<旧県立福島女子高校合唱団通算第53回定期演奏会>
2011年7月13日(水)18:00/福島市音楽堂
指揮/大竹隆
ピアノ/鈴木あずさ
福島県立橘高校合唱団
キャプレ「Messe a trios voix」(全曲)
ガルッピ「Judicabit in nationibus 主は諸国を裁き」(詩篇110番)
上田真樹「僕が守る」(第78回NHK全国学校音楽コンクール課題曲)
鈴木輝昭「たいまつをかざして…(火へのオード)/レモン哀歌/裸形(智恵子抄)」
ミュージカル「ウエストサイド物語」
早朝、大阪発仙台行きの夜行バスで福島駅前に到着するが、ここで下車したのは僕一人。先ほど立ち寄った郡山駅前でも誰も降りず、バスは他の乗客を載せたまま、仙台へ向け走り去る。福島駅に行くと、構内が何だか薄暗い。観光案内所で手洗いを借りると、節電のため便座の洗浄機は使用中止。更に冷水機も、手を乾かすドライヤーも停止中。街中に出ると、コンビニの薄暗いのも目に付く。まあ、これは今までが明る過ぎたのだろうが。
遠く離れた土地で報道だけを見ていると、福島は一体どんな魔境になって終ったのかと思う。だが、朝の駅前にはサラリーマンや高校生が足早に行き交い、震災以前と何も変わらない日常の風景がある。市内を歩くと幼稚園から高校に至るまで、校庭に人影の見えない事に気付く。保育所の前を通り、一人の母親が幼児を送り届けている姿を見掛け、或いは停留所でバスを待っている際、隣りに妊婦らしい若い女性の立つと、本当に胸塞ぐ想いだ。
やはり街角で見掛けた、工事中らしい公園の中に入ってみると、重機の置かれた傍らに、剥ぎ取られた芝生が積み上げられている。あの辺りにセシウムの堆積し、放射線を発しているのかと、僕はボンヤリ眺める。雨のポツポツ落ちて来ると、僕は慌てて折り畳み傘を取り出すが、地元の人達には無頓着にそのまま歩いている人も多い。既に雨を警戒する時期は過ぎたのか、それとも単なる慣れなのか。人間の目には見えず、完全に無味無臭の放射性物質は、ただ漠とした不安を掻き立てるだけだ。
今年、橘高校が定演を予定していた福島県文化センターは、震災で大きなダメージを受けて休館となり、已む無く福島市音楽堂での平日開催となった。音楽堂へ向かう途次、文化センターにも立ち寄ったが、窓ガラスの大破して無残な外観を晒している上、電気系統か水回りのイカレているらしく、業者の入って何か工事を行っている。本格稼動まで、まだ時間の掛かりそうな様子だった。
一方の音楽堂は以前と変わらず、緑に囲まれて静穏な佇まいを保っている。このホールには放射能汚染の喧騒を離れ、音楽へ耳を傾ける閑雅な雰囲気がある。“合唱王国”と呼び慣らわされる福島県の為、せめて音楽堂の震災から守られた事を慰めとしたい。
橘高校の今年度の陣容は女声46名で、アルトに男子生徒が二人。宗左近作詞・三善晃作曲の校歌の後、最初の曲目はキャプレの三声ミサ。過去記事を読み返してみると昨年は男声六名で、やはり三声ミサを歌っている。僕はその際、キャプレは女声に演奏させろと要望を出したが、今回それの通った形で何だか良く分からないが、ちょっと嬉しい。
その女声でのキャプレ。プレリュードの趣のある「キリエ」は、しっとりとした滑り出しで悪くない。全曲で20分も掛からないミサの中で、大半を占める「グローリア」と「サンクトゥス」では、ダイナミズムの設定とデュナーミクの工夫は適切だが、全体の表現は淡彩に過ぎる。もっと明暗の切込みを深く、遅いか速いかテンポの白黒をハッキリさせる、バロック的な表現の望まれる。間奏曲的な「アニュス・デイ」から、最後の「オー・サルタリス」は、注意深いピアニシモとデュナーミクの味わい方が美しい。ただ、これは色々と仕掛ける程、長い曲では無いけれども。
次は今年度コンクール曲の披露。全日本課題曲のガルッピを、僕は何時の人かも良く知らなかったが、調べてみると18世紀イタリアの作曲家なそうな。同時代のグルックやハッセやヨメッリ等が、オペラ・セリアの量産やら改革やらに励んだのに対し、専らオペラ・ブッファの製造に勤しんだ人らしい。まあ、何れにせよガルッピさんの宗教曲なんて、この平成の御世では滅多に聴けない珍品には違いない。
ところが今回、合唱連盟が課題曲とした「Dixit Dominus」は伝ガルッピ作で、近年になってドレスデンで自筆譜が発見され、実はヴィヴァルディ作と断定された曲らしい。この辺りの事実関係は、ガルッピさんにもヴィヴァルディさんにも興味の乏しい僕としては、どうでも良い話だけれども。
橘高校の演奏で聴くと、これはまたエライ単純な曲。ガルッピはアントニオ・ロッティの弟子で、作品がヴィヴァルディと混同される位だし、過渡期の作曲家とは云うものの、そのスタイルはバロックそのもの。ピアノ伴奏だったが、バロック音楽とスタインウェイでは水と油で、僕は甚だしい違和感を覚える。何故あんた等の頭上に鎮座する、パイプ・オルガンを使わない?と、思わず突っ込んで終う。演奏そのものは速いテンポ設定が快感で、その正確なリズム感の中での、フレージングの処理は抜群に上手い。巧みなスフォルツァンドと合わせ、時代様式をキチンと踏まえた演奏だけに、伴奏の変テコリンなのは残念だった。
Nコン課題曲の上田真樹は、デフォルメしなければ他と差別化し難い曲と思うが、顧問教諭は専ら声で聴かせる素直な解釈を取る。でも、そんな風に考える事自体、僕もコンクールに毒されているのかも知れず、この指揮者にはご自身の音楽性を貫いて頂く方が良いのだろう。ただ、このホールの長い残響を生かし、フォルテシモはもっと柔らかく会場に響かせて欲しかった、とは思う。最近やや飽きの来ている輝やんから、「火へのオード」が今年のNコン自由曲。でも、このような激しい曲自体、音楽堂の音響特性に適合せず、素直に演奏を楽しめない。
休憩後は、これも毎度お馴染み女子高生ミュージカル。今年の出し物は「ウエストサイド・ストーリー」で、作曲は佐渡裕や大植英次が口癖のように呼ばわる、レニー・バーンスタイン先生である。観ていて感じたのは、これはオリジナルから自分達で構成したのではなく、何処かの短縮ヴァージョンを基にしているような気がする。ネットに動画も溢れている時代だし、彼女達もお手本を探す努力をしたのだろうか。学芸会に毎年付き合っている僕としては、テキパキと手際良く片付けて欲しいとしか考えていないし、既成の台本を使ってくれるのは大歓迎だ。
今回は暗転にナレーションを被せる工夫のあり、無音の時間の長いのは観客をイライラさせる事を学んだ様子で、ここにも進歩の跡はある。衣装に付いて、殆んどが女子生徒なのに役柄としては男女半々なのと、ジェット団とシャーク団の区別も付き難いので、紅白にキッパリ分ける等の工夫は欲しい。更に「アメリカ」と「トゥナイト」と「サムウェア」の三つのナンバーを、コーラスでやってくれたのは大変助かる。この場に集った聴衆は、みんな橘高校のコーラスを聴きに来ているのです。生徒さんのソロばっかしだと、ホント聴かされる方は大変なんすよ。
「トゥナイト」ではコーラスをバックにマリアのソロがあり、この子はなかなか聴かせてくれて、これは拾い物のお楽しみ。ただ、パイプ・オルガンのあるバルコニー席にトニーとマリアの二人が上がり、ハッピー・エンドを延々と歌い上げるのには、さすがに苦笑させられる。皆さんご存知と思うけれども、このミュージカルの元ネタはシェイクスピアです。ハッピー・エンドの「ロメオとジュリエット」ってねぇ…。
今日のコンサートの締め括りは、鈴木輝昭への委嘱作品「智恵子抄」全曲初演の筈だったが、三曲目となる「亡き人に」の楽譜は予想通り一枚も届かず、既に完成している二曲のみが演奏された。今年の夏の定演シーズン、何と輝やんは橘高校の他にも葵高校、福島東高校、安積黎明高校の四校からの委嘱を引き受けているらしい。商売繁盛はご同慶の至りだが、例え定演には間に合わずとも、八月末にあるコンクール県大会には間に合わせないと、委嘱作を自由曲とした学校は失格となるらしい。こりゃ夏休みの宿題を31日に纏めてやる、小学生みたいなもんですな。
静謐な佳曲「レモン哀歌」を、指揮者はピアニシモから徐々に盛り上げ、前奏と同じピアノ伴奏の音型で静かに締め括る、全体を見通した設計が見事。「裸形」の後奏も最初の音型のヴァリエーションで、全曲を統一するテーマ設定の意図は分かるが、何故かイマイチ効果は揚がらない。そもそも、構成の頭に入り難い晦渋な曲で、楽譜を離れたデフォルメも必要ではないかと思う。アカペラの中間部で思い切ってテンポを落とし、ピアニシモで歌うとか…。でも、この組曲は全部を通して聴かないと、良く分からない処がある。全く早いトコ宿題片付けろよな、輝やん。
アンコールは松田聖子「瑠璃色の地球」と、さだまさし「道化師のソネット」のラヴ・ソング二曲。
悩んだ日もある
哀しみにくじけそうな時も
あなたがそこにいたから生きて来られた
ガラスの海の向こうには広がりゆく銀河
地球という名の船の誰もが旅人
ひとつしかない
私たちの星を守りたい
(松本隆詞)
僕達は小さな舟に哀しみという荷物を積んで
時の流れを下ってゆく舟人たちのようだね
君のその小さな手には持ちきれない程の哀しみを
せめて笑顔が救うのなら
僕は道化師になれるよ
笑ってよ君のために
笑ってよ僕のために
いつか本当に笑いながら話せる日がくるから
(さだまさし詞)
こうして歌詞を引き写すと、この二曲を前途多難な試練の年に取り上げた、生徒さん方と顧問教諭の気持ちの伝わるような気がする。橘高校の定演を聴き終えた僕は、帰路も夜行バスでトンボ帰りする。仙台から戻って来たバスに福島駅前で乗り込んだのは、往路と同様に僕一人だった。
2011年7月13日(水)18:00/福島市音楽堂
指揮/大竹隆
ピアノ/鈴木あずさ
福島県立橘高校合唱団
キャプレ「Messe a trios voix」(全曲)
ガルッピ「Judicabit in nationibus 主は諸国を裁き」(詩篇110番)
上田真樹「僕が守る」(第78回NHK全国学校音楽コンクール課題曲)
鈴木輝昭「たいまつをかざして…(火へのオード)/レモン哀歌/裸形(智恵子抄)」
ミュージカル「ウエストサイド物語」
早朝、大阪発仙台行きの夜行バスで福島駅前に到着するが、ここで下車したのは僕一人。先ほど立ち寄った郡山駅前でも誰も降りず、バスは他の乗客を載せたまま、仙台へ向け走り去る。福島駅に行くと、構内が何だか薄暗い。観光案内所で手洗いを借りると、節電のため便座の洗浄機は使用中止。更に冷水機も、手を乾かすドライヤーも停止中。街中に出ると、コンビニの薄暗いのも目に付く。まあ、これは今までが明る過ぎたのだろうが。
遠く離れた土地で報道だけを見ていると、福島は一体どんな魔境になって終ったのかと思う。だが、朝の駅前にはサラリーマンや高校生が足早に行き交い、震災以前と何も変わらない日常の風景がある。市内を歩くと幼稚園から高校に至るまで、校庭に人影の見えない事に気付く。保育所の前を通り、一人の母親が幼児を送り届けている姿を見掛け、或いは停留所でバスを待っている際、隣りに妊婦らしい若い女性の立つと、本当に胸塞ぐ想いだ。
やはり街角で見掛けた、工事中らしい公園の中に入ってみると、重機の置かれた傍らに、剥ぎ取られた芝生が積み上げられている。あの辺りにセシウムの堆積し、放射線を発しているのかと、僕はボンヤリ眺める。雨のポツポツ落ちて来ると、僕は慌てて折り畳み傘を取り出すが、地元の人達には無頓着にそのまま歩いている人も多い。既に雨を警戒する時期は過ぎたのか、それとも単なる慣れなのか。人間の目には見えず、完全に無味無臭の放射性物質は、ただ漠とした不安を掻き立てるだけだ。
今年、橘高校が定演を予定していた福島県文化センターは、震災で大きなダメージを受けて休館となり、已む無く福島市音楽堂での平日開催となった。音楽堂へ向かう途次、文化センターにも立ち寄ったが、窓ガラスの大破して無残な外観を晒している上、電気系統か水回りのイカレているらしく、業者の入って何か工事を行っている。本格稼動まで、まだ時間の掛かりそうな様子だった。
一方の音楽堂は以前と変わらず、緑に囲まれて静穏な佇まいを保っている。このホールには放射能汚染の喧騒を離れ、音楽へ耳を傾ける閑雅な雰囲気がある。“合唱王国”と呼び慣らわされる福島県の為、せめて音楽堂の震災から守られた事を慰めとしたい。
橘高校の今年度の陣容は女声46名で、アルトに男子生徒が二人。宗左近作詞・三善晃作曲の校歌の後、最初の曲目はキャプレの三声ミサ。過去記事を読み返してみると昨年は男声六名で、やはり三声ミサを歌っている。僕はその際、キャプレは女声に演奏させろと要望を出したが、今回それの通った形で何だか良く分からないが、ちょっと嬉しい。
その女声でのキャプレ。プレリュードの趣のある「キリエ」は、しっとりとした滑り出しで悪くない。全曲で20分も掛からないミサの中で、大半を占める「グローリア」と「サンクトゥス」では、ダイナミズムの設定とデュナーミクの工夫は適切だが、全体の表現は淡彩に過ぎる。もっと明暗の切込みを深く、遅いか速いかテンポの白黒をハッキリさせる、バロック的な表現の望まれる。間奏曲的な「アニュス・デイ」から、最後の「オー・サルタリス」は、注意深いピアニシモとデュナーミクの味わい方が美しい。ただ、これは色々と仕掛ける程、長い曲では無いけれども。
次は今年度コンクール曲の披露。全日本課題曲のガルッピを、僕は何時の人かも良く知らなかったが、調べてみると18世紀イタリアの作曲家なそうな。同時代のグルックやハッセやヨメッリ等が、オペラ・セリアの量産やら改革やらに励んだのに対し、専らオペラ・ブッファの製造に勤しんだ人らしい。まあ、何れにせよガルッピさんの宗教曲なんて、この平成の御世では滅多に聴けない珍品には違いない。
ところが今回、合唱連盟が課題曲とした「Dixit Dominus」は伝ガルッピ作で、近年になってドレスデンで自筆譜が発見され、実はヴィヴァルディ作と断定された曲らしい。この辺りの事実関係は、ガルッピさんにもヴィヴァルディさんにも興味の乏しい僕としては、どうでも良い話だけれども。
橘高校の演奏で聴くと、これはまたエライ単純な曲。ガルッピはアントニオ・ロッティの弟子で、作品がヴィヴァルディと混同される位だし、過渡期の作曲家とは云うものの、そのスタイルはバロックそのもの。ピアノ伴奏だったが、バロック音楽とスタインウェイでは水と油で、僕は甚だしい違和感を覚える。何故あんた等の頭上に鎮座する、パイプ・オルガンを使わない?と、思わず突っ込んで終う。演奏そのものは速いテンポ設定が快感で、その正確なリズム感の中での、フレージングの処理は抜群に上手い。巧みなスフォルツァンドと合わせ、時代様式をキチンと踏まえた演奏だけに、伴奏の変テコリンなのは残念だった。
Nコン課題曲の上田真樹は、デフォルメしなければ他と差別化し難い曲と思うが、顧問教諭は専ら声で聴かせる素直な解釈を取る。でも、そんな風に考える事自体、僕もコンクールに毒されているのかも知れず、この指揮者にはご自身の音楽性を貫いて頂く方が良いのだろう。ただ、このホールの長い残響を生かし、フォルテシモはもっと柔らかく会場に響かせて欲しかった、とは思う。最近やや飽きの来ている輝やんから、「火へのオード」が今年のNコン自由曲。でも、このような激しい曲自体、音楽堂の音響特性に適合せず、素直に演奏を楽しめない。
休憩後は、これも毎度お馴染み女子高生ミュージカル。今年の出し物は「ウエストサイド・ストーリー」で、作曲は佐渡裕や大植英次が口癖のように呼ばわる、レニー・バーンスタイン先生である。観ていて感じたのは、これはオリジナルから自分達で構成したのではなく、何処かの短縮ヴァージョンを基にしているような気がする。ネットに動画も溢れている時代だし、彼女達もお手本を探す努力をしたのだろうか。学芸会に毎年付き合っている僕としては、テキパキと手際良く片付けて欲しいとしか考えていないし、既成の台本を使ってくれるのは大歓迎だ。
今回は暗転にナレーションを被せる工夫のあり、無音の時間の長いのは観客をイライラさせる事を学んだ様子で、ここにも進歩の跡はある。衣装に付いて、殆んどが女子生徒なのに役柄としては男女半々なのと、ジェット団とシャーク団の区別も付き難いので、紅白にキッパリ分ける等の工夫は欲しい。更に「アメリカ」と「トゥナイト」と「サムウェア」の三つのナンバーを、コーラスでやってくれたのは大変助かる。この場に集った聴衆は、みんな橘高校のコーラスを聴きに来ているのです。生徒さんのソロばっかしだと、ホント聴かされる方は大変なんすよ。
「トゥナイト」ではコーラスをバックにマリアのソロがあり、この子はなかなか聴かせてくれて、これは拾い物のお楽しみ。ただ、パイプ・オルガンのあるバルコニー席にトニーとマリアの二人が上がり、ハッピー・エンドを延々と歌い上げるのには、さすがに苦笑させられる。皆さんご存知と思うけれども、このミュージカルの元ネタはシェイクスピアです。ハッピー・エンドの「ロメオとジュリエット」ってねぇ…。
今日のコンサートの締め括りは、鈴木輝昭への委嘱作品「智恵子抄」全曲初演の筈だったが、三曲目となる「亡き人に」の楽譜は予想通り一枚も届かず、既に完成している二曲のみが演奏された。今年の夏の定演シーズン、何と輝やんは橘高校の他にも葵高校、福島東高校、安積黎明高校の四校からの委嘱を引き受けているらしい。商売繁盛はご同慶の至りだが、例え定演には間に合わずとも、八月末にあるコンクール県大会には間に合わせないと、委嘱作を自由曲とした学校は失格となるらしい。こりゃ夏休みの宿題を31日に纏めてやる、小学生みたいなもんですな。
静謐な佳曲「レモン哀歌」を、指揮者はピアニシモから徐々に盛り上げ、前奏と同じピアノ伴奏の音型で静かに締め括る、全体を見通した設計が見事。「裸形」の後奏も最初の音型のヴァリエーションで、全曲を統一するテーマ設定の意図は分かるが、何故かイマイチ効果は揚がらない。そもそも、構成の頭に入り難い晦渋な曲で、楽譜を離れたデフォルメも必要ではないかと思う。アカペラの中間部で思い切ってテンポを落とし、ピアニシモで歌うとか…。でも、この組曲は全部を通して聴かないと、良く分からない処がある。全く早いトコ宿題片付けろよな、輝やん。
アンコールは松田聖子「瑠璃色の地球」と、さだまさし「道化師のソネット」のラヴ・ソング二曲。
悩んだ日もある
哀しみにくじけそうな時も
あなたがそこにいたから生きて来られた
ガラスの海の向こうには広がりゆく銀河
地球という名の船の誰もが旅人
ひとつしかない
私たちの星を守りたい
(松本隆詞)
僕達は小さな舟に哀しみという荷物を積んで
時の流れを下ってゆく舟人たちのようだね
君のその小さな手には持ちきれない程の哀しみを
せめて笑顔が救うのなら
僕は道化師になれるよ
笑ってよ君のために
笑ってよ僕のために
いつか本当に笑いながら話せる日がくるから
(さだまさし詞)
こうして歌詞を引き写すと、この二曲を前途多難な試練の年に取り上げた、生徒さん方と顧問教諭の気持ちの伝わるような気がする。橘高校の定演を聴き終えた僕は、帰路も夜行バスでトンボ帰りする。仙台から戻って来たバスに福島駅前で乗り込んだのは、往路と同様に僕一人だった。