<サマーフェステヴァル25周年記念/プレミエ即千秋楽>
2012年8月31日(金)19:00/サントリーホール
指揮/山田和樹
カッサンドラ&アテナ女神/松平敬
パーカッション/池上英樹
東京シンフォニエッタ
東京混声合唱団
東京少年少女合唱隊
ラ・フラ・デルス・バウス
演出/カルルス・パドリッサ
美術/ローラン・オルベター
照明/カルロス・リグアス
衣装/チュー・ウロス
映像/ヴェラヨ・メンデス/ロマン・トーレ
松本から普通電車にゴトゴト揺られ、東京へ向かう。別にクセナキスに思い入れのある訳ではないが、今回の一度切りのオペラ公演の演出に、スペイン・カタルーニャのパフォーマンス集団、ラ・フラ・デルス・バウスの起用されると知り、これを観なければ後悔しそうと思った。
僕がラ・フラ・デルス・バウスの舞台を観たのは四年前、パリ・オペラ座日本公演でのヤナーチェクとバルトーク二本立て公演だった。お話の絵解きはせず、ハッタリや衒いも多いが、前衛的でアイデアの豊富な、観客の興味を逸らさない演出と感じた。ラ・フラ・デルス・バウスは大道芸から出発し、バルセロナ・オリンピック開会式の演出で、国際的に名を揚げたアート・カンパニーで、オペラ上演も多く手掛けるが、その活動分野は多岐に亘っている。
近年の代表的な活動として、廃棄寸前のノルウェーの砕氷船を買い取り、“NAUMON”と称する動くカルチャーセンターに仕立て、船上でモンテヴェルディ「オルフェオ」の上演を行っている。愛知万博ではカフカ「変身」を演劇として上演し、ソウルではサーカス風の空中曲芸と花火等を組み合わせた、大掛かりな街頭パフォーマンス「レインボー・ドロップス」を手掛けている。ラ・フラ・デルス・バウスは演劇やオペラにサーカスやダンス、企業イヴェントにデジタル・シアターや映画撮影、大道芸に講演会等、誠に多彩なイベントを行う、才気煥発を絵に描いたようなアーティスト集団のようだ。
開演前、サントリーホールの舞台上には、二本の長いアームを伸ばした、クレーンみたいに巨大なセットが置いてある。見た目はメカニックで、あちこち尖って突き出ているし、ガンダムみたいな外見だが、プログラムの演出ノートに拠ると、鳥の止まって歌うメタファーとしての樹木だそうである。このオペラは一幕三場の構成で、今日は途中休憩を入れず、最後まで一気に上演する
18名の男声合唱によるコロスと、バリトン・ソロとの掛け合いで、オペラのプロローグが始まる。僕の座る舞台横のバルコニー席へ松平敬が現れ、目の前で長老のソロを歌い出す。その旋律は民謡風で、僕には普通の歌に聴こえるし、世間並みのオペラの始まったように感じるが、これは素朴そうに聴こえるだけで、実は四分音程(半音の半分)を含む、演奏困難なシロモノらしい。
第一場の「アガムメノン」に入ると、二階席後方にアガムメノンとカッサンドラが現れ、コチョコチョと芝居しながらバルコニー席を回り込み、オルガン席まで到達する。ここで松平の一人二役、ファルセットで預言者カッサンドラを、地声でコロスの長老とを交互に歌う、カッサンドラのアリアが始まる。この場面、パーカッションとのデュオで演奏されるが、ここで盛大にPAの使用されたのに首を傾げる。松平の声にPAを使うのは、演奏困難な曲だけに致し方無いと思うが、打楽器の音まで拡声する理由は不明である。演奏自体もリズムに鋭さの感じられず大味で、PAはそれを増幅するようにも感じた。
第二場「供養するものたち」で、オレステス役の男声とエレクトラ役の女声、それぞれ三名づつがセットの木に攀じ登り、三十名の混声コロスとの掛け合いとなる。姉弟による母クリュタイメストラと、その愛人アイギストスの惨殺劇は、平土間の客席通路で行われる。この場面は器楽伴奏付きのパントマイムで、その陰惨を際立たせる。二人の遺骸は舞台上のセリに横たえられ、奈落へ降ろされる。
第三場「恵み深い女神たち」では、復讐の女神エリニュスの女声が専ら歌い、男声は手に持った鳴り物で演奏に参加する。取り分け、なんじゃアレ?と思って僕の見ていたのがサイレン・ホイッスルで、何だか突拍子も無い音を出す。その他にも正体不明の金属片やら木片やら、取り敢えずの間に合わせみたいな鳴り物の発する、楽音とは異なる音響が渾然一体となり、ホール全体の空気を振動させる。最早、サントリーホールは“ええじゃないか”状態で、僕は呆然としてその音響に身を委ねる。
アテナ女神のアリアでも、松平はファルセットと地声を往復する超絶技巧を駆使するが、これはカッサンドラのような一人二役ではなく、アテナ女神一人による歌である。パーカッションとのデュオだった、カッサンドラのアリアとは異なり、こちらは東京シンフォニエッタ14名を従えての演奏。このアリアで松平が、セットの樹木の天辺まで登り詰め、しかも立ち上がって歌い出したのには驚かされた。セットの上から下界を睥睨する松平は、頭上にスカイツリーの模型を戴いて、これぞラ・フラ・デルス・バウス演出の、稚気と衒気の真骨頂と思う。
しかし、これはホント怖そうだし、高所恐怖症には絶対無理だ。手を離して立ち上がるのもそうだが、セットから降りるのは更に怖そうだし…。“阿呆と煙は高い所へ登る”は、子供の囃し言葉だが、そう云えば「消えた男の日記」では、主役が穴ボコに潜り込んでたな。
物語も大詰めを迎え、最後に児童合唱20名も登場。彼女達(白塗りメイクなので、性別は判然としないが)は舞台の場数を踏んでいるようで、演技面にはセミプロ的な意識の高さがあるようだ。上掲の写真は東京少年少女合唱隊のメンバーによる、開演前ロビーに於けるパフォーマンスで、少女達の本番へ向けた気合も伝わって来る。舞台後方のオルガン席には、白い放射線防護服に身を固めた36名のコロスが陣取っていて、僕は彼等を合唱隊と思い込んでいたのが違った。彼等エキストラは、黒と赤のペンキを順番に手渡しして、白い放射能防護服を汚すパフォーマンスを行った。
合わせて70名近い出演者が舞台に揃い、鳴り物を手にした奏者も大勢いる上、平土間前方の席に座る客も、事前に渡されたアルミシートを振って演奏に参加、会場内は騒然として祝祭的な雰囲気に包まれる。クセナキスと云えば、ル・コルビュジエの弟子の建築家で、数学理論やコンピュータを使った確率論等、理詰めで作曲した前衛中の前衛、僕にはそんなイメージしかなかった。だが、このオペラ「オレステイア」では、音の坩堝のような、殆どプリミティヴと呼びたくなるような、エネルギーに満ちた音空間が実現し、僕はその渦に巻き込まれ茫然自失の状態となる。
音楽と演奏は素晴らしく、卓抜した演出にも感銘を受けた。プロジェクターで舞台後方に投射された映像は、日本語も交えた文字の乱舞で、これはパリ・オペラ座の「青髭公の城」でも使われた手法。この映像はアルゴリズムと呼ばれる計算方法により、コンピュータの情報処理で作られていて、どのように仕上がるかは運任せの作品らしい。今回、照明の巧みな使用法も相俟って、クセナキスの音楽に対応する、見事な効果を挙げたと思う。
一昨日のジャンヌ・ダルクに続き、又もや指揮者は山田和樹だが、この複雑怪奇な曲を良く取り纏め、聴かせてくれたと思う。赤いペンライトを振る副指揮者と共に、青いペンライトでリズムを取る以外、現場ではする事の無い曲ではあったけれども。唯一のソリストだった松平もそうだが、この七面倒な曲を良く歌いこなした、東京混声合唱団の女声メンバーの健闘を称えたいと思う。今回、事前の予想を超え、この難曲を素晴らしい演奏と演出で観る機会を得たのは、僕にとって望外の喜びとなった。
当然ながらカーテン・コールでは、客席も舞台上も大いに盛り上がる。演出のパドリッサが手持ちのデジカメで、出演者を撮影しながら舞台に上がったのには、山田も大笑いしていた。サイトウ・キネンで日曜日のチケットを取り損ね、クセナキスは序でに見に来た積もりだったが、今日は東京まで出て来て本当に良かったと思う。
2012年8月31日(金)19:00/サントリーホール
指揮/山田和樹
カッサンドラ&アテナ女神/松平敬
パーカッション/池上英樹
東京シンフォニエッタ
東京混声合唱団
東京少年少女合唱隊
ラ・フラ・デルス・バウス
演出/カルルス・パドリッサ
美術/ローラン・オルベター
照明/カルロス・リグアス
衣装/チュー・ウロス
映像/ヴェラヨ・メンデス/ロマン・トーレ
松本から普通電車にゴトゴト揺られ、東京へ向かう。別にクセナキスに思い入れのある訳ではないが、今回の一度切りのオペラ公演の演出に、スペイン・カタルーニャのパフォーマンス集団、ラ・フラ・デルス・バウスの起用されると知り、これを観なければ後悔しそうと思った。
僕がラ・フラ・デルス・バウスの舞台を観たのは四年前、パリ・オペラ座日本公演でのヤナーチェクとバルトーク二本立て公演だった。お話の絵解きはせず、ハッタリや衒いも多いが、前衛的でアイデアの豊富な、観客の興味を逸らさない演出と感じた。ラ・フラ・デルス・バウスは大道芸から出発し、バルセロナ・オリンピック開会式の演出で、国際的に名を揚げたアート・カンパニーで、オペラ上演も多く手掛けるが、その活動分野は多岐に亘っている。
近年の代表的な活動として、廃棄寸前のノルウェーの砕氷船を買い取り、“NAUMON”と称する動くカルチャーセンターに仕立て、船上でモンテヴェルディ「オルフェオ」の上演を行っている。愛知万博ではカフカ「変身」を演劇として上演し、ソウルではサーカス風の空中曲芸と花火等を組み合わせた、大掛かりな街頭パフォーマンス「レインボー・ドロップス」を手掛けている。ラ・フラ・デルス・バウスは演劇やオペラにサーカスやダンス、企業イヴェントにデジタル・シアターや映画撮影、大道芸に講演会等、誠に多彩なイベントを行う、才気煥発を絵に描いたようなアーティスト集団のようだ。
開演前、サントリーホールの舞台上には、二本の長いアームを伸ばした、クレーンみたいに巨大なセットが置いてある。見た目はメカニックで、あちこち尖って突き出ているし、ガンダムみたいな外見だが、プログラムの演出ノートに拠ると、鳥の止まって歌うメタファーとしての樹木だそうである。このオペラは一幕三場の構成で、今日は途中休憩を入れず、最後まで一気に上演する
18名の男声合唱によるコロスと、バリトン・ソロとの掛け合いで、オペラのプロローグが始まる。僕の座る舞台横のバルコニー席へ松平敬が現れ、目の前で長老のソロを歌い出す。その旋律は民謡風で、僕には普通の歌に聴こえるし、世間並みのオペラの始まったように感じるが、これは素朴そうに聴こえるだけで、実は四分音程(半音の半分)を含む、演奏困難なシロモノらしい。
第一場の「アガムメノン」に入ると、二階席後方にアガムメノンとカッサンドラが現れ、コチョコチョと芝居しながらバルコニー席を回り込み、オルガン席まで到達する。ここで松平の一人二役、ファルセットで預言者カッサンドラを、地声でコロスの長老とを交互に歌う、カッサンドラのアリアが始まる。この場面、パーカッションとのデュオで演奏されるが、ここで盛大にPAの使用されたのに首を傾げる。松平の声にPAを使うのは、演奏困難な曲だけに致し方無いと思うが、打楽器の音まで拡声する理由は不明である。演奏自体もリズムに鋭さの感じられず大味で、PAはそれを増幅するようにも感じた。
第二場「供養するものたち」で、オレステス役の男声とエレクトラ役の女声、それぞれ三名づつがセットの木に攀じ登り、三十名の混声コロスとの掛け合いとなる。姉弟による母クリュタイメストラと、その愛人アイギストスの惨殺劇は、平土間の客席通路で行われる。この場面は器楽伴奏付きのパントマイムで、その陰惨を際立たせる。二人の遺骸は舞台上のセリに横たえられ、奈落へ降ろされる。
第三場「恵み深い女神たち」では、復讐の女神エリニュスの女声が専ら歌い、男声は手に持った鳴り物で演奏に参加する。取り分け、なんじゃアレ?と思って僕の見ていたのがサイレン・ホイッスルで、何だか突拍子も無い音を出す。その他にも正体不明の金属片やら木片やら、取り敢えずの間に合わせみたいな鳴り物の発する、楽音とは異なる音響が渾然一体となり、ホール全体の空気を振動させる。最早、サントリーホールは“ええじゃないか”状態で、僕は呆然としてその音響に身を委ねる。
アテナ女神のアリアでも、松平はファルセットと地声を往復する超絶技巧を駆使するが、これはカッサンドラのような一人二役ではなく、アテナ女神一人による歌である。パーカッションとのデュオだった、カッサンドラのアリアとは異なり、こちらは東京シンフォニエッタ14名を従えての演奏。このアリアで松平が、セットの樹木の天辺まで登り詰め、しかも立ち上がって歌い出したのには驚かされた。セットの上から下界を睥睨する松平は、頭上にスカイツリーの模型を戴いて、これぞラ・フラ・デルス・バウス演出の、稚気と衒気の真骨頂と思う。
しかし、これはホント怖そうだし、高所恐怖症には絶対無理だ。手を離して立ち上がるのもそうだが、セットから降りるのは更に怖そうだし…。“阿呆と煙は高い所へ登る”は、子供の囃し言葉だが、そう云えば「消えた男の日記」では、主役が穴ボコに潜り込んでたな。
物語も大詰めを迎え、最後に児童合唱20名も登場。彼女達(白塗りメイクなので、性別は判然としないが)は舞台の場数を踏んでいるようで、演技面にはセミプロ的な意識の高さがあるようだ。上掲の写真は東京少年少女合唱隊のメンバーによる、開演前ロビーに於けるパフォーマンスで、少女達の本番へ向けた気合も伝わって来る。舞台後方のオルガン席には、白い放射線防護服に身を固めた36名のコロスが陣取っていて、僕は彼等を合唱隊と思い込んでいたのが違った。彼等エキストラは、黒と赤のペンキを順番に手渡しして、白い放射能防護服を汚すパフォーマンスを行った。
合わせて70名近い出演者が舞台に揃い、鳴り物を手にした奏者も大勢いる上、平土間前方の席に座る客も、事前に渡されたアルミシートを振って演奏に参加、会場内は騒然として祝祭的な雰囲気に包まれる。クセナキスと云えば、ル・コルビュジエの弟子の建築家で、数学理論やコンピュータを使った確率論等、理詰めで作曲した前衛中の前衛、僕にはそんなイメージしかなかった。だが、このオペラ「オレステイア」では、音の坩堝のような、殆どプリミティヴと呼びたくなるような、エネルギーに満ちた音空間が実現し、僕はその渦に巻き込まれ茫然自失の状態となる。
音楽と演奏は素晴らしく、卓抜した演出にも感銘を受けた。プロジェクターで舞台後方に投射された映像は、日本語も交えた文字の乱舞で、これはパリ・オペラ座の「青髭公の城」でも使われた手法。この映像はアルゴリズムと呼ばれる計算方法により、コンピュータの情報処理で作られていて、どのように仕上がるかは運任せの作品らしい。今回、照明の巧みな使用法も相俟って、クセナキスの音楽に対応する、見事な効果を挙げたと思う。
一昨日のジャンヌ・ダルクに続き、又もや指揮者は山田和樹だが、この複雑怪奇な曲を良く取り纏め、聴かせてくれたと思う。赤いペンライトを振る副指揮者と共に、青いペンライトでリズムを取る以外、現場ではする事の無い曲ではあったけれども。唯一のソリストだった松平もそうだが、この七面倒な曲を良く歌いこなした、東京混声合唱団の女声メンバーの健闘を称えたいと思う。今回、事前の予想を超え、この難曲を素晴らしい演奏と演出で観る機会を得たのは、僕にとって望外の喜びとなった。
当然ながらカーテン・コールでは、客席も舞台上も大いに盛り上がる。演出のパドリッサが手持ちのデジカメで、出演者を撮影しながら舞台に上がったのには、山田も大笑いしていた。サイトウ・キネンで日曜日のチケットを取り損ね、クセナキスは序でに見に来た積もりだったが、今日は東京まで出て来て本当に良かったと思う。