<テアトロ・コムナーレ・ディ・ボローニャ2011日本公演>
2011年9月11日(日)15:00/びわ湖ホール
指揮/ミケーレ・マリオッティ
ボローニャ歌劇場管弦楽団
ボローニャ歌劇場合唱団
演出/ジョヴァンナ・マレスタ
美術・衣装/ピエラッリ
照明/ダニエーレ・ナルディ
アルトゥーロ/セルソ・アルベロ
エルヴィーラ/デジレ・ランカトーレ
リッカルド/ルカ・サルシ
叔父ジョルジョ/ニコラ・ウリヴィエーリ
隊長ブルーノ/ガブリエーレ・マンジョーネ
王妃エンリケッタ/ジュゼッピーナ・ブリデッリ
ヴァルトン卿/森雅史
昨日は空席の目立ったびわ湖ホールだが、今八分通りの入り。やはり皆さん「カルメン」より「清教徒」、カウフマンよりフローレスと云う事か。チケット発売は3.11の前だったので、震災云々と関係なく世間の不景気が、飽和状態の来日オペラを直撃しているのだろう。
「清教徒」のプリマ・ウォーモとして、来日を待望されていたフアン・ディエゴ・フローレスだが、リッカルド役のアルベルト・ガザーレと共に、9月2日付で日本公演からの降板が発表された。医師の診断は「声帯を支える軟骨付近に充血と肥大があり、三週間の休養が必要」との事。ここまで来ると、もう誰が来ようと来まいと、何だかどうでも良くなって来た。最早どなたであろうと、現状の日本に喜んで来て下さる方を、僕としては熱烈歓迎するに吝かではない。これは負け惜しみでも何でもなく、フクシマ・ダイイチのメルト・ダウンした日本に、ボローニャの皆さんの来て頂けるだけで有り難いと、僕は素直にそう考えるようになった。
フローレスはメッセージで「海水を飲み込み、激しく咳込んだ時に、声帯の開口部分の細い血管を傷付けてしまいました。深刻な病状という訳ではありませんが、この状態では歌えません」と説明している。何と云うか、段々と言い訳も苦しくなっているなぁ、と云う感想しか出て来ない。尚、ガザーレへの診断は「重度の腎臓結石による痛みと発熱のため、15日間の安静が必要」。ガザーレ君にはお大事にと、お見舞い申し上げて置く。
僕の初めて聴く「清教徒」はドニゼッティにも多い、宗教改革期のイギリスに題材を取った歴史物。英語でピューリタン、イタリア語だとプリターニの清教徒は、ヘンリー八世の創設した英国国教会に対する、改革派プロテスタントの信者集団である。時は17世紀イングランド、ピューリタンを弾圧するチャールズ一世と、議会で多数派を占めるピューリタンが対立し、所謂ひとつの清教徒革命が勃発。イングランドは王党派と議会派とに別れ、内戦に突入する。王党派との内戦に勝利した議会派の中でも、過激派と穏健派の内部対立の起こり、この派閥争いを制したオリバー・クロムウェルは、チャールズ一世を処刑して実権を握る。
これがたった今調べたばかりの、ベッリーニの題材とした史実の概要。でも、この程度の知識もアヤフヤだった僕ですら、オペラ「清教徒」のストーリーは、観ていて腑に落ちないシロモノと感じる。まず、現在進行形で交戦中の敵方に、娘を嫁がせる総司令官ヴァルトン卿に対し、そこはかとない違和感を覚える。次に虜囚となっている敵方の王妃を連れ、逃亡する王党派の騎士を見逃がす、議会派の士官リッカルドに対し、モヤモヤした感情を抱く。最後、内戦は議会派の勝利との報を受けた後、王党派のアルトゥーロ伯爵に報復ではなく即座に恩赦の下りて、目出度し目出度しの大団円を迎える。こうして僕を不可解な思いに陥れたまま、オペラ「イ・プリターニ」の幕は下ろされる。
僕のように全く予習をせず、常にブッツケ本番の観客でも、これはまた突っ込み処満載の台本である。でも、これも日頃からベルカント・オペラに親しんでいる人からすれば、今更何をと言われるような、ごく常識的な話柄なのだろう。
これも常識の類だろうが、そのメチャメチャな台本に付された、ベッリーニの音楽自体は美しい。ただ単に綺麗な旋律の沢山出て来るのではなく、伴奏が歌の旋律と対旋律になっていたり、対位法的な処理がある。長いフレーズの歌の伴奏はブンチャッチャと単純でも、レチタティーヴォは旋律で支えて、ロッシーニやドニゼッテイ等に比し、より複雑なオーケストレーションになっている。コーラスにはソロとの掛け合いも多く、ストーリーの展開に絡み、お芝居の中で重要な役割を担わされている。やや荒っぽい程に力強い、男声合唱も魅力的だった。
昨日、ドルチェな「カルメン」を聴かせたボローニャのオケだが、今日のベッリーニを聴くと、やはりその本領はベルカントにあると感じる。このオケは如何なる時もイタリアの、そしてベルカントのリズムを保ち、指揮者も矢鱈にテンポを動かさず、あくまで清潔な音楽作りを目指す。テンポの速い遅いに関わらず、正確なリズムを保持するオケの伴奏に、身を委ねて唱う主役の四名、所謂“プリターニ・カルテット”の歌に酔うのが、このオペラの正しい楽しみ方だろう。シンプルで清潔なアーティキュレーションの中に、イタリアの熱さを吹き込むのも指揮者の芸の見せ処で、これぞ正にベルカントの真髄、“歌”の快感の極みと感じる。
皆様ご存知の通り、アルトゥーロの最高音は三幕四重唱でのハイFで、そこへ至るまでにもハイC♯やらハイDやらが頻発する、テノール史上最難関とも称される役処。でも、これは僕のようなボンヤリした聴衆からすれば、それほど有り難味は無い。フローレスの代役であるセルソ・アルベロは、とにかく余りにも楽々と超高音をクリアするので、何だか高い声出してるなぁ、としか僕には分からないのだ。
唯一の例外は一幕のアリア、“愛しい乙女よ貴方に愛を”で、ここでのアルベロ君の超高音は肩の力の抜けているが、旋律の中で何の脈絡もなく、唐突に出て来る印象を受ける。何だか取って付けたようにしか聴こえず、ああこれはハイCより上の音なんだなと、その違和感から分かるのみ。これぞ正しく“猫に小判”、或いは“豚に真珠”である。
センペロの声は羽毛のように軽く、絹糸のように細い。清潔な高低への音の動きを基本に、フレージングを厳しく律し、決してリズムやテンポを崩さず、アジリタ唱法の模範となるスタイルを示している。ただ、声量に乏しいので、オケを突き抜けて聴かせる力は無く、三幕の声比べではランカトーレに完敗する。それと感情表現は皆無に等しく、白痴美的な歌唱と表現しても、それほど言い過ぎでは無かろうと思う。ロッシーニの装飾的なスタイルなら良いかも知れないが、よりロマンティックな情感を含む、ベッリーニに打って付けとは思えない。
これは自己弁護する訳では無いが、テノールやソプラノのアリアに超高音のあるのは、オペラティックな感情が次第に昂ぶり、やがて最高潮に達する瞬間、歌手の輝かしい声が会場中に響き渡る、その快感を歌手と聴衆が共有する為にある、と僕は考える。センペロ君には難関を難関と感じさせない技術のあり、それを高く評価するのに吝かでは無いが、彼の超高音にはドラマの高揚感が無い。美しい声と華やかな技術だけでは、少なくとも僕はオペラを聴く楽しみを満喫は出来ないのだ。
僕は今日のランカトーレの歌声に接し、「ランメルモーアのルチア」、「ラクメ」、「愛の妙薬」と、彼女の来日した四回の機会を欠かさず聴いた事になる。これを考えるにランカトーレさんは、ベルガモやマリポールと云った田舎のオペラ・ハウスに帯同しての来日で、四回とも関西公演のあったと云う、とてもシンプルな事情がある。
ランカトーレの声は中量級のリリコで、しっかりした中音域があり、その音色のまま高音域へ駆け上がる、ちょっとグルべローヴァにも似た特性がある。ごく若い頃から大舞台に立っているが、今も研鑽を怠る様子は無く、来日の度に技量を上げているようで頼もしい。二幕のカヴァレッタは、複雑巧緻なテクニックの限りを尽くして見事。輝かしい超高音を連発して余裕綽々な上、アゴーギグの工夫もあり、四角四面な相方テノールとの対称も付いている。
ただ、この二人は交互に歌っている分には良いが、透明な声質で無味無臭のセンペロと、暖色系で情感に溢れるランカトーレの声は、水と油のように分離して交わらず、声の相性は今ひとつ芳しくない。それとランカトーレも中音から高音域に掛けては、完璧に声をコントロールしているが、低音部で時折ヒキガエルを踏み潰したような、ヘンな声を出すのは頂けない。
腎臓結石に苦しむ気の毒なガザーレの代役、リッカルドのサルシは昨年の正月、ベルガモ来日公演「椿姫」でジェルモンを歌っているが、その際は左程に強い印象を受けなかった。どうやらサルシ君は、ヴェルディよりもベルカントに適性のあるらしく、今日は美声な上に声量も豊かで、しかもアジリタのある素晴しいバリトンと感じ入る。二幕のジョルジョとの低声同士のデュエットは、ウルヴィエーリと共に美声を振り撒き、とても聴き応えのあった。ただ、このデュエットは丁々発止の遣り取りではなく、二人がリズムを合わせ、腕を組んでスキップするような歌なのが、何だか可笑しかった。それとバスの人にアジリタの無かったのも、やや残念に思う。
カーテン・コールで客席は大いに盛り上がり、ランカトーレは感極まった様子で涙ぐんでいた。また、ボローニャのコーラスが舞台上から、観客に対しアチェルラントする拍手を要求して、ノリノリの様子なのも嬉しかった。「カルメン」と「清教徒」で主役級から五名の脱落者を出しながら、五年振り五度目のボローニャ来日公演は、結果として大満足の出来栄えとなった。これは本場のオペラ・ハウスが根性で支えた成果で、僕は今回イタオペの真髄を聴いたように思う。
改めて今回の来日公演を成功させた、歌手とオーケストラとコーラスとスタッフの皆さんに、感謝の想いを込めブラヴィーを送りたい。
2011年9月11日(日)15:00/びわ湖ホール
指揮/ミケーレ・マリオッティ
ボローニャ歌劇場管弦楽団
ボローニャ歌劇場合唱団
演出/ジョヴァンナ・マレスタ
美術・衣装/ピエラッリ
照明/ダニエーレ・ナルディ
アルトゥーロ/セルソ・アルベロ
エルヴィーラ/デジレ・ランカトーレ
リッカルド/ルカ・サルシ
叔父ジョルジョ/ニコラ・ウリヴィエーリ
隊長ブルーノ/ガブリエーレ・マンジョーネ
王妃エンリケッタ/ジュゼッピーナ・ブリデッリ
ヴァルトン卿/森雅史
昨日は空席の目立ったびわ湖ホールだが、今八分通りの入り。やはり皆さん「カルメン」より「清教徒」、カウフマンよりフローレスと云う事か。チケット発売は3.11の前だったので、震災云々と関係なく世間の不景気が、飽和状態の来日オペラを直撃しているのだろう。
「清教徒」のプリマ・ウォーモとして、来日を待望されていたフアン・ディエゴ・フローレスだが、リッカルド役のアルベルト・ガザーレと共に、9月2日付で日本公演からの降板が発表された。医師の診断は「声帯を支える軟骨付近に充血と肥大があり、三週間の休養が必要」との事。ここまで来ると、もう誰が来ようと来まいと、何だかどうでも良くなって来た。最早どなたであろうと、現状の日本に喜んで来て下さる方を、僕としては熱烈歓迎するに吝かではない。これは負け惜しみでも何でもなく、フクシマ・ダイイチのメルト・ダウンした日本に、ボローニャの皆さんの来て頂けるだけで有り難いと、僕は素直にそう考えるようになった。
フローレスはメッセージで「海水を飲み込み、激しく咳込んだ時に、声帯の開口部分の細い血管を傷付けてしまいました。深刻な病状という訳ではありませんが、この状態では歌えません」と説明している。何と云うか、段々と言い訳も苦しくなっているなぁ、と云う感想しか出て来ない。尚、ガザーレへの診断は「重度の腎臓結石による痛みと発熱のため、15日間の安静が必要」。ガザーレ君にはお大事にと、お見舞い申し上げて置く。
僕の初めて聴く「清教徒」はドニゼッティにも多い、宗教改革期のイギリスに題材を取った歴史物。英語でピューリタン、イタリア語だとプリターニの清教徒は、ヘンリー八世の創設した英国国教会に対する、改革派プロテスタントの信者集団である。時は17世紀イングランド、ピューリタンを弾圧するチャールズ一世と、議会で多数派を占めるピューリタンが対立し、所謂ひとつの清教徒革命が勃発。イングランドは王党派と議会派とに別れ、内戦に突入する。王党派との内戦に勝利した議会派の中でも、過激派と穏健派の内部対立の起こり、この派閥争いを制したオリバー・クロムウェルは、チャールズ一世を処刑して実権を握る。
これがたった今調べたばかりの、ベッリーニの題材とした史実の概要。でも、この程度の知識もアヤフヤだった僕ですら、オペラ「清教徒」のストーリーは、観ていて腑に落ちないシロモノと感じる。まず、現在進行形で交戦中の敵方に、娘を嫁がせる総司令官ヴァルトン卿に対し、そこはかとない違和感を覚える。次に虜囚となっている敵方の王妃を連れ、逃亡する王党派の騎士を見逃がす、議会派の士官リッカルドに対し、モヤモヤした感情を抱く。最後、内戦は議会派の勝利との報を受けた後、王党派のアルトゥーロ伯爵に報復ではなく即座に恩赦の下りて、目出度し目出度しの大団円を迎える。こうして僕を不可解な思いに陥れたまま、オペラ「イ・プリターニ」の幕は下ろされる。
僕のように全く予習をせず、常にブッツケ本番の観客でも、これはまた突っ込み処満載の台本である。でも、これも日頃からベルカント・オペラに親しんでいる人からすれば、今更何をと言われるような、ごく常識的な話柄なのだろう。
これも常識の類だろうが、そのメチャメチャな台本に付された、ベッリーニの音楽自体は美しい。ただ単に綺麗な旋律の沢山出て来るのではなく、伴奏が歌の旋律と対旋律になっていたり、対位法的な処理がある。長いフレーズの歌の伴奏はブンチャッチャと単純でも、レチタティーヴォは旋律で支えて、ロッシーニやドニゼッテイ等に比し、より複雑なオーケストレーションになっている。コーラスにはソロとの掛け合いも多く、ストーリーの展開に絡み、お芝居の中で重要な役割を担わされている。やや荒っぽい程に力強い、男声合唱も魅力的だった。
昨日、ドルチェな「カルメン」を聴かせたボローニャのオケだが、今日のベッリーニを聴くと、やはりその本領はベルカントにあると感じる。このオケは如何なる時もイタリアの、そしてベルカントのリズムを保ち、指揮者も矢鱈にテンポを動かさず、あくまで清潔な音楽作りを目指す。テンポの速い遅いに関わらず、正確なリズムを保持するオケの伴奏に、身を委ねて唱う主役の四名、所謂“プリターニ・カルテット”の歌に酔うのが、このオペラの正しい楽しみ方だろう。シンプルで清潔なアーティキュレーションの中に、イタリアの熱さを吹き込むのも指揮者の芸の見せ処で、これぞ正にベルカントの真髄、“歌”の快感の極みと感じる。
皆様ご存知の通り、アルトゥーロの最高音は三幕四重唱でのハイFで、そこへ至るまでにもハイC♯やらハイDやらが頻発する、テノール史上最難関とも称される役処。でも、これは僕のようなボンヤリした聴衆からすれば、それほど有り難味は無い。フローレスの代役であるセルソ・アルベロは、とにかく余りにも楽々と超高音をクリアするので、何だか高い声出してるなぁ、としか僕には分からないのだ。
唯一の例外は一幕のアリア、“愛しい乙女よ貴方に愛を”で、ここでのアルベロ君の超高音は肩の力の抜けているが、旋律の中で何の脈絡もなく、唐突に出て来る印象を受ける。何だか取って付けたようにしか聴こえず、ああこれはハイCより上の音なんだなと、その違和感から分かるのみ。これぞ正しく“猫に小判”、或いは“豚に真珠”である。
センペロの声は羽毛のように軽く、絹糸のように細い。清潔な高低への音の動きを基本に、フレージングを厳しく律し、決してリズムやテンポを崩さず、アジリタ唱法の模範となるスタイルを示している。ただ、声量に乏しいので、オケを突き抜けて聴かせる力は無く、三幕の声比べではランカトーレに完敗する。それと感情表現は皆無に等しく、白痴美的な歌唱と表現しても、それほど言い過ぎでは無かろうと思う。ロッシーニの装飾的なスタイルなら良いかも知れないが、よりロマンティックな情感を含む、ベッリーニに打って付けとは思えない。
これは自己弁護する訳では無いが、テノールやソプラノのアリアに超高音のあるのは、オペラティックな感情が次第に昂ぶり、やがて最高潮に達する瞬間、歌手の輝かしい声が会場中に響き渡る、その快感を歌手と聴衆が共有する為にある、と僕は考える。センペロ君には難関を難関と感じさせない技術のあり、それを高く評価するのに吝かでは無いが、彼の超高音にはドラマの高揚感が無い。美しい声と華やかな技術だけでは、少なくとも僕はオペラを聴く楽しみを満喫は出来ないのだ。
僕は今日のランカトーレの歌声に接し、「ランメルモーアのルチア」、「ラクメ」、「愛の妙薬」と、彼女の来日した四回の機会を欠かさず聴いた事になる。これを考えるにランカトーレさんは、ベルガモやマリポールと云った田舎のオペラ・ハウスに帯同しての来日で、四回とも関西公演のあったと云う、とてもシンプルな事情がある。
ランカトーレの声は中量級のリリコで、しっかりした中音域があり、その音色のまま高音域へ駆け上がる、ちょっとグルべローヴァにも似た特性がある。ごく若い頃から大舞台に立っているが、今も研鑽を怠る様子は無く、来日の度に技量を上げているようで頼もしい。二幕のカヴァレッタは、複雑巧緻なテクニックの限りを尽くして見事。輝かしい超高音を連発して余裕綽々な上、アゴーギグの工夫もあり、四角四面な相方テノールとの対称も付いている。
ただ、この二人は交互に歌っている分には良いが、透明な声質で無味無臭のセンペロと、暖色系で情感に溢れるランカトーレの声は、水と油のように分離して交わらず、声の相性は今ひとつ芳しくない。それとランカトーレも中音から高音域に掛けては、完璧に声をコントロールしているが、低音部で時折ヒキガエルを踏み潰したような、ヘンな声を出すのは頂けない。
腎臓結石に苦しむ気の毒なガザーレの代役、リッカルドのサルシは昨年の正月、ベルガモ来日公演「椿姫」でジェルモンを歌っているが、その際は左程に強い印象を受けなかった。どうやらサルシ君は、ヴェルディよりもベルカントに適性のあるらしく、今日は美声な上に声量も豊かで、しかもアジリタのある素晴しいバリトンと感じ入る。二幕のジョルジョとの低声同士のデュエットは、ウルヴィエーリと共に美声を振り撒き、とても聴き応えのあった。ただ、このデュエットは丁々発止の遣り取りではなく、二人がリズムを合わせ、腕を組んでスキップするような歌なのが、何だか可笑しかった。それとバスの人にアジリタの無かったのも、やや残念に思う。
カーテン・コールで客席は大いに盛り上がり、ランカトーレは感極まった様子で涙ぐんでいた。また、ボローニャのコーラスが舞台上から、観客に対しアチェルラントする拍手を要求して、ノリノリの様子なのも嬉しかった。「カルメン」と「清教徒」で主役級から五名の脱落者を出しながら、五年振り五度目のボローニャ来日公演は、結果として大満足の出来栄えとなった。これは本場のオペラ・ハウスが根性で支えた成果で、僕は今回イタオペの真髄を聴いたように思う。
改めて今回の来日公演を成功させた、歌手とオーケストラとコーラスとスタッフの皆さんに、感謝の想いを込めブラヴィーを送りたい。