<京響特別演奏会「第九コンサート」>
2014年12月28日(日)14:30/京都コンサートホール
指揮/大野和士
ソプラノ/リー・シューイン
メゾソプラノ/池田香織
テノール/西村悟
バリトン/須藤慎吾
京都市交響楽団
京響コーラス
ラヴェル「亡き王女のためのパヴァーヌ」
ベートーヴェン「交響曲第9番ニ短調“合唱付”」op.125
お久し振りのベートーヴェンだが、そもそも第九は聴くより先に歌っていたので、前へ回って客席に座る前に聴き飽きたような気になっていた。だから雛壇席や舞台袖で聴いた演奏を除けば、これまでに第九はブリュッヘン18世紀オケと、若杉弘さんの指揮でしか聴いた事は無い。今日の大野さん指揮の第九は、我が生涯四度目の客席鑑賞となる。
第九の前の小手調べに、まずはラヴェル。弦楽主体の曲で分厚い響きはあるが、もう少しフランスっぽく煌びやかな音も欲しい気はする。十分も掛からない曲で楽器の入れ替えの後、直ぐに指揮者が再登場してベートーヴェンを演奏する。
曲の前半で指揮者は正攻法の、やや遅目のテンポで音楽を進める。まあ、第九の場合は一・二楽章に、新奇な解釈とかの余地は少なそうに思う。それでも大野の指揮では曲のポリフォニックな構造を、明示しようとする姿勢を強く打ち出していて、これで京響の木管の隙の無い布陣を再確認する事も出来る。木管ソロを弦楽の響きの中に埋もれさせず、フルートやクラリネットの絡みを浮き立ててくれれば、彼等の名人芸を堪能出来る。もしかするとこれも指揮者の、聴衆へのサービス精神の顕れなのかも知れない。
曲の対位法的な部分を掬い上げる解釈は、第三楽章でその真骨頂を示す。弦楽パートそれぞれの楽器に存分に歌わせながら、繊細なデュナーミクの起伏を施し、ポリフォニックな絡み合いを強調する手付きから、指揮者のロマンティックな音楽性が溢れ出るようだ。例のホルン・ソロの前後にある、ピツィカートのヴァイオリンのセンシティヴな扱い等、本当に絶品だったと思う。昔は京響のホルンと云えば、関西一円にその名を轟かせ(もちろん悪い意味で)ていたものだが、今はソロのパフォーマンスに不安を感じる事は無い。今日も技術的に至難なホルン・ソロを、奏者はピアニシモで吹き切ってくれた。
四楽章に入り“歓喜の歌”の主題を低弦が奏する際も、リタルダントやディミヌェントでタメを作ってから、指揮者はカンタービレへと持って行く。個々の奏者に存分に弾かせ吹かせる中で、小技を駆使しながら全体の構築へ繋げ、指揮者の音楽性をベートーヴェンの中に盛り込んでいる。こんな風に柔らかい第九を志向する指揮者が、声楽の入る四楽章後半に痛快な程のカタルシスを作ったのは、やや意外にも感じられた。最後のプレスティッシモへ雪崩込んだ時の速さは、一瞬呆気に取られる程だった。でも、そこにデモニッシュなものは一切感じられない。あくまでカンタービレな喜びに溢れる終楽章だったと思う。
京響は大野の統率の基、その本領を発揮したと思う。豊麗と云っても過言ではない弦楽パートに、管楽器のソリストの名人芸が加わり、指揮者の第九解釈を充全に表現するだけの実力を備えている。京響コーラスはトラを入れても九十名程度で、良く歌えていたと思う。この合唱団は純然たるアマチュアながら、事前に団内オーディションを実施し、例えキチンと暗譜出来ていても、ヴィブラートのキツくなった年寄りは落とされるそうな。まあ、それ位はしないと、この程度の演奏水準は保てないと云う事だろう。
僕が最後に第九を聴いたのは十三年も前の話。年末の大フィル第九で朝比奈隆の休演と、その代役に若杉弘さんを立てる事が発表され、僕は喜び勇んで二日公演のチケットを両日共購入した。初日の演奏を聴いた翌朝、朝比奈の訃報をテレビニュースで知る。その日の第九公演では追悼の曲を期待したが、若杉さんは聴衆に黙祷を求めただけで、そのまま第九の演奏に入って終い、僕は一瞬その前に何かやれって騒ごうかと思った。若杉さんもこの八年後に亡くなるとは、神ならぬ身の知る由も無かった。朝比奈・若杉の両氏に合掌。
2014年12月28日(日)14:30/京都コンサートホール
指揮/大野和士
ソプラノ/リー・シューイン
メゾソプラノ/池田香織
テノール/西村悟
バリトン/須藤慎吾
京都市交響楽団
京響コーラス
ラヴェル「亡き王女のためのパヴァーヌ」
ベートーヴェン「交響曲第9番ニ短調“合唱付”」op.125
お久し振りのベートーヴェンだが、そもそも第九は聴くより先に歌っていたので、前へ回って客席に座る前に聴き飽きたような気になっていた。だから雛壇席や舞台袖で聴いた演奏を除けば、これまでに第九はブリュッヘン18世紀オケと、若杉弘さんの指揮でしか聴いた事は無い。今日の大野さん指揮の第九は、我が生涯四度目の客席鑑賞となる。
第九の前の小手調べに、まずはラヴェル。弦楽主体の曲で分厚い響きはあるが、もう少しフランスっぽく煌びやかな音も欲しい気はする。十分も掛からない曲で楽器の入れ替えの後、直ぐに指揮者が再登場してベートーヴェンを演奏する。
曲の前半で指揮者は正攻法の、やや遅目のテンポで音楽を進める。まあ、第九の場合は一・二楽章に、新奇な解釈とかの余地は少なそうに思う。それでも大野の指揮では曲のポリフォニックな構造を、明示しようとする姿勢を強く打ち出していて、これで京響の木管の隙の無い布陣を再確認する事も出来る。木管ソロを弦楽の響きの中に埋もれさせず、フルートやクラリネットの絡みを浮き立ててくれれば、彼等の名人芸を堪能出来る。もしかするとこれも指揮者の、聴衆へのサービス精神の顕れなのかも知れない。
曲の対位法的な部分を掬い上げる解釈は、第三楽章でその真骨頂を示す。弦楽パートそれぞれの楽器に存分に歌わせながら、繊細なデュナーミクの起伏を施し、ポリフォニックな絡み合いを強調する手付きから、指揮者のロマンティックな音楽性が溢れ出るようだ。例のホルン・ソロの前後にある、ピツィカートのヴァイオリンのセンシティヴな扱い等、本当に絶品だったと思う。昔は京響のホルンと云えば、関西一円にその名を轟かせ(もちろん悪い意味で)ていたものだが、今はソロのパフォーマンスに不安を感じる事は無い。今日も技術的に至難なホルン・ソロを、奏者はピアニシモで吹き切ってくれた。
四楽章に入り“歓喜の歌”の主題を低弦が奏する際も、リタルダントやディミヌェントでタメを作ってから、指揮者はカンタービレへと持って行く。個々の奏者に存分に弾かせ吹かせる中で、小技を駆使しながら全体の構築へ繋げ、指揮者の音楽性をベートーヴェンの中に盛り込んでいる。こんな風に柔らかい第九を志向する指揮者が、声楽の入る四楽章後半に痛快な程のカタルシスを作ったのは、やや意外にも感じられた。最後のプレスティッシモへ雪崩込んだ時の速さは、一瞬呆気に取られる程だった。でも、そこにデモニッシュなものは一切感じられない。あくまでカンタービレな喜びに溢れる終楽章だったと思う。
京響は大野の統率の基、その本領を発揮したと思う。豊麗と云っても過言ではない弦楽パートに、管楽器のソリストの名人芸が加わり、指揮者の第九解釈を充全に表現するだけの実力を備えている。京響コーラスはトラを入れても九十名程度で、良く歌えていたと思う。この合唱団は純然たるアマチュアながら、事前に団内オーディションを実施し、例えキチンと暗譜出来ていても、ヴィブラートのキツくなった年寄りは落とされるそうな。まあ、それ位はしないと、この程度の演奏水準は保てないと云う事だろう。
僕が最後に第九を聴いたのは十三年も前の話。年末の大フィル第九で朝比奈隆の休演と、その代役に若杉弘さんを立てる事が発表され、僕は喜び勇んで二日公演のチケットを両日共購入した。初日の演奏を聴いた翌朝、朝比奈の訃報をテレビニュースで知る。その日の第九公演では追悼の曲を期待したが、若杉さんは聴衆に黙祷を求めただけで、そのまま第九の演奏に入って終い、僕は一瞬その前に何かやれって騒ごうかと思った。若杉さんもこの八年後に亡くなるとは、神ならぬ身の知る由も無かった。朝比奈・若杉の両氏に合掌。