<足本憲治編曲〜ウィーン版イタリア語上演/プレミエ即千秋楽>
2011年6月10日(金)19:00/いずみホール
指揮&ピアノ/河原忠之
いずみシンフォニエッタ大阪
関西二期会合唱団
演出/岩田達宗
照明/原中治美
オルフェオ/福原寿美枝
エウリディーチェ/尾崎比佐子
アモーレ/石橋栄実
グルックの超有名作品「オルフェオとエウリディーチェ」だが、これを僕は初めて観る。音楽史的に重要な作品と喧伝されても、聴かない内は何が革新的なのか分からない。今日、実際に「オルフェオ」を聴いて思うのは、まず音楽の簡明な力強さだ。それを感じ取れただけでも、今回の上演を観に来た甲斐はあったのかも知れない。
お話しは毎度お馴染みギリシャ神話から、音楽の神オルフェウスとその妻エウリディーチェの悲恋物語。僕の大好きなモンテヴェルディ「オルフェウス」と同じ題材だが、グルックさんがその楽譜を入手し、先人の業績を研究したのかは知らない。グルックの“オペラ改革”を約めて言えば、言葉に寄り添う音楽を、そして劇的な展開を重視する姿勢だろうか。これを考えてみれば、17世紀初頭に誕生したばかりの“オペラ”と呼ばれるジャンルに参入し、芸術分野として確立させたモンテヴェルディの偉大な業績への回帰と云える。
17世紀初頭、フィレンツェのカメラータ御一党様が創始したオペラで、現代に楽譜の伝えられた作品である、ペーリの「エウリディーチェ」とカヴァリエーリの「魂と肉体の劇」を、僕は亡くなられた若杉弘さんの指揮する、東京室内歌劇場の公演で聴いている。平たく言って終えば、幾ら若杉さんの指揮と云えども、音楽史的な意味しか無い作品と思う。音楽ジャンルとしての“オペラ”の成立は、モンテヴェルディの劇的性格描写と、楽器固有の音色と性能を追求する天才に全てを負っている、それが音楽史上の事実である。
その後のバッロク時代のオペラ・セリアは、カストラート等のスター歌手によるテクニック誇示の場となる。ハッセとかヨメッリとかのオペラを、レパートリーに組み込むオペラ・ハウスは世界中の何処を探しても無いし、僕も聴いた事は無いが、ヘンデルのオペラはピリオド楽器の隆盛と共に復活し、欧米では頻繁に上演されているようだ。あれは歌手が名技を披露するオペラの典型例で、要するにアリアの連続の箸休めにレチタティーヴォを挟む、甚だ単純な構成である。勿論、ヘンデルだから音楽自体は美しいけれども…。
結局、グルックのオペラ改革は、オペラとは何ぞやとの問い直しで、その答えはギリシャ古典劇に立ち帰れと云う、ペーリやカッチーニのカメラータの主張と同じ結論に至る。モンテヴェルディにより芸術として確立したオペラは、ここで漸く原点に立ち帰って新たなスタートを切り、その直後にモーツァルトの快進撃が始まる。
と云うような話は、実はいずみホールでのオペラ見物の後に考えた事。例によって一切の予習をしない僕は、なーんも考えず上演に接する内、そもそも何故に今日の指揮者と演出家は、このグルックのオペラを取り上げたのか、疑問の膨らんだ次第。貰ったプログラムを読むと、演出家はコレペティトゥール出身の指揮者に、選曲も上演形態も丸投げしたフシがある。これを引き受けた側のコレペティ氏は、「まずオリジナルには無いピアノを使用して新しい響きを追求する」。「アレンジの主眼は歌手との絆の結び付きを深める為に、そしてドラマを音によって作り出す為とご理解頂きたい」と、予防線を張っている。しかし、何と言われようと、今日の上演の不可解な点は変わらない。
まず、そのピアノの響きが重い。スタインウェイのピアノの響きは、只ひたすら重い。のべつ幕なしにピアノの音が聴こえ、アリアとレチタティ−ヴォの区別も曖昧になる。だからバロック的な強弱のメリハリも無く、全体にのっぺりとした演奏になる。この指揮者は恐らく、歌よりも楽器を重視する姿勢だろうが、本来ドラマの深さと音色の重さには、何の関連性も無い筈。今時、モーツァルトのレチタティーヴォで、チェンバロの代わりにピアノを使うアホは居ないし、軽い音で深いドラマを作るのが、ヴィーン古典派のオペラだろう。でも、イタオペのコレペティには、未だレチタティーヴォにピアノを使う、何とも非音楽的な工夫を凝らす輩の居る訳だ。
出ずっぱりの主役であるオルフェオの福原は、さすがに頭の良い歌手で、音楽のスタイルは良く把握した歌い振り。でも、本来はカストラートに当てた役で音域自体が低く、音色の変化は付け難く、単調な重たい歌になって終う。また、セットの何も無い舞台で別にする事もなく、演技は身を捩って嘆くのみで持て余し気味。舞台上の見所にも乏しく、やや退屈する。
昨年のドニゼッティ「マリア・ストゥアルダ」の素晴しかったエウリディーチェの尾崎は、相変わらず美しいリリコの声質で、軽やかなソット・ヴォーチェも上手だし、高音部で鋭くスピントする力にも欠けていない。独りでは単調だったアルトのオルフェオも、相手役にソプラノのエウリディーチェを得れば、充分に聴き応えのあるデュエットを歌ってくれる。
アモーレの石橋の入れば、その軽やかなソプラノでホッと一息を吐ける筈と期待したが、彼女は先太りの濃い歌い回しで、全く様式感を欠いていた。一昨年のモーツァルト「イドメネオ」でも、力み返っておられたし、レジェーロな声でも歌える役柄は相当に限定されている様子。そもそも、ボーイ・ソプラノの役である事を理解しておらず、もう少し頭を柔らかくしてオペラに取り組んで頂きたく思う。
これまで二期会のコーラスに感心した験しは無かったのだが、今日は美しく堅固なアンサンブルで、とても良かった。大人数ではボロの出ても、頭数を絞れば良い結果の出るのは、びわ湖ホールの例で実証済みと云える。コーラスは上演の良いアクセントになったが、三人の歌手と合唱のみで、この長丁場を持たせるのは至難の業。バレエ・シーンの重要となる所以だが、経費削減の為か全てバッサリと切り捨てられ、これも今日の上演の足を大いに引っ張った。
モダン楽器によるオペラ上演には、事前に警戒心を抱くべきだったが、毎年いずみホールオペラは良い企画を立てるので、今回は油断があった。これを反省点として、今後は更に見物すべきオペラ上演を厳選したいと自戒するが、果たして上手く行きますかどうか、自分でも今ひとつ心許無いのである。
2011年6月10日(金)19:00/いずみホール
指揮&ピアノ/河原忠之
いずみシンフォニエッタ大阪
関西二期会合唱団
演出/岩田達宗
照明/原中治美
オルフェオ/福原寿美枝
エウリディーチェ/尾崎比佐子
アモーレ/石橋栄実
グルックの超有名作品「オルフェオとエウリディーチェ」だが、これを僕は初めて観る。音楽史的に重要な作品と喧伝されても、聴かない内は何が革新的なのか分からない。今日、実際に「オルフェオ」を聴いて思うのは、まず音楽の簡明な力強さだ。それを感じ取れただけでも、今回の上演を観に来た甲斐はあったのかも知れない。
お話しは毎度お馴染みギリシャ神話から、音楽の神オルフェウスとその妻エウリディーチェの悲恋物語。僕の大好きなモンテヴェルディ「オルフェウス」と同じ題材だが、グルックさんがその楽譜を入手し、先人の業績を研究したのかは知らない。グルックの“オペラ改革”を約めて言えば、言葉に寄り添う音楽を、そして劇的な展開を重視する姿勢だろうか。これを考えてみれば、17世紀初頭に誕生したばかりの“オペラ”と呼ばれるジャンルに参入し、芸術分野として確立させたモンテヴェルディの偉大な業績への回帰と云える。
17世紀初頭、フィレンツェのカメラータ御一党様が創始したオペラで、現代に楽譜の伝えられた作品である、ペーリの「エウリディーチェ」とカヴァリエーリの「魂と肉体の劇」を、僕は亡くなられた若杉弘さんの指揮する、東京室内歌劇場の公演で聴いている。平たく言って終えば、幾ら若杉さんの指揮と云えども、音楽史的な意味しか無い作品と思う。音楽ジャンルとしての“オペラ”の成立は、モンテヴェルディの劇的性格描写と、楽器固有の音色と性能を追求する天才に全てを負っている、それが音楽史上の事実である。
その後のバッロク時代のオペラ・セリアは、カストラート等のスター歌手によるテクニック誇示の場となる。ハッセとかヨメッリとかのオペラを、レパートリーに組み込むオペラ・ハウスは世界中の何処を探しても無いし、僕も聴いた事は無いが、ヘンデルのオペラはピリオド楽器の隆盛と共に復活し、欧米では頻繁に上演されているようだ。あれは歌手が名技を披露するオペラの典型例で、要するにアリアの連続の箸休めにレチタティーヴォを挟む、甚だ単純な構成である。勿論、ヘンデルだから音楽自体は美しいけれども…。
結局、グルックのオペラ改革は、オペラとは何ぞやとの問い直しで、その答えはギリシャ古典劇に立ち帰れと云う、ペーリやカッチーニのカメラータの主張と同じ結論に至る。モンテヴェルディにより芸術として確立したオペラは、ここで漸く原点に立ち帰って新たなスタートを切り、その直後にモーツァルトの快進撃が始まる。
と云うような話は、実はいずみホールでのオペラ見物の後に考えた事。例によって一切の予習をしない僕は、なーんも考えず上演に接する内、そもそも何故に今日の指揮者と演出家は、このグルックのオペラを取り上げたのか、疑問の膨らんだ次第。貰ったプログラムを読むと、演出家はコレペティトゥール出身の指揮者に、選曲も上演形態も丸投げしたフシがある。これを引き受けた側のコレペティ氏は、「まずオリジナルには無いピアノを使用して新しい響きを追求する」。「アレンジの主眼は歌手との絆の結び付きを深める為に、そしてドラマを音によって作り出す為とご理解頂きたい」と、予防線を張っている。しかし、何と言われようと、今日の上演の不可解な点は変わらない。
まず、そのピアノの響きが重い。スタインウェイのピアノの響きは、只ひたすら重い。のべつ幕なしにピアノの音が聴こえ、アリアとレチタティ−ヴォの区別も曖昧になる。だからバロック的な強弱のメリハリも無く、全体にのっぺりとした演奏になる。この指揮者は恐らく、歌よりも楽器を重視する姿勢だろうが、本来ドラマの深さと音色の重さには、何の関連性も無い筈。今時、モーツァルトのレチタティーヴォで、チェンバロの代わりにピアノを使うアホは居ないし、軽い音で深いドラマを作るのが、ヴィーン古典派のオペラだろう。でも、イタオペのコレペティには、未だレチタティーヴォにピアノを使う、何とも非音楽的な工夫を凝らす輩の居る訳だ。
出ずっぱりの主役であるオルフェオの福原は、さすがに頭の良い歌手で、音楽のスタイルは良く把握した歌い振り。でも、本来はカストラートに当てた役で音域自体が低く、音色の変化は付け難く、単調な重たい歌になって終う。また、セットの何も無い舞台で別にする事もなく、演技は身を捩って嘆くのみで持て余し気味。舞台上の見所にも乏しく、やや退屈する。
昨年のドニゼッティ「マリア・ストゥアルダ」の素晴しかったエウリディーチェの尾崎は、相変わらず美しいリリコの声質で、軽やかなソット・ヴォーチェも上手だし、高音部で鋭くスピントする力にも欠けていない。独りでは単調だったアルトのオルフェオも、相手役にソプラノのエウリディーチェを得れば、充分に聴き応えのあるデュエットを歌ってくれる。
アモーレの石橋の入れば、その軽やかなソプラノでホッと一息を吐ける筈と期待したが、彼女は先太りの濃い歌い回しで、全く様式感を欠いていた。一昨年のモーツァルト「イドメネオ」でも、力み返っておられたし、レジェーロな声でも歌える役柄は相当に限定されている様子。そもそも、ボーイ・ソプラノの役である事を理解しておらず、もう少し頭を柔らかくしてオペラに取り組んで頂きたく思う。
これまで二期会のコーラスに感心した験しは無かったのだが、今日は美しく堅固なアンサンブルで、とても良かった。大人数ではボロの出ても、頭数を絞れば良い結果の出るのは、びわ湖ホールの例で実証済みと云える。コーラスは上演の良いアクセントになったが、三人の歌手と合唱のみで、この長丁場を持たせるのは至難の業。バレエ・シーンの重要となる所以だが、経費削減の為か全てバッサリと切り捨てられ、これも今日の上演の足を大いに引っ張った。
モダン楽器によるオペラ上演には、事前に警戒心を抱くべきだったが、毎年いずみホールオペラは良い企画を立てるので、今回は油断があった。これを反省点として、今後は更に見物すべきオペラ上演を厳選したいと自戒するが、果たして上手く行きますかどうか、自分でも今ひとつ心許無いのである。