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神戸市混声合唱団 春の定期演奏会

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<神戸市演奏協会第375回公演/“Transcriptions”>
2013年3月17日(日)14:00/神戸文化中ホール

指揮/佐藤正浩
ピアノ/河内仁志/多久江里子
神戸市混声合唱団

シューベルト/C.マレンコ編曲「美しき水車小屋の娘」D.795
1.Der Wandern さすらい/4.Danksagung an den Bach 小川への感謝
7.Ungeduld 苛立ち/11.Mein! 僕のものだ!/14.Der Jager 狩人
19.Der Muller und der Bach 水車職人と小川/20.Des Baches Wiegenlied 小川の子守歌
バーバー「The Monk and His Cat 猫と僧侶/
Sure on This Shining Night この美しい夜に/Agnus Dei〜弦楽のためのアダージョ」
レイナルド・アーン/佐渡孝彦編曲「L'Heure exquise 恍惚の時/D'Une Prison 牢獄から/
Mai 五月/Paysage 景色/Si mes vers avaient des ailes もしも私の詩に翼があれば」
信長貴富「くちびるに歌を」(全4曲)


 僕は「神戸市混声合唱団」の演奏を、兵庫芸術文化センター管弦楽団の定期で何度か聴いているのと、「ひょうごプロデュースオペラ合唱団」と名乗り、佐渡裕指揮のオペラに出演した際には毎回聴いている。要するに看板を架け替えるだけで、その実態は関西二期会会員を中核とした、ローカルなオペラ歌手の寄せ集め集団である。

 その寄せ集め合唱団が神戸市混声の名前で、年に二度の定期公演を行っているのは知っていたが、その実力は概ね想像の付くし、わざわざ神戸まで合唱団単独のコンサートを聴きに行く気にはなれなかった。でも、今日は他の雑魚共とは違う、オペラの専門家である佐藤正浩の指揮で、僕も出掛ける気になった訳だ。

 今日の会場の客入りは七分通りだろうか。客層は年配の女性が圧倒的に多く、若い方々の姿は殆んど見当たらない。この合唱団は神戸市室内合奏団と共に、市役所の外郭団体が運営する組織で、要するにオーケストラを聴きたい定期会員のおばちゃん達が、セットになっているコーラスの演奏会も、折角だし勿体無いからと聴きに来るらしい。まあ、金払ってまで合唱だけ聴きたがる人が、こんなに沢山いる筈無いよな。

 佐藤正浩は今回のプログラムを“Transcriptions”と題している。自分はグリークラブ出身だが、男声合唱はレパートリーに乏しい為、編曲物を取り上げざるを得ないと云う事情がある。だから今日は、歌曲や管弦楽からの編曲物でプログラムを組んでみた、と佐藤は説明する。その上で昨年の五月に急逝された、自分の師でもある畑中良輔先生が指揮する筈だった、昨秋の定期公演に予定していたプログラムで、レイナルド・アーンを追悼の意味で取り上げる。佐藤は概ねそんな意味の事を語った。

 まず、「水車小屋の娘」で、これはアカペラへの編曲物。一曲目の「さすらい」は旋律を歌うソプラノの後、冒頭の一句“Das Wandern”をテノールがレフレインする、如何にも通り一遍な合唱編曲。「小川への感謝」はテノールが旋律を歌い、他の三パートはオブリガードに回る。「苛立ち」と「マイン!」はソプラノを旋律として、ごく単純な四部合唱に仕立てただけ。「水車職人と小川」は女声と男声が交互に歌い、最後は皆んなでハモる。「狩人」だけポリフォニックなアレンジで、ソコソコ面白かった。

 この合唱編曲では旋律の民謡性を強調する形となり、何やら演歌っぽい雰囲気も漂う。そもそもドイツ・リートは、歌と伴奏の両輪が揃わないと始らない。リートをピアノ抜きでアカペラに編曲すれば、それは単なるドイツ民謡風の四部合唱曲でしかなくなる。このアレンジは原曲とは全く別物で、シューベルトの音楽を歌謡曲と同列に扱っていると思う。演奏も各パートの内部は一応揃っているし、ハーモニーも綺麗だが、だからどうと云う程のものでも無い。縦横共にそんなにピッタリ合っている訳でも無く、スコーンと気持ち良く声を出す事も無い、何となくモヤモヤした演奏だった。これこそ新国立劇場合唱団合唱指揮者の三澤洋史言う処の、「全国大会高校生の部に乱入したら、たぶん金賞は取れない」演奏の、恐らくは典型例と思う。

 バーバーも全てアカペラで、一風変わった不協和音の使い方の面白い一曲目と、二曲目はロマン派っぽいネッチョリした曲。休憩前の最後の曲は皆様ご存知、弦楽合奏からの編曲版アダージョで、これは緊張度の高い演奏だった。張り詰めたテンションを維持する指揮者の手腕はさすがだし、四十名の大人数でこの曲に必要とされる音の厚味もあった。

 ただ、バスとアルトの強力でハーモニーは安定するが、テノールは日本人っぽい声だし、ソプラノの声の力も然程では無い。オペラ歌手の集団であれば、もっと声を出して然るべきで、バランスを崩してでも思い切りやって欲しい。破綻を避けている感じで、ここは指揮者を煽る位の覇気の欲しい処だ。小じんまり纏めようとする傾向のあるのは、或いは下振り指揮者の志向かも知れない。偶にやって来て本番を振る指揮者よりも、日常的に指導する副指揮者の存在は大きいと思う。

 畑中さんへのオマージュとして演奏されたアーンは、これが今日の白眉の演奏だった。フワッとハモらせる甘い曲想は、この合唱団と指揮者の持ち味にハマるし、フランス語のデュナーミクの作り方も板に付いている。やや大袈裟なアゴーギグの揺らせ方も、指揮者が自家薬籠中のものとして曲に即応しているので、全くクサくは感じない。甘ったるい程に甘く、蕩けるように美しい演奏で否応無しに納得させられる、伝わるもののある演奏だった。

 最後は邦人合唱曲だが、何でこんなものを最後に持って来るのか、僕はプログラムを見て首を傾げていた。誠にベタな合唱曲なのに、指揮者は随分と大きく構え、希代の名曲みたいな調子で演奏を進める。でも、指揮者には大上段に振り被られ、プロのコーラスもその声を振り絞れば、聴く側は何となく丸め込まれて終う。縦をピタリと揃えたし、ピアニシモの緊張感も半端なく、曲の弱さなど何処かに吹き飛んで終う、典型的な演奏で曲を生かす音楽作りと感じる。プロ同士の顔合わせでこそ、初めて可能となる態の演奏だった。

 しかし、結局この演奏からは指揮者を含めた全員が、音楽に対し醒めている印象しかない。ひたすらに大音量を出すだけの外面的な演奏で、誰も音楽へ入り込んでは居らず、曲への共感など全く有りはしない。まあ、伴奏のピアニストだけは速いテンポの所為もあり、本気で弾いていたかも知れない。しかし、何もこんな曲にそこまで精根を傾けんでもと、僕は最初から最後まで苦々しい気分で聴いていた。実際の話、最後のフォルテシモなど途轍もない大音量で、聴衆は大喜びで拍手喝采していた。その意味で今日の観客は、見事に指揮者の狙いへ嵌められた訳だ。

 アカペラ一本槍のタリス・スコラーズに、あれだけの需要はあるのだし、更に精度の高いアンサンブルであれば存在価値はあると思う。だが、四十名もの大人数で歌われるコーラスが、果たして一般向けの娯楽として成立するのか、この疑念は聴き終えた後も解消されないままだ。そもそも神戸市混声合唱団の設立趣旨は、オペラ上演にあったらしい。だが、十八年前の阪神大震災以後、この外郭団体主催のオペラ上演は行われていない。室内合奏団との共演で、ロマン派以降の声楽入り大曲を演奏する方が、一般的な嗜好にも合うだろうし、同じく神戸で活動する、バッハ・コレギウム・ジャパンとの棲み分けも出来る筈と思う。

 コンサートの締めくくりのアンコールには、畑中良輔さんへの追悼として、シューベルトの「楽に寄す」が演奏された。ここで改めて畑中さんに哀悼の意を捧げたい。

フェニーチェ歌劇場ガラ・コンサート

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<フェスティバルホール柿落とし公演/第51回大阪国際フェスティバル>
2013年4月10日(水)19:00/フェスティバルホール

指揮/チョン・ミョンフン
ソプラノ/アマリッリ・ニッツァ
テノール/マッシミリアーノ・ピザピア
テアトロ・ラ・フェニーチェ管弦楽団
テアトロ・ラ・フェニーチェ合唱団

ロッシーニ「アルジェのイタリア娘」序曲
プッチーニ「愛の二重唱/或る晴れた日に(蝶々夫人)/冷たい手を/
私の名はミミ/愛の二重唱(ラ・ボエーム)/誰も寝てはならぬ(トゥーランドット)」
ヴェルディ「運命の力序曲/虐げられた祖国(マクベス)/
行け我が想いよ、金色の翼に乗って(ナブッコ)/凱旋行進曲(アイーダ)」


 惜しまれつつ閉館したフェスティバルホールが、五年振りに中之島へ戻って来る。その歳月は待ち遠しく長かったような、時の経って終えば短いような…。このホールの建て替えの間、大阪は海外からのオペラ引越し公演に度々素っ飛ばされ、みんな味気無い思いをさせられていた。その分、僕は無駄な出費を抑えられた、と云う側面もあるけれども…。そう云った訳で皆さん待望の柿落し公演は、遥々ヴェネツィアからお越し頂いたフェニーチェ座ご一行様に拠る、ガラ・コンサートでの幕開けと相成った。

 しかし、言っては何だが、今日の客層はホント最低だった。まず、このテのイヴェント的な催しの通例として、招待客(自腹を切っていない連中)が大挙して押し掛けている。オペラなど聴いた事も無さそうな、この連中がまた矢鱈にハイ・テンションで、その言動には相当に鬱陶しい物がある。更に加えて、協賛企業のお偉いさん達が一同集結する為、これを出迎える下っ端共も大量に動員されている。ごった返すロビーには、首からカードぶら下げた連中がズラリと並び、そこかしこに名刺交換するオッサン共の居て、何だか訳の分からないカオス状態となっている。

 これを約めて言えば、落ち着いて音楽に耳を傾ける雰囲気は無い、と云う事になる。ミョンフンの振るオペラを聴きたいだけの、僕の居場所は見当たらない。更に開演前の舞台にもお偉いさんが出て来て、長ったらしく無内容な口上を述べる。そもそもオケのメンバーは起立し、あんたに敬意を表したのだから、おまえもちゃんと答礼しろよな。

 それでも本日のマエストロが舞台上手から現れ、ロッシーニの軽快な音楽でコンサートを始めれば、僕も気分を取り直す。ミョンフンのリズムは切れ味鋭く、ロッシーニ・クレシェンドもキッチリ盛り上げる。でも、音色は重目で然程に弾まず、音楽の愉悦感にはやや不足する。

 昨年、チケットを購入した時点で、曲目も歌手も未定だったガラコンだが、その後ソプラノはカルメン・ジャンナッタージオと云う人と発表された。それが直前の交代で、アマリリ・ニッツァさんの登板となった訳だが、この方の経歴を見ると六年前、パレルモのマッシモ座来日公演「シチリア島の夕べの祈り」で、エレナ公女を歌ったとなっている。それならば、僕は既にニッツァさんのお声を拝聴している訳だが、毎度お恥ずかしい話ながら、全く記憶には残って居りませんです。

 ニッツァはフォルテでスピントする声に輝きが乏しく、やや野放図な発声だが、力の籠もった美しいピアニシモはある。テノールのピザピアの声はオケに埋れ勝ちで、やはりスピントする高音に明るさの望まれる。蝶々夫人のデュエットでは、まだ二人とも喉の温まっていないのか、声はオケを突き抜けては聴こえて来ず、ややバランスの悪い印象を受ける。それと、この二人は並んで立つとニッツァの方が頭ひとつ背が高く、見た目は今ひとつ芳しくない。

 ピザピアは“冷たい手を”でキチンとハイCを出したし、普通に良いテノールとは思う。だが、声の音色に変化の乏しく、歌に工夫が足りない。オケのピアニシモの間は声も通るが、やはりフォルテになると埋もれるので、もう少しイタリアっぽい晴れやかな声が欲しい。ニッツァもミミにはやや重い声質だが、こちらはエンジンの掛かって来たのか、ピアニシモからフォルテまで持って行くクレシェンドで、なかなか力のある処を聴かせてくれる。

 休憩後の「運命の力」序曲では、冴えて引き締まった美しい音色を弦から引き出す、指揮者の手腕が素晴らしい。全員、前のめりの力の籠もった熱演で、後半の演奏への期待を高める。ニッツァも満を持した蝶々夫人のアリアで、エンジンを全開モードとし、フォルテの音量でもオケを突き抜け、声を客席まで届ける。ただ、フレージングにタメを作り、レガートに歌わないクセはやや気になる。

 次に総勢八十名の合唱団が登場。女声より男声の方がやや人数の多いのは、土曜日のリゴレット男声合唱要員のようだ。「マクベス」は弱音主体のコーラスだが、精度の高いアンサンブルとは言い難い。ソプラノの声に輝きの乏しく、くすんだ音色で表現力に欠け、演奏のテンションも今ひとつ挙がらない。イタリアでは国歌に準ずるとされる、「ナブッコ」は合唱団全員が暗譜で歌う。この曲へのミョンフンのルバートの付け方は独特で、指揮者の手の内に入った芸には絶妙のものがあった。

 ソプラノの“或る晴れた日に”に対し、テノールは“誰も寝てはならぬ”とは、誠にベタな選曲である。ピザピア君もこの為に声を温存していた様子で、フル・パワーの実力を聴かせてくれる。でも、やはり単調な歌い振りで、もう少し音色の変化を意識して欲しい。如何にも気持ち良さ気に、ハイCを思い切り出して見せれば、今日の観客は拍手喝采で大喜びする。でも、これ位は歌えて当然だし、僕は及第点ギリギリの出来と思う。

 プログラムの最後は「アイーダ」で、専用の直管形トランペットは楽器も奏者も現地調達らしく、日本人六名のバンダが吹いた。勿論、演奏は曲が曲だけに額面どおり盛り上がるが、ミョンフンからは音楽に今ひとつ乗り切れていない印象を受ける。まあ、指揮者も人間だし、そんな日もあるだろうが、それよりもガラコンと云う形式自体、ミョンフンの音楽性に向いていないと感じる。つまり切れっ端みたいな短い曲を、打ち上げ花火みたいにドカンと盛り上げるのは、全曲を緻密に分析して進めるミョンフンには向かないと思うのだ。

 今日の観客は「アイーダ」にも大喜びしたが、アンコールの「ウィリアム・テル」序曲は更に馬鹿受けした為、その後“金つば”も繰り返し演奏された。実際の話、今日の客筋で柿落としをやるなら、中村紘子か佐藤しのぶでも呼んで大フィルに伴奏させるガラコンをやれば、それで充分だったと思う。僕としてはそれを終えてから、チョン・ミョンフンの名前位は承知している人達と、ユックリ落ち着いて新しいホールの門出を祝いたかった。もしかすると、ミョンフンも今日の客席の雰囲気を察知して、ヤル気の失せていたのかも知れない。

 上掲の写真はお名前は愚か、オケとコーラスのどちらのメンバーかも存じ上げませんが、客席まで降りて来てお互いを記念撮影されていた、フェニーチェ座団員のお二人です。ご協力有難うございました。

ヴェルディ「オテロ」

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<ヴェネツィア・フェニーチェ歌劇場日本公演2013/ヴェルディ生誕二百年記念>
2013年4月11日(木)18:30/フェスティバルホール

指揮/チョン・ミョンフン
テアトロ・ラ・フェニーチェ管弦楽団
テアトロ・ラ・フェニーチェ合唱団
ラピスファミリー合唱団

演出/フランチェスコ・ミケーリ
美術/エドアルド・サンキ
照明/ファビオ・バレッティン
衣装/シルヴィア・アイモニーノ

オテロ/グレゴリー・クンデ
デズデーモナ/リア・クロチェット
ヤーゴ/ルーチョ・ガッロ
副官カッシオ/フランチェスコ・マルシッリア
侍女エミーリア/エリザベッタ・マルトラーナ
貴族ロデリーゴ/アントネッロ・チェロン
前総督モンターノ/マッテオ・フェッラーラ
使者ロドヴィーコ/マッティア・デンティ


 序奏の始まったオケピットからは、既にして只ならぬ気配の立ち昇る。やはり、ヴェルディ舞台上演となれば、ミョンフンの気合の入り方も違うと感じる。

 星座をデザインした紗幕の向こうでは、艦隊を率い凱旋したオテロを、キプロス島の民衆が歓呼して迎える戦勝のシーンが始る。今日のコーラスの出来は、これが昨日と同じ面子の合唱団か!と、訝られる程に輝かしい声がある。何だか良く分からないが、気合の入れようで声自体も変わるらしい。続く場面は白いベッドを三つ置いた兵舎の中で、ヤーゴがロデリーゴにオテロへの不満を焚き付ける。やはりヤーゴの悪巧みで、カッシオとモンターノが争う場面での兵隊さん達は白い制服で、舞台全体の色彩トーンも白に統一されている。演出家のモブ処理も手堅く、びわ湖ホール製作の「椿姫」も同じで、イタリアでは大人数を捌く方法論を共有しているのかも知れない。

 舞台の真ん中に大きな箱を置き、これをオテロとデズデーモナの寝室としている。正面から中の見える、リカちゃんハウス式セットで、この箱の裏側にも星座が描かれている。背景となるセットも星座のデザインで、箱が後退りすると舞台奥のセットに吸収され、その一部となる。ホロスコープをモティーフとするのは、ベタに人間の運命の象徴だろう。箱の表側を見せると、オテロとデズデーモナのダイアローグが歌われ、裏を向けるとヤーゴがオテロの嫉妬心を煽りに出て来る。大掛かりな舞台転換の無い代わりに、随時にセットを動かして効果を揚げて、良く工夫されていると感じる。

 二幕のマリア様のお祭りの場面は、エキストラの日本人に拠るマンドリンを伴奏に、やはり現地調達された児童合唱団と、これだけは自前の女声合唱が歌い、キプロス島の民族衣装風で彩りを添える。また、場面毎に異なった色調の照明が使われ、白い箱の内部を青や赤や金ぴかの色合いに染める。照明と衣装を工夫する舞台作りには、経費節減の目的もあるのだろう。才気煥発な処は感じられないが、人物の動きも工夫されて観客の興味を逸らさない、如何にもイタオペらしい演出と感じる。

 一幕から二幕に掛け、ミョンフンはレガートなリズム感で、ほぼイン・テンポを保ちながら音楽を進める。歌手をサポートしながら、勘所はキチンと締めつつ、どちらかと云えば軽やかな風情がある。ドラマの緊迫感が高まる三幕から、次第に畳み掛けるように盛り上げるのも計算通り。ヴェネツィアからの使者を迎え、オテロの錯乱する広場の場面に至り、ミョンフンは持ち前のテンペラメントを一気に吐き出す。

 一転して四幕では、指揮者の悲痛な情感が憑依したように、オテロとデズデーモナの二人の歌からも、静かに込み上げるような情感が溢れ出る。全体を俯瞰した分析を元に、それぞれの局面でテンションを揚げたり緩めたりしながら、やがてオペラをカタルシスへと運んで行く。ミョンフンの考え抜かれた音楽作りに、聴衆は否応無しに巻き込まれる。これは凡百のイタオペ指揮者がやるような、煽り立てるだけの演奏では決して無い。

 僕はグレゴリー・クンデを五年前、びわ湖ホールでのロッシーニの方の「オテッロ」で、やはりタイトル・ロールを聴いている。重目のリリコ・スピントの声質なので、ヴェルディの方も歌える訳だが、この人は来年還暦を迎える長いキャリアを、これまで専らベルカントの分野で築いて来たようだ。芯の太い声にも関わらず、練達したアジリタの技術があるので、ペーザロでロッシーニの主役を張る事の出来る訳だ。実際の話、重いスピントのテノールがコロコロと声を転がすのは、他に類の無い聴き物だった。そのロッシーニ歌いがヴェルディの、それもドラマティコの役とされるオテロを、どのように歌いこなすのかが、今回のキャスティングの勘所な訳だ。

 実際に聴いた印象を言えば、クンデの高音部はトランペットの鳴り渡るように輝かしいが、中音域は嗄がれたような声で、しかも泣き節のように捏ね回すフレージングが魅力に欠ける。今ひとつ不完全燃焼と感じるが、四幕に至ってパセティックにデズデーモナを追い詰める歌で、ようやく彼の声も精彩を放ち始める。その後のモノローグではクンデ君も役に没入するし、こちらもその気になって来るので、嗄がれ声のままでも然程には気にならなくなる。クンデ君はインタビューに答えて、「長年かけて声の中音域を育て、ヴェルディを歌うのを待っていたのです」。「高音は保ったまま中音域も充実したということです」と語っている。成程、ベルカントのテノールがヴェルディに挑む場合、超高音よりも中音域の充実が問題となる事が、僕にも良く理解出来る歌い振りだった。

 デズデーモナのクロチェットは声に力のあるリリコで、ソット・ヴォーチェを美しく伸ばすテクニックも備えている。「柳の歌」でキメたフォルテシモ一発は凄かったが、総じてドルチェに優しい歌声で、パセティックになり過ぎない事に好感を持てる。自らの声楽的な能力の高さを、これ見よがしにひけらかさず、ヴェルディの音楽に対し節度を保つ姿勢も素晴らしいと思う。アジリタもあるようだし、恐らくはベルカントからヴェリズモまで、何でも歌える技術のある人だろう。

 ヤーゴのガッロは如何にも悪役ぶって凄んだりはせず、自分の持ち声で聴かせようとする。ノーブルな声質でスタイリッシュな歌は、さすがにロッシーニやモーツァルトも唱う人らしいと感じる。演技面でも紳士的に振舞う分、ヤーゴの偽善や陰険さを体現出来たと思う。ただ、もう少し声量は欲しいと感じられたので、今回は必ずしも本調子ではなかったのかも知れない。

 歌手の顔触れはビッグ・ネームを揃えたとは言い難くとも、指揮者に人を得て座付きオケがその実力を発揮すれば、充分に聴き応えのあるヴェルディ上演となる。更に昨日とは打って変わり、今日の会場には静かに音楽に聴き入る雰囲気があった。純粋にフェニーチェ座の「オテロ」を聴きたい観客と共に過ごせて、今日は大満足の一夜となった。

 それと新しく出来たホールで、まだ観客も勝手が分からない。僕の座った三階席の最後方から二列目で、隣りに座ったオバチャンが、後ろの席の客に「あたし、演奏中に身体が前のめりになかも知れへんけど、ちゃんと舞台見える?」と声を掛けていた。ところが、その後ろの男性客が陰険な野郎で、「そんなマナー違反は絶対に止めて下さい!」と言い、気色ばんで怒り出す。でも、オバチャンは全く怯まず、前のめりの姿勢になって見せて「この位やったらどない?言うて貰わな分かれへんわ」とかやってて、さすがに大阪のオバチャンと、僕は横で大笑いしていた。考えて見れば、これだけ事前にデモンストレーションして置けば、自分の前方の席でも前屈みになる奴は居なくなる訳で、これは意外に戦略的なのかも知れないとは、後から気付いた事だった。

ヴェルディ「リゴレット&椿姫」

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<ヴェネツィア・フェニーチェ歌劇場特別コンサート/演奏会形式>
2013年4月13日(土)14:30/フェスティバルホール

指揮/チョン・ミョンフン
テアトロ・ラ・フェニーチェ管弦楽団
テアトロ・ラ・フェニーチェ合唱団

ジルダ&ヴィオレッタ/エカテリーナ・バカノワ
マントヴァ公爵&アルフレード/シャルヴァ・ムケリア
リゴレット&ジェルモン/ジュリアン・キム
マッダレーナ/エリザベッタ・マルトラーナ
フローラ/クラウディア・エルネスタ・クラリチ
ガストン子爵/ディオニージ・ドストゥーニ
ドゥフォール男爵/エマヌエーレ・ぺドリーニ
ドビニー侯爵/エミリアーノ・エスポジト
女中アンニーナ/サブリナ・オリアーナ・マッツァムート
医師グランヴィル/ニコラ・ナレッソ
召使ジュゼッペ/ロベルト・メネガッツォ
使者/ジャンパオロ・バルディン
給仕/ジュゼッペ・アッコラ

「リゴレット」より
前奏曲/二重唱「愛は心の太陽だ」/アリア「慕わしき御名」/
合唱曲「静かに、静かに」/アリア「彼女の涙が見えるようだ」/
四重唱「いつかお前に会ったような気がする」/アリア「女心の歌」
「椿姫」第二幕より
アリア「燃える想いを」/二重唱「天使のように清らかな娘」/
アリア「プロヴァンスの海と陸」/フィナーレ


 個人的に“チョン・ミョンフン祭り”として楽しんでいる、フェスティバルホールの開幕シリーズも三日目で最終日。これまでの二日間はソワレで、今日は初めてのマチネとなる。その土曜日の早朝、大阪で震度四の地震が起こる。十八年前の大震災とほぼ同時刻で、しかも震源地は淡路島との事。これは日本列島全体で、地震の多発する時期に差し掛かっているのかも知れないと思う。

 今も毎日、福島のテレビ・ニュースでは天気予報と共に、県内各地の「今日の放射線量」を伝えている。“地震大国”日本に、五十基もの原子力発電所を作った事自体が間違っている。そうフクシマ・ダイイチの事故で反省した筈が、最近は喉元過ぎれば何とやらで、賢し気に「原発を再稼動させないと、経済が立ち行かない」と言い募り、原発全廃の主張を感情論として蔑む意見が幅を利かせているように思う。ドイツに出来た事が、何故に日本では出来ないのか。今は新しく組織された、原子力規制委員会に期待するしかないとは、全く情け無い話だ。

 地震の影響でJRも私鉄も一旦運転を見合わせたが、幸い直ぐにダイヤ通りの運行に戻ったようだ。念の為、フェステバルホールのサイトを覗くと、公演は予定通り行うとあった。交通機関に影響が出ているので遅れないように来いとの、要らぬお節介も書いてあった。

 コンサートは前半の「リゴレット」と、後半は「椿姫」をハイライトで演奏する。前奏曲で始まる「リゴレット」の方は、専らマントヴァ公とジルダが歌い、タイトル・ロールはアリア“悪魔め鬼め”すら歌わず、やや肩透かしに感じる。“静かに、静かに”と大声で歌い合う男声合唱も、箸休めには良いが倍音に乏しく、もう少し輝かしい声のトップ・テノールで聴かせて欲しかった。

 マントヴァ公爵のシャルヴァ・ムケリアは端正な歌を唱うテノールで、常にイン・テンポを守り、ポルタメントやグリッサンドは最小限しか使わない。ただ、リズムに音楽的な揺れの無い上、声の音色の変化も一切無い。この方はハイCをキッチリ出すし、変に歌い崩したりしない、高い技術力のあるテノールとは思う。だが、ちゃんと強弱を付けて、唱い回しに工夫はあっても、歌そのものに全く感情が籠っていない。結局、演奏に滲む情感とは音色の変化、つまり倍音構造の変化でしか表現出来ないと気付かされる。

 ジルダのエカテリーナ・バカノワは柔らかく暖かい声質は良いが、高音部で度々フラット気味になる。コロラトゥーラのテクニックを手の内にしていない、まだ未完成なソプラノと感じる。ヴィオレッタではポルタメントを多用し、遣り過ぎる程にルバートして、パセティックな表現力に長けた歌を唱う。ただ、この歌い方で一幕のアリアを唱いこなすのは、まず無理だろうと思う。

 「リゴレット」ではカルテットのみを歌ったジュリアン・キムだが、「椿姫」の方はジェルモンで、こちらはタップリと歌って頂く。剛毅な声質のバリトンで、絵に描いたように謹厳実直な歌い振り。豊かな声量を生かした振幅の大きなデュナーミクと、音色の変化を意識した、立派な表現力がある。「プロヴァンスの海と陸」は超有名アリアだが、往々にして単調になり勝ちな曲で、これだけの声量が無いと歌いこなせないのだと分かる。まだ若い人のようだが、既に充分な実力者で、これは前途洋々の逸材と思う。

 ミョンフンはオケから冴々とした美しい音色を引き出す。パウゼでタメを作り、思い切ったルバートやアチェルラントを仕掛けても、この人の演奏は決してアザトくはならない。ミョンフンには絶対音感と同じような、“絶対リズム感”みたいな能力のベースにあって、常に正確且つ清潔なテンポを保っているからと思う。主役歌手は三人ともリズムのキッチリしていて、そこを唱い崩すような歌手では、ミョンフンとの共演は難しいのだろう。

 「リゴレット」は添え物扱いだったが、「椿姫」二幕は冒頭部分を割愛しただけで、普通はカットされる「プロヴァンスの海と陸」のカバレッタも入れ、ほぼ全部演奏された。何故、途中から始めたのかは知らない。僕はミョンフンの振る「椿姫」を四年前、やはり演奏会形式ではあるが全曲を聴いている。その際も一昨日の「オテロ」でも、ミョンフンは興奮を煽るのでは無く、冴々とした美しい音色と、静かに滾るような情熱とで聴かせてくれた。弦楽陣からは一心不乱に弾いている様子を窺がえるし、オーボエやフルートの木管陣は達者な技量で持って、それぞれ指揮者の要請に応え、フィナーレを大いに盛り上げてくれた。

 新装成ったフェスティバルホールは正面玄関を入ると、赤い絨毯を敷いた大階段を登ってホール入口へ向かう仕掛けで、このアプローチはコンサートへの期待感を高めて悪くない。でも、エントランスを右手に回り込み、一階席へ登るエスカレーターは無駄に長過ぎ、グルリ回り込まないとホール本体へ辿り着けない、建物の構造自体に疑問を感じる。更にメイン・ロビーの薄暗いのにも首を傾げる。そもそも狭苦しい上、四ツ橋筋に面した一角は壁に覆われ、窓は両端に小さいのがあるだけで、薄暗い空間には閉塞感すら漂う。これは無駄に広いエントランスを階下に作った煽りで、メイン・ロビーを狭くして終ったように思う。これではマチネでもソワレでも、会場の雰囲気は何も変わらない。

 三千人近い収容能力のあるのに、脱出口が一方向だけなのも不安だ。何故、両側に階段を付けなかったのか不審に思う。ホールの音響自体は悪くないが、これもコンクリートの乾き切るまで、本当の処は分からない。これならば湖に面し、ロケーション抜群のびわ湖ホールの方が遥かに良いし、広々として開放的なロビーのある兵庫芸術文化センターにも劣る。誠に残念ながら、新フェスティバルホールは手直し程度では処置無しの、建物として根本的に出来損ないと思う。

ベッリーニ「夢遊病の女」

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<関西二期会第78回オペラ公演/プレミエ>
2013年5月4日(土)14:00/吹田メイシアター

指揮/ダニエーレ・アジマン
大阪交響楽団
関西二期会合唱団

演出/カルロ・アントニオ・デ・ルチア
美術・衣装/アレッサンドラ・ポリメーノ
照明/西川佳孝

アミーナ/日紫喜惠美
エルヴィーノ/ジョヴァンニ・ボッタ
ロドルフォ伯爵/片桐直樹
女将リーザ/佐竹しのぶ
養母テレーザ/嶋田友里恵
農夫アレッシオ/大谷圭介
公証人/角地正直


 昨年の「アドリアーナ・ルクヴルール」で実績のある指揮者に、演出家とプリモ・ウォーモにもイタリア人を招聘した、関西二期会の意欲的な公演である。その証拠に何時もはガラガラの会場が、今日は八分通り埋まっている。でも、これにはテノールのイタリア人歌手起用の効果が、最も大きいように思う。皆様、関西にはロクなテノールの居ない事を、先刻ご承知な訳です。

 序曲の終わると場面は、スイスの片田舎にある長閑な山村。丹念に作り込まれ、随分と金の掛かっていそうなセットは書割り風で、本日のメルヘンチックな演出コンセプトを明示している。そこで歌い出す、宿屋の女将リーザの佐竹しのぶは随分と力んでいて、無理やり持ち上げるようにフォルテを絞り出す。喉に力を入れれば音色も単調になるし、良い事など何も無く、これでは余りにも張り切り過ぎだ。

 続いて唱うタイトル・ロールもライバルに煽られたのか、最初のアリア“何と晴れやかな日”は、文字通り力み返った歌となる。年に一度の晴れ舞台は、おらが村の喉自慢大会と云った趣で、これには全く先の思い遣られる。でも、助っ人外国人の出て、来て“指輪を受けて下さい”と“そよ風にも嫉妬を感じ”の、二つのデュエットを一緒に唱うと、さすがに興奮も鎮まったのか、或いは相方の脱力した発声法に感化されたか、日紫喜の喉からも力は抜けて来る。但し、やはり音色の変化は無いので、その辺りの修正は必要と感じる。

 さすがにロドルフォの片桐直樹は肩の力を抜き、アリア「懐かしい風景」を歌えている。この方は何と云ってもベテランで場数を踏んでおり、生涯に何度も無い晴れ舞台に力み返る、ソプラノ歌手とは年季の入り方が違っている。また、ピットから伝わるオケのリズムに応じているのも良く分かる、余裕綽々の歌い振りだった。

 一幕の二つのデュエットと、二幕ではアリア“全ては終わった”を歌う、エルヴィーノのボッタは安定した発声で、誠に端正な歌唱を披露する。但し、その歌には殆んど表情の感じられず、ルーティン・ワークのように聴こえる嫌いはある。完璧に力の抜け切った発声で、関西二期会の女声陣とは対照的だが、もう少し頑張っても良かろうにとも思う。この方の経歴を読むと、ペーザロやエクサン・プロヴァンスでロッシーニの主役を務めた経験もある、ベルカント・オペラを主なレパートリーとするテノールと分かる。

 本人のコメントに拠ると、「夢遊病の女はテノールにとって最も難しいレパートリーです」。「声楽的に高度な技術と熱い想いが必要なのです」となるが、技術の方は兎も角として、“熱い想い”には大きな疑問符の付く歌い振りだ。更に「私には沢山の門下生が日本にいます」。「彼らに声楽的な技術、そしてベルカントを教えるのです。それこそ私の大いなる情熱ですから」とも述べていて、どうやらこの方は歌手業よりも、教師としての役目に重点を置いている人のようだ。そう考えれば、このテノールの教科書通りみたいな発声も、如何にも声楽教師らしいと納得出来る。でも、それなら今日のソプラノにも、ちゃんと教えてやれよな。

 二幕四場に用意されたセットは三つで、最初と最後は同じ場面。その間にリーザの宿屋の室内場面と、村外れの森の場面とを挟む設定。三つのセットは何れも、銭湯のペンキ看板のように泥臭いが、それはそれで別に構わないとは思う。だが、その前で繰り広げられる、群衆としてのコーラスの演技には辟易させられる。これは演出家本人の弁に拠ると、「少し間の抜けた田舎者達は、足並みの揃ったりアクションを見せます」。「対比としてソリスト達の性格付けは、ベッリーニの音楽の完璧な表現により、非常に際立ったもの」となるそうである。

 これを私流に要約すると、見ていて気恥ずかしい程にクサイ演技と、突っ立ったまま歌うだけのソリストとの対比があるだけ。今回の演出に費用を掛けたのは良く分かるが、これは掛けるべきポイントを決定的に間違っている。わざわざイタリアから演出家を呼んで、この体たらくには、全く溜息しか出て来ない。でも、合唱団としての演技は酷かったが、歌の方は結構良かった。コーラスも重要な役回りを務めるオペラだが、凡庸な演出プランに右往左往している印象しか残らなかった。

 リーザは最後の場面で、二つ目の短いアリアを歌う。さすがに過度な力みは取れたし、アジリタの技術も主役よりはあると思うが、如何せん声の音色が重い。アミーナも最大の聴かせ処、カヴァティーナ・カバレッタ形式のアリア“ああ、信じられない〜思いもよらぬ喜び”で、頻発する超高音を力で押し切るが、ソット・ヴォーチェでも力は抜けず、如何にも単調に聴こえる。関西レヴェルで考えれば良く歌ったとも云えるが、ベルカントらしい軽さの表現は置き去りとなる。今日のソプラノの二人にはベルカント・オペラを歌う使命感のようなものが、根本的に欠けているように思われる。

 合わせの練習が不足気味だったのか、オケとコーラスでリズムのズレ掛けたり、縦の揃わない局面も多々あった。でも、ブンチャッチャの伴奏でも、指揮者は軽やかなリズムを保ち、旋律を優雅に歌わせる。ただ、オケの力量不足もあり、流れるように美しいとまでは云えないのが残念。それと、この指揮者はオケから綺麗な音を引き出せても、勘所を盛り上げる馬力に欠けるが、これは元々そのような志向を持たないのかも知れない。

 男声主役の二人は手堅い処を聴かせたが、今日は兎に角ソプラノの二人の力み過ぎ。ベッリーニでは息の長い旋律を美しく歌い上げ、勘所ではコロコロと声を転がし、尚且つロマンティックな情感を込めねばならない。これは物凄く難しいオペラで、関西レヴェルのソプラノ歌手に取って、このハードルは些か高過ぎた。人材の払底に鑑み、テノールに客演を呼んだ点は評価するが、観客動員を考えればソプラノには、地元からの起用以外の選択肢は無かったと云う事だろう。

 ベッリーニは難しい。美声とテクニックと情熱と、この三つの要素をバランス良く備える事を求められる、ベッリーニの難しいのは当然の話だ。でも、それを言い出せばモーツァルトの上演など、関西では不可能になるけれども…。

日本センチュリー交響楽団第181回定期演奏会

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<精霊たちの描くメルヘン〜至高のシェイクスピア>
2013年5月16日(木)19:00/ザ・シンフォニーホール

指揮/沼尻竜典
ソプラノ/幸田浩子 
メゾソプラノ/林美智子
語り/檀ふみ
台本/松本隆
日本センチュリー交響楽団
ザ・カレッジ・オペラハウス合唱団

モーツァルト「交響曲第31番“パリ”」K.297
メンデルスゾーン「真夏の夜の夢〜序曲 op.21/劇音楽 op.61」全曲


 コンサート前半はモーツァルトのシンフォニー。年を取るに連れ音楽的に偏向し、モーツァルトも声楽曲しか聴かなくなった僕は、シンフォニーも随分と久し振りになる。沼尻は強弱のメリハリとリズムを際立たせ、レガートは殆んど使わず、スフォルツァンドを駆使する活気に溢れた解釈。指揮のアクションも大きく、モーツァルトを振っているようには見えない程で、これはメンデルスゾーン寄りの、ロマン派風モーツァルトだろうか。

 休憩後はメイン・プロの「真夏の夜の夢」。英語のミッド・サマーは“真夏”では無く、一年中で昼間の最も長い日、つまり“夏至”の事とは、以前にもこのブログに書いた。「真夏の夜の夢」は、初めてシェイクスピア全集を翻訳した坪内逍遥の邦題だが、福田恒存が「夏の夜の夢」と改めて以後、戯曲の方はこれでほぼ統一されているようだ。でも、クラシック界は前例踏襲主義で、メンデルスゾーンの劇音楽の場合、今も“真夏”の標題で通っている。

 そもそも“劇音楽”と云う曲種自体、良く分からない処がある。恐らくはストレート・プレイとしての上演に、劇中音楽として使われるのでは無く、今回のような十四曲から成る組曲の曲間に、演技者の語りを挟み進めるのが、オリジナルな遣り口なのだろう。つまり、これはシェイクスピア演劇から離れた、メンデルスゾーンの“作品”と考えるべきものだ。従って朗読劇としての上演の為、改めて原作戯曲を基にした台本を作る必要の生じる訳だ。

 作詞家の書いたその台本は、要するに「真夏の夜の夢」の粗筋で、これを女優の檀ふみが語る。しかし、彼女の朗読を聞いていると、単なる戯曲の粗筋を語り、一時間強の長丁場を持たせるのは、相当な難事と分かる。この人の場合、基本的にアルトの音域で喋り、妖精だかパックだかの科白には甲高い裏声を使う、只それだけなのである。始めから終わりまで、座ったままで立ち上がりもせず、また身振りも殆んど入れず、メリハリに乏しい台詞回しで、ただ坦々と台本を読み上げるのみ。多くの聴衆が睡魔に襲われ、僕も正直退屈させられた。

 演奏に付いて、木管合奏のハーモニーが上手くキマらないのは気になる。恐らく練習不足だろうが、これはフルートの押し下げているのか、或いはホルンの上ずっているのか、そこまでは僕にも分からない。弦楽陣は細かい音型も良く揃えたし、これで演奏の雰囲気は出せていたと思う。でも、もっと情緒纏綿たる演奏を期待したが、案外大人しかったので、指揮者にはもっとハチャメチャにやって欲しかった。曲間を繋ぐ朗読は、ただ退屈なだけだし。

 短い出番しかないソリストには、特に言及する程の事も無い。ただ、産休明けの林美智子さんの、顔は小さいままなのに随分と恰幅の良くなられたのには、やや驚かされる。十二名の女声コーラスも仕事量は僅かだが、キリキリと合わせるのでは無い、自然に合う感じの巧みなアンサンブルで、プロとしての技量を示してくれた。

 僕の大好きなメンデルスゾーンを沼尻の振る、それも稀な全曲演奏の機会ではあったが、やはり朗読で演奏自体を盛り上げるのには無理のあると感じる。この超有名曲に小細工など必要無く、音楽そのもので真っ向勝負してくれれば良いと、改めて感じる。

 上掲の写真は休憩中のロビーでお見掛けした、日本センチュリー響首席指揮者への就任の決まった飯森範親さんです。ご協力有難うございました。

タリス・スコラーズ2013日本公演

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<結成四十周年記念ツアー/ベスト・オヴ・タリス・スコラーズ>
2013年6月8日(土)14:00/兵庫県立芸術文化センター

ザ・タリス・スコラーズ The Tallis Scholars
指揮/ピーター・フィリップス 

ソプラノ/ジャネット・コックスウェル/エイミー・ハワース
エイミー・ウッド/グレース・ディヴィッドソン
アルト/キャロライン・トレヴァー/パトリック・クライグ
テノール/マーク・ドーベル/クリストファー・ワトソン
バス/ロバート・マクドナルド/ティム・ホワイトリー

ラッスス「Alma redemptoris mater 麗しき救い主のみ母」(八声)
ジョスカン・デ・プレ「Missa pange lingua ミサ・パンジェ・リングヮ」(四声)
アレグリ「Miserere ミゼレーレ」(九声)
タリス「Miserere nostri 主よ、哀れみ給え」(七声)
ジョン・タヴナー「The lamb 子羊」
ヴィクトリア「Lamentation Sabbato sancto 聖土曜日のエレミア哀歌」(六声)
バード「Tribue domine 主よ、認め給え」(六声)


 今回の日本ツアーは、関西での三公演を含め七公演を行う。その皮切りとなる兵庫芸文の客席は、今日もほぼ満席に近い盛況を呈している。そう云えば、ジュルディ・サヴァールの無伴奏ガンバ演奏会と、これはまたエライ地味目のチケットが、幾ら四百席の小ホールとは云え即日完売だそうで、ここ兵庫芸文の古楽コンサートへの動員力には、実に端倪すべからざるものがある。

 コンサートはラッソのマリア讃歌で始まる。八声のドッペル・コールで、十名のメンバーをソプラノ二名づつと、後は一パートへ各一名を割り振っての演奏で、毎度お馴染みの完璧なチューニングを披露する。続くジョスカンの四声ミサは、各パート二名づつ八名での演奏。グレゴリオ聖歌“舌よ歌え”を定旋律とする超有名曲だが、生演奏でジックリと聴く機会は少ない。定旋律をテノールに固定せず四声部に受け渡す通模倣様式に、ホモフォニックにハーモニーを聴かせる部分と、更に二声による応唱を組み合わせる等、タリスコの演奏で聴けば、技法的な変化に富んだ曲と良く分かる。

 飽くまでハーモニーとポリフォニーのバランスを追求する、ピーターの演奏志向は変わらないが、グローリアではアグレッシヴに攻め、サンクトゥスでの“オザンナ”のリフレインに、音量と速さの変化を付ける等の工夫はある。この辺りの指揮者のアチェルラントの用法も、さすがにツボを押さえて見事なものだ。ベネディクトゥスでテノール・パート二人の交わす応唱も楽しかった。

 ただ、これは言っても詮無い事だが、もう少しソプラノに色彩感の望まれる局面はある。また、タリスコの専売特許とも云うべき、女声と男声でコンビを組むアルト・パートは、四声部の対等に渡り合う通模倣様式では、比較的に弱く聴こえる場合もある。常に中庸を尊ぶピーター君の演奏だが、アニュス・デイ辺りでは、超絶的なピアニシモのあっても良かったと思う。

 休憩後はタリスコの名刺代わりとも称される、アレグリのミゼレーレ。シンフォニーホールでは舞台奥のパイプ・オルガン席、びわ湖ホールでは二階席舞台寄りに配置された、ソプラノ・ソロを含む四名の別働部隊だが、今日は三階席舞台正面下手寄りに現れた。例に拠って天井桟敷に陣取る、僕の眼下で歌うコロラトゥーラ・ソプラノは、前回のジャネット・コックスウェルから、エイミー・ハワースへ選手交代。この交代は吉と出たようで、全く力まない響きだけのような声が伸びやかに美しく、でも如何にもタリスコのソプラノらしく、無色透明な音色で歌われた。

 ピーターは平土間席中央の通路に立つテノール導唱と、三階席の第二コーラスには合図を出さず、舞台上五名の第一コーラスのみ指揮したが、最後のトゥッティだけは大きく手を広げ、後姿で十名のメンバーの息を合わせていた。これはドッペル・コールを振る際の新機軸で、僕は初めて見るスタイルだが、なかなか愉し気で良かった。

 コッテリしたアレグリの口直しに、タリスの短いミゼレーレをサラリと歌った後、現代イギリスの作曲家であるジョン・タヴナーのアンセムが演奏される。今回の日本ツアーは四十周年記念で、これまでの委嘱曲を一曲はプログラムに加えているようだ。タヴナーと云う人は、かなり早い時期からタリスコに曲を提供しているようで、この人の作品アルバムが発売された際には、十五世紀のジョン・タヴァーナーと勘違いし購入した、そそっかしい人も居たようだ。曲そのものは聖歌の旋律を、キレイな不協和音で聴かせる擬古典的な仕上がりで、タリスコのスタイルに合わせた作風だった。

 スペイン・マニエリスモのヴィクトリアとなると、音楽はぐっとホモフォニックになる。これを現代曲の次に持って来るのは、プログラミングとして悪くない。“イェルサレム”のリフレインにはハーモニーの色彩感の表出があり、そこから情感を滲ませる指揮者の手腕も見事なもの。ただ、ここに来てメンバーの集中力もやや途切れて来たか、音の揺れの目立つようになったのと、長調に解決する最後の和音は取って付けたようで、もう一工夫の欲しい処。

 プログラムの締め括りはバードのモテット。中世の影の射さない近代的な明るいハーモニーには、風通しの良い爽やかさがあり、快速のテンポで進めた演奏を、リタルダントで終えるのも効果的だった。今年もバス二人組の豊麗な響きに支えられた、タリス・スコーラズの美しいハーモニーを、存分に楽しめるコンサートだったと思う。

 アンコールに歌われたペルトは、何だかマドリガルっぽくカチャカチャした曲。教会音楽専門のタリスコにしては珍しい、そう思いながら聴いていたが、ロビーの掲示に拠るとアヴェ・マリアだそうで、僕はやや意外に感じた。

ヴェルディ「シモン・ボッカネグラ」

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<いずみホールオペラ2013〜ヴェルディ生誕二百年記念/プレミエ即千秋楽>
2013年6月22日(土)16:00/いずみホール

指揮/河原忠之
ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団
ザ・カレッジ・オペラハウス合唱団

演出/粟國淳
照明/原中冶美

シモン・ボッカネグラ/堀内康雄
アメーリア/尾崎比佐子
フィエスコ/花月真
平民パオロ/青山貴
貴族ガブリエーレ/松本薫平
廷臣ピエトロ/萩原寛明
隊長/山本欽也
侍女/福島紀子


 この公演の概要が発表された際、僕も堀内さんのシモンなら聴きたいと思った。ただ、室内楽専用ホールでのヴェルディと、フィエスコに起用されたバスに懸念を感じる。今日の演奏を聴き終え、それ等は単なる杞憂では無く、全ては予想の範囲内と知らされた。

 オペラのプロローグは、美しく繊細な序曲で始まる。だが、こんな小さなホールだし、編成を切り詰め演奏するのかと思えば、今日の舞台上はオケのメンバーで溢れんばかり。オケに広い場所を占められ、歌手は随分と狭苦しい場所に押し込められているように見える。歌手には奥に設えた演壇で唱わせ、オケを前に出したのは、恐らく歌と伴奏を一体として聴かせる工夫だろう。舞台の周りを囲む反響版の無い為、歌手の声は全て直接音で聴こえ、やはりコンサート・ホールでのオペラ上演は、オケと歌のバランスが難しいと感じる。

 東京から呼ばれた二人、シモンの堀内とパオロの青山の歌を聴くと、もちろん彼等は声量にも恵まれているが、それよりも声の響きが他の歌手とは違うと感じる。つまり、二人の声には高次の倍音が豊富に含まれていて、文字通り会場中に響き渡るのだ。声量そのものを云えば、既に青山は堀内を凌駕していて、世代交代の時期を感じさせる。この二人の役に独立したアリアは無い、と云う事になっているが、実は三幕のシモンのシェーナ“慰めてくれ、海のそよ風よ”は、実質的にアリアっぽい内容がある。

 これに対し、関西二期会から選ばれた三人の役には、何れにも正面切って歌うアリアが用意されている。フィエスコのバスは予想通り、堀内と絡めば貧弱で平べったい声としか聴こえず、これも倍音量の差と云うしか無い。バス歌手には美味しい筈のアリア“誇り高き宮殿よ”では、平板で退屈な歌い振りに終始した上、決め所の低音も殆んど聴こえない。この方は声量は貧弱、歌い回しに工夫は無く、低音も出ないと三拍子が揃っている。関西のバス歌手なら、三原剛に片桐直樹に木川田澄と人材は揃っている訳で、この人をわざわざ起用する理由は全く見当たらない。

 アメーリアの尾崎も一幕のアリア“仄暗い暁に”を良く歌ったし、声量の点でも問題は無い。でも、やはり声の響きは不足気味だし、イタリア語の子音を長目に発音した後、クレシェンドする先太りの歌い方にも違和感があり、アメーリアにはもっと清澄な声が望まれる。ガブリエーレの松本も二幕のアリア“怒りの炎を”で、音の軽さの表現の無い為、どうしても単調になって終う。この重い声でも適度に甘さはあり、ヴェルディなら然程の問題は感じないが、でもこの方の他に類を見ない特殊な声質には、やはり違和感は拭えない。まあ、関西には他に歌える人材が居ないと、言って終えばそれまでの話だが。

 プロローグの男声合唱は舞台の両脇、左右の二階バルコニー席に配置された。イタリア・ルネサンスを嚆矢とする応唱のスタイルだが、ヴェルディのようなロマン派四部合唱で、掛合いの効果は期待出来ない。一幕フィナーレの混声コーラスは、舞台奥のオルガン席と合わせ、総員27名を三方に分けたが、この方がステレオ・サラウンド効果は挙がったように思う。それとコーラス隊も完全に黒子扱いで、歌手の演技に全く絡ませなかったのに疑問を感じる。文字通り猫の額みたいな狭苦しい舞台で、バルコニーもオルガン席も活用しない演出では、出来る事も限られている。

 その舞台にはセットとして衝立状のチェスの駒が、キングからポーンまで六種類一通り置いてある。演出家の弁では、このオペラの込み入ったお話しの展開は、チェスのゲームのようなのだそうだ。でも、それにしては駒の動かし方はテキトーだし、これを二人の黒子が持ち運ぶのも見ていて煩わしい。ここはキチンと舞台を白黒の碁盤目に区切り、ちゃんとチェスのルールに則って、歌手が自分達で駒を動かせば、見た目にもスッキリするだろうにと思う。

 コレペティが本職の河原の指揮は如何にも素人っぽいが、さすがに曲の勘所は心得ているようで、一幕のフィナーレは額面通り盛り上げたし、必要なメリハリは付けていたように思う。それよりも問題は、この方のもう一つの肩書き“プロデューサー”の方にある、と僕は考える。つまりフィエスコのバスは、あのスピルリチュアルの江原繋がりで、パオロのテノールはイル・デーヴ繋がりと、要するに歌手の選択が適材適所と云うより、明らかに縁故採用なのだ。そんな風に考え出すと、後の歌手だって知れたもんじゃない、と云う気になって来る。

 青山は兎も角、花月は明らかに力不足。河原は指揮者として素人な上に、公演プロデューサーとしてもプロフェッショナルな立場を取れない人のようだ。今後、この人の関わるオペラを観るにしても、慎重に検討した上で結論を出したいと思う。

モーツァルト「フィガロの結婚」K.492

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<スイス・バーゼル歌劇場初来日公演>
2013年6月30日(日)15:00/びわ湖ホール

指揮/ジュリアーノ・ベッタ
チェンバロ/イリーナ・クラスノフスカ
バーゼル・シンフォニエッタ
テアター・バーゼル合唱団

演出/エルマー・ゲールデン
美術/シルヴィア・メルロ/ウルフ・シュテングル
照明/へルマン・ミュンツァー
衣裳/リディア・キルヒライトナー

フィガロ/エフゲニー・アレクシエフ
スザンナ/マヤ・ボーグ
伯爵夫人ロジーナ/カルメラ・レミージョ
アルマヴィーヴァ伯爵/クリストファー・ボルダック
ケルビーノ/フランツィスカ・ゴットヴァルト 
バルバリーナ/ローレンス・ギロ
医師バルトロ/アンドリュー・マーフィー
女中頭マルチェリーナ/ジェラルディン・キャシディ
音楽教師バジリオ/カール・ハインツ・ブラント
公証人クルツィオ/ヤツク・クロスニツキ
庭師アントニオ/マルティン・バウマイスター


 昨年末に「コジ・ファン・トゥッテ」を共同制作した、スイスのテアター・バーゼルが遥々びわ湖ホールへやって来た。バーゼル芸術監督に拠る「コジ」演出は、アクチュアルに刺激的で面白く、僕は今回の「フィガロ」も楽しみにしていた。開演前のホールに入ると既に幕は上がり、巨大なアニメ・キャラの描かれた、一幕のポップなセットを見せている。これから始まる上演への期待を高めるが、これはどうやらセットのデカ過ぎて舞台からハミ出し、幕を降ろせないようだ。その為、舞台転換は大きな黒い幔幕で隠し行われた。

 指揮者は拍手に答礼した後、舞台に歌手が出て来るのを待ち、やおら序曲を始める。序曲の演奏の間は、部屋にベッドを持ち込もうとするフィガロの演技が続く。スザンナも出て来て、ベッドを部屋に押し込んだ処で序曲を終え、フィガロの歌い出す段取りとなる。舞台設定はロサンゼルスの豪邸内との事で、装置も衣装も現代風だが、演出家のドラマ解釈は全くオーソドックスなもので、これは所謂“読み替え”演出ではない。「フィガロ」のお話しとは詰まる処、男女間の愛情と性欲を巡る艶笑譚で、本能の赴くままに行動する伯爵とケルビーノに対し、これを迎え撃つスザンナと伯爵夫人との攻防戦でもある。

 例えば僕には、男の側からアプローチすると云うより、伯爵夫人の方がケルビーノを誘惑しているように見えるし、三幕冒頭の伯爵のアリアには妄想として、スザンナとフィガロや伯爵夫人とケルビーノが、舞台上で睦み合うシーンを作っている。この舞台には特に新奇なアイデアは無いが、観客には演出家の各場面に即した読み取りを、見極める楽しみがある。但し、紙ヒコーキを沢山飛ばしたり、バスタブに着衣のまま入ったりする演出は意図不明で、これは恐らく単なるハッタリと思う。

 それと読み替えしないのなら、設定を現代アメリカに移す理由が分らなくなる。これを忖度するに現代に於けるモツオペは、既に時代的な制約から解き放たれ、アクチュアルな演劇として普遍的な価値を持つに至った、と云った処だろうか。演出家はモツだからと云って、今時ロココ調の鬘を歌手に被せる等、古臭いしミットモナイと考えているのかも知れない。ヨーロッパのオペラ演出の最先端は、そこまで突き抜けているように思う。

 キャストは専ら、演技面と歌唱面のアンサンブル優先で選ばれているようで、名の知れた歌手はレミージョ一人だが、彼女も全体のアンサンブルの一員として扱われている。そう思って観れば、みんな演技は達者なもので、このメンバーには同じ面子で興行を打つ、旅回り一座のような趣きがある。だが、これを敷衍して言えば、歌唱のレヴェルは皆ソコソコと云う事にもなる。

 ブルガリア人のフィガロはやや重目のマジメ過ぎる声で、もう少し諧謔味も欲しい処。スイス人のスザンナは音の立ち上げからスピントの位置まで、声の響きのポジションをズリ上げている。この唱い方では清潔なフレージングを作れず、もう少し細い声で長いフレーズを保ちたいし、そもそもスザンナを歌うソプラノには、もっとリリックな声の望まれる。アメリカ人の伯爵はモーツァルトに相応しい、声とスタイルとで聴かせてくれたが、フィガロと声質が被って今ひとつ対照性に欠ける。只まあ、この二人は若くてイケメンなので、女性客は喜ぶだろうと思う。

 このメンバーに立ち混ざると、やはりレミージョの実力は一頭地を抜いている。三幕のアリアをジックリと聴かせる、やはりこの方は本物のプリマと思う。但し、他の歌手と比べると声質も歌い回しも濃厚に聴こえ、全体のアンサンブルからは浮き気味となっている。ドイツ人のケルビーノには例のアリアに変奏を付けたり、長目のパウゼを入れたりする独特な解釈がある。そう云えばチェンバロ奏者もレチタティーヴォの間に、突如「ラプソディ・イン・ブルー」やら、「ローエングリン」やらの旋律を挟んだりしていた。

 バルバリーナはキレイな声のソプラノで、スザンナと役を入れ替えても違和感は無いし、これはマルチェリーナとケルビーノにも当て嵌まりそうだ。バルトロは板に付いた演技で、トボケた良い味を出す、なかなかの役者っぷり。こう云う人を見付けるのも、芝居見物のお楽しみの内だろう。何れにせよアンサンブル重視の配役は、脇役の充実に満足は出来ても、肝心の主役に物足りなさを残す結果を招いていた。

 序曲の細かい音型もピッタリ揃わず、オケの機能性を高いとは云い難いが、必要にして充分な能力は備えている。コンクール上がりの若い指揮者には、リズムを強調するパワフルな解釈があり、ここぞと見極めた局面では思い切りテンポを落とす、今時珍しいコッテリしたモーツァルトを聴かせる。まあ、泥臭いとまでは言わないけれど、凡そ洗練とは程遠く、これは矢張りスイスの山奥のオペラハウスの演奏との感想を抱く。演出は現代風でも、演奏はピリオド様式を一切取り込まず、時代の趨勢を無視している。三十年ほど前に戻ったような演奏と、時代の先端を行く演出との取り合わせは、現在のヨーロッパ・オペラ事情の混沌を表しているのかも知れない。

 尖った演出のオペラ公演では、若い観客の増える傾向はあるように思う。今日も何時も通り、爺さん婆さんの屯すびわ湖ホールのロビーだが、お洒落な服装の若者もチラホラ見掛ける。やはり若い人の多いのは華やかで良いよなぁと、取り合えず自分は棚に上げて思う次第であります。

武満徹-翼-ソングブック・コンサート

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2013年7月6日(土)17:00/兵庫芸文センター中ホール

武満徹/ショーロクラブ編曲
「翼(インストゥルメンタル)/めぐり逢い(映画「めぐりあい」)/うたうだけ/
明日ハ晴レカナ、曇リカナ/島へ(TVドラマ「話すことはない」)/
昨日のしみ(映画「斑女)/恋のかくれんぼ/3たす3と3ひく3/
小さな空(インストゥルメンタル)/見えないこども(映画「彼女と彼」)/
ワルツ(映画「他人の顔」)/○と△の歌(映画「不良少年」)/ぽつねん/
死んだ男の残したものは/三月のうた(映画「最後の審判」)/
燃える秋(映画「燃える秋」)/翼(歌)/MI・YO・TA」

ヴォーカル
アン・サリー/沢知恵/おおたか静流
おおはた雄一/松平敬/松田美緒/tamamix

ショーロクラブ
ギター/笹子重治
バンドリン/秋岡欧
コントラバス/沢田穣治


 武満の“うた”はクラシック歌曲ではないポップス・ソングで、主に映画やテレビ・ドラマ等の、主題歌や挿入歌として作曲された。従って初演者にも、ペギー葉山や小室等やハイファイ・セット等、多様な分野からのポピュラー歌手が起用されている。今日の歌い手の顔触れも、僕の聴いた事のあるのは松平敬一人で、後はお名前も存じ上げない方ばかりだ。

 真っ暗だった舞台上に照明の灯されると、そこには七人の座れるソファと小卓が置いてある。歌手はそこに腰掛けて自分の出番を待ち、他の歌手の唱うのを聴くスタイルでコンサートは進行する。最初にショーロクラブの三人の弦楽奏者が舞台に現れ、何故か客席の拍手に答礼せず、そのまま「翼」の演奏を始める。プログラムにウッド・ベースではなくコントラバスと表記された、この奏者は弓とピツィカートを適宜に使い分けて演奏する。バンドリンと云う楽器も初めて聴くが、見た目はマンドリンの大きいヤツで、出る音はバンジョーみたいな感じだった。

 最初にソファから立ち上がり「めぐり逢い」と、「死んだ男の残したものは」を歌ったアン・サリーは、ごく一般的なポップス・シンガーと云った印象で、医師としての勤務の傍らライブ活動を行っている人。次に出て来て「うたうだけ」と、「燃える秋」を歌った沢知恵はジャズっぽい唱法だが、芸大楽理科出身でピアノの弾き語りをする人らしい。三番手で「明日ハ晴レカナ、曇リカナ」と、「三月のうた」を歌ったおおたか静流は演歌っぽく、歌謡曲風に唱う。四人目のおおはた雄一はギター弾き語りのソング・ライターで、「島へ」と「ぽつねん」を歌った。

 松平敬は「昨日のしみ」をポピュラー風に歌ったが、「見えないこども」はクラシック調で声を張り上げる。tamamixはアニメ声のポップス歌手で、「恋のかくれんぼ」と「○と△の歌」を歌う。最後に出て来た松田美緒は、ポルトガルの民族音楽であるファドの歌い手で、「ワルツ」ではフラメンコも踊って見せ、なかなか手練れのエンターテイナーと感じる。

 七人の歌手を一通り聴けば、今回の歌手起用の狙いも分かって来る。平たく言えば、伴奏は全てショーロクラブで楽器の音色に変化は無いので、色々な歌手を取り揃えて変化を付ける狙い。でも、アン・サリーとtamamixは音楽的傾向が同じで、どちらか一人で充分だし、おおたか静流とおおはた雄一は声の魅力に欠け、この二人に付いては起用方法に問題があると思う。

 つまり、それぞれの歌手のスタイルに相応しい伴奏こそが必要で、伴奏を変えずに歌手をクルクル代えるのは、僕は本末転倒だと思う。確かに武満徹の音楽は何を聴いても同じで、そこに何らかの変化が必要とは思う。それでも我々聴衆は、タケミツの“うた”を聴きたいのであって、伴奏を聴きに来ている訳では無い。“うた”そのものを聴かせるのであれば、歌手に伴奏を合わせるのは当然の話だ。例えば弾き語りの沢知恵やおおはた雄一から楽器を取り上げ、歌だけを唱わせる企画そのものに問題のあると云える。ファドの松田美緒にしても、もっと彼女の魅力を引き出す方法は幾らでもある筈だ。

 どの出演者の集客力かは知らないが、今日のチケットは完売だそうで、これは矢張り武満の根強い人気を示しても居るのだろう。でも、要するに歌手は七人もいらないのだ。今日の演奏で僕が最も不満に感じるのは、ポピュラー歌手のPAを通した歌では、ピアニシモのテンションの全く揚がらない事にある。武満の音楽は小ホールでマイク無し、そして精々三〜四人程度の歌手が、それぞれに相応しい伴奏で歌うべきものでは無いだろうか。

 今日のコンサートに休憩は無かったが、出演者には手洗いタイムがあった。出ずっぱりの筈のショーロクラブにも、沢知恵姉御をリード・ヴォーカルとする、歌手全員に拠るアカペラで「3たす3と3ひく3」の演奏があり、三人揃ってトイレに立っていた。コンサートの何となくダラダラと続いたのも、事前の企画の不備と思う。武満の音楽と生涯に付いて語る出演者同士の対話や、スライド上映等も絡めるべきで、コンサートの進行自体にも一考の余地は大いにあると感じた。

ロッシーニ「セビリャの理髪師」

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<佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ2013/字幕付日本語上演>
2013年7月13日(土)14:00/兵庫県立芸術文化センター

指揮/佐渡裕
チェンバロ/森島英子
兵庫芸術文化センター管弦楽団
ひょうごプロデュースオペラ合唱団

演出/飯塚励生
美術/イタロ・グラッシ
照明/マルコ・フィリベック
衣裳/スティーヴ・アルメリーギ

<Bキャスト>
ロジーナ/森麻季
アルマヴィーヴァ伯爵/中井亮一
フィガロ/大山大輔
医師バルトロ/町英和
音楽教師バジリオ/森雅史
女中ベルタ/坂本朱
隊長/清水徹太郎
従者フィオレッロ&下男アンブロージョ/北川辰彦


 今夏の兵庫プロデュースオペラ「セヴィリアの理髪師」は、芸術監督の意向に拠り日本語上演である。従って外国から歌手を呼ぶ訳には行かず、全て日本在住の方々に拠るダブル・キャスト公演となった。今年は本拠地での八回公演の他に、兵庫県内巡回で四公演を行うが、珍しい事にチケットは完売せず、今日も当日券が出ていた。どうやらオペラ慣れした皆さんは、外国の方にお越し頂けない公演を敬遠されるようだ。

 オケピットに佐渡が現れ、例に拠って例の如く派手なアクションで序曲を始める。でも、毎度の事ではあるが、ここのオケは鳴りが悪い。一応、ロッシーニの軽味は漂わせるが、フォルテの音量を鳴らし切れず、音楽は今ひとつ弾んで来ない。まあ、高望みはするまいと自戒し、今日は何でも良いからロッシーニを楽しもうと思う。

 今回の演出にはイタリア伝統の仮面劇である、“コンメディア・デッラルテ”を取り入れたとの事で、序曲の演奏される間、舞台上には道化プルチネッラの大勢現れ、パントマイムを繰り広げた。なかなかアイデアも豊富そうで、これは楽しめそうな演出と期待は高まる。美術担当はお馴染みのイタロ・グラッシで、バルトロ邸の二階建てセットは壁面を外し、内部を観せる事で屋内と屋外を使い分け、さすがにセンスの良さを感じさせる。でも、演出を楽しめたのは、残念ながらそこまでだった。

 序曲で活躍したプルチネッラだが、本編での彼等の役割は、舞台転換の際に黒子としてセットの出し入れを行うだけとなる。後は脇へ退き、歌手の演技を寝転がって眺めるのみで、オペラの本筋には殆んど絡まず、これではプルチネッラである必然性が感じられない。黒子に意味有り気な装いを施すだけでは、仮面劇仕立ても単なる思い付きの域を出ない。プルチネッラを黒子に使うプランそのものも、既に三年前のサントリーホール・オペラで使われていて、別に珍しいアイデアでも何でも無い。今回の演出家は場当たり的な対応に終始し、全体を見通したヴィジョンを描けない上に、アイデア自体も二番煎じの感が否めないものだった。

 今日はプレミエの翌日で、森麻季以下のBキャストの初日となり、カーテン・コールには演出家も出て来た。まずアルマヴィーヴァの中井亮一は、ペーザロや藤原歌劇団で主役級を務めた甘い声のテノールで、見事なアジリタの技術もある人。この方の声を転がすテクニックは日本人として破格だが、アリアを終えるフェルマータで高音を張り上げないのは、やや物足りなく感じる。ただ、これは今日の使用楽譜がソプラノ版で、通常より半音高いハンデを背負っているのであれば致し方も無い。

 さすがにロジーナの森麻季は文句の付けようも無い、素晴らしいコロラトゥーラとアジリタの技術を披露してくれる。但し、演技の方は毎度お馴染みのお嬢さん芸で、全くの大根役者そのもの。やはりロッシーニのブッファであれば、もう少しコメディエンヌとしての演技力も磨いて頂かないと、歌唱力ではカヴァーし切れないものが残る。それとロジーナにせよアルマヴィーヴァにせよ、アジリタの上手であればある程、日本語でのメリスマは何だか変テコに感じられる。平仄の異なるイタリア語と日本語とで、それらしい工夫は何もせず、ただ単に伸ばすフレーズに装飾音を付すだけでは、ロッシーニの諧謔は表現出来ないと分かる。

 フィガロの大山大輔の歌い振りは如何にも弾まず、フィガロらしい闊達に欠ける。この方からは自分の演じたいフィガロ像のようなものが感じられず、ただ何となくタラタラと歌っているようにしか見えない。今日のフィガロとバルトロはソコソコ器用だし、一応はアジリタを転がせるので選ばれたのだろうが、二人とも主役級としては如何にも小粒に感じる。演技面でロジーナが大根な上、フィガロも不完全燃焼では、それでブッファの盛り上がる道理も無い。

 やはり芸文オケに取り、未経験のロッシーニは荷の重かったようだ。佐渡の繰り出すロッシーニ・クレシェンドも早漏気味で、直ぐに音が大きくなるのでは、それらしい効果の挙がる筈もない。そもそも、最初のピアニシモの音量が大き過ぎるのは指揮者の責任だし、クレシェンドをポコ・ア・ポコで大きく出来ないのは、オケの力量の問題だろう。男声合唱も頭数不足で貧相だったし、コーラスにもオケにも上演を盛り上げるだけの力は無い。ただ、佐渡が自己満足に走らず、飽くまで歌手を立て、伴奏に徹した点は評価したい。

 開演前に出て来て喋った佐渡は、むろん音楽的には原語上演の方が良いに決まっていると言い訳したが、僕はオペレッタなら兎も角、ロッシーニのブッファで日本語上演は如何なものかと思う。まあ、こんなトコで何言ってもムダだが、ここでのオペラ上演も既に九演目を重ねた訳で、芸術監督には良い加減もう少し、ここの観客を信用しては如何と申し上げたい。

ロッシーニ「セビリャの理髪師」

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<佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ2013/字幕付日本語上演>
2013年7月14日(日)14:00/兵庫県立芸術文化センター

指揮/佐渡裕
チェンバロ/森島英子
兵庫芸術文化センター管弦楽団
ひょうごプロデュースオペラ合唱団

演出/飯塚励生
美術/イタロ・グラッシ
照明/マルコ・フィリベック
衣裳/スティーヴ・アルメリーギ

<Aキャスト>
ロジーナ/林美智子
アルマヴィーヴァ伯爵/鈴木准
フィガロ/高田智宏
医師バルトロ/久保和範
音楽教師バジリオ/ジョン・ハオ
女中ベルタ/谷口睦美
隊長/清水徹太郎
従者フィオレッロ&下男アンブロージョ/晴雅彦


 今日の上演の主役三人には、「セヴィリア」の音楽への共感があった。オケにも指揮者にもロッシーニの経験は乏しく、自分達の演奏に手一杯の状態で、上演の盛り上がるか否かは歌手次第となる。その意味で、昨日は今ひとつ弾まなかった「セヴィリア」を楽しく聴かせる、その鍵を握るオペラの要の位置にある役柄は、やはりフィガロに尽きると感じた。

 まず、一幕冒頭でアルマヴィーヴァのセレナーデを歌う、鈴木准が素晴らしかった。声量もあるが何よりもアジリタが抜群で、ロッシーニに相応しい華麗なテクニックを披露してくれる。六年前の兵庫オペラプロジェクトで、この方をタミーノで初めて聴いた際は、上質なモーツァルト・テノールではあるが技術的に不安定な部分のあり、まだ未完成な歌手との印象を抱いた。その後、バッハ・コレギウム・ジャパンのトゥッティ要員として見掛けるのみだった鈴木だが、今回のアルマヴィーヴァを聴き、既に立派に成熟した歌い手として、一本立ちを果たしたと感じる。二幕の超絶アリアは慣例に拠りカットされたが、鈴木なら歌える筈だし、是非聴かせて欲しかったとも思う。

 続いてアリア“私は街の何でも屋”を歌ったフィガロの高田智宏が、見事な歌い振りで文字通り会場を圧倒し去った。美声のバリトンで且つ声量も豊かだし、アジリタの技術にも秀でているが、それより何よりリズムに冴えのあるのが素晴らしい。全く昨日のフィガロとはエライ違いで、声と演技力で今日の上演自体の推進力となり、この方の出て来るだけで本当に舞台の引き締まる印象を受ける。失礼ながら始めて聞くお名前だが、経歴を読むとドイツ在住で、着々と実績を積みつつある方のようだ。この新たな人材を発掘したのが佐渡なら、音楽監督として殊勲甲に価いすると思う。

 意外と言っては失礼だが、ロジーナの林美智子も良かった。なかなか器用にコロコロと声を転がし、この方にこんな隠し芸のあったのかと驚く程だし、やはりロジーナはソプラノではなくメゾの役と、納得させる出来栄えと思う。前回の兵庫オペラプロジェクトで、カルメンのタイトル・ロールを務めた林だが、あれはこの方の任では無かったとは、今にして分かる事である。目を真ん丸に剥く、斎藤由貴みたいな顔で歌う林さんの場合、カルメンよりもロジーナの合うのは当然で、今後は余り手を広げ過ぎず、コメディエンヌとして活動の舞台を増やして頂きたく思う。

 バルトロは声の音色が一定で面白みは無かったが、バジリオのジョン・ハオはなかなか良い役者っぷりだった。昨日は演技的に見所のある歌手は誰も居なかったが、今日はフィガロとロジーナの大当たりで、脇役の下手なのには目を瞑る事が出来た。昨日今日とダブル・キャストを両方見物し、もちろん個人技によるアリアでも聴かせるが、詰まる処「セヴィリア」はアンサンブル・オペラで、主役級にも一定レヴェルの演技は要求される事を良く理解出来た。

 オケの出来も昨日とは全く違った。歌の盛り上がれば、当然ながらオケも煽られる訳で、今日は力のあるクレシェンドが綺麗にキマったように思う。「セヴィリア」ってノー天気な内容の割りに、少し長過ぎるんじゃないかなぁ等と昨日は考えたのが、今日はむしろ短いとすら感じられる。我ながら現金な話だが、これも全てフィガロの高田君のお陰と云っても、それほど言い過ぎでは無いように思う。

 今回の歌手達の起用にはロッシーニの経験があるか、或いは無くとも器用さを買われたかの、どちらかだったように思う。当然と言えば当然の話だが、これが実際にはそうでも無いから、国内でのロッシーニ上演では悲惨な結果を招く場合がある。それでもロッシーニの日本語上演で、日本人歌手のみをダブル・キャストで揃えるのは至難の技と、今回は痛感させられた。そもそも日本人には小器用な民族性のあり、マジメに取り組みさえすれば、ベルカント歌いを輩出する土壌はある筈だ。

 今日、見事なアルマヴィーヴァを聴かせてくれた鈴木准にしても、彼は専らBCJで経験を積んだ人で、恐らくロッシーニは専門外だろう。現在、BCJを支える歌手達には、海外に修行と活躍の場を求める者も多く、古楽の分野ではベルカントを歌える人材を輩出しているようだ。実は古楽のお蔭で国内でのロッシーニ上演の基盤は、既に固まっているのかも知れないと思うのだ。

ラヴェル「子どもと魔法」

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<大阪フィルハーモニー交響楽団第470回定期演奏会>
2013年7月24日(水)19:00/ザ・シンフォニーホール

ブラームス/シェーンベルク編曲「ピアノ四重奏曲第1番」(管弦楽版)op.25
ラヴェル「子供と魔法」(演奏会形式)

指揮/大植英次
大阪フィルハーモニー交響楽団
ザ・カレッジ・オペラハウス合唱団
大阪すみよし少年少女合唱団

子供/ステラ・ドゥフェクシス
ママ&茶碗&蜻蛉/インゲボルグ・ダンツ
少女&蝙蝠&お姫様&梟/天羽明恵
火&鶯/レイチェル・ギルモア
椅子&雌猫&栗鼠&羊飼い/アネリー・ゾフィー・ミューラー
時計&雄猫/セバスティアン・ノアーク
ポット&老人&雨蛙/ドミニク・ヴォルティッヒ
ソファ&樹/ルドルフ・ローゼン


 昨年三月で大フィル常任を辞し、桂冠指揮者となった大植英次が指揮台に立つ。それも演奏会形式とは云え、演目はオペラである。八年前、バイロイト音楽祭へのデビューを果たすも、酷評の嵐に晒された「トリスタンとイゾルデ」以後、大植はオケピットに入った事があるのか知らない。その年限りで降ろされたバイロイトで、本当の処何のあったかは知らないが、あれは大植に取って相当キツイ経験だったようだ。そんな痛手からのリハビリとして、フランス物のラヴェル辺りは手頃なのかも知れない。

 コンサートの前半はブラームスで、シェーンベルクがアレンジしたピアノ・カルテットのオケ版。暗譜で振る大植は、緩徐部分ではタクトを上着の内ポケットに収め、両手の表情で指示を出し、速い部分になると懐からタクトを取り出し、振り回しながら踊り狂う。まだ僕の若い頃、京響定期の第九にコーラスで出演していた際、巨匠ヤマカズは右手で燕尾服の内ポケットから白いハンカチを取り出して汗を拭き、そのハンカチを握ったままオケに指示を出していた。コーラスのメンバーの一人が、あのハンカチは客席からは見えないのだと指摘していた。

 ヤマカズの洗練されたと云うか、キザの極みみたいな所作と比べれば、大植はポケットへ手を突っ込む度にモタモタと手間取り、やはり気障の年季の入り方が違うと感じる。それとも天真爛漫なヤマカズと、気取り方に付け焼刃の気配も漂う大植との差だろうか。その辺りが大阪弁で云う処の、所謂“ええかっこしい”の指揮者ではあっても、バーンスタインの真似をしている大植と、全てオリジナル(多分)なヤマカズとの違いと思われる。

 踊り狂う大植を見ながら、これは幾ら何でもブラームスでは遣り過ぎじゃないかと思うが、そもそもシェーンベルクのアレンジ自体に、そのような演奏を許す要素は含まれている。つまり、僕はシェーンベルクの目指す処を、ブラームスの「第五交響曲」ではないかと推測するのだ。秋の夜長にジックリと親しむべき、親密な室内楽も大植の手に掛かれば、唖然とする程に景気良く賑やかな音楽と化して終う。それが例えシェーンベルクの意図であっても、余りにも一面的に過ぎるように思う。

 休憩後はお目当ての「子供と魔法」。ここでも引き続き大植は踊り狂う訳だが、ブラームスでは違和感のあるその指揮姿も、ラヴェルとなれば板に付いて見えて来る。この人の持って産まれた音楽性には、内面を掘り下げて行くのではなく、外面的な華やかさを追及する音楽が合うののだろう。ラヴェルの曲そのものは、オペラではあっても例に拠って例の如くのもので、ユッタリと静かなアンダンテの音楽が続いた後、ドガチャガと喧しい程の音量でヴィヴァーチェの曲想へと移る、この両者が渾然一体となって成立している曲。「ボレロ」の合間に「シェヘラザード」を挟み込んだようなオペラと云う言い方は、余り適切ではないかも知れないけれども。

 ラヴェルの場合は声楽入りであっても、ジャズのリズムをタップリと取り入れた、どちらかと云えばオケを聴く為の曲となっている。何れもダンス音楽で速い部分はラグタイム、遅い部分はブルースのリズムで綴られた管弦楽に、歌がオブリガードのように乗っかっている。そんなオペラであれば、個々の歌手の品定めをしても余り意味は無い。歌手はそれぞれ自分のキャラを際立たせ、その声を指揮者は花束を編むように束ねれば、それで自ずとオケに彩りを添える形は整う。

 ただ、大フィルの重厚と云うか、軽快な切れ味を欠く重い音色でラヴェルをやるのは、なかなかキツイものがあった。それでも大植は頑張って、今ひとつ敏感に反応してくれないオケから、ソコソコ音色の変化を引出せていたように思う。歌手の方ではドイツ人テノールのキャラの立った声質と、もちろん天羽さんのレジェーロな声も役に嵌っていたが、アメリカ人のコロラトゥーラ・ソプラノに声の魅力の乏しかったのは、やや残念に感じた。後の連中はまあまあかな。コーラスもまあ良かったけど、もう少しフランス語がクッキリ聴こえれば、更に良かったかな。

 それより僕が気になったのは、今日はラヴェルのオペラだと云うのに、歌手にネイティヴのフランス語スピーカーが誰も居なかった事。八名の歌手の内、ドイツ人が五人に後は日米にスイス人が各一名。このオペラはプッチーニやヴァーグナーの延長線上には無く、フランス語歌曲を唱える歌手でなければサマにならない。これは結局バイロイトで受けたトラウマを抱え、しかもフランス語の覚束ない大植が、歌手から突っ込まれるのを恐れた故の選択だろう。それなら日本人だけでやりゃ良かったのに。

 ここから憶測するに大植はバイロイトで、「トリスタン」の譜面の不勉強を追及されるより、ドイツ語の無理解を非難されたの知れないと、僕は妄想を逞しくするのだ。

喜多方高校合唱部第8回定期演奏会

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2013年7月27日(土)18:00/喜多方プラザ文化センター

指揮/高橋祐二
生徒指揮/原田琴乃
ピアノ/志田智子/江川龍二
福島県立喜多方高校合唱部

鈴木憲夫「どうしてだろうと」(地球ばんざい)
Rihards Dubra:Duo Seraphim
Douglas Brenchley:Alleluia
信長貴富「こころようたえ/新しい歌(全5曲)」
牧戸太郎編曲「愛をこめて花束を」
グラナハム「いざ起て戦人よ」
多田武彦「雨」(雨)
呉田軽穂「赤いスイートピー」
山室紘一編曲「ハナミズキ」
朝川朋子編曲「花は咲く」
高嶋みどり「はるかはるか」
企画ステージ「自転車男」


 喜多方に来るのは二度目だが、この合唱団は前回訪れた際「音楽部」を名乗っていたと記憶する。正式に名称を変更したのか、それとも元々どちらでも良かったのかは知らない。指揮する顧問も前任の佐藤朋子教諭が転勤となり、大ベテランの高橋教諭が赴任している。貰ったパンフレットを開くと、「高橋祐二先生へのサプライズのお知らせ」のチラシが挟んであった。終演後、年度末で退職される高橋先生に送るサプライズの曲を用意したので、おまえ等も一緒に歌えとの仰せである。

 コンサートは校歌で始まり、今年度コンクール曲の演奏と続く。鈴木憲夫の課題曲は男声陣の柔らかい声で、キレイにハモらせてくれる。この曲にクサいデュナーミクを施したのは正解で、面白く聴かせる工夫のあるのは結構な事だ。自由曲に取り上げた「二人の天使」は、ラトヴィア人の作曲家に拠るドッペル・コール。複雑な構造の曲を指揮者が上手に捌き、キメ処の美しいハーモニーと豊かな情感で聴かせる。四十名で精一杯のォルテシモには力が籠もり、こんな難しい曲を良く破綻なく歌えてるなぁと感心していたら、最後に女声が腰砕けて完全に崩壊して終った。まあ、これがコンクール本番でなかったのはご同慶の至りです。

 アメリカ人作曲家の英語歌詞で六声の「アレルヤ」は、リズミカルな曲をノリ良く爽やかに聴かせてくれて、この先生の特質が最も良く表れた演奏と思う。次に震災の年に招待された京都合唱祭で初演された曲を、指揮者は粘るテンポ感で熱演する。この作曲者としては出来の良い方と思うが、それでも熱演の効果の挙がり難い曲ではある。

 ソプラノの柔らかい表現力は、生徒指揮のポピュラー・ソングでも変わらず、これはこの合唱団のお家芸みたいなもんかと思う。再び顧問教諭の指揮で男声合唱定番の三曲は、現役十二名にOB九名を補強しての演奏。力強いのではなく柔らかい男声で、「いざ起て」ですら端正にキッチリ纏める辺り、この指揮者の男声合唱への志向を端的に表している。ニグロ・スピリチュアルも全くアザトい処の無い、むしろ圭角の取れた演奏だが、これは男声陣の実力からして、こんな風にしか出来ないと云うのもある。従って残念ながら「雨」では、声の力不足で指揮者の情感は表現し切れずに終わった。それとソロの終わる度、演奏中にも拘らず拍手の起こるのは、一体どこの国の風習かと思う。

 松田聖子と一青窈は女声合唱で生徒さんの指揮。この子の指揮からは表現意欲を感じるが、顧問教諭のように自分の意図を押し出すのではなく、歌い手の情感を引き出せているように思う。震災復興支援ソングの「花は咲く」は、高橋教諭が変に捏ね繰り回さず、柔らかく聴かせてくれる。でも、和合亮一と高嶋みどりへの委嘱曲では、指揮者の日本語へのクサいデュナーミクの付け方が作為的で鼻に付く。今日は高橋先生にしては、比較的に素直な解釈が多かったので、僕もやや油断していた。それと曲の最後を“あーあー”と伸ばして終えるのは、実に安易な締め括り方で、高嶋みどりの作曲センスが疑われる。

 高校生定番の学芸会ステージはソコソコ練られた企画のあり、マトモに歌ったのは三曲だけなのには気分を害したが、少なくともロビーに出て終わるまで待っていようとは思わなかった。主役の自転車男には継投策の採られたが、後半を担当した子が出て来ると舞台はやや引き締まったので、これは一人で遣らせた方が良かったかと思う。顧問教諭も神様役で出演し、なかなか堂に入った演技派振りだった。指揮も変わりなく熱の籠もったものだったし、バリトンの歌声も一くさり聴かせてくれて、先生と生徒の日常も垣間見えたように思う。

 最後は組曲「新しい歌」の全曲で、高橋先生まで信長やるのかよと思う。この曲集は何年か前、僕の卒業したグリークラブの現役が定演で取り上げた際、人数不足を補う為OB有志もトラとして駆り出された。個人的には他の曲にして欲しかったが、残念ながらこちらに選択権は無い。一応、現役達のヤル気は認められたので、僕も一役買う事にした訳だ。全曲を歌ってみて気付いたのは、これは聴く側に回ると退屈でも、歌う側に回れば結構楽しい、つまり自己満足に浸れる曲と分かった。これだけアザトくあちこちから素材を掻き集め、継ぎ接ぎみたいな曲集に仕立てれば、通俗的な人気の出るのも当然と納得した。

 しかし、この単純に効果の為の効果だけを狙った曲を、ベテラン指揮者が振ると一体どうなるのか。理詰めに作られアドリブの余地の無い曲で、高橋教諭の解釈に奇を衒うような処は全く無かった。結局この解釈の余白の無い、芸術と云うより工芸品と呼ぶのが相応しい曲を、聴ける演奏にまで押し上げたのは、指揮者の豊かなテンペラメント以外の何物でもなかった。二台ピアノの息の合った巧さも相俟って、胸に迫るもののある演奏だったと思う。凡百の指揮者が振ると例外無く、退屈な演奏となる曲にも関わらずである。

 アンコールの「瑠璃色の地球」も終わり、降ろされ始めた幕が途中でスルスルと再び巻き揚げられると、高橋先生へのサプライズが始まる。舞台上の合唱部員は信長編曲の「鉄腕アトム」を、席から立ち上がった観客は斉唱で、高橋先生への餞別とした。一聴衆の僕に特別な感慨等ある筈も無いが、サプライズで送られる本人は感無量だろうなぁと思う。ただ、高橋先生は感激の面持ちと云うより、今度は本当に幕の降りるまで、ビックリした顔のままでしたけれども。

 今日のメンバー表を見て気になったのは、男声に一年生が居らず、来年度残る二年生も三人だけな事。高橋先生の去った後の喜高“うた部”の、更なる隆盛を衷心から願って已まない。

会津高校合唱団第43回定期演奏会

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<第10回福島県四校連合演奏会併催>
2013年7月28日(日)13:00/會津風雅堂

指揮/赤城佳奈/馬場和美/鈴木和明/大竹隆
生徒指揮/山崎真夕(磐城)/朝倉優太(福島)/
片山祐太郎/五十嵐理恵子(会津)
ピアノ/志賀悠亮/志田智子
福島県立磐城高校合唱団
福島県立福島高校合唱団
福島県立安積高校合唱団
福島県立会津高校合唱団

高田三郎「風が/雪の日に」(心の四季)
千原英喜「第一の言葉(十字架上のキリストの最後の言葉)/
IV(どちりなきりしたん)/君や忘る道(良寛相聞)」
信長貴富「ヒスイ(カウボーイ・ポップ)/きみ歌えよ(新しい歌)/花(ノスタルジア)」
旭井翔一「屈折率」(幻想小曲集)
Josep Vila i Casanas:Salve Regina
なかにしあかね「今日もひとつ」(今日もひとつ)
Jaakko Mantyjarvi:Pseudo-Yoik NT
創作ミュージカル「アラジン」
平吉毅州編曲「七夕さま」
宮城毅之編曲「紅葉」
飯沼信義編曲「雪」
Tsing-moo編曲「赤いスイートピー」
佐藤貴洋編曲「夏色」
今村康編曲「恋人たちのクリスマス/春よ来い」
柚太編曲「津軽海峡冬景色」


 今年で十回目を謳う福島県四校連合だが、これは共学化後のコンサートの回数で、男声合唱時代を含めれば二十回は超える筈だ。男子校の頃と共学化以降で、内容的に別物と云う考え方だろうか。その第十回記念の余興として、コンサート冒頭にメンバーが客席で踊りながら歌う、「天使にラブソングを」が演奏された。初めて見る趣向だが、高校生の揃って踊れば単純に盛り上がるし、これも毎回の慣例になるとやや問題だが、偶の事なら悪くないと思う。

 本来のプログラムで、まずはエール交換。四校のメンバーが舞台にそれぞれ整列し、下手から順番に校歌を演奏するのは、早慶同関の四大学グリーによる「東西四連」と同じ趣向だが、これを学生ではなく顧問教諭の振る処が異なる。それと東西四連では一曲歌い終えると学生指揮者同士で握手するが、これも当然ながら福島県教員は行なわない。

 最初の磐城高校は生誕百年のアニヴァーサリーで、高田三郎「心の四季」を男声六名を含む43名のメンバーが女声版で演奏する。「風が」にはとても優し気な風情のあって、これも久し振りに聴けば結構良い曲じゃんと思う。昔は「雪の日に」辺り、噛み付くように子音を発音する、猛々しいみたいな演奏の多かったが、磐高は柔らかい音楽作りで好感を持てるし、顧問教諭の音楽的志向に合う選曲とも思う。ただ、やや緩く流れ気味なので、フレージングはもう少し厳しく律して欲しかった。

 「十字架上の七言」と云えばシュッツかハイドンだが、福島高校のやるのは千原英喜。これは宗教曲と云うより、作詞も作曲者自身の手掛けた単なる演歌で、それならば民謡っぽくとも許せる訳だ。信長貴富の方は生徒さんの指揮だったが、こちらの方が声そのものも良く出ているし、なかなか美しいハーモニーもあった。但し、彼の遣りたい事は概ね分かるが、大仰な身振りは空回りしているので、もう少し勘所にだけ力を入れる等のメリハリを考えて欲しい。

 安積高校も千原で隠れキリシタンの歌だが、こちらは和風の旋法に機能的ハーモニーを付した、木に竹を継いだような何とも挨拶に窮する曲。演奏は縦をキッチリと揃える清潔なフレージングがあり、フォルテでも腰折れしないソプラノの美しい音色で、透明なハーモニーを作っている。殆ど耽美的と呼べる演奏で、思想と節度に欠ける曲を美しく響かせ見事だった。ただ、この合唱団の高い音楽性を発揮出来る曲は、外に求めたいとも思う。

 今回ホスト校を務める会津はコンクール曲を演奏。七十名と人数の多いのは七難を隠すで、ダイナミク・レンジの広がれば、表現の幅も自ずと広くなる。「屈折率」は男声の分厚い響きが効果を挙げる、ソコソコ面白い曲と思う。「サルヴェ・レジーナ」では曲の内容と関係無く、厚味のあるピアニシモとシンフォニックな声の響きで聴かせる。ソプラノにもう少し伸びは欲しいが、アルトに自己主張のあるのは好感を持てるし、男声も確り下支えしている。起承転結の構成の分かり難い曲だが、そこは全体を見通しキチンと把握した指揮者が、分かり易く聴かせてくれる。

 次は四校の合同演奏で女声合唱の邦人曲は、聴かせ処を心得た女子生徒の指揮も良いし、声に力も籠もっていて楽しめる。男声合同も一応サマにはなっているが、力で押せばそれで済む曲で、更に高いテンションのピアニシモは必須だろうし、もっとメリハリも付けて欲しいと高望みして置く。混声合同は大竹教諭の指揮で、二百名の生徒を手の内に転がし、全員をその気にさせた暖かい演奏は、やはり一味違うと感じさせる。

 休憩後は会津高校の定演として再開するが、それがいきなり学芸会ステージとなるのに、僕はやや困惑する。でも、コーラスで歌う分量は多かったし、ソロの歌もソコソコ粒は揃っていたので、学芸会として許容の範囲内にはある。舞台の進行に一応のテンポ感はあったし、場面毎に主役をクルクル換えたのにも一定の効果はあった。但し、歌うのが男子ばかりで、女子生徒の聴かせ処に乏しいのは物足りない。アミダ籤のギャグは結構笑えたけど。

 学芸会の次はポピュラー曲ステージで、コンサートはお開きとなる。三人組の司会付きで進行する舞台だが、これは思い付きで遣っておらず台本のあるようだし、リハーサルに時間を掛けたフシのあるのは評価したい。ソロを歌わせプレッシャーを与えるのは、個人の技量の向上に繋がるし、これも大いに奨励されるべきと思う。唱歌メドレーには生徒さんの指揮が付き、ゆずやユーミン辺りは指揮無しで歌って踊る。何れにせよ演奏の質は大して変わらないが、「津軽海峡冬景色」を指揮した女子生徒さんからは、辛うじて工夫のようなものを感じ取れた。しかし、ここでド演歌とか聴かされると、何だか学芸会の続きを見ているような気分になる。

 しかし、今日は定演なのに編曲物ばかりで、しかも顧問教諭は一切指揮しないし、何だか騙されたような気分だ。俺がわざわざ会津若松まで来たのは、「八重の桜」のロケ地見物の為でも、「麦とろ」で酒呑む為でもなく(まあ両方やったけど)、会高の“定演”を聴く為に来たのだ。それと男声合唱やらんかな、男声合唱。実際の話、会津高校と云えば男声合唱だし、声の抜けないテノールを鍛えるには、おっかなびっくりなソロを歌わせるより、トップ・テナーでガンガン歌わせる方が手っ取り早い筈だ。

 来年は事前にキチンとリサーチして、オリジナルな曲を取り上げる、まともなプログラムでなければ行かない。会津高校の生徒さん達は、クラブ活動の集大成とも云うべき“定演”を一体どのように捉えているのか、深く疑問に感じる所以である。

蔵太鼓と弥右衛門〜喜多方の酒蔵

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 僕が最初に喜多方を訪れた四年前は、文字通り駅とホールの間を往復しただけで帰って終ったし、今回は日程に余裕を持たせて、半日のんびりと“蔵とラーメンの街”を見物して回った。とは云うものの、要するに酒呑めるトコにしか行かない訳ですが…。駅の観光案内所で地図を貰い、道順にあったラーメン屋で遅目の昼食を済ませた後、まずは駅から程近い喜多の華酒造場を訪れる。

 表の戸をガラガラと開け、ごめん下さいお邪魔します〜と云った感じで中へ入ると、奥から女性が現われ、開口一番「いらっしゃいませ、試飲は如何ですか?」と仰る。唐突な先制パンチにやや怯むと、女性は「甘口が良いですか、それとも辛口にされますか」と畳み掛けて来る。そこで僕も態勢を立て直し、それは「星自慢」が甘口で、「蔵太鼓」が辛口と云う事ですか?と反問する。これ等は何れも喜多の華酒造の銘柄で、大阪では近鉄布施駅近くにある上西酒店で購入する事が出来る。

 自分は蔵見物が目的の観光客ではなく、ここのお酒の味も一応は知っている事をご理解頂き、銘柄や井戸水のお話等を伺いつつ試飲させて頂く事となる。上西酒店のご主人って、ここに来たこと事あるんですかと尋ねると、「ありません!」と即答された。良くご存知ですねと言うと、上西さんとは古いお付き合いなんですよと述懐された。後日、上西酒店へ酒を買いに行きこの話をすると、あそことは古い付き合いなんですよと、上西さんも同じ事を仰った。

 「磐城壽」をブランドとし、“日本一海に近い酒蔵”を自称した福島県浪江町の鈴木酒造店は、震災で津波に全てを流された後、現在は山形県の草深い山里に移り再起を図っている。僕は三年前、蔵元兼杜氏の鈴木大介さんと、大阪の割烹居酒屋「堂島雪花菜」で同席した際、「磐城壽」と「蔵太鼓」の酒質は似ているのではないかとお尋ねした事がある。その当否は定かでないが、要するに僕はこのテのお酒が好きなのだ。

 喜多の華酒造の奥様はお天気の話で、昨日は集中豪雨でJRも止まった。今日も予報では大雨になると警告され、会津若松に宿を取っている、僕の不安を掻き立てる。外へ出ると案の定、雲行きの怪しくなっている中を北に百m程歩けば、次の目的地である大和川酒造北方風土館に辿り着く。



 ここは蔵廻りの観光地として、喜多の華酒造よりも更に洗練されていて、ガイドに引率され順路を辿った観光客は、最後に試飲を勧められお土産を購入する段取りとなる。実はこの古い酒蔵は既にその役目を終えた観光専用で、実際に酒を造っている工場は別の場所にあるらしい。大和川酒造店の主力銘柄は「弥右衛門」だが、このお酒を僕は三年前の震災の年、名古屋までメトロポリタン・オペラの引っ越し公演を聴きに行った際、偶々行っていた試飲販売で知った。

 その際にお会いした蔵人さんとは去年、阪神百貨店の試飲販売で再会した。試飲を勧められた僕は、あれ?この方は名古屋にも来ていたのではと思い尋ねると、その蔵人さんもこの人初めて見る顔じゃないなぁと思ったそうだ。何でも六月頃は営業が忙しく、製造部門も試飲販売を手伝うのだそうな。しかし、年に一度しか喜多方から出て来ない方と、名古屋と大阪で出逢うとは、全く奇遇そのものである。そんな話を売店の女性に申し上げると、何だか喜んで頂けたようだが、でもここは工場ではないので、今回は勿論その蔵人さんとお逢いする事はなかった。



 会津若松では昼酒を呑みに「麦とろ」を再々訪する。こんにちは〜と言いながらお店に入ると、大将は「おお、おまえ良く来たな」と、恰も常連客の来たように迎えてくれる。「おまえ今日で四回目だろう」と言われたので、いえ震災の年からなので三回目ですと訂正して置くが、しかし年に一回しか来ない客の顔を良く覚えているものだと感心する。

 この日は若い妊婦の方がお一人で食事されていて、大将は彼女に向かい妊娠中の食事の心掛けに付いて説いておられた。健康な子供を育てる為、海の物・山の物・川の物をバランス良く食べねばならないと力説される。会津地方の郷土料理に精通した、大将の言には説得力がある。麦とろの大将は朝五時起床で仕込みを行い、昼食時から夜遅くまで通し営業を行った上、定休の日曜は春の山菜に秋は茸を採りに里山へ分け入る、誠にタフネスを絵に描いたような方である。

 毎年頼む麦とろ定食を頂きつつ生ビール、追加の瓶ビールは“八重の桜”シールを貼ったアサヒスーパードライ、お酒は会津娘と末廣とを頂いた。真昼間から随分呑みましたし、ゼンマイのお浸しも美味しゅうございました。それではまた来年も参ります、大将にお母様どうもご馳走様でした。

ドヴォルザーク「スターバト・マーテル」op.58

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<京都市交響楽団第571回定期演奏会>
2013年8月11日(日)14:30/京都コンサートホール

指揮/広上淳一
ソプラノ/石橋栄実 
メゾソプラノ/清水華澄
テノール/高橋淳
バリトン/久保和範
京都市交響楽団
京響コーラス


 今日はスターバト・マーテル全曲を、初めてライブで聴いた。三曲目の「Eja Mater」は昔、合唱コンクールの自由曲に度々取り上げられてお馴染みだが、何せ全部やると一時間半も掛かる大曲で、演奏の機会は存外少なかったように思う。でも、メサイアやマタイ受難曲は頻りに演奏されても、スターバト・マーテルは片隅に追いやられている訳で、これは単なる流行り廃りの問題なのか、或いはドヴォルザークが時代の趣味嗜好に合わなくなったのか。 

 しかし、ドヴォルザークの暖かく人懐っこい感触の音楽は、この猛暑の中では暑苦しくも感じられる、聊か季節感覚に乏しい選曲である。でも、実際に聴いてみれば、夏向きを意識した訳でも無かろうが、演奏自体は至極アッサリ風味の爽やか系だった。嫋々と甘美な音の響き渡ると、そこから転調して仄かな明るさを見せる、悪くない音楽作りと思う。若い頃は蛸踊りみたいだった広上の指揮姿も、久し振りに見れば大人しくなったと云うか、ごく普通になったと感じる。

 ただ、爽やかで涼し気な演奏は、指揮者の思い入れに不足するとも捉えられる。二曲目のソリストに拠るカルテットを、僕は哀愁に満ちた曲と思うが、今日の演奏では今ひとつ込み上げて来る情感が無い。続く「Eja Mater」でも、もっとアザトくアゴーギグを動かし、クサい程に歌い上げて欲しい。イン・テンポに近い歌わせ方で、妙に生真面目な指揮振りと感じる。五曲目の「Tui Navi vvulnerati」でも、コーラスに優しく抒情的に歌わせ、後半テンポ・アップしても激しくはならない。

 フィナーレに至り、演奏は漸く盛り上がったと云うか、ここまでの鬱憤を晴らすべく大爆発したと云うべきか。広上は最初からその心算だったのだろうが、僕としてはイマイチ納得が行かない。広上はドヴォルザークをブラームスの後継者、ドイツ・ロマン派の正統的な嫡子と捉えず、軽い民族音楽風と考えているフシがある。スターバト・マーテルの音楽からは、もっと重い内容を引き出せる筈と思う。それとも広上はブラームスをやらせても、こんな風な軽い演奏にするのだろうか。

 ソプラノの石橋はやや力み過ぎで、広上の解釈と噛み合わず、ここは持ち前のレジェーロな柔らかい声を生かしたい処だ。久保は声に力のあるバリトンで、大真面目に歌うタイプだし、この曲には合うと思う。キャラクター・テノールの高橋は急な交代だったが、やはりドヴォルザークにはリリックな声の方が合うと感じる。

 コーラスはオケの音に上手く乗っかり、人数でフォルテシモを誤魔化していたが、ソプラノの高音は硬く、もっと柔らかく響かせて欲しい。それと如何にも第九コ−ラスっぽい音色の他パートと、七名のプロ歌手のトラが入ったテノールは水と油で、えらいクッキリ分離して聴こえて来た。オケも余り縦は揃わなかったが、広上は別に気にしていない様子だった。

 「Eja Mater」も、近年の合唱コンクールでは聴かないが、これは別にドヴォルザーク自体が流行らなくなったのではなく、ただ単に“勝てる”曲と思われなくなっただけだろう。今もプロのオケ定期では、ドヴォルザークのシンフォニーは頻繁に取り上げられている。今後「スターバト・マーテル」も更に峻烈な演奏で、聴ける機会のある事を期待している。

第67回福島県合唱コンクール

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2013年8月30日(金)10:00/磐城芸術文化交流館アリオス

<福島市>
県立福島東高校(混声45名)
指揮/星英一
ピアノ/鈴木あずさ
旭井翔一「屈折率」(幻想小曲集)
鈴木輝昭「When that I was and a little tiny boy」(シェイクスピアによる“十二夜”歌集)
 綺麗にハモるだけの課題曲だが、指揮者は遅いテンポの中でデュナーミクを工夫し聴かせる。鈴木への委嘱曲も手際良く盛り上げ、爽やかに歌い上げる。但し、英語歌詞なのに旋律から日本語の韻律を感じる、内容に乏しい詰まらない曲で、聴く側として集中力を保つのは難しかった。

県立福島北高校(混声20名)
指揮/野地綾
ヴィクトリア「O magnum mysterium 大いなる神秘」
千原英喜「第1楽章」(唱歌)
 ヴィクトリアはラテン語の抑揚を掴んでおらず平板になるのと、後押しするリズム感もあるので、もっとレガートを意識し歌って欲しい。その和風のリズム感も自由曲になら合う筈が、こちらは妙にレガートな演奏。無内容な曲だし、もっとアザトくやって貰わないと退屈する。

県立福島高校(混声38名)
指揮/馬場和美
コープランド「Have mercy on us, O my Lord 主よ憐れみ給え」(四つのモテット)
千原英喜「第一の言葉/エピローグ」(十字架上のキリストの最後の言葉)
 フォルテでも割れない柔らかい男声は、取り分けバスに力があり、コープランドで安定したハーモニーと豊かな情感を紡ぐ。如何にも泥臭い自由曲も、速いテンポで柔らかくスマートに歌い上げるが、こんな風に何の引っ掛かりも無くレガートにやると、曲の詰まらなさも際立つように思う。

桜の聖母学院高校(女声8名)
指揮/佐川いずみ
モラレス「In die tribulationis 我が苦難の日に」
Javier Busto:Ela!elA!/Alimu!alimu!/Zapata txuriak
 モラレスは誠にか細い声で、儚なげな幸薄い演奏。ただ、一応それらしい雰囲気はあったので、ポリフォニーへの理解はあるように思う。自由曲ではもう少し大きな声を出せたが、やはり頼り無い発声は変わらない。それなりに綺麗だが、ちんまり纏まった袖珍版のような演奏で、何れにせよヴォイス・トレーニングは必須と思う。

県立福島明成高校(混声20名)
指揮/菊地和彦
ヴィクトリア「O magnum mysterium 大いなる神秘」
Javier Busto:Ametsetan〜Ave Maria
 キチンとしたポリフォニーで、ヴィクトリアらしい情感に溢れる演奏だが、もう少しテンポや音量のメリハリは付けて欲しい。自由曲は緩急の切り替えも上手に出来たし、清楚な女声を男声が確り支えて、安定したハーモニーがある。遅い部分からは情感を引き出し、速い曲想は愉し気で、優し気なニュアンスに満ちた演奏からは、指揮者の人柄の滲むように感じられた。

県立福島西高校&県立福島南高校合同(女声15名)
指揮/西村静
モラレス「In die tribulationis 我が苦難の日に」
キャプレ「Gloria」(三声ミサ)
 モラレスではダイナミズムの変化で山場を作り、各パートをほぼ均等に聴かせる、ポリフォニーの基本を弁えた生徒の理解度は高い。キャプレも成熟した声で立派な演奏だが、色々と工夫の余地のある曲で、個性的な主張の無いと映えない曲でもある。聴き慣れた曲こそ新たな解釈、新たな発見のある演奏でありたいと思う。

福島東陵高校(女声9名)
指揮/貝瀬幹雄
モラレス「In die tribulationis 我が苦難の日に」
キャプレ「Inscriptions champetres 野の碑文」
 少人数ならこの速目のテンポが正解で、人数分以上の声も出ているし、曲のニュアンスも掴んでいるが、ソプラノにスカッと抜ける声の無いので、もっと頭声を意識して取り組んで欲しい。これは古い時代の音楽に限った話では無い。キャプレでもキチンと縦を揃え、速いパッセージは良く処理したが、緩徐部分ではアゴーギグを揺らせる、更に濃厚な表現も欲しい処。可愛らしい声でマジメに遣り過ぎている印象だった。

福島成蹊高校(混声12名)
指揮/遠藤明子
ヴィクトリア「O magnum mysterium 大いなる神秘」
リゲティ「Magany 孤独/Bujdoso お尋ね者」
 一人しか居ないバスがちゃんと低音を出し、混声合唱として成立させている。リゲティのマドリガル風の曲は、バルトークへのオマージュだろうか。ピアニシモのロング・トーンを保つ技術力のあるのが凄いし、マジャール語を生かすリズムの扱いも適切で、ジプシー音楽の雰囲気を良く掴んでいる。ただ、指揮者の表現しようとする意図は分かるが、それが演奏に顕れないもどかしさはあった。

県立橘高校(女声36名)
指揮/瓶子美穂子
ピアノ/鈴木あずさ
高嶋みどり「きょうの陽に」(明日のりんご)
鈴木輝昭「絵師よ」(肖像画・絵師よ)
 顧問教諭は交代しても成熟した女性らしい声は健在で、指揮者の対位法的な部分の捌き方も堂に入っている。自由曲も高い技術力で歌いこなすが、高低の音域で音色の変化が無く、音楽の表現は一面的になって終う。頭に血を昇らせ、ひたすらな力押しに終始する単調な演奏で、もっと弱音部の美しさを際立たせる工夫の望まれる。


<決定順位>
1.安積黎明 2.郡山 3.会津 4.橘 5.安積混声 6.郡山東女声 7.喜多方 8.郡女附属 9.会津学鳳女声 10.会津学鳳混声 11.葵 12.福島 13.安積女声 14.福島明成 15.福島東 16.郡山東混声 17.安達東 18.安積男声 19.湯本 20.磐城 21.磐城桜が丘 22.清陵情報

 上掲の写真はいわき名所のスパリゾート・ハワイアンズに因み、アロハ・シャツで審査に臨む佐藤正浩さんです。ご協力ありがとうございました。

第67回福島県合唱コンクール

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2013年8月30日(金)10:00/磐城芸術文化交流館アリオス

<浜通り>
県立湯本高校(女声19名)
指揮/佐藤留美
モラレス「In die tribulationis 我が苦難の日に」
フローラン・シュミット「Prince et bergere 領主と羊飼いの娘(En bonnes Voix)/
Vetyver ヴェティヴェル/Pastourettes 羊飼いの娘達(De vives Voix)」
 モラレスは速過ぎるテンポで、生徒に他パートを聴く余裕も無く、指揮者は旋律に膨らみを付ける暇も無い。シュミットはひとつ一つの単語に拘り過ぎで、全体の流れを掴めておらず、これは二曲目の速いテンポなら誤魔化せても、三曲目のリズミカルな曲想とは噛み合わない。即興的にアゴーギグを揺らし、曲想に応じ音色を変化させないと、サマにならない曲と思う。

県立磐城高校(女声42名)
指揮/赤城佳奈
ピアノ/志賀悠亮
高嶋みどり「きょうの陽に」(明日のりんご)
高田三郎「みずすまし/流れ」(心の四季)
 課題曲はパート内部で今ひとつ揃わないが、そこに自然体で平凡な良さのあると感じる。今時のコンクールでサブローを聴かされると、何だか妙に新鮮に感じられる。子音の扱いは丁寧で無声音を強調したりもせず、力まないアルトの支えで、柔らかくレガートな演奏が好ましい。昔、良く聴かされたようなサブローの演奏とは違う、泥臭さの無いスマートな音楽作りで楽しく聴けた。

県立相馬東高校(女声12名)
指揮/久保田浩規
モラレス「In die tribulationis 我が苦難の日に」
ミクロシュ・コチャール「Kyrie/Sanctus」(Missa in A)
 誠にか細い声で、蜉蝣のように儚げなポリフォニー。その声でコチャールに挑む度胸は買うし、演奏もソコソコ盛り上がったが、この曲が基本を培う為に適当とも思えない。

県立いわき総合高校(女声9名)
指揮&ピアノ/小泉和佳子
モラレス「In die tribulationis 我が苦難の日に」
ペルコレージ「スターバト・マーテル」
 モラレスは及び腰で歌っている感じだが、ペルコレージで表現意欲らしきものを示す。この曲のセンチメントを引き出したのは、指揮者の弾くピアノの所為だろう。別に上手な訳ではないが、曲への共感はあったと思う。

県立いわき光洋高校(女声10名)
指揮/八代悦二郎
モラレス「In die tribulationis 我が苦難の日に」
Petr Eben:Preludio/Allemande/Courante/Gigue〜CATONIS MORALIA
 細いけれども芯のある声で、ややハーモニーに溺れ気味だが、モラレスの曲想は掴めている。エベンのリズミカルな曲も上手に歌えて、これは個人の力量が無いと出来ない芸当だろう。表現そのものは一面的だが、これは人数を増やす事でしか解決しない。少人数で出来る範囲の事をキッチリと行い、聴かせる女子高生達をエライと思う。

県立磐城桜が丘高校(女声12名)
指揮/谷恵美
モラレス「In die tribulationis 我が苦難の日に」
javier Busto:Ave Maria gratia/Salve Regina
 ソプラノの音程が上がり切らない等、声の力そのものは無いが、ポリフォニーを味わいながら歌えているのは何よりと思う。自由曲でも身に付いた頭声で、しっかりピアニシモを出せるので、宗教曲の美しさとニュアンスを表現出来る。ただ、表現の幅自体は狭いので、声を鍛えてフォルテを出せるようにして欲しい。

<会津>
県立喜多方東高校(混声10名)
指揮/遠藤光子
ヴィクトリア「O magnum mysterium 大いなる神秘/O quam gloriosum 栄光に輝く王国/
Gloria(ミサ・オー・マニュム・ミステリウム)」
 しっかり声を出せる六名の男声で、安定したハーモニーがある。女声へカウンター・テノールを割いて、補強しても良い位だ。先生の踊り過ぎる指揮は気になるが、生徒からは表現意欲を感じるし、三曲のテンポ設定も上手に出来て、安心して聴けるのが何より。彼等のヴィクトリアの音楽に対する理解度は高いと思う。

県立会津学鳳中学・高校(混声39名)
指揮/佐藤朋子
鈴木憲夫「どうしてだろうと」(地球ばんざい)
荻久保和明「ゆめみる」(季節へのまなざし)
 課題曲はソツ無く美しいが、更に高いテンションのピアニシモがあれば、曲の山場も情感豊かに盛り上がる筈。自由曲は輝かしい声で圧倒するか、もっとアザトい表現で生々しい迫力を出す事が必要。こちらもソツ無く美しく、一応は額面通り盛り上がるが、如何にも平凡でもっと羽目を外した演奏の望まれる。

県立喜多方高校(混声40名)
指揮/高橋祐二
鈴木憲夫「どうしてだろうと」(地球ばんざい)
Rihards Dubra:Duo Seraphim
 課題曲はポルタメント気味のデュナーミクの作り方で、伸ばす声に情感を滲ませ、ニュアンスに満ちているのが素晴らしい。自由曲は男声の支えでテンションの高いピアニシモがあり、やはり曲に内在する情感を上手に引き出している。速いフレーズの細かい音型もピタリと揃え、全体を見通した設計もキチンと出来ている。ただ、最後の不協和なハーモニーの決まらなかったのは惜しまれる。

県立葵高校(女声37名)
指揮/横山裕理
ピアノ/菅野千尋
高嶋みどり「きょうの陽に」(明日のりんご)
西村朗「匂宮」(浮舟)
 課題曲は対位法的な処理をキッチリ出来て、伸びやかな声も美しく、音色の変化にデュナーミクを絡めて暖かいニュアンスに満ちている。西村でガラリと雰囲気を変える手際が上手で、オブリガードにはデュナーミクの工夫を施し、ニュアンスを醸している。旋律のアゴーギグの揺らせ方に合わせ、局面に応じた音色の変化もあれば尚良かったと思う。

県立南会津高校(女声13名)
指揮/児玉貴範
モラレス「In die tribulationis 我が苦難の日に」
バード「Kyrie/Gloria」(三声ミサ)
 何とも可愛らしい声で、まずは大きな声を出す習慣から身に着けたい。この可愛らしい声のバードはなかなか和めるが、何の変化も無いのでやや退屈した。

県立会津学鳳中学・高校(女声47名)
指揮/佐藤朋子
ピアノ/桜田康弘
池辺晋一郎「雨の犬」(この世界のぜんぶ)
三善晃「あっちへいけ/みつめてる」(のら犬ドジ)
 この課題曲ならば子音を強調し、スフォルツァンドを多用するアザトい音楽作りで正解。「あっちへいけ」は速目のテンポで、これも素直にはやらず、力任せにフォルテを出す嫌いもある。「みつめてる」も子音を長目に粘り、声をズリ上げてみたり、遣り過ぎが却って効果を挙げていない。

県立会津高校(混声78名)
指揮/大竹隆
ピアノ/志田智子
旭井翔一「屈折率」(幻想小曲集)
Josep Vila i Casanas:Salve Regina
 課題曲では広いダイナミク・レンジを武器とし、曲自体の良し悪しはどうでも良い、シンフォニックに鳴らす声の魅力で圧倒する。自由曲は対位法的な構造を、クッキリ際立たせる明快な音楽作りで、アチェルラントを的確に使い効果を挙げる。深い響きのピアニシモが美しかった、

会津若松ザベリオ学園高校(女声16名)
指揮/大竹健太郎
モラレス「In die tribulationis 我が苦難の日に」
Hendrik Andriessen:Kyrie/Gloria〜Missa Simplex
 声の非力を速いテンポで誤魔化すのは常道だが、もう少し遅目にジックリ曲を味わいたい。ミサではソコソコ声も出て表現意欲も伝わるし、これだけ出来るならモラレスも頑張って欲しかった。テンポ設定は全て通常より速く、どうやらそれがこの先生の趣味らしい。

第67回福島県合唱コンクール

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2013年8月30日(金)10:00/磐城芸術文化交流館アリオス

<中通り>
県立本宮高校(女声22名)
指揮/竹田朗子
モラレス「In die tribulationis 我が苦難の日に」
信長貴富「木」
 モラレスは終始同じテンポなので、せめて最後はリタルダントして欲しい。自由曲は清楚で可愛らしい演奏だが、もう少しダイナミク・レンジの幅を広げないと、聴く側の集中力が持たない。最後だけフォルテらしき音量で締め括ったが、そこまでずっとメゾピアノのままでは、変化の無い詰まらない曲に退屈する。

県立保原高校(混声15名)
指揮/舟山綾美
ヴィクトリア「O magnum mysterium 大いなる神秘」
千原英喜「第2楽章」(カクレキリシタン3つの歌)
 それなりに綺麗で一応サマになっていても、ヴィクトリアは引き摺るようなリズム感で、指揮者の振り過ぎる拍節感も露わとなる。自由曲は恐らくこの解釈で正しいが、声の力不足で額面通りには行かない。良くハモる合唱団で、その志向に合う曲とも思うが、思い入れタップリにやられても退屈するだけなので、もっとテキパキ片付けて欲しかった。

県立清陵情報高校(女声8名)
指揮/金澤勝敏
モラレス「In die tribulationis 我が苦難の日に」
西村朗「明日香皇女への挽歌」(柿本人麻呂の三首の挽歌による)
 モラレスは声部の出し入れも、山場の作り方も上手で美しいハーモニーもあるが、拍節的なリズム感が大きな瑕となっている。この人数で西村の難曲を取り上げる勇気は買うが、音色の変化が無い為、精一杯の力演も聴いていて面白くはならない。ソプラノとメゾに歌える子の居るが、アルトに居なかったので、やはり無理のある選曲と思う。

県立岩瀬農業高校&県立小野高校合同(混声13名)
指揮/西舘成矩
ピアノ/菅原民栄
ヴィクトリア「O magnum mysterium 大いなる神秘」
廣瀬量平「海鵜」(海鳥の歌)
 ヴィクトリアではアルトの不安定な音程を、テノールの支えで結構良くハモるが、もっと速目のテンポでレガートを意識して歌いたい。廣瀬量平は一音一音押しながら進むのを、丁寧に歌っていると勘違いしているフシがある。この人数なら更に速いテンポ設定で、遅い部分とのメリハリを付けたかった。

県立田村高校(女声33名)
指揮/渡部裕子
ピアノ/今川瑠美
高嶋みどり「きょうの陽に(明日のりんご)/六月(女の肖像)」
 技術的に特筆すべきものは無いが、課題曲の演奏には自然体な良さがある。自由曲はやや遅目のテンポで、ねちっこく歌う印象。この合唱団の持ち声の良さは、更に速いテンポで生かされる筈と思う。

県立安達高校(混声29名)
指揮/神野藤真砂子
ヴィクトリア「O magnum mysterium 大いなる神秘」
モンテヴェルディ「Crudel perche mi fuggi 残酷な人」(マドリガーレ第2巻)
Rihards Dubra:Ave Maria II
 ヴィクトリアでソプラノからヴィブラートのキツい、異質な声の聴こえるのが気になる。止めさせるか、そこに全体を合わせるかしないと、アンサンブルとして成立しない。モンテヴェルディもテンポが遅過ぎる上、縦横も揃わず雑然とした演奏。イタリア語の抑揚を感じないとマドリガーレとして形にならず、指揮者のセンス自体は悪くないのだが、それを味わう以前の段階だろう。

県立須賀川桐陽高校(女声10名)
指揮/近藤和子
モラレス「In die tribulationis 我が苦難の日に」
Petr Eben:Cis nebyl doma/Kukacka kuka/Vlastovicka
 この人数で旋律の頂上をシッカリと歌う、ポリフォニーの基本が出来ているのはエライと思う。指揮者は旋律線の絡み合いを把握し、曲の山場を見付ける、全体の設計もキチンと出来ている。エベンではポルタメントの使い方が巧く、三曲をキチンと歌い分けている。清楚な声質でフォルテを出し切る力にも欠けない、知的な美しさのある演奏だった。

県立安達東高校(女声17名)
指揮/濱崎晋
モラレス「In die tribulationis 我が苦難の日に」
濱崎晋「果実集め第79番」
 恐らく個人の声だろうが、モラレスで各パートの音色がクッキリ異なるので、結果的に声部の分離は良く出来た。指揮者の自作自演は精一杯の熱演と、独特な声の音色でそれなりに美しく聴かせるが、もう少しダイナミク・レンジを広げる意欲が欲しい。生徒さん達に、そのポテンシャルはあるように思う。

県立川俣高校(女声14名)
指揮/石川千穂
モラレス「In die tribulationis 我が苦難の日に」
javier Busto:Magnificat
 モラレスでちゃんとポリフォニーしているのに感心するが、変なトコでブレスするのは良くないと思う。自由曲はグレゴリオ聖歌を基調とする至極マトモな曲。基本的な力を付ける為に良い選曲と思うが、演奏そのものも曲自体も、聴いていて非常に面白いとまでは行かなかった。

県立石川高校&県立白河実業高校&県立修明高校合同(女声19名)
指揮/佐藤みどり
モラレス「In die tribulationis 我が苦難の日に」
木下牧子「いっしょに/棗のうた」
 モラレスのリズムに拍節を感じるが、三校合同のハンデを加味すれば良く歌えている。自由曲は少人数だから小さな声で良いと云う考え方を捨て、皆さん普段から大声を出す訓練をすべきだろう。小さな声で歌う練習ばかり繰り返していると、合同で人数の増えても大きな声は出せない筈だ。
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