<サイトウ・キネン・フェスティバル松本2011/テアトロ・フィレンツェ共同制作・プレミエ>
2011年8月21日(日)16:00/まつもと市民芸術館
指揮/沼尻竜典/小澤征爾
サイトウ・キネン・オーケストラ
SKF松本合唱団
演出・照明・振付/金森穣
Noism1&Noism2(新潟りゅーとぴあ専属ダンス・カンパニー)
美術/ダン・ドレル/リナ・ゴットメ/田根剛(DGT建築設計事務所)
照明/伊藤雅一
衣裳/中嶋佑一
バレエ「中国の不思議な役人」op.19
娼婦/井関佐和子
宦官/中川賢/櫛田祥光
学生/宮原由紀夫
老人/藤澤拓也
ゴロツキ/宮河愛一郎/藤井泉/真下恵
オペラ「青髭公の城」op.11
青髭公/マティアス・ゲルネ
ユディット/エレーナ・ツィトコーワ
皆様ご存知の通り、小澤征爾は食道癌の手術後で体力の回復せず、昨年のサイトウ・キネンではチャイコフスキー“弦セレ”のみを振った。年明けには持病である腰痛の手術を行い、三月に予定されていた音楽塾の「フィガロの結婚」は、公演自体が中止された。今回の二年振りのオペラ出演でも、病み上がりの体力面に配慮し、バルトーク二本立て公演の内の「青髭」のみを振り、バレエ指揮は沼尻竜典の担当となった。ところが先週、右足を負傷した沼尻が東京フィルのコンサートをキャンセル。これはもしや小澤も沼尻も出て来んのかと怯えるが、当日の会場でご両人共に出演と告げられ、ホッと胸を撫で下ろす。
時刻となって客電の落ち、オケピットに姿を現したのは何と小澤だった。えっ!やっぱり沼尻は降板で、小澤の全部振るのかと一瞬思うが、東日本大震災の犠牲者を悼み、上演に先立ってバッハの組曲三番からのアリアを演奏すると告げられる。そう云えば阪神淡路大震災の年にも、兵庫県であったヘネシー・オペラ「セヴィリアの理髪師」の上演前に、小澤は「G線上のアリア」を演奏した。あの際に小澤が曲名を告げると、大喜びで拍手した客が一人居て、演奏の終わっても拍手はしないで下さいと、小澤が断っていたのを思い出す。
小澤とサイトウ・キネンオケの演奏は、レガートなフレージングの中でクレシェンドとディミヌェントを繰り返す、如何にもモダンで流麗なバッハ。演奏後そのまま全員で黙祷を捧げる。小澤の引っ込むと、改めて沼尻が足を引き摺ってオケピットに現れ、これは文字通り“這ってでも”出て来ると云う格好。そりゃまあ、東フィルのファミリー向けお盆興行はパスしても、サイトウ・キネンは休めんよなぁ…。
これまで外人さんばかりだったサイトウ・キネンの演出に、今年は初めて日本人が起用された。その筋では著名人らしいダンサーの金森穣だが、その方面に疎い僕は初めて聞く名前。ローザンヌでモーリス・ベジャールに師事し、現在は新潟りゅーとぴあで舞踏部門芸術監督を務める、どうやら国際的な広い視野を持った、才気に溢れるアーティストのようだ。
僕はバレエなどダンス系の舞台を観る習慣のないので、前半の「中国人」に付いて感想文を綴るのは難しい。このバレエ音楽のストーリーは、殺しても死なないゾンビみたいな宦官が美人局に引っ掛かり、性欲を満たすと共に死を迎えると云う不気味なもの。そこへ演出家は懇切丁寧な演出を施している。バレエには字幕の出ないので、ポケッと観ていてもストーリーを追える演出は、僕のような初見の素人には有難い。
だが、懇切丁寧とは云っても、この演出は決して説明に堕している訳ではない。演出家は「役人は人形として登場します。人形ですから死にません。しかし生と性を求め、人間になることを望む役人は、人間になる事で同時に死を手に入れるのです。『エロス・タナトス』ですね」と、述べていて(トリスタンとイゾルデだ!)、宦官のダンサーは人形とその影の二人で踊られる。また、「役人の不思議さと娼婦であるミミのおかれた境遇とが鏡面のように惹かれ合います。ミミというごろつき一家のコミニティの中の生け贄と役人というマクロなコミニティ、社会の中の生け贄が互いに惹かれあって、愛と死をともにする」とも述べ、幕切れ近く宦官のダンサーは宙吊りにされ、昇天する事となる。
とっても分かり易いし、作品の曖昧な部分をキレイに解き明かす、これだけのヴィジョンを描けるのは、それだけで大したものだ。そこへ肉付けする、ダンサーのフィジカルなレヴェルの高さは当然としても、この演出家が照明の使用法を心得ているのに驚かされる。振付自体に猥褻な動きは無いのに、エロティックな雰囲気の濃厚な演出で、僕のようなクラシック・バレエとコンテンポラリー・ダンスの区別も付かない、不勉強極まる観客でも充分に楽しめる、上質な仕上がりの舞台を作ってくれた。バルトークの音楽の持つ一面、厳しい美しさと裏腹にある猥褻性に気付かされたのも、大きな収穫と感じる。
四年前、やはり振付家でH・アール・カオス主宰の大島早紀子が演出を担当し、亡くなった若杉弘さんの指揮された東京二期会公演のR.シュトラウス「ダフネ」、上野の文化会館での三日公演を観に出掛けた時を思い出す。この際の演出自体も尖鋭的で、美しく力強い舞台だったが、それよりも白河直子のソロの踊りに、一際見応えのあるのが印象付けられた。コンテンポラリー・ダンスなんて、僕はオペラの演出にでもならねば観る機会の無く、今年のサイトウ・キネンでは、そのレヴェルの高さを再認識させられた。
僕は「中国人」を初めて聴くが、木管の独奏と合奏を主体とした静かな音楽からアチェルラントする部分では、何分にもオケに腕達者の揃っていて、彼等は放って置いても勝手に盛り上げる。沼尻は例によって棒を振り回すけれども…。畳み掛ける無調の曲想に迫力を含む、厳しくとも微かなユーモアを滲ませる音楽で、沼尻は指揮者としての本領を発揮する。彼はバルトークに適性のあると思う。
休憩後は皆様お待ち兼ね、小澤の「青髭」。この作品に付いて金森は、「『中国』で人間になろうとする役人と、『青ひげ』で人間であるがゆえに愛憎の感情に振り回されて人形のようになってしまう人間ユディット、といったように、コインの裏表のような構造」とコンセプトを語り、そのプランを「外のユディット・外の青ひげを歌手の二人で、内のユディット・内の青ひげそして影たちを舞踊家が演じます。ですから内側と外側というのは常に自分の中にあります」と説明する。
バレエ音楽に振付ける通常業務とは別に、初経験のオペラ演出と二作品をセット上演と云う事で、両者に共通する視点を見出そうとする、舞踏家としての意図は良く分かる。でも、宦官を操り人形とした発想は秀逸と思うが、それをそのままユディットにまで当て嵌めるのは、やや無理のあると思う。要するに彼はオペラ演出を自分のフィールドで行う為、踊れないオペラ歌手の代わりに、ダンサーを舞台に上げようとしている。こじ付けめいていると思うし、スタティックな「青髭」の音楽にダンスの合うのかどうかも、やや疑問に感じる。
実際の舞台を観ても、突っ立ったまま歌う二人の回りをダンサーの踊るのは、歌曲のコンサートとダンス公演の同時進行する趣があり、僕としては「青髭」演出の難しさを再確認するに留まった。三年前のパリ・オペラ座来日公演での「青髭」演出は、スペインの前衛演劇集団によるもので実験的な傾きはあったが、光と闇を巧みに操る夢幻的な美しさで、とても見応えのある舞台だった。「青髭」に肉体表現は合わず、幻想的な演出の良いようで、これは振付家の起用自体が思惑違いとなった。
でも、今日の「青髭」では実際の話、舞台上で何やってるかなんてどうでも良く、最初から最後までオケ・ピットの中に、僕の目と耳は釘付け状態だった。これまで「青髭」を凡百の指揮者で聴き、しんねりムッツリした音楽と思い込んでいた、その不明を恥じねばならない。
小澤は曲を完璧に手の内にして、オケを自由自在に転がしている。まず、局面に応じたテンションの張り方・緩め方に、リズムの処理とパウゼの慎重な使用法等、全体を見通した設計が素晴しい。各セクションのバランスの取り方、管弦打楽器の出し入れを完璧にコントロールし、オケから青白く底光りするような美しい音色を引き出している。小澤はオケを、青髭とユディットに次ぐ三人目の歌手と位置付け、バルトークの音楽をポリフォニックに歌い上げる。
ここを決めドコロと見極めた、五つ目と七つ目の扉を開ける音楽で、渾身のフォルテシモへ持って行く指揮者の手際の見事さと、オケの紡ぐ豊麗な響きに、僕は呆然と聴き入るのみ。これ程に色彩感の豊かな、隅々まで磨き上げられた美しい音楽をバルトークは「青髭」に付したのだと、今日は心底から納得させられた。つい先ほど聴いて感心した筈の「中国人」が、何だか色褪せたモノクロームな演奏だったように思えて来る。まだ沼尻と小澤では、格の違いのあるのかなぁ…。
本来の主役である二人の歌手も、小澤の繰り広げるオケの音に乗り、素晴しい歌を聴かせてくれた。青髭のゲルネは非常な美声の持ち主である上に、その声をコントロールするテクニックにも秀でている。音域の高低と共に前頭部・鼻腔・下顎と、声を響かせる位置を変化させ、多彩な音色を確保している。そうして得た音色を駆使し、音楽の内実つまり青髭公の心情を表現する、彼は超一級のリート歌手と思う。これに対するユディットのツィトコーワは、豊かな声量で対抗。彼女も高低の音域にムラの無い美声で、パセティックな情感にも欠けていない。当代一流のバリトン歌手と伍し、一歩も引けを取らなかった。
僕は二十代から聴いて来た小澤の演奏の中で、これまでに最も感銘を受けたのは、やはりサイトウ・キネンでのプーランク「カルメル海修道女の対話」だが、今日はそれに比肩する演奏と感じる。あの万年青年も古希を過ぎ、遂に“老大家”の音楽を奏でるようになったのか、或いは癌から復帰した一期一会の状況でベスト・パフォーマンスを示したのか、それは良く分からない。ともあれ今後も、これまでと同様に小澤の演奏を、大切に聴きたいとだけ思っている。
2011年8月21日(日)16:00/まつもと市民芸術館
指揮/沼尻竜典/小澤征爾
サイトウ・キネン・オーケストラ
SKF松本合唱団
演出・照明・振付/金森穣
Noism1&Noism2(新潟りゅーとぴあ専属ダンス・カンパニー)
美術/ダン・ドレル/リナ・ゴットメ/田根剛(DGT建築設計事務所)
照明/伊藤雅一
衣裳/中嶋佑一
バレエ「中国の不思議な役人」op.19
娼婦/井関佐和子
宦官/中川賢/櫛田祥光
学生/宮原由紀夫
老人/藤澤拓也
ゴロツキ/宮河愛一郎/藤井泉/真下恵
オペラ「青髭公の城」op.11
青髭公/マティアス・ゲルネ
ユディット/エレーナ・ツィトコーワ
皆様ご存知の通り、小澤征爾は食道癌の手術後で体力の回復せず、昨年のサイトウ・キネンではチャイコフスキー“弦セレ”のみを振った。年明けには持病である腰痛の手術を行い、三月に予定されていた音楽塾の「フィガロの結婚」は、公演自体が中止された。今回の二年振りのオペラ出演でも、病み上がりの体力面に配慮し、バルトーク二本立て公演の内の「青髭」のみを振り、バレエ指揮は沼尻竜典の担当となった。ところが先週、右足を負傷した沼尻が東京フィルのコンサートをキャンセル。これはもしや小澤も沼尻も出て来んのかと怯えるが、当日の会場でご両人共に出演と告げられ、ホッと胸を撫で下ろす。
時刻となって客電の落ち、オケピットに姿を現したのは何と小澤だった。えっ!やっぱり沼尻は降板で、小澤の全部振るのかと一瞬思うが、東日本大震災の犠牲者を悼み、上演に先立ってバッハの組曲三番からのアリアを演奏すると告げられる。そう云えば阪神淡路大震災の年にも、兵庫県であったヘネシー・オペラ「セヴィリアの理髪師」の上演前に、小澤は「G線上のアリア」を演奏した。あの際に小澤が曲名を告げると、大喜びで拍手した客が一人居て、演奏の終わっても拍手はしないで下さいと、小澤が断っていたのを思い出す。
小澤とサイトウ・キネンオケの演奏は、レガートなフレージングの中でクレシェンドとディミヌェントを繰り返す、如何にもモダンで流麗なバッハ。演奏後そのまま全員で黙祷を捧げる。小澤の引っ込むと、改めて沼尻が足を引き摺ってオケピットに現れ、これは文字通り“這ってでも”出て来ると云う格好。そりゃまあ、東フィルのファミリー向けお盆興行はパスしても、サイトウ・キネンは休めんよなぁ…。
これまで外人さんばかりだったサイトウ・キネンの演出に、今年は初めて日本人が起用された。その筋では著名人らしいダンサーの金森穣だが、その方面に疎い僕は初めて聞く名前。ローザンヌでモーリス・ベジャールに師事し、現在は新潟りゅーとぴあで舞踏部門芸術監督を務める、どうやら国際的な広い視野を持った、才気に溢れるアーティストのようだ。
僕はバレエなどダンス系の舞台を観る習慣のないので、前半の「中国人」に付いて感想文を綴るのは難しい。このバレエ音楽のストーリーは、殺しても死なないゾンビみたいな宦官が美人局に引っ掛かり、性欲を満たすと共に死を迎えると云う不気味なもの。そこへ演出家は懇切丁寧な演出を施している。バレエには字幕の出ないので、ポケッと観ていてもストーリーを追える演出は、僕のような初見の素人には有難い。
だが、懇切丁寧とは云っても、この演出は決して説明に堕している訳ではない。演出家は「役人は人形として登場します。人形ですから死にません。しかし生と性を求め、人間になることを望む役人は、人間になる事で同時に死を手に入れるのです。『エロス・タナトス』ですね」と、述べていて(トリスタンとイゾルデだ!)、宦官のダンサーは人形とその影の二人で踊られる。また、「役人の不思議さと娼婦であるミミのおかれた境遇とが鏡面のように惹かれ合います。ミミというごろつき一家のコミニティの中の生け贄と役人というマクロなコミニティ、社会の中の生け贄が互いに惹かれあって、愛と死をともにする」とも述べ、幕切れ近く宦官のダンサーは宙吊りにされ、昇天する事となる。
とっても分かり易いし、作品の曖昧な部分をキレイに解き明かす、これだけのヴィジョンを描けるのは、それだけで大したものだ。そこへ肉付けする、ダンサーのフィジカルなレヴェルの高さは当然としても、この演出家が照明の使用法を心得ているのに驚かされる。振付自体に猥褻な動きは無いのに、エロティックな雰囲気の濃厚な演出で、僕のようなクラシック・バレエとコンテンポラリー・ダンスの区別も付かない、不勉強極まる観客でも充分に楽しめる、上質な仕上がりの舞台を作ってくれた。バルトークの音楽の持つ一面、厳しい美しさと裏腹にある猥褻性に気付かされたのも、大きな収穫と感じる。
四年前、やはり振付家でH・アール・カオス主宰の大島早紀子が演出を担当し、亡くなった若杉弘さんの指揮された東京二期会公演のR.シュトラウス「ダフネ」、上野の文化会館での三日公演を観に出掛けた時を思い出す。この際の演出自体も尖鋭的で、美しく力強い舞台だったが、それよりも白河直子のソロの踊りに、一際見応えのあるのが印象付けられた。コンテンポラリー・ダンスなんて、僕はオペラの演出にでもならねば観る機会の無く、今年のサイトウ・キネンでは、そのレヴェルの高さを再認識させられた。
僕は「中国人」を初めて聴くが、木管の独奏と合奏を主体とした静かな音楽からアチェルラントする部分では、何分にもオケに腕達者の揃っていて、彼等は放って置いても勝手に盛り上げる。沼尻は例によって棒を振り回すけれども…。畳み掛ける無調の曲想に迫力を含む、厳しくとも微かなユーモアを滲ませる音楽で、沼尻は指揮者としての本領を発揮する。彼はバルトークに適性のあると思う。
休憩後は皆様お待ち兼ね、小澤の「青髭」。この作品に付いて金森は、「『中国』で人間になろうとする役人と、『青ひげ』で人間であるがゆえに愛憎の感情に振り回されて人形のようになってしまう人間ユディット、といったように、コインの裏表のような構造」とコンセプトを語り、そのプランを「外のユディット・外の青ひげを歌手の二人で、内のユディット・内の青ひげそして影たちを舞踊家が演じます。ですから内側と外側というのは常に自分の中にあります」と説明する。
バレエ音楽に振付ける通常業務とは別に、初経験のオペラ演出と二作品をセット上演と云う事で、両者に共通する視点を見出そうとする、舞踏家としての意図は良く分かる。でも、宦官を操り人形とした発想は秀逸と思うが、それをそのままユディットにまで当て嵌めるのは、やや無理のあると思う。要するに彼はオペラ演出を自分のフィールドで行う為、踊れないオペラ歌手の代わりに、ダンサーを舞台に上げようとしている。こじ付けめいていると思うし、スタティックな「青髭」の音楽にダンスの合うのかどうかも、やや疑問に感じる。
実際の舞台を観ても、突っ立ったまま歌う二人の回りをダンサーの踊るのは、歌曲のコンサートとダンス公演の同時進行する趣があり、僕としては「青髭」演出の難しさを再確認するに留まった。三年前のパリ・オペラ座来日公演での「青髭」演出は、スペインの前衛演劇集団によるもので実験的な傾きはあったが、光と闇を巧みに操る夢幻的な美しさで、とても見応えのある舞台だった。「青髭」に肉体表現は合わず、幻想的な演出の良いようで、これは振付家の起用自体が思惑違いとなった。
でも、今日の「青髭」では実際の話、舞台上で何やってるかなんてどうでも良く、最初から最後までオケ・ピットの中に、僕の目と耳は釘付け状態だった。これまで「青髭」を凡百の指揮者で聴き、しんねりムッツリした音楽と思い込んでいた、その不明を恥じねばならない。
小澤は曲を完璧に手の内にして、オケを自由自在に転がしている。まず、局面に応じたテンションの張り方・緩め方に、リズムの処理とパウゼの慎重な使用法等、全体を見通した設計が素晴しい。各セクションのバランスの取り方、管弦打楽器の出し入れを完璧にコントロールし、オケから青白く底光りするような美しい音色を引き出している。小澤はオケを、青髭とユディットに次ぐ三人目の歌手と位置付け、バルトークの音楽をポリフォニックに歌い上げる。
ここを決めドコロと見極めた、五つ目と七つ目の扉を開ける音楽で、渾身のフォルテシモへ持って行く指揮者の手際の見事さと、オケの紡ぐ豊麗な響きに、僕は呆然と聴き入るのみ。これ程に色彩感の豊かな、隅々まで磨き上げられた美しい音楽をバルトークは「青髭」に付したのだと、今日は心底から納得させられた。つい先ほど聴いて感心した筈の「中国人」が、何だか色褪せたモノクロームな演奏だったように思えて来る。まだ沼尻と小澤では、格の違いのあるのかなぁ…。
本来の主役である二人の歌手も、小澤の繰り広げるオケの音に乗り、素晴しい歌を聴かせてくれた。青髭のゲルネは非常な美声の持ち主である上に、その声をコントロールするテクニックにも秀でている。音域の高低と共に前頭部・鼻腔・下顎と、声を響かせる位置を変化させ、多彩な音色を確保している。そうして得た音色を駆使し、音楽の内実つまり青髭公の心情を表現する、彼は超一級のリート歌手と思う。これに対するユディットのツィトコーワは、豊かな声量で対抗。彼女も高低の音域にムラの無い美声で、パセティックな情感にも欠けていない。当代一流のバリトン歌手と伍し、一歩も引けを取らなかった。
僕は二十代から聴いて来た小澤の演奏の中で、これまでに最も感銘を受けたのは、やはりサイトウ・キネンでのプーランク「カルメル海修道女の対話」だが、今日はそれに比肩する演奏と感じる。あの万年青年も古希を過ぎ、遂に“老大家”の音楽を奏でるようになったのか、或いは癌から復帰した一期一会の状況でベスト・パフォーマンスを示したのか、それは良く分からない。ともあれ今後も、これまでと同様に小澤の演奏を、大切に聴きたいとだけ思っている。