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第64回全日本合唱コンクール東北大会

2012年9月28日(金)9:40/郡山市民文化センター

<青森県>
県立五所川原高校音楽部(女声15名)
指揮/今敦子
ウィールクス「In black mourn I 喪服で弔い」
J.Lambrechts:Gloria
 ウィールクスのテンポは遅過ぎるので、もっと軽やかなリズムと明るい音色を作りたい。自由曲も少人数で良くやっているとは思うが、そもそも選曲に無理がある。音色も変化せず、この遅いテンポではダレるのも当たり前。人数の少ない場合、生理的な面からも、テンポ設定は自ずと早くなる筈だ。

県立八戸東高校音楽部(女声30名)
指揮/原子こづえ
ウィールクス「In black mourn I 喪服で弔い」
パレストリーナ「Gloria」(Missa sine nomine)
エベン「De angelis」
 ウィールクスには中庸のテンポのあり、英語の発音もそれらしくて悪くない。ただ、多くの団体が中間部で、同じようにテンポを落とす、同じような解釈を施すのは解せない。パレストリーナはマドリガーレっぽい明るさのあるのが良いし、テンポをクルクルと変えるのも面白い。エベンも軽やかな声で、音楽に押し付けがましさの無いのに好感を持つ。速いテンポで押し切る、爽やかな演奏だった。

県立弘前中央高校音楽部(女声16名)
指揮/神明博
パレストリーナ「Ego sum panis vivus 私は生けるパンである」
千原英喜「第三楽章」(唱歌)
 この頭数でポリフォニーとして、一応サマになっているのはエライと思う。指揮者がリズムをキチンと把握していて、早口言葉の自由曲も良くこなした。ただ、緩徐部分でダレるのは、これはもう致し方の無い処だろう。

県立青森高校音楽部(混声18名)
指揮/小笠原聡也
パレストリーナ「Ego sum panis vivus 私は生けるパンである」
千原英喜「2」(おらしょ)
 パレストリーナで半円一列に並んだのは効果的だったが、もう少しパートを個別に聴かせて欲しい。やや速目のテンポ設定はこれが正解で、この人数としては良くやったと思う。自由曲には美しいハーモニーのあり、大人数向けの曲を良くこなしたが、この頭数ならもう少しテキパキやるべきと思う。しかし、一日のコンクールの終わりに、こんな曲を長々と聴かされるのには、なかなか辛いものがあった。

<秋田県>
聖霊女子短大付属高校合唱部(女声35名)
指揮/金由加
瑞慶覧尚子「無門」(約束)
松下耕「Haec dies 主の御業の日」
 課題曲は高音の伸びないのと、やや息漏れもあるが、その代わりに美しいソット・ヴォーチェと、丁寧な言葉の扱いがあった。自由曲も熱演だったが、声自体の輝きの伴わず、やや空回り気味。音色の変化で聴かせるべきで、このテの曲は声に力の無いと、聴かせ映えしないと思う。

県立秋田高校合唱部(混声16名)
指揮/吉原東吾
パレストリーナ「Ego sum panis vivus 私は生けるパンである」
Vytautas Miskinis:tu es qui venturus
 可愛らしいパレストリーナだが、バスの殆んど聴こえず、最後しかハモっていなかったように思う。自由曲には情感のあり、テンポの切り替えも上手に出来て、なかなか良い演奏だった。

県立湯沢・横手城南高校音楽部合同(女声8名)
指揮/廣田俊介
ウィールクス「In black mourn I 喪服で弔い」
パレストリーナ「Adoramus te Christe/Jesu rex adomirabilis/Pueri hebraeorum」
 そもそも、ウィールクスはこの位の人数でやるべき曲で、個人の力量も高く、適切なテンポ設定がある。但し、この団体にも今日何度も聴かされた、途中リタルダントしてから最後を速くする、判で押したような解釈があった。マドリガルなら誤魔化せても、パレストリーナではソプラノのキチンとした頭声に入っていないのはキズとなる。その弱点はモテットの一曲目で顕わとなり、三曲目辺りで修正されたが、やはりソプラノの目立ち過ぎでバランスは良くなかった。

県立大曲高校合唱部(女声16名)
指揮/鈴木智美
瑞慶覧尚子「無門」(約束)
コチャール「Teli alkony 冬の黄昏/Ne felj! 怖がらないで!/
Jo szanut,jo fejsze 良い橇の道」
 課題曲で中音域は柔らかい声で歌えるが、高音部の固いのが耳に付く。コチャールをこの頭数でやれば、押し付けがましさの無くて楽に聴ける。マジャール語の世俗曲の楽しさの伝わる演奏で、こちらは声がハーモニーに溶け込んで、声に合わせた選曲だったと思う。

<山形県>
県立鶴岡南高校音楽部(混声54名)
指揮/阿部隆幸
ハウエルズ「Sing Lullaby 子守唄を歌え」
バークリー「Kyrie/Gloria」(五声ミサ)
 ハウエルズはレガートなフレージングの中で、曲想の変化をセンス良く捉える、とても音楽的な演奏。バークリーでも横の流れを大切にする中で、やや声は固くとも情感に溢れるソプラノと、柔らかいアルトが美しいハーモニーを作る。指揮者には十人しか居ない男声の高い能力を生かし、曲の勘所を掴む音楽作りがあった。

県立山形西高校音楽部(女声64名)
指揮/吉田朋世
ピアノ/郷津由紀子
新実徳英「天使」(やさしい魚)
鈴木輝昭「幼獣の歌」(譚詩抄五花)
 新実で曲に即した情感はあるが、音楽は横に流れるだけで、もう少し何かしらの変化も望まれる。鈴木でもパート内部の声の揃わず、対位法的な部分で団子となって終う。鈴木の曲を取り上げるなら、一定レヴェルの声の技術力の無ければ難しいと、再確認させられた。

県立鶴岡北高校音楽部(女声63名)
指揮/百瀬敦子
ピアノ/小野寺智子
瑞慶覧尚子「無門」(約束)
シューベルト「Gott in der natur 自然の中の神」D.757
 課題曲では大人数の声の揃わず、雑然とした印象を受ける。伴奏ピアノが指揮のテンポに尾いて行けないのは、まあご愛嬌か。シューベルトでも横は揃わないが、縦はキチンと合わせた上で、レガートとマルカートを使い分ける、曲の摂理に寄り添ったフレージングがある。ドイツ語も良く勉強出来ているが、何よりこれが自分達のシューベルトと云う確信に基づく、ロマン派らしい決然としたカデンツァの立て方がある。自信に満ち溢れる、とても楽しい演奏だった。

県立鶴岡中央高校合唱部(女声20名)
指揮/松本光治
瑞慶覧尚子「無門」(約束)
Gyorgy Orban:Daemon irrepit callidus/O gloriosa/Lauda sion
 課題曲は人数の少ない分、テキパキと進めている。オルバーンで三曲の歌い分けはキチンと出来たが、そもそも何処が演奏しても同じようになる曲で、何処かに個性の閃きも望まれる。それと自由曲をこれだけ歌えるのなら、もう少し課題曲も頑張って欲しかった。

第64回全日本合唱コンクール東北大会

2012年9月28日(金)9:40/郡山市民文化センター

<宮城県>
県仙台二華中学・高校音楽部(女声35名)
指揮/水口裕子
瑞慶覧尚子「無門」(約束)
Herbert Paulmichl:Cantate Domino/Ave Maria
 課題曲は児童合唱風の発声と、速目のテンポで爽やかな演奏。やはり可愛らしいラテン語の演奏で、リズムに軽やかさのあるのは良いが、声の硬いのは柔らかく解したい。一曲目は不協和音で終わり、何だか落ち着かない気分だったが、そこで並び方を変えたのは効果的と思う。ただ、声は真っ直ぐ伸ばすとそのままで変化に乏しく、もう一工夫の望まれる。

県仙台三桜高校音楽部(女声83名)
指揮/立谷愛
ピアノ/野田久美子
新実徳英「天使」(やさしい魚)
Alfred Koerppen「Die drei spinnerinnen 糸繰り三人女」
 新実では人数分の深く柔らかい響きがあり、指揮者のアゴーギグの揺らせ方も心地良い。自由曲では一転し、ドイツ語のリズムを立てる表現主義的な演奏。曲に合わせて作った暗目の音色を、音楽作りに生かす工夫もある。何だか良く分からない曲でも、生徒の理解は行き届いて、演奏自体の説得力はある。振付けも意味は分からないが、何となく納得させられた。また、この学校の演奏中に携帯の着信音が鳴ったが、これは今日二回目で同一人の犯行と思われる。主催者側には聴衆のマナーに付き、更なる徹底をお願いしたい。

聖ウルスラ学院英智中学高校合唱部(女声25名)
指揮/細川信
ウィールクス「In black mourn I 喪服で弔い」
コチャール「Tuzciterak 火のツィテラ」
 ウィールクスは声の太いのと、テンポの遅過ぎてマドリガルにならない。コチャールはどうやっても変わり映えしない曲で、音色の変化で聴かせるしかテは無いと思う。色々と工夫しているのは分かるが、音色は変化しないので、全く面白くなかった。

県仙台西高校合唱部(混声32名)
指揮/古澤典子
林光「鳥のように栗鼠のように」
千原英喜「4」(どちりなきりしたん)
 目の詰まった重い音色のハーモニーは、あまり林光らしくないが、パウゼの入れ方は面白い。その重い音は千原のネッチョリした曲になら合うし、レガートとマルカートの使い分けも上手だが、音色そのものは一向に変化せず、今ひとつ面白くならない。それと和太鼓ではあるまいし、トライアングルをバシバシ叩きに行っては駄目で、パーカッションと云うものは叩いた瞬間、スッと引くようにするものと思う。

県仙台南高校合唱団(混声22名)
指揮/内藤淳一
パレストリーナ「Ego sum panis vivus 私は生けるパンである」
松本望「やわらかいいのち」(あなたへ)
 パレストリーナにはキチンとした頭声と、ノン・ヴィブラートの声作りがあるし、ポリフォニーの線もソコソコ出ていたが、この人数にしてはテンポが遅過ぎる。自由曲は指揮者の自然体のルバートで、曲の弱さを感じさせない演奏。ただ、大人数向きの曲で、フォルテの音量に不足するので、更に速いテンポ設定と音色の変化で補いたい処だ。

<福島県・Aグループ>
県立郡山東高校合唱団(女声32名)
指揮/小林悟
ピアノ/橋本絵美
新実徳英「天使」(やさしい魚)
フローラン・シュミット「Les tambours qui parlent 太鼓は語る/
D'n mille−pattes amoureux 恋する百足」(Torois trios op.99)
 新実でパウゼを入れ過ぎるのは気になるが、クドイ程の情感表現は悪くない。シュミットもエスプリの効いて上手だが、それよりもピアノに魅力を感じる。鍵盤の右手側、高音部にフランス音楽らしい音色とリズムのあり、僕は聴き惚れて終った。

郡山女子大附属高校音楽部(女声29名)
指揮/榊枝あゆ美
瑞慶覧尚子「無門」(約束)
鈴木輝昭「花火ひらく…」(火へのオード)
 課題曲で声に同質性のあるのは良いが、もう少し音色の変化も意識したい。鈴木でもソプラノとアルトが似たような音色で、平板になって終う。まず、この曲はハーモニーの色合いの変化で聴かせ、その上で突き抜けた表現も無いと面白くはならない。指揮者は細かく振り過ぎで、曲全体を大掴みに出来ていないと感じる。

県立湯本高校合唱部(女声16名)
指揮/佐藤留美
ウィールクス「In black mourn I 私は喪服で弔う」
プーランク「La petite fille sage 利口な女の子/Le chien perdu 迷子の犬/
En rentrant de lecole 学校の帰り道/le petit garcon malade 病気の男の子/
Le herisson はりねずみ」(小さな声)
 ウィールクスで様式に則ったリズム感はあるので、更に速いテンポの望まれる。この学校も中間部が遅過ぎる。フランス語に精進の余地は大いにあるが、プーランクはリズムの軽やかさでエスプリを感じさせる。この頭数では難しいと思うが、もう少し曲によって音量の強弱に白黒を付ける、バロック的表現のあれば申し分ない。


<審査員個別順位>
金川明裕(合唱指揮者)
1.橘 2.不来方 3.会津 4.安積 5.盛岡四 5.鶴岡北 7.会津学鳳 7.水沢 9.仙台三桜 10.郡山 10.福島 10.盛岡一 13.安積黎明 14.聖ウルスラ 15.福島東 16.磐城 17.八戸東 17.青森

岸信介(合唱指揮者)
1.安積黎明 2.不来方 3.郡山 4.会津 5.橘 6.郡女附属 7.聖ウルスラ 8.盛岡四 8.会津学鳳 10.福島東 11.仙台三桜 12.喜多方 12.一関二 12.郡山東 15.盛岡二 16.福島 17.湯本 17.安積 17.葵

清水敬一(合唱指揮者)
1.橘 1.安積黎明 3.不来方 3.会津 5.仙台三桜 5.安積 7.葵 8.郡山 9.水沢 10.郡女附属 10.八戸東 12.盛岡四 13.聖ウルスラ 13.郡山東 13.一関一 16.盛岡二 17.会津学鳳 17.福島東 19.福島 19.喜多方

長谷川久恵(東京少年少女合唱隊常任指揮者)
1.不来方 2.仙台三桜 3.一関一 4.橘 5.安積 6.福島東 7.喜多方 8.安積黎明 8.郡山 8.聖ウルスラ 11.福島 12.鶴岡北 13.会津 14.磐城 14.鶴岡南 14.郡女附属 17.一関二 17.仙台南

本山秀毅(びわ湖ホール声楽アンサンブル専任指揮者)
1.橘 2.安積 3.葵 4.不来方 5.会津 6.盛岡二 7.鶴岡南 8.郡山 8.安積黎明 10.山形西 11.郡女附属 12.福島東 12.聖ウルスラ 14.会津学鳳 14.盛岡四 16.盛岡一 17.一関一 17.磐城 19.仙台三桜

第64回全日本合唱コンクール東北大会

2012年9月28日(金)9:40/郡山市民文化センター

<福島県>
県立喜多方高校合唱部(混声48名)
指揮/高橋祐二
ピアノ/志田智子
ハウエルズ「Sing Lullaby 子守唄を歌え」
信長貴富「くちびるに歌を」(くちびるに歌を)
 ハウエルズは片仮名英語だが、バスを効かせたハーモニーは心地良く、柔らかなデュナーミクの扱いで、シットリした音楽作りがある。自由曲にも良いハーモニーはあるが、曲自体の魅力に乏しく、演奏の単調さを脱するのは難しい。ソプラノは声に芯を感じさせるが、フォルテを伸ばすと棒になる固い声なので、スピントする技術も習得して欲しい。

県立福島東高校合唱団(混声41名)
指揮/星英一
ピアノ/鈴木あずさ
森山至貴「受付」(さよなら、ロレンス)
鈴木輝昭「come away,come away,death」(W.シェイクスピア“十二夜”歌集から)
 課題曲は構築的でありながら、とても開放的に楽しく歌えた。鈴木でも曲に含まれる起伏を鋭く捉えた、やはり構築的な音楽作りがある。全体にテンションの高い力演だが、二曲並べると同じような歌い口で対照は付き難く、もう少し抑えた美しさも欲しい処だ。

県立会津高校合唱団(混声69名)
指揮/山ノ内幸江
ピアノ/桜田康弘
森山至貴「受付」(さよなら、ロレンス)
シェーンベルク「De profundis 深き淵より」op.50b
 課題曲には人数分の声量を駆使する、広いダイナミク・レンジを生かした音楽作りがある。ピアニストには指揮者と通ずる即興性のあり、これは良い人選と思う。「深き淵より」は第二次大戦後、シェーンベルクの最晩年に作曲された、ヘブライ語テキストと十二音列作法による無伴奏六声曲で、これは全く高校生の選曲と思えない。でも、考えてみればアマチュアなら、最も練習時間を確保出来る高校の部活こそ、取り組むべき難曲なのかも知れない。今回の会津高校のドデカフォニーへの挑戦に付いて、何ら問題は無いと考える。

 「深き淵より」は旧約聖書の詩篇130番によるモテットで、改めてユダヤ教とキリスト教は同根と云う事実に思い至る。僕はヘブライ語の曲は以前に一度、無調嫌いを高言したバーンスタイン作曲の「カディッシュ」を聴いた事のあるのみ。でも、日本人でヘブライ語の発音の当否を判断出来る人なんて、そんなに居る筈も無い。シェーンベルクは骨の髄から西洋音楽の伝統に拠って立つ作曲家で、ヤンキーのバーンスタインとは違い、ユダヤを売り物にする人ではなかったが、やはり寿命を意識する歳となれば、自分の出自に思いの及ぶのだろうか。ドデカフォニーと云えば五年前、僕はベルリン・リンデンオーパーの来日公演で、「モーゼとアロン」を観たのを思い出す。あれのコーラスは「深き淵より」なんて問題にならない程、超絶的に難しかったと思う。

 余談ばかり長くなったが、演奏は対位法的な処理の上手に出来て、感情移入し難い曲を、良くぞここまで構築したと感銘を受ける。ただ、取り分け曲の前半部で、後期ロマン派の濃厚な情念を出せなかったのは、物足りなく感じる。これも序でに書くが演奏前、指揮者が位置に付き、正にタクトを上げようとした瞬間、客席で携帯の着信音が鳴った。このようなアクシデントのあると、生徒は動揺し息の乱れる事もある。着信音の止むのを待ち演奏を始めた、顧問教諭の落ち着いた対応に救われた形だ。

県立葵高校合唱団(女声48名)
指揮/瓶子美穂子
瑞慶覧尚子「無門」(約束)
鈴木輝昭「きみがため春の野に出でて若菜つむ」(恋歌秘抄)
 課題曲に丁寧な音楽作りはあるが、テンポの遅過ぎて平板になって終う。鈴木もレガートなフレージングで、曲の対位法的な構造を良く捉えているが、テンポの切り替えを更に際立たせ、全体を通したメリハリを付けたかった。

県立安積黎明高校合唱団(女声47名)
指揮/宍戸真市
ピアノ/鈴木あずさ
新実徳英「天使」(やさしい魚)
鈴木輝昭「蛇性の淫」(雨月物語)
 新実ではピアニシモの極小音量で、ダイナミク・レンジを広く聴かせる。さすがに力のある声で、言葉に寄り添いデュナーミクを作る伝統も健在。鈴木への委嘱曲でも中音域の暖かい音色と、強い声で歌い切る高音部とで、メリハリを付ける技術力は高い。ただ、もう少し繊細なピアニシモで、聴かせて欲しい部分もあった。

県立橘高校合唱団(女声42名)
指揮/大竹隆
ピアノ/鈴木あずさ
新実徳英「天使」(やさしい魚)
鈴木輝昭「終の火のわたしを焼く…」(火へのオード)
 新実ではデュナーミクの工夫と、音色の変化とが有機的に結び付けられている。短い曲の間に緩急を付け、曲の摂理を捉えて見事な演奏。鈴木も対位法的な処理の上手に出来たし、高音部を鋭くスピントする声に力のあるので、柔らかいピアニシモも生かされる。曲に底流するテンションの移行も良く捉えて、これも見事な演奏だった。

県立磐城高校合唱部(混声44名)
指揮/赤城佳奈
ハウエルズ「Sing Lullaby 子守唄を歌え」
Randall Stroope:We beheld once again the stars
 ハウエルズで極小音量に挑む、男声の意気込みは買うが、テンポの遅過ぎるのはやや問題。自由曲で指揮者のアゴーギグの揺らせ方は堂に入っているし、この頭数でのドッペル・コールで、ピアニシモからフォルテへ音量を切り替える、声の技術力は高い。但し、曲中にダイナミズムの対比はあっても、そこを繋げる工夫に欠けている。最後、ピアニシモでのフェルマータは音の揺れて、指揮者は短く切って終った。

県立福島高校合唱部(混声40名)
指揮/石川千穂
パレストリーナ「Ego sum panis vivus 私は生けるパンである」
プーランク「A peine defiguree ほぼ歪まずに」(七つのシャンソン)
Bob Chilcott:Weather report
 パレストリーナはアルトの音域の低く、どうしてもバランスは取り難いので、そこをカヴァーする工夫が欲しい。プーランクはやや片仮名っぽくとも、フランス語は良く勉強しているし、アゴーギグの揺らせ方も適切。チルコットも一応それらしいが、ジャズの遊び心は足りず、この曲は単純なだけに誤魔化し難い。熱演ではあるが、スィング感の板に付いていない印象を受けた。

県立安積高校合唱団(混声45名)
指揮/鈴木和明
ハウエルズ「Sing Lullaby 子守唄を歌え」
ブルックナー「Christus factus est キリストは我等の為に死に給う」
 ハウエルズはソプラノに内声的な音色のあり、スフォルツァンドも美しく、緻密な混声のハーモニーを鳴らせる。曲の聴かせ処も伸びやかなソプラノがキメて、的確な音楽作りがあった。ブルックナーのモテットはバスの深い響きで聴かせるが、全体として曲に必要とされる声の力は不足気味。山場のフォルテシモはキチンと歌い切ったが、ピアニシモでのテンションの低さは如何ともし難い。この名曲には別のアプローチも有り得ると思う。

県立郡山高校合唱団(混声53名)
指揮/菅野正美
ピアノ/鈴木あずさ
林光「鳥のように栗鼠のように」(無声慟哭)
鈴木輝昭「箱舟時代」
 林光のソングもこの指揮者に懸かると、この人の“歌”になって終う。デュナーミクとルバートの付け方を、僕は遣り過ぎと感じるが、林光本人なら別に構わないと言うのかも知れない。良く鳴る混声コーラスだが、内容に乏しい自由曲で変化は付け難い。おおらかな良さはあるが、結局ピアノばかりが目立つ印象を残して終った。

県立会津学鳳中学・高校合唱部(混声68名)
指揮/佐藤朋子
ハウエルズ「Sing Lullaby 子守唄を歌え」
Eric Whitacre:I thank you God for most this amazing day
 振幅の広い音楽作りでハウエルズを歌うが、それが曲の実質に見合っているのか、やや疑問に感じる。自由曲には柔らかく深い響きのあるハーモニーがあり、曲想の切り替えも上手に出来て、こちらは振幅の大きな表現が曲に生かされる。ピアニシモで音の揺れて、音はピッタリ合っている訳ではないし、恐らくは譜面から離れたテンポ設定だろうが、この曲はそれで良いのだと思う。

県立田村高校合唱部(女声35名)
指揮/渡部裕子
瑞慶覧尚子「無門」(約束)
西村朗「浮舟」(浮舟)
 課題曲は伸ばすと真っ直ぐそのままのソプラノと、平べったいアルトとで声の技術は今ひとつ。音楽作りにも酌むべき情状は無い。西村でフォルテの音量は人数分以上あるが、やはりスピントしない棒声で、声の出し方が如何にも唐突だし、謡曲風の発声からは作為のみを感じる。約めて云えば潤いや情感等、何処にも見当たらなかった。

ワイル「三文オペラ」

<びわ湖ホール・オペラへの招待/日本語上演>
2012年10月8日(月)14:00/びわ湖中ホール

指揮/園田隆一郎
ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団
びわ湖ホール声楽アンサンブル
びわ湖ホール県民合唱団

演出/栗山昌良
美術/増田寿子
照明/原中冶美
衣装/緒方紀規矩子
振付/小井戸秀宅

メッキー・メッサー/迎肇聡  
ポリー/栗原未和
ピーチャム/相沢創
ピーチャム夫人/田中千佳子
警視総監ブラウン/竹内直紀
ルーシー・ブラウン/本田華奈子
酒場のジェニ―/中嶋康子  
警官スミス/西田昭広
キンボール牧師&大道歌手/砂場拓也
乞食フィルチ/古屋彰久
泥棒/青柳貴夫/島影聖人/二塚直紀/林隆史/山本康寛
娼婦/岩川亮子/小林あすき/松下美奈子/森季子/林育子


 ブレヒトの戯曲にクルト・ヴァイルが音楽を付けた“歌入り芝居”で、ブロードウェイ・ミュージカルのレパートリーとなり、何度も映画化された、ジャンルを超えたヒット作をびわ湖ホールがオペラとして上演する。若杉弘さんは逝き、畑中良輔さんも亡くなられ、今や戦後の日本オペラ史を体現する最後の人となった感のある、栗山昌良翁の新演出である。

 日本で「三文オペラ」と云えば、まず商業演劇でミュージカルとして、或いは旧来の新劇によるストレート・プレイとして上演され、稀にオペラの出し物にもなると云った処か。その中で最も正統的な舞台は、やはり本来のブレヒト演劇としての上演だろうか。その辺りは今回の公演を観終えた後も、何かモヤモヤして良く分からない部分が残る。演出の栗山翁は故千田是也の弟子だそうで、千田は日本にブレヒトを持ち込んだ、謂わばパイオニアである。でも、栗山翁自身は若い頃、ブレヒトを避けて通っていたそうだ。

 その栗山翁が、初めて「三文オペラ」に取り組んだのは34年前、東京室内歌劇場の公演だった。東京室内歌劇場は歌手も俳優で在らねばならないとの理念を掲げ、若杉・畑中の両氏に演出の三谷礼二と、栗山翁等で旗揚げしたオペラ・カンパニーだった。そうであれば、ミュージカルや演劇として上演される「三文オペラ」を、オペラとして上演する意義は自ずと明らかになる、そう栗山翁は考えておられるようだ。びわ湖ホール声楽アンサンブルの若手歌手を、ビシバシ鍛えて演劇的な充実を目指す、今日は栗山翁の老いの一徹に拠る上演と、これは実際に観て気付かされた事だ。

 端的に言って終えば、上演を端正にキチンとやろうとすればする程、歌手達は演技力不足を露呈する。演劇的な表現で科白を喋るのは良いとして、朗誦にテンポ感の無いのは困る。どの子も総じて喋る科白の間延びして、畳み掛けるスピード感が無く、台詞回しに緩急と云うものが無い。お互いの科白の被っても良いし、この倍の速さで喋れないものかと思う。ただ、そうすると恐らくは、栗山翁の云う“舞台用語としてのアカデミックな母国語”は、置き去りとなるのだろう。

 それと今回の演出では、アドリブと云う物が一切許されていない。六月にあった林光「森は生きている」で、今日はピーチャムを演じた相沢君辺り、なかなかキャラの立った処を観せてくれたが、今日はオトボケは一切無しで、大真面目に役へ取り組んでいる。これはそう云う方針なのだから、文句を言っても始まらないが、もう少し刈り込んでテキパキ話を進めて欲しかったとは思う。凡その傾向として、歌うのが平板な子は、演技も下手と云うのはある。日本語を明確に聞かせようとしてテンポは遅くなり、間を取りすぎるので、冗長になって終う。

 しかし、今日の上演で話の前に進まない印象を受けるのは、決して演出の所為だけではない。どうやら今日の指揮者は、余りジャズに馴染みの無い様子で、オケをスィングさせられず、歌手をノセる事も適わない。テンポとダイナミズムだけでも、キチンとメリハリを付けて欲しいが、そもそもドラムスの入っているのだから、指揮は不要なのかも知れない。ピアノ伴奏のみの曲は、歌い手と弾き手とが息を合わせればそれで済む話だし、トロンボーンやトランペットには、もっとノビノビ吹かせたかった。

 今日の上演は兎に角、長いと云う印象しか残らなかった。あちこちで舟を漕ぎ、熟睡モードに入られた方も散見する。「三文オペラ」の上演なら、単純に楽しめるエンターテインメントを期待した方は多かったと思うし、僕もその内の一人だった。その当ての外れたのは結局、音楽の等閑にされたからと思う。西洋クラシック唱法の教育しか受けていない歌手達に、タンゴやブルースを歌わせようとすれば、適切な指導は欠かせない筈だ。

 昔、僕は若杉弘さんの指揮で、クルト・ヴァイルのソング・ブックを聴いた事がある。勿論、歌手にも手練れのベテランを揃えて、その演奏にはジャズに対する深い理解があったと思う。オペラは演劇である以前に、まず第一義的に“音楽”であると、今日は再確認させられた。

 老いて尚、孤軍奮闘する栗山翁に対し、僕も敬意を表するに吝かではない。だが、畑中良輔プロデュース、若杉弘指揮、栗山昌良演出の「黒船」が大成功を収めたのも、決して偶然では無かったと改めて感じる。

メンデルスゾーン「パウルス」op.36

<松蔭女子学院創立百二十周年記念>
2012年10月12日(金)19:00/神戸国際会館

指揮/鈴木雅明
ソプラノ/澤江衣里
アルト/布施奈緒子
テノール/藤井雄介
バス/ドミニク・ヴェルナー/浦野智行
バッハ・コレギウム・ジャパン(古楽器オーケストラ&合唱)


 BCJのメンデルスゾーンを聴くのは、僕は今日が二度目。前回は四年前、BCJ西宮公演として行われた、バッハとメンデルスゾーンのモテットやカンタータのコンサートだった。その後もBCJは「マタイ受難曲」のメンデルスゾーン短縮版を演奏していて、あれ等が今回のオラトリオ上演のウォーミングアップだったとは、今にして分かる事である。

 メンデルスゾーンのオラトリオには著名な「エリア」、未完に終わった「キリスト」と、専ら「聖パウロ」の邦題で知られる「パウルス」の三作がある。聴く機会の少ない曲だが、最近ではラ・フォル・ジュルネ東京で、ミシェル・コルボ指揮のローザンヌ声楽アンサンブルが演奏している。コルボのメンデルスゾーンなら、是非とも聴きたかったけれど果たせず、でも今回のBCJは神戸でも公演を行ってくれる。

 例によって開演時間を過ぎてから出て来る、鈴木兄の簡単なレクチャーの後、出て来るオケは通常の二管編成で43名、コーラスは28名で、指揮者とソリストを合わせた総勢は何と75名。鈴木兄によるBCJ史上最大編成との説明も、ムベなるかなである。しかし、これだけの人数が舞台上に勢揃いすると、何だか古楽器のコンサートとも思えず、フツーのオケ定期のような雰囲気になる。ヴァイオリンの対向配置は、如何にも古楽っぽいけれども。

 “目覚めよと呼ばわる声の聞こえ”の、コラールを用いた序曲の始まると、のっけからオケは全開モードに入り、やっぱしピリオド楽器の音は雅やかで良いなぁとシミジミ思う。序曲の終わるとコラール合唱、ソプラノのレチタティーヴォと続く。バス・デュエットで重目の声質のヴェルナーと、軽い浦野に対照性はあるが、これも相対的な問題で一般的なバス歌手からすれば、二人とも軽い部類に入るのだろう。布施は良いアルトと思うが変化に乏しく、もう少し声量の欲しい処だ。

 レチタティーヴォはソプラノとテノールが分担して歌い、伴奏はフル・オケで通奏低音は無く、これはやはりロマン派のオラトリオと感じる。アリアもレチタティーヴォも余り変わり映えせず、何れにせよメンデルスゾーン節の歌に満ちている。ソプラノの澤江は、この人ならアデーレも歌えそうと思わせるスープレッド系で、実際に小澤征爾音楽塾の「こうもり」にはイーダで出演し、アデーレのカヴァーも務めたらしい。一般的な古楽系歌手の選択とは微妙に異なる、この辺が鈴木兄好みのソプラノのタイプのようだ。テノールの藤井はリリックな美しい声だが、やや生硬さの残るのとフォルテに伸びの無く、音程の低目に聴こえる部分がある。しかし、男女交互の語りって、なんかNHKのアナウンサーがニュース読んでるみたいですな。

 勿論、ソリストも大事だが、このオラトリオでは取り分けコーラスの役割が重要となる。合唱団の音は何時も通り羽毛のように軽く、フレーズの外枠をキッチリと作り、その中でリズムを弾ませる。指揮者は緩徐部分で結構アゴーギグを揺らせるが、コッテリした表情付けでは無く、音量を段階的に変化させるバロック的な表現がある。音色自体が軽いので、決して濃厚な演奏にはならないのだ。ドイツ語のコラールを歌って軽いのも凄いが、これは語尾の子音を言い切った後、パウゼを入れる事により語感を軽くしている。

 キチンとバスは聴かせても、上澄みだけのように透明な声で、下に澱む滓など感じさせないフォルテシモが実に美しい。パートの音色にクッキリとした対比を付けて作り上げる、色彩感の豊かなコーラスに重さは一切無い。取り分けポリフォニックな曲が美しく、キチンとハモっていても、各パートは分離して聴き取れる。これはポリフォニーの歌い方のお手本のようなもので、BCJには是非一度、全曲アカペラ・コンサートをやって欲しいと思う。

 メンデルスゾーンの音楽は劇的な場面でも、ちっとも悲壮感は漂わない。メンデルスゾーンの短調は悲壮感を醸すのではなく、聴衆を癒すのだ。多少、暗くなったかなと思っても、音楽は直ぐに明るくなる。字幕は出さずに対訳を配ったが、でも歌詞の内容なんてどうでも良いのだ。ああ、この場面を歌っているのだなと思うだけで、後は只々メンデルスゾーン節に酔い痴れるだけだ。前半最大の山場、パウルスがキリストの声を聞く場面。女声合唱が「サウロ、サウロ!何故おまえは私を迫害するのか?」と歌う時、僕は感動と云うより、爽やかな情感の込み上げるのを感じる。只まあ世評通り、起伏に富んだ第一部と比べれば、第二部は些か平板とは思う。

 これはどうでも良い話だが、僕の見下ろす二階席からだと、ソプラノ歌手の胸の谷間が良く見える。古楽と豊乳と云うのも、些かミス・マッチでした。

第65回全日本合唱コンクール全国大会

2012年10月27日(土)9:50/鹿児島市民文化ホール

 木曜日の夕方、大阪南港かもめ埠頭から出帆する、鹿児島行きのフェリーに乗船する。翌金曜日の早朝、太平洋上でご来光を拝む。近年、コンクールのチケットは何だか矢鱈に取り難くなったし、そもそも鹿児島は遠いし、僕は当初どうしても全国大会を聴きに行こうと云う強い意欲は無かった。

 従ってイープラスの抽選発売もヤル気は無く、自分のアドレスから応募しただけでは当然のようにハズれ、その時点でもう鹿児島へ行く気は失っていた。合唱連盟に四万円を寄付すれば招待状を寄越すらしいが、そこまでして聴く価値のあるものかと思う。一般発売は休日の朝の散歩がてら、近所のファミリーマートへ出向き、運試しの心算で端末を叩いたら、ポロっとチケットが取れて終った。その場で衝動的に購入して終い、そうなれば鹿児島まで行かざるを得ない。ヤフオクで叩き売ると云っても、今年は去年の東京開催の際のような、五万とか六万とかの馬鹿高い落札も無いようだ。

 志布志港でフェリーを下船し、連絡バスで鹿児島市内へ向かう。バスは大隅半島を山越えし、やがて海岸沿いの道へ降りると、噴煙を揚げる桜島が見えて来る。鹿児島湾を回り込んで二時間半走り、JR駅前でバスを降りる。初めてやって来た鹿児島の街は、モクモクと煙を吹き、今にも噴火しそうな桜島が間近に迫って、こりゃ正しく最果ての異郷の地だなぁと思う。風が吹くと降り積もった火山灰が舞い上がり、目に入って痛いのも活火山を実感させる。

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 街中をブラブラと歩き、まずは事前に調べて置いた酒屋さんへ向かう。照国神社の近くにある東川酒店は、外部に対し誠に開放的なお店なのに、何方も店番して居られない。コンパクトな店内を見渡すと、日本酒の品揃えもソコソコだが、やっぱ鹿児島なら芋焼酎でしょう。でも、焼酎の銘柄は良く分からんなぁと棚を眺めていたら、随分と経ってから奥様が事務室から現れる。奥様に開放的なお店ですねと言うと、盗まれたりするのは仕方ないですと仰り、それは幾ら何でもおおらかに過ぎるのではと思う。

 まずは銘柄のご相談、思い切り芋臭い焼酎をとリクエストすると、お勧めは串木野の白石酒造のお酒で、「天狗櫻」と「花蝶木虫」。天狗さんはラヴェルが泥臭いので、「花蝶木虫」の一升瓶を買って帰る事とした。やがてご主人も戻られたので、古酒はあるかとお尋ねして見たが、今は在庫が無いとの事だった。この御夫婦、奥様は愛想良くお話し好きのようで、ご主人は無愛想と云うのでは無いが、如何にも余所者の考える薩摩隼人っぽく、ややぶっきら棒な口調の重い方だった。観光客なので昼酒を呑みたい、何処か良い店は無いかとお尋ねし、ご近所の天麩羅屋さんを薦めて頂く。

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 そのお店の前まで行くと、何だか外観は高級料亭風でビビるが、店頭のお品書きを見ると値段は安いので、取り合えず入ってみる。カウンター席に座り、東川さんで教えられて来ましたと告げ、天丼定食を注文する。しかし、ランチしてる主婦の隣りで焼酎呑むのは、やっぱ居心地良くないですな。それでもお店の大将のお勧めに従い、焼酎をストレートで二杯頂く。普通、焼酎はオン・ザ・ロックかお湯割りだろうが、僕は生の焼酎をお燗して呑むのが好き。大将は芋焼酎は何を呑んでも味は同じで、銘柄に拘っても仕方ない。それよりも黒麹か白麹かで味わいの変わるので、それを目安にすれば良いと説明される。成程、芋焼酎初心者としては、それぞれ一杯づつ呑んで納得です。

 その後はホロ酔い機嫌で繁華街を散策。しかし、九州第二(博多に中州があるので)の歓楽街、天文館通を歩いても、開いている居酒屋は見当たらない。こりゃお二人に昼酒スポットをお尋ねすると、結構悩ましそうな顔をされたのも道理ですな。大阪だと京橋とか十三とか、真昼間から呑んだくれてるオヤジだらけだが、薩摩隼人って真昼間から酒は呑まんものらしい。結局、山形屋百貨店で芋焼酎のアテ、キビナゴやら薩摩揚げやら黒豚やらを調達、今夜のお宿のホテルで呑む事とした。明日のコンクールに備え、今日は早寝しようと思う。でも、鹿児島の街は歩いていて何だか楽しいし、僕は結構気に入って終った。南国らしい雰囲気と、やっぱ桜島の迫力かなぁ…。

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 話は跳んで、合唱コンクールの後日談。

 うちのブログのブックマークには、新国立劇場合唱指揮者を務める三澤洋史のホームページ、「Cafe MDR」のリンクを貼っている。皆様ご存知と思うが、三澤は首都のナショナル・シアターで地位を得る以前に、バイロイト音楽祭で祝祭合唱団の指導スタッフを長年に亘り務めていた。彼は世界中を見渡しても他に何人も居ない、合唱指導に関し一流の手腕を持つ音楽家として、洋の東西を問わず認められた存在である。現在の新国立劇場合唱団の演奏レヴェルに、彼の確かな実力は如実に示されている。

 僕も今はジ・アトレ会員を脱退し、新国立劇場から足は遠退いているが、亡くなった若杉弘さんが音楽監督を務めていた頃は、年に三回程も東京まで遠征していた。三澤がオペラ公演に際してチラシに載せる、曲紹介の短文は簡潔に要を得ている上、音楽的な示唆に富んで、取り分け初めて観る演目の場合、僕は重宝させて貰った。その三澤が合唱コンクール全国大会の審査員を務め、自身のホームページで意見を述べるなら、そこには当然ながら傾聴すべき内容が含まれる。

 もし、新国立劇場合唱団がコンクール高校の部に出場しても、恐らく金賞は取れないと三澤は言うが、これは単なるレトリックで大した意味は無い。要するに、それだけ日本の高校コーラスのレヴェルは高く、研ぎ澄まされたアンサンブルのあると云う事実を強調したいだけだろう。実際の処、僕の聴いた範囲で日本のコーラスの最高峰は、新国立劇場合唱団とバッハ・コレギウム・ジャパンで間違いは無い。安積黎明高校や幕張総合高校が、その二団体を実力で上回るなど有り得ないとは、僕が請合う。日本の高校コーラスのアンサンブルの精度が世界一とは、話半分にしても大袈裟に過ぎると思う。

 三澤の合唱コンクールに対する論点は、概ね二つに分かれる。一つは所謂名曲、スタンダード・ナンバーを取り上げた学校に対する評価で、ブルックナーのモテットを歌った安積高校を、「音楽の持つ格調の高さや、静けさの中にふつふつと湧き上がる信仰心、フレーズの中に息づくある種の味わいというものに欠け、何のミスもなく整った演奏ではあるが、明日にはもう忘れ去られてしまうようなもの」として切り捨てるが、これには僕もほぼ同感である。

 三澤に拠れば「高校生達の発声は一般的に浅すぎると思う。だから外国語の曲になった時に、欧米人がするような深い息の表現が出来ていないのが目立ってしまう」。「高校生でも、もっと成熟した発声で合唱が出来るに違いない。でもそれをやり出すと、高校の三年間では発声法の充分な習得は難しいし、表現力は増してもその分アンサンブルが乱れるリスクを負う。だから、発声はそこそこにして表現力よりもノーミスの演奏を目指す」と云う事になる。

 どうやら今期の安積高校の男子生徒には、プロのオペラ歌手を目指せるようなバリトンの居るようで、ブルックナーに不可欠な深い声の響きも、彼一人の声で実現可能と考え選曲したように思う。だが、安積高校の顧問教諭は練達のヴァイオリニストではあっても、残念ながら声楽指導に関しては、ほぼ素人のようである。安積高校は浅い声を意図して作っているのでは無く、深い声の作り方自体を知らないのが実情だろうと思う。

 つらつら考えるに、僕が合唱コンクールを聴き始めた昔、深い声のコーラスは確かにあった。それは阿部昌司指揮の山形西高校であり、渡部康夫指揮の安積女子高校だったと思うのだ。あの二校には聴けば直ぐに分かる、個性的なサウンドがあった。二人の指揮者の定年や転勤と共に、両校の声は軽くなって行ったが、それは世代交代の所以であると共に、重厚さを厭う時代を映していたようにも思う。ただ、表現力の無い浅い声と、意図的に作る軽い発声は違う。それは結局、選曲の問題に繋がる。

 三澤のもう一つの指摘は「ある作曲家の音楽は、コンクールでそれをきちんと演奏出来たとしたら必ず勝てるような要素が全部入っている。リズムや音程が複雑で、でもシェーンベルクなどのように複雑すぎて審査員の判別が難しいということはなくて、うまくさばけたら審査員も聴衆もすぐに分かるような効果的な書法。だから当然奥深い芸術性などというものはない」で、この意見にも僕は同意する。

 僕が鈴木輝昭を初めてコンクールで聴いたのは金沢での全国大会で、その際の安積女子高校の「森へ」の演奏には鮮烈な印象が残っている。曲自体は甘ったるい旋律を山場に持って来ていて、然程に感心するような物でもなかったが、むしろそこが当時の指揮者の音楽性にフィットして、三善晃一辺倒からの方針転換に説得力があった。また、コンクール用に委嘱された最初の曲、「女に」は鈴木作品には数少ない、再演に耐え得る佳品だったと思う。しかし、その後の鈴木輝昭は片っ端からコンクール曲の委嘱を引き受け、駄作を量産する。特に英語歌詞の曲と、古典文学に題材を採った曲で、無内容な愚作の山を築いている。だが、そんな愚作にして難曲であっても、それを歌いこなす技術力の高い高校生を、音楽性豊かな顧問教諭の振れば、聴き応えのある演奏にして終う。

 三澤に言われるまでも無く、そろそろ鈴木輝昭から離れるべき時期は来ている。自己の音楽性に自信を持っている筈の指揮者達が、何時までも鈴木輝昭への委嘱に拘るのも解せない話だ。所詮、コンクールの勝敗が出たとこ勝負なら、もう少し内容の豊富な取り組み甲斐のある曲をやった方が、金賞を取れずとも残るもののある筈だし、その分のリスクは少ないと云えるのではないか。三澤のクサす安積高校だが、ブルックナーに挑んだ事自体は評価したい。ただ、彼等が金賞を取れた事に満足し、音楽の奥深さに気付いていないとすれば、それもまた罪深い話と思う。しかし、ドデカフォニーを歌った会津高校は、難曲に挑んだだけではなく、音楽的な成功をも収めている。実際の話、新曲で金賞を取れなければ、それは作曲家への委嘱料とピアニストへの出演料を、鈴木家に寄付するだけの事ではないか。

 阿部昌司は高校生に高田三郎を、渡部康夫は三善晃を歌わせる為、それぞれアルトに重低音を仕込み、ソプラノを暗い音色に染めた。発声の深い浅いは目的では無い、曲に必要とされるサウンドを突き詰めれば、目指すべき発声法は自ずと定まる筈だ。やはり大昔の話だが、伊藤千蔵指揮の八戸東高校はブラームスでは声を深くし、プーランクでは軽い声を作っていたと思う。鈴木輝昭を歌う発声法が、無味無臭で行き先不明となるのも、またムベなるかなである。

 金賞を目指す事で音楽を置いてけぼりにするのは、本末転倒と云うものだ。才能ある指導者達には、もう一度そこを見詰め直して欲しいと思う。

第65回全日本合唱コンクール全国大会

2012年10月27日(土)9:50/鹿児島市民文化ホール

高松第一高校合唱部(香川県・混声42名)
指揮/大山晃
ピアノ/岡田知子
林光「鳥のように栗鼠のように」(無声慟哭)
三善晃「砂時計/どんぐりのコマ」(五つの童画)
 林光は語るように歌う、アゴーギグの動かし方が的確だし、後半のピアニシモでテンポを落としたのも効果的で、テヌートの使い方も巧かった。「砂時計」は作為の無いようでいて、細かい工夫のあるピアニシモから、力尽くで盛り上げたりはせず、柔らかい表現で聴かせる。「どんぐりのコマ」でもピアニシモの使用法は的確で、リタルダントも上手に出来たし、柔らかいアンサンブルで破綻を避け、最後のフォルテシモ一発もキレイに決める。丁寧に作り込んで、身の丈に合った演奏だった。

香川県立坂出高校合唱部(女声41名)
指揮/前田朋紀
ピアノ/高島栄実子
新実徳英「天使」(やさしい魚)
Juhani komulainen:Lova Gud i Himmelshojd
Vytautas Miskinis:Judica me, Deus
 新実で軽くアチェルラントしながらルバートする、指揮者の解釈はこれが正解。ピアニシモ主体の中で、強過ぎないフォルテを効果的に使い、デュナーミクの工夫で聴かせる。自由曲にの讃美歌に、祈りの心を感じさせる情感はあるが、指揮者の振り過ぎで、やや音楽を忙しなくした。二曲目は早口言葉みたいな曲で、縦をピタリと揃えるのが気持ち良いし、後半の遅いテンポでは、伸ばす母音に情感を滲ませる。不協和音も美しく鳴らせて締め括り、二曲を見通した組み立ても巧かった。

高知学芸高校コーラス部(混声32名)
指揮/坂本雅代
ハウエルズ「Sing Lullaby 子守唄を歌え」
信長貴富「厄払いの唄」(ねがいごと)
 中学生のような男声に、女声も児童合唱っぽい幼い声。ハウエルズで一応デュナーミクは変化するが、完全なイン・テンポのリズム感で、こんな曲はルバートしなければ歌う意味は無いと思う。自由曲でも多少のリタルダントはあるが、アチェルラントは全く無い。表現力を欠く幼い声は、わらべ歌になら合うかも知れないが、この先生のマーチのようなラジオ体操のようなリズム感は、如何なる曲にも合わないと思う。

佐賀女子短大付属高校合唱部(混声27名)
指揮/樋口久子
ピアノ/白鳥佳
新実徳英「天使」(やさしい魚)
Marek Jasinski:Psalm 100
 新実には柔らかい声に合わせ、丁寧なドルチェの曲作りはあるが、音色の変化せずやや単調。自由曲は訳の分からないヘンな曲を、一応は咀嚼して構成出来ているが、聴いていて詰まらないのでは致し方も無い。何故、詩篇にこんな曲の付くのか理解不能だが、畳み掛ける前のめりのリズム感があれば、まだ良かったかも知れない。

純心女子高校音楽部(長崎県・混声32名)
指揮/松本佳代子
ピアノ/高橋佳里
瑞慶覧尚子「無門/約束」(約束)
 キンキンしない柔らかい声は美しいが、その持ち声に頼り過ぎ。とても綺麗な演奏だが、基本を素っ飛ばしていて、腹筋の支えが足りない。指揮者の振り回す割りに音楽は変化せず、山場は上手に作っても、そこへ至る工夫が足りないし、中間部のフォルテシモが汚いのも、基本の出来ていないから。また、ここまでピアニシモのテンポを遅くするのなら、もっと言葉の意味を突き詰めて考える、デュナーミクは必須と思う。

熊本県立第一高校合唱団(女声51名)
指揮/松本強一
ピアノ/林原ゆり
瑞慶覧尚子「無門(約束)/水面の記憶/立葵/青空(蒼の風景)」
 フォルテで柔らかさを保つ、力のある声が素晴らしく、最後のピアニシモも効果的。自由曲でもコセコセした小細工はせず、ひたすら声で聴かせる。ヴォーカリーズとオノマトペだけみたいな自由曲だが、ニュアンスに満ちた“歌”として伝わるもののある演奏だった。

宮崎学園高校女声合唱団(女声32名)
指揮/有川サチ子
ピアノ/馬場沙央里
瑞慶覧尚子「無門」(約束)
西村朗「無声慟哭」(永訣の朝)
 課題曲に強力なアルトの支える、柔らかいハーモニーはあるが、母音を押し過ぎる為に流れが澱み、音楽は前へ進まない印象を受ける。西村でもその声楽的能力は抜群で、この人数とは思えない声量があり、余裕を感じさせる演奏。曲の対位法的な処理が上手で、全体を大掴みにした構成感に秀でている。スピントしても柔らかい、声の魅力を存分に発揮してくれた。

宮崎学園高校混声合唱団(混声49名)
指揮/有川サチ子
ピアノ/馬場沙央里
パレストリーナ「Ego sum panis vivus 私は生けるパンである」
高嶋みどり「宇宙」 (宇宙)
 パレストリーナはレガートに流れず、所々にパウゼを入れるヘンな歌い方。メリスマの動きも不自然で、何だかギクシャクしたポリフォニーの演奏だった。しかし、フレーズの頭を強く出てスフォルツァンドする歌い方も、日本語ならば違和感は無い。男声の充実して良く鳴るコーラスで、広いダイナミク・レンジを駆使した、振幅の大きな音楽作りがある。中間部の畳み掛けるアチェルラントに迫力があり、一旦緩めてから最後を盛り上げ締め括る、全体の設計も良く出来ていた。

第65回全日本合唱コンクール全国大会

2012年10月27日(土)9:50/鹿児島市民文化ホール

石川県立金沢二水高校合唱部(混声60名)
指揮/深見納
ピアノ/山岸茂人
林光「鳥のように栗鼠のように」(無声慟哭)
高嶋みどり「宇宙」
 ピアニシモで坦々と進めながら、唐突に盛り上げたりするのは、この課題曲の解釈として如何なものかと思う。どうせならば、最後までピアニシモで通して欲しかった。自由曲も林光と同じ解釈で、センシティヴなピアニシモを主体に進める。但し、こちらは一直線に盛り上げずに、緩急を付けながらクライマックスへ持って行く、曲全体を俯瞰した設計がキチンと出来ている。同じ曲を取り上げた宮崎学園と、真逆の解釈なのも面白かった。

愛知県立岡崎高校コーラス部(混声78名)
指揮/近藤惠子
林光「鳥のように栗鼠のように」(無声慟哭)
Eric Whitacre:Her sacred spirit soars
 この大人数で、しかも深々とした声に合う課題曲では無いが、適切なデュナーミクの工夫があり言葉を良く聴き取れて、これは林光を歌う際に重要と思う。自由曲はこの作曲者にしては珍しく、マジメな意図のある曲。演奏はバスの充実してピアニシモに深い響きがあり、対位法的な処理も上手に出来て、ドッペル・コールで額面通りの効果を揚げる。祈りの心に満ちたテンペラメントに溢れ、感動的に歌い上げてくれた。

聖カタリナ学園光ケ丘女子高校合唱部(愛知県・女声76名)
指揮/雨森文也
ピアノ/白鳥清子
新実徳英「天使」(やさしい魚)
三善晃「ゆめ」(オデコのこいつ)
 新実の解釈は平凡で左程にスィングもせず、指揮のアクションの大きい割りに音楽は動かない。「ゆめ」には振幅の大きなアゴーギグがあり、アチェルラントを多用する演奏。但し、小手先の工夫に走り過ぎで、全ては表面的な意図に留まり、曲の内奥にある恐怖心を引き出せていない。恐らくは音楽性豊かな指揮者と思うが、それは殆んど演奏に現れていない。アルトに平気で、汚い声を出させるのにも閉口した。

愛知高校合唱部(女声32名)
指揮/吉田稔
瑞慶覧尚子「無門」(約束)
ユッカ・カンカイネン「Haukkani 鷹が飛ぶ/Ilta 夕暮れ/Elstaasi エクスタシー」
 課題曲に美しいハーモニーはあるが、細部に拘ってテンポを粘って終うので、もっと曲を大掴みにして表現したい。自由曲も美しく整えたが、北欧の曲にしてはアルトを効かせた濃厚な演奏に過ぎるし、アドリブの要素に乏しいのも辛い。指揮者が歌う側の息遣いを仕切り過ぎる、最初に決めた通りの型に嵌めた演奏で、もう少し生徒さんの自由に歌わせて上げたかった。

関西学院高等部グリークラブ(兵庫県・男声32名)
指揮/安川佳秀
松下耕「はらへたまってゆくかなしみ」(秋の瞳)
北川昇「宇宙の中を/泳ぐ」
 課題曲は遅いテンポで流して、メリハリが付き難い。ピアニシモの美しいのは評価したいが、もっとピッチを高目に取る為にも喉声を修正し、頭声を身に付ける必要はある。自由曲も気持ち良くハモれているが、只それだけ。二曲ともテンポが遅いので、アチェルラントを意識し、畳み掛ける局面を作りたい。清潔なフレージングは良いが、喉声は最後まで変わらなかった。

武庫川女子大附属高校コーラス部(兵庫県・女声72名)
指揮/岡本尚子
ピアノ/市川麻里子
新実徳英「天使」(やさしい魚)
鈴木輝昭「運命」(譚詩頌五花)
 新実にはセンシティヴで柔らかい情感のあり、中間部のヴォーカリーズでのフォルテシモも効果的だったが、最後のフェルマータが長過ぎて途切れて終ったのは、やや残念に感じる。自由曲も暖かいニュアンスに富んだ演奏で、ドッペル・コールを歌い切る技術力も高い。ただ、充分な迫力はあるが太い声で、音色も変わらず単調になって終う。その辺りを補う為にも、もう少しリズムに軽やかさの欲しい処だ。

兵庫県立長田高校音楽部(混声63名)
指揮/合田芳弘
ピアノ/由井敦子
林光「鳥のように栗鼠のように」(無声慟哭)
高嶋みどり「落下傘」(感傷的な二つの奏鳴曲)
 女声の後ろに回しても、テノールからは客席までクッキリと生の声が聴こえて来る。課題曲はテンポが遅く、デュナーミクの工夫も無くて平坦な演奏。「落下傘」でもテノールの生な声が目立ち、女声に明快な音色が無いので、この曲に求められる効果は得られない。微かにアゴーギグを揺らせる指揮者のセンスは良いが、曲想が転換しても音色は変わらず単調になって終うので、もっと音色のパレットを多彩にして欲しい。

岡山県立岡山城東高校合唱部(混声61名)
指揮/森野啓司
ハウエルズ「Sing Lullaby 子守唄を歌え」
三善晃「私が歌う理由(地球へのバラード)/願い−少女のプラカード(五つの願い)」
 指揮者は長いタクトを振り回すが、ハウエルズで縦は揃っておらず、雑然とした印象を受ける。「私が歌う理由」ではキチンと縦も揃い、即興的なアゴーギグの揺れも効果的で、この曲らしいニュアンスが出て来る。声のテクニック自体は決して高くないが、最後のピアニシモもしっかりと歌えた。「願い」のようなテンポの遅い曲だと、この指揮者はデュナーミクの工夫が得意な人と良く分かる。また、随分とピアニシモに拘る人で、生徒は力量を超えたものを要求されながら、その要請に良く応えていた。

出雲北陵高校合唱部(島根県・女声32名)
指揮/米山辰郎
ウィールクス「In black mourn I 喪服で弔い」
鈴木輝昭「旅/かぶき者」(わたしは阿国)
 ウィールクスにマドリガルらしいテンポ感はあるが、頭声よりも低めに響く声は、全く時代様式から外れている。各声部は分離せず、塊にしか聴こえない。自由曲でも各パートにクッキリとした音色の差は無く、対位法的な部分で団子になって終い、聴いていて全く面白くない。指揮者の解釈も終始ベタ押しで、二曲の対照性も無かった。

山口県立萩高校合唱部(混声55名)
指揮/有富美子
ピアノ/藤村早希子
林光「鳥のように栗鼠のように」(無声慟哭)
鈴木輝昭「愛」(もうひとつのかお)
 林光でデュナーミクの工夫を絡ませながら、一つひとつの音の軽重を見極める、指揮者の手腕で心地良く音楽を進める。自由曲も言葉を大切に扱う情感のある演奏だが、音色の変化しないのを残念に思う。高音部でのソプラノの絶叫も気になるが、指揮者に曲への共感のあるので、まずまず楽しく聴けた。鈴木の曲は三善晃の模倣として、出来映えは良い方と思う。

第65回全日本合唱コンクール全国大会

2012年10月27日(土)9:50/鹿児島市民文化ホール

敬和学園高校混声合唱部(新潟県・混声31名)
指揮/荒木京子
ピアノ/富井愛
林光「鳥のように栗鼠のように」(無声慟哭)
Eric Whitacre:Cloudburst
 林光のソングはアッサリやるべき処を、捏ね繰り回し過ぎる。レガートで繋ぐ音の動きに清潔感が無く、音色も全く変わらない。自由曲でもシラブル毎に子音を押す、ねちっこい歌い方に違和感がある。声に単彩な色しかなく、曲の内容を表現出来ていない。こんな曲こそ音の色彩感で表現しないと、面白い演奏にはならないと思う。

埼玉県立浦和第一女子高校音楽部(女声83名)
指揮/小松直詩
瑞慶覧尚子「無門」(約束)
高嶋みどり「風の影/樹の影」(風の影・樹の影)
 頭声だが硬い声質で、何だか可愛らしい課題曲の演奏。自由曲の一曲目は、今ひとつ作曲者の意図の不分明で、構成が分かり難い。でも、縦は良く揃えているし、悲鳴を上げたり、無声音でシュウシュウ言ったりして、まあ面白く聴ける。二曲目はシンフォニックに鳴らす曲が、この学校の硬い声にマッチして美しい演奏だった。

埼玉県立松伏高校合唱部(女声32名)
指揮/朝見郁美
瑞慶覧尚子「無門」(約束)
ヨージェフ・カライ「Ejszaka」
 課題曲はテンポの粘り過ぎで曲想を掴めず、最後の童謡風旋律を生かせない。それとヘンな場所でリタルダントするのは、趣味が悪いので止めて欲しかった。自由曲は声の力が無いと映えない曲だが、これもテンポが遅過ぎる。ダイナミズムに変化を付けた上で、フォルテシモには異様な美しさも必要だが、延々と粘るのみでメリハリも何も有りはしない。ポルタメントを多用するのも悪趣味で、この曲を取り上げた事自体、僕は間違っていると思う。

埼玉県立松山女子高校音楽部(女声114名)
指揮/吉田みどり
ピアノ/紅林美恵
新実徳英「天使」(やさしい魚)
高嶋みどり「太鼓を叩け、笛を吹け」(マレー民衆の唄“パントン”より)
 新実は小細工せず、正攻法で進める音楽作りで、人数分の深い声が醸すニュアンスに富んだ演奏。自由曲ではリズムを合わせる楽しさを伝えて、歌う側の余裕を感じさせる。アルトの平べったい声で、全体の響きも浅いが、取り敢えず音楽の明るいのが良く、これは指揮者のお人柄だろうと思う。

千葉県立幕張総合高校合唱団(混声83名)
指揮/山宮篤子
林光「鳥のように栗鼠のように」(無声慟哭)
ペンデレツキ「Song of Cherubim ケルビムの歌」
 この大人数にも拘らず、林光らしい軽味を感じさせる工夫があり、下降音型でのリタルダントも効果的。ピアニシモ主体で、エスプリのある演奏だった。ペンデレツキはちょっと不協和な程度で、普通にハモる曲なのを肩透かしに感じる。フォルテシモでもクラスターにはならず、最後は冒頭の主題に回帰し、ピアニシモの長いフレーズで締め括られる。縦を揃える清潔なフレージングで進めて美しい演奏だが、その表現意図は不得要領で、テノールの生な声もやや気になった。

大妻中野高校合唱部(東京都・女声52名)
指揮/宮澤雅子
ピアノ/五反美千代
瑞慶覧尚子「無門」(約束)
鈴木輝昭「会う-手紙-川」(女に第2集)
 やや篭もり気味で暗目の声が課題曲に合わず、テンポも遅目でメリハリが付かない。この篭もる声では音色も変化せず、音楽自体を単調にしている。「女に」でも曲想の転換部で音色を変化させないと、切り替えの効果は揚がらず、全曲を通しベタッと同じ調子に聴こえて終う。そこを補う為にもテンポの緩急の対照を、更にクッキリ付けるべきだった。

杉並学院高校合唱部(東京都・混声32名)
指揮/渕上貴美子
林光「鳥のように栗鼠のように」(無声慟哭)
ジェルジ・オルバーン「Pange Lingua 舌よ歌え」
Jaakko Mantyjarvi:El Hambo
 男声の人数が比較的多く、厚味のあるハーモニーを作っている。但し指揮者は大振り、且つ細かく振り過ぎで、テンポも粘り過ぎる。林光のソングはサラリと歌う中に、スィング感を示すべき曲と思う。オルバーンでも指揮者の指示は細か過ぎ、速いテンポの曲なのに、聴く側は遅く感じて終うので、もっと生徒の自発性を引き出して欲しい。次の曲でも縦を揃える技術力自体は高いが、それが却って全体のリズムを重くして終う。生徒が手拍子を強く叩き過ぎるのも、この指揮者の粘るテンポ感の表れと思う。

日本女子大附属高校コーラス部(神奈川県・女声32名)
指揮/丸山惠子
ピアノ/且田恭美子
瑞慶覧尚子「無門」(約束)
鈴木輝昭「恋」(詩篇)
 課題曲でソット・ヴォーチェの硬いのは難だが、生徒には指揮者の揺らすアゴーギグへ、センシティヴに反応する感性がある。鈴木では音色が単彩で変化しないのと、スピントする声の硬いのは聴き辛いが、機械的に作られた激しい曲を、丁寧な子音の扱いで柔らかく聴かせてくれた。

清泉女学院高校音楽部(神奈川県・女声32名)
指揮/佐藤美紀子
ピアノ/中村麻衣子
新実徳英「天使」(やさしい魚)
鈴木輝昭「ふたつの白鳥」(イエーツの唄による二つの譚詩)
 新実では声の音色の変わらない上、遅いテンポで大事に歌い過ぎて単調になって終う。この曲に必要なスィング感の無いのは、指揮者にデュナーミクの工夫が無い所為と思う。鈴木の英語の曲も胸に落とす発声が、各パートの音色の差を乏しくしている。聴く側としては、ただ単にハーモニーの塊が横に流れるのを眺める気分で、曲の構造は立体的に見えて来ない。終始一貫、鳴らしっ放しの印象で、聴いていて面白くもなんとも無かった。

第65回全日本合唱コンクール全国大会

2012年10月27日(土)9:50/鹿児島市民文化ホール

北海道帯広三条高校合唱部(女声32名)
指揮/豊田端吾
ピアノ/波塚三恵子
瑞慶覧尚子「無門」(約束)
鈴木輝昭「ともに」(女に第2集)
 課題曲にはソプラノの内声的な音色を生かす音楽作りがある。力を入れずスッと伸ばす声が美しく、音色の変化もあって楽しく聴けた。「女に」では指揮者のデユナーミクの付け方が上手で、ダイナミズムの設定も適切。ただ、曲想の転換部から声の硬くなって終い、情感を上手く発散出来ず、後半部分で伸びやかさに欠けたのが惜しまれる。

北海道札幌旭丘高校合唱部(混声84名)
指揮/大木秀一
ハウエルズ「Sing Lullaby 子守唄を歌え」
Ryan Cayabyab:Aba Po,Santa Mariang Reyna
 ハウエルズは柔らかい声のテノールが効果的で、レガートに流れる歌と、イギリスっぽい色合いとがある。自由曲は八十余名の一つに纏まった緊密なアンサンブルで、ピアニシモの深い響きが美しい。軽い音と重い音を使い分ける、指揮者の曲に対する見極めも的確で、訳の分からないヘンな曲への生徒の理解度も高い。作曲者の意図を正しく読み取り、その内容の委曲を尽くす見事な演奏だった。

岩手県立不来方高校音楽部(混声32名)
指揮/村松玲子
パレストリーナ「Ego sum panis vivus 私は生けるパンである」
リゲティ「Magany 孤独/Haj,if jusag! おお、若さよ」
 パレストリーナは最後を綺麗にハモらせて帳尻を合わせたが、やや平坦に過ぎるので、もっと意識して山場を作って欲しい。でも、男声の上手いのは特筆物で、ポリフォニーへの理解度は高く、各声部は分離してクッキリ聴こえる。リゲティの一曲目はピアニシモ主体で、ひたすらに美しい音作り。ただ、アゴーギグの動かし方がクサく、わざとらしく感じられる。二曲目はマドリガルっぽい曲を、スィング感に満ちた楽しい演奏で聴かせ、二曲の対比は上手に出来た。もう少し音色の変化を意識して欲しいのと、振付けみたいなのを入れたのは蛇足と思う。

福島県立会津高校合唱団(混声69名)
指揮/山ノ内幸江
ピアノ/桜田康弘
森山至貴「受付」(さよなら、ロレンス)
シェーンベルク「De profundis 深き淵より」op.50b
 課題曲はイン・テンポで進めるリズムに清潔感があり、旋律で歌い上げる局面と、語りの部分とを上手に唱い分けた。まあ、それさえ出来ればサマになる曲ではあるけれども。シェーンベルクで冒頭のシュプレッヒシュティンメを聴くだけで、曲への理解度の高さを感じさせる。後期ロマン派の様式を踏まえ、縦を合わせてフレージングをキチンと纏めた上で、不協和音も確実に鳴らし切り、ドデカフォニーに所要の効果を充全に表現した。東北大会の後、一ヶ月の間に表現力を深めて、これは前回とは別次元の素晴らしい演奏と思う。

福島県立橘高校合唱団(女声41名)
指揮/大竹隆
ピアノ/鈴木あずさ
新実徳英「天使」(やさしい魚)
鈴木輝昭「終の火のわたしを焼く…」(火へのオード)
 新実では言葉の扱いが丁寧で、ハミングとヴォーカリーズに的確なデュナーミクを施した上に、スィング感にも溢れた演奏。自由曲では生徒に言葉へのセンシティヴな反応があり、曲想の転換に応じ、音色を変化させる手際も素晴らしい。中間部のアカペラでは美しさを際立たせ、再び伴奏の入ると声に力のある処を聴かせ、最後はデュナーミクの工夫でニュアンスを醸し締め括る。音楽的な内容のギッシリ詰まって、見事な演奏だった。

福島県立安積高校合唱団(混声44名)
指揮/鈴木和明
ハウエルズ「Sing Lullaby 子守唄を歌え」
ブルックナー「Christus factus est キリストは我等の為に死に給う」
 力のあるバスで、ハウエルズに深い響きを作る。また、僅かなアゴーギグの動きが、音楽に精彩を与えている。このバスの低音のあってこそ、ブルックナーでも深い響きを実現出来る。ただ、女声に声の輝きの乏しく、力の籠もったピアニシモもやや透明感に欠け、フォルテシモとの対比も弱くなる。その為にパウゼの後の聴かせ処も、一応は額面通り盛り上がるが、これに“高校生にしては”の留保を付けねばならない。

福島県立安積黎明高校合唱団(女声47名)
指揮/宍戸真市
ピアノ/鈴木あずさ
新実徳英「天使」(やさしい魚)
鈴木輝昭「蛇性の淫」(雨月物語)
 新実で日本語の抑揚と、デュナーミクを一致させる伝統は健在で、優し気なニュアンスに満ちた演奏。鈴木への委嘱曲では、音楽を力で押して行く印象を受ける。緩徐部分のピアニシモに繊細なデュナーミクの工夫は無く、全体を通すと平板に感じる。謡曲の要素を盛り込んだ曲自体、この学校の持ち味と合わないように思う。

福島県立郡山高校合唱団(混声52名)
指揮/菅野正美
ピアノ/鈴木あずさ
林光「鳥のように栗鼠のように」(無声慟哭)
鈴木輝昭「箱舟時代」(箱舟時代)
 林光は重々しくやる曲ではないし、この大人数ならピアニシモ主体で、この位の軽い演奏が正解。男女ほぼ同数の混声で、軽やかな女声を生かす、控え目な男声のバランス感覚は素晴らしい。やはり鈴木への委嘱曲は、なんだか何処かで聴いたような曲で、この作曲者としては技術的な難易度も低いにも関わらず、構成の分かり難い晦渋な曲である。良く鳴るコーラスで技術は高いが、この曲では幾ら熱演しても伝えようとする意図は不明瞭となり、聴いていて隔靴掻痒の感があった。

マーラー「大地の歌」室内合奏版

<ウィーン音楽祭 in OSAKA 2012 Vol.5>
2012年11月10日(土)16:00/いずみホール

指揮/金聖響
メゾソプラノ/藤村実穂子
テノール/福井敬
いずみシンフォニエッタ大阪

マーラー「ピアノ四重奏曲/大地の歌(シェーンベルク&リーン編曲)」


 大阪開催で「ウィーン音楽祭」は気恥ずかしいネーミングだったが、ご多分に漏れず不況下の予算削減により、このフェストも今年で最後となるらしい。いずみホールの独自企画で、これまで良く頑張ったと思うし、僕の聴いた中では若杉弘さん指揮「ナクソス島のアリアドネ」が印象に残っている。取り敢えず、こじ付けでもウィーンと関係すれば、何でもアリの音楽祭だった。今日のコンサートはシェーンベルク編曲に拠る、マーラーのシンフォニーがメインだが、この程度のご縁で“ウィーン”を名乗る、企画の縛りは結構ユルかった。

 シェーンベルクが現代音楽啓蒙を目的とし、前世紀初頭のウィーンで自ら立ち上げた「私的音楽演奏協会」は経済的な理由により、交響曲の類を全て室内楽版に編曲して演奏していたそうな。僕は聴いた事は無いがブルックナーの七番とか、マーラーの四番とかの室内楽版もあるらしい。シェーンベルクは「大地の歌」のアレンジにも着手するが、折からオーストリアで起こった超インフレの為、協会は活動停止に追い込まれる。未完のまま残された草稿を基に、作曲家のライナー・リーンと云う人の完成させたのが、今日演奏される室内楽版「大地の歌」である。

 コンサートの前座として、マーラーの若書きにして唯一の室内楽、ピアノ四重奏曲が演奏される。カルテットのメンバーはヴァイオリンに小栗まち絵、ヴィオラは柳瀬省太、チェロは林裕にピアノは碇山典子の顔触れ。曲はソナタ一楽章の演奏時間は十五分程で、一つのテーマがフーガで延々と展開する、対位法を主体としている。僕なんかブラームス作曲と云われれば、そのまま真に受けそうな、とても優美な室内楽だった。ただ、この音楽の甘さはブラームスではなく、マーラーのセンチメントのような気もする。演奏は小栗さんの熱演で盛り上がったが、やや独り相撲気味で、もう少しヴィオラとチェロの対旋律も聴かせて欲しかった。

 休憩後は藤村と福井の声楽陣に、伴奏はこのホールのレジデンス・オーケストラ、いずみシンフォニエッタで、これは日本最強とも云える布陣での「大地の歌」である。指揮の金聖響は…初めて聴く人だし、良く知らない。

 「大地の歌」を歌うテノールは、例えばジェームズ・キングとかルネ・コロとかのヘルデン系と、フリッツ・ヴンダーリヒやエルンスト・ヘフリガーのリリック系とに分かれるようだ。今日のテノールはヘルデン系だが、これも本人の曲へのアプローチ次第で、どう転ぶかは実際に聴かないと判らない。福井の歌声は一曲目の「酒宴の歌」で、まずその大音声に驚く。身振りの大きな演技的な歌で、ゴリ押しの外面的なアプローチがある。さすがに何時ものように切り刻んだりはせず、一応フレーズは長目だが、その歌い振りは如何にもクサイ。テノール担当の三曲は何れも酒呑み歌で、陽気に歌う事自体は構わないのだが、でも無常感を含む歌詞「生も暗く、死もまた暗い」まで、ノー天気にに唱い飛ばすのは如何なものかと思う。

 藤村の解釈は福井と対照的で、だから二曲目の「秋に寂しい者」が始まると、その内面的なアプローチにホッとさせられる。メゾの歌声に派手さは無いが、多彩な声を駆使し、曲の摂理に沿った音色の変化で聴かせる。音楽の構成を考えて無闇に声を張り上げず、フォルテを効果的に使う知的な解釈もある。五楽章の「告別」では完全に曲に没入し、顔の表情までそれらしい風情になるのが素敵だった。

 指揮の聖響の解釈は、藤村と福井の中間辺りに位置するだろうか。五楽章までは専らコンマスの高木和弘がオケを引張っり、これなら指揮なんか要らないじゃんと思っていた訳だが、終楽章の長い間奏部分まで辿り着き、そこで漸く指揮者も居ないよりは居た方が良いに変わった。細かく振り過ぎるのは少し気になるが、ちゃんと藤村さんを盛り立ててくれたのは良かった。聖響はバーンスタインや若杉弘さんのように、マーラーの音楽にのめり込むのではなく、外側から客観的に捉えるショルティやメータのようなタイプのようだ。

 しかし、この編曲はどうもピアノの音の聴こえ過ぎで、今ひとつオーケストラっぽい雰囲気に乏しいと感じる。プログラムの解説には、「歌手は声を張り上げることなく詩の世界を噛みしめることができる」とあるが、それなら別にピアノ伴奏でも良かろうにと思う。これを要するに二人の大物ソリストを迎え、予算を抑える為の編成とも邪推される。藤村さんの「大地の歌」なら、次はフルオケの演奏で聴きたい、それが今日のアレンジへの素直な感想だ。

R.シュトラウス「イノック・アーデン」op.38

<三原剛が語る「イノック・アーデン」/日本語上演>
2012年11月18日(日)16:00/ザ・フェニックスホール

朗読&バリトン/三原剛
ピアノ/小坂圭太
美術/松井桂三

R.シュトラウス「間奏曲/トロイメライ(四つの情緒ある風景 op.9)/
Morgen 明朝/Heimliche aufforderung 密やかな誘い(四つの歌 op.27)/
アレグロ・モルト(五つの小品 op.3)/イノック・アーデン op.38」


 シュトラウスにこんな曲のある事を、僕は今回初めて知った。十九世紀のドイツでソコソコ流行ったが、現在では殆んど顧みられない“メロドラマ”と呼ばれる分野で、要するに朗読劇に伴奏音楽を付したものらしい。シュトラウスのオペラなら大好きだし、三原さんは御贔屓のバリトンだしで、僕は内容も良く分からないまま聴きに出掛けた。

 「イノック・アーデン」は幼な馴染みの友情と三角関係の物語で、最後はキリスト教的な救済により締め括られる。ヴィクトリア朝イギリスの詩人、アルフレッド・テニスンの散文詩がテキストだが、別にドイツ語や英語でやる義理も無く、今日は邦訳で朗読される。

 本命の朗読の前に、シュトラウス十代の若書きのピアノ独奏曲が演奏される。ソロを弾く小坂圭太は初めて聴くが、この方は取り分けリズム感に秀でていて、曲に含まれる諧謔を表現出来る良いピアニストと思う。次に真打ち登場、三原が最初はピアニシモ主体で遅いテンポの、次はフォルテで声を張り上げる対照的な二曲のリートを歌う。この小さな器で思い切りフォルテシモを出せば、天井を突き抜けるのではないかと思われる程、三原には豊かな声量がある。全く怖い物無しの歌い振りで、この方は細かい事を言わずとも、声の強弱だけで全てを表現出来て終う。

 再びピアノ・ソロに戻りアレグロとトロイメライで、やはり速いのと遅いのと二曲を弾く。ここまでの五曲を立て続けに聴けば、プログラミングの意図も腑に落ちて来る。聴く前は何故、リートをピアノ・ソロで挟むのか良く分からなかったが、実際に聴けばピアニストの力量も相俟って、なかなか説得力がある。メロドラマはピアノ伴奏付きの朗読なので、ピアノの音に聴衆の耳を慣らせる意図もあったのだろうとは、終演後に気付いた事だった。取り敢えず、ここまでは僕もコンサートを楽しめていた訳だ。

 休憩後、いよいよメインの「イノック・アーデン」。しかし、実際に聴くまで気付かなかったのも迂闊な話だが、これは本当に単なる戯曲の朗読で、音楽と呼べるのは伴奏のピアノだけだった。しかも、そのピアノ伴奏も次第に途切れ、朗読だけの部分が長くなって来る。さすがに大音声のバリトンで、山場で声を張り上げる迫力は大した物だが、語り自体は平坦と云うかアマチュアっぽい。何故、「イノック・アーデン」の物語を朗読の専門家でなく、歌手の読まねばならぬのか釈然とせず、これを平たく云えば退屈した。

 今回の上演には五月に急逝された、畑中良輔氏の翻訳台本が使用された。その畑中さんは生前、インタビューに答え「俳優が取り上げていますが、作品自体は音楽との結び付きがとても強い。音楽を知り尽くした声楽家の方が本来、より高い効果を引き出せる」と語っている。

 先月、びわ湖ホールでの栗山昌良演出「三文オペラ」でも感じたが、戦後のオペラ上演を担った重鎮達の、歌手にも演技力は不可欠との思いは殊の外強いようだ。そこへ至る道は未だ日暮れて遠しが、正確な現状認識と思うし、今日の試みも歌手の演技力向上の為の、恐らくは方法論の一つなのだろう。でも、僕のような単なるオペラ好きが、それに付き合う義理も無いよなぁと、コンサートの終わってシミジミ思った事だった。

モーツァルト「コジ・ファン・トゥッテ」K.588

<沼尻竜典オペラセレクション/テアター・バーゼル共同制作>
2012年12月2日(日)14:00/びわ湖ホール

指揮/沼尻竜典
チェンバロ/服部容子
日本センチュリー交響楽団
びわ湖ホール声楽アンサンブル

演出・照明/ジョルジュ・デルノン
美術/マリー・テレーゼ・ヨッセン
衣裳/クラウディア・イッロ

フィオルディリージ/佐々木典子
ドラベッラ/小野和歌子
フェルランド/望月哲也
グリエルモ/堀内康雄
デスピーナ/高橋薫子
ドン・アルフォンソ/ジェイムズ・クレイトン


 今年の芸術監督セレクト・オペラは、前回の「ドン・ジョヴァンニ」に続き、今年もモーツァルトで「コジ」。スイス・バーゼルとの共同制作で、演出には芸術監督を務めるデルノンを迎えている。東京二期会とのタイアップでお茶を濁した昨年とは異なり、今年の上演には気合が入っているようだ。僕の知らなかっだけで、バーゼルのオペラの欧州での評価は高いらしく、ドイツの専門誌の決める「年間最優秀オペラハウス」に、二年連続で選ばれたりしているらしい。

 序曲が始まると、その筋肉質のキビキビした演奏に、やはり沼尻のモーツァルトは長調の方が良いなぁと思う。一貫して自分のリズムを保つ、それはモーツァルトを演奏する際に最も肝要な処だろう。序曲の始ると直ぐに幕が上がり、舞台正面奥に大きな時計の五つ掛けてあるのが見える。時計はそれぞれ東京・ロンドン・パリ・ローマ・モスクワの現地時間を表示し、「コジ」が一日の内のお話である事を示している。場面転換の際、長針と短針が時間の経過を示してクルクル回るが、その際に秒針の全く動かないのはご愛嬌か。衣装は現代風だし、今日はナポリの旅情とかは脇に置いた、コスモポリタンな演出のようだ。

 ドン・アルフォンソが若い二人、フェルランドとグリエルモを挑発し、賭けに誘い込む冒頭の場面は、三人が平土間席前方の通路を歩き回りながら、レチタティーヴォでの遣り取りを続ける。指揮者から賭け金を受け取ったり、その傍らに置かれた酒を呑んだり、何れもベタな工夫だが、結構楽しいお芝居が続く。三人の歌手には理に適った動きがあり、細かい演技指導の行き届いているのは何よりと思う。しかし、こりゃ一体、何時になったら舞台に上がるのかと思って観ていたが、結局この場面は全て平土間で歌われ、三人はそのまま客席から外へ出て行った。その際に最後尾のアルフォンソ一人だけお辞儀したのは、なかなかお洒落な所作だった。

 次の場面、フィオルディリージとドラベッラの姉妹デュエットがとても美しく、二人の歌手の声の相性の良さが良く分かる。小野和歌子は抜擢された若手だが、どうやらベテランの佐々木典子に対し、声のマッチングで選ばれた気配はある。深い音色のアルトで高音も良く伸びるし、ここはモーツァルトを歌える若手の台頭を歓迎したい。佐々木は“岩山のように動かず”のアリアを、殆んど剛直と云っても良い程に毅然とした歌にして、さすがにエリーザベトも歌える人と感心する。

 でも、僕は「コジ」の最大のお楽しみと考える、男達の船出を見送る“風よ甘く吹け”のトリオは、とても健康的な歌で、甘く優美なモーツァルトを置き去りにして終う。でも、この場面に陶酔度の低いのは歌手の所為ではなく、指揮者の責任かも知れない。デスピーナの高橋薫子は見た目も小さくて可愛らしいし、声もスープレッド系で役に嵌っている。コミカルな声と演技の役作りで、ブッファを得意とする藤原歌劇団仕込みらしく、芸達者な処を聴かせてくれる。

 堀内さんは真面目クサった役ばかりのイメージだが、今回のグリエルモでブッファの歌い口も上手かったのを、ちょっと意外に感じた。藤原に所属すると周囲の影響もあるだろうし、みんな演技を仕込まれるんでしょうか。これに対し二期会組でフェルランドの望月哲也は、直球一本槍の真っ向勝負で来る。一幕のアリア“愛しい人の優しい息吹は”と、二幕の“私は死ぬ”は、何れも直向きな歌い振りだったが、僕としてはもう少しレジェーロな歌が望ましいのと、更に音色の変化を意識して欲しい。それと堀内さんも望月さんもコロコロしたアンコ体形で、見た目の芳しくなかったのはやや残念に思う。

 アルフォンソのクレイトンは、さすがに唯一のガイジン助っ人として呼ばれだけあって、何よりも声の演技力がある。バリバリ歌い飛ばす役ではないし、それほど声の力は無いのだが、ソット・ヴォーチェの使い方の上手いのが良い。やはり、このタイプのバスは日本には居ないと思う。歌手はみんなアジリタをキチンと唱えるのがポイント高いし、デスピーナとアルフォンソは芸達者だし、押し並べて満足すべき出来映えと思う。びわ湖ホール声楽アンサンブルのコーラスも、短い出番をビシッと決めて、さすがの実力を示してくれた。

 男二人が変装し、お互いの恋人を口説く場面で、歌手達はA4大の写真を顔の前にかざす。熱愛中の女の子が、付け髭とターバンで変装した恋人に気付かないなんて、そんなアホな話ある訳ないやろ!と云う突っ込みが定番の「コジ」だが、顔前に写真を掲げる工夫は、筋立てのご都合主義を視覚的に解消する、これは秀逸なアイデアと思う。グリエルモがドラベッラを口説き落とすと、小野はバスローブに着替え、堀内はシャツをズボンにたくし込みながら出て来る。ああ、この二人はコトも済ませたんだと分かる、結構露骨な演出である。

 最後、姉妹は許されて恋人達は元の鞘に収まり、オペラはめでたしめでたしの大団円を迎える。だが、果たして融通の利かない若い男に、他の男と結婚式を挙げた女を許す度量のあるものだろうかとは、これも良く言われる処である。男二人が最終的に許婚を赦すにしても、そこへ至る葛藤を素通りするが故に、この幕切れは唐突に感じられる。あの結末を観客の胸にストンと落とす為、「コジ」には第三幕が必要とさえ思う。

 演出家はインタビューに答えて、「西洋ではキリスト教思想が根底にある所為か、苦難を最重要視する傾向がある」。「そうして初めてユートピアに到達出来ると考えられているが、個人的にそれは残念な事と思う」と語っている。そう言われて見れば、モーツァルトのオペラの恋人達は、スザンナとフィガロもパミーナとタミーノも、何れも障害を乗り越えて結ばれる共通点がある。だが、「コジ」の場合、外部から訪れる苦難ではなく、全ては自分達で蒔いた種だ。その辺りにモーツァルトのオペラの中でも、悲喜劇としての「コジ」の独自性がある。

 また、演出家は「結婚に対する恐れも義務感も無く」、「結婚生活そのものをより重要視する傾向が出て来た」と述べた上で、「二組のカップルは」「現実主義的ではない一組は別れ」、「幻想を排除出来たもう一組は新たな関係を築ける」とし、「音楽的に見れば、フィオルディリージとフェルランドが主役のカップルである」と言い切っている。

 そう言われれば確かに、フェルランドがフィオルディリージを口説き落とす場面には、パセティックな切迫感と真実味がある。他人の恋人を口説くのは楽しい火遊びだろうが、あそこの音楽は単なる戯れ事の所産とも思えない。そこで僕は微かな記憶を辿り、確か幕切れで佐々木と望月は手を取り合ったなぁと思い出す。フェルランドの歌に真実のあるなら、二人の結ばれるのは当然と演出家は言いたいようだ。「コジ」のお話と音楽を理詰めで追求すれば、そんな解釈も成り立つのだろう。

 今回の「コジ」の演出意図を僕なりに忖度すれば、ドラベッラとグリエルモは既にコトも済ませて、結婚と恋愛は別物との割り切った関係を築く。これに対し、フィオルディリージとフェルランドは未だ性的交渉に至らず、二人の関係を結婚生活と絡めて考えているフシがある、と云った処で良いのだろうか。演出家に対し、何も其処まで深く考えずに、もっとお気楽に楽しめば良いじゃんと茶々を入れたくなる、今日の舞台は合理主義的思考法の産物なのだ。筋の通らん話は一切受け付けん!と云う訳である。

 現在、バーゼルのオぺラ・ハウスを仕切るジョルジュ・デルノンは、日本の善良なオペラ・ファンの間で悪名高い、コンヴィチュニーやノイエンフェルスやビエイトを演出に起用し、自身と劇場の評価を高めているようだ。最後に東日本大震災に際し、デルノンの語った言葉を孫引きして置く。

「芸術は差異を見分ける手段、判断力を研ぎ澄ます為の方法なのです。世界が非常に複雑になり、細分化されてしまった為、大きな構想や天才的な声明は現代社会のシステム内部で反故にされがちです。そのような世界に於いて芸術は、学術研究と共に様々な発展をより良く把握し、適切な方向付けをする為、実質的に貢献出来ます。芸術は予測出来ないリスクを最小化し、認識を生み出すのです」。

日本センチュリー交響楽団第177回定期演奏会

2012年12月6日(木)19:00/ザ・シンフォニーホール

指揮/沼尻竜典
ヴァイオリン/小林美恵
日本センチュリー交響楽団
びわ湖ホール声楽アンサンブル

ドビュッシー「夜想曲」
ベルク「ヴァイオリン協奏曲〜ある天使の思い出に」
デュティユー「交響曲第1番」


 師走定期の指揮者は客演首席の沼尻で、プログラムはベルクのコンチェルトを、ドビュッシーとデュティユーのフランス音楽で挟む構成。しかし、これまでデュティユーの曲なんて、僕は全く聴いた事が無い。前回、五月の定期でも沼尻は、ドヴォルザークのシンフォニーの中でも、滅多に演奏されない四番を取り上げていて、僕はセンチュリーの定期に来る度に、聴き慣れないものを聞かされる。

 最初はドビュッシーで、女声合唱付きの「ノクチュルヌ」。僕の座る舞台脇の席からは、指揮者のアクションをジックリと観察出来る。沼尻は分かり易い明晰な棒を振るし、その表現意図も明快に示されている。つまり、ドビュッシーの音楽を何となく、モヤッとした気分に流したりしない。イングリッシュ・ホルンとフルートを弦が支え、そこにファゴットとクラリネットの混ざると、こんな響きになるんですよ、と云った具合に理詰めで聴かせる。

 ただ、コーラスは重い音色な上、時に声のバラけて、曲に必要とされる清澄さを欠いている。びわ湖ホール声楽アンサンブルは通常、正規メンバーにソロ登録メンバーを加えて演奏するが、今日は十六名の内の七名がエキストラで、俄作りの合唱団と誹られても仕方のない編成だった。

 次はヴァイオリン・コンチェルトで、ベルク大好きの僕として、今日はこれを目的に聴きに来たようなものだ。しかし、オケからは練習不足の様子がアリアリと覗え、特に管楽器のアンサンブルにデリカシーを欠いている。ソリストは情感タップリで繊細な高音も美しいが、如何せん音量に乏しく、オケの音に埋もれ勝ちとなる。この曲は明晰ではダメで主情的にやるべきだし、もっとソロを引き立たせる意味でも、ピアニシモを有効に使いたいが、その辺りでも稽古不足を露呈して終う。ソリストの小林美恵も、どちらかと云えば室内楽で実力を発揮する人なのかも知れない。

 休憩後はこれがメイン・プロで、デュティユーのシンフォニー。聴き終えて思うに、これは横に流れる楽器の運動性と、縦の音響とで組み立てる構造物のような音楽だろうか。単一のテーマを展開する同じ旋律の延々と続く曲で、情感を徹底的に排する、ネッチョリしたベルクとは真逆の音楽と感じる。これも一応は無調らしいが、調性のあるようにも聴こえる。五月定期の記事にも書いたが、僕のような偶にしか来ない客としては、何だか妙な曲を聴かされたと云う感想しか出て来ない。これってあれかな、ミニマム音楽の元祖みたいなものなのかな?

 この曲の作られた1950年と云えば、ドナウエッシンゲンやダルムシュタットを舞台に、シュトックハウゼンやブーレーズが、トタール・セリエルの前衛運動を推し進めていた頃である。そんな風潮の真っ只中、こんな独自の立ち位置を保持したデュティユーと云う作曲家も、それはそれで評価されるべきなのかも知れない。でも、僕は少なくとも、また他の曲も聴きたいとは思っていない。

磐城壽〜浜の福興酒

 年が明ければ初春元旦で、新年おめでとうございます。前世紀まで遡ってみても、我が家に慶事など見当たらないが、それでも新たな年を迎えればめでたい。朝っぱらから酒呑んでも叱られないし、暮れの内に準備万端を整えて酒のアテは豊富だし、やはりお正月はめでたいのだ。

 あの日、津波に全てを流された上、フクシマ・ダイイチのメルト・ダウンで故郷・浪江町を追われ、今は山形県の雪深い山奥で酒造りに勤しむ、「磐城壽」の鈴木大介さんの応援を、今年も新年の抱負として掲げたい。何事も継続は力なりで、これだけは息長く続けたいと、年頭に当たり改めて思う次第である。とは云うものの、要するに「磐城壽」呑んで、酔払ってるだけですけど…。

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 昨日の大晦日、“磐城壽マニア”の割烹居酒屋「堂島雪花菜」へ、注文したお節料理を受け取りに赴いた。堂島雪花菜謹製のお節は、もう完全な酒呑み仕様で作られており、呑まない人には食べる物が無い、と云うシロモノである。このお節をアテに「磐城壽」を頂く、これを至福と呼ばずして、一体何を至福とするのかと思う元旦である。

 昨年の四月、堂島雪花菜の大将から電話があった。明日、「磐城壽」に関する取材があるから店に来い、との呼び出しだった。なんかこのブログを見て堂島雪花菜の存在を知り、取材を申し込んで来たそうである。翌日、雪花菜へ行ってみて分かったのだが、これは某民放の関西キー局製作の報道番組で、今は散り散りに避難している浪江町民が、「磐城壽」の山形での酒造りを待望すると云う内容だった。その中で福島から遠く離れた大阪にも、「磐城壽」の復活を熱望する地酒の店があると云う事で、雪花菜の大将へのインタビューを番組の中に挟む構成とするらしい。しかし、今時は素人のブログ・ネタを、テレビ局が利用したりするんですな。

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*自称“磐城壽マニア”、堂島雪花菜の大将を記念撮影。

 五月には大阪天満宮で日本酒のイベントがあり、鈴木大介さんも山形から遥々と来阪された。現在、「磐城壽」は通年醸造となり、鈴木さんは酒造りに忙殺されていて(なにしろ設備投資に費やした、借入金の返済がある)、雪花菜にも寄らずに山形へ戻られると云う事で、僕もお顔を見にGWに行われたイベントに出掛けた。鈴木さんを見付け、「こんにちは」とご挨拶申し上げると、どうやら僕の顔を覚えて下さっていたようで、「こんにちは」と挨拶を返してくれた。ただ、何処で逢ったのかは覚えていない様子だったので、堂島雪花菜でお会いしたと説明して置く。まあ、何と云っても福島県人に取って、物凄いインパクトのある話したもんな。

 雪花菜のテレビ出演に関しお尋ねすると、その番組は観ていないと仰られる。しかし、自分が主役の全国放送を録画でも観ないとは、これは自意識過剰の反対の、誠に謙虚なお人柄と感心する。自己顕示欲とか全く無いようで、俺とはエライ違いだと思う。

 以前、かどや酒店の試飲会で顔見知りになった方達も、このイベントに来ておられて、僕に声を掛けて下さった。そのお二人も、やはり震災前からの「磐城壽」ファンらしく、それならばと云う事で、堂島雪花菜なら震災前の酒を呑めると紹介する。その内のお一人とは、大晦日に雪花菜へお節を受け取りに来られたのに出くわし、驚いて終った。実はお二人とも震災前の「磐城壽」を抱えていて、何時開けるか悩んでいるそうな。雪花菜の大将も、お店では既に「磐城壽」の新酒しか出さないが、当然のように何本か秘蔵しているようだ。まあ、そんなものは遅かれ早かれ、鈴木大介さんに呑んで貰うしかないと思いますけどね。

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 結局、正月用に開けた「磐城壽」は、会津若松の植木屋酒店で買った“海の男酒”。今や「磐城壽」は文字通り、浪江町民の希望の星となっている。ご近所の居酒屋で大晦日限定販売の鯖寿司を添え、我が家のお雑煮と共に「磐城壽」を頂いた。ラベルを見ると“浜の福興酒”とも書いてある。鈴木さんは浪江に戻って酒造りをする際には、自分一人で帰ろうと思うとも仰っていた。

 浪江町請戸地区の放射線量自体は、立入り禁止とする程に高くは無いらしい。だが、メルト・スルーして格納容器へ落っこち、今は何処にあるのかも把握出来ない、核燃料をフクシマ・ダイイチの三基の原子炉から取り出し、事故が完全に収束したと云えるようになるのに、一体どれ程の歳月の掛かるのか。僕は単なるエンド・ユーザーだし、山形へ移転した鈴木酒造店を訪れたいは思わない。ただ、鈴木さんが浪江に戻られる時の来れば、僕も浪江に行きたいとは切に願っている。果たして、僕の生きている内に実現するのか、全く先の見えない話ではあるけれども。

J.シュトラウス「こうもり」

<大阪交響楽団第75回名曲コンサート/抜粋・演奏会形式>
2013年1月6日(日)13:30/ザ・シンフォニーホール

指揮/寺岡清高
大阪交響楽団
関西二期会

アイゼンシュタイン/二塚直紀
ロザリンデ/上村智恵
アデーレ/高嶋優羽
ファルケ博士/晴雅彦
オルロフスキー侯爵/山田愛子
音楽教師アルフレード/竹田昌弘
刑務所長フランク/片桐直樹
ナレーター/三代澤康司(朝日放送アナウンサー)


 やはり、お正月と云えば「こうもり」で、この演目は誠に時宜に適っている。しかも指揮者の寺岡は新春名曲コンサートと云うのに、敢えて訳詞上演を選ばず、歌手にドイツ語で唱わせる。勿論、音楽的にはその方が良いに決まっている。更に地の台詞は日本語で喋る上、アナウンサーにストーリーの説明もさせるので、オペレッタ慣れしていない定期会員の皆様への対策も万全である。歌と台詞とで原語と訳詞の使い分けを嫌がる、テレビ出演で人気者の西宮北口某芸術監督に、寺岡の真っ当な対応を見習わせたいものだ。

 まずは聴き慣れた旋律に溢れる、軽快な序曲が始る。指揮者はマルカートなリズムで軽くルバートしたり、短調の間奏部では思い切りテンポを落とした後、畳み掛けるようにアチェルラントしたりする。この曲に新奇な解釈等ある筈も無いが、なかなかお洒落な工夫に富んで、オケのリズムを愉し気に弾ませる。二幕を締め括る、「こうもりワルツ」の哀感あるメロディーも、オケに嫋々とタップリ歌わせる。プッチーニの「つばめ」で知ったが、このテの優雅でセンチメントな音楽をやらせると、寺岡は本当に上手い。

 今回、主役のアイゼンシュタインを二塚直紀が歌うと知り、それは嵌まり役かも知れないと思った。関西フィル定期「ジークフリート」一幕での、二塚のミーメは素晴らしかったし、どうやら彼の適性は音域の低い役にあるようだ。アイゼンシュタインはバリトンの音域だが、キャラクター・テノールの二塚なら、上手く歌いこなす筈と思うし、実際の処「こうもりワルツ」でのソロ等、堂に入って見事なものだった。ファルケの晴との一幕のデュエット「舞踏会へ行こう」は、二人とも声は無くとも演技派同士で楽しく、これは良いコンビだった。

 コミカルな歌唱で笑いを取るには、大袈裟なデュナーミクの必要な事をキチンと弁えた男声陣は、ドイツ語のアクセントを自分のものとしている。兵庫芸文の「こうもり」でフランクを務めた片桐直樹にも、さすがに板に付いた演技と歌があった。ただ、アルフレードの竹田昌弘の美声は良いが、この役はもっと甘ったるく歌って欲しい。ややマジメ過ぎて、この人は矢張りヴァーグナー歌いなのだなぁと思う。一幕「泣きながらお別れ」は悲嘆に暮れるフリをしつつ、でも嬉しさを抑え切れずハシャギ回るトリオだが、これは余り弾まなかった。三人共もっと大袈裟にやって貰わないと困る。

 トリオの弾まないのはロザリンデの人の演技不足が主な原因で、この方は演技出来ない声楽家の典型例として、標本にして保存したい程の見事な大根役者だった。正面切ってチャールダッシュを歌わせると、なかなか聴かせてくれるが、良かったのはそれだけ。「時計のデュエット」で二塚君の幾ら頑張っても、ロザリンデの歌が平べったくては致し方も無い。

 アデーレの人は綺麗な声のスープレッドで、アジリタの技術もあるが、声量が無さ過ぎる。フォルテとピアノで音量の変わらず、クレシェンドと云うものの無いのでは、聴いて面白い筈も無い。オルロフスキーも良い声のアルトだが、音色の一定で面白く無いし、関西二期会のコーラスも練習不足なのだろうが、もう少し指揮者の指示へセンシティヴに反応して欲しかった。やっぱこのオペレッタは、ロザリンデとアデーレに頑張って貰わないとダメだよなぁ…。

 何時ものような晴さんの気障ったらしい身振りも、しかし突っ込みの無いと生かされない。今日の舞台の演技は、それぞれの歌手の自己責任に任された気配のあり、大根は放置されて終った。ベテランの男声陣に手錬れの演技はあっても、素人以下の女声陣に演技指導の無ければ、全て空回りして終う。オペレッタの楽しさを伝える為、今日の演奏会形式の名曲コンサートにも、演出は必須だろうと思う。

 しかし、お正月の「こうもり」と云うのに、今日の会場に晴着姿のお嬢さんなど全く見掛けなかった。定期会員と思しきご老体達の服装は飽くまでモノクロームで、ここに新春の華やかさを求めるのは無いもの強請りなのだろうか。幕の内にオペレッタへ赴くのに身形を構わない、この辺りから改めなければ、クラシック音楽の将来は無いのではと考える、2014年の初頭でありました。

シュトゥッツマン コントラルト・リサイタル

2013年2月1日(金)19:00/ザ・フェニックスホール

アルト/ナタリー・シュトゥッツマン
ピアノ/インゲル・ゼーデルグレン

マーラー「Fruhlingsmorgen 春の朝/Erinnerung 思い出/
Nicht wiedersehen! もう会えない(若き日の歌)/
Rheinlegendchen ラインの伝説」(子供の魔法の角笛)
シューマン「Dichterliebe 詩人の恋 op.48」(全16曲)
ヴォルフ「Fussreise 散歩/Nimmersatte Liebe 恋は飽く事を知らず/
Begegnung 出会い/Das verlassene Mägdlein 捨てられた娘/
Auf ein altes Bild 古画に寄せて/Verbogenheit 隠棲(メーリケ歌曲集)/
Der Rattenfänger 鼠を捕る男(ゲーテ歌曲集)」


 僕が初めてシュトッゥツマンを聴いたのは十五年前、今は亡き若杉弘さんの指揮する水戸室内管弦楽団定期で、曲目はラヴェルの歌曲集「博物誌」と記憶する。その際、演奏を終えて袖に戻った若杉さんとナタリーが抱擁し、互いの頬に唇を寄せ合いキスしているのが、僕の座る隅っこの席から見えた。さすがに若杉さんは、そんな西洋風の挨拶が板に付いていると感心させられた。

 今回の来日でシュトゥッツマンは単独リサイタルを三回行う。大阪公演は三百席のフェニックスホールで、このキャパで歌うのなら、当然のように満席だろうと思えば然に非ず。今日は当日券も出たし、会場内にはチラホラと空席も見える。僕も熱心なリートの聴き手とは云い難いにせよ、これ程の大歌手のリサイタルに三百人集まらないとは、今時はドイツ・リートって本当に流行らないと知らされる。

 まずはコンサートの手始めにマーラーを四曲。シュトッゥツマンは振幅の大きなデュナーミクと、地声気味になるのも厭わないフォルテを使い、低音部にも思い切り力を込める。身振りの大きい演技的な歌い振りで、マーラーの躁鬱症的な音楽を表現しようとする。

 次は昔ながらの男声レパートリーで、最近は女声の歌う事も多い「詩人の恋」。この方の天与の美声には、ロング・トーンを伸ばすだけで表現出来るものがあり、デュナーミクの工夫よりレガートに旋律を歌う事へ主眼を置く。その滑らかな旋律線に、テヌートやマルカートやスタッカート等、豊富なヴォキャボラリーで味付けしている。多彩な語彙を使い分けるシュトゥッツマンの歌い口は、シューマンの抒情性に合うように思う。

 ここまでのコンサート前半で会場内の何処からか、唸り声の聞こえて来るのが気になる。これがまた妙に音楽の平仄と符合する唸り声で、一体誰が唸っているのか怪訝に思っていたが、休憩中の他の客の会話から、どうやら雑音の発生源はピアニストらしいと分かる。演奏者自ら唸ってるんじゃ仕方無いよなぁと、それで諦めも付き、後半も唸り続けるインゲルおばさんだが、前半程は気にならなくなった。

 そのピアニストの演奏は肘から先で弾いている感じで、肩の力を鍵盤へ伝えていない。イン・テンポで音量にも変化は無く、表現力の限界はハッキリしているが、そこは微妙なルバートでカヴァーし、曰く云い難い滋味を醸している。歌手を煽って唱わせる力は無くとも、しっかり下支えする技量はあると思う。でも、ずっと唸りっ放しなのは、やはり煩かったけれども…。

 休憩後はヴォルフを七曲。シュトゥッツマンは遅い曲で、声を響かせる位置を微妙に動かし音色を変化させ、速い曲は一気呵成にリズムのノリで押し切り、ヴォルフの機知と諧謔を表現する。最後の「鼠を捕る男」では、ピアニストも歯切れの良いリズムで歌手に応え、シュトゥッツマンもその辺りを評価し、コンビを組んでいるのだろうと納得させられた。さすがのシュトッゥツマンもオケ付き歌曲では、大声を出す為に細かなニュアンスは犠牲とせざるを得ない。今日は三百席の小さな箱で、その歌声に接する事の出来て、彼女本来の持ち味に触れ得たように思う。

 アンコールはシャンソンでマルティーニ「愛の喜び」と、リートはメンデルスゾーン「小姓の歌」に、シューベルト「野ばら」の三曲。取り分け「野ばら」は色々と工夫されて、ニュアンスに富んだ歌を楽しませてくれた。この曲は男声合唱用に編曲されていて、僕も学生時代には良く歌ったものです。

 ところでシュトゥッツマンの服装だが、今日は随分と胸の開いたドレスを着込んでおられる。この方の歌を初めて聴いた際は、短髪に黒いスーツで男装の麗人風の出で立ちだったと記憶する。それが今では西洋の貴婦人としての貫禄を加えられ、歌い終えて客席にお辞儀する度、地球の引力に逆らえなくなった乳房を披露して下さる。正直、見て嬉しいと云うより、余計なものまで見えるのでないかと、僕はヒヤヒヤさせられた。

モンテヴェルディ「ポッペアの戴冠」

<びわ湖ホール声楽アンサンブル第51回定期公演/演奏会形式>
2013年2月2日(土)14:00/びわ湖小ホール

指揮/本山秀毅
リュート/高本一郎
ヴィオラ・ダ・ガンバ/上田牧子
リコーダー/中村洋彦/奥田直美
オルガン&チェンバロ/岡本佐紀子
ザ・オーセンティック・アンサンブル
びわ湖ホール声楽アンサンブル

ポッペーア/中嶋康子
ネローネ/山本康寛
オットーネ/小林あすき
オッターヴィア/森季子
セネカ/相沢創
侍女ドゥルシッラ/松下美奈子
乳母アルナルタ/迎肇聡
小姓ヴァレット/本田華奈子
侍女ダミジェッラ&美徳の神/岩川亮子
運命の神&知恵の女神/田中千佳子
愛の神アモーレ/栗原未和
廷臣ルカーノ/古屋彰久
隊長リベルト/林隆史
警吏リットーレ/砂場拓也
兵士/青柳貴夫/島影聖人


 モンテヴェルディ大好きを自任する僕は、オペラ上演なら常に行く気満々だが、これに“モダン楽器による演奏は除く”と云う留保を付けている。今回の上演で通奏低音はリュートとガンバの担当だが、弦楽合奏の九名は全てモダン奏者のようだ。しかし、何と云ってもびわ湖ホール企画公演で、少なくともプロデュースは信頼出来るし、ある程度の上演の質は担保されると考え、今日は聴きにやって来た。

 指揮の本山教授は十年前の関西二期会公演でも、「ポッペアの戴冠」を振っている。古楽器による上演だったと記憶するが、その際に教授は演奏者側から相当な批判を受けたらしいとは、後に聞いた話。でも、これは声楽科出身で経験不足の合唱専業指揮者を、いきなり本公演に起用した側に問題のあるとも云える。その後、教授は声楽アンサンブルの定期公演で、何度かバロック・オペラを取り上げ、一応の実績は積んでいるようだ。果たして今回、過去の失敗を生かせるのか、事前の期待と不安は相半ばすると云った処だった。

 今日はルネ・ヤーコプス版での演奏で、序曲としてのシンフォニアから、三人の神様によるプロローグへと続く。美徳の神の岩川亮子には抜群のアジリタの技術があり、愛の神の栗原未和はレジェーロな声が役にハマり、声の魅力で聴かせるだけではなく、細かいアーティキュレーションの作り方も心得ている。三人の内、知恵の女神はやや弱かったが、まずは快調な滑り出しである。

 オペラのお話は本筋に入り、オットーネのアリアで始まる。カウンター・テノール歌手出身の指揮者であるヤーコプスの校訂版で、オットーネにメゾを使うのも辛い処だが、やはりその声は軽やかさに不足している。重い音色の変わらないままでは、疲労の中に帰郷の喜びを噛み締めるような甘い音楽から、妻ポッペーアへの嫉妬に苦しむ音楽への切り替えも上手く行かない。僕の大好きなアリアだが、メゾでは効果の挙がり難いと感じる。ポッペーアに三行半を突き付けられる場面も、残念ながらオットーネの歌から、コキュの情け無さは伝わらない。

 ポッペーア邸を警護する兵士のデュオには、もう少しアチェルラントで畳み掛ける迫力と、やはり曲想の転換部での切り替えを意識して欲しい。ヘンな処で押したりして、音楽の抑揚と歌が一致しないし、後半はプッチーニと勘違いしたような重い歌になって終った。このデュオに本山教授は指揮していたが、もう少しキチンとした歌い方を事前に教え込み、本番は歌手二人に任せるのが、正しいマドリガーレ唱法だろう。

 夜は明けて、ポッペーアとネローネの後朝の別れのデュオ。ポッペーアの中嶋には大袈裟な程のデュナーミクの工夫があり、モンテヴェルディのスタイルをキチンと把握し、その音楽の甘さをタップリと表現する。高音部はややキンキンするが、伸びやかにリリックな声でアジリタもあるし、スピントするフォルテとソット・ヴォーチェの使い分けも上手い。失礼ながらこの方が、これだけ歌えるとは意外な程だった。

 だが、その相方のネローネの出来は今ひとつ。楽譜に噛り付いたままで、取り合えず譜面を歌にしましたと云う印象しか無い。そもそも力み過ぎな上、テノールなのにバリトンみたいな声の音色で、ネッチョリと甘い筈の愛のデュエットが、ちっとも甘くはならない。ネローネの帰宅後、ポッペーアの世話を焼きに出て来るアルナルタは、バリトンの迎肇聡が歌う。この役で女装するのは当然にしても、化粧までして出て来たのには笑って終うが、歌の方はバリトンの重い声で凄み過ぎで、今ひとつ弾まない。

 長目のアリアを歌う皇后オッターヴィアの、森季子はなかなか力強い唱い振り。この方はレジェーロなソプラノと思っていたので、これを少し意外に感じる。このアリアはパセティック一辺倒な歌で、十九世紀以降のオペラと同じアプローチでこなせる、音大声楽科出身の歌手にも取っ付き易い役ではある。

 声楽アンサンブルの現メンバーで歌えるのは、この人を置いて他に居ないセネカの相沢創。さすが力のあるバスで、取り合えず声の力で圧倒する。これもクソ真面目に歌えば、それでサマになる役柄だが、相沢は一本調子に歌い飛ばしていて、もう少しメリハリを付ける等の工夫は欲しい。

 ネローネから死刑を言い渡されたセネカに、弟子達が死ぬなと懇願するトリオのマドリガーレは、ATB各パート二人の六人で歌われる。もっとネッチョリやって欲しい曲をアッサリ歌い過ぎで、これは指揮者の責任だろうか。ここの最上声部にも、カウンター・テノールの欲しい処ではある。続いては「フィガロの結婚」のケルビーノとバルバリーナを髣髴とさせる、お小姓と侍女によるコメディ・リリーフの場面。美徳の神と二役でダミジェッラを歌う岩川は音楽の甘さを表現出来るが、ヴァレットの本田は声の魅力に乏しい上、メリスマも全く転がらず、デュエットは今ひとつ噛み合わない。

 ネローネとルカーノによるポッペーアを讃え、セネカを嘲笑うデュエットで、ルカーノの古屋は頑張ってはいるがマドリガーレのリズムにならず、このデュエットは共倒れ。でも、オットーネがドゥルシッラにポッペーア殺害の助力を乞う場面で、ドゥルシッラの松下美奈子はマドリガーレのリズムを理解し、キチンと弾む歌を唱える。松下はネローネに糾弾され、オットーネの罪を被ろうとする場面では、スタイルだけではなく情感も表出する。一方のオットーネは音楽の理解も浅いが、意図的にパセティックにやっている様子があり、この二人の組み合わせも噛み合っていない。

 アルナルタの迎は、二幕の子守唄も真面目過ぎて味わい深さは出て来ず、もっと思い切ってクサくやるべきと感じる。三幕でポッペーアの皇后即位を大喜びする場面では、自らの声を聴かせようとする意識の強過ぎる為、本当の意味で弾んだ歌にはならない。昔、パーセル・カルテット来日公演での「ポッペアの戴冠」で、カウンター・テナーのドミニク・ヴィスが、舞台上を走り回るのを実際に目の当たりにした身としては、今日の迎君は余りにも物足りない。

 それでもオペラも大詰め、ポッペーア戴冠式で祝賀のマドリガーレが華々しく歌われ、ネローネとポッペーアの愛のデュエットでネッチョリ締め括られると、やっぱりモンテヴェルディは良いよなぁとシミジミ思う。

 今日の指揮者はさすがに前回の失敗に懲りたのか、フレーズの最後を切るのでは無く、パウゼを入れて流れに任せる事を学んだ様子だ。古楽器にも懲りた様子で、自分が副学長を務める音大出身者等、気心の知れたモダン奏者でオケを固めた。僕も彼の指揮で歌った事はあるので、この人の生真面目な性格は承知している。要するにマジメ過ぎて、モンテヴェルディの甘さや楽しさを伝えるのは不得手なのだろう。

 今日は僕の気付いただけでも二幕で二人、三幕でも一人の観客が開演中、休憩を待たずに場外へ出て行った。どうやら今日の演目に、最後まで辛抱出来ない程に退屈した人も居るようだ。初期バロック様式に馴染みの無い一見客は、モンテヴェルディの演奏会形式上演に多大な負担を強いられるようだ。そこには真面目過ぎて弾まない、本山教授の音楽的指向とモダン楽器の均一な音色とが、大きく与っているとも思うのだ。

ヴェルディ「椿姫」

<ボローニャ歌劇場舞台製作/プレミエ>
2013年3月9日(土)14:00/びわ湖ホール

指揮/沼尻竜典
京都市交響楽団
二期会合唱団
びわ湖ホール声楽アンサンブル

演出/アルフォンソ・アントニオッツィ
美術/パオロ・ジャッケーロ
照明/アンドレア・オリーヴァ
衣装/クラウディオ・ペルニゴッティ

<Aキャスト>
ヴィオレッタ/安藤赴美子
アルフレード/フェルナンド・ポルターリ
ジェルモン/上江隼人
フローラ/谷口睦美
ガストン子爵/大槻孝志
ドゥフォール男爵/加賀清孝
ドビニー侯爵 /山下浩司
女中アンニーナ/山下牧子
医師グランヴィル/森雅史
召使ジュゼッペ/山本康寛
使者/迎肇聡
給仕/相沢創


 今年は生誕二百年のアニヴァーサリーで、ヴェルディ上演の目白押しだが、びわ湖ホールには前芸術監督の若杉弘さんの遺徳があり、他の劇場とは年季の入り方が違っている。何と云っても日本のオペラ上演史に燦然と輝く、本邦初演のヴェルディ九作連続上演の実績がある。今回、一昨年の「アイーダ」に続き、シリーズ第11作として沼尻芸術監督の取り上げたのは、満を持しての大本命「ラ・トラヴィアータ」である。

 前奏曲の導入部、沼尻は遅目のテンポの中で、起伏の大きなデュナーミクや細かいルバート等、色々と工夫して聴かせる。次のテーマに移り音楽の弾み出すと、幕を上げヴィオレッタ邸での舞踏会の場面を見せる。セットの奥にはピカソ風の抽象画が掛けられ、歌手の衣装もモダンな風俗で、今日の時代設定は前世紀二十年代だろうか。

 舞台上の舞踏会の客達が動きを止めた中、ヴィオレッタがドゥフォール男爵の手を引き現れると、そのまま二人で階段を昇り二階へ消える。前奏曲を終えると、再びヴィオレッタが階段の天辺に現れ、「フローラ♪アミーチ♪」と歌い出す趣向。「椿姫」タイトル・ロールの娼婦性を強調して、まずは快調な滑り出し。そのまま“乾杯の歌”へ雪崩れ込むと、ここで沼尻がオケとコーラスを煽る、煽る。もっとやれ、どんどんやれと云う感じで、やっぱヴェルディはこう来なくっちゃと思う。

 まずは主役二人のデュエット、“貴女に逢った時から”。ヴィオレッタの安藤赴美子には声の力があるし、アジリタもソコソコだが、音色に変化の無いキツイ声一辺倒の感じで、今ひとつ面白い歌にならない。アルフレードのポルターリも高音の抜け切らない、バリトンのような野太い声でピアニシモに甘さの足りず、単調な歌になって終う。ヴィオレッタのカヴァティーナ・カバレッタ形式(と云うと難しそうだが、要するに前半は遅いテンポで朗々と、後半は速いテンポで歯切れ良く歌う)のアリア、“ああ、そは彼の人か〜花より花へ”を、安藤は小細工せず力尽くで押し切ろうとする。ただ、最後はガス欠気味となり、慣例のEs音に挑戦出来なかったのは残念。

 二幕一場、パリ郊外の別宅のセットでは壁面を前方に出し、奥行きを浅くした舞台に応接セットが置いてある。上手には天井まで全面の硝子戸のセットがあり、ジェルモンは外のベランダから内部を覗い、屋敷の中へ入って来る。四人の歌手だけで演唱する、この場面の彩りは絨毯の赤とフロアスタンドの灯りのみで、美術も衣装も地味目に作ってある。

 ポルターリは二幕のアリア“燃える心を”でも、やはり高音部は抜け切らないまま。これが実力かと思っていたら後半のカバレッタで、突如スピントした高音を張り上げたのには、やや驚かされた。ここから後のポルターリ君の歌には、適切な変化の付いて楽しく聴けた。この場面の山場、“私を愛してアルフレード”での安藤は、長いフレーズを伸ばすと情感の滲む歌で、持ち前のパセティックな声質もハマり、この辺りがこの方の本領のように感じる。

 ジェルモンのアリア“プロヴァンスの海と陸”での上江隼人は、イタリア語のデュナーミクの起伏を意識的に大きく捉え、リズムを弾ませる歌い口で、村夫子然とした人の良さそうな役作り。これは声量に乏しい為、田舎地主の冷酷さを出せない弱点を、カヴァーする手段のようにも思われた。

 二場のフローラ邸での仮面舞踏会は、一幕のセットから更に装飾を削ぎ落とし、置き物もトランプ・テーブルを二台程度で、殆んど抽象的な趣きがある。“ジプシーと闘牛士の合唱”の場面を、僕はバレエ・シーンと思い込んでいたが、今日は古めかしい映写機が持ち出され、「カルメン」の無声映画を投射して観せる。成程これは面白い工夫だし、これならバレエ・ダンサーを雇う経費も節減出来て、一石二鳥と云うものだろう。今日は何と云っても「椿姫」の上演だし、一応は豪華めかした舞台も必要とされる中、倹約に励む演出家の労を多としたい。この際に映写機を持ち出すガストンの仕草がそれっぽく、どうやらオカマと云う設定らしい。そもそも、ガストンってお節介小母さんみたいな役処だし、この解釈も結構ハマっている。

 ヴィオレッタには常に青白いスポット・ライトを当て、正面を向き整列したコーラスには赤っぽい照明を当てて対比を作る。全員が両目を黒いマスクで覆っているコーラスが、アルフレードを非難して前へ進む場面には、何やら不気味な迫力がある。また、ここでオケとコーラスを駆り立てる、沼尻の馬力もなかなかのもの。

 三幕は舞台下手の窓から差し込む光を灯りとする、薄暗い印象の照明。ヴィオレッタはベッドに寝るのではなく、何故か床の上に丸まって寝ている。それも同じ寝巻き姿の二人が並んで寝ていて、手前の方の人が立ち上がって歌い出し、そちらが安藤さんと判明する。最後、歌手のヴィオレッタは生きる希望を取り戻し、丸まって寝たままのヴィオレッタは死んじゃうが、この幕切れは蛇足のように感じた。

 安藤が“さようなら、過ぎし日よ”のアリアを正面切って唱うと、音色の変わらない弱点を露呈し、単調な歌に戻って終う。でも、続くアルフレードとの“パリを離れて”では、歌声に精彩を取り戻し、この方はデュエットやトリオ等の重唱で力を発揮する人と感じる。「椿姫」はタイトル・ロールの出来次第と云えども、日本人のヴィオレッタで他に誰の居ると考えれば、安藤に不満を訴えるのは無いもの強請りなのかも知れない。

 カーテン・コールでフローラの谷口睦美が、掌を上に向け招き寄せる仕草(山田花子のギャグで「カモ〜ン」ね)で、演出家を舞台へ呼び出したのには笑って終った。あれを自分で考えたのなら、相当にオモロイ姉ちゃんだと思う。

 上掲の写真は終演後のロビーでお見掛けした、明日のアルフレードの福井敬さんです。ご協力有難うございました。

ヴェルディ「椿姫」

<神奈川県民ホール・東京二期会・京響・神奈川フィル共同制作>
2013年3月10日(日)14:00/びわ湖ホール

指揮/沼尻竜典
京都市交響楽団
二期会合唱団
びわ湖ホール声楽アンサンブル

演出/アルフォンソ・アントニオッツィ
美術/パオロ・ジャッケーロ
照明/アンドレア・オリーヴァ
衣装/クラウディオ・ペルニゴッティ

<Bキャスト>
ヴィオレッタ/砂川涼子
アルフレード/福井敬
ジェルモン/黒田博
フローラ/小野和歌子
ガストン子爵/与儀巧
ドゥフォール男爵/北川辰彦
ドビニー侯爵/斉木健詞
女中アンニーナ/与田朝子
医師グランヴィル/鹿野由之
召使ジュゼッペ/村上公太
使者/迎肇聡
給仕/相沢創


 同じ演目を続けて観れば、二日目は舞台も落ち着いて鑑賞出来る。演出家はイタリア人で、それも国際的なキャリアを持つバリトン歌手出身らしい。一般的にイタリアでは、ドイツで猛威を振るう“ムジーク・テアター”も何処吹く風な、守旧的な舞台の多いように思う。しかも今回の歌手崩れの演出家には、歌手に負担を強いるような演技付けを、避ける傾向も見て取れる。

 ヴィオレッタは舞台の奥の方で歌わされ、客席に声の届き難かったり、頭を下向きに寝転がって歌わされたりもしたが、聴かせ処のアリアやデュエットとなれば、正面を向いて手を広げるだけとなる。色々と小細工しているように見えて、実は歌手に気持ち良く唱わせる事へ主眼を置いた演出と感じる。コーラスの個々のメンバーにも細かく演技を施し、群集処理にも手馴れたものがある。演出家としてのキャリアを始めたばかりの人だが、これまでの歌手としての舞台経験が生かされているのだろうか。

 これまで余り良い印象の無かった二期会のコーラスに付いても、今回の善戦奮闘は評価したい。また、今日は昨日と比べても、オケとコーラスの推進力はアップし、上演は盛り上がっていたと思う。ブンチャッチャの伴奏のリズムに、新奇な解釈等ある筈も無く、まずは元気良くオケを弾ませてくれれば、それで満足出来るのがヴェルディだろう。それに「椿姫」を振る指揮者には、最後まで歌い切るのに必死なタイトル・ロールを、慎重に支えて差し上げる責任もある。

 その役目を沼尻がキチンと果たし、ヴィオレッタのソプラノもそれに応えて華やかな歌唱を繰り広げれば、今度は逆にオケが歌手に煽られる段取りとなる。イタオペの楽しみとは、この歌手とオケの相乗効果の楽しさなのだ。ヴェルディを弾いて精彩を発揮する、京響は本当に良いオケと思う。このオケは「椿姫」を盛り上げるコツを心得ていて、既にヴェルディ演奏の伝統が確立されているのだろう。昨日は劇的に畳み掛ける場面は良くとも、ユッタリと長いフレーズでは情感に不足すると感じたが、それも所詮は歌手次第で伴奏は伴奏に過ぎないと、今日は改めて感じる。

 それはタイトル・ロールの砂川涼子の出来が、事前の予想を超えて素晴らしく、オケを煽るだけの力のあったからだ。最初の内、声を下から持ち上げる歌い方に不安を感じるが、これは直ぐに解消される。一幕の“ああ、そは彼の人か〜花より花へ”のアリアは、コロラトゥーラとアジリタのテクニックを駆使する見事な歌で、高音のピアニシモを確実に伸ばし切る力にも欠けていない。声量の豊かな上に、ソット・ヴォーチェの使い方も巧く、高低の音域の全てのフレーズがコントロールされている。また、曲のテンションの推移を良く捉えて、力の入れ処と抜き処をキッチリと心得た歌だった。これは最後の超高音にも挑んでくれるかと、ワクワクしながら待ち受けたが、安藤さんと同じく楽譜通りだったのは残念至極。でも、これは咄嗟の判断で回避したのでは無く、最初からそう決めていたように思う。

 アルフレードの福井敬はイタリア語の子音を長目に取り、軽くルバートするような独特の歌い回しで、これもヴェルデイには悪くないと思う。このややクサく感じられる唱い方は、愛の喜びを唱い上げるのには向かないが、ヴィオレッタへ金を叩き返すパセティックな歌にはハマる。でも、その後に軽率な行動を反省する処は、やはり遣り過ぎてクサかったりして落差は激しく、僕は今ひとつ安心して楽しめなかった。

 ジェルモンの黒田博の声からは、自ずと備わった威厳の感じられる。声量のあるバリトンでなければ、立派に聴かせる事は出来ない役で、黒田さんは情理を兼ね備えたジェルモンを造形したと思う。或る意味、単調な歌い方が謹厳実直の表現に繋がる事を、ちゃんと心得ているのだ。

 亡くなられた若杉弘さんはヴェルディを振る指揮者として、必ずしも適任では無かったように思う。後を継いだ沼尻も、その得意分野は若杉さんと重なる部分が多い。沼尻はこれまで「椿姫」を指揮する機会の無かった理由を、国内上演では殆んど外国人指揮者に任され、日本人は滅多に振らせて貰えないからと説明する。びわ湖ホール常連客の一人として、我等がマエストロの初めての「椿姫」が成功裏に終わった事を、今は素直に寿ぎたいと思う。

 上掲の写真は休憩中のロビーでお見掛けした、本日のプリ・マドンナの旦那様、村上敏明さんです。いやぁ今日の奥様の歌は、本当に素晴らしいですねぇと申し上げると、村上さんはニッコリ笑い「お蔭様で」と仰った。確かに謙遜の必要など無い、立派なヴィオレッタでした。村上さん、ご協力有難うございました。
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