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ベッリーニ「カプレーティとモンテッキ」

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<第22回みつなかオペラ/ベッリーニ“ベルカント・オペラ”シリーズ>
2013年9月29日(日)14:00/川西みつなかホール

指揮/牧村邦彦
ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団
みつなかオペラ合唱団

演出/井原広樹
美術/アントニオ・マストロマッテイ
照明/原中治美
衣装/村上まさあき

ジュリエッタ/坂口裕子
ロメーオ/高谷みのり
テバルド/中川正崇
領主カペッリオ/片桐直樹
神父ロレンツォ/鈴木健司


 川西市民オペラでは「マリア・ストゥアルダ」、「ラ・ファヴォリータ」、「ランメルモールのルチア」のドニゼッティ三連発を終え、今年から新たな三年計画でベッリーニを上演する。今日はその第一弾の「カプレーティとモンテッキ」で、来年の第二弾は「清教徒」、再来年は「ノルマ」を予定している。このオペラの台本は「ロメオとジュリエット」では無く、シェイクスピアが元ネタに使った、イタリアの伝承民話から来ているらしい。

 音楽監督の牧村はプログラムに寄せた文章で、「すっ飛ばしてきた、この(ベルカント)時代の音楽を知らずしてヴェルディは語れないし歌えないし、恐らく教える事も出来ない」と述べている。勿論、歌手がベルカント唱法を学べば、ヴェルディを歌う際にも役立つのは間違い無いし、牧村のような考え方も有り得るかも知れない。しかし、「20年の間にイタリアのオペラはここまで進化した」。「この短い時期に歌手達も進化した事になる。いわゆるベルカントと呼ばれる唱法が編み出された」となると、やや疑念も生じる。乱暴に言えばモンテヴェルディからベッリーニまで、音楽の様式と唱法は地続きだが、イタリア・ロマン派(そんな言葉は無いが)の到達点とも云うべき、ヴェルディとの間には或る種の断絶があると考える。

 「みつなかホールでイタリアオペラの歴史を体感」すると云う、趣旨自体に全く異論は無い。だが、ヴェルディを楽しむ為と云う理由で、ドニゼッティやベッリーニを聴く必要は無いし、それを言うならベルカントの理解の為には、ロッシーニからバロックへ遡る方が重要だろう。今時はピリオド楽器に拠るベルカント・オペラ上演も珍しくないし、チェチーリア・バルトリのような人気スター歌手が古い楽譜を校訂し、カストラート・オペラの蘇演を手掛けたりもしている。果たして牧村君はオペラ指揮者として、どれほど音楽史を辿る事の重要性を認識しているのか。その視線はロッシーニやモーツァルトから先には届かないようで、もし彼がバロック・オペラを一切知らなくとも、別段の驚きも無い話と思う。

 牧村はベルカント物のスペシャリストと云うか、それ以外の演目で好い印象が無い。演奏家に得手不得手のあるのは当然だが、市民オペラ・レヴェルで指揮者に適材適所を求めるのは難しいし、その点に付いては自分の見極めの問題と考えている。今日の演奏は叮嚀に伴奏を付けて好感を持てるし、楽譜通りの編成から切り詰められた、オケを充分に盛り上げてくれた。幕切れのカタルシスに、僕は不覚にも涙ぐんで終った。

 もう同じような事を何度も書いたし、観に行く前から分かっている事でもあるしで、演出の悪口もパターン化して来ている。ただ、この演出家の根本的な問題点として、何でも“一斉に”やらせたがる事は、改めて指摘して置きたい。つまり剣を抜いたり納めたりする動作や、いきり立ったり逡巡したりする感情の表現を、個別にでは無く一体として処理したがるのだ。通常、演出家はコーラスをモブ処理する際、個別の動きを指示する事に拠り、舞台に変化を付けようとする。今日、この一律に単純化された演出を観ていると、これは一般的な舞台作りに対するパロディと云うか、戯画化を目指しているようにさえ思えて来る。そもそも“一斉に”揃える為に費やされる練習量は、単なる時間と金銭の浪費とも思う。

 タイトル・ロールの二人の内、ジュリエッタの坂口裕子は女性らしい情感を滲ませる声で、超高音もピアニシモからフォルテシモまで、ほぼ完璧にコントロールされている。パセティックな情感にも、アジリタにも欠けない、既に完成されたベルカント・ソプラノと思うが、やや小じんまりと纏まっている感はある。

 ロメーオの高谷みのりは柔らかく可愛らしい声のメゾで、立ち上がりはやや不安定だったが、ジュリエッタとのデュエット辺りからギアをトップにシフトし、主役としての責務を全うしてくれる。声量は然程に無いので、カルメンなんかは無理そうだが、立ち姿が美少年っぽく凛々しいので、ケルビーノなら打って付けだろう。ジュリエッタが大人っぽいので、少年が背伸びし年上の恋人に対し、粋がっているようにも見える。エディト・マティスみたい、なんて言うと褒め過ぎだろうが。

 テバルドの中川正崇のリリックと云うより、キャラクターぽい声を美声とは云い難い。高音部でスピントすると地声っぽくなったり、上がり切らなかったり、やや不安定でまだ勉強中の感は強いが、素材としては悪くないと思う。但し、演技は学芸会レヴェルで、見た目がお坊ちゃまキャラで致し方無いにせよ、敵役だしもっと憎々し気にやって欲しい。取り敢えず声に関して、高音部をキレイに出せるよう今後の精進に期待したい。カペッリオの片桐直樹が第一声を発すると、それだけで舞台はグッと引き締まる。さすがにベテランの貫録を示して、これは踏んだ場数の違いとしか言いようも無い。

 牧村は「作品とともに演奏家も育ち、聴衆も育つ。残念ながらその点、聴衆の開拓だけはかなり遅れてしまっている」との意も述べている。その真意は不明だが、演奏家に付いて云えばアジリタ無しでベルカント・オペラは歌える筈も無いし、関西の旧態然とした教員歌手陣が、そのテクニックに秀でているとは言い難い。今時の素人はライブ・ビューイングやユーチューブや衛星放送で、何時でも欧米の最新情報や映像に接する事が出来る。遅れているのは聴衆では無く、演奏家の方だと僕は考える。ドニゼッティやベッリーニの公演に尽力する、関係者の労は大いに多とするが、ではそのピリオド楽器に拠る舞台上演が、近い将来に於いて実現可能なのか?とも思う次第である。

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