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ニコライ「ウィンザーの陽気な女房たち」

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<びわ湖ホール〜オペラへの招待>
2011年7月18日(月)14:00/びわ湖中ホール

指揮/大勝秀也
京都フィルハーモニー室内合奏団
びわ湖ホール声楽アンサンブル

演出/中村敬一
美術/野崎みどり
照明/巽敬治郎
衣装/村上まさあき

ファルスタッフ/大澤建
フルート夫人/岩川亮子
フルート氏/迎肇聡
ライヒ夫人/森季子
ライヒ氏/相沢創
アンナ・ライヒ/中嶋康子
貧乏貴族フェントン/古屋彰久
道楽息子シュペアリッヒ/二塚直紀
医師カーユス/林隆史
宿屋の女/田中千佳子


 びわ湖ホールではプロデュース公演とは別に、声楽アンサンブルのメンバーを使って上演する、初心者向けオペラ公演を年二回行っている。全席三千円ぽっきりのお買い得、七月公演の演目は結構なレア物である。同じシェイクスピアの戯曲を原作とするオペラで、ヴェルディ「ファルスタッフ」は何度か観ているが、こちらオットー・ニコライはカルロス・クライバーが、ニューイヤー・コンサートで振った序曲をCDで聴く程度。でも、びわ湖ホールの企画は親切で、毎度お気楽な演目を選んでくれる。

 このオペラはドイツ語の台詞入りで、「後宮からの逃走」や「魔笛」と同じく、ジング・シュピールに分類される。同じような形態の音楽劇は、フランスではオペラ・コミックと呼ばれ、何れもイタリアの18世紀から続くオペラ・ブッファに由来する。もう少し時代の下がると、このテの喜劇的歌芝居はオペレッタに収斂され、ヴァーグナーやヴェルディの後期ロマン派オペラへの清涼剤として機能する。

 つらつら考えるにエンターテインメントとしての演劇は、宝塚歌劇でもヘルス・センターで興行する大衆剣劇でも、必ず歌謡ショーとセットになっており、一座の花形スターが一曲歌わないと客は納得しない。そもそも、台詞を全て朗読するストレート・プレイを、僕は近代的な演劇形態と思うのだ。初演の頃のシェイクスピア劇は、歌も踊りも楽器演奏も盛り込むミュージカルに近いスタイルだったようで、又そうでなければ娯楽として成立しなかったのだと思う。

 兵庫芸文の「こうもり」のプログラムに“オペレッタ”を定義して、「王侯貴族や富裕市民層が長く独占してきた教養主義のオペラが、19世紀末から20世紀初頭の欧州社会の大変動に伴って庶民に解放され、歌とセリフの入り混じった大衆演劇の路線を強く打ち出したもの」とする、日経新聞の記者の文章があった。

 これを出鱈目とまでは言わないが、少なくとも歴史的な文脈を無視した、恣意的な物言いだろう。それならば、「セヴィリアの理髪師」や「愛の妙薬」も“教養主義”のオペラなのか?とか、そもそも何時の時代にも歌入り芝居はあって当たり前とか、突っ込みどころ満載である。素人に嘘を教えるのを方便と考えるなら、それは新聞記者の品格に関わる問題と思う。現代のオペラ興行の視点に立てば、オペレッタもジング・シュピールもオペラ・ブッファも、同列のコメディーとして観客は受け入れている。びわ湖ホールや兵庫芸文のオペラ公演に通う観客層も、東京の新聞記者の憶測とは異なり、「アイーダ」「メリー・ウィドウ」を、全く別物の娯楽としてエンジョイする、その程度の下地は固まりつつあるように思う。

 オペラ三昧の三連休だが、今回のびわ湖の「ウィンザーの陽気な女房たち」は、兵庫芸文の金に飽かせた「こうもり」よりも楽しめたかも知れない。少なくともコスト・パフォーマンスの高さは、びわ湖ホールの圧勝だろう。

 何分にも低予算での上演で、舞台上のセットはアーチ型の門とベンチのみと簡素そのもの。後はウィンザー城と思しき映像を、ホリゾントに投射するのもお約束通り。三幕では緑色のボロ切れみたいなものを天井から吊り下げ、深い森の場面の雰囲気を醸して、これは安上がりで効果的。社保完の固定給を貰う声楽アンサンブルなので、稽古量だけは充分の様子のあり、演出に才気煥発な部分は全く無いが、まずは手堅く無理なく、若手歌手達の演技は必要にして充分で、舞台は小気味良く進む。

 二日公演をダブル・キャストで行い、声楽アンサンブルのメンバー全員を出演させる企画だが、今回は僕の聴いたBキャストのファルスタッフ役に、何故か東京二期会のベテランを客演に呼んでいる。何時の時代も若手のバス歌手は払底気味だし、このメンバーの中では当然ながら実力は頭抜けて、大澤は深い低音で聴かせてくれる。でも、びわ湖ホール声楽アンサンブルは三年任期で、年度末には必ず若干名の交代があり、そこで新たにメンバーとして加わった歌手を品定めするのも楽しみの内で、僕は外部招聘を左程に有り難いとも思わない。

 今日の最大の収穫は実質的な主役である、フルート夫人を務めた新人ソプラノの岩川亮子で、この人はオペラ歌手として既に完成された技術の持主と思う。声量豊かな器の大きいソプラノで、中音域の甘い音色と歌い口の巧さが魅力的。フォルテで声のキツくなるのは難だが、メリスマの技術もある実力派で、一幕の長大なアリアを立派に歌い切った。

 ライヒ夫人の森季子は、三幕のバラードで声量に乏しいため余り映えず、劇的な盛り上がりを作れない。ただ、アンサンブル要員としては、まずまず過不足のない出来栄え。アンナの中嶋康子は甘い歌声が心地良く、メリスマもソコソコこなせる伸びやかなソプラノで好感度は高い。

 男声陣でフルート氏の迎肇聡は、音色に変化の無いので聴いていて面白い歌にならない。でも、その実力からすれば健闘の部類で、メリハリのある歌は唱えていた。フェントンの古屋彰久はスピントしない素人っぽい発声のテノールで、ソット・ヴォーチェで綺麗に伸ばすべきフレーズをファルセットに逃げるし、終始一貫ノッペラボーな歌い振りも問題外の領域。関西フィル定期の「ジークフリート」で、見事なミーメを歌ってくれたシュペアリッヒの二塚直紀だが、どうやら彼の歌手としての適性の範囲は相当に狭い様子で、ここはノー・コメントとさせて頂く。

 僕は今日の上演に大満足で、その成功の立役者は指揮者の大勝秀也と考える。快活なテンポ感とキビキビしたリズムで音楽を進め、勘所ではオケを煽る力もあり、実力以上のものを京フィルから引き出した。まあ、フルートやトランペットに残念な音もあったが、これは指揮者の責任ではない。二幕の四重唱やフィナーレの合唱等、アンサンブルを捌く手腕の見事だし、幕切れの盛り上げ方も手の内に入れている。さすがにヨーロッパの小さなオペラ・ハウスでの経験の長い人らしく、大勝は手際良い職人的な技の持ち主と思う。エンディングの三重唱も見事に決まり、若手歌手のアンサンブルをキチンと纏め、合唱団の実力を存分に引き出した、指揮者のお手柄を称えたい。

 低予算でも、また一人のスター歌手のいなくとも、指揮者と演出家が手堅い仕事をすれば、こんなに素敵な上演が可能となる。兵庫芸文はオペラ経験に乏しい、芸術監督の人気に頼りっ切りで、話題性の華やかな割に中身の薄い上演の多いように思う。オペラの指揮者には、その演目を得意とする客演を呼び、芸術監督はプロデュースに専念する。これを真剣に検討する、時期は訪れているように思う。

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