博之
おまつ/与田朝子
少年/山下牧子
じさま/大久保眞
老人/大久保光哉
チョウキチ/加茂下稔
役人/峰茂樹


 僕が初めて「沈黙」を観たのは十二年前、今日と同じくロドリゴを小餅谷哲男の歌う、大阪音大制作のザ・カレッジ・オペラハウス公演だった。演奏の出来自体は良く覚えていないが、音楽そのものの力は充分に伝わり、その上演からは大きな感銘を受けた。あの小さな会場の小さなオケピットに詰め込まれた、スコア通りの楽器編成のオケ(弦は多少減らしたようだが)の、大音量の迫力に圧倒された。三年前、中ホールで行なわれた新国立劇場のプレミエ上演では、オルガンやパーカッションはピットに入り切らず、リハーサル室での演奏を同時中継したらしい。今にして思えば大阪音大の上演は、天晴れなものだった。

 オペラは隠れキリシタンを焚刑にする、強烈な音楽で始まる。この冒頭のオーケストレーションを聴けば、松村禎三が委嘱先との五年以内と云う契約を守れず、完成までに十三年を費やした、その緻密な彫琢の跡を窺える。第一場のドッペル・コールでは平明な賛美歌風の旋律と、無調の激しい音楽を対置して、曲全体のコンセプトも明示される。第二場から五場までは、無調のレシタティーヴォを主としながら、オハルとモキチの愛のデュエットやロドリゴの「山上のアリア」等、調性のある歌を挟み、嵐の前の静けさのような音楽が続く。

 松村禎三はロドリーゴの内面の葛藤に終始する、「沈黙」の本筋のお話しの間へ原作には無い、オハルとモキチの恋人達の挿話や、コメディ・リリーフとしてのキチジロー等で彩りを添え、オペラの展開に演劇的な工夫を凝らしている。キチジローの星野淳は役処を良く把握し、軽妙な演技を観せてくれる。また、レジェーロ同士でカップルを組む、高橋薫子と吉田浩之のベテラン・コンビは共に、その柔らかく美しい声を効果的に聴かせる。第十場でオハルの幻影として現れたモキチの、暗く激しい音楽の中に一筋の光の射すようなアリアで、吉田の柔らかい歌声に胸を衝かれた。ただ、高橋の歌う二つのアリアは、その内容の重さに合わせ、故意に重い声を作っているようで、彼女らしい魅力に乏しかったように思う。

 二幕後半のロドリゴとフェレイラの対話に至り、音楽は只ひたすら重苦しくなって行く。フェレイラの黒田博は持ち前の重い美声で、深刻な内容に説得力を与える。異教徒の走狗として生き長らえるフェレイラの、それでも信仰を捨て切れない苦悩を、黒田はデュナーミクの工夫に合わせた、音色の変化で表現している。だが、黒田の歌を聴いている内、主役を努める小餅谷哲男の歌い振りに疑念が湧いて来る。小餅谷は凡そ節操無く何でも歌う人で、僕はこれまでに彼の歌を度々聴いて来た。ロドリゴに付いて小餅谷哲男は、「この役は特別で、何回やっても眠れない日が続く」と語っていて、一応のめり込んではいるようだが、それを音楽的に表現出来ているとは言い難い。

 成程、小餅谷の歌から役への思い入れは伝わるが、それを具体的に表現する技術は無いので、結局は単調な歌い振りに陥って終う。この人は声を響かせるポイントが常に一定で、高低の音域で全く音色の変化が無く、ただ単に旋律の上下する歌にしか聴こえない。幾ら眠れない程に入れ込んでも、重い声ばかりで軽い音も使えなければ、表現の深まる筈など無いのである。だが、彼の単調な歌い口であっても、松村禎三の書いた音楽の力に拠り、ロドリゴの苦悩はそれなりに伝わる。「沈黙」関西初演の際から、小餅谷のロドリゴへの世評は高いようだが、そこに異論もある事は明記して置く。

 演出は至極明快なもので、取り分け照明を効果的に使えて、歌手の動かし方や合唱団のモブ処理等にも、手慣れたテクニックがある。ただ、明快で分かり易いのは、同時に皮相に過ぎるとも云える。演出の宮田慶子は今回のセットを「難破船であり、大地に突き刺さる十字架であり」、「荒れ狂う海に出て、十字架をマストのように出してはみたけど、傷付きボロボロになって、なおも公開を続けているイメージ」と、これまた明快に分かり易く説明している。観客に対し大変親切なビジュアルであるが、何分にもオペラの内容が重過ぎ、音のドラマに対応する舞台を作るので精一杯と云う印象だ。

 更にクライマックス・シーンとなる、ロドリーゴが踏み絵に足を掛ける場面の演出にも、今ひとつ納得し難い部分がある。何だか熱過ぎる風呂に入ろうとして、屁っ放り腰で足先だけ、そうっと浸けているみたいな格好なのだ。棄教に踏み切る瞬間をアッサリ流し、その後に踏み絵を抱き締めるシーンを念入りに行うのは、最も重要な場面からの逃げでしか無いと思う。

 東フィルは充実した演奏で、オペラのドラマを支えたと思う。指揮の下野は「沈黙」の音楽に入り込まず、音響として捉えるザッハリヒな解釈を取る。松村禎三のテンションの高い音楽に入れ込むと、一つ間違えばベタ押しの重苦しい演奏になって終う。外面的なアプローチを取る事に拠り、全体の流れを見通し、場面毎の情感の移ろいを描き分ける事で、宣教師や村人達の信仰への懐疑や逡巡を表現出来たのだと思う。

 余計な事かも知れないが、僕は先日野田版フィガロを観たばかりで、ポルトガル人の筈のロドリゴやフェレイラが、何の衒いも無く日本語で朗々とアリアを歌うのに、微かな違和感を覚えた。ロドリゴと幕府の役人やキリシタンの村人達との対話も、日本語でスムースに行われる。間宮芳生「ポポイ」を演出した宮城聰は、「日本語のオペラには往々にして、一種の気恥ずかしさが伴った」と述べ、その理由を「日本語の高低アクセントとメロディの兼ね合いが、今ひとつだった点に」求めている。彼に言わせると「日本語の求める高低アクセントを忠実に守っていては、かっこいい感じは出て来」ず、「でもハズレ過ぎると(中略)聴く者は気恥ずかしさを感じてしまう」のである。

 この説明は「沈黙」のレシタティーヴォに、多くの部分で当て嵌まるように思う。「沈黙」を日本語の抑揚を音楽に載せると云う側面から見ると、実は清水脩の労作「修禅寺物語」から、然程に進歩はしていない。しかし、「沈黙」の音楽そのものは力強い。松村は調性のある甘いアリアに、無調の暗く激しい間奏と、シュプレッヒシュティンメのレシタティーヴォとを組み合わせて、完成度の高いオペラに仕上げている。やはり、「沈黙」は日本オペラの傑作の一つで、今後も繰り返し上演される問題作であり続けるのだろう。「沈黙」に瑕瑾のある事は、今後も再演を妨げる理由にはならないと思う。

ヴェルディ「椿姫」

$
0
0
<佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ/開館十周年記念公演プレミエ>
2015年7月14日(火)14:00/兵庫県立芸術文化センター

指揮/佐渡裕
兵庫芸術文化センター管弦楽団
ひょうごプロデュースオペラ合唱団

演出・振付/ロッコ・モルテッリーティ
美術/イタロ・グラッシ
照明/ルチアーノ・ノヴェッリ
衣裳/カルメラ・ラチェレンツァ
映像/マウロ・マッテウッチ

<Aキャスト>
ヴィオレッタ/森麻季
アルフレード/ルチアーノ・ガンチ
ジェルモン/マーク・S・ドス
フローラ/谷口睦美
ガストン子爵/小貫岩夫
ドゥフォール男爵/斉木健詞
ドビニー侯爵/大山大輔
医師グランヴィル/ジョン・ハオ
女中アンニーナ/渡辺敦子
召使ジュゼッペ/小林峻
使者/西田昭広
給仕/時宗務


 阪神・淡路大震災から十年目に復興のシンボルとして建設された、兵庫県立芸術文化センターが震災から二十年の節目と共に、目出度く開館十周年を迎える。その記念の年の演目として、佐渡裕芸術監督は「椿姫」を取り上げる。若い頃に下振りで何度も振った、五周年記念の「カルメン」は初めての本公演だったが、「椿姫」は十二年前にエクサンプロヴァンス音楽祭で指揮している、佐渡の数少ないオペラ・レパートリーの一つである。

 オケピットに姿を見せた佐渡への拍手も止み、幕が上っても演奏は始まらない。舞台上ではベッドに横たわるヴィオレッタが、アンニーナを呼び三幕冒頭の台詞を喋る。これで「ああ、今日の舞台は死の床のヴィオレッタの回想ね」と、一発で分かる仕掛けだ。この何処かで観たような既視感のある設定は、演出家の発想の陳腐を物語るようで、僕は嫌な予感を覚える。スポット・ライトの当たる中、両手を広げて進むヴィオレッタが舞台奥へハケる、クサい芝居をしている内に前奏曲が始まる。

 だが、前奏曲の始まりホッとしたのも束の間、そのテンポ設定の遅さに困惑する。テンポの速い遅いは指揮者の勝手だが、それならば全音符は四拍分を最後まで伸ばし、キチンとフレーズの切り上げを揃えろと言いたい。打点の曖昧な佐渡の棒では、縦の線を揃え難く、フレージングは往々にして乱れ勝ちとなる。前奏曲の演奏では遅過ぎるテンポも相俟って、その弱点をモロに露呈した格好だ。でも、後半の第二主題でテンポが切り替わり、低弦のブンチャッチャのリズムが入ると、途端にフレージングは安定する。佐渡のトレーナーとしての能力に、大きな疑問符の付く所以である。

 ヴィオレッタ邸の夜会の場面に移っても、指揮者の小細工の多い解釈は続く。二人が再会を約す、「ワルツと二重唱」の最後のリタルダンドや、「ああ、そは彼の人か」の超絶的に遅いテンポ等、全て指揮者の指示なのだろうか。森麻季は深い息の出来る、ロング・トーンの得意なソプラノで、遅いテンポも余裕で歌い切れる。そもそもオペラ歌手と云う人種は、自分の声を聴かせるのが生き甲斐で、遅目のテンポを喜ぶ傾向はある。森が佐渡に遅いテンポを指示され、喜々として従う光景を妄想する。

 「花から花へ」での森麻季は、あくまで装飾的に軽やかな美しいレジェーロで、さすがに見事なアジリタを聴かせる。ただ、声そのものを聴かせようとするのと、カヴァティーナでは恐らく音色の変らない弱点をカヴァーしようとしているのだろう、ポルタメントの使い過ぎで、音楽の様式感を壊しているのを残念に感じる。でも、声の音色を変化させる技術は今ひとつでも、二幕ではデュナーミクの工夫で、ヴィオレッタの哀切な心情を表現する。一幕では安易に感じられたポルタメントの多用も、それなりに効果的に使えたように思う。

 対するアルフレードのルチアーノ・ガンチは、如何にもイタリアっぽく明るい声だが、決して歌い崩したりはせず、常に歯切れ良く正確なリズムを保持して、清潔なフレージングを作るのが素晴らしい。充実した中音域と力強く輝かしいアクートの持ち主で、内容豊富なアルフレードを歌ってくれる。これは良いテノールを連れて来てくれたと、佐渡のキャスティングに感謝である。

 ジェルモンのドスが開口一番に発した、割れ鐘みたいな声には一瞬ビックリさせられたが、これはヴィオレッタを脅す世知辛さを表現する声で、アルフレードへの「プロヴァンスの海と陸」ではヴィブラートも抑え目で、息子への愛情を感じさせる声を作り、なかなか戦略的に練られた発声と感じる。ジェルモン向きの美声とは、お世辞にも言い難いバリトンだが、彼なりに役柄を領略した歌い振りと思う。ただ、ここでも佐渡はリピートの際に、音量をピアノピアニシモの極小まで落とす小細工を弄する。

 三幕でも前奏曲からテンポは遅く、ヴィオレッタのアリア「過ぎ去りし日々」も相変わらず遅い。最後のピアニシモのロング・トーンを伸ばし切る、その寸前での森麻季の泣き崩れる演技は、声の途切れるのを誤魔化したようにも見えた。一幕でも感じたのだが、今日のアルフレードとヴィオレッタのコンビには声量の差が顕著で、森のフレーズを伸ばしても音色の変わらないフラットな発声では、ガンチの力強く輝かしい声と対等なデュエットになり難いと感じた。デュエットで相手の声に合わせるとなれば、ポルタメントなど出来る筈も無く、ガンチの歌う主旋律に対し、森がオブリガードを付けているようにしか聴こえないのである。

 このデュエットでも佐渡の伴奏は極小ピアニシモだが、でも弦楽の音量は落とせても、これに金管は付いて行けず、何だかビックリしたみたいな音を出す。指揮者の意図は意図として、もう少し実態に見合うバランスも考えて欲しい。

 今回の演出では大掛かりなセットは作っておらず、専らLEDパネルの映像で舞台転換を行っている。この映像が前奏曲でパリの街の風景を、夜会の場面では輪舞する紳士淑女を大映しにする等、客観的な状況説明をしている分には、安心して見ていられる。だが、ヴィオレッタのアリアの冒頭部分で、別撮りした森麻季の映像を大写しにし、主人公の心理解説っぽい事を始めると、再び不安が頭を擡げて来る。

 その不安は二幕のジェルモン登場の場面で決定的となる。アルフレードを乗せたと思しき馬車の走り去る映像の後、ジュゼッペがヴィオレッタに来客を告げる際の映像で、待たされるジェルモンのシルクハットを被った後ろ姿と、苛立たしそうに指で手摺りを叩く掌のアップになる。この顔を写さない手のクローズアップ映像は、ヴィオレッタがアルフレードへの置手紙を書く際の乱れる心の内を、指先の震えで表現する際にも使われる。但し、映像の森は卓へ向かいペンを握っているのに、舞台上の森はそれらしい演技を何もしないチグハグな映像だった。何れにせよ登場人物の心理を説明する、映画的なモンタージュ手法だが、これをオペラ上演に援用すると非常に煩わしく感じられるのである。

 当たり前過ぎて説明するのも面倒だが、オペラ上演ではオペラ歌手が、“うた”と演技で心の襞を表現するのが基本である。この大原則を森やマーク・S・ドスが粛々と実行している後ろで、ヴィオレッタやジェルモンの心理状態を映像で説明するのは、単なる屋上屋でしかない。今回の演出家はイタリア人で、映画監督を本業とする人のようだが、オペラ演出を基本的な処で勘違いしているように思う。

 三幕の舞台では映像は使われず、薄暗い中でベッドと化粧鏡にスポット・ライトを当て、観客を歌手達の演技に集中させる至極真っ当な工夫があった。つらつら考えるに、派手に賑やかに演出せねばならない一・二幕とは異なり、三幕は只ひたすら地味に暗い場面である。映像の多用は華美なセットを作る予算の無い中で、空間を埋める為の苦肉の策だったように思う。それが証拠に二幕二場にも派手なバレエ・シーンは無く、五人のダンサーが地味に踊って見せただけだった。

 佐渡芸術監督は今回の演出に付いて、「映像を使った上演イメージをプレゼンテーションして貰った」。「映像を使う事で時代背景、設定が明確になる」。「これが上手く行けば情景描写にしろ心理描写にしろ、今までに無い物凄く面白い事が出来る」と述べている。でも、僕はその結果を全く評価しないし、これはそもそもの思い付きから大きな勘違いがあって、最初からボタンを掛け違っていたと考える次第である。

ヴェルディ「椿姫」

$
0
0
<佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ/開館十周年記念公演>
2015年7月18日(土)14:00/兵庫県立芸術文化センター

指揮/佐渡裕
兵庫芸術文化センター管弦楽団
ひょうごプロデュースオペラ合唱団

演出・振付/ロッコ・モルテッリーティ
美術/イタロ・グラッシ
照明/ルチアーノ・ノヴェッリ
衣裳/カルメラ・ラチェレンツァ
映像/マウロ・マッテウッチ

<Bキャスト>
ヴィオレッタ/テオナ・ドヴァリ
アルフレード/チャド・シェルトン
ジェルモン/高田智宏
フローラ/ルネ・テータム
ガストン子爵/渡辺大
ドゥフォール男爵/久保和範
ドビニー侯爵/町英和
医師グランヴィル/森雅史
女中アンニーナ/岩森美里
召使ジュゼッペ/清水徹太郎
使者/時宗務
給仕/西田昭広


 本日のタイトル・ロール、テオナ・ドヴァリはメゾっぽい太目の声だが、高音域は切り裂くように細くなり、「花から花へ」のハイEsも余裕綽々で出してくれて、やっぱヴィオレッタはこうでなくっちゃと思う。今日の佐渡の一幕のテンポ設定は先日と違い、アリアもデュエットも至極マトモで、やはり初日の遅過ぎるテンポは、森麻季の主張する処であったかと思い直す。演出に付いては、もう出来るだけスクリーンを見ないようにしたので、今日は然程に気にはならなかった。

 アルフレードのチャド・シェルトンは、まず一幕のカマトトぶったクサい芝居に興醒めで、レシタティーヴォも弄り過ぎる。声の力不足は否めないにせよ、もっと素直に朗々と歌って欲しい。また、二幕の「燃える心を」でも、スピントする位置が常に一定で音色が変わらず、伸ばす声も真っ直ぐそのままで、フレーズに膨らみを欠くので、ヴェルディらしい情感の揺れが伝わらない。このテノールは昨年も、ここで「コジ・ファン・トゥッテ」のフェルランドを歌っていて、その際はモーツァルトよりヴェルディ向きの声では?と感じたが、今日は実際にアルフレードを聴き、こりゃどっちにも向いてないな、と云う感想しか出て来なかった。二場のフローラの夜会の場面で、一本気に激情を叩き付ける歌は、まあまあハマったように思う。

 ジェルモンの高田智宏は声を高目に響かせるバリトンで、清潔なリズム感に折り目正しい青年紳士の趣がある。高音部でピアニシモを伸ばせる上に、中音域も充実していて、技術的な穴の見当たらない美声のジェルモンである。ただ、ヴェルディ歌いとしてはソツなく綺麗に過ぎて、「プロヴァンスの海と陸」も聴いていて今ひとつ面白くない。難しいものだが、この人は一昨年の「セビリャの理髪師」で歌った、フィガロの方が任に合っていると云う事だろう。

 初日の演奏でも感じたが、関西在住のオペラ歌手に拠り編成された、「椿姫」上演用の即席合唱団の威力は絶大だった。ただ単に、「乾杯の歌」を声の輝きで聴かせるだけで無く、二幕二場のファランドールで、一斉にスフォルツァンドする際に縦をピタリと揃える辺り、とても聴き応えがあった。これまでの可もなく不可も無いイメージと違い過ぎ、何か怪訝に思われる程に上手なのだ。

 そこで下振り指揮者の名前を確認すると、イタリアから招聘したシルヴィア・ロッシと、プログラムに記載されていた。びわ湖ホール芸術監督に在任当時の若杉弘さんは、三澤洋史を新国立劇場に引き抜かれた穴埋めに、年に一度のヴェルディ連続上演に際し、ロッシ女史を呼び寄せている。その実力は若杉さん折り紙付きの、疑いようも無い俊才なのである。何時ものお仲間を使わず、わざわざ海外から呼ぶのだから、これは佐渡も本気なのかと思う。佐渡は二幕の終盤で思い切りオケを鳴らし、コーラスの威力も相俟って、大迫力の幕切れを作ってくれた。

 佐渡は三幕でもキチンと強弱のメリハリを付け、若いオケも頑張って指揮に尾いて行っている。オケが前回より上手になった理由は、佐渡の解釈がマトモになったからか、或いは例年の如く兵庫芸文オケが本番を重ね、アンサンブルの精度を向上させたのかは知らない。アルフレードとジェルモンも頑張り、二人して三幕を盛り上げてくれる。ただ、肝心のヴィオレッタは声の音色が変わらず、情感表現も今ひとつなのは残念だった。

 佐渡の指揮でオケも良く鳴っていたが、ではそれがヴェルディ本来のリズムになっていたかと云えば、僕にはそうは思えなかった。指揮者のノリ自体は悪くなかったが、それは上滑りするのみで、畳み掛けるようなリズムが作る、ヴェルディらしい高揚感は伝わって来ない。これまでに佐渡裕がヴェルディを、「椿姫」とレクイエムしか取り上げて来なかったのには、やはりそれだけの理由があったのである。

 来年の演目はブリテン「真夏の夜の夢」と、早々に発表された。ブリテンなら佐渡の音楽性にフィットする筈で、これは七年前の「メリー・ウィドウ」以来の、大当たりの上演となる可能性を秘めている。佐渡のモーツァルトヴェルディに当たりの出ない事は、既に周知の事実だろう。来年の兵庫プロデュースオペラを、括目して待ちたいと思う。

モーツァルト「魔笛」K.620

$
0
0
<オーストリア・リンツ州立劇場共同制作>
2015年7月29日(水)18:30/倉吉未来中心

指揮/デニス・ラッセル・デイヴィス
日本センチュリー交響楽団
二期会合唱団

演出/宮本亜門
美術/ボリス・クドルチカ
照明/マルク・ハインツ
衣裳/太田雅公
映像/バルテック・マシス

タミーノ/鈴木准
パミーナ/嘉目真木子
夜の女王/森谷真理
ザラストロ/妻屋秀和
パパゲーノ/黒田博
パパゲーナ/九嶋香奈枝
モノスタトス/青柳素晴
弁者/加賀清孝
武士/成田勝美/加藤宏隆
僧侶/高橋祐樹/栗原剛
侍女/日比野幸/磯地美樹/石井藍
童子/小野爽介/福田建/高井麻飛


 近年、東京二期会は文化庁の助成金を受けて地方公演を行ない、首都圏に留まらない全国的な展開を図っている。今年は宮本亜門演出「魔笛」の鳥取公演と云う事で、これは良い機会と倉吉まで赴くが、平日ソワレ公演で日帰りは適わず、青春十八切符で往復する一泊二日の小旅行と相成った。JR倉吉駅から路線バスで十分程の会場は、「倉吉未来中心」と気宇壮大なネーミングで、三階層で千五百席のホールは人口五万の地方都市に不釣り合いな、ピカピカの立派なハコモノである。白壁土蔵を観光資源とする旧市街地にあるが、名所見物等する時間的余裕も無く、終演後はそのまま駅前旅館に戻る事とした。

 でも、宿で晩酌はせねばならず、お酒の調達にホールの近所にある山枡酒店を訪れる。何せ自称「純米酒のがんこ酒屋」なので、一応は低姿勢で臨んだ積もりだが、いやはや聞きしに勝るヘンコ振りを発揮されるご主人でありました。まあ、遣り取りの詳細は省くが、基本的に親切で正直な人だし、真っ当な見解を披瀝する勉強家で、教えられる処の多い方と感じた。

 ただ、純米燗酒派の酒屋さんに多い、他人には窺い知れないコンプレックスを抱える方のようで、素人の余計な一言を受け流せない様子だった。失礼ながら、こんな片田舎で燗酒オンリーの酒屋を営む苦労もあろうし、仕方の無い部分もあるだろうとは思う。結局、紆余屈折の末のお買い上げは、「福羅23BY生もと仕込14度6号酵母」一升瓶で、これを宿では冷や、帰宅後は燗にして美味しく頂きました。



 二期会のオペラ公演で「魔笛」、しかも有名人の宮本亜門演出ではあったが、近県のオペラとミュージカルのファンや、単なるミーちゃんハーちゃんが大挙押寄せるとまでは行かず、広い会場は六分程度の入り。序曲の始まった舞台上では、何やらホームドラマ風の小芝居が行なわれる。スーツ姿の男性は鈴木准のタミーノで、三人の男の子は童子と直ぐに見当は付くが、後の二人の出演者が誰なのかは良く分からなかった。何か揉め事があって、最後にタミーノはお茶の間の液晶テレビに飛び込み、画面の砕けて飛び散るプロジェクションマッピングが投写される。

 僕は良く知らなかったが、プロジェクションマッピングとは要するに昔のスライド映写で、現在ではデジタルの立体的な3D映像を、舞台に投射出来るようになっている。宮本亜門はこのプロジェクションマッピングを駆使し、多彩な映像で「魔笛」のファンタジックなお話を絵にして見せる。ただ、登場人物がスクリーンに飛び込み、現実と映像の世界を行き来するアイデアは、キース・ウォーナー演出の“トーキョー・リング”にもあった使い古されたテで、僕は「ああ、またか」と思うのである。でも、タミーノが大蛇に襲われる冒頭部分は、CG映像の使用法が見事にハマり、これは楽しい舞台になりそうと期待を高めてくれる。

 亜門演出では映像の多用と共に、タミーノを自発的に動こうとしない指示待ち人間、パパゲーノをナンパに精出すチャラ男に設定する。この男声陣のダメっぷりに対し、パミーナとパパゲーナの女声陣は大変アグレッシヴで、ダメンズの二人を叱咤激励し、ザラストロや夜の女王の一味に立ち向かうのである。タミーノやパパゲーノは一般的な現代風の衣装だが、ザラストロ一派は脳ミソ剥き出しで、これはティム・バートン監督「マーズ・アタック!」の火星人だし、夜の女王とダーメの一党も異形のグラマーで、こちらはフェデリコ・フェリーニ監督定番の豊満熟女を連想させる。如何にも賢そうな着ぐるみの猿も六匹ほど出て来て、これはスタンリー・キューブリック監督「2001年宇宙の旅」からの引用だそうである。

 幕切れ前、タミーノはモニター画面を出て元のお茶の間に戻り、パミーナの奥さんとクナーベの子供達と仲直りし、目出度し目出度しの大団円を迎える。家出したお父さんが元の鞘に収まる、一応は首尾一貫したお話に仕立てているし、本編はテレビ・ゲームの中と云う設定であれば、荒唐無稽な「魔笛」のお話に格好は付く。だが、その代わりに思い付きを羅列し、視覚化しただけのような印象も受ける。

 映画から引用された火星人や豊満熟女や類人猿は、如何にも意味有り気に何事かを寓意しているようで、実は単なるハッタリでしかない。CG映像の多用で賑やかに楽しい舞台を展開し、見た目のインパクトは充分にあるが、そこに実は大した中身は無いのである。本場オーストリアでオペラ演出を任されたと云う事で、かなり肩に力も入っていたし、恐らく自分の引き出しは全て晒して見せたのだろう。だが、諸々のアイデアを統合し俯瞰する、一段高い視点は見えて来なかった。

 如何にもミュージカルの手練れらしい、一夕を家族でユックリ楽しめる演出で、その限りに於いては良く出来たエンターテインメントと思う。一幕でダーメがタミーノに魔法の笛を渡す場面で、パパゲーノも交えた五重唱で軽くステップを踏む、さり気無く楽しい演出があり、モノスタトスが靴下を脱ぎ、鼻先へ持って来て嗅いでからオケピットに投げ捨てる、ベタな演出もある。その他にもパミーナにキスして貰えずに拗ねるクナーベや、次々に出て来る「黙れ」の垂れ幕等、ツボを抑えたギャグで観客の興味を逸らさないのである。

 斯様にド派手な演出に目を奪われる上演だが、むしろ歌手陣の充実にこそ目を見張るものがあった。タミーノの鈴木准には以前と比べ声量と力強さが加わって、広いダイナミク・レンジを獲得し、レジェーロな美しさも際立つように聴こえる。凛々しい王子様の風格を感じさせ、ちょっとだけフリッツ・ヴンダーリヒを思わせる。大ベテランの黒田博にパパゲーノとは今更の感のある配役で、やはり立派過ぎる声だったが、それはそれで役にハマるのは、この方の音楽性の幅広さの為せる処だろう。抜群の演技力も相俟って、こちらはヘルマン・プライを彷彿とさせる、なんて言うと何れにせよ褒め過ぎだろうけれども。

 昨年、びわ湖ホールの「リゴレット」で衝撃的な国内デビューを飾った、夜の女王の森谷真理は、芯の太い声で遅いテンポを歌い切る。華やかなテクニックをこれ見よがしにひけらかさず、堅実に歌う姿勢に好感を持つ。声に力のある上にアジリタの技術もあり、外国人歌手への例えを続ければ、この方はエディタ・グルベローヴァに擬せられる。パミーナの嘉目真木子はスピントする強目のリリコで、この役柄にはもっとレジェーロな声質が良い気もするが、これはこれで夜の女王との対比は付いていた。

 ザラストロの妻屋さんは高目に響かせる、モーツァルト向けの声を作っている印象で、実力通りの安定感を示す。序でに言って置くと、モノスタトスもパパゲーナもスピントする声でやや違和感を感じるが、これも例のパパパのアリアで、黒田と九嶋香奈枝が声を張り上げ合うと、指揮者のテンペラメントとの相乗効果で盛り上がり、悪くないと感じる。

 その指揮者のデニス・ラッセル・デイヴィスは序曲から遅目のテンポ設定で、レガートに歌わせるよりリズムを立て、「魔笛」の劇的な側面を強調しようとする。二期会の精鋭を揃え、声に力のある歌手陣に存分に唱わせて、指揮とオケと歌は上手く噛み合っていると感じさせる。今日は東京で四回公演を済ませた読響では無く、初顔合わせのセンチュリー響をドライヴした訳で、さすがに劇場経験の長いベテランである。センチュリー響の方も指揮にセンシティヴに反応し、こちらもさすがの実力を示していた。

 演奏は充分に満足すべき出来で、これならば遥々と倉吉まで来た甲斐があったというものだ。演出も結構楽しめたが、プロジェクションマッピングと云う手法自体には、聊かの疑念を抱いた。これも実験的な試みとして、取り敢えず一度やって見たと云う事であれば良いが、この手法が経費節減で多用されるとなれば話は違って来る。お芝居とは非日常的な空間を映像では無く、生身の人間の身体性で舞台上に実現するものだろう。

 先日の兵庫芸文での「椿姫」も、舞台上のLEDパネルに投射する映像を主とする安易な舞台作りで、何れにせよ将来性を期待出来るシロモノでは無い。プロジェクションマッピングとやらに拠る演出が蔓延れば、演劇としてのオペラ上演は衰退するのみと、全ての舞台人は肝に銘じるべきと思う。

沼尻竜典「竹取物語」

$
0
0
<沼尻竜典オペラセレクション>
2015年8月9日(日)14:00/びわ湖中ホール

指揮/沼尻竜典
日本センチュリー交響楽団
びわ湖ホール声楽アンサンブル

演出/栗山昌良
美術/鈴木俊朗
照明/原中治美
衣装/岸井克己
振付/小井戸秀宅

かぐや姫/幸田浩子
翁/清水良一
媼/永井和子
帝/与那城敬
石作皇子&大将/小堀勇介
庫持皇子/大山大輔
阿倍御主人/宮本益光
大伴御行/晴雅彦
石上麻呂足/近藤圭
月の使者/中島郁子
石上麻呂足の使者/山元櫻夏(大津児童合唱団)
職人/西垣俊朗/二塚直紀/松原友/相沢創/迎肇聡/服部英生


 「竹取物語」は指揮者の沼尻竜典が横浜市からの委嘱を受け、自ら執筆した台本に作曲した、彼のオペラ処女作である。昨年一月に演奏会形式で初演された後、今年二月にはベトナム・ハノイ市で、本名徹次指揮の日越合同キャストに拠り舞台上演されている。沼尻の弁に拠ると、昭和の歌謡曲への郷愁を音にしたオペラで、決して“現代音楽”では有りませんのでご安心下さい、との事である。

 とは云うものの、オケピットに現れた沼尻がタクトを降ろし、始まった序曲からは雅楽っぽい旋律が聴こえて来る。やはり「竹取物語」は紫式部云う処の、「物語の出でき初めの祖」で、雅びな平安王朝小説を基とするオペラである。その導入部に日本古来の響きを織り込み、これから始まる中世絵巻への、期待を高める効果を狙ったのだろう。

 紗幕の下ろされた真っ暗な舞台上には、白い満月と赤い竹林が朧ろに光り、その傍らで歌う翁にはスポット・ライトが当てられる。清水良一の翁は「おじいさんのアリア」で、ひとくさり竹材に関する蘊蓄を傾け、その有用性に付いて力説する。これにはなかなか興味深い内容があり、ふむふむと頷きながら聞き入って終う。自らの生業に付いて語る、お爺さんの蘊蓄話でオペラを始め、観客の意表を突いて竹取の物語に引き込む、見事に仕組まれた導入部と思う。しかも真っ暗な中、アリアを唱う翁にスポットを当て、歌の内容へ集中度を高める演出の工夫も心憎い。翁と媼を唱う二人の歌手に、年寄っぽいヴィブラートのあるのも良い。

 誕生から三ヶ月目にして成人した、かぐや姫の登場となる第二景で、舞台上は華やかに一変する。中央に四角く区切られた能舞台風に、歌手は摺り足で入場し退場する。舞台奥には琳派風の蒔絵を施された演台が設えられ、そこに居並ぶびわ湖ホール声楽アンサンブル三十名は見台を前に、地謡を気取って楽譜を捲るのである。物語の象徴である竹林は、床から生えているのは斜めに切られて門松風、天井からぶら下っているのは銀色にピカピカ光り、パイプ・オルガンのように見える。平安絵巻風の衣装なのに黒子も出て来て、時代考証は滅茶苦茶だが、そんな固い事を云うオペラではないのだ。かぐや姫に無理難題を押し付けられ旅立つ、求婚者五人組が出立の決意を述べるクィンテットは、アホ臭くて楽しかった。

 更に三年の月日の流れた第三景で、五人の公達はそれぞれの課題を持ち帰る。トップ・バッターで天竺から仏石鉢を持ち帰る、石作皇子の小堀勇介はレジェーロなハイ・テノールで、将来が楽しみな若手である。続いて蓬莱の玉枝を受注した庫持皇子の大山大輔が、ミュージカル風アリアを歌い上げる際、オケピットから聞き慣れない楽器の音が聴こえて来る。一体何だろうと覗き込むと、チェレスタ奏者が大真面目にピアニカを吹いていたのには笑って終った。沼尻が指揮台脇に置いた小太鼓を叩き、合いの手を入れるのも気の利いた工夫だ。

 庫持皇子から請け負い、蓬莱の玉枝を製作した職人六人組は、ドリフターズのパロディだろうか。ユニゾンからハモらせるのが、何だか可笑しいアンサンブルである。この後、大山大輔が「か~ぐ~や~♪」と声を張り上げると、幸田浩子が「止めなさい!」とブッタ切るのも、お約束のギャグである。次の右大臣阿倍御主人の宮本益光は金持ち自慢で、火鼠の皮衣の購入価格を厭味ったらしく吹聴するが、ローゲの炎の動機と共に燃やされ敢え無く敗退。

 龍の首の珠を探して大海原へ漕ぎ出し、遭難しかけた大納言大伴御行の晴雅彦は、全ての女性への恨みをぶちまけるアリアを歌う。これは晴さんのおネエキャラを生かした沼尻の宛て書きで、他の誰かが歌うのは想像し難い、抱腹絶倒の植木等スーダラ節風アリアである。求婚者は入れ代わり立ち代わり出て来るのでは無く、一人退場する毎に一息付き、翁と媼に失格した婿候補への寸評を述べさせるのも楽しい。アリアや重唱の間をレシタティーヴォでは無く、台詞で繋ぐジンクシュピールの形式を採ったのも、このオペラの成功の要因の一つだろう。

 最後、五人目の石上麻呂足は使者のボーイ・ソプラノが、中納言は子安貝を求めて屋根から転落、燕の糞を掴んで息絶えたと告げる。この場面はボーイ・ソプラノの清澄な声が効果的で、さすがのかぐや姫も中納言の愛の深さに感銘を受ける、と云う処で前半を終えて中入りとなる。

 オペラ後半の焦点は、帝のかぐや姫への求婚話へ移る。帝のプロポーズをかぐや姫が拒むストーリーで、前半のコメディ調とは趣きを変え、ミュージカル風だった音楽もオペラティックに盛り上がって来る。かぐや姫を迎えにやって来る、月の使者の歌はトゥーランドットっぽい中華風で、これを迎え撃つ帝の軍勢は、仮面ライダーを思わせる戦隊モノ主題歌風である。「月の間奏曲」ではダンス・シーンのサービスもあったが、ここで幸田さんにも踊らせたのは蛇足のように感じた。

 こうしてオペラは大団円を迎え、合唱付きの壮大なフィナーレとなるが、この盛り上がり方には何だか既聴感のある気がする。そこでハタと膝を打ち、これはNHK学校音楽コンクール課題曲、「ひとつの朝」に似ていると気付くのである。沼尻は桐朋作曲科の教授だった平吉毅州の直系の弟子で、これはモロに影響を受けていると考えられる。何しろ沼尻は真性の合唱オタクで、びわ湖ホール声楽アンサンブルの定期公演を振る際、平吉毅州を一曲はプログラムに入れるのである。

 演劇用で音響自体は今一つの中ホールだが、小さ目のキャパで歌手は声を張り上げる必要も無く、みんな良い歌を唱ってくれた。言葉を良く聴き取れたのも、日本語オペラとしての出来の良さを証しているが、これには栗山御大の指導宜しきも大きく関わっている筈である。

 幸田浩子は月へ戻る前に歌う「帝へ捧げるアリア」で、このオペラ唯一のコロラトゥーラを披露した。作曲者はクレージーキャッツや柏原芳恵の引用を強調し、ポピュラー音楽風に聴き易いオペラと吹聴するが、やはりオペラを名乗る以上はベルカント唱法が不可欠となる。沼尻の目指したのはアナリーゼを要しないミュージカルでは無く、筒美京平とヴァーグナーと平吉毅州を同列の素材として取り込むクラシック音楽であり、歌手の声楽的能力を生かす、西洋由来のオペラなのだと思う。

 沼尻竜典のサービス精神に溢れるオペラ「竹取物語」は、格調高い舞台美術とコメディ演技のバランスを取る、栗山昌良の音楽に即した演出を得て、初心者もマニアも等しく楽しめる舞台に仕上がった。これは今後の再演に耐え得る、びわ湖ホールの財産となるプロダクションだろう。びわ湖ホール声楽アンサンブルの若手に拠る上演でも、充分に楽しめるオペラの筈だが、その際にも晴雅彦さんは欠くべからざる存在となる。出来れば沼尻マエストロにお願いし、晴さんの出番を拡充する改訂版上演を期待したい。

池田ジュニア合唱団七回目の演奏会

$
0
0
2015年8月10日(月)14:00/池田アゼリアホール

指揮/しぶやかよこ
ピアノ/宮崎未来
池田ジュニア合唱団

松下耕「歌声よ響け/ほらね」
湯山昭「きじ/猪ものがたり/鮎の歌」(鮎の歌)
萩京子「はじめのことば」
林光「ぼくがつきをみると/明日ともなれば」
若松歓「ともだちになろうよ/いつだって!/ともだちできたよ/
桜の下で/天の川/See you agein」
古宮真美子「たべられちゃった!」
臼井真「しあわせ運べるように」
久石譲「さんぽ」


 設立から二十目となる池田ジュニア合唱団だが、まだ演奏会の数は七回で、積極的な活動を始めたのは割に最近の事らしい。夏休み中の自主コンサートは平日マチネの開催で、僕は他人に言い難い理由で都合を付けたが、一般的な小中学生の父兄は行き難いだろうし、何故ソワレにしないのか理由は知らない。

 コンサート冒頭の「歌声よ響け」は団歌だそうで、まずまずハモっていたが、指揮をした団員さんはやや踊り過ぎのように思う。仕切り直して、最初の曲は昔懐かしい湯山昭で、新しいものばかりやらず、良いと思えば流行らなくなった曲を取り上げるのも悪くないと思う。最初の二曲は小学四年生以上のメンバーのみ、最後の「鮎の歌」だけフル・メンバーの三十六名で演奏された。

 指揮者は見た目は細身でも音楽的な馬力があり、歌い手から強烈なフォルテシモを引きす事が出来る。従ってダイナミク・レンジを広く使えるので、表現に振幅のある音楽作りも可能になる。かなり地声気味のアルトで、ソプラノも高音部は頭声と云うより、ソット・ヴォーチェで処理している。縦のフレーズはキチンと揃えるが、中音域以下でのパート内部の音程は結構バラバラで、横並びの音程よりも倍音を合わせる意識が強いと感じる。また、林光と萩京子の二声ソングでは煽り立てず、言葉を伝えようとする演奏で、曲に合わせアプローチを使い分けているのも判る。ユニゾンもソット・ヴォーチェだが、この際には喉の力を抜くので、横の音程は揃う事となる。

 年長の団員に拠る自主演奏もあったが、これは身内意識の無い一見の聴衆として、やや忍耐を強いられる。でも、低学年のチビどもが主旋律を歌い、これに上級生が対旋律を付ける二声曲の演奏は、下手でも楽しく聴けたのだから、通りすがりの野次馬なんて勝手なものである。

 休憩後、ゲストとして作曲家の若松歓と云う、僕は初めて名前を聞く方が登場する。この方が池田ジュニア合唱団を指して、「こんなに巧い合唱団は東京にも幾つも無い」と褒め、僕も全くその通りと思った。「皆さん身近過ぎて分かっていない」とも言ったが、これも恐らくその通りだろう。ただ、この合唱団の場合、どうも最近になってレヴェルの上がったフシはあるので、別に言い訳するのでは無いが、僕も今まで知らなかったのは、結局これまで聴く機会の無かったと云う一事に尽きるのである。

 ここの女性指導者をゲストが「天才!」と持ち上げたのは、半分は社交辞令で本当に天才なのかどうか、僕には分からないけれども、個性的な才能ある指揮者なのは間違い無いと思う。更に平日の昼間では集客も望めないし、演奏会は土日にやれと言ったのには、僕も激しく同意する。指導者が「抽選が…」とか言い訳すると、そんなもの別枠を認めさせろとも言ったが、確かに行政の特段の配慮はあって良いと思う。それだけの価値のある合唱団なのは間違いないし、行政は更に一般市民の認知度を高めるよう、広報に意を払うべきとも思う。公民館にチラシを置いたり、掲示板にポスターを貼る位の事なら直ぐに出来るし、国際的に評価されるコーラスである事を、池田市民に対し念入りに周知すべきなのだ。

 演奏に入り、その若松歓を五曲歌う。低学年は出たり入ったりで人数は変動するが、何れにせよフレージングを厳しく律しているので、演奏には力が籠もっている。曲作り自体はシンプルで、基本的に地声とソット・ヴォーチェの使い分けで音楽に変化を付ける。ここでのユニゾンは地声で結構汚かったが、そこからキレイにハモらせるのが効果的で、子供に相応しい単純な内容の曲を的確に表現している。高音部でスピント出来れば尚良いが、それは現状では高望みに過ぎるのだろう。

 コンサートの締め括りは、公募で集めた子供二十名程を舞台に上げ、一緒に久石譲の「さんぽ」を演奏する。この寄せ集めのチビどもにも、キチンとフレーズを合わせ歌わせて、この指揮者の手腕を窺わせる。まあ、殆ど声は出していなかったのかも知れないが、ともあれ全員入団させて戦力増強に努めて欲しい。人数の増えれば表現の幅も広がり、更に充実した演奏も可能となる筈だ。池田ジュニア合唱団の今後の更なる飛躍を期待したい。

ツィンマーマン「ある若き詩人のためのレクイエム」

$
0
0
<サントリー芸術財団サマーフェスティバル2015/日本初演>
2015年8月23日(日) 18:00/サントリーホール

指揮/大野和士
ソプラノ/森川栄子
バリトン/大沼徹
マンドリン/堀雅貴
アコーディオン/大田智美
サクソフォン/大石将紀/西本淳
ピアノ/長尾洋史/秋山友貴
オルガン/大木麻理
音響/有馬純寿
ナレーター/長谷川初範/塩田泰久
東京都交響楽団
新国立劇場合唱団
スガダイロー・クィンテット


 ベルント・アロイス・ツィンマーマンのレクイエムと云う、これまでその存在すら知らなかった曲を聴く為、六本木までやって来た。ツィンマーマンに付いては、結果的に若杉弘さんの指揮に接する最後の機会となった「軍人たち」を聴き、一世代後のブーレーズやシュトックハウゼンとは違う、前衛中の前衛でありながらバッハからヴェーベルンに至る、ドイツ音楽の伝統に連なる事を強く意識していた人と感じた。演奏困難な曲ばかりで、何か取り上げられる度に問題作の日本初紹介と喧伝され、実演の機会は悉く業界の一大イヴェントと化す、謎の自死から四十五年の歳月を経て、再評価の機運の高まる薄幸の作曲家である。

 ホール内の二階席左右と、舞台正面の三ヶ所には合唱席が設けられ、これを振る三名の副指揮者と舞台上の指揮台の前には、それぞれにパソコンが置いてある。どうやら指揮者はパソコンで確認しないと、奏者にキューを出すのも難しい曲らしい。客席の後方には三十台のスピーカーも配置され、これらの機械モノに聴衆はグルリと取り囲まれる格好で、サントリーホールには開演前から何やら物々しい雰囲気が漂う。

 何しろ現存する管弦楽曲の中で最も演奏困難、且つ複雑極まる構成と云う事で、開演前に舞台に現れた指揮者とプロデューサーが、プログラム記載の解説では言い尽くせないと、我々聴衆にみっちりとレクチャーして下さった。僕も一応の予備知識は仕入れていたが、大野和士と長木誠司の二人が三十分近く喋り続け、それでも足りないと言いつつ引き上げて行ったのだから、さすがに音源予習は一切しないを標榜する僕も、俄かに不安と緊張感を高めて終った。

 暫時休憩の後、改めて大野が指揮台に立つ。まず底鳴りするような重低音が響き、続いて一階席中央部に陣取る、音響担当の有馬純寿が場内にテープ録音を流し始める。録音はジェームズ・ジョイスの小説「ユリシーズ」と、ヴィトゲンシュタインの「哲学探究」のテキスト朗読に、「プラハの春」で失脚したドゥプチェク第一書記のチェコスロヴァキア国民向け演説、それに法王ヨハネス二十三世の第二バチカン公会議での講話の、四種類が同時に流される。つまり英語とドイツ語とチェコ語とラテン語で、当然ながら内容は全く分からない訳だが、何れも前世紀の政治と文化を代表する重要なテキストを、ツィンマーマンが選択した事だけは分かる。

 正面の巨大な字幕にはテキストを表示するので、少なくともジョイスやドゥプチェクを使った、作曲者の意図だけは推し測る事が出来る。ツィンマーマンがリアル・タイムのラジオ放送で、チェコ共産党第一書記の演説や、ローマ法王の講話を実際に聞いたのかは知らないが、その発言の意義に付いて深く思い致す処のあったのは確かだろう。強烈な前衛的音響に身を浸しながらヒトラーやスターリンと、ハンガリー動乱で処刑されたナジ首相や、軍事独裁政権に迫害され死去した、ギリシャのパパンドレウ首相の居た二十世紀と云う時代と、そこから地続きの今と云う時代に付いて考える、これはその契機とすべき曲なのかも知れない。

 曲の前半を聴いている限りでは、コンサートに来たと云うより、美術館でサウンド・インスタレーションに接している気分になる。まあ、美術作品の場合は大概エンドレスだが、この曲には始まりと終わりのある上に、流される録音にタイミングを合わせる為、奏者はガチガチの時間的制約に縛られている。レクイエム前半のテープ・コラージュは、音楽と美術の中間に漂う、前衛的な何かであるとしか言いようもない。

 コーラスは時折絶叫するが、オケはチョロっと音を出すと直ぐに止めて終い、後はテープ録音の大音響が延々と続く。二人のナレーターの朗読は日本語だが、これも前衛音響に繰り入れ、僕は騒音の一種と捉え聴く事とする。その内に長木の解説の通り「ヘイ・ジュード」が聴こえ、「イゾルデの愛と死」が聴こえ、第九が聴こえてジャズ・クィンテットの演奏が始まる。僕は全く知らなかったがスガダイローは、激しいパッションとテクニックを併せ持つ、気鋭のジャズ・ピアニストらしい。この方を目当ての若いジャズ・ファンも、今日の客席には大勢居たようだ。

 この後、漸くソプラノとバリトンの登場となるが、ここでの森川栄子さんの凄絶な歌い振りには、鬼気迫るものすら感じた。この方の演奏は京都のカフェ・モンタージュで、ヴェーベルンのリートを聴いているが、あんな小さなハコで真価の分かる筈も無い、二千席のホールを震撼させるに足る、声に力の漲る歌だ。森川さんと共に、新国立劇場合唱団の技術力にも瞠目させられる。レクイエムの超絶的に演奏困難な合唱パートを、強靭なテクニックで歌い切り、特筆されるべき成果を収めたと思う。

 でも、どうやら合唱団員さん達は、僕のようなノー天気な観客と同じように、何の準備も無くレクイエムに相対したらしい。開演前のホワイエや、客席に設けられた合唱席に待機している際の様子を見ても、これから歴史的初演に臨む気負いは全く感じられない。レクイエムに関する譜面以外の情報は、合唱指揮者のお話しのみのようだし、女声団員を見ていると「今度の曲はソルフェージュ難しかったけど、男声ばっかし歌とてて、譜読みの量少のうて助かったわぁ」、とか思っているようにしか見えないのである。

 合唱の壮絶な「ドナ・ノビス・パーチェム」の咆哮の後、Mの子音を百五十名の分厚いハミングで絞り出すと、その余韻と共に「ある若き詩人のためのレクイエム」日本初演は締め括られる。本来の典礼文である「Requiem eternam dona eis(彼等に永遠の平安を与え給え)」から、「Dona nobis pacem(我等に平安を与え給え)」への変更は重要と言うだけで、大野も長木も明言を避けたが、これはツィンマーマンが自分の為に書いたレクイエムである事の証左だろう。ギョーム・デュファイが自分の葬式用に「アヴェ・レジナ・チェロールム」を作曲し、「Miserere tui labentis Dufay(汝が死に行くデュファイを憐れみ給え)」の、一節を挿入したのと同じ事情と考えられる。デュファイは宗教改革前のルネサンス人で、天寿を全うした聖職者だったけれども。

 聴衆の熱心な拍手は長く続き、大野の指示でクィンテットに拠る、フリージャズのアンコールが演奏された。この軽やかな音楽は一服の清涼剤として機能し、僕はホールを出て夜の外気に触れた際、言いようもない爽やかなカタルシスを感じた。全ての人間の避け得ない死を、自ら呼び込んだツィンマーマンのレクイエムに対し、我々凡人は取り合えず死ぬまでは生き切ろうと、そんなメッセージをスガダイロー・クィンテットは発したように思う。

ベルリオーズ「ベアトリスとベネディクト」

$
0
0
<セイジ・オザワ松本フェスティバル/プレミエ>
2015年8月24日(月)19:00/まつもと市民芸術館

指揮/ギル・ローズ
サイトウ・キネン・オーケストラ
OMF合唱団

演出/コム・ドゥ・ベルシーズ
美術/シゴレーヌ・ドゥ・シャシィ
照明/トマ・コステール
衣裳/コロンブ・ロリオ・プレヴォ
映像/イシュラン・シルギジアン

ベアトリス/ヴィルジニー・ヴェレーズ
ベネディクト/ジャン・フランソワ・ボラス
エロー/リディア・トイシャー
クラウディオ/エドウィン・クロスリー・マーサー
司令官ドン・ペドロ/ポール・ガイ
楽長ソマローネ/ジャン・フィリップ・ラフォン
侍女ウルスル/キャレン・カーギル


 東京でツィンマーマン「ある若き詩人のためのレクイエム」を聴いた翌日、サイトウ・キネン改めオザワ・キネン…じゃなかった、セイジ・オザワ松本フェスティバルを見物する為、松本までやって来た。皆様ご承知の通り、小澤は風呂場で滑って転んで腰打ってオペラの指揮を諦め、代役にはオペラ・ボストン音楽監督のギル・ローズと云う人を立てている。

 松本に着いて真っ先に行ったのは晩酌の準備で、お城の近所の三代澤酒店を訪れる。お店番のお母様に好みを伝え、大町にある酒蔵で北安醸造の「居谷里・山廃無濾過生原酒」を購入する。銘柄の居谷里は大町市街地の北方にある湿原で、北安醸造ではこの居谷里湿原の湧き水を仕込み水としているそうな。酒は辛口と云う信州のイメージとは異なる、甘口で酸味の強い僕好みの酒でした。



 ベルリオーズの滅多に聴けない珍しいオペラだし、松本は好きな街だしで、僕は小澤で無くとも張り切ってオザワ・フェスにやって来た。小澤のキャンセルで来ない客も居るかと思ったが、皆さん真面目に松本までお出でになったようで、ホール内に空席は殆ど見当たらない。指揮者交代に伴う差額分の返金はあるが、これも当日窓口での現金支払いのみで、敵は結構セコい手を使って来るのである。

 例え題名を初めて知る(昨日も同じ事を言ったが)オペラでも、小澤がベルリオーズを振るとなれば、やはり松本まで馳せ参ぜねば収まらない。そこで粗忽者の小澤がマヌケな怪我をすれば、僕も人並みに落胆する。でも、何時もの下振りのおっさんでは無く、小澤にしては珍しくキチンとした代役を立てたのだから、これをポジティヴに捉え、ベルリオーズの音楽を楽しめば良いのである。

 ベルリオーズのオペラと云えば、まず「トロイ人」で、次に「ファウストの劫罰」だろうか。サイトウ・キネンの「ファウストの劫罰」は十六年前、サバッティーニのファウストと、ジョゼ・ヴァン・ダムのメフィストでの上演を、僕も観る事が出来た。「トロイ人」の上演も切望していたが、高齢で病み上がりの小澤に、あの長丁場を振り通す体力は無くなり、これは適わぬ夢と成り果てた。恐らく小澤の思いも同じなのだろう。今年の演目にベルリオーズのやや短か目のオペラ、「ベアトリスとベネディクト」を持って来たのも、その辺りに理由があると忖度するのである。

 これから始まるオペラは他愛の無いお話ですよ、と言わんばかりの軽やか序曲の後、直ぐに感じるのは随分と台詞の多い、音楽の鳴っている時間の短いオペラである事。成程、これなら体力的に不安のある小澤が、最後まで振り通せると判断したのも腑に落ちる。もしかすると、正味の演奏時間は一時間に満たないかも知れず、しかも少しオケをドライヴすれば、直ぐに休憩で一服出来て、如何にもロートル指揮者向きのオペラなのである。但し、音楽面に劇的な展開は皆無で、コーラスが入ると多少は気分の変わる程度だ。

 従って舞台の質は演奏の出来と共に、科白部分での芝居にも大きく左右される。簡単に結論を言って終えば歌手の演技だけで無く、専門の俳優を起用した芝居部分も、見ていてちっとも面白くなかった。生温いヒマ潰しみたいな話が、場面転換も無くウダウダと続き、結構退屈するのである。わざわざコメディ・フランセーズの俳優を起用し、泥臭いドタバタ劇を見せる演出家は、この春風駘蕩たるオペラに対し、確信犯的にユルイ芝居を付けたのかと思える程だ。間奏のシチリア舞曲でバレエ・シーンを省いたのも、経費節減の為とも思えず、オペラの楽しみを大きく減殺している。

 一幕の掉尾を飾る、エローとウルスルのデュエットのピアニシモの美しさは、ソプラノのトイシャーとメゾのカーギルの声の相性の良さの賜物だろう。これに限らず「ベアトリスとベネディクト」では、そこだけは「薔薇の騎士」にも比肩すると言いたくなる程に、女声同士のデュエットやトリオの美しさは際立っている。トイシャーはレジェーロな声にコロラトゥーラの技術もある、流石に古楽畑と頷ける柔らかいソプラノで、単独のアリアも美しく聴かせてくれる。カーギルも軽目のアルトがアンサンブルに嵌まる声質で、恐らくは重唱要員としての起用だろう。

 女声タイトル・ロールのヴェレーズには力強い高音と共に、柔らかく深い音色の低音がある。多彩な音色の引き出しを持ち、ピアニシモの長いフレーズを保つ、声に力のあるメゾである。男声の方のタイトル・ロールのボラスも、声に力のある柔らかいレジェーロで、なかなか良いテノールと感じ入る。総じて歌手には柔らかい声の持ち主を集め、改めて小澤のベルリオーズ解釈の確かさを感じさせる。

 ソマローネのジャン・フィリップ・ラフォンはご存知の方も多いと思うが、二十八年前のデンマーク映画「バベットの晩餐会」で、パリ・オペラ座の名歌手であるムッシュ・パパンを演じ、主役女優の一人を相手にドン・ジョヴァンニとツェルリーナのデュエット「お手をどうぞ」を歌う、映画史に残る名場面に俳優として名を遺す人である。まだ現役で歌っていたのか!と驚く、超ベテランのバッソ・ブッフォだが、「バベットの晩餐会」でドン・ジョヴァンニを唱った俳優が、吹き替えでは無く本物のオペラ歌手だったとは、僕は二十八年目にして初めて知った。

 一体どんな歌を唱うのか興味津々だったが、二回ある出番では殆ど喋り詰めで、歌そのものは一瞬の内に終わった感がある。歌わない代わりに素人臭い、外し捲くりのクサイ演技を披露し、今日の上滑りな舞台を象徴するよう存在となった。とんでもないダミ声のようだが、それでも一向に構わないので、もっと歌って貰って「バベットの晩餐会」の名場面を思い起こす、よすがとして欲しかったとシミジミ思う。

 小澤の代役のギル・ローズは勘所での馬力にも欠けない上に、ベルリオーズのロマンティックな曲想を掴み、良くオケに歌わせていた。ただ、どうやら元々そう云う曲のようで致し方も無いが、やや音楽は淡白に流れ過ぎるようにも感じる。これは勿論、小澤の濃厚に歌わせるベルリオーズのイメージを、聴く側で求めるからに相違ない。でも、ギル・ローズの演奏は或る意味、今回のユルイ演出に対応している訳で、ベルリオーズの美しい音楽をユッタリのんびり楽しめて、小澤のテンションの高い演奏よりも、むしろ「ベアトリスとベネディクト」に相応しかったのかも知れない。

 今回の松本ではベルリオーズの珍しいオペラを、それなりの演奏で聴けて僕は結構満足しているし、緩いオペラを緩い舞台で楽しめたとも思っている。今日の会場では、昨日のツィンマーマンのコンサートをプロデュースした、長木誠司を客席に見掛けた。彼も僕と同じく「ある若き詩人のためのレクイエム」と、「ベアトリスとベネディクト」を連荘で聴いた訳だ。後日、長木が今日の上演をクソミソに扱き卸しているのを新聞で読み、やはりツィンマーマンに入れ込んだ当事者は、昨日の今日で冷静には聴けなかったのかと思ったものだった。

シュトックハウゼン「シュティムング」

$
0
0
<サントリー芸術財団サマーフェスティバル2015/1968年パリ版>
2015年8月29日(土) 19:00/サントリー小ホール

ソプラノ/工藤あかね/ユーリア・ミハーイ
アルト/太田真紀
テノール/金沢青児/山枡信明
バス/松平敬
音響/有馬純寿


 土曜の午後の昼下り、三宅坂の国立劇場で高校生の演じるお芝居を二本見物した。今年は滋賀県で行われた高校演劇全国大会の入賞校に拠り、この土日に行われる優秀校東京公演と云う催しで、今日は札幌琴似工業高校定時制の「北極星の見つけ方」と、大阪緑風冠高校「太鼓」の上演があった。前者は放課後の補習に集まった高校生の等身大のお話で、後者は戦闘の最前線で歩哨に立つ古参軍曹と新兵のお話。稚拙でもリアルな劇と、完成度は高いが大人の手付きの見える劇で、何れにせよ商業演劇には無い熱気に溢れる、高校生ならではの舞台を楽しんだ。

 終演後にサントリーホールへ行くが、地下鉄に乗っても時間的に大差は無さそうで、直接歩いて向かう。六時半頃にアークヒルズへ到着すると、カラヤン広場には長蛇の列が出来ていた。今日のコンサートは自由席の為、皆さん早くから行列を作り、開場を待っていたようだ。でも、ブルーローズへ足を踏み入れ、中を見回せば、ホールの中央部に一段小高く設置された舞台を、同心円状にグルリと取り囲む、ボクシングの試合会場のような客席の配置だった。視覚的には前方の席だろうが、何れにせよ六名の歌手の声はPAで増幅されるので、音響的には何処に座っても同じなのであった。

 ホール内の照明も落とされ薄暗くなった処で、六名の歌手が静々と入場して来る。「シュティムンク」には楽譜の他に設計図も付いていて、シュトックハウゼンは舞台と客席の配置に限らず、奏者の箸の上げ下げにまで、口喧しく指示を出しているようだ。この入場方法にも細かい決まり事があり、バスを先頭に一人づつ順番に、出て来る間隔も少しづつ変えながら、と甚だ儀式ばっているのである。これは能舞台を意識しているのかも知れないが、でも摺り足で歩けと云う指定は無いようで、皆さん足袋も履かない裸足である。

 シュトックハウゼンの指示通り、バスの松平敬を先頭にアルトの太田真紀が続き、殿をテノールの金沢青児が務める歌手六名は、ユックリと五分程も掛けて歩を進め、ホール中央の正方形の舞台に集結、車座で黒い座布団の上に胡坐をかいて座る。御一行様は客席にでは無く、お互い同士で一礼した後、それぞれにマイクを持ち、山枡信明を皮切りに演奏を始める。

 「シュティムンク」は根音となるB♭の倍音列に並ぶ、六つの音を基音とし(B♭そのものは使わない)、その上に乗っかる倍音を高低させて作るメロディーで重唱し、ひたすらに一時間余りを歌い続ける曲である。つまりB♭と云う、一つの音に含まれる成分の徹底追及が、シュトックハウゼンの意図する処である。全体は十秒から五分位までの様々な長さの、五十一の小品の組曲として構成され、各曲を六人の中の誰かが主導し、交代で曲を進めて行く。

 松平敬の説明に拠ると、この曲の難しさは特定の倍音を強調する唱法の習得よりも、むしろテンポ指定の厳格さにあるらしい。「シュティムンク」の五十一曲には、それぞれに異なるテンポ指定があり♪=243とか189とかの速度を、指定通り守らねばならないそうである。つまり絶対音感ならぬ“絶対テンポ感”として、指定された速度の感覚を、体に叩き込まねばならないらしい。

 これは倍音の数量を図式化し、セリーに仕立てている為だが、この辺りの理屈は僕には難し過ぎ、良く分からないと云うのが正直な処だ。他にもリードする歌手のテンポを後続の歌手が、わざとズラして尾いて行ったり、前のテンポを引き摺ったりと、色々と七面倒な指定があるらしい。でも、歌手の皆様には申し訳無いが、楽譜も見ずに座って聴くだけのド素人は、テンポの難しさとか言われても馬耳東風なのである

 僕が倍音唱法で思い出すのはモンゴルのホーミーで、前世紀の八十年代に巻上公一や松沢呉一と云った連中が、民族音楽で一時に二つの声を出す特殊唱法があると、イロモノ扱いでネタにしていたと記憶する。この連中の仲間でホーミーをマジメに追及して実践を重ね、倍音唱法の深みにハマった中野純と云う人が、玉音放送の昭和天皇の声には倍音が、豊富に含まれていると指摘している。昭和天皇は歌っている訳では無いので、これは謂わば“倍音話法” とでも呼ぶべきもので、元は神主の祝詞から来ていると喝破した。このネタには「玉音とは倍音の事だった」と云うオチが付く。

 昭和天皇の倍音話法は神主の祝詞に基づくと云う指摘は、並べての日本古来の話芸のルーツを、全て声明に求めると云う結論に導かれる。何も知らない人に「シュティムンク」を聴かせると、一様にこれってお経みたいと云う感想を述べるらしく、声明との類似性で連想を広げれば、ブルガリアン・ヴォイス等も思い付くが、余り大風呂敷を広げてもアレなので、取り合えずは当面の課題に集中したい。

 「シュティムンク」を聴きながら、僕の抱いた素朴な疑問は「出したい倍音を、本当に決め打ちで出せるのだろうか?」だった。出した倍音をグリッサンドで高低させるのは、然程に難しいように感じないが、果たして指定されたピッチの倍音を、一発で的を射当てるように正確に出せるものなのか。この素人の疑問に対し松平氏から頂いた説明は、遅いテンポの曲では可能だが、楽譜に記されている母音と倍音の組み合わせの中には、正確に対応していない場合もあり、現実には不可能との事だった。やはりテンポの速い部分で狙った倍音を出すのは、技術的に難しいようである。

 シュトックハウゼンは様々な母音を長く延ばした際に、最も強調される倍音を探し、特定の倍音の響く母音を二十一種類に区分している。だが、倍音唱法は唇の形と舌の動きの工夫で、口の中で響かせる場所を変える事に拠り、倍音高を上下させるので、どの母音で歌うかよりも、何処に響かせるかの方が重要なのである。つまりシュトックハウゼンの指示通りの母音で、特定の倍音を出そうとしても、個人の口の形の差や音域の違いに拠り、意図した倍音は出せないらしい。そこで実際的な対応として、母音の発音から倍音高を決めるが、その場合もグリッサンドに拠る相対音程は順守するそうだ。

 シュトックハウゼンはセリー技法で縛りを掛け、歌手の出し易い倍音で曲を作らないので、母音と倍音高が対応しない等の齟齬も生じる訳だ。そもそも通常の演奏の場合、倍音の音程は音色の変化に伴い高低している訳で、倍音高そのものを意識的に操作はしない。僕の思うに「シュティムンク」での、倍音高の厳密な指定も単なる手段で、目的は飽くまで変化する音色の追求にある筈だ。

 まあ、取り合えず七面倒な理屈は脇に置き、周囲のスピーカーから漂い出る音響に耳を傾けると、空中をフワフワと浮遊するような倍音は、本当に繊細微妙で、これに聴き入ると集中力を途切れさせる暇も無い。正直、こんなに長時間に亘り集中して音楽を聴くのは、本当に久し振りのように思う。何度かハモったように聴こえる箇所もあったが、それよりも面白いのはユニゾンで、六人が同じ基音の上で、それぞれに異なる倍音を響かせるのを聴き分けるのが楽しかったりする。しかし、素人が普通に歌うと生じるユニゾンでの唸りを、わざと作って面白く聴かせる訳で、改めてシュトックハウゼンゲンと云う人の、突飛な発想に感じ入るのである。

 曲の途中で長いパウゼがあり、これで終わりかと半信半疑でいると、山枡信明が唐突に奇声を発してビックリさせられる。プログラム記載の翻訳を見ると、山枡の唱えるドイツ語の台詞は随分と卑猥な内容だが、実際に読み上げる現場に居合わせると、何やらアッケラカンとして健康的にすら感じられる。ここで隠微な雰囲気の漂わないのは、シュトックハウゼンの人徳もあるだろうが、例えば十六世紀のジャヌカンやヴィラールトのシャンソン等、卑猥な歌詞にソフィストケイトされた音楽を付ける西洋の伝統を、作曲者が踏まえているからかも知れない。ああ云ったルネサンスの曲もムダに陽気で、便所の百ワットみたいな感じですから。

 一つ気になったのは一時間強の演奏の間、低くブーンと唸るような音が終始流れていた事。最初は空調の音かと思ったが、やがて根音のB♭を流しているのだと気付く。これは結構邪魔に感じられたし、そもそもシュトックハウゼンの設計図に、ホール内は完全な静寂が保たれねばならないと記されている。山枡氏のツィートに拠ると、どうやら演奏中に下がった音程を元に戻す為の、方便のような措置だったらしい。六名の歌手の演奏そのものは素晴らしく、更に彼等が今日の公演の為に一ヵ月近く、殆んど缶詰状態でシュティムングの練習に打ち込んだと知れば、これも些細な瑕と感じられて来る。

 「シュティムンク」は祭壇か能舞台のような、演台の上で演奏する所為もあり、何だか黒魔術の秘儀で生贄を捧げているような、或いは怨霊調伏の護摩祈祷のような、儀式めいた雰囲気を演出する曲だった。でも、この曲は速い遅いのテンポの振幅も大きく、ラテン語の宗教曲と云うより、ファ・ラ・ラのリフレインをお約束とする、イングリッシュ・マドリガルのように感じられる。車座に向き合う六名の歌手が、身体を揺らせ表情豊かに歌う姿を見ても、これは他人に聴かせるのでは無く仲間内で楽しむ、六声の無伴奏マドリガルそのものじゃんか、と聴きながら思った事だった。

 上掲の写真は終演後のロビーでお見掛けした、今日の公演に遥々ドイツから招聘され、六名のリーダーを務めたユーリア・ミハーイさんです。ご協力有難うございました。

モンテヴェルディ「オルフェオ」

$
0
0
<びわ湖ホール声楽アンサンブル第59回定期公演/演奏会形式>
2015年9月5日14:00/びわ湖小ホール

指揮/本山秀毅
アンサンブル・プリンチピ・ヴェネツィアーニ
びわ湖ホール声楽アンサンブル

オルフェオ/五島真澄
エウリディーチェ/飯嶋幸子
音楽の女神ムーサ/鈴木望
使者シルヴィア/本田華奈子
希望スペランツァ/藤村江李奈
プルトーネ王/的場正剛
プロセルピーナ妃/岩川亮子
渡し守カロンテ/林隆史
太陽神アポロ/増田貴寛
木霊エコー/川野貴之
妖精ニンファ/平尾悠
牧人パストラーレ/山際きみ佳/島影聖人/古屋彰久/砂場拓也


 今回の「オルフェオ」は一昨年の「ポッペアの戴冠」に続き、びわ湖ホール声楽アンサンブルの定期公演では、二作目のモンテヴェルディ上演となる。前回は基本的にモダン楽器での演奏で、通奏低音をリュートとガンバに担わせる折衷的な編成だったが、今回は古楽業界でソコソコの実績を持つ、専門のアンサンブルを起用している。しかも会場に着きプログラムを開くと、このオケの標準編成であるツィンクとサックバットの他に、「オルフェオ」には不可欠とも云えるレガール(小型オルガン)や、アルパ・ドッピア(三列ハープ)等も動員されている。事前の期待を超えて舞台上に居並ぶ、豪華な古楽器の布陣を目の当たりにすれば、弥が上にも期待は高まる。

 だが、その期待は冒頭のトッカータを、パーカッションを入れて三回も繰り返す、聊か遣り過ぎの解釈に水を差される。確かにレ・ボレアードアントネッロも似たような事をしていたし、輸入ヴィデオの演奏を聴いても、トッカータに様々なヴァージョンのある事は承知している。しかし、生真面目な本山教授が「オルフェオ」全曲に亘り、過激な解釈を展開するとも思えず、何か取って付けたような印象は否めないのである。

 しかし、やがてリトルネッロへ移ると、様式を弁えて真っ当なオケの演奏に安堵させられる。アンサンブル・プリンチピ・ヴェネツィアーニは指揮者を置かない団体で、古楽器の性能や奏法に習熟していないと云うか、ほぼ素人同然と思われる本山教授を、サポートするのに打って付けと思われる。ツィンクとテオルボとバリトン歌手を兼任する多芸多才なリーダーの基、彼等は自主的に着々と演奏を進める能力を備えているからだ。とは云うものの、京都を本拠地とする団体であれば、本山教授の顔を立てねばならぬ義理はありそうで、指揮者を無視して暴走する懸念も無いのである。従って、本山教授はオケを奏者の自主性に委ね、歌手の心配だけしていれば良い筈だった。

 だが、露払いで出て来た、ムーサの歌い振りに抱いた軽い違和感は、オルフェオの登場と共に決定的となり、懐疑的な思いは次第に膨らんで行く。パストラーレの三人にしても、マドリガーレの様式を理解している気色は全く無い。三人でフォルテを盛り上げようと力み返ると、先太りの歌い方となって様式を打ち壊すに至り、逆に軽やかなリズムに乗ろうと力を抜くと、無表情な歌声となる。

 シルヴィアの登場する劇的な転換の場面に、何のインパクトも感じられず、その後のオルフェオとの遣り取りでも、間延びした演奏が続く。まず持ってテンポが遅過ぎ、余計なリタルダンドやパウゼの是非は置くにしても、アチェルラントを全く使わないのは問題外と思う。一曲終えると一服するので、劇的に畳み掛ける展開を描けないのだ。結局、指揮者のモンテヴェルディへの思い入れの無さが、演奏を詰まらなくした決定的な要因だろう。エコーをバンダにせず、舞台上に並べたのも、如何にもマヌケに聴こえた。

 タイトル・ロールのバリトンに野放図な演奏を許したのも、指揮者の責任以外の何物でも無い。マドリガーレではリズムとデュナーミクを一体に考え、テンションを緩める局面を作らねばならず、あんな風に声を張り上げるのみのオルフェオは、前代未聞にして問題外の領域にある。今日の演奏での歌と楽器は、水と油のように交わらず、アルパ・ドッピアやテオルボを使った意味は全く無かった。おまえピンカートンかアイーダでも歌ってる積もりかと、小一時間問い詰めたい気分だが、このテの無知蒙昧な輩に様式を叩き込む事こそ、モンテヴェルディを振る指揮者の責務の筈だ。ホントなんか弱味でも握られているのかと思う程に、破壊的な様式無視の歌だった。

 ところが様式破壊の歌手ばかりかと云えば然に非ずで、スペランツァとプロセルピーナとアポロの三人は、マドリガーレ様式を弁えた歌を聴かせてくれる。つまりプッチーニの唱法で臨む歌手と、古楽風に唱う歌手とがごちゃ混ぜになっているのだ。これでは個々の歌手の勝手に任せ、唱法の統一の責任を放棄しているとの非難を、指揮者は甘受するしかあるまい。

 何度も言うが、古楽器の専門家を揃えたオケは、キチンと自分達の責務を果たしていた。常に飄々とした態度で演奏に臨むオケのリーダーは、恐らく今回の「オルフェオ」を単なる請負業務と捉え、自分達の持ち分を全うすれば、それで良しとしているのだろう。もし、彼等にびわ湖ホールへの出演機会を再び作るのなら、その際は笠原雅仁にディレクターを任せるのが、成果を挙げる為の正しい方法論だと思う。単なる合唱専業指揮者にモンテヴェルディのオペラ上演を委ねる事自体、ピリオド楽器に拠る古楽演奏に対する無理解の顕れとなる事を、そろそろ関係者は気付くべきと思う。

クレランボー「オルフェ」

$
0
0
<フレンチ・バロック/十八世紀ベルサイユ宮殿にて王に捧げられた音楽>
2015年9月13日(日)14:30/旧岡田家住宅酒蔵

ソプラノ/高橋美千子
トラヴェルソ/石橋輝樹
ヴァイオリン/榎田摩耶
ヴィオール/原澄子
クラヴサン/會田賢寿

ルクレール「序曲/シャコンヌ」(音楽の慰め第2番)
クレランボー「Orphee オルフェ」より
F.クープラン「アルマンド(ヴィオール組曲第1番)/サラバンド(王宮のコンセール第4番)
/ガルニエ(クラヴサン曲集第1巻)/Doux liens de mon coeur 甘い絆」
マレ「プレリュード/ファンタジー(トリオ組曲第5番)/リゴドン(第3番)/プラント/ジーグ(第2番)」
ル・カミュ「Quand l'mour veut finir 切ない愛よ」
ドゥ・バッシィ「Le purintens est de retour 再び春が」
ランベール「Vos mespris chaque jour 貴方の蔑みが」(宮廷アリア集)
リュリ「シャコンヌ」(王の眠りの為のトリオ)


 ストラディヴァリアと称するバロック・アンサンブルと帯同し、四年振りに来日したドミニク・ヴィスだが、コンサートは福岡と川崎と新潟の三回のみで、関西は素通りされて終った。ただ、今回の来日公演でヴィスと共演し、ヘンデルやヴィヴァルディを歌うソプラノの高橋美千子が、その前に伊丹で行われるコンサートに出演すると小耳に挟む。高橋美千子と云えば昨夏、練馬で観たラモー「プラテ」で、ネイティヴのフランス人と互角に亘り合う歌と演技を示し、一頭地を抜く実力を披露した人である。これは聴いてみたいと思い立ち、日曜の昼下がりに伊丹まで赴く。斯くして先週のびわ湖ホール声楽アンサンブルに続き、二週連続でバロック時代の“オルフェの嘆き”を聴く次第となった。

 コンサート会場の旧岡田家住宅酒蔵は、阪急とJRの伊丹駅の中間にあり、国の重要文化財に指定されている、現存する日本最古の造り酒屋だそうである。酒蔵には音響と照明器具を設置し、ライブ会場としても活用されている。何分にも昔の酒蔵で、外の音も聞こえたりするが、演奏会場としては使用料の安いメリットがあり、室内楽や古楽器のコンサートを結構頻繁に行っているようだ。

 因みにお隣りにある柿衞文庫は、岡田の蔵元さんのコレクションを基にした俳諧資料館で、伊丹市はこの一帯に他にも美術館や音楽ホールを集め、観光客を誘致する文化ゾーンとしている。伊丹は三段仕込みに拠る清酒醸造発祥の地で、その資本的な蓄積で江戸期に談林派俳諧のパトロンとなり、頼山陽や田能村竹田等の文人墨客を集め、酒を呑ませる芸術サロンを形成した。俳論書「独り言」を著した、上島鬼貫も往時の富裕な蔵元の三男坊で、伊丹酒蔵サロンを代表する文学者だった。この直ぐ近所には、清酒白雪の小西酒造が経営するブルワリーレストランもあり、真昼間から地ビール呑んで酔っ払う事も可能である。

 今日のコンサートの前半はクレランボーのカンタータで、後半はエール・ド・クールと称される、フランス語の世俗歌曲をメインとするプログラムを組んでいる。クレランボーとか言われても、僕は名前しか知らないが、今日演奏されたカンタータ「オルフェ」は、フレンチ・バロックを代表すると云っても過言では無い、フランス本国では超有名曲らしい。一人のソプラノがアリアとレシタティーヴォを交互に歌う、ソロ・カンタータと云うより、モノ・オペラと称する方が相応しく感じられる曲だ。

 クレランボーの「オルフェ」は先週聴いた、モンテヴェルディの「オルフェオ」と同じく、オルフェウスの冥府下りを題材とする曲だが、今日の演奏ではユリディスを連れ帰る処で、尻切れトンボのように曲を終えた。これはフレンチ・カンタータでは良くあるらしいが、最後の一曲で本筋とは何の脈絡も無く、だから恋愛に入れ込んではいけないと、わざとらしい教訓を垂れて締め括りとしているので、全曲では無く抜粋として演奏したらしい。何れにせよフランス語の歌詞など一切分からないので、僕としてはフツーに全部やって頂いても、全く問題は無かったけれども。

 ラモーもソプラノのソロ・カンタータとして、「オルフェ」を作曲しているが、クレランボーとは逆にオルフェウスが後ろを振り返り、再びユリディスを失い嘆き悲しむ、後半部分にのみ音楽を付けているらしい。ラモーはクレランボーのカンターの続編を、意図的に作曲したとの説も有力で、この二曲をセットとして扱う場合も多いようだ。コンサートは小手調べのルクレールで始めた後、高橋美千子がオルフェの嘆きを歌い上げ、その箸休めにフランソワ・クープランの舞曲を挟む構成である。

 「オルフェ」の物語を独り歌う高橋美千子は、高音部をやや低目に響かせて、キツく強い声も出せるが、基本的にレジェーロな柔らかい声質である。完璧なノン・ヴィブラートを身に着けている上に、確りした低音もあるので、ダイナミク・レンジを広く使う、振幅のある表現を可能としている。だが、それより何より練達の演技派歌手である事を、まず特筆大書して強調せねばならない。見事に板に付いた演技で、ギリシャ神話のオルフェに成り切り、モノ・オペラの楽しみを満喫させてくれる。

 小さな会場で百人にも満たない聴衆を相手に、本格的なオペラ歌手としての演技を披露する訳で、もし彼女が例え毛筋程であっても逡巡や含羞を見せれば、全ては一瞬の内に瓦解して終う。この辺りの高橋のプロ根性と云うか、フランス仕込みのオペラ歌手魂には、実に端倪すべから去るものがある。やはりオペラに於ける演技力とは、彼の地に於いて身に着けるもので、日本国内では習得し難いと、つくづく実感させられる。ドミニク・ヴィスが高橋美千子を相手役に選んだのも、その演技力も見込んでの事と推測される。

 四名の器楽奏者の演奏も見事だった。フレンチ・バロックはイタリア物と違い、対位法的な側面の強い所為で、典雅で優美に響くように思う。取り分けクープランはコンティヌオを単なる埋め草では無く、対旋律として機能させ、繊細に作っているのを美しく感じる。四人共に達者なテクニックのある上に、フレンチ・バロックへの造詣と思い入れの深さも伝わる演奏で、日曜の午後を優雅で美しい音楽に浸らせて貰った。ただ、他の四人は闊達なステージ・マナーをお持ちなのに、ガンバの女性奏者だけ明らかな緊張感を見て取れ、間近に座る身としてやや気になった。

 失礼ながらお名前を存じ上げない方々なのは、フランス在住の若手ばかりで、日本国内での演奏活動は皆無に近いからのようだ。そもそも手作り感満載のコンサートで、どうやらマネージメントも全て自分達で行っている様子だ。簡単な曲の解説を担当したフルートの子は、フェニックスホールの会場無料貸し出しの企画公募に入選し、来年五月にコンサートを行うと話していた。国内で既存の古楽アンサンブルに所属しても、リュリやクープランの舞曲は出来そうも無いし、自力でフレンチ・バロックの処女地を切り開く、その意気や良しと言いたい。必ずしも室内楽に拘らずソプラノ歌手を加え、オペラ志向を明確にしているのも嬉しい処だ。

 後半のエール・ド・クールでも、高橋は四人の器楽奏者の伴奏へ軽やかに乗り、美しいレジェーロな声を振り撒く。意味は全く分からないにせよ、そのフランス語の発音の美しさも、何だか聴いていて陶然とする程だ。演奏に入る前に、歌詞の日本語訳を朗読したのも、良い工夫だったと思う。ル・カミュとドゥ・バッシーィは名前も初めて知るが、リュリより年長の世代なので、恐らくはルネサンス多声シャンソンの廃れた後、通奏低音付き独唱曲としてのエール・ド・クールを、確立した時期の作曲家とも思われるが、その辺りは不勉強で良く分からない。

 僕の若い頃、フレンチ・バロックで良く聴いたのは、シャルパンティエやドラランドの宗教曲で、エラートがコルボやパイヤールの演奏で、CDを沢山出していたのを思い出す。もちろんモダンだったが、これを聴きつつ春宵の一刻をを過ごすのに相応しい、典雅で優美な音楽と演奏だった。あれ等のCDも随分長い間聴いていないが、一つ久し振りに埃を払い聴いてみようかと思わせる、若いフレンチ・バロック専門家五人組の、今日は希求力ある演奏だったと思う。

シェーンベルク「月に憑かれたピエロ」op.21

$
0
0
2015年9月16日(水)20:00/カフェ・モンタージュ

ソプラノ/太田真紀
フルート/若林かをり
クラリネット/上田希
ヴァイオリン/泉原隆志
ヴィオラ/小峰航一
チェロ/高岡奈美
ピアノ/若林千春


 カフェ・モンタージュは京都御所の南側、住所で云うと夷川柳馬場の四つ辻にある。僕の訪れるのは二度目で、前回も新ヴィーン楽派でヴェーベルンのリートを、八月のサントリー・サマーフェスティバルでのツィンマーマン「レクイエム」にも出演した、ソプラノの森川栄子の演奏で聴いている。サマーフェスティバルではシュトックハウゼン「シュティムンク」も聴いたが、そこで太田真紀の「ピエロ・リュネール」の公演が京都であると思い出し、早速予約しようと思い立った時は、既に満席でキャンセル待ちになっていた。結局、公演前日になって席を確保出来た旨のメールが届き、滑り込みでコンサートを聴ける次第となった。二日公演と云っても四十席の会場で、キャパは百人にも満たないのだから、少し油断すると直ぐに満員御礼になって終うのだ。

 今回の「ピエロ・リュネール」の楽器編成は、シェーンベルクの原指定とは少し異なり、ヴァイオリンと持ち替えのヴィオラに奏者を起用し、指揮者は置かずに演奏する、純然たる室内楽のスタイルを採っている。この編成ではトータルの出演者は七名で同じでも、ヴィオラ奏者はやや手持無沙汰に見え、合わせるのが難しそうな箇所では、手の空いているフルート奏者が指示を出す等、元の指定に意味のある事は分かる。でも、聴いた感想で言えば、やはりこんな小編成の曲は指揮無しでの演奏の方が、個々の奏者の自発性を引き出せると感じる。

 六人の器楽奏者はソリスティックに、大きな音を出して競い合うので、聴く側からするとそれぞれの持ち場を守る、個々の楽器を把握し易い利点もある。「ピエロ・リュネール」は器楽伴奏付き独唱歌曲のように思われ勝ちだが、本来は七名の奏者が対等の立場にある室内楽と、今日の演奏は明確に示したように思う。それでも、さすがにピアノの音は大き過ぎるのでは?と感じても、これは室内楽と思いつつ聴けば、シュプレヒ・シュティンメの声が時にピアノに掻き消されても、それはそれで良いのだと云う気分になる。歌手の声を拾う録音では全て聴こえるが、実演で時々聴こえなくなるのは、最初からそう書いてあるからだと得心する。

 中音域より下での語りから、切り裂くような高音部へと広い音域を駆使する曲と、この辺りも僕のような素人は錯覚し勝ちだが、実は最高音はFisで音域的には低目の曲らしい。「ピエロ・リュネール」での音高とリズムの指定は、シュプレヒ・シュティンメで語る為のドイツ語の抑揚の記譜であって、決して“歌い上げる”ものでは無いのである。シェーンベルク本人も音楽的に重要なのは器楽演奏で、歌手は伴奏に寄り添い語るだけで良いと、そんな意味の言葉を残しているようだ。

 六名の器楽奏者の熱演と、そこに加わる室内楽の一員である事を心得た、太田真紀のドイツ語のディクションの工夫とが相俟って、大きなホールでは味わえない「ピエロ・リュネール」の真価を、今日は聴けたように思う。お経みたいでディヴェルティメント的な「シュティムンク」と、ホラー映画音楽の元祖とも云うべき、飽くまでシリアスな「ピエロ・リュネール」は、それぞれ異次元にある曲だった。全く性質の異なる難曲を、間を置かず歌い切った、太田真紀の努力と熱意に敬服である。

 上掲の写真は終演後の会場で撮影をお願いした太田真紀さんです。もっとキレイな写真なら良かったのですが、薄暗い中でピンボケになって終い、やはりフラッシュを使わなかったのが失敗でした。申し訳無いです。
Viewing all 226 articles
Browse latest View live


<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>