「磐城壽・地縁復興純米酒」23BY
「磐城壽」鈴木大介
ご心配お掛けしました。思うにならず遅れましたこと、申し訳ございません。
地震と映画のような大津波で私たちの住む請戸地区は全て無くなりましたが
一家・製造スタッフ全員無事でした。着の身着のまま、九死に生かされたこと
の意味を考え、今はただ前向きに進んで行くしかありません。当日出来なかっ
た甑倒しの祝いを本日執り行い、被災地から取り上げた一本の酒を、自ら最後
の一本にしないよう、スタッフとも最後にならないよう、労いと希望の宴にしたい
と思います。
同様に被災された方、頑張りましょう!
「磐城壽」は福島県の浪江町請戸地区にある、自称「日本一海に近い酒蔵」鈴木酒造店のブランド名。江戸末期、天保年間の創業とされ、敷地に沿って高さ三メートルほどの堤があり、その向こうに太平洋が広がっていた。請戸は漁港の町で、大漁で港に戻った船主に漁協が酒を贈る風習のあり、漁の出来を「酒になったが?」と挨拶したそうな。「磐城壽」は大漁を「壽ぐ(ことほぐ)」酒として名付けられた。通称“壽”は、漁師に届けられる祝い酒だった。
震災直後、鈴木さんは蔵の再開など考える事も出来なかったが、一時避難した隣町の小学校で浪江の知り合いから次々に声を掛けられた。「呑めなくなるのは寂しい」「再開の足しにしろ」。鈴木さんに小銭や紙幣を押し付ける。平和な時にしか酒は呑めないと思っていたのが違った。「何時帰れるか分からないのに託してくれる。空元気でもやると言うしかなかった」。
これまで「磐城壽」を買い支えてくれた人達が、「使ってくれ」と懐のお金を鈴木さんに渡す。彼ら自身も着の身着のまま。そこにあるお金が今は全財産なのに、そのなけなしのお金を預けてくれる。売るものは何も無い。蔵も無ければ設備も無い、土地も無ければ資金も無い。ゼロから、むしろマイナスからの出発。新たに蔵を建てるとすると、億単位の金の掛かる。だが何よりも「磐城壽」を買い支え、再建を待ち望んでいる町民がいる。今は散り散りになっていても、次に集まる“晴れ”の席に「磐城壽」を置きたい。
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「磐城壽・搾りたて純米中汲み生酒」(うすにごり酒でした)
そのお酒「磐城壽(いわきことぶき)」を、僕が初めて呑んだのは一体何年前だったか。行き付けの酒屋さん、大阪市都島区にある杉本商店で、今度新たに取引を始めた酒蔵と紹介され、試飲させて貰った時だった。おお、これ好みやで、ええで、ええで(by上田利治ブレーブス元監督)と云う訳で、早速一升瓶をお買い上げ。お家に帰って美味しく頂いた。“酒は辛口”なんて冗談ではない、甘くなければ日本酒じゃないがクレドの、僕好みの酒だった。でも、杉本さんは「磐城壽」を余り仕入れず、僕も色んな銘柄を楽しみたい方で、その後は外で時々呑む程度だった。
その「磐城壽」を常に呑めるお店が、北区にある「堂島雪花菜(どうじまきらず)」。お店の大将が「磐城壽」を甚く気に入っていて、お任せでお酒を頼むと必ずと云って良い程に呑まされた。昨年の或る週末、何時ものように酒呑んで帰ろか、と云う訳で「堂島雪花菜」のカウンター席に座ると、大将が「おまえ丁度良い時に来た。今日は鈴木さんが来るから」と仰る。なんや?その鈴木て誰やねん、てなものだが、「磐城壽」は大阪では三軒の酒屋が扱い、その内の一軒である茨木市・かどや酒店のご主人の結婚式に出席する為、蔵元兼杜氏の鈴木大介さんが来阪するとの事だった。
でも、僕は単なる酔っ払いの素人で、お酒の製造に従事する方々と一体、何を話せば良いのか分からない。だから酒蔵見学や蔵元を囲む会等、出席した事も無い。そもそも、蔵元さんとお天気の話をしても仕方ないし、だからと云ってド素人が「どないでっか、今年の酒の出来は?」なんて聞ける筈も無い。
その日、僕が好い加減酔払った頃、鈴木大介さんは来店された。「堂島雪花菜」の大将は自称“磐城壽マニア”で、かどや酒店と杉本商店の品揃えでは物足りず、いわき市の酒舗石井本店と東京の味ノマチダヤからも取り寄せ、自宅に一ダース程も寝かせているそうな。だから、鈴木さんと大将の間では話が弾むし、既に酩酊している僕も「磐城壽」を呑みつつ会話に加わり、厚かましくも蔵元さんに対して酒の味の感想を述べた。思い返すと、恥ずかしい。
酩酊状態の僕が、いわき市に行った事のあると申し上げると、うちの銘柄は磐城だが酒蔵は浪江町にあると教えて頂く。じゃあ、僕は原町なら行った事のあると申し上げると、浪江はいわきと原町の中間にあると仰る。その後、「大阪で福島県の話をしても全く通じない。今日は福島の話の出来て良かった」と鈴木さんに言われ、泥酔した僕にスィッチが入って終った。
ついブラバンは磐城と湯本、コーラスは安積黎明と橘、なんて話を延々として終う。これに鈴木さんも福島県民らしく、安積黎明は30年連続金賞とか応じてくれて、「あなたはそんなに福島に度々来るのなら、浪江にも来てくれ」と爽やかに仰り、次の約束に向かわれた。でも、僕は浪江なんて一生行く機会無いだろうなぁ、と思った。
3.11以降、テレビの震災特番で鈴木さんのお姿を何度も見掛けた。「堂島雪花菜」の大将と僕が地味に好きだった「磐城壽」は、フクシマ・ダイイチのメルト・ダウンで一躍全国区となった。今、僕は浪江に行きたくとも行けず、鈴木さんは浪江に戻りたくとも戻れない。
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「磐城壽・純米原酒」(ぬる燗がお勧めでした)
鈴木さんは今年、研究用として県の「ハイテクプラザ会津若松技術センター」に預けていた酵母を使い、間借りした南会津の国権酒造で酒造りを行った。タンク一本の僅か二十石の製造量は、一升瓶にすると二千本。この地縁復興純米酒を「堂島雪花菜」では、かどや酒店と杉本商店と酒舗石井本店から一本づつ取り、自宅で寝かせた熟成酒と共に、大将は僕に呑ませてくれた。今年の「磐城壽」二千本は現在、二本松市に避難している浪江町民に呑んで欲しいとの、鈴木大介さんの意向がある。僕なんぞのガブ呑みする酒では決してないが、でも矢張り「磐城壽」はシミジミ美味しい、単純に僕好みの酒だった。
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これは震災前に「堂島雪花菜」の大将から貰った、「磐城壽」の酒粕。今となっては勿体なくて、おいそれとは食えませんなぁ…。
「磐城壽」鈴木大介
ご心配お掛けしました。思うにならず遅れましたこと、申し訳ございません。
地震と映画のような大津波で私たちの住む請戸地区は全て無くなりましたが
一家・製造スタッフ全員無事でした。着の身着のまま、九死に生かされたこと
の意味を考え、今はただ前向きに進んで行くしかありません。当日出来なかっ
た甑倒しの祝いを本日執り行い、被災地から取り上げた一本の酒を、自ら最後
の一本にしないよう、スタッフとも最後にならないよう、労いと希望の宴にしたい
と思います。
同様に被災された方、頑張りましょう!
「磐城壽」は福島県の浪江町請戸地区にある、自称「日本一海に近い酒蔵」鈴木酒造店のブランド名。江戸末期、天保年間の創業とされ、敷地に沿って高さ三メートルほどの堤があり、その向こうに太平洋が広がっていた。請戸は漁港の町で、大漁で港に戻った船主に漁協が酒を贈る風習のあり、漁の出来を「酒になったが?」と挨拶したそうな。「磐城壽」は大漁を「壽ぐ(ことほぐ)」酒として名付けられた。通称“壽”は、漁師に届けられる祝い酒だった。
震災直後、鈴木さんは蔵の再開など考える事も出来なかったが、一時避難した隣町の小学校で浪江の知り合いから次々に声を掛けられた。「呑めなくなるのは寂しい」「再開の足しにしろ」。鈴木さんに小銭や紙幣を押し付ける。平和な時にしか酒は呑めないと思っていたのが違った。「何時帰れるか分からないのに託してくれる。空元気でもやると言うしかなかった」。
これまで「磐城壽」を買い支えてくれた人達が、「使ってくれ」と懐のお金を鈴木さんに渡す。彼ら自身も着の身着のまま。そこにあるお金が今は全財産なのに、そのなけなしのお金を預けてくれる。売るものは何も無い。蔵も無ければ設備も無い、土地も無ければ資金も無い。ゼロから、むしろマイナスからの出発。新たに蔵を建てるとすると、億単位の金の掛かる。だが何よりも「磐城壽」を買い支え、再建を待ち望んでいる町民がいる。今は散り散りになっていても、次に集まる“晴れ”の席に「磐城壽」を置きたい。

「磐城壽・搾りたて純米中汲み生酒」(うすにごり酒でした)
そのお酒「磐城壽(いわきことぶき)」を、僕が初めて呑んだのは一体何年前だったか。行き付けの酒屋さん、大阪市都島区にある杉本商店で、今度新たに取引を始めた酒蔵と紹介され、試飲させて貰った時だった。おお、これ好みやで、ええで、ええで(by上田利治ブレーブス元監督)と云う訳で、早速一升瓶をお買い上げ。お家に帰って美味しく頂いた。“酒は辛口”なんて冗談ではない、甘くなければ日本酒じゃないがクレドの、僕好みの酒だった。でも、杉本さんは「磐城壽」を余り仕入れず、僕も色んな銘柄を楽しみたい方で、その後は外で時々呑む程度だった。
その「磐城壽」を常に呑めるお店が、北区にある「堂島雪花菜(どうじまきらず)」。お店の大将が「磐城壽」を甚く気に入っていて、お任せでお酒を頼むと必ずと云って良い程に呑まされた。昨年の或る週末、何時ものように酒呑んで帰ろか、と云う訳で「堂島雪花菜」のカウンター席に座ると、大将が「おまえ丁度良い時に来た。今日は鈴木さんが来るから」と仰る。なんや?その鈴木て誰やねん、てなものだが、「磐城壽」は大阪では三軒の酒屋が扱い、その内の一軒である茨木市・かどや酒店のご主人の結婚式に出席する為、蔵元兼杜氏の鈴木大介さんが来阪するとの事だった。
でも、僕は単なる酔っ払いの素人で、お酒の製造に従事する方々と一体、何を話せば良いのか分からない。だから酒蔵見学や蔵元を囲む会等、出席した事も無い。そもそも、蔵元さんとお天気の話をしても仕方ないし、だからと云ってド素人が「どないでっか、今年の酒の出来は?」なんて聞ける筈も無い。
その日、僕が好い加減酔払った頃、鈴木大介さんは来店された。「堂島雪花菜」の大将は自称“磐城壽マニア”で、かどや酒店と杉本商店の品揃えでは物足りず、いわき市の酒舗石井本店と東京の味ノマチダヤからも取り寄せ、自宅に一ダース程も寝かせているそうな。だから、鈴木さんと大将の間では話が弾むし、既に酩酊している僕も「磐城壽」を呑みつつ会話に加わり、厚かましくも蔵元さんに対して酒の味の感想を述べた。思い返すと、恥ずかしい。
酩酊状態の僕が、いわき市に行った事のあると申し上げると、うちの銘柄は磐城だが酒蔵は浪江町にあると教えて頂く。じゃあ、僕は原町なら行った事のあると申し上げると、浪江はいわきと原町の中間にあると仰る。その後、「大阪で福島県の話をしても全く通じない。今日は福島の話の出来て良かった」と鈴木さんに言われ、泥酔した僕にスィッチが入って終った。
ついブラバンは磐城と湯本、コーラスは安積黎明と橘、なんて話を延々として終う。これに鈴木さんも福島県民らしく、安積黎明は30年連続金賞とか応じてくれて、「あなたはそんなに福島に度々来るのなら、浪江にも来てくれ」と爽やかに仰り、次の約束に向かわれた。でも、僕は浪江なんて一生行く機会無いだろうなぁ、と思った。
3.11以降、テレビの震災特番で鈴木さんのお姿を何度も見掛けた。「堂島雪花菜」の大将と僕が地味に好きだった「磐城壽」は、フクシマ・ダイイチのメルト・ダウンで一躍全国区となった。今、僕は浪江に行きたくとも行けず、鈴木さんは浪江に戻りたくとも戻れない。

「磐城壽・純米原酒」(ぬる燗がお勧めでした)
鈴木さんは今年、研究用として県の「ハイテクプラザ会津若松技術センター」に預けていた酵母を使い、間借りした南会津の国権酒造で酒造りを行った。タンク一本の僅か二十石の製造量は、一升瓶にすると二千本。この地縁復興純米酒を「堂島雪花菜」では、かどや酒店と杉本商店と酒舗石井本店から一本づつ取り、自宅で寝かせた熟成酒と共に、大将は僕に呑ませてくれた。今年の「磐城壽」二千本は現在、二本松市に避難している浪江町民に呑んで欲しいとの、鈴木大介さんの意向がある。僕なんぞのガブ呑みする酒では決してないが、でも矢張り「磐城壽」はシミジミ美味しい、単純に僕好みの酒だった。

これは震災前に「堂島雪花菜」の大将から貰った、「磐城壽」の酒粕。今となっては勿体なくて、おいそれとは食えませんなぁ…。