2012年7月21日(土)14:00/郡山市民文化センター
指揮/宍戸真市
ピアノ/鈴木あずさ
福島県立安積黎明高校合唱団
福島県立安積黎明高校クラシック部
土田豊貴「夢のうちそと」(全4曲)
シューベルト「Kyrie/Gloria/Agnus Dei」(ミサ曲ト長調 D.167)
鈴木輝昭「譚詩頌五花(全5曲)/妖精の距離(委嘱全曲初演)」
創作ステージ「REIMEI SIDE STORY〜愛と勇気と合唱」
昨年、3月11日の被災で郡山市民文化センターは休館し、安積黎明高校の定演は已む無く、会場を隣町の須賀川へ移し行われた。震災後の過酷な状況の中、例年通り定演を挙行した生徒諸君と、それに尽力した関係者のご苦労を多としたい。だが、僕は残念ながら、平日に行われた為に訪問は適わず、郡山へ戻り行われる今年の定演を、今日は二年振りに訪れる。新入生19名を迎え、今年度のコーラス部の陣容は47名となっている。
最初は合唱連盟の課題曲公募に入選した、土田豊貴と云う若い人の曲集。最初の二曲はホモフォニック、後の二曲は対位法的な組曲として変化のある構成で、指揮者もその辺りをキチンと捌いている。日本語の抑揚とデュナーミクを一致させる、生徒に受け継がれたお家芸と、柔らかく倍音を響かせる圭角の取れたハーモニーは健在。赴任三年目を迎えた顧問教諭の音楽性も、順調に生徒へ浸透している印象を受けた。ただ、宍戸先生は抒情的表現に優れているが、構成面にやや弱さを感じさせる部分はある。
次は男子部員15名と選抜女声メンバーによる混声合唱で、シューベルトのト長調ミサから三曲をオケ伴で演奏する。男声合唱の無いのはチト寂しいが、それが現顧問の方針ならば致し方も無い。その選曲も指揮者の志向を端的に表していて、宍戸教諭はシューベルト演奏に必須の、ドルチェな表現力を自分のものとしている。特にその歌謡性を弦楽合奏から引き出し、歌わせたのは見事と思う。但し、14名のヴァイオリンに対し、ヴィオラ以下の低弦が十人も居てバランスが取れず、くすんだ音色で華やかさに欠けたのは惜しまれる。
それで肝心の混声合唱だが、ラテン語にやや日本語的な語感はあっても、さすがに女声は豊かな表現力で聴かせる。でも、男声は如何にも声量不足で、何事かを表現する以前に留まっている。ソプラノ・ソロは緊張で力の入り過ぎなので、まず喉の力を抜きたい。二人目のソロの子のテンポの走ったのは、まあご愛嬌か。バス・ソロだけ二人のソリだったが、低音の出る子の居ないのは、如何ともし難い処だろう。指揮者のステージ・マナーに付いて、コンミスとの握手や指揮台上からの答礼等、至極真っ当なものだった。
この学校の委嘱曲である「譚詩頌五花」は、激しい曲ばかり並んでいて、最後まで緊張感を保つのが難しい。ピアニシモでフラついたり、終結部のフォルテシモではパート内部の声のバラけたりする。全体的にスピントする声の太くなり、以前とは倍音構造の変化して、高次の倍音の聴こえ難いのにも不満を感じる。音色の変化でもテンションの高低でも、とにかく何でも良いのだが、もう少し演奏にメリハリの望まれる。
曲そのものも技術的な難易度の高さが、内容の晦渋に直結して、曲集としての構成を散漫にしているように思う。折角の委嘱曲ではあるし、再演を重ねるのは結構な事だが、もう元は取れているだろうし、もっと他にやるべき曲はある筈だ。言っては悪いが自己模倣に陥った、この作曲者としては駄作の部類に入る曲と思う。入部して丸三ヶ月の一年生に、この難曲を暗譜させる技術力には恐れ入るしかないが、それを聴かされる側も大変なのである。これを平たく言ってしまえば、僕はやや退屈させられた。
高校生のコンサートには付き物のお遊戯大会は最初、生徒さん方の喋ってばかりいてヤレヤレと思うが、後半は沢山歌ってくれて、ホッと胸を撫で下ろす。これはどうでも良いような事だが、上に着るTシャツだけお揃いにするのではなく、ボトムスも揃えた方が見映えの良い気はする。ただ、ジーンズで揃えると、男女の見分けは付き難くなるだろう。何せ元々の近視と乱視に老眼の入って来た僕は、女子の制服を着て出て来た男子生徒を、彼が喋る声を聞くまで女子生徒と思い込んでいた程ですから。
最後は珍しく鈴木輝昭大先生が納期を守り、めでたく全曲初演の運びとなった、瀧口修造の詩による「妖精の距離」。僕には譜面のアナリーゼなど出来ないが、聴いた印象として技法的な冒険や新たな試みは無くとも、詩に合わせた曲の構成はあるように思う。メゾピアノ、メゾフォルテの音量には緩めたテンションがあり、フォルテシモと張り詰めたピアニシモではハイテンションとなる、楽節がユニットで交互に表れて面白く聴ける。絶叫のフォルテシモを山場とし、頭に血を昇らせたまま歌い通す、マンネリ化した曲とは違う新鮮味がある。
瀧口修造の「妖精の距離」と云えば、自ずと思い出されるのは、武満徹の名前。そう思って聴けば、今回の新曲には如何にもタケミツっぽい響きがある。マンネリ傾向の打開の為、武満の語法の取り込みを企てたのだろうか。これを師匠の三善晃の模倣から、武満徹への乗り換えと揶揄する事も出来るが、今回は一応の成功を収めたと評価したい。どうやら鈴木は、三善や武満の古典的なフォルムを拝借しないと、創作出来ないタイプのようだけれども。
絶叫ではなく精緻な音の組立てによる曲は、現任の指揮者の体質に合っていると思われる。それはメンバーの減少と共に、スピントする際に太くなりがちな、安積黎明の発声を修正するのにも適当だろう。ただ、黎明の声の太くなりがちな点に付いて、どうやら声楽専攻のバリトンらしい、顧問教諭の単なる趣味の可能性もある。絹糸のように細い声を保てなくては、伝統の“黎明トーン”もヘチマもありはしない。声の太いのだけは、何としても修正するよう要望して置く。
さて、今日はアンコールは聴かずに、コンサートをお暇する。生徒さん達による「花かつみ歌」での観客お見送りは、コンサートのお楽しみの内だが、その前に「瑠璃色の地球」でミラーボールの回る演出と、そこで一斉に拍手の起こるのに、僕はウンザリしている。「妖精の距離」の演奏が終り、指揮者のタクトを下ろしたのは4時30分。さて、梯子先のコンサートの開演時間に、果たして間に合いますかどうか。
指揮/宍戸真市
ピアノ/鈴木あずさ
福島県立安積黎明高校合唱団
福島県立安積黎明高校クラシック部
土田豊貴「夢のうちそと」(全4曲)
シューベルト「Kyrie/Gloria/Agnus Dei」(ミサ曲ト長調 D.167)
鈴木輝昭「譚詩頌五花(全5曲)/妖精の距離(委嘱全曲初演)」
創作ステージ「REIMEI SIDE STORY〜愛と勇気と合唱」
昨年、3月11日の被災で郡山市民文化センターは休館し、安積黎明高校の定演は已む無く、会場を隣町の須賀川へ移し行われた。震災後の過酷な状況の中、例年通り定演を挙行した生徒諸君と、それに尽力した関係者のご苦労を多としたい。だが、僕は残念ながら、平日に行われた為に訪問は適わず、郡山へ戻り行われる今年の定演を、今日は二年振りに訪れる。新入生19名を迎え、今年度のコーラス部の陣容は47名となっている。
最初は合唱連盟の課題曲公募に入選した、土田豊貴と云う若い人の曲集。最初の二曲はホモフォニック、後の二曲は対位法的な組曲として変化のある構成で、指揮者もその辺りをキチンと捌いている。日本語の抑揚とデュナーミクを一致させる、生徒に受け継がれたお家芸と、柔らかく倍音を響かせる圭角の取れたハーモニーは健在。赴任三年目を迎えた顧問教諭の音楽性も、順調に生徒へ浸透している印象を受けた。ただ、宍戸先生は抒情的表現に優れているが、構成面にやや弱さを感じさせる部分はある。
次は男子部員15名と選抜女声メンバーによる混声合唱で、シューベルトのト長調ミサから三曲をオケ伴で演奏する。男声合唱の無いのはチト寂しいが、それが現顧問の方針ならば致し方も無い。その選曲も指揮者の志向を端的に表していて、宍戸教諭はシューベルト演奏に必須の、ドルチェな表現力を自分のものとしている。特にその歌謡性を弦楽合奏から引き出し、歌わせたのは見事と思う。但し、14名のヴァイオリンに対し、ヴィオラ以下の低弦が十人も居てバランスが取れず、くすんだ音色で華やかさに欠けたのは惜しまれる。
それで肝心の混声合唱だが、ラテン語にやや日本語的な語感はあっても、さすがに女声は豊かな表現力で聴かせる。でも、男声は如何にも声量不足で、何事かを表現する以前に留まっている。ソプラノ・ソロは緊張で力の入り過ぎなので、まず喉の力を抜きたい。二人目のソロの子のテンポの走ったのは、まあご愛嬌か。バス・ソロだけ二人のソリだったが、低音の出る子の居ないのは、如何ともし難い処だろう。指揮者のステージ・マナーに付いて、コンミスとの握手や指揮台上からの答礼等、至極真っ当なものだった。
この学校の委嘱曲である「譚詩頌五花」は、激しい曲ばかり並んでいて、最後まで緊張感を保つのが難しい。ピアニシモでフラついたり、終結部のフォルテシモではパート内部の声のバラけたりする。全体的にスピントする声の太くなり、以前とは倍音構造の変化して、高次の倍音の聴こえ難いのにも不満を感じる。音色の変化でもテンションの高低でも、とにかく何でも良いのだが、もう少し演奏にメリハリの望まれる。
曲そのものも技術的な難易度の高さが、内容の晦渋に直結して、曲集としての構成を散漫にしているように思う。折角の委嘱曲ではあるし、再演を重ねるのは結構な事だが、もう元は取れているだろうし、もっと他にやるべき曲はある筈だ。言っては悪いが自己模倣に陥った、この作曲者としては駄作の部類に入る曲と思う。入部して丸三ヶ月の一年生に、この難曲を暗譜させる技術力には恐れ入るしかないが、それを聴かされる側も大変なのである。これを平たく言ってしまえば、僕はやや退屈させられた。
高校生のコンサートには付き物のお遊戯大会は最初、生徒さん方の喋ってばかりいてヤレヤレと思うが、後半は沢山歌ってくれて、ホッと胸を撫で下ろす。これはどうでも良いような事だが、上に着るTシャツだけお揃いにするのではなく、ボトムスも揃えた方が見映えの良い気はする。ただ、ジーンズで揃えると、男女の見分けは付き難くなるだろう。何せ元々の近視と乱視に老眼の入って来た僕は、女子の制服を着て出て来た男子生徒を、彼が喋る声を聞くまで女子生徒と思い込んでいた程ですから。
最後は珍しく鈴木輝昭大先生が納期を守り、めでたく全曲初演の運びとなった、瀧口修造の詩による「妖精の距離」。僕には譜面のアナリーゼなど出来ないが、聴いた印象として技法的な冒険や新たな試みは無くとも、詩に合わせた曲の構成はあるように思う。メゾピアノ、メゾフォルテの音量には緩めたテンションがあり、フォルテシモと張り詰めたピアニシモではハイテンションとなる、楽節がユニットで交互に表れて面白く聴ける。絶叫のフォルテシモを山場とし、頭に血を昇らせたまま歌い通す、マンネリ化した曲とは違う新鮮味がある。
瀧口修造の「妖精の距離」と云えば、自ずと思い出されるのは、武満徹の名前。そう思って聴けば、今回の新曲には如何にもタケミツっぽい響きがある。マンネリ傾向の打開の為、武満の語法の取り込みを企てたのだろうか。これを師匠の三善晃の模倣から、武満徹への乗り換えと揶揄する事も出来るが、今回は一応の成功を収めたと評価したい。どうやら鈴木は、三善や武満の古典的なフォルムを拝借しないと、創作出来ないタイプのようだけれども。
絶叫ではなく精緻な音の組立てによる曲は、現任の指揮者の体質に合っていると思われる。それはメンバーの減少と共に、スピントする際に太くなりがちな、安積黎明の発声を修正するのにも適当だろう。ただ、黎明の声の太くなりがちな点に付いて、どうやら声楽専攻のバリトンらしい、顧問教諭の単なる趣味の可能性もある。絹糸のように細い声を保てなくては、伝統の“黎明トーン”もヘチマもありはしない。声の太いのだけは、何としても修正するよう要望して置く。
さて、今日はアンコールは聴かずに、コンサートをお暇する。生徒さん達による「花かつみ歌」での観客お見送りは、コンサートのお楽しみの内だが、その前に「瑠璃色の地球」でミラーボールの回る演出と、そこで一斉に拍手の起こるのに、僕はウンザリしている。「妖精の距離」の演奏が終り、指揮者のタクトを下ろしたのは4時30分。さて、梯子先のコンサートの開演時間に、果たして間に合いますかどうか。