<ヴィクトリア没後四百年記念〜イギリスとスペインの音楽>
2011年6月11日(土)14:00/兵庫県立芸術文化センター
ザ・タリス・スコラーズ The Tallis Scholars
指揮/ピーター・フィリップス
ソプラノ/ジャネット・コックスウェル/エイミー・ハワース
エイミー・ウッド/セシリア・オズモンド
アルト/パトリック・クライグ/ルース・マッセイ
テノール/マーク・ドーベル/クリストファー・ワトソン
バス/ドナルド・グレイグ/ロバート・マクドナルド
バード「Laudibus in sanctis 主を賛美もて祝え(五声)/
Ave verum corpus アヴェ・ヴェルム・コルプス(四声)」
シェパード「Sacris solmniis この聖なる儀式に(八声)/
Verbum caro 御言葉は肉となり(六声)」
タリス「Lamentations of Jeremiah エレミアの哀歌〜第1部」(五声)
ヴィクトリア「Officium Defunctorum 死者のための聖務曲集(1605)」
1.Lectio:Taedet animam meam レクツィオ〜我が魂は萎え(四声)
Missa pro defunctis レクイエム(六声)
2.Introitus イントロイトゥス
3.Kyrie キリエ
4.Graduale グラドゥアーレ
5.Offertorium オッフェルトリウム
6.Sanctus サンクトゥス
7.Agnus Dei アニュス・デイ
8.Communio コンムニオ
9.Motectum:Versa est in luctum 葬送モテトゥス〜悲しみに引き戻され(六声)
10.Responsorium:Libera me レスポンソリウム〜我を解き放ち給え(六声)
前回の来日ではびわ湖ホール公演を行ったタリスコだが、今回は更にオオバコの兵庫芸文で公演を打つ。幾らご奉仕価格の兵庫芸文と云えども、二千名収容の大ホール客席を九分通り埋め尽くす、恐るべしタリスコの動員力である。古楽の分野で、これだけ安定した人気を保つヴォーカル・アンサンブルは他に無く、今やタリスコの一人勝ち状態。ライバルと目された、シックスティーンやヒリアード・アンサンブルは随分とご無沙汰で、最近の状況に疎くなっている僕としては、未知の新興勢力の招聘にも期待したい。
何時ものように確保した最安席は、谷底を見下ろすような四階席最後列だが、そんなに舞台は遠く感じない。むしろ、このホールのクリアーな音響特性は、タリスコの純正なハーモニーを響かせるのに打って付けと感じる。コンサートの冒頭はバードのモテット。ピーターは速目のテンポで、何時ものように爽やかで豊麗な響きを紡ぎ出す。
この二週間程、立て続けにオペラ五本を聴き、耳がヴィブラートに慣らされたのか、今日は高音部でフォルテになるとやや音色の硬くなる、ソプラノのノン・ヴィブラートが妙に新鮮に感じられる。今回のバスの二人組は高目に響く、ややバリトンぽい声質だが、本当に力まない響きだけの低音も相変らず。鉄板の定番曲「アヴェ・ヴェルム・コルプス」は、さすがに中間部のピアニシモが絶品の美しさ。遅目のテンポと、メゾピアノまでの控え目な音量で推移する演奏で、伸びやかなソプラノも美しい。
シェパードの八声モテットはトゥッティと、バスの二人が歌う導唱を交互に置く構成。これも遅目のテンポだが、フォルテの音量を出す際のソプラノが力み過ぎで、フラット気味に聴こえて終う。これも定番のエレミア哀歌は、五声曲をソプラノとバスに二名づつを充てる、八名での演奏。この人数では、ハーモニーを伸ばすとパート間に音の揺れが聴こえて終い、一パート一名が望まれる。メランコリックな情感よりも、柔らかなハーモニーを前面に押し出す速目のテンポの演奏で、“イェルサレム”のリフレインに、爽やかな美しさを感じさせる。
前半の最後はシェパードの六声モテットで、こちらはテノールの導唱付き。この曲で漸くソプラノのピッチは修正され、フォルテの音量でも真っ当なチューニングのポジションに入る。最後のフォルテシモでソプラノが思い切り声を出せば、ハーモニーの揺れは左程に目立たなくなる。これで取り合えず、後半のメイン・プロへの準備は整った。
良く知られているように、ヴィクトリアにはレクイエムが二曲あり、今日演奏する六声曲は作曲家最後の作品とされ、ルネサンス期を代表する大作にして名曲。楽譜は1605年の出版で、六楽章のレクイエム・ミサに三曲のモテットの付く構成。このオマケのモテットは、万葉集の長歌に対する反歌のようなもので、レクイエムの内容を補足する役目を担うらしい。
モテットをミサの前にやるのか、或いは後にやるのかは演奏側の胸先三寸で決められ、タリスコの場合は三曲の内、「朝課の第2レクツィオ」を冒頭に演奏し、後の二曲はミサの後に回している。朝課は夜明け前の勤行で、レクツィオは読経の意。正式の典礼では、レクツィオとレスポンソリウムは対にして歌われるので、この二曲を最初と最後に分ける遣り口に宗教的な意味は無く、純粋に音楽的効果を狙う措置と思われる。
その冒頭のレクツィオは、レガートよりも言葉を大事にするリズム重視の演奏。ミサ七楽章でのピーターは、レガートとピアニシモに徹したので、この曲を冒頭に持って来た意図は、本体部分との対比にあると納得する。また、六声のレクイエムは第2ソプラノにグレゴリオ聖歌の定旋律を置くスタイルで、ポリフォニーの対旋律に回った第1ソプラノの力みも取れ、柔らかく美しい声を聴かせてくれる。
レクイエムからキリエに架けての歌い口は、ひたすらに柔らかく優し気なニュアンスに満ちているが、フレーズの終わりをフッと切り、タメを作る指揮者の芸も効果的。美しく響かせる弱音のハーモニーと、ポリフォニーの各声部の出し入れとのバランスを取るスタイルも、オフェルトリウムやサンクトゥスに差し掛かかればフォルテを出すが、そこでも矢張り柔らかい音色を保っている。コンムニオでは第1ソプラノとバスの張り合うのが楽しく、テノールも良いアクセントとなり、ルネサンス・ポリフォニーの楽しみを満喫する。
最後に歌われたレスポンソリウムは、熱情を込めた“movendi sunt et terra”のリフレインが印象的で、しかも「キリエ・エレイソン」の三位一体のお念仏で静かに締め括られる。この曲を最後に置いたのは、聴後の余韻を保たせるピーターの心憎い演出と、僕は深く納得した。
初めて来日する外人さんが、フクシマ・ダイイチで日本を忌避する気持ちは分かる。既に何度も来日している演奏家も、放射線量云々での来日断念なら、致し方のない事と諦めるしかない。そんな鬱屈した気分の中、粛々と13回目の来日を遂行してくれたタリス・スコラーズとピーター・フィリップスへ、今は素直に感謝の意を述べたい。
2011年6月11日(土)14:00/兵庫県立芸術文化センター
ザ・タリス・スコラーズ The Tallis Scholars
指揮/ピーター・フィリップス
ソプラノ/ジャネット・コックスウェル/エイミー・ハワース
エイミー・ウッド/セシリア・オズモンド
アルト/パトリック・クライグ/ルース・マッセイ
テノール/マーク・ドーベル/クリストファー・ワトソン
バス/ドナルド・グレイグ/ロバート・マクドナルド
バード「Laudibus in sanctis 主を賛美もて祝え(五声)/
Ave verum corpus アヴェ・ヴェルム・コルプス(四声)」
シェパード「Sacris solmniis この聖なる儀式に(八声)/
Verbum caro 御言葉は肉となり(六声)」
タリス「Lamentations of Jeremiah エレミアの哀歌〜第1部」(五声)
ヴィクトリア「Officium Defunctorum 死者のための聖務曲集(1605)」
1.Lectio:Taedet animam meam レクツィオ〜我が魂は萎え(四声)
Missa pro defunctis レクイエム(六声)
2.Introitus イントロイトゥス
3.Kyrie キリエ
4.Graduale グラドゥアーレ
5.Offertorium オッフェルトリウム
6.Sanctus サンクトゥス
7.Agnus Dei アニュス・デイ
8.Communio コンムニオ
9.Motectum:Versa est in luctum 葬送モテトゥス〜悲しみに引き戻され(六声)
10.Responsorium:Libera me レスポンソリウム〜我を解き放ち給え(六声)
前回の来日ではびわ湖ホール公演を行ったタリスコだが、今回は更にオオバコの兵庫芸文で公演を打つ。幾らご奉仕価格の兵庫芸文と云えども、二千名収容の大ホール客席を九分通り埋め尽くす、恐るべしタリスコの動員力である。古楽の分野で、これだけ安定した人気を保つヴォーカル・アンサンブルは他に無く、今やタリスコの一人勝ち状態。ライバルと目された、シックスティーンやヒリアード・アンサンブルは随分とご無沙汰で、最近の状況に疎くなっている僕としては、未知の新興勢力の招聘にも期待したい。
何時ものように確保した最安席は、谷底を見下ろすような四階席最後列だが、そんなに舞台は遠く感じない。むしろ、このホールのクリアーな音響特性は、タリスコの純正なハーモニーを響かせるのに打って付けと感じる。コンサートの冒頭はバードのモテット。ピーターは速目のテンポで、何時ものように爽やかで豊麗な響きを紡ぎ出す。
この二週間程、立て続けにオペラ五本を聴き、耳がヴィブラートに慣らされたのか、今日は高音部でフォルテになるとやや音色の硬くなる、ソプラノのノン・ヴィブラートが妙に新鮮に感じられる。今回のバスの二人組は高目に響く、ややバリトンぽい声質だが、本当に力まない響きだけの低音も相変らず。鉄板の定番曲「アヴェ・ヴェルム・コルプス」は、さすがに中間部のピアニシモが絶品の美しさ。遅目のテンポと、メゾピアノまでの控え目な音量で推移する演奏で、伸びやかなソプラノも美しい。
シェパードの八声モテットはトゥッティと、バスの二人が歌う導唱を交互に置く構成。これも遅目のテンポだが、フォルテの音量を出す際のソプラノが力み過ぎで、フラット気味に聴こえて終う。これも定番のエレミア哀歌は、五声曲をソプラノとバスに二名づつを充てる、八名での演奏。この人数では、ハーモニーを伸ばすとパート間に音の揺れが聴こえて終い、一パート一名が望まれる。メランコリックな情感よりも、柔らかなハーモニーを前面に押し出す速目のテンポの演奏で、“イェルサレム”のリフレインに、爽やかな美しさを感じさせる。
前半の最後はシェパードの六声モテットで、こちらはテノールの導唱付き。この曲で漸くソプラノのピッチは修正され、フォルテの音量でも真っ当なチューニングのポジションに入る。最後のフォルテシモでソプラノが思い切り声を出せば、ハーモニーの揺れは左程に目立たなくなる。これで取り合えず、後半のメイン・プロへの準備は整った。
良く知られているように、ヴィクトリアにはレクイエムが二曲あり、今日演奏する六声曲は作曲家最後の作品とされ、ルネサンス期を代表する大作にして名曲。楽譜は1605年の出版で、六楽章のレクイエム・ミサに三曲のモテットの付く構成。このオマケのモテットは、万葉集の長歌に対する反歌のようなもので、レクイエムの内容を補足する役目を担うらしい。
モテットをミサの前にやるのか、或いは後にやるのかは演奏側の胸先三寸で決められ、タリスコの場合は三曲の内、「朝課の第2レクツィオ」を冒頭に演奏し、後の二曲はミサの後に回している。朝課は夜明け前の勤行で、レクツィオは読経の意。正式の典礼では、レクツィオとレスポンソリウムは対にして歌われるので、この二曲を最初と最後に分ける遣り口に宗教的な意味は無く、純粋に音楽的効果を狙う措置と思われる。
その冒頭のレクツィオは、レガートよりも言葉を大事にするリズム重視の演奏。ミサ七楽章でのピーターは、レガートとピアニシモに徹したので、この曲を冒頭に持って来た意図は、本体部分との対比にあると納得する。また、六声のレクイエムは第2ソプラノにグレゴリオ聖歌の定旋律を置くスタイルで、ポリフォニーの対旋律に回った第1ソプラノの力みも取れ、柔らかく美しい声を聴かせてくれる。
レクイエムからキリエに架けての歌い口は、ひたすらに柔らかく優し気なニュアンスに満ちているが、フレーズの終わりをフッと切り、タメを作る指揮者の芸も効果的。美しく響かせる弱音のハーモニーと、ポリフォニーの各声部の出し入れとのバランスを取るスタイルも、オフェルトリウムやサンクトゥスに差し掛かかればフォルテを出すが、そこでも矢張り柔らかい音色を保っている。コンムニオでは第1ソプラノとバスの張り合うのが楽しく、テノールも良いアクセントとなり、ルネサンス・ポリフォニーの楽しみを満喫する。
最後に歌われたレスポンソリウムは、熱情を込めた“movendi sunt et terra”のリフレインが印象的で、しかも「キリエ・エレイソン」の三位一体のお念仏で静かに締め括られる。この曲を最後に置いたのは、聴後の余韻を保たせるピーターの心憎い演出と、僕は深く納得した。
初めて来日する外人さんが、フクシマ・ダイイチで日本を忌避する気持ちは分かる。既に何度も来日している演奏家も、放射線量云々での来日断念なら、致し方のない事と諦めるしかない。そんな鬱屈した気分の中、粛々と13回目の来日を遂行してくれたタリス・スコラーズとピーター・フィリップスへ、今は素直に感謝の意を述べたい。