Quantcast
Channel: オペラの夜
Viewing all 226 articles
Browse latest View live

ベートーヴェン「交響曲第九番」op.125

$
0
0
<京響特別演奏会「第九コンサート」>
2014年12月28日(日)14:30/京都コンサートホール

指揮/大野和士
ソプラノ/リー・シューイン
メゾソプラノ/池田香織
テノール/西村悟
バリトン/須藤慎吾
京都市交響楽団
京響コーラス

ラヴェル「亡き王女のためのパヴァーヌ」
ベートーヴェン「交響曲第9番ニ短調“合唱付”」op.125


 お久し振りのベートーヴェンだが、そもそも第九は聴くより先に歌っていたので、前へ回って客席に座る前に聴き飽きたような気になっていた。だから雛壇席や舞台袖で聴いた演奏を除けば、これまでに第九はブリュッヘン18世紀オケと、若杉弘さんの指揮でしか聴いた事は無い。今日の大野さん指揮の第九は、我が生涯四度目の客席鑑賞となる。

 第九の前の小手調べに、まずはラヴェル。弦楽主体の曲で分厚い響きはあるが、もう少しフランスっぽく煌びやかな音も欲しい気はする。十分も掛からない曲で楽器の入れ替えの後、直ぐに指揮者が再登場してベートーヴェンを演奏する。

 曲の前半で指揮者は正攻法の、やや遅目のテンポで音楽を進める。まあ、第九の場合は一・二楽章に、新奇な解釈とかの余地は少なそうに思う。それでも大野の指揮では曲のポリフォニックな構造を、明示しようとする姿勢を強く打ち出していて、これで京響の木管の隙の無い布陣を再確認する事も出来る。木管ソロを弦楽の響きの中に埋もれさせず、フルートやクラリネットの絡みを浮き立ててくれれば、彼等の名人芸を堪能出来る。もしかするとこれも指揮者の、聴衆へのサービス精神の顕れなのかも知れない。

 曲の対位法的な部分を掬い上げる解釈は、第三楽章でその真骨頂を示す。弦楽パートそれぞれの楽器に存分に歌わせながら、繊細なデュナーミクの起伏を施し、ポリフォニックな絡み合いを強調する手付きから、指揮者のロマンティックな音楽性が溢れ出るようだ。例のホルン・ソロの前後にある、ピツィカートのヴァイオリンのセンシティヴな扱い等、本当に絶品だったと思う。昔は京響のホルンと云えば、関西一円にその名を轟かせ(もちろん悪い意味で)ていたものだが、今はソロのパフォーマンスに不安を感じる事は無い。今日も技術的に至難なホルン・ソロを、奏者はピアニシモで吹き切ってくれた。

 四楽章に入り“歓喜の歌”の主題を低弦が奏する際も、リタルダントやディミヌェントでタメを作ってから、指揮者はカンタービレへと持って行く。個々の奏者に存分に弾かせ吹かせる中で、小技を駆使しながら全体の構築へ繋げ、指揮者の音楽性をベートーヴェンの中に盛り込んでいる。こんな風に柔らかい第九を志向する指揮者が、声楽の入る四楽章後半に痛快な程のカタルシスを作ったのは、やや意外にも感じられた。最後のプレスティッシモへ雪崩込んだ時の速さは、一瞬呆気に取られる程だった。でも、そこにデモニッシュなものは一切感じられない。あくまでカンタービレな喜びに溢れる終楽章だったと思う。

 京響は大野の統率の基、その本領を発揮したと思う。豊麗と云っても過言ではない弦楽パートに、管楽器のソリストの名人芸が加わり、指揮者の第九解釈を充全に表現するだけの実力を備えている。京響コーラスはトラを入れても九十名程度で、良く歌えていたと思う。この合唱団は純然たるアマチュアながら、事前に団内オーディションを実施し、例えキチンと暗譜出来ていても、ヴィブラートのキツくなった年寄りは落とされるそうな。まあ、それ位はしないと、この程度の演奏水準は保てないと云う事だろう。

 僕が最後に第九を聴いたのは十三年も前の話。年末の大フィル第九で朝比奈隆の休演と、その代役に若杉弘さんを立てる事が発表され、僕は喜び勇んで二日公演のチケットを両日共購入した。初日の演奏を聴いた翌朝、朝比奈の訃報をテレビニュースで知る。その日の第九公演では追悼の曲を期待したが、若杉さんは聴衆に黙祷を求めただけで、そのまま第九の演奏に入って終い、僕は一瞬その前に何かやれって騒ごうかと思った。若杉さんもこの八年後に亡くなるとは、神ならぬ身の知る由も無かった。朝比奈・若杉の両氏に合掌。

オッフェンバック「天国と地獄」

$
0
0
<びわ湖ホール・オペラへの招待/日本語訳詞上演>
2015年1月10日(土)14:00/びわ湖中ホール

指揮/大勝秀也
ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団
びわ湖ホール声楽アンサンブル
高島・長浜市民有志合唱団
合唱団「輝らりキッズ」
コーラスしゃぼん玉
湖西合唱協会

演出/中村敬一
美術/増田寿子
照明/山本英明
衣裳/村上まさあき
振付/山本貴子
滋賀洋舞協会

オルフェオ/古屋彰久
ユーリディス/飯嶋幸子
雷神ジュピター/的場正剛
冥界の王プルート/青柳貴夫
世論/森季子
女神ジュノー妃/本田華奈子
愛の神キューピット/平尾悠
処女神ダイアナ/藤村江李奈
美の神ヴェーヌス/岩川亮子
軍神マルス/林隆史
伝令マーキュリー/砂場拓也
従者ジョン・スティック/島影聖人


 グルック「オルフェオとエウリディーチェ」のパロディとして作曲された、オッフェンバックのオペレッタの原題は「Orphee aux Enfers」で、「天国と地獄」は大正四年、帝国劇場オペラでの日本初演の際の邦題である。「地獄のオルフェ」の邦題もあるが、元ネタのギリシャ神話には当然ながら、キリスト教に於ける天国の反対概念としての地獄は存在しない。僕の貧弱な宗教理解での天国は、唯一神ヤハウェさんと天使ミカエルさんやガブリエルさんが、楽しく暮らすお住まいと云う認識である。従って徒競走の伴奏曲「地獄のギャロップ」で知られるオペレッタの邦題は、ギリシャの神々のお住まいになる、「オリンポス山と冥界」が相応しいと愚考する次第である。

 赤の他人がオッフェンバックの旋律を継ぎ接ぎし、拵えたとか云う「天国と地獄」序曲だが、オケのテンポはキビキビしていて、これから始まるオペレッタへの期待感を高めてくれる。指揮者も職人的に手堅いと云うか、無闇に煽るのでは無く、リズムの切れで盛り上るのが嬉しい。ただ、オケには指揮者に引っ張られるのではなく、もう少し自発性の感じられると、尚良かったかな。

 賑やかな序曲が終わるとプロローグで、この場面はモンテヴェルディのオペラでお馴染みの、本筋の話と直接の関係の無い天上の神様同士の遣り取りの筈。でも、オッフェンバックの場合、神様連が本編の主役を務めているので、代わりに世論役のメゾが出て来て前説を述べる。森季子は小じんまりと纏まったレジェーロで、ここは手堅い処を聴かせてくれる。今日の舞台は「地域大連携オペラ創造プロジェクト」とやらで、公募されたママさんコーラスの婆さん連中が合唱に大量動員され、中にチラホラと爺様も交じっていた。

 それはそれで別に構わないのだが、問題は彼等の衣装と云うか服装で、つまり皆さん殆ど薄汚いと形容したくなるような、普段着姿で舞台に立たれているのだ。何らかの意図のあるとは到底思えないヒドサなので、これは単なる予算不足と思うが良く分からない。一幕での合唱は舞台進行の邪魔をしているようにしか見えない上に、プロの歌手同士の遣り取りもモタモタして、僕はウンザリしながら観ていた。だから二幕から、婆様連中が白一色の衣装に着換えてくれたのには、心底から胸を撫で下ろした。因みにオリンポスの神々の白い衣装は、滋賀県名産である高島チヂミの生地だそうである。

 主役のオルフェオは音楽教師の設定なので、小道具としてヴァイオリンを提げて出て来るのは定番だが、そこで古屋彰久君が持参の楽器を、実際に弾いて見せたのには軽く驚かされた。ただ、綿々と旋律を歌い上げたかと思うと、直ぐに音程が低目になったりして、巧いのか下手なのか良く分からない人ではある。もし、その辺りも意図的に遣っているのなら、これは相当なテクニシャンだろう。もちろん歌の方も、なかなか美声のテノールでした。

 一幕は歌手も様子見だったのか、或いはまだエンジンの掛かっていなかったのか、二幕に入ると舞台は急にスムーズに動き出す。オペレッタの演出ではスピード感が重要で、畳み掛けるように進めて貰わないと困るが、もしかすると合唱団員の多過ぎで練習量に不足し、一幕は手を抜かざるを得なかったのかと邪推して終う。取り合えず舞台衣装を白一色に統一したのは成功で、見た目がスッキリしたのは大きかったと思う。

 あの婆さん連中を舞台に上げないと、恐らくは文化庁からの助成金を受け取れないのだろうが、ギクシャクと身体を揺する無表情な年寄りを見せられるのは、なかなか辛いものがある。シゲシゲと観察して気付いたのだが、婆さん連中は右手と左手を同時に上下させる縦ノリで、オッフェンバックの音楽に合わせようとしている。ディスコ・ダンスってのは右手と左手を、交互に振って踊るものだろうと僕は思わず突っ込んで終う。まあ、ここは足枷にしかならない婆さん共を、一応は舞台に組み込み機能させた、演出家のご苦労を多とすべきなのだろう。

 二幕以降の舞台をスムースに進めた立役者として、まずジュピターの的場正剛君を評価したい。長身で舞台姿も映えるし、バリトノ・カヴァリエーレと評したい剛毅な声も魅力的だが、何よりその抜群の演技力で舞台をを引き締めてくれた。キューピットの平尾悠さんも、コケットリーを表現出来るスープレッドで役柄にハマり、この二人で全体をリードしたと云っても良いかと思う。TMレヴォリューションをネタにした、平尾さんと的場君との遣り取りは結構笑えた。

 一幕ではソツなく綺麗でも声量が無く、演技にもハジケた処の無いユーリディスに不満を覚える。コケットリーを強調すべき役柄だし、もう少し演出で何とかならなっかたものか。ただ、この方にはコロラトゥーラの技術があるので、三幕の冥界の場面以降は精彩を放っていた。主役級の中ではプルートのテノールも少し弱かったかな。演技はまずますでもスピントするフォルテを張れないので、歌の表現力と云う点で問題がある。

 脇役の中では冥界の番人の島影聖人君が良かった。三幕のアリアは音色の変化を意識して、なかなか上手に歌ってくれた。彼の抜いた刀が折れてブラブラしていたのは、アクシデントにも見えたのだが、それにしてはリアクションが巧すぎるなぁと思っていた。終演後スタッフの方にお尋ねすると、やはり刀が折れていたのは演出だったそうです。

 地域連携ナントカの一環か、三幕に出番のある児童合唱と四幕のバレエ団も地元勢だが、児童合唱をお上手とは言い兼ねるし、バレエは衣装も自前なのか演出との関連性は希薄で、これも何だか取って付けたように見える。合唱団も中音域ではママさんコーラスっぽい嗄れ声だったが、高音域やフォルテになると婆さん連中の声は消えて、声楽アンサンブルの声だけになるので、こちらは然程に問題とは感じなかった。

 びわ湖ホール声楽アンサンブルに拠るオペラ上演は、指揮者と演出家が若手歌手をジックリと指導し、充分な稽古を積んで本番に臨む処に魅力がある、僕はそんな風に考えていた。大勢の素人を抱えて右往左往する、今回の舞台にはやや失望させられたが、その制約の中で良く健闘したとも思っている。

モンテヴェルディ「ウリッセの帰還」

$
0
0
<アントネッロのオペラプロジェクト“オペラフレスカ”/プレミエ即千秋楽>
2014年3月21日(金)17:00/川口リリア音楽ホール

アントネッロ Anthonello
指揮&リコーダー/濱田芳通
ヴィオリーノ/杉田せつ子/天野寿彦
ガンバ/石川かおり/なかやまはるみ
ヴィオローネ/西沢央子
ファゴット&フラウト/古橋潤一/細岡ゆき
コルネット/細川大介
トロンボーネ/宮下宣子/小倉史生
アルバ・ドッピア&チェンバロ/西山まりえ
ティオルバ&キターラ/高本一郎
オルガノ/矢野薫
レガーレ/湯浅加奈子
タンブレロ/田島隆

演出&老人/彌勒忠史
照明/西田俊郎
衣装/友好まり子

ウリッセ/春日保人 
ペネローペ/上島緑
テレーマコ/中嶋克彦
牧童エウメーテ/黒田大介
乳母エリクレア/人見珠代
ピサンドロ/上杉清仁
アンティノオ/酒井崇
アンフィノモ&太陽神/鹿野浩史
ジュノーネ妃&愛の神/末吉朋子
知恵の神&運命の神/澤村翔子
海神&時の神/小笠原美敬
乞食イーロ/渡邉公威


 アントネッロのモンテヴェルディ・オペラ三作一挙上演企画。その掉尾を飾る「ウリッセの帰還」を観る為、福島から東京まで青春18切符で戻って来た。実は僕は今日初めて、「ウリッセの帰還」の実際の上演に接する。この作品の上演機会は、モンテヴェルディの他の二作に比べると極端に少なく、確か関西では未上演の筈で、三つしか残っていないオペラの内の一つなのに、これまで随分と等閑視されて来た訳だ。

 僕もヴィデオなら幾つか持っているが、それらを見ても「ウリッセの帰還」のお話し自体、今ひとつ理解出来ていなかったように思う。今回、実際の上演をジックリと観て、やはり演奏頻度の少ないのにそれなりの理由はあると感じた。単純な話、このオペラの筋立ては起承転結になっていない。矢鱈に本筋と関係の無い場面が入って来る印象で、お話しの前に進まないもどかしさは有る。

 この辺りの事情をアーノンクールは、「当時の教養ある聴衆はギリシャ叙事詩を細部まで熟知していた為、緊張と緩和による劇展開も、また全ての登場人物を劇の法則に従って克明に描写する事も必要とされず、この良く知られた物語は一幅の叙事詩のように描き出される事で充分だった」と説明している。これは例えば歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」で、皆どうせ筋は分かってるんだしと、摘み食いのように「祗園一力の場」や「二つ玉の場」等、単独で上演するのと同じような事情だろうか。何れにせよ「ウリッセの帰還」の演出は分かり難いお話しを、分かり易く絵解きせねばならないと云う、厄介な問題を抱えている訳だ。

 今回の彌勒演出の“世界観”は、「どこの国のどこの時代かは分からないけど日本風」だそうで、そのコンセプトは「魔笛」みたいなお伽噺らしい。それはそれで構わないのだが、僕が問題と感じるのはその無国籍風衣装が、どれも同じように見える点にある。つまり衣装から歌手の役柄を類推し難いので、誰が何に扮しているのか見た目では分からないのだ。例えば百姓なのか漁師なのか商人なのか、或いは侍とか公家とかお姫様とか、何でも良いから一目瞭然な衣装を歌手に着せてくれれば、それだけでオペラのストーリーも少しは分かり易くなる筈だ。

 演出の彌勒は「歌舞伎や能など、既存の伝統芸能そのものに頼る事はしていない」とも述べているが、これは単なる伝統文化に対するコンプレックスの顕れだろう。演出家が衣装デザインにどの程度関わっているのか知らないが、そんなものは専門家に丸投げすれば、適当に歌舞伎風だか時代劇風だかの衣装を作ってくれる。なんちゃって歌舞伎風で充分にも拘らず、それをしない理由はコンプレックス以外に考えられない。

 日本の古楽演奏は狭い世界で、妙な縄張り意識もあるやに仄聞する。オペラ上演に於ける演劇面の重要性に思いを致し、古楽演奏家もプロデューサーとしての見聞を広めれば、「ウリッセの帰還」の分かり難いお話しを平易に読み解く、そんな演出家も自ずと浮かび上がる筈だ。その役割を指揮者の濱田君が負うのか、或いは専任のコーディネータに委嘱するのかは、僕の感知する処では無いけれども。

 「ポッペアの戴冠」「オルフェオ」では、結構ジャズっぽかったアントネッロの演奏だが、前回まで二人居たパーカッショニストも一人になり、今回は割りに普通に古楽オケしていた。求婚者三人組の歌手にはラテンのリズムで歌わせたが、打楽器では無くギターでリズムを作っているので、ジャジーな要素は薄まっている。バロックにラテンのリズムを取り入れるような奇手は、何度も使えばマンネリ気味になるし、そろそろ正攻法に戻そうと云う事か。指揮者は相変わらず舞台上で踊っているが、ああ云ったアクションはキチンと四拍子を振った上で、その後に崩すものだろう。少なくともコンティヌオにまで、大振りする必要は無かろうにと思う。

 タイトル・ロールの春日保人は軽い声のハイ・バリトンで、抜群のアジリタの技術があり、場面毎の雰囲気を掴んで歌い分ける、表現力にも秀でている。ペネローペの上島緑は抜擢された若手アルトだが、やや声量に乏しく、立役者らしい存在感に欠ける印象を受ける。テレーマコとエウメーテの二人のテノールは、中嶋克彦がリリックな声質でムラなく安定していて、黒田大介はやや重目のリリコでキャラクターっぽい声質がある。この二人の組み合わせで、声の対照性も生かされている。黒田はオルフェオではタイトル・ロールだったが、今日聴いた処では脇役向きの声のように思う。

 ペネローペの求婚者三人組のアンサンブルは上手で、オペラを支える大事な役処をキチンとこなしている。中ではオルフェオにも出ていた、鹿野浩史のレジェーロな声が良かったかな。末吉朋子と澤村翔子はポッペーア出演組で、二人ともアジリタを買われての起用だろう。この神様コンビも、リリックなコロラトゥーラの末吉と、綺麗に伸びるレジェーロな澤村で組み合わせの妙があった。初登場組でエリクレアの人見珠代は、柔らかく美しい声のメゾ・ソプラノで、もう少し歌う分量の多い役で聴きたかった。イーロの渡邉公威は美味しい処を浚って行くコメディ・リリーフで、声よりも外見で選ばれたのは一目瞭然。“Lasciatemi morire”(私を死なせて)と歌う場面は結構笑えた。

 最も不満の残る演出の人だが、あの人がフリー・ペーパーに連載しているエッセイに、僕は以前から疑問を抱いている。グルメ・エッセイで食い物の話しかしないのだが、そこに酒の話が全く出て来ないのだ。そのエッセイで彼が例え一滴でも、アルコール類を摂取したという記述は無かったと記憶している。確か「こうもり」の話題もあったが、シャンパーニュを飲んだとは言わないし、「ビールを飲みたくなったが本番を控えて我慢した」とかで、どうやら彼はアルコールを殆ど受け付けないらしい。下戸のグルメって言葉の矛盾では無いのか?とは、個人的な偏見と自覚はしている。ただ、フレンチやイタリアンの基本は、ワインと料理を合わせる事では?とは思うのだ。

 勿論、それが彼の演出の成否と関係すると主張する積もりは無いし、総合的な西洋史理解に影響するとも思ってはいない。ただ、食い物の話ばかりして、キリスト教文化の基本とも云える葡萄酒の話を避けるのは、入口の処で間違っているのでは無いかと、単なる素人は危惧する次第である。

 斯くして僕はアントネッロのモンテヴェルディ三連発に全て付き合い、やや尻すぼみの観はあったものの、取り合えず三作とも観劇出来た事に今は満足している。

モーツァルト「ハ短調大ミサ」K.427

$
0
0
<モーツァルト~未来へ飛翔する精神/妻と捧げる祈り>
2015年1月17日(土)15:00/いずみホール

指揮/鈴木秀美
オーボエ/エドゥアルド・ウェスリィ/ゲオルク・ズィーベルト
クラリネット/山根孝司/西川智也
バセットホルン/横田瑤子/西田佳代
ファゴット/堂阪清高/永谷陽子
ホルン/エルメス・ベッキニーニ/ディメル・マッカフェーリ/藤田麻里絵/飯島さゆり
コントラバス/西澤誠治

ソプラノ/中江早希/望月万里亜
テノール/谷口洋介
バス/浦野智行
オーケストラ・リベラ・クラシカ
コーロ・リベロ・クラシコ

モーツァルト「セレナード第10番“グラン・パルティータ”K.361/
ミサ曲ハ短調“グロッセ・ミサ”モーンダー補筆版 K.427」


 リベラ・クラシカは今から十三年前、モーツァルトやハイドンなど古典派音楽の演奏を目的として、チェリストの鈴木秀美が結成したピリオド・オケである。秀美の兄貴の雅明はバッハを主とした、バロック音楽を演奏するBCJの主宰・指揮者なので、兄弟は国内古楽演奏界で棲み分けを行なうと共に、商圏の更なる拡大を図っている訳だ。リベラ・クラシカが声楽曲を取り上げるのは初めてで、新結成合唱団の旗揚げ公演となる、今日のコンサートを僕は楽しみにしていた。

 鈴木秀美が古楽オケを作り指揮をすると知った時、僕はやや違和感を覚えた。失礼ながら彼には、兄貴の組織するアンサンブルで通奏低音を弾く、チェリストのイメージしか無かったからだ。四半世紀前、有田正広は東京バッハ・モーツァルト・オーケストラを立ち上げたが、あの人こそ卓抜したフルーティストではあっても、指揮者に向くタイプとは思えなかった。恐らく他に適任者も見当たらない中、周囲に祭り上げられ、神輿に乗っただけだろうと臆測する。

 だが、鈴木秀美の場合は違ったようで、リベラ・クラシカ結成から十年余りを経た今、彼は山響や名フィル等のモダン・オケにポストを得て、指揮者として活動の場を広げている。指揮者とは他人に推されてなるものでは無く、自分で人を集めてオケや合唱団を立ち上げる、その位の気概を持たないと成功は覚束無い商売だろう。要するにお山の大将になりたがり、政治的な駆け引きも厭わない性格を必要とする職業で、楽器を上手に弾けるのは、指揮者の必要条件では無いのだ。

 コンサートの前半は「グラン・パルティータ」で、十二管楽器とコントラバスで十三名の奏者と、七楽章で演奏に小一時間を要する大曲である。鈴木秀美は譜面台を前にして指揮したが、この曲に果たして指揮は必要なのか、やや疑問に感じる。十三名の手練れの奏者は放って置いても、自分達でアンサンブルを構築した上で、勝手に盛り上がって行く筈だ。事実トゥッティになれば、指揮にも多少の意味はあるように感じるが、ワルツ風の三拍子やポリフォ二ックに展開する部分になると、みんな概ね勝手に弾いているようにしか見えない。この曲を大好きな鈴木秀美は、自分の弾くべきパートの無い事を遺憾に思い、その鬱憤晴らしに指揮をしているのではないか?と忖度する次第である。

 クラリネットとオーボエの吹く主旋律等、もう少し華やかな音色があっても良いような気もしたが、やはりピリオド楽器だし僕としても、この渋い音色を楽しむのに吝かでは無い。こんな事を誉めると失礼に当たるかも知れないが、ファゴットやホルンなど低音系楽器のリズム感の良いのに感心する。これも勿論、テクニックを前提としたリズムの良さで、あんな扱いの難しそうな楽器を自在に操る、その技術力に瞠目させられる。この低音楽器のリズムの支えがあってこそ、旋律系の楽器も気持ち良く吹けるのだろう。

 休憩後はハ短調ミサ。クレドからサンクトゥスへの、華やかな音楽での愉悦感は充実しているが、冒頭のキリエからグローリアへ掛けての短調の曲で、パセティックな情感の表出が乏しく感じられ、全曲を通した明暗の対比はやや甘くなっている。結論から言って終えば、個人的にハ短調ミサの劇的な展開を、今ひとつ楽しむ事は出来なかった。

 ソプラノの中江早希は大学院在学中の若手だが、既に抜群のアジリタの技術を持っていて、今回の抜擢を納得させるだけの力量の持ち主である。ただ、倍音に乏しい直線的な発声法で、響きの豊かさに不足するのと音色の変化にも乏しく、この曲のソリストとして必須の華やかさに欠けている。残念ながら今少し研鑽を積まないと、モーツァルトやバッハで大向こうを唸らせるのは難しいと思う。

 二番手のソプラノもスピントする高音部はソコソコ歌えたが、中音域を喉だけで支える発声で、技術的な未熟は明らかだった。テノールとバスは共に経験豊富で、この曲では歌う分量も少なく、二人とも安心して聴ける。取り分け浦野のメリスマでの卓抜な技術に感心した。新結成コーラスのトゥッティは若手を中心に、カウンターテノールには上杉清仁、バスには東京二期会と新国立の「魔笛」でパパゲーノを務める萩原潤等を配し、ソリスト級を揃えて万全の布陣を敷いている。

 合唱の出来自体はごく普通と思うが、やはりバッハ・コレギウム・ジャパンと比べて終うと、倍音の豊かさに欠けるのは否めない。取り分けトレブルの声に潤いの感じられないのは、ソロを歌ったコロラトゥーラ・ソプラノの声が、トゥッティでも聴こえる所為と思う。まあ、即席合唱団に有り勝ちな問題点ではある。BCJには経験豊富な指揮者に拠る二十年の蓄積があるので、両者を性急に比較するのは酷だし、声楽は素人の鈴木秀美に高望みすべきでは無いとも思うけれども。

 だが、トレブルに倍音の膨らみが欠けると、終盤のオザンナでもパート毎の、クッキリとした音色の変化が付かない為、フーガも立体的に浮き立って来ず、ハ短調ミサの華麗な展開を描き切れない憾みは残る。オケとコーラスの倍音が一致しないと、その相乗効果でホール一杯に広がる、音像を享受する快感も得られない。オケの技量に問題のある訳では無いので、コーラスの土台作りを下振りに委ねるのも、一つの解決策かも知れない。

 そもそもBCJにしてからが、二十数年前の立ち上げ当時は合唱練習に二日、更にオケ合わせに四日を費やし、当然ながら本番当日もシコシコと稽古し、声と楽器を合わせた演奏全体の完成度を高めていたらしい。結成十四年目を迎えるリベラ・クラシカだが、初めての声楽入り管弦楽演奏で、そう易々とBCJに追い付ける筈も無いと思う。

 でも、これだけの重量級のプログラムの後にも関わらず、アンコールを演奏してくれたのは嬉しい限り。定番の「アヴェ・ヴェルム・コルプス」だったが、この曲は終始ピアニシモで通されるので、合唱団の音色の変らない弱点は覆い隠される。シミジミと胸に沁みる演奏だった。

ザ・カレッジ・オペラハウス&新国立劇場合唱団

$
0
0
<合同演奏会とオペラ合唱ワークショップ>
2014年3月27日(金)18:30/大阪音大ザ・カレッジ・オペラハウス

指揮/三澤洋史
演出/岩田達宗
ピアノ/岡本佐紀子
ザ・カレッジ・オペラハウス合唱団
新国立劇場合唱団

ヴェルディ「祭りの晴れ着が/黄金の翼に乗って(ナブッコ)/乾杯の合唱(椿姫)」
ヴァーグナー「糸紡ぎの合唱/水夫の合唱」(さまよえるオランダ人)
マスカーニ「オレンジの花は薫り/復活祭の合唱/乾杯の合唱」(カヴァレリア・ルスティカーナ)


 大阪音大が新国立劇場専属合唱団と、そこで合唱指揮者を務める三澤洋史を招き、コンサートを行う。如何なる内容か良く分からないが、やはり日本のトップ・プロフェッショナル合唱団の来阪と云う事で、金曜日の夕暮れ時に大阪音大まで赴いた。

 今日の催しはコンサートとワークショップの二本立てで、まず前半は整列した合唱団が、正面を向いてオペラの合唱曲を歌う。ナブッコで縦のピタリと揃っているのに感心するし、テヌートの揃え方やフレーズの切り上げ方等を合わせる、その技術力にはホレボレするような正確さがある。三澤の指揮は長いタクトを振り回し、打点を明確に示す端正な、或いは如何にも下振りっぽいスタイルに見える。大阪音大と新国立劇場が、それぞれ二十名づつを出す四十名での演奏だが、三澤の意図は徹底していると感じる。

 糸紡ぎの女声合唱でソプラノの音色は重目でも、ノン・ヴィブラートは徹底しているし、スフォルツァンドしたり僅かにタメを作ったりしても、やはりピタリと合わせて来る。水夫の男声合唱では、さすがにフォルテで音色はバラけるが、これは人数的に致し方の無い処だろう。それと舞台上演で水夫の合唱を聴く際の、心の湧き立つような楽しさは伝わらず、僕はやや退屈した。本番の指揮者が手を加える前の、下振りを済ませた状態で、一応は仕上がっている半製品を聴かされた印象だ。

 次のマスカーニで受講の音大生二十余名が加わる。人数の増えると音楽に余裕と膨らみは出るが、やはり縦を揃えて進むだけの、ビジネス・ライクな演奏と云う印象は拭えない。開幕の合唱はシンコペーションで進む部分が事務的に聴こえ、やはり本番へ渡す前の素材と云う風に感じる。それと合わせは前日だけだったそうで、縦の線は即席でも合うのだろうが、パート内部の音程はイマイチ揃っていなかった。

 暫時休憩後、公開ワーク・ショップに移る。歌手は板付きで、三澤洋史はピアノ伴奏を指揮し、岩田達宗は舞台上の動きにダメ出しする、ごく一般的なオペラの立稽古が始まる。ただ、三澤も岩田も舞台上の受講生に対し、その場で気付いた点を指摘していて、音楽面と演技面と云う明確な分担は無い。

 最初に岩田の演出コンセプトが示され、「カヴァレリア・ルスティカーナ」の乾杯の場面で、復活祭イースターはマリアの息子のイエスが生き返るのを祝う祭り、つまり母が息子の蘇りを喜ぶ日であり、みんな休暇で遠方から帰省する“家族の日”と説明される。そこから話を膨らませ、合唱団から男女二人を選んで夫婦に見立て、赤ん坊の人形を持たせたりする。終いにサントゥッツァは妊娠している設定となる等、なかなか興味深く拝見した。

 お時間となって次に移り、「椿姫」一幕冒頭の舞踏会の場面。岩田の説明ではアルフレードやガストンの若い連中と、ヴィオレッタのパトロンでドフォールやドヴィニーと云った爺様の間には、世代の対立があると云う。アルフレードの歌が巧いのを知っているガストンは、彼に歌わせて年寄り連中をギャフンと言わせたいのである。年寄り共は田舎者のアルフレードをを馬鹿にしていて、でも彼が実際に歌うと上手なので驚く設定と説明する。また、三澤はアルフレードは自分では田舎者と思っているが、実は結構カッコ良いと補足する。

 岩田はシャンパーニュは昔も今も貴重な飲み物で、だからアルフレードの歌へのリアクションとして、コーラスはシャンパーニュを飲むのを忘れる程、盛り上がらなければならぬと諭す。何でも良いから驚けと云う訳で、その辺りは個々の歌手も工夫しなければならず、それに対しダメ出しをして、モブの演技を作って行くのだと説明する。基本的な処でフルート・グラスを手に持つ際は、腕を少し身体から離して持つと見た目が良い、と受講生に指示を出す。プロの人は皆そうしてるでしょ、これは基本だよと仰る。

 最後はアルフレードがヴィオレッタを口説く場面で、三澤は歓楽を知る女が愛を知るその瞬間、ビビッと来る処を表現せねばならぬ、それを見た観客にヴィオレッタを眩しいと思わせなけれならぬと説く。これを引き取った岩田はヴィオレッタの受講生に、アルフレードの前方に立てば拒絶の意味になる。これに対しアルフレードには小卓にフルート・グラスを置いてから、背後から真っ直ぐヴィオレッタを見詰めよう等、実地指導を行う。

 コンサートはそれなりに楽しめたし、ワーク・ショップにも興味深い内容はあった。場馴れしたオペラ歌手と、何事も目新しい受講生とで、反応の異なるのも面白い。演出家と指揮者の双方からダメ出しされ、途惑うアルフレードの受講生に客席から、「頑張れ!」と声の掛った(それも何度も)のには驚いたけれども。ただ、何れにせよ未完成品を聴かされ、見せられた感は否めない。新国立劇場合唱団の実力を疑う余地は無いが、それも本番の指揮者の演奏で聴くべきものと知らされる。ケチ臭いようではあるが、本来は無料のリハーサル見学で、金を取られたような気もしないでは無かった。

びわ湖ホール声楽アンサンブル第54回定期公演

$
0
0
<日本合唱音楽の古典III>
2014年3月29日(土)14:00/びわ湖小ホール

指揮/沼尻竜典 
ピアノ/渡辺治子
ナレーター/西山琴恵

びわ湖ホール声楽アンサンブル
ソプラノ/岩川亮子/栗原未和/中嶋康子/松下美奈子
アルト/小林あすき/田中千佳子/本田華奈子/森季子
テノール/青柳貴夫/島影聖人/古屋彰久/山本康寛
バス/砂場拓也/林隆史/的場正剛/迎肇聡

平井康三郎「山頂雷雨」
玉木宏樹「レモン色の霧よ」
平吉毅州「潮風よ教えておくれ」
團伊玖麿「岬の墓」
廣瀬量平「海鳥の詩」(全4曲)
清水脩「山に祈る」(全5曲)
三善晃「ゴリラのジジ」(動物詩集)


 びわ湖ホール芸術監督が声楽アンサンブルを自ら指揮する、二年に一度廻って来る定期公演である。幼い頃は児童合唱団に所属し、中学高校の部活にもコーラス部を選んだ、沼尻竜典芸術監督は真正の合唱おたくとして夙に名高い。今日のプログラムは本人以外誰も知らないマニアックな曲と、比較的に知られた曲とを組み合わせたが、何れにせよ合唱おたくの面目躍如と云うべき選曲である。

 まずは余りにもマニアックな三曲でコンサートは始まる。冒頭の平井康三郎は沼尻が小学生の時、お母ちゃんの所属する合唱団の演奏で聴いた曲で、彼の合唱体験の原点だそうである。本人の説明では「流浪の民」とか、ベートーヴェンのピアノ・ソナタとかを研究したフシのある曲、と云う事になる。要するにベタな合唱曲なのだが、これを沼尻は誠にベタな演奏で聴かせる。ただ、アマチュアでは絶対に出せないようなフレーズを、プロ歌手は出して終うのが快感ではあった。

 次の玉木宏樹は三部合唱で、何だか中学の合唱コンクールの課題曲みたいだなぁ、と思って聴いていたら本当に、Nコン中学校の部の課題曲として作られた曲だった。しかも沼尻はこの曲を中学のコーラス部で歌っているらしい。全くマニアックの極みだが、本人はこのテの曲は音楽的な意味より、参加する事自体に意義があると言い訳する。それならポピュラー編曲で良いじゃないかと云う意見もあろうが、それではイージーなのだそうで、ポップスは美しい曲を美しく歌う、本筋から離れているのだと説く。その言葉通り、この曲での沼尻は大人し目で、美しいメロディを美しい声で歌う、割りに抑え気味の演奏だった。

 平吉毅州も中学生向け教育音楽で、演奏もソプラノとアルトのノン・ヴィブラートが美しく、単純に楽しく聴ける歌。ただ、ピアノ・ピアニシモの極小音量でのロング・トーンを、一パート四人で支えるのは、如何にプロ歌手と謂えども厳しいものがある。沼尻の言に拠ると、このテのコンクール向けの曲には、演奏時間に四分の制限があるので、二分四十秒辺りでクライマックスを迎えた後、静かに歌い納める事となるらしい。ピアニストは上手だったので、どのような経歴の方かと見ると、伴奏やコレペティの人では無く室内楽を専門とされる方のようだ。

 指揮者の個人的マニアック選曲を終えると、次は一般的おたく路線で團伊玖麿「岬の墓」は、二つの主題を展開して演奏時間に十五分を要する、合唱曲としては比較的に大規模な曲である。冒頭のヴォーカリーズで、ソプラノのピアニシモの歌い出しにゾクッとするが、これは大編成向けの曲なので、弱音を持続するのは結構キツイものがある。その代わりにさすがはオペラ歌手の集団で、フォルテシモに関しては往くとして可ならざるは無し、と云う印象を受ける。また、この曲の演奏では最も重要な、展開に連れて変化するハーモニーの色合いを、指揮者は鋭く捉えていた。

 「岬の墓」はクラシック音楽としての演奏解釈に耐える得るし、廣瀬量平「海鳥の詩」は綺麗に音の鳴る曲で、ひとつ一つの音の主張がハッキリしていると沼尻は解説する。そう云えば昔、三木稔が合唱コンクールの審査員をしていて「海鳥の詩」を聴き、廣瀬量平は合唱曲では三和音の曲をコソコソ作っているのかと、揶揄していたのを思い出す。これは三木の廣瀬に対するライバル心なのか、或いはコンプレックスのようなものなのか。

 「海鳥の詩」に関して指揮者に新奇な解釈は無く、持ち前のテンペラメントを発散して、「エトピリカ」終結部のフォルテシモには爽快感すらあった。「海鵜」は譜面通りの強弱とメリハリで、レガートとノン・レガートを使い分け聴かせる演奏。終曲の「北の海鳥」に至ると、もう指揮者はノリノリで、こんな曲にここまで入れ込む、真意を測り兼ねる程だった。

 沼尻は子供の頃、お母ちゃんが居た日本興業銀行(現みずほ)の職場コーラス部の演奏で、清水脩「山に祈る」を聴いたらしい。戦後の高度成長期の金融業界には興銀の他にも、大和銀行(現りそな)や北海道拓殖銀行(破綻自主廃業)等に合唱部があって、それなりにレヴェルの高い演奏をしていたらしい。今は昔の物語だが、この頃の興銀コーラス部を指揮していた佐々金治と云う人は、齋藤秀雄の指揮教室で久山恵子や山本直純や小澤征爾の同窓生だった人らしい。まあ、齋藤秀雄の弟子だからと云って、指揮者としての能力は保障されないが、佐々金治は沼尻からすれば先輩に当る人なので、一応の敬意を表しているのだろう。

 昔あんなに流行った「山に祈る」なのに、現在は楽譜もオンデマンドだと沼尻は嘆いて見せるが、僕は初めて聴く曲。ダークダックスの初演した男声四重唱に管弦楽伴奏がオリジナルだが、今日は作曲者本人に拠る混声版ヴォーカル・スコアでの演奏。指揮者の解説では歌詞が九番まであるソング形式で、ヨーデル等も使用する、当時としては野心的な曲だそうである。まあ、初めて聴いた僕の感想は、直裁な表現が今日的な感覚に合わないかも知れない音楽、と云った処か。

 でも、演奏そのものは平易な旋律でハモり続けて、声楽アンサンブルの倍音の響き渡るのも心地良く、ピアニストのサポートも効果的な、僕の周囲のご年輩の女性方を泣かせる曲のようだった。何だか周りでズルズルと鼻を啜る音は随分と聞こえたぞ。

 最後は指揮者の作曲の師匠である三善晃「ゴリラのジジ」で、アーティキュレーションの付け方による言葉の捌きと、デュナーミクの作り方が素晴らしい、軽やかな名演だった。声の輝きとダイナミク・レンジの広さは、さすがにプロ歌手の演奏と感じ入る。僕はこの曲を故渡部康夫先生の指揮する、安積女子高校の演奏で初めて聴いた。インパクトのある演奏だったと思うが、今日の指揮者の解釈からすれば、聊か大仰に過ぎたのかも知れない。

 アマチュアもやる合唱曲に、フランス和声を惜しみなく投入し、全てのエッセンスを傾注した処に三善晃の面目がある、そう沼尻は説明する。必然的に演奏の難易度は上がるが、三善晃以後の世代の作曲家は全て彼の影響を受けているので、今時のコンクール曲は矢鱈に難しくなって終った。全て三善の所為である。

 アンコールは先々月に初演された、指揮者自作のオペラ「竹取物語」からエンディング・コーラスで、これこそ中学校の合唱コンクール課題曲みたいな、混声三部合唱でも全く違和感のない曲だった。ここまで沼尻がポピュラー音楽とは違う、平易な合唱曲の必要性に付いて、何故クドクドと述べて来たのか、これで一気に分かって終った。沼尻芸術監督はびわ湖ホールで「竹取物語」の舞台上演を企てているそうで、今日ここまでの彼の言い訳は、全て自作オペラの価値を擁護する為と云うオチだった。

 アンコール二曲目の東海林修「怪獣のバラード」は、前回の沼尻指揮に拠る定期公演と同じ曲。ただ、あの際は向谷実のシンセサイザー伴奏だったが、今回はピアノ伴奏でイマイチ楽しさに欠け、指揮を止めて踊り出した芸術監督のサービス精神も、やや空回り気味になったのは残念至極。

 上掲の写真は来たる平成二七年八月に滋賀県で行われる全国高校総合文化祭、滋賀びわこ総文の宣伝に励むマスコットキャラクター“湖楠(うみな)”君です。その節はご協力有難うございました。

うたうだけ~武満徹ソングス

$
0
0
<林美智子&大萩康司デュオ・リサイタル>

メゾソプラノ/林美智子
ギター/大萩康司
フルート/斎藤和志
お話し/武満真樹

J.ルノアール:聞かせてよ愛の言葉を
武満徹「翼/○と△の歌/小さな部屋で/ギターのための12の歌》より ロンドンデリーの歌、ヘイ・ジュード [ギター・ソロ]
武満徹:死んだ男の残したものは
武満徹:小さな空/海へ-アルト・フルートとギターのための-/うたうだけ/恋のかくれんぼ
レノン=マッカートニー:イエスタデイ

第7回声楽アンサンブルコンテスト全国大会

$
0
0
<感動の歌声響け、ほんとうの空に>
2014年3月20日(木)10:00/福島市音楽堂

大阪信愛女学院高校合唱部(女声16名)
指揮/佐藤謙蔵
Levente Gyongyosi:Cantate Domino
千原英喜「もう一度」
 ラテン語でピアニシモのテンションを保ち切れないのは難だが、速いパッセージとフォルテシモで力のある処を聴かせる。邦人曲は柔らかく優し気なニュアンスのある演奏だが、ややリズムが重く引き摺り気味なので、もっとアゴーギグに工夫を凝らすか、軽くアチェルラントすれば効果的だろう。美しく清澄な声だがソプラノが高音部でスピントせず、棒歌いになるのは修正して欲しい。

清教学園高校合唱部(大阪府・女声13名)
指揮/安藤浩明
信長貴富「春の苑/天の火(万葉恋歌)/木(いまぼくに)」
 音響のみを考えメカニックに作られた曲を良くこなしてはいるが、フォルテの出し方は野放図だし、ソプラノのキンキン声は甚だしく耳障りで、何の為にこんな曲をやるのか意図不明となる。三曲目は普通の合唱曲だったが聴いていて面白く無いのは、声の出し方が真っ直ぐそのままで、音色の変化の無い所為だろう。

県立岡山城東高校合唱部(混声16名)
千原英喜「夜もすがら」(方丈記)
信長貴富「あんたがたどこさ/てぃんさぐぬ花」(7つの子ども歌)
 シミジミと味わい深い演奏だが表現は一面的で、全体を通すと単調に感じる。わらべ歌はアンサンブルを楽しんでいるのが分かる演奏で、何の特徴も無いけれども、彼等の真情みたいなものは伝わった。

香川県立坂出高校合唱部(女声16名)
指揮/前田朋紀
Arr.Juhani Komulainen:Lova Gud i himmelshojd
Siegfried Strohbach:Ave regina caelorum
 声に力のあるコーラスで、ヴィブラートのあるソプラノに牽引力があり、広いダイナミク・レンジを使えている。ただ、音色の変化の無いのは物足りないし、音楽的な山場では一人の声になるのも気になる。二曲目は予めアチェルラントしてからテンポを緩め、音量的にも中程に山場を作る歌い口が、美しく効果的だった。

愛媛県立新居浜西高校合唱部「翠樟」(女声15名)
指揮/一色良一
Akos Papp:Oh,wasn'T that a wide river/Soon ah will be done/
Rock-a my soul~Negro-Spiritual
 黒人霊歌の一曲目では対位法的なアレンジを味わい深く聴かせてくれる。二曲目もアルトの深い声でなかなか良いハーモニーを作っているし、リズムもニグロしている。最後は知らない曲だが軽やかな歌い口で楽しく、指揮者の解釈も面白い。ただ、ソプラノは完全にノン・ヴィブラートで、音色は都会的に洗練され過ぎていて、ニグロらしい毒気は全く無かった。

土佐女子高校コーラス部(高知県・女声13名)
指揮/西本佳奈子
木下牧子「にじ色の魚(にじ色の魚)/なにをさがしに(絵の中の季節)」
 南国らしい美しく明るい声だが、音色に変化の無く重くなるので、音楽は単調に推移する。曲は変わっても音色はそのままで、高音部を出し切るテクニックも無く、レガートに歌い過ぎてマドリガルっぽい曲想を生かせなかった。

熊本県立玉名高校・付属中学音楽部「たまなっ子14」(女声14名)
指揮/岩尾健弘
松下耕「わたしと小鳥とすずと/ゆめ売り/しば草」(わたしと小鳥とすずと)
 伸びやかに明るい九州らしい声で、童謡っぽい曲想に合わせた幼さの表現がある。軽やかなリズムとハーモニーで軽やかな音楽作りだが、三曲共に同じような曲想で表現方法もずっと同じなので、何らかの変化は必要と感じる。

宮崎県立妻高校女声合唱団(16名)
Willem Andoriessen:Ave Maria
Jean Lambrechts:Kyrie/Agnus dei~La messe dess anges
 アヴェ・マリアでアルトを効かせ、ピアニシモのハーモニーを作る技術力は高い。キリエでもピアニシモの張り詰めたテンションを保ち、抑えた美しさを表現する集中力に感心する。ただ、アニュス・デイに至っても速いパッセージは出て来ず、同じような曲想が続き、指揮者無しの限界も顕わとなった。

市立鹿児島女子高校音楽部「南響娘」(女声11名)
福島雄次郎「椎やなるな/戯れ」(南島歌遊びII)
 さすがに曲を自家薬籠中のものとしていて、こんな曲でも指揮者無しなら楽しく聴ける。速いパッセージをピタリと揃え、ピアニシモの長いフレーズも美しく聴かせてくれる。十一人が息を合わせて速い・遅いのテンポを切り替え、ハーモニーの色合いの変化も的確に捉えて、フォルテを出し切る声の力にも欠けない見事な演奏だった。

沖縄県立向陽高校合唱部(女声8名)
木下牧子「棗のうた(絵の中の季節)/いっしょに(光と風をつれて)/
あざらしなかま(ふくろうめがね)」
 可愛い声の可愛らしい演奏だが、ブレスの音のクッキリ聞こえるのと、全くスピントしないソプラノが棒のようになるのは辛い。彼女達の精一杯の演奏なのは良く分かるが、何らかのメリハリを付ける努力も望まれる。

うたうだけ~武満徹ソングス

$
0
0
<林美智子&大萩康司デュオ・リサイタル>
2015年2月21日(土)14:00/兵庫芸文センター小ホール

メゾソプラノ/林美智子
ギター/大萩康司
フルート/斎藤和志
お話し/武満真樹

J.ルノワール「聞かせてよ愛の言葉を」(シャンソン)
武満徹「翼/○と△の歌/死んだ男の残したものは(うたII)
小さな部屋で/小さな空/うたうだけ/恋のかくれんぼ(うたI)
ロンドンデリーの歌/ヘイ・ジュード/イエスタデイ(ギターのための12の歌)/海へ(全3曲)」


 武満徹の十九回目の命日である二月二十日の翌日、土曜日の昼下りに兵庫芸文で、タケミツのソングに拠るコンサートが行われた。メゾの林美智子の歌に、大萩康司がギター伴奏を付ける九曲の合間に、ギター独奏二曲と、故人の偏愛した楽器の組み合わせで、アルト・フルートとギターのデュオ「海へ」を挟むプログラムだった。

 コンサートは武満の曲では無く、日本語歌詞に拠るシャンソンで始まる。十四歳の時、勤労奉仕先の工場で学徒動員の見習士官が、SPレコードでコッソリ聴かせてくれた歌で、もし戦争が終わったなら音楽で生きて行こう、そう武満に決意させたと云う有名なエピソードで知られる曲である。象徴的な意味を込め冒頭で歌われたが、当然ながら武満が戦時中に聴いたのは、フランス人歌手に拠るフランス語の演奏な訳で、ここは原題の「パルレ・モア・ダ・アムール」で披露して欲しい処だった。

 次はソングで劇伴音楽の「翼」に、映画音楽の「○と△の歌」、ラジオ放送用の「小さな部屋で」の三曲。これ等の曲の出版楽譜には他人の編曲したピアノ伴奏と共に、ギター・コードも付されているが、今回の演奏ではそれぞれ福田進一、鈴木大介、北爪道夫の編曲版を使うと大萩康司は告げる。取り分け鈴木大介の「○と△の歌」は、羽仁進監督の記録映画「不良少年」からの音楽を援用した、凝りに凝ったアレンジと紹介する。

 続いてギター独奏で、オリジナル編曲の「ロンドンデリーの歌」と「ヘイ・ジュード」。ギターは撥弦楽器で音の減衰が速いので、フレーズの長いメロディーは編曲し難い筈だが、武満はそこを工夫してアレンジするのが楽しかったのだろう、と聴きながら想像を逞しくする。

 ソングに戻って「死んだ男の残したものは」は、谷川俊太郎の詩に付された反戦歌で、「小さな空」はラジオ・ドラマの主題歌。映画や放送用に書かれた武満の歌曲は、以前からメモに書き留めていた旋律に、本人が自作の歌詞を後から嵌め込んで作っていたらしい。何れにせよ機会音楽で、ポップス風のアレンジで歌われたものなので、コンサートで取り上げる際には、武満以外の誰の編曲で伴奏するのかは重要と思う。編曲者への言及が無かったので、この二曲はコード進行を基にした大萩のオリジナルなのか、それとも他人のアレンジだったのかは明示して欲しかった。

 「海へ」を挟み、アカペラで歌われた「うたうだけ」は、出世作“弦レク”の翌年に作曲された初期の作品で、「恋のかくれんぼ」はペギー葉山の歌った映画挿入歌。二曲だけ無伴奏で歌ったのは、変化を付ける手段として有効だったと思う。

 林の武満ソングの解釈にはデュナーミクの工夫と共に、フォルテの最大音量から逆算されるダイナミズムの設定があり、スピントする声とソット・ヴォーチェを使い分けて揚げ下げする、テンションの高低とがある。これも言葉にすると仰々しいが、丁寧に譜面を読み込みさえすれば、自ずと定まって来るものだろう。つまり楽譜通りに歌うのが大事で、そこをキチンと心得ているからこそ、林は武満を自らのライフ・ワークと言い切れるのだと思う。

 最後の「イエスタデイ」はギター編曲版で、林さんはやや申し訳無さそうに、歌のパートは無いので一緒に旋律を唱いますと言っていた。アンコールの「三月のうた」は、映画「最後の審判」の挿入歌で作詞は谷川俊太郎、「めぐり逢い」は酒井和歌子主演の東宝映画の同名の主題歌である。こんな風に武満のソングを立て続けに聴くと、何だか本当にシミジミ胸に沁みて、一体その魅力は奈辺にあるのか?と云う想念に捉われる。単なるジャズっぽい歌謡曲と、言って終えばそれまでだし、これはタケミツの魅力としか僕には表現の仕様も無い。

 ところで休憩後、「小さな空」の演奏前に歌詞の朗読を始めたおばさんが居て、ありゃ一体何者かと不審に思っていると、演奏後に林に振られて思い出話を始めた処で、やっと故人のお嬢さんである真樹さんと気付いた。プログラムにお名前の記載はあったがチラシには無く、我々聴衆は彼女の出演を事前に知らされていなかったので、お名前の紹介の無かったのは不手際に過ぎると感じた。

 上掲の写真は終演後のサイン会に臨む為、ロビーに出て来られた林美智子さんです。ご協力有難うございました。

ヴェルディ「オテロ」

$
0
0
<びわ湖ホールプロデュースオペラ/プレミエ>
2015年3月7日(土)14:00/びわ湖ホール

指揮/沼尻竜典
京都市交響楽団
びわ湖ホール声楽アンサンブル
二期会合唱団
大津児童合唱団

演出/粟國淳
美術・衣装/アレッサンドロ・チャンマルーギ
照明/笠原俊幸

<Aキャスト>
オテロ/福井敬
デズデモナ/砂川涼子
イアーゴ/黒田博
副官カッシオ/清水徹太郎
侍女エミーリア/小林由佳
貴族ロデリーゴ/二塚直紀
使者ロドヴィーコ/斉木健詞
前総督モンターノ/松森治
伝令/的場正剛


 今日はびわ湖ホールの放つヴェルディ・シリーズ第十三弾、「オテロ」のプレミエである。故若杉弘芸術監督の取り上げた日本初演九作の後を承けた、沼尻監督に拠るヴェルディは、「アイーダ」「椿姫」「リゴレット」に続いて四作目となる。開幕前の舞台に山中館長さんがマイクを手に現れた際、一瞬カヴァーの二塚君がオテロを歌う悪夢が頭をよぎり、ギクリとさせられる。幸いイアーゴの黒田博がゲネプロで足を痛めた為、演出に若干の変更のある事を了承頂きたいとのお話しで、ホッと胸を撫で下ろした。

 オケピットに現れた沼尻が拍手に答礼して向き直り、予備拍を振った瞬間オケがドカンと鳴ると、気分はもう暴風雨のキプロス島である。でも、幕の上がると舞台一面に大きな白い布が波打ち、その中央部で白い玩具のヨットみたいなものが上下していて、やや気分は盛り下がる。白い布の下に潜り込んだ合唱団員達が、船の模型を頭上に掲げて揺らし、嵐の海とそれに翻弄されるオテロの艦船としている。これは具象的なのか抽象的なのか、どちらとも付かない中途半端な演出で、まあ予算の問題もあるにせよ、もう少し遣りようもあるだろうにと思う。

 布と模型を片付けた舞台には、両脇には入退場用で階段付きのセット、中央には八角形の山台とが置かれている。何の奇も衒わないオーソドックスそのものと云える美術と衣装だが、色彩的にはモノクロームに塗り潰され、視覚的な華やかさに欠ける舞台ではある。でも、歌手への演技指導は簡潔且つ的確なもので、安心して見ていられるレヴェルにあるとも云える。粟国は台本の深読みに興味は無いようで、飽くまで場面に即し解釈を施すタイプのようだ。今日は端から演出に過度な期待はしていないのである。

 嵐の音楽の男声合唱へ女声の加わり、オテロの凱旋に歓呼する合唱でトゥッティのフォルテシモになれば、おおオテロだ!ヴェルディだ!と、僕は再びすっかりその気になる。オテロの福井敬の発した第一声は輝かしく、その声の力に圧倒される。イタリア語の子音を長目に発音する、フクイ節とも云うべきクサい歌い回しも、この声さえあれば然程に気にはならないのだ。しかも二幕以降、オテロの嫉妬の種子が膨らむに連れ、聴く側も歌に籠められた情感に引き込まれて行く。ただ、デズデーモナ殺害の後、我に返り正気を取り戻してからは、もう少し素直に歌って欲しかったけれども。

 イアーゴの黒田博は痛めた足を庇う杖を突いての熱演で、悪役っぽいポルタメントに猫撫で声のソットヴォーチェ、偽善的なファルセットと音程を低目に響かせるダミ声等、二幕のクレドとオテロとのデュエットでは手持ちの技巧を次々と繰り出し、持ち前の張りのある高音を生かす工夫は見事だった。そう云えば明日のイヤーゴの堀内さんは足を怪我した際、アンドレアス・ホモキ演出の「ラ・ボエーム」で、マルチェッロを降ろされている。野田秀樹やホモキの舞台で動けなければ即降板だが、粟国のお能みたいな演出なら、杖を突いてでも充分勤まる訳だ。

 デズデーモナの砂川涼子は生来の美声と云う武器を生かし、自らに疾しい処の無い貞淑な女性の素直な心を歌い上げると共に、ヴェルディの悲劇のヒロインらしく声に力のある処も存分に聴かせる。そうは云っても、ただ単にフォルテを張り上げるのでは無く、メゾフォルテやピアニシモで伸ばす高音に力があるので、曲中のテンションの移動を明確に示せていた。つまり物理的な音の大小では無く、彼女の歌には音楽的な緊張と緩和があった。白眉と云える「柳の歌」では暗い音色を作り、フォルテシモの炸裂からアヴェ・マリアの哀切なピアニシモまで、考え抜かれた設計もあったと思う。ただ、曲中の音色の変化は今ひとつで、その点に関し改善の余地はあると思う。

 オテロは只ひたすら陰に籠もり、燃え盛る嫉妬の焔に焚き付けられ、高音を張り上げるだけなのに対し、デズデーモナは飽くまで清純な歌に徹する訳で、実は主役歌手二人は音楽的にも補完関係になっていると気付く。びわ湖ホール声楽アンサンブル出身者から起用された二人の内、清水徹太郎はレジェーロなテノールで、ヴェルディで歌えそうなのはカッシオのみかと思われる。一方、ロデリーゴの二塚直紀は長いフレーズの不得手な、こちらもヴェルディに不向きなキャラクター・テノールで、二人ともこの役しか無いハマり役ではあった。

 三幕の終盤でオケとコーラスに発破を掛ける沼尻の馬力は凄まじく、その熱気と迫力には特筆すべきものがあった。京響の弦楽陣が「柳の歌」に付ける、ピアニシモの美しさには惚れ惚れさせられたし、この場面で沼尻が棒を手放し、弦楽合奏を指揮したのも印象的だった。今現在、京響のヴェルディは国内に於いて、他の追随を許さないと個人的に考えている。

 今日は歌手もオケもコーラスも大熱演で、上出来のヴェルディを存分に楽しませて貰った。だが、そこに水を差したのがフライング拍手で、一幕でオケのピアニシモの終わるのを待たない拍手に、これは先の思い遣られると憂鬱になる。案の定、終幕でのフライング拍手は、後奏の途中で一旦止みかけた程の早漏で、しかもそこで止んでくれればまだ救われたのに、一人頑張って拍手を続け盛り返したヤツが居たのには、心底からウンザリさせられた。こんな経験はびわ湖ホールでは初めてで、一体何処から湧いて来た客層なのか訝しまれた。

 怪我を押して熱演した黒田さんはアドレナリンの出ていたのか、上演中は全く痛そうな素振りは見せなかった。それがカーテンコールで急に痛そうに跛行を引き出したのは、謂わば麻酔の切れたような状態と推察申し上げる。上掲の写真は休憩中のロビーでお見掛けした村上敏明さんです。小さなお子さんを連れておられたので、今日のデズデーモナは一児の母と知りました。ご協力有難うございました。

ヴェルディ「オテロ」

$
0
0
<びわ湖ホールプロデュースオペラ>
2015年3月8日(日)14:00/びわ湖ホール

指揮/沼尻竜典
京都市交響楽団
びわ湖ホール声楽アンサンブル
二期会合唱団
大津児童合唱団

演出/粟國淳
美術・衣装/アレッサンドロ・チャンマルーギ
照明/笠原俊幸

<Bキャスト>
オテロ/アントネッロ・パロンビ
デズデモナ/安藤赴美子
イアーゴ/堀内康雄
副官カッシオ/大槻孝志
侍女エミーリア/池田香織
貴族ロデリーゴ/与儀巧
使者ロドヴィーコ/デニス・ビシュニャ
前総督モンターノ/青山貴
伝令/的場正剛


 大いに盛り上がり存分に楽しんだ、前日の「オテロ」プルミエに続き、今日はダブル・キャスト二組目の発進である。でも、演奏とは常に一期一会で、昨日の名演は既に今日のものでは無い。昨日あれだけ出来たのだから、今日も盛り上がる筈と思っても、所詮は生身の人間のする事である。でも、例え演奏に昨日程の熱気は無かったとしても、京響も二期会も連日頑張ってくれて、誠に感謝の念に堪えない。特にこれまで良い印象を持っていなかった、二期会コーラスの充実と熱演は嬉しい驚きだった。

 日本にオテロを歌えるテノールは、何人も居ないと云う沼尻の判断なのか、ダブル・キャスト二人目のタイトル・ロールは、イタリアからの招聘となった。そのパロンビ君の凱旋の歌声には、何だかエライ汚い声だなぁとビックリさせられる。高音部に力強さと伸びやかさはあるが、中音域より下ではお世辞にも美声とは言い難くなる。まあ、これも好意的に解釈すれば、それだけデズデーモナの可憐さも際立つ、と云う効用はあるけれども。

 この方の経歴を拝見するに、ラダメスにカラフにサムソンにカニオと、絵に描いたようなドラマティコの役柄ばかりだ。二幕のイヤーゴとのデュエットは、バリトンっぽい声で音色の対照は付き難く、今ひとつ聴き映えしない。イヤーゴの方が余程美声なので、パロンビ君をドラマティコでは無く、ヘルデン・テノールと評したくなる。実際の話、この声ならトリスタンやジークフリートも歌えそうだが、将来はいざ知らず現在の処はイタオペ専門のようだ。

 こんな風に二幕までは中音域の悪声に気を取られるが、三幕での遣り場の無い怒りに捉われた歌でパワー全開になると、彼の声も輝かしいフォルテシモと受け取れるようになる。なんちゅう悪声じゃと思っていたのが、何だか良い声のように聴こえて来る。声が途中でキレイになる筈は無いし、これは矢張りエンジンの掛かって喉にオイルも回り、スムーズに出るようになったと云う事なのか、その辺りは良く分からないけれども。何れにせよオテロの聴かせ処は、この辺りにあると再確認した。それに昨日の福井さんとは違い、デズデーモナ殺害の後の四幕のモノローグも、リリコ・スピントの歌として違和感無く聴けた。

 しかし、黒塗りのオテロなんて、僕は初めて見たかも知れない。二十年前ならばいざ知らず、今はシャネルズも島崎のアダモちゃんも、テレビ等で見掛ける事の無い時代である。このテの扮装の是非は置くとして、これが商業ベースに乗るシェイクスピア演劇であれば、ほぼ確実に自主規制の働く演出だろう。良い悪いの問題では無く、黒塗りの許されるオペラ業界は、時代の趨勢から取り残されているのだと感じる。恐らくはその演劇的な実質も、周回遅れと見なされているが故に、こんな演出も見過ごされるのだろうと思う。

 イアーゴの堀内康雄は最初の内、ごく普通にヴェルディのバリトンを歌っている印象で、悪役っぽい凄味は全く伝わって来なかった。でも、これも二幕辺りからは、美声で持って誠実さを前面に押し出し、イアーゴの腹黒さを際立たせる戦略なのかもと思い始める。誠実面して卑劣な事をする方が嫌らしいと、次第に思えて来たのだ。更に三幕に至り、フルスロットルのフォルテシモになれば、例えばリゴレットの呪いも、音楽的にはイヤーゴの詭計と同質と思い当たる。やはり堀内さんの美声には、それ自体で聴かせる力があるのだ。

 今日のデズデーモナの安藤赴美子は、これまでとは異なる新たな魅力、或いは日頃の研鑽の成果を示したように思う。まず声自体の力で高音域が素直に伸びるし、同じ音域で異なる音色を使い分けるテクニックもある。音色の変化と共に、デュナーミクにも工夫を凝らすセンシティヴな歌で、その上にパセティックな情感を込めた表現力もある。これまで飛び抜けて上手いとも思はなかったソプラノだが、今日の演唱を聴けばヴェルディ歌いとして、トップ・クラスの実力を示したように思う。

 やや熱気に欠けると感じられた伴奏は、沼尻の淡泊に過ぎるヴェルディ解釈に要因を求められるように思う。思い切りリタルダントするとか、唐突にテンポを走り出すとかして、もっとネチこく緩急を付けるべきでは無かったかと思う。とは云うものの、オケとコーラスは本日も絶好調で、取り分け三幕の山場で高音部のフォルテシモを出し切った、二期会ソプラノの声の力には瞠目させられる。ここで合唱のソプラノがヘタってくれると、一気に盛り下がって終うのである。

 カーテン・コールのオケピットの中でノリノリなのも、京響の魅力の一つに数えたい。ポスターの裏面に「Bravi」とか「我らがマエストロ」とか、「カンパーイ(ビールジョッキのイラスト付き)」とか、「黒田さん大好き(*^_^*)」(これはウソです)とか書き、オケピットに拍手する歌手達に掲げて見せる、事前の準備に怠り無いのも嬉しい限りである。ともあれ出演者全員の両日に渡る熱演と、我等がマエストロに感謝!である。

ラヴェル「子どもと魔法」

$
0
0
<小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクトXIII>
2015年3月21日(土)15:00/びわ湖ホール

ベートーヴェン「交響曲第二番」op.36
ラヴェル「子供と魔法」

指揮/ナタリー・シュトゥッツマン/小澤征爾
小澤征爾音楽塾オーケストラ
小澤征爾音楽塾合唱団

演出/ディヴィッド・ニース
美術・衣裳/サラ・G・コンリー
照明/高沢立生

子供/エミリー・フォンズ
椅子&樹/エヴァン・ボイヤー
ママ/鈴木望
茶碗&蜻蛉/大賀真理子
火&お姫様&鶯/キーラ・ダフィー
雌猫&栗鼠/清水多恵子
時計&雄猫/町英和
老人&雨蛙&ポット/ジャン・ポール・フーシェクール
ソファ&蝙蝠/栗林瑛利子
少女&梟/盛田麻央


 予後の体調も戻り、最近はドタキャンの懸念も減りつつある、今日は小澤征爾指揮のオペラ上演である。プルミエは先週日曜日の横須賀で、今日は中五日と休養充分での登板となる。小澤の指揮は一時間足らずでガス欠を起こすらしく、まだオペラは一幕物しか振れない。でも、それでは一夕の公演として短か過ぎるので、前座としてシュトゥッツマンの指揮するベートーヴェンが演奏される。オペラ上演の前にシンフォニーを演奏する為、弦楽器はフェンスの際まで上げた状態のオケピットに陣取り、管楽器は幕の降ろされた舞台前に位置する。ピット内の入口は使えないので、オケのメンバーは客席脇と舞台袖の四方から登場する。

 そもそもシュトゥッツマンは、ラヴェルの歌唱コーチとして呼ばれたと推測するが、それならば何故ベートーヴェンの指揮だけで、オペラを歌わないのか解せない処である。そのナタリー先生の指揮振りは左手の使い方が拙く、両手の動きの重なる事の多い、如何にも素人臭いものに見える。でも、音楽塾のメンバーはみんな素直な良い子達で、もうナタリー先生の言うなりなのである。

 12型の弦楽は四管編成をものともせずバリバリ弾きまくり、ピリオド・アプローチなど馬耳東風と云った風情の指揮者は、オケからゴージャスと云うか、何とも厚ぼったい響きを引き出している。トランペットとティンパニーは喧しい程で、優美な二楽章も一服の清涼剤とはならず、随分けたたましい音を立てる。三楽章のスケルツォは、スフォルツァンドするフォルテシモで耳に痛い程だ。僕は二番のシンフォニーを、どちらかと云えば抒情的な曲と思っていたが、案に相違して甚だしく聴き疲れするベートーヴェンだった。

 二楽章でコンマスに交代のあったのも妙なものだが、ラヴェルの為に集めた四管編成を、そのままベートーヴェンに使い回すのにもヤレヤレである。初期のベートーヴェンなら、もう少し切り詰めた編成でやっても、バチは当たらんだろうにと思う。若者らしい熱気に溢れた演奏と言えば聞こえは良いが、今日は音楽的な理解の浅さが粗っぽさに直結したように思う。取り敢えずシュトゥッツマンには、もう少し柔らかい音も使って欲しかったと、僕は演奏後も憮然としたままだった。

 ここで暫時休憩で気分もリセットし、脳内を古典派から印象派へ切り替え、小澤の登場を待つ。次はオペラ上演でオケピットを下げる筈が、見た目は殆どそのままで、オケは随分と浅い位置で弾く事になる。勿論、これは小澤の意向でラヴェルの管弦楽、特に木管を聴かせる意図と忖度する。

 僕は「子供と魔法」を色彩豊かな管弦楽の上で織り成す、百花繚乱の歌手達に拠って編まれた、声の花束を楽しむべきオペラと考えている。だが、小澤のラヴェルには以前から、生真面目に力尽くでリズムを立たせる印象がある。ボストン響やパリ管を相手にした場合、オケは指揮者の要求にプラス・アルファで応え、名演としたと僕は理解している。音楽塾の演奏では木管陣の技術不足、取り分けフルートに際立った音色が無いので、ラヴェルらしい色彩感に乏しくなって終う。小澤の動かすアゴーギグも緩徐部分では有効だが、速いパッセージでは手の施しようも無く、弦楽合奏からも自ずと滲み出るようなエスプリは感じられない。

 フォルテシモはそれなりに盛り上げる若いオケに、エスプリを望むのは無い物強請りなのだろうか。音楽塾オケでは色彩豊かな管弦楽と云う、ラヴェル演奏の前提となる楽しみが崩れていて、歌の楽しみも半減気味となる。子供役のメゾソプラノで米国人のエミリー・フォンズは良く歌っていたし、もう一人の女声助っ人で、メトロポリタンで歌っているキーラ・ダフィーも、見事なアジリタの技術を持つコロラトゥーラ・ソプラノで、もう少しジックリ聴いて見極めたい気のする人ではあったけれども。

 男声助っ人のエヴァン・ボイヤーは仏系カナダ人、ジャン・ポール・フーシェクールはラトル指揮ベルリン・フィルとの録音や、昨年のサイトウ・キネンの「子供と魔法」にも同役で参加している人で、さすがに二人とも演技では達者な処を見せてくれる。日本勢では茶碗とポットの掛け合いで、大賀真理子が日本語で「ほな行こか」とギャグをカマし、フーシェクールに対抗する演技派振りを発揮する。でも、椅子とソファの組み合わせでは、お色気演技が中途半端だったので、女声歌手にはもっと大袈裟にお尻を振って見せて欲しかった。因みにシュトゥッツマンはラトルとの録音で、ママと茶碗と蜻蛉の三役を担当している。

 総じて日本人歌手のフランス語の出来にはデコボコがあり、やはりキチンと発音の出来ている人は、演技面でも一日の長はあると感じる。色彩的に華やかな楽しい舞台で、トンボの玩具やカエルの被り物等、可愛らしい小道具も用意されていたが、もう少し演技でクスリと笑わせるような工夫も欲しい。それと栗鼠役の歌手が、リスの縫いぐるみを肩に載せただけなのは手抜きも甚だしく、ちゃんと可愛い着ぐるみを作ってやれよと思う。

 今日は何時ものびわ湖ホールの客層とは、微妙に異なっているように感じられた。小澤の名前に釣られたと思しき盛装の皆様や、「子どもと魔法」の題名に惹かれたと思われる、若い夫婦と小さな子供の家族連れも多く見掛けた。オペラも大詰めの終盤、天井桟敷から見下ろす一階の平土間席からは、どうやら集中力の切れたらしい雰囲気が立ち昇って来る。小澤の取った長いパウゼの静寂の時間に、楽章間と勘違いしたのか、ゲホゲホ咳をする輩が複数居たのには、心底からウンザリさせられた。

モーツァルト「後宮からの逃走」K.384

$
0
0
<錦織健プロデュースオペラVol.6/歌唱ドイツ語・台詞日本語上演>
2015年3月22日(日)17:00/フェスティバルホール

指揮/現田茂夫
ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団
ラガッツィ

演出/十川稔
美術/杉山至
照明/矢口雅敏
衣装/小野寺佐恵

コンスタンツェ/佐藤美枝子
ベルモンテ/錦織健
侍女ブロンデ/市原愛
従者ペドリロ/高柳圭
番人オスミン/志村文彦
太守セリム/池田直樹


 モーツァルト五大オペラの一つとか言い習わされている割に、「後宮からの誘拐」の上演頻度は低く、僕は今日初めて実演に接する。これまでポピュラー演目に取り組んで来た、錦織健ちゃん歌劇団のプロダクションも六つ目となり、いよいよレアな演目に手を出して来た。これをこそ継続は力なりと呼びたい。旅巡業も明後日の福岡で打ち上げとなる、今日は全八公演の七回目である。

 序曲が始まると軽やかにリズムを弾ませ、オケにレガートに歌わせた上で、ドイツ語の語感に即したマルカートも交えて対比を作る、モーツァルトの様式に即した演奏に感心する。そんなの出来て当然と云われそうだが、実際には名指揮者とか持ち上げられている連中にも、モーツァルトらしいリズムをサッパリ刻めない輩は居るのである。健ちゃん歌劇団の座付き指揮者に付いて、これまで良い印象を持っていないと云うか、どちらかと云えば足枷になっていると考えていたので、これは予想外の収穫と感じた。

 何分にもビギナーを楽しませ、リピーターにするを目標とする全国巡演の旅一座で、演出に関し過大な期待は慎むべきと思っていた。でも、今回のセットは単なる書割りでは無く、二階建ての家を二つも作っている。歌手は一階のドアを開けて入り、二階に上がって窓から顔を覗かせるのだ。しかもセリムを乗せて登場し、赦免された四人を乗せて退出する、帆掛け船もキチンと出して来た。実際かなり金を掛けた様子で、これはプロデューサーの健ちゃんが、大口のスポンサーを捉まえたのかと妄想する。ただ、さすがに巡演用のセットに、フェスティバルホールの間口は広過ぎ、幕を両端から中央寄りに引き寄せ、舞台を狭く使わざるを得なかったようだ。

 今回のプロダクションの目玉商品は、やはり佐藤美枝子のコンスタンツェだろう。ロッシーニドニゼッティで卓抜したアジリタを聴かせる、優秀なコロラトゥーラ・ソプラノである佐藤が、どのようにモ-ツァルトを歌いこなすかに興味の焦点はあった。事前の予想通り、重目の音色で変化しない声質自体は、モーツァルト向きとは言えないものの、声をコントロールする力は凄いし、声量も出ているので至難のアリアも余裕を持って歌えている。やはりモーツァルトであれば、もう少し声に透明さは欲しかったが、相変わらず見事なアジリタのテクニックで聴かせてくれる。何より彼女の舞台姿は自信に満ちていて、聴衆に有無を言わせず納得させる、大歌手の風格を備えている。必ずしも適役とは云えないコンスタンツェでも、声の力とアジリタの技術で満座を圧倒する、彼女はディーヴァでありプリマドンナなのだと思う。

 オスミンの志村文彦は佐藤美枝子に伍し、ベテランの実力を発揮したと思う。アジリタも聴かせる達者なバスで、今日の上演の中で最も役に嵌っていた。ただ、同じく大ベテランの池田直樹は、抑揚の無い平坦な科白回しで、見ていてちっとも面白く無い。歌手を語り役に起用する事自体がミス・キャストで、この上演のコンセプトから云っても、顔の売れた俳優を起用する方が効果的だろう。歌のドイツ語と台詞の日本語が交互に聴こえて来る、今回の上演形式にもやや違和感を感じた。ただ、これは初心者向け上演のジレンマで、スッキリとした解決策の無い問題だろうと思う。

 プロデューサー兼プリマウォーモの錦織健ちゃんは、中音域の太い声のまま高音を出すので、柔らかい伸びやかさに欠けて終う。モーツァルト・テノールとして不満は残るが、この方は生来の美声の持ち主で、まずまず手堅い処は聴かせてくれる。但し、難易度の高いアリアやデュエットでは、かなり簡略化と省略を施したようで、至極アッサリとして聴き応えに乏しいベルモンテである。アジリタの技術に自信の無いなら、ベルモンテではなくタミーノを歌えば良いのにと思う。何故、自分の手に負えない役を歌おうとするのか、理解に苦しむ所以である。

 若手の二人の内、ブロンデの市原愛は力み過ぎなのか、時々生の声の聴こえるのと、ドイツ語の発音もやや気になる。それに二人目のソプラノはもう少し軽い声で無いと、今日のコンスタンツェの重目の声との対比も付かない。ペドリロの高柳圭も技術的に未熟で、音程の低目に聴こえるのはモーツァルトでは致命的と思う。結局、今日の高声系の四名の歌手に、レジェーロな声の持ち主は誰も居なかったのだ。相対的に最も軽目の声は、プリモの健ちゃんだったかも知れない。

 今日の指揮者とオケも伴奏としては良かったが、歌手を煽ると云う点でやや物足りない。二幕のカルテットは良く盛り上げ、オペラを楽しめる場面にしたが、曲の解釈自体は微温的でメリハリに不足する。つまり山場は盛り上げ、静かな部分はジックリ聴かせる、全曲を通した設計が見えて来ず、単なるアリアの羅列みたいな印象を受ける。ハコが大き過ぎて音の拡散する嫌いはあるにせよ、絶対的なフォルテの音量も小さく、全体をメゾピアノで通したような演奏で、オペラのストーリーに即した盛り上がりに欠けた。

 今日の会場は年配の客が多く、その方々の服装はモノクロームで、何だか随分とシブい雰囲気だった。どうやら皆さん大阪労音時代からの、古株の会員さん達のようで、そう云う人達って普段はオペラを観る習慣は無いのに、労音(今は新音だけど)の主催公演には律儀に足を運ばれると云う事だろう。そうかと思えば肩も露わな、イヴニング・ドレスの若い女性グループなんかも休憩時間のロビーに屯していて、今日はびわ湖ホールや兵庫芸文とも随分異なる客層だった。まあ、皆さんお行儀良く聴いておられたので、別に何の問題も無かったですけど。

 「後宮からの誘拐」のキリスト教徒とイスラム教徒の、対立と和解と云うテーマには重いものがある。勿論、今日はエンターテインメントとしてのオペラ上演で、シリアスな演出のあった訳では無いが、その制約の中で字幕やセリムの台詞等を工夫し、テーマの機微に触れたプロデューサーの姿勢は評価したいと思う。

桜花学園高校合唱団第51回定期演奏会

$
0
0
2015年3月27日(金)17:00/名古屋市民会館中ホール

指揮/奥山祐司
ピアノ/下山麻衣子/服部紘子
桜花学園高校合唱団

松本望「ゆうやけ」
横山潤子「共演者」
Tsing-moo編曲「君がいるだけで」
今村康編曲「春よ、来い」
壺井一歩編曲「春一番」
村松崇継「ゆうき」
加藤昌則編曲「桜の季節」
千原英喜「明日へ続く道/もう一度」
Pisacco編曲「花は咲く」
信長貴富編曲「群青」
スクリーンミュージック名曲選「サークル・オブ・ライフ(ライオンキング)/ひこうき雲/
Let it go(アナと雪の女王)/雨に唄えば/美女と野獣/My heart will go on(タイタニック)」
瑞慶覧尚子「無門」(約束)
ラヨシュ・バルドシュ「Ave Maria」
Levente Gyongyosi:Beatus vir
Vytautas Miskinis:Ave Maria stella Nr.2
メンデルスゾーン「Veni domine 来たれ主よ Op.39-1」(三つのモテット)
ミクロシュ・コチャール「Szerelem emleke 愛の想い出/O,havas erdo nemasaga 雪の森の静寂」


 僕が桜花学園の演奏を初めて聴いたのは五年前、震災前年のコンクール全国大会だった。三十五年振りの予選突破だそうで、こんなにセンシティヴで美しいコーラスが、何故これまで全国大会に出て来なかったのか、怪訝に思われる程に魅力的な演奏だった。桜花学園の演奏は音楽的な内容に富んでいるが、聴衆へ派手にアピールする要素は無いので、コンクールでは評価され難かったのだろうと思った。

 その後は再び鳴りを潜めていた桜花学園が、昨年唐突にNHKと合唱連盟の両方のコンクールで全国大会に進出した。合唱連盟の方では一位相当の文部科学大臣賞を獲得し、NHKの方は賞からは外れたが、一校のみの東海北陸ブロック代表としての出場だった。残念ながら僕は両方とも聴けなかったが、顧問の先生はずっと同じ人で、桜花学園の演奏がコンクール向けにアグレッシヴになるとは考え難く、これは評価の方が変ったのだろうと想像する。個人的に桜花学園の演奏は毎年、常に聴きに行きたいとは思っていたが、これまで平日の夕方に行われる定演に、名古屋まで駆け付ける余裕は無かった。だが、そんな事を言っていれば我々の短い人生等、あっと云う間に過ぎ去って終う。
 
 コンサートは二つのコンクール課題曲の演奏で始まる。指揮者は合唱連盟の方の課題曲を、デュナーミクと云うよりダイナミズムの変化で、丹念に濃厚な表情付けを施す。作為的な解釈だがテンポは弄らないので、然程に煩わしいとは感じない。Nコン課題曲の方は素直にやったので、これは単に曲に拠って解釈を使い分けているだけと分かる。曲の構造の見極めが適切なので、指揮者は持ち前の豊かなテンペラメントで、山場を的確に盛り上げる事が出来る。

 課題曲の演奏は前座扱いで、改めて合唱部員総勢56名が勢揃いし、指揮者無しで校歌を演奏する。彼女達には言葉に対するセンシティヴな反応があり、指揮者無しでも端正な歌い振りがある。次は愛唱歌集で、顧問教諭の指揮する松任谷由美の「春よ来い」では、リズムのスィング感を基本に、そこへ言葉の扱いを絡めているので、指揮者の細々した工夫もアザトくはならない。キャンディーズ「春一番」でのお遊戯も思い付きで踊っておらず、振付けを基にキチンと稽古を積んだ様子で、学芸会に堕さない事に好感を持つ。

 千原の「明日へ続く道」で勘所は熱く盛り上げても、決して力任せにはならず、縦横を端正に揃え清潔なリズムを片時も崩さない。Nコン小学校の部課題曲「ゆうき」では、柔らかく叮嚀な子音の扱いに、透明な音色もフィットする。フォルテでも絶叫にならず、柔らかいソプラノの倍音の響きも美しく、ピアニシモでロング・トーンを伸ばす声の力にも欠けていない。「花は咲く」ではソット・ヴォーチェの使い方も、語尾を揃えてから軽くパウゼを入れるフレージングも、実に巧いものだった。ただ、休憩中にコンクール自由曲の録音を、それもダイジェストで会場にスピーカーで流したのには首を傾げる。実際に歌っちゃいけない理由でもあんのかな?

 休憩後は企画物でお揃いの定演Tシャツを着込み、映画音楽の編曲物を歌う。指揮者無しでフレージングは緩んでも、柔らかく子音を発音する言葉の叮嚀な扱いは変らず、これは彼女達の身に付いた芸になっているようだ。顧問教諭はインディアンの酋長のような扮装、副顧問は傘を振り回して踊り、ピアニスト二人にも寸劇を演じさせる等、皆さん生徒さんへの協力を惜しまず奮闘しておられた。顧問教諭からは生真面目で気さくな人と云う印象を受ける。

 最後は白ブラウスに黒の巻きスカートの、典型的な合唱ファッションに身を包み、全曲アカペラで日本語やラテン語を取り混ぜて六曲を演奏した。桜花の演奏で倍音が鳴るのは、当然ながら音程が純正にハマっているからで、アカペラ曲の演奏は自らの特質を良く心得た選択と思う。ここでバルドシュやコチャールを聴くと、その清潔なフレージングと、柔らかく透明でありながら芯のある声質は、取り分けハンガリー民謡に合うと感じる。邦人曲では遣り過ぎの感もあり、端正なフレージングと切れのあるリズムは、マジャール語にこそハマる。

 柔らかく力強いフォルテシモで山場を盛り上げる、メンデルスゾーンでの指揮者の豊かなテンペラメントも素晴らしかった。ソプラノに芯になる声の生徒は居たが、その子の声ばかりでは無く、全員にヴォイス・トレーニングが行き届いているからこそ、あの柔らかいフォルテシモを実現できるのだと思う。桜花学園の実力は全く疑いようも無いし、この素材であれば知らない作曲家の訳の分からない曲では無く、コダーイやシューベルトを集中的に取り上げれば良いのにと思う。今日のコンサートのプログラムは、やや散漫で凝集力に欠ける構成と思う。

 冒頭に記した今年度コンクールでの唐突にも思える戦果に付いて、僕は実際に聴いていない以上、確定的な事は何も言えない。ただ、桜花学園の定演を聴き終え、ここのコーラス部は顧問教諭が手塩に掛け育てた、上質の音楽性を持っていると感じた。個人的に要望すれば、その高い音楽性をコンクールに消尽するのでは無く、もっと取り組み甲斐のある内容豊富な曲に注ぎ込んで欲しい。今回のプログラムは編曲物中心で、やや物足りないのは否めないと思う。

マーラー「大地の歌」

$
0
0
<日本センチュリー交響楽団第200回定期演奏会>
2015年4月11日(土)15:00/ザ・シンフォニーホール

指揮/飯森範親
ピアノ/小山実稚恵
テノール/福井敬
バリトン/与那城敬
日本センチュリー交響楽団

和田菫「祝響」(委嘱初演)
シユーマン「ピアノ協奏曲」op.54
マーラー「大地の歌」


 二百回記念定期を振る首席指揮者の飯森範親を、僕は今日初めて聴く。飯森はいずみシンフォニエッタ大阪で創設以来の常任指揮者を務めていて、これまでに聴く機会は幾らでもあった筈だが、なじかは知らねど今日が初めてなのである。まあ、飯森さんの容姿(例えばあの髪型は、演奏中に乱れても直ぐ元に戻る)に関し、僕には些かの偏見があったのは事実である。

 コンサートの冒頭は記念委嘱作で、ググっても名前の出て来ない作曲家のファンファーレを演奏する。お目出度い席の初演作だし、どうせ金管でブカブカやるのだろうと思っていたら、実際にその通りの曲だった。これは何と云うか、丸っ切り大河ドラマのテーマ・ソングで、まず最初に景気良くブチかまし、真ん中に短い緩徐部を挟んで、最後は再び派手に吹き鳴らして終わる、ワン・テーマで五分足らずの曲。これはコンサート・ピースと云うより、国民体育大会とか全国植樹祭とかで、開幕の合図とするのが相応しい曲と思う。

 続いて新年度からアーティスト・イン・レジデンスに就任した、小山実稚恵の独奏でシューマンのコンチェルト。アーティスト・イン・レジデンスは音楽畑では余り馴染みの無い概念で、日本語に訳すと招聘芸術家となるのだろうか。一般的には美術の分野で作家を招き、地元に腰を据え制作に取り組ませたり、ワークショップやレクチャー等で一般市民との交流を図る、と云った事業目的があるようだ。センチュリー響は作曲家では無く、敢えて演奏家を雇用したのだし、何か具体的な目的はあるのだろうが、その辺りはやや説明不足のように思う。

 小山さんのシューマンはテンポ・ルバートやデュナーミクの工夫等、一応は凝らしていても生真面目に過ぎて、如何にも優等生的な演奏と感じる。ピアニシモでは打鍵が浅くやや延びするので、もっとロマンティックな情緒を醸す工夫も望まれる。アンコールのトロイメライの弾き崩し方も、主題の提示部と再現部が全く同じで如何にも芸が無い。小山さんはテンポを弄る際も、あくまで生真面目なのである。オケの間奏では音楽に合わせ、ずっと身体を揺すっていて、お人柄の良さは一目瞭然ではあるけれども。また、指揮者もピアニストに付き合い良く、オケから明快な音を引き出している。情緒纏綿とネッチョリ歌い上げる、なんて全くしないので、せめて緩徐部分はもう少し遅くして欲しかった。

 暫時休憩後、メインの「大地の歌」。僕はテノールの福井敬を、曲により当たり外れのある歌手で、一体今日はどうなるのかと、聴く前に全く予想の付かない人と理解している。でも、何時もの捏ね繰り回すようなフクイ節は、今日は幸い抑制気味。ダイナミズムの変化で抑揚を付ける、マーラー解釈を素直に受け取り、会場に美しく響き渡るフォルテシモを存分に楽しむ事が出来た。これを臆測するに、恐らくは指揮者の表現に即応した歌で、両者に擦り合わせのあった事を窺わせる。

 だが、もう一人のソリストにアルトでは無く、バリトンを起用した理由は、僕には良く分からなかった。与那城の歌は音楽への共感に欠け、演技的な身振りも板に付いていない。ソット・ヴォーチェで鼻腔に響かず、口先だけの歌になる技術的な欠陥もあり、美しくはあっても深い声の音色が無い。浅い声のみでは、マーラーの感傷と慟哭は表現出来ないのである。最後の“ewig, ewig”のリフレインも、もっとキチンと響かせないと本物の感動には至らず、一聴衆としてやや寂しい思いをする。

 飯森にはマーラーに耽溺するのでは無く、音楽に対しザッハリヒな姿勢があった。木管に存分に歌わせて前面に押し出し、弦楽は控え目にオブリガード風に聴かせる。コントラバスやファゴットの主張も抑え、低音はアンサンブルの支えとするだけなのも面白い。弦楽に纏綿と歌わせる濃厚なマーラーでは無く、リズムを立てて諧謔を表現する解釈で、意外にアッサリと淡彩な音楽を楽しく聴かせて貰った。福井の歌も彼なりの、単彩な表現だったと思う。

 曲の終わり際に間髪を入れずと云うか、音の途切れたか途切れないかの瞬間、拍手を始めた観客がいた。オケ定期を聴きに行くと、このテの方に良く遭遇する。この際に起こった拍手は、飯森が指揮棒を掲げたまま降ろさなかった為、そのまま一旦止んで終った。僕の思うに「大地の歌」の締め括りには、例え楽譜に記載は無くとも、フェルマータのパウゼは厳然として存在する。その思いは指揮者と大多数の聴衆の間に共有されていた。

 大昔の話、今は亡き巨匠山田一雄が京響定期で、マーラーの第三シンフォニーを振った際、曲の終わって拍手が起こると、ヤマカズは右手に指揮棒を構えたまま、左手で客席に向けシッシとやって、とても和んだ事を思い出した。

ロッシーニ「ランスへの旅」

$
0
0
<第53回大阪国際フェスティバル2015/プレミエ>
2015年4月18日(土)15:00/フェスティバルホール

指揮/アルベルト・ゼッダ
ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団
「ランスへの旅」フェスティバル・シンガーズ

演出/松本重孝
美術/荒田良
照明/服部基
衣装/前岡直子

コリンナ/老田裕子
シドニー卿/クラウディオ・レヴァンティーノ
フォルヴィル伯爵夫人/イザベラ・ガウディ
騎士ベルフィオーレ/中川正崇
メリベーア侯爵夫人/ターチャ・ジブラッゼ
リーベンスコフ伯爵/アントン・ロシツキー
コルテーゼ夫人/石橋栄実
詩人ドン・プロフォンド/伊藤貴之
トロンボノク男爵/三浦克次
ドン・アルヴァーロ提督/木村孝夫
医師ドン・プルデンツィオ/西村圭市
ドン・ルイジーノ/松原友
孤児デリア/高嶋優羽
女中頭マッダレーナ/尾崎比佐子
小間使いモデスティーナ/田邉織恵
支配人アントーニオ/田中勉
使者ゼフィリーノ/谷浩一郎


 「ランスへの旅」のセミ・ステージ形式に拠る、いずみホールでの関西初演から七年の月日が流れた。最初から最後まで、ただ単に声をコロコロ転がすだけの、ロッシーニ究極のノー天気オペラ「イル・ビアッジョ・ア・ランス」のプロダクションがアジリタ不毛の地、ここ大阪で再び制作される。無意味な音楽が無意味な曲折を経て、より無意味な方向へと流れ、やがて中之島の空に夕陽は沈んで行く。「ランスへの旅」はそんなオペラだ。

 しかも指揮者は“ロッシーニの伝道師”、御年八十七歳のアルベルト・ゼッダ翁である。ゼッダさんはペーザロ・ロッシーニ・フェスティヴァルの芸術監督として、クラウディオ・アバドに「ランスへの旅」蘇演の指揮を委ね、今に至るロッシーニ・ルネサンスを主導した立役者である。十八名の出演者の内、十名が主役級としてアリアを歌う、声の饗宴みたいなオペラを、ゼッダさんのお眼鏡に適った歌手のみで上演するとは、誠に夢のような企画である。

 歌手の先陣を切る、関西ローカルでプリマドンナの石橋栄実が、第一曲のアリア「麗しい光に輝き」で、その本領を発揮する。レジェーロな音色ながら豊かな声量で、アジリタのテクニックはソコソコでも、高音部のコロラトゥーラで目の覚めるように煌びやかな声を振り撒く。石橋は美しいレジェーロだが、歌える役柄は割りに限定されていて、その適性は華やかな声自体を誇示する曲にある。これを初っ端にカマされた後続の歌手達は、否応も無くライバル心を掻き立てられる段取りとなる。

 だが、煽られるフォルヴィル伯爵夫人のイザベラ・ガウディには、石橋には無い抜群のアジリタと云う強力な武器があった。声質自体は軽いとは云えないリリコだが、コロコロと声を転がす際の声の輝きは、本日の白眉の歌唱と云える。実はロッシーニを歌うのなら、この程度のアジリタは必須で、ここから音楽は始まるとも云える。高音部でキツ目になるガウディの声には、先にアリアを歌った石橋の声との対照性もある。石橋のレジェーロに対し、ガウディのリリコを配して声の彩りを織りなす、これこそ多様な“声”の饗宴を盛り上げる要諦なのである。

 コリンナの老田裕子は第三曲のアリア「優しい竪琴よ」で、アジリタを磨く研鑽の跡の窺える歌い振りだったが、声質自体はロッシーニはやや重目で、もう少し軽やかに聴かせる工夫は望まれる。でも、第九曲のアリア「即興詩」では広いダイナミク・レンジを駆使し、情意を尽した歌を唱ってくれる。フォルテシモで高音部を出し切る声の力があるからこそ、ピアニシモもキチンとコントロールし、持ち前の柔らかい声質を生かした、味わい深い歌を聴かせる事が出来るのだと思う。ハープ奏者は舞台上で二曲のアリアを伴奏する演出で、カーテンコールの際に奏者を呼び出したのも楽しい配慮だった。

 第五曲のデュエット「彼のお方の神々しい姿は」で老田の相方を務める、フランスの外交官タレイランのパロディで、仏軍将校ベルフィオーレの中川正崇を、僕はこれまでにも何度か聴いているが、以前と比べ取り立てて進歩の跡は見えなかった。そもそも塩辛い地声が聴き辛く、アジリタは無いに等しい。ロッシーニでは問題外な低目に響く未熟な発声法で、コリンナに振られて当然と思える歌い振りだった。今回のプロダクションではペーザロと大阪音大から四人づつ、藤原歌劇団からは二人で、計十人の主役級歌手を調達したが、その中には残念ながら「ランスへの旅」のキャストとして、技術的に相応しくない歌手も混じっていた。

 バッソ・ブッフォの四人の内、ペーザロ組で英国軍大佐シドニー卿のクラウディオ・レヴァンティーノは、イタリアのバリトンでロッシーニ向きの軽い声だが、演技面で今ひとつ闊達さに欠ける。それよりもアリアに絡むフルートが見事で、その美しい音色に惚れ惚れさせられる。オーストリアの外交官メッテルニヒのパロディで独軍少佐、トロンボノク男爵の三浦克次は藤原組のベテラン。この方のガラガラ声は上方落語の異才、故桂枝雀師匠の持論とした典型的な“オモロ声”と思う。つまりダミ声自体に滑稽味を含む落語家は、話す内容とは関係無く、何を喋っても人を楽しませると枝雀師匠は仰る。三浦は持ち味のガラガラ声に加え、歌と演技に一頭地を抜く芸達者振りで、若手の多い舞台を引き締めていた。

 それと比べるまでも無く、ドン・プロフォンドやドン・アルヴァーロを歌った若手は、ただ単に譜面を音にしただけで、弾けるようなロッシーニの楽しさは表現出来ない。譜面の読みの浅さと技術の未熟は、当然ながら演技面にも影響を及ぼす。このオペラの聴き物の一つで、僕は楽しみにしていたドン・プロフォンドのノー天気アリア「他に類のないメダル」も、面白くも何とも無い歌に退屈させられた。大阪音大声楽科の重鎮で大ベテランの田中勉は、端役のアントーニオで若手の及びも付かない声の実力を披露する。主役が頼り無いので脇役の目立つ、チグハグな配役だった。

 ロシアの将軍リーベンスコフ伯爵を歌うアントン・ロシツキーは、ペテルブルク出身で生粋のロシア人。如何にもロシア風に重目の声なのにアジリタもあり、その上に超高音を自在に出す面白いテノール。成程、この役は重い声のテノールでないと、ロシア皇帝アレクサンドル一世のパロディにならないと、実際に声を聴いて納得した。ペーザロで経験を積み、切磋琢磨を経て来た四人の歌を聴くと、国内で稽古するだけの日本人歌手とは、環境の違い過ぎる事を痛感させられる。

 リーベンスコフに口説かれる、イタリア将軍の未亡人メリベーアを歌ったターチャ・ジブラッゼは百八十センチ超の長身で、彼女を廻って恋の鞘当てをする、ロシツキーや木村孝夫より頭一つ背が抜けていた。歌の方はキチンとしたアジリタの技術があり、高低の音域にムラの無い、メゾと云うよりはアルトの声質で、低声歌手がコロコロと声を転がし聴かせるのは、ロッシーニの醍醐味と云って良いかと思う。第八曲のリーベンスコフとの愛のデュエット、「神よ気高き魂を」での丁々発止の遣り取りは、とても聴き応えがあった。

 オケは最初の内、腰の重い感じでノリ切れず、ロッシーニらしいリズムの冴えは伝わって来なかった。でも、オケの方でロッシーニのノリを掴んだのか、はたまたゼッダさんに興の乗って来たのかは知らないが、尻上がりに調子は揚がって来る。「ランスへの旅」最高の聴かせ処、十四声の大コンチェルタートまで差し掛かれば、もうオケも歌手もノリノリで、僕も何時の間にかゼッダさんの手管に乗せられている。ゼッダさんの練達の指揮は、見た目は何だかウニャウニャしていても、歌う側からすれば分かり易いのだと思う。

 ゼッダさんの統率の基、オケも歌手も頑張って「ランスへの旅」を盛り上げてくれたが、その足を引っ張ったのが弾まない演出だった。歌手が聴かせ処のアリアを唱っている最中に、後ろでコーラスに何かゴソゴソと余計な演技をさせ、歌に集中しようとする聴衆の邪魔をする。そうかと思えば、オケの間奏部で合唱団は居なくなり、一人残した歌手に何か遣らせる。歌手がアリアを唱う際には小細工を弄し、誰も歌わない場面では舞台上をカラにする、それはどう考えても逆だろうと、僕は腹が立って仕方無かった。

 そもそもオケのリズムと、歌手の演技が全く噛み合っていない。コーラスの動きが気怠そうで、キビキビした処の無いのは、ロッシーニの音楽への根本的な勘違いがあるとしか思えない。ロッシーニの演出では音楽に合わせ歌手を動かすのが、基本中の基本では無いのか。恐らく巡演する東京文化会館の間口に合わせたのだろう、セットは横長なフェスティバルホールの舞台中央に、ちんまりと纏めて置かれている。今日の演出は広い舞台を狭く使い、ソリストにもコーラスにも踊らせず、間延びした演技を施している。そもそもロッシーニでは、ステップを踏みながら歌うのがデフォルトと思う。

 我々が今日の上演を楽しめたのは、全てゼッダさんのお蔭である。出演者全員にロッシーニの様式を叩き込み、アジリタの下手な歌手を鍛え、ノリの悪いオケをドライヴする、全てをゼッダさんの手腕に負う上演だった。無益で無害なロッシーニの音楽に生涯を捧げる、ゼッダさんの衰えぬ情熱に敬意を表したい。上掲の写真は昨年、咽頭癌の手術を経て演奏活動に復帰され、五月に野田秀樹演出のフィガロを指揮される井上道義さんです。ご協力有難うございました。

大阪音大カレッジオペラ講座2014

$
0
0
<オペラ物知り講座第10期第1回>
2014年5月13日(火)18:30/大阪音楽大学ミレニアムホール

バリトン/晴雅彦
ピアノ/梁川夏子
講師/中村敬一

ブラームス「Sonntag 日曜日」(五つの歌曲)op.47-3
R.シュトラウス「Zueignung 献呈」(ギルムの詩の八つの歌曲)op.10-1
トスティ「L'alba separa 暁は光と闇を分かち」(アマランタの四つの歌)
中村茂隆「晴雅彦への歌曲集」(全6曲)
コルンゴルト「私の憧れ、私の迷い」(死の都)
ヴェルディ「カルロよ、お聞き下さい」(ドン・カルロ)
アラン・メンケン「愛せねばならぬ」(美女と野獣)
サミー・フェイン「慕情」(慕情)


 大阪音大の行なう一般客向けオペラ講座で、今年も晴雅彦准教授担当の日に赴いた。この講座では歌の合間に話をすると云うより、お喋りの序でに歌も唱うと云う方が実態に近い。今日は講師の中村の質問に答える形で、晴さんの語る海外でのオペラ経験談を、我々観客が拝聴する趣旨のようだ。まず最初はブラームスとシュトラウスで、晴さんのリートは珍しいと思うが、実際に聴くと彼の演技的な身振りは、歌詞を表現せねばならないリートに合うと感じる。

 ドイツの田舎のオペラハウスは歌舞伎等と同じく、日替わりで演目を出すレパートリー・システムで、練習はいきなり立ち稽古から始まる。その為、晴さんは自腹でコレペティ練習をせざるを得ず、持ち出しでオペラ出演していたそうである。デビュー時に「蝶々夫人」でゴローのオファーを受け、あれはテノールの役だからと尻込みすると、プロデューサーに遣れる時に遣って置けと言われ、後に持ち役となった経緯がある。この時も衣装は自前の着物を持ち込んだそうである。向こうではヘングレの魔女や、「ウィンザーの陽気な女房」のドクター・カイウス等、晴さんは専ら訛る役を振られていたそうだ。

 ドイツ国内ではオペラハウスにランク付けがあり、その内のBクラスの劇場は終身雇用で、歌手の中には手抜きをする輩が多いのだそうである。コーラスは百人居ても、指揮者の近くに居る奴らしか歌わない。端っこの方の連中は無駄話したりしているが、それで上手い具合に群衆に見えると云う事らしい。兎に角みんな不熱心なので、晴さんは日本に帰る事を考え始めたらしい。

 休憩後はオペラ・アリアで「死の都」の道化師フリッツは、晴さんがドイツで勉強した役でそうで、先月びわ湖ホール公演で歌ったばかりの曲である。もう一生歌えないかと思っていた大好きな役で、他にも新国立で十何回か歌った「運命の力」のメリトーネも、それまでは半ば諦めていた役だったと云う。トゥーランドットのピン・パン・ポンの内、ピン役は歌う分量も多く難しいと述懐する。しかも日本のスタッフは、十分足らずしか無い着換え時間であっても、その間に用も足さしてくれて、やはりドイツよりも手際が良いと晴さんは評価する。

 余程好きなのだろう、晴さんのリサイタルで「ドン・カルロ」のアリアを聴かない事は無いように思う。ただ、本人も自分のキャラに合っていない事は重々自覚していて、狙撃され瀕死の状態のロドリーゴの演技を、下剤を飲んで苦しんでいるのでは無い等、必ずクドクドと言い訳してから歌う。今日は歌そのものも良く声が出て、なかなか充実していたと思う。今秋、遂に念願を果たし、関西二期会公演でロドリーゴを歌うそうで、誠にご同慶の至りではある。また、彼は師匠からリゴレットを歌うなら五十歳になってから、と言い渡されているらしい。まあ、声質の問題は置くとして、確かに任に合うのはロドリーゴよりはリゴレットだろう。でも、晴さんの役で本当に観たいのは、やっぱレポレッロとかアルナルタだけれども。

 ここで何故か唐突に会場の観客に対し、「夏の思い出」の歌唱指導を始める。晴さんは歌唱技術の話し等せず、歌詞の裏にあるイメージを表現せよ、思いを込めろと、何だかそこらの合唱指揮者みたいな事を言う。まあ、そう云う仕事も遣っているらしいけれども。その後にミュージカルと映画音楽を一曲づつ歌う。

 「美女と野獣」では自分はこのテの経験は豊富なので巧い、「慕情」は年寄り向けの曲と思ったが、今日のお客さんは皆さん自分より若いから選曲ミスだった、アンコールの「千の風になって」では、これは男前の唱う歌なので、目を瞑って我慢してくれと述べる等、何か一曲歌う度にコメントして客の気を逸らさないように努める、何時ものサービス精神旺盛な晴雅彦氏でありました。

ワーグナー「ジークフリート」第三幕

$
0
0
<関西フィルハーモニー管弦楽団第257回定期演奏会>
2014年6月13日(金)19:00/ザ・シンフォニーホール

指揮/飯守泰次郎
ジークフリート/ジャンルカ・ザンピエーリ
ブリュンヒルデ/畑田弘美
ヴォータン/片桐直樹
エルダ/竹本節子
関西フィルハーモニー管弦楽団


 飯守さん指揮の関西フィル定期ヴァーグナー・シリーズは、前回の「ジークフリート」第一幕から三年を経て、いよいよ待望の第三幕上演と相成った。ただ、、このシリーズで常にヘルデン・テノールの役を担って来た、竹田昌弘君が体調不良で降板。代役には顔の広い飯守さんのお蔭を持って、遥々とイタリアからジャンルカ・ザンピエーリと云うテノールがやって来た。プレトークでの飯守さんの説明に拠ると、まず国内でジークフリートの歌い手を探したが、本番一週間前の急場では見付からず、飯守さんの伝手を頼りに海外を当った結果、ザンピエーリ君を呼び寄せる事が出来たそうである。

 育ての親ミーメと、巨人ファーフナーの化身である大蛇を惨殺し、指輪を強奪したジークフリートは森の小鳥に導かれ、意気揚々とブリュンヒルデの眠る岩山へと向かう、と云うのが第二幕までのお話し。三幕一場はエルザと、彼女を訪ねて岩山にやって来たヴォータンとの、二人のダイアローグでオペラは進行する。エルダの竹本節子は初めて聴く人では無いが、これまで取り立てて印象に残らない歌手だった。でも、今日の竹本は深く重いアルトの声が役に嵌り、パセティックな情感にも富んでいて、さすがに飯守さんのお眼鏡に適う実力派と感心する。

 ただ、これに対するヴォータンの片桐直樹は声が軽く、神々の長らしい威厳や重々しさに欠ける。それと炎や小鳥の動機等、リズミカルに早目のテンポで聴かせる場合は良いが、トロンボーンの指輪の動機や木管合奏の呪いの動機等、緩徐部分でアンサンブルの密度が低くなる。弦の音色にも更にツヤがあれば尚良いが、これは高望みに過ぎるかも知れない。

 二場はブリュンヒルデの眠る岩屋へと向かうタイトル・ロールと、そのまま居残ったヴォータンのダイアローグとなる。ザンピエーリはラダメスやカヴァラドッシを歌いつつ、トリスタンやタンホイザーも主要なレパートリーとするテノールのようだ。この方にはイタリア人歌手らしい明るい音色と、派手に演技的な身振りとがあり、振幅の大きなデュナーミクでジークフリートを自分の役として表現していた。ただ、他の日本人歌手は全員棒立ちのままで、ジークフリートの身振りの大きいのは浮き気味となる。皆さん、もう少しザンピエーリ君に付き合い良くして上げても、バチは当らんだろうにと思う。

 二場から三場への間奏曲では、オーボエの炎の動機が良かったし、トランペットとトロンボーンに拠るジークフリートの動機も、荒っぽい程のフォルテシモで胸に迫るものがあった。三場から登場の畑田弘美は、高音部のフォルテでは会場の空気を切り裂くように鮮烈に、中音域では暖かい音色で語り掛けるように歌い、幅広い表現力でブリュンヒルデを聴かせる。飯守さんはジークフリートがブリュンヒルデを見付け、やがてブリュンヒルデも目覚める場面等、聴かせ処で大見得を切るツボを心得ている。ブリュンヒルデが逡巡したり怒ったりする度、音楽を転換させる際も手堅く、オーソドックスに進めながら、しかも音楽に充分な熱さを吹き込んでいた。

 ザンピエーリ君の歌には満足したが、それにも関わらず惜しまれるのは、本職はゼネコン勤務の一級建築士で、日曜オペラ歌手の竹田昌弘君の降板である。この機会を逸して終えば、次に何時ジークフリートを歌えるのか、全く目途は立たない筈だ。やはり歌わせて上げたかったし、彼のジークフリートを聴きたかったとも思う。勿論、それは日本でオペラを唱う、全ての歌手に共通する問題ではあるけれども。

モーツァルト「コジ・ファン・トゥッテ」K.588

$
0
0
<佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ2014>
2014年7月19日(土)14:00/兵庫県立芸術文化センター

指揮/佐渡裕
チェンバロ/ケヴィン・マーフィー
兵庫芸術文化センター管弦楽団
ひょうごプロデュースオペラ合唱団

演出/デヴィッド・ニース
美術・衣裳/ロバート・パージオラ
照明/高沢立生

<Bキャスト>
フィオルディリージ/小川里美
ドラベッラ/フイリン・チュウ
フェルランド/ジョン健ヌッツォ
グリエルモ/キュウ・ウォンハン
デスピーナ/田村麻子
ドン・アルフォンソ/町英和


 ハイソでセレブな阪神間で夏の風物詩となりつつある、佐渡裕プロデュースオペラも十回目にして、演目は超ポピュラー路線からやや外れ、優雅にして繊細なコジを取り上げる。これまで兵庫芸文の演目は、ライヴァルのびわ湖ホール制作オペラと全く被っていなかったので、今回の「コジ・ファン・トゥッテ」で、初めての後追い上演となった。そこには勿論、二人の芸術監督の嗜好も絡むが、それよりも同じ関西で棲み分けを図ろうとする、関係者の働き掛けも大きかったと想像する。

 今回の舞台製作は小澤征爾が好んで起用する為、国内でも頻繁にそのお仕事振りを拝見する、メトロポリタンの首席演出家デイヴィッド・ニースである。ニース君は如何にもメトの演出家らしく、穏健と云うか微温的と云うかエンターテインメントに徹して分かり易い、ディズニー映画みたいな舞台を作る人である。さすがにミュージカルの本場ニューヨークの演出家で、ロココ調のセット・デザインは文句無しに美しく、歌手の動かし方にも工夫を凝らして、文字通り音楽を邪魔しない、安心して見ていられる舞台である。だが、その優美な舞台に鳴り響く音楽は、繊細なロココ調のモーツァルトとは評し難かった。

 僕は佐渡の指揮する七年前の「魔笛」で、モーツァルトにアチェルラントを使わない、遅目のテンポに不満を感じた。今回、「魔笛」より更に取扱い要注意となる「コジ」で、指揮者は速い部分ではソコソコ聴かせても、緩徐部分で音楽に内在するリズムを感じさせず、ピアニシモのテンションを保つ事が出来なかった。二回の幕切れで馬力に物を言わせ盛り上げる事で、最後に帳尻を合わせた恰好だ。

 どうやら佐渡はモーツァルトの演奏に不可欠な、レガートな流れの中に息衝く、弾むリズムを把握出来ていないようだ。感じていないものは表現の仕様も無い訳で、これはモーツァルトの演奏では致命傷となる。世間ではどう思っているのか知らないが、僕は小澤征爾の演奏にも同じ問題を感じ、あの人のモーツァルトは敬遠している。モーツァルトは難しい、本当に難しいと思う。

 でも、若いオケの演奏自体は悪くないと感じる。一幕の姉妹のデュエット「ご覧なさい妹よ」では、フルートとファゴットの板に付いた伴奏のリズム、二幕の男声のデュエット「甘く優しいそよ風よ」では、クラリネット以下の木管のリードで、何れもモーツァルトらしい演奏になっていた。プロ奏者が多様な時代様式を把握し、作曲家の意図を汲む演奏をするのは必要条件だが、何故かお茶の間の人気者にはそれが出来ず、音楽的な常識を弁えた若い木管陣に救われた恰好だ。但し、指揮者は大人数の弦楽合奏を相手に、モーツァルトらしい軽いリズムを刻めないので、全曲を通して「コジ」を楽しめる訳では無い。

 今回のプロダクションではメトロポリタン常連の欧米歌手陣と、日中韓の混成部隊とでダブル・キャストを組んでいる。今日のアジア組でフィオルディリージの小川里美は、声に力のあるソプラノだがドルチェな表現力に乏しく、モーツァルトを力で捩じ伏せている印象を受ける。一幕のアリア「岩のように動かず」では、今ひとつ怒りの感情が伝わらないし、二幕のロンド「恋人よ許して下さい」も音色の変化に乏しく、やや単調な歌になっている。

 ドラベッラのフイリン・チュウも、強い声を出せる濃い音色のあるアルトで、二幕のアリア「恋は小さな泥棒」を振幅の大きなデュナーミクで聴かせる。ただ、この声はフィオルディリージとの対比は作れるが、爽やかなメゾの声では無いので、モーツァルトらしい軽やかさは出て来ない。反社会的行為で暫くご無沙汰していた、フェルランドのジョン健ヌッツォはレジェーロでは無く、イタオペ向きのリリックな声質のテノールで、この人にも音色の変化は望まれる。

 佐渡芸術監督のお友達で「トスカ」「蝶々夫人」にも出演している、韓国出身でグリエルモのキュウ・ウォンハンは剛毅な声の良いバリトンだが、その歌い振りは些か生真面目に過ぎ、ユーモアや闊達さに欠ける。今日の二組の恋人達の声は、何れもフィジカルに強過ぎると感じる。「コジ」のアリアや重唱の中で、僕の最も楽しみにしている一幕のトリオ「風よ穏やかに吹け」でも、モーツァルトらしい抒情性はサッパリ聴こえて来ない。二幕のフィオルディリージとフェルランドのデュエットも、この二人の歌手の欠点がモロに出て、情感に乏しい歌になって終った。

 町英和の声は逆に軽過ぎる。演技にも軽妙さが足りず、甚だしく存在感の希薄なドン・アルフォンソで、この役を唱うバス歌手として論評に値しない出来だった。国内でドン・アルフォンソを歌えそうなバスは、片手で数えられる程しか居ない筈で、一体何が悲しくてこんな若僧を使うのか理解に苦しむ。今日のグリエルモとドン・アルフォンソは、以前から佐渡に重用されているが、僕は彼等の実力に見合う起用とは思っていない。

 六名の歌手の中で只一人、デスピーナの田村麻子が抜群の存在感を示した。一幕のアリア「男や兵隊に」も良かったが、何と云っても二幕のアリア「女も十五になれば」が素晴らしかった。コケットリーのあるスープレッド・ソプラノで、指揮者に欠けているリズムを把握している上に、抜群の演技センスの持ち主でもある。ニューヨーク在住で国際的なキャリアを積んでいる人のようだが、欲を言えば音色の引出しに乏しいので、多彩な色を使えるようになれば盤石だろう。

 佐渡のような野蛮なタイプに繊細で壊れ易い「コジ」は、やはり無理だったかと云うのが、アジア組キャストを聴き終えての感想である。そもそも芸術監督の歌手の選択自体に、彼の蕪雑なモーツァルト観は顕わになっていたと思う。佐渡の弾まない演奏は変わりようも無く、明日の上演の出来はメトロポリタン組の歌手が、どの程度まで指揮者をカヴァー出来るかに掛かっている。

 僕は近所に住んでいるので、ここのプロデュースオペラは欠かさず見物しているが、なかなか単純に楽しめる上演に当らない。佐渡が観客の啓蒙等と言うのは百年早いし、まず質の高い娯楽を提供する事こそ、彼の果たすべき責務だろう。そう考えれば結論は自ずと見えて来る訳で、毎年オペレッタばかり取り上げる、日本のフォルクスオーパーを目指せば良いのだ。宝塚歌劇場の向こうを張って、西宮喜歌劇場って悪くないと思うけれども。

モーツァルト「コジ・ファン・トゥッテ」K.588

$
0
0
<佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ2014>
2014年7月20日(日)14:00/兵庫県立芸術文化センター

指揮/佐渡裕
チェンバロ/ケヴィン・マーフィー
兵庫芸術文化センター管弦楽団
ひょうごプロデュースオペラ合唱団

演出/デヴィッド・ニース
美術・衣裳/ロバート・パージオラ
照明/高沢立生

<Aキャスト>
フォルディリージ/スザンナ・フィリップス
ドラベッラ/サンドラ・ピケス
フェルランド/チャド・シェルトン
グリエルモ/ジョン・ムーア
デスピーナ/リュボフ・ペトロヴァ
ドン・アルフォンソ/ロッド・ギルフリー


 演出にデイヴィッド・ニース、歌手には若手のスザンナ・フィリップスや、ベテランのロド二―・ギルフリーを迎え、メトロポリタン丸抱えの布陣で行なわれる佐渡裕オペラである。ここまでするのなら、いっその事にメトと共同制作すれば、安上がりで済むだろうにと思う。芸術監督は毎年のオペラ上演で、ウィーン・フィルやベルリン・フィルからトップ奏者を招聘し、若いオケを補強しているが、これも序でにメトから呼べば良いのにと思う。

 今日の上演は昨日とは全く違っていた。六人の出演者全員に声量があり、余裕を持って音楽の内容を表現出来ていて、やはりオペラ上演は歌手の力量次第と痛感させられる。フォルディリージのフィリップスは豊かな声量で、振幅の大きなデュナーミクを作る事が出来るし、持って産まれた天与の美声で聴かせてくれる。この方は三年前、震災直後のメトロポリタン来日公演「ラ・ボエーム」で、ムゼッタを歌うのを聴いたが、その際は印象の希薄な歌い振りだった。今日聴いた処では、見事なアジリタの技術もあるし、一幕のデュエット「ご覧なさい妹よ」 での、ドラベッラとのピアニシモ合戦も余裕綽々で、ヴェリズモよりモーツァルトに適性のあるソプラノと感じた。

 ドラベッラのサンドラ・ピケスはアルトっぽい、重目の音色のあるメゾで、彼女も際立った美声の持ち主である。フィリップスとの声の相性も良く、姉妹のデュエットは何れも聴き応えがあった。デスピーナのリュボフ・ペトロヴァも美しいレジェーロだが、ノーブルな声質で上品に過ぎ、コメディ・リリーフ役としては、やや存在感に乏しい歌い振りだった。

 グリエルモのジョン・ムーアは高音部でややキツくなるものの、中音域の柔らかい音色は絶品で、弱音の美しさにも秀でている。持ち前の美声で正面切ったアリアを歌い、レツィタティーヴォではおちゃらけて見せる、ブッファ向きの芸達者なバリトンでもある。フェルランドのチャド・シェルトンは硬目の声で力押しする上に、音色の変化も無くやや単調で、これはモーツァルトよりもヴェルディ向きのテノールと思う。ドン・アルフォンソのギルフリーには、如何にもバッソ・ブッフォらしい歌い回しと演技力はあるが、声自体は軽過ぎるハイ・バリトンで、これはミス・キャストだったかも知れない。

 メト組はアリアの旋律へ適宜に装飾音を施していたが、アジア組の歌に即興的な付加は無かったと思う。歌手の名人芸を聴かせるオペラ・アリアに、装飾音を施すのは様式的に正しい演奏法だろう。一体、佐渡はメト組の装飾音を積極的に奨励したのか、それとも只単に黙認しただけなのか。ダブル・キャストの片方だけ装飾付きで、もう一方は楽譜通りなのでは、著しく整合性を欠く。アジア組にアジリタの技術が無いのを言い訳にするのなら、それは逃げ口上になる。

 今日は歌手に煽られて佐渡もノリノリだったが、それもアレグロより速い局面だけで、それよりも遅くなると相変わらず演奏はダレる。二幕のフォルディリージのロンド「恋人よ許して下さい」で、佐渡は遅いテンポの上にヘンな処でリタルダンドしたり、長いパウゼを入れたりして、曲に内在するリズムを感じさせない作為的な解釈を取る。必然性を感じない所為か歌手も唱い難そうだったが、この解釈は両日で同じだったので、これは佐渡の押し付けとしか思えず、好きに唱わせれば良いのにと思う。結局、この指揮者はモーツァルトに限らず、縦のリズムをキチンと把握出来ていないので、そう云った小手先の工夫に走るのだと思う。

 昨日はデスピーナ一人が悪目立ちしていたが、今日は主役四名のアンサンブルがキチンと出来ていたので、脇役の二人も自ずと機能した。オペラ素人の指揮者を、手練れの芸達者達で支えた格好だ。結局、オペラは伴奏や演出では無く、歌手次第であると改めて実感させられる上演だった。勿論、指揮者やオケにもオペラ経験が豊富にあれば、それに越した事は無いのだけれども。
Viewing all 226 articles
Browse latest View live


<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>